トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧山陽道を歩く、 万町から板倉宿へ

2011年11月24日 | 日記
「旧山陽道ロータリー親子ウオーク」というイベントに参加して、
多くの仲間とともに、旧山陽道を歩きました。

スタートは岡山駅西口の旧万町。
旧藩時代、岡山城下町の西国への出口にあたり
総門と番屋敷が設けられていました。

東の岩田町との間には、山陽本線の線路が通っていて、
かつて万町踏切でつながっていましたが、
今はその下につくられた地下道で結ばれています。

奉還町商店街に入ります。
「岡山市街地にある2大商店街」と、表町商店街とともに
「アドマチック天国」(テレビ東京系列)で紹介された商店街です。
食料品店や雑貨店など日常生活に密着した商品を扱う店が並んでいます。
明治維新で失職した武士が、
藩からの家禄奉還金(禄高3年分を年利6分で渡された退職金)で、
商売を始めたことに由来する商店街です。
 
旧奉還町交番の跡地(現在「防犯防災センター」の看板が掛かっている)は、
御津郡役所(明治33=1900年設置)があったところです。
当時の郡役所には、郡議会も設置されていたそうです。

コーンの右の道路に残る4本の敷石が、当時の姿を伝えています。
郡役所の向かい側には、かつて専売所工場がありました。
(その後、今、イトーヨーカドーのある場所に移りました)

約1キロの奉還町商店街を抜けると国道180線に出ます。
「奉還町西口」の信号を渡って、
国道180号線の一つ裏の道に入ると、旧山陽道です。
左に進んで行きます。

道の左側に、「京橋江ちか道」(明治16=1886年)の道標が残っています。

虫籠窓に格子のある、旧街道の面影を残す民家も残っています。

さらに進むと、玉垣が見えて来ました。  国神社。
「延喜式神名帳」に名が残る式内社です。
大国魂神(大国主命)を祀っています。
鳥居前の石灯籠には「嘉永7年甲寅歳(1854年)」の銘がありました。
さらに西に向かいます。

右手に、三門公会堂。
入り口には、少年の頃駐在所でよく見かけた、
赤い玄関灯がついていました。

その先の右手が三門公園です。
公園に沿って右折します。
ここまで旧街道に並んで流れていた観音寺用水は、
この先、さらにまっすぐ流れ、大安寺地区から笹ヶ瀬川に合流します。
曲がってすぐ、左手の畑理容所の方に入る道が旧街道です。

右手に、「備前国醍醐山成願院本坊」の碑が見えました。
不動明王が本尊の真言宗の寺院です。

坂道を登ると国道180号線に合流します。そのまま国道を進みます。

いわい保育園のところの信号で、国道180号線と別れ、左の道を登っていきます。
旧山陽道は矢坂東町に入り、静かな住宅地を進みます。

写真のあたりが峠になります。
途中に、井戸のつるべが残っている民家がありました。

緩い下り坂を進んで行くと、
「北向八幡宮(きたむきはちまんぐう)」の、
大きな万成石(まんなりいし)の碑が見えます。

この道を登っていくと、矢坂山上にある富山城跡に着きます。
富山城は、岡山城が築かれるまで、岡山平野で最大の城だったそうです。
明応6(1497)年の富山城攻防戦で知られています。
後に、宇喜多忠家(直家の異母弟)が富山城主となります。
忠家の隠居後に跡を継いだ詮家(あきいえ)が、
後に津和野藩主となった坂崎出羽守でした。
この北向八幡宮は、富山城の鎮守の神でした。
 
矢坂の町は、万成石の産地として知られています。
街道の左の山裾には、石材会社の工場が並んでいました。
武田石材さんの近くには、「桜御影 岡山県産 万成石」の幟が立っていました。

矢坂本町の坂道を下ると、矢坂橋で笹ヶ瀬川を渡ります。
旧山陽道は、この先、国道180号線と重なっています。
交通量が多く、「親子ウオーク」には危険ということで、
ここからは、吉備路自転車道を通って吉備津彦神社へ、
その後は、田んぼの中のあぜ道を吉備津神社に向うことになりました。

私は、お断りをして別行動をさせていただき、
180号線をまっすぐ板倉宿に向かいました。

吉備津彦神社への参道との分かれ道に、
一宮村の「道路元標」がありました。
さらに、中川橋を渡ります。中川の土手道に大覚僧正道の石碑があります。
「是より北五町 昭和7年8月朔日 三宅 」と書かれていました。

西辛川の信号の手前の左側に道標を見つけました。
「←岡山へ二里 →高梁へ十里」、
右横には「吉備津宮 馬屋上村 へ」と刻まれていました。 

さらに、180号線を進みます。

この道路の先で、旧山陽道は左カーブします。
このカーブの右に行く道は、古代・中世の頃の山陽道です。

国道沿いに昭和の民家が残っています。
そして、国道がゆるやかに左にカーブする手前の左側に、
「境目」というバス停がありました。   
境目集落。備前と備中の国境の集落です。
その先に国境を示す石柱が残っています。
石柱の先を流れる小さな川が国境だったそうです。

「是より東備前国」
岡山藩が立てた国境石です。

旧山陽道は、左カーブする180号線から分かれて、まっすぐ進みます。
50mぐらい進むと、真金一里塚です。
「岡山城下から2番目の一里塚(もう一つは万成一里塚)。
山陽道をはさんで塚を2つ築き、
北側に松、南側に榎が植えられていた」(案内板の説明)そうです。
当時の様子をよく伝えているといわれます。
これは、南側、2代目の榎の木です。

さらに、旧山陽道を進んだ左側には、大きな石の鳥居と松並木が見えます。
吉備津神社の参道です。

左下に、JR吉備津駅が見え始めると、道は下りになっていきます。
下りきると、JR吉備線を渡ります。

板倉大橋を渡ったところに、
「旧山陽道板倉宿」の案内板がつくられています。
川沿いに大きな石灯籠が残っています。
道標にもなっていて、
「金毘羅大権現 吉備津宮 瑜伽大権現」と書かれていました。

さらに進むと、再度、国道180号線に出合います。
旧山陽道は、180号線を横切って、その先もまっすぐ続いています。
その左に、道標がありました。

「右 松山江8里 足守江2里 
 南 庭瀬江30丁 
 西 井山宝福寺江 2里半」
ここは、真金十字路。
旧松山往来と旧山陽道の交差点でした。

ここから、JR吉備津駅に向かって引き返しました。
来るときには気がつきませんでしたが、鯉山コミュニティハウスに、
「江戸時代の板倉宿場図」が掲示されていました。

それを見ると、
このコミュニティハウスのあたりに「本陣」があったと説明されています。
しかし、その説明はどこにもなく、結局わかりませんでした。

岡山駅西口の「万町」から、JR吉備津駅の西の「板倉宿」まで、
約8キロの道を、説明を聞きながら歩きました。

部分、部分は、何回も歩いた道でしたが、
通して歩いたのは初めてでした。


かかしの案内人・・・興除お米フェスティバル

2011年11月16日 | 日記

岡山市の南西部の道路沿い、収穫を終えた田んぼの中に、
遼くんと真央ちゃんの姿を見つけました。
どうやら、興除お米フェスティバルの案内人として、
ここに立っているようです。
 
体形からすぐそれとわかる傑作でした。

「みんなで来られい」は、
一見、武士の言葉のようないかめしい感じに受け取られるかも知れませんが、
「どうぞ、おいでください」という感覚で使われているようです。

ここは、岡山市南区の興除地区。
昭和46(1971)年に岡山市に合併する以前は、児島郡興除村でした。

西畦 曽根 中畦 内尾 東畦の5つの地域に分かれています。
2人のかかしがあったのは、興除地区の西部の曽根でした。

私の少年時代の地理の教科書には、女性が耕耘機を運転している写真が載っていて、
その下に「機械化農村」だと、興除村が紹介されていたのを思い出しました。

他にもかかしがあるだろうと、興除地区を車で走ってみました。
これは中畦で見つけたかかしです。
背景が黄色で目立つので、すぐに見つけることができました。
もんぺをはいた女性と女の子のかかしでした。

”KOJO”の上に描かれたマークは、「興除地区」のシンボルマークです。
「5つの地域の人たちが仲のいいことを笑顔で表している」とのことで、
中学生のアイデアだったと聞いています。

興除地区は、江戸時代から明治時代にかけて、児島湾の干拓によって成立した地域です。
文政2(1819)年、幕府の命を受けた倉敷代官、大草太郎右馬が、
同3(1820)年干拓に着手、同6(1823)年に完成させ、840町歩(5096石)が造成されました。
岡山藩士、小原大之介が「興利除害」(中国の古典「管子」のことば)から、
「興除」と名付けたといわれています。

これも中畦にあるかかしです。
県道岡山・児島線の北側、児島方面に面して立っています。
 
どっしりとした、たくましい大きな姿です。
左の女性は、つなぎをはいています。

これは、東畦にあったかかしです。
 
近くで見ると、ネクタイとポケットチーフをつけスーツを身につけた紳士と
ふくよかな女性の姿でした。 農家のご夫婦なのでしょうか?

干拓が始まってから新しい村ができて、当初は、西村 中村 東村に区分されていました。
文政5(1822)年、西村から曽根が、東村から内尾が分割されて5つの村になりました。
しかし、新開地に「村」を使うのは、幕府に対してはばかりがあるというので、
「美田」を表す「疇」を使い、西疇、中疇、東疇と名付けられたそうです。
これが、現在の興除の5地域にひきつがれているのです。

これは、岡山市藤田地区に向かう道路脇に立っているかかしです。
 
毛糸の帽子をかぶった女性と、袴をはいた男性が案内人をつとめています。

11月20日は、お米フェスティバルです。
メインは、「お米コンテスト」。
重い俵や麻袋を運ぶ「力比べ」だそうですが、
私はかかしコンテストを楽しみにしています。

その案内に立っていたのは、かつて、コンテストで優秀な成績をおさめたかかしたちだったようです。

米どころの興除。
収穫が終わった後のお米フェスティバル、
多くの人が楽しみにしているイベントです。



旧下津井電鉄跡をたどる(3) 児島から下津井へ 

2011年11月03日 | 日記
下津井電鉄は、本四備讃線(瀬戸大橋)が開業した後の平成3(1991)年に、全線が廃止されました。起点の茶屋町駅から、これまで児島駅の手前までたどって来ましたので、今回は児島駅跡から下津井駅跡までをたどることにしました。廃止後、下津井電鉄の線路跡は、倉敷市が整備した歩行者・自転車専用道路になっています。そのうち、児島・下津井間は整備が進んでいて、「風の道」と名づけられて、市民に親しまれています。線路は、もちろん残っていません。

私が敬愛する方が、サイクリングで訪ねたと言われていたのを思い出し、この日は、旧児島駅からレンタサイクルでスタートしました。私が借りたのは、電動のママチャリでした。旧児島駅は、レンタサイクルの実験が始まっているので、朝から開放されていました。下津井電鉄は、大正2(1913)年、茶屋町駅と味野町駅(後の児島駅)間、14.5kmが、下津井軽便鉄道として開業したことに始まります。翌大正3(1914)年に味野町駅から下津井駅間6.5kmが延伸され、全線が開業しました。軌間762ミリの狭軌鉄道でした。味野町駅は、わずかな期間でしたが、終着駅になっていました。昭和16(1941)年に児島駅と改称されました。2面3線のホームがありましたが、昭和47(1972)年、茶屋町駅と児島駅間が廃止されてからは1面1線に縮小されました。
 
旧児島駅の脇は下津井電鉄の営業所で、たくさんのバスが留まっていました。

1.1km先の備前赤崎駅跡に向かいます。

風の道には、かつての架電柱が残っています。線路の中央部には、電線をつり下げていた部分もそのまま残されていて、下津井電鉄が活躍していた頃の雰囲気を伝えてくれています。

線路跡の両側を枕木で仕切りをつくっているところがありました。昔の駅はこんな風景だったなあ。車一台がやっと通れるような細い道に沿って、古い町並みが見えました。

正面の山の上に、鷲羽山ハイランドの観覧車が見えました。下津井電鉄の電車は、鷲羽山の左側から頂上付近に上り、観覧車の向こう側を下津井に向かっていました。

近くで、織機の動く音が聞こえて来ました。すると左手に、のこぎり屋根の繊維工場が見えたので、振り返って撮影しました。繊維の町児島らしい光景です。 児島赤崎一丁目です。

備前赤崎駅跡に着きました。下津井駅まで延伸した大正3(1914)年に開業しました。開業当時は2面2線のホームでしたが、廃業時には1面1線になっていたそうです。両側に、かつてのホームの跡と石垣がありました。左手には駅への取り付け道路も残っていました。

備前赤崎駅跡を出ると、線路跡は国道430号線を交差します。前に横断歩道がなく、まっすぐ進むことはできませんが、その先には線路跡が続いています。横断して再び線路跡にもどって、「阿津花の会」が管理する花畑に入ります。そして、道路との杭の仕切りが再び出てきたと思ったら、阿津駅跡でした。備前赤崎駅から0.5kmのところにありました。下津井電鉄では、天城駅と藤戸駅間0.4kmに次ぐ短距離区間でした。
 
阿津駅も、下津井駅まで延伸したときに開業しました。駅を通り過ぎてから、振り返って撮影しました。右側の一面だけでしたが、石垣にコンクリートを流したホームが残っていました。当時の駅名標ではなく、「風の道」の標識が見えます。

駅の近くには、立派な日本家屋がたくさん残っています。阿津駅跡を出ると登りのルートになります。鷲羽山を越えて行きます。倉敷シティ病院の前からの桜の並木を抜けると、道は左にカーブして、正面に児島競艇場、その先に瀬戸内海が見えるようになりました。さらに登って、JR瀬戸大橋線の下をくぐります。右手に瀬戸中央道、JR瀬戸大橋線の変電所、左手に児島競艇場が見えるようになりました。金海駅跡です。阿津駅跡から1.2km。1面2線のホームの石垣が昔のまま残っていました。
  
この駅も、大正3(1914)年に下津井駅まで延伸したときに開業しました。駅から見下ろす眺めがすばらしいです!

集落の屋根の向こうに、瀬戸内海が広がります。正面に、おにぎりの形をした大槌島(左)と小槌島(右)が見えます。ちなみに、大槌島の中央が、岡山県と香川県の県境になっています。

駅を出ると、また登りになります。右手の瀬戸中央自動車道が迫ってきて、その下をくぐります。
 
瀬戸中央自動車道を抜けると、鷲羽山駅跡です。この駅も、下津井駅まで延伸したときに開業しました。現在のホームは、廃線後に下津井方面に少し延長されており、かつてのホームとはスロープでつながっています。また、トイレが新たに整備されていました。写真を撮ったりメモを取ったりしながらやって来たので、ここまで1時間半ぐらいかかっていました。ほんとにトイレは助かりました。

トイレの仕切りの上に、カマキリがいました。用を足した後に気がつきました。

鷲羽山駅跡には、かつての駅の先を延長して展望台がつくられていました。そこから見る、眼下の下津井の吹上(ふきあげ)地区の屋並みと瀬戸大橋の眺望が見事です。駅におられたウオーキングの方のお話では、「駅から山を登って上から見ると、瀬戸大橋が真下に見えてすごいよ」とのことでした。

鷲羽山駅跡を出ると下りになります。県道を斜めに横切って、前方の左にいく道路の手前を下って行きます。

ここからの道は両側から伸びてきた草が茂っていました。下りのルートだったこともあり、すぐに東下津井駅跡に着きました。「下津井東駅」として、下津井駅までの延伸時に開業しました。昭和31(1956)年に下津井東駅に改称されています。草に気をとられていて、うっかり通り過ぎるところでした。

1面1線のホームも、草に覆われていました。

終着駅の下津井駅に向かいます。右手の山の上に見えていたせとうち児島ホテルや遊園地の鷲羽山ハイランド、鷲羽ハイランドホテルが後ろに過ぎたとき、工事中のところがありました。

駅表示のような案内板が建てられていました。工事をしておられる方にお聞きしますと、2日後に花畑の開会式があるとか。そういえば、ここまでに「さざん花の会」や「ライオンズクラブ」の表示のある、お花畑に出会いました。線路跡を花で飾ろうという動きが、また広がったようです。その先、線路跡は草が生い茂っているため、再び狭くなりました。ここは、下りながら、穴蔵の中に入っていく感じがしました。

しかし、すぐに草の道は終わり。下りながらの、ゆったりとしたサイクリングになります。

そして、坂を下りきって道路の下をくぐると、終点の下津井駅跡です。

ここまで、児島駅跡から6.4km。なんと2時間かかってしまいました。

この写真は、下津井駅跡から東下津井駅跡方面を撮ったものです。ホームの間に線路跡が残っていました。

下津井駅跡には、かつて活躍していた車両が展示されています。この車両は、最後につくられた軽便鉄道の車両、メリーベル号です。製造されてから3年程度で廃線になってしまった不完全燃焼の現役生活。下津井みなと鉄道保存会の方々によって、大切に保存されています。

旧児島駅で展示したらという企画もあるようですが、移動させるのに800万円ぐらいかかるそうで、倉敷市の財政が許してくれないのだそうです。なんとか、活躍の場をと思うのは、私だけではないでしょう。

駅跡を出ると、目の前に下津井の港がありました。