このところ、出雲街道を少しずつ歩いています。
先日、ネットで検索していたら、「おかやま歴史発見の旅ー『出雲街道』歴史の道」に、「車では約2分で旧宿場町を通過」と書かれている、
宿場町がありました。
旧出雲街道の旧坪井宿です。急に行ってみたくなって、小さな宿場町にかつての面影をさがしに出かけました。
JR西日本の「岡山・尾道おでかけパス」、JR西日本岡山支社管内の在来線乗り放題切符(1800円)ですが、それを使って、津山から姫新線の新見行きで約20分の坪井駅をめざしました。
JR坪井駅です。昭和61(1986)年に無人駅になり、その後、開業以来の木造駅舎も撤去され、プレハブ風の小さな駅舎になっていました。
駅から、南に約50mぐらい行けば国道181号線。旧出雲街道です。右に曲がって、次の旧久世宿方面に進みます。松江藩やその支藩の広瀬藩の参勤交代の道。慶長8(1603)年、森忠政が津山に入封してから整備された街道と宿場町でした。津山城下町からは、院庄で吉井川を渡り、旧久米郡内の領家(茶屋)、千代(せんだい)を経て、坪井宿へ入っていました。
やがて、181号線はゆるやかに右にカーブします。181号線から分かれて、そのまま、分かれ道をまっすぐ行くと、「出雲街道坪井宿」の看板がありました。その奥の、久米川を渡る大渡(おおわたり)橋を渡って、右方向に進むと旧出雲街道坪井宿です。その道を久米川に沿って歩きます。旧坪井宿は、津山城下町から3里半(14km)。参勤交代が制度化された、江戸時代前期、寛永年間(1624~43)に整備されました。
旧街道の右側、久米川沿いに坪井一里塚の跡がありました。一里塚は1里(36町、約4km)ごとにつくられ、5間(約9.1m)四方に土を盛り、
中央に松や榎木を植えていました。津山からは、領家、坪井、追分の順に、設置されていたといわれています。この地には、明治初年まで、周囲8尺(2.4m)の松があったと説明には書かれていました。
一里塚跡付近で久米川に合流する七森(ななもり)川に沿って進みます。
水切り瓦のついた民家が見えました。
このお宅を抜けて、少し行くと、道幅が7mとずいぶん広くなり、道路の左側(南側)に、七森川から引いたという水路が流れていました。この水路は、かつては街道の中央部を流れていたそうです。中央の水路の右(北)側が出雲街道で、多くの旅籠や民家が並んでいました。水路の左(南)側は地元の人が通る里道になっていました。水路をはさんで分けられているので、その形から「麦飯町」と呼ばれていたそうです。道幅はどちらも2間(約3.6m)ずつでした。現在は、この水路が左側に移されていて、4間(7.2m)が道路になっています。広いはずですね。
しばらく進むと、左側の民家の前に、「坪井の宿場」の石碑と案内板がありました。
上の写真の水路の左側に、案内板がありました。
案内板の右斜め前のお宅(現、林原鮮魚店)があるところに、旧坪井宿本陣が置かれていました。
その先の左側にある金毘羅宮の常夜灯。安政2(1855)年の銘がありました。これも、かつては宿場町の中央の水路のところにありました。火袋のところだけは、木でつくられていました。「上田丁」(上町) 世話人住屋助左衛門ら3人と、「下田丁」(下町)からも、3人の世話人の名が彫られていました。
白壁に袖壁のついた民家です。2軒並んだ手前のお宅はサッシに改造されていましたが、奥のお宅には全面に格子戸が残っていました。
この2軒は、どなたも住んでいないお宅のようでした。立派な造りのお宅でしたが、傷みが進んでいるようでした。
虫籠町、格子戸、なまこ壁、袖壁のなどのついた民家が、今も残っています。
街道の出口(久世宿方面)です。181号線との合流地点には、花壇がつくられていました。
そこには、「津山市環境衛生推進員会」の23年度最優秀団体賞を受賞したという標識がおいてありました。花壇の手前にも、「出雲街道坪井宿」の看板が立っていました。
旧坪井宿の入り口にあった「下愛宕様」の祠です。
坪井宿は明治になって2回大火を経験しました。明治14(1881)年には、36世帯80余棟が焼失しました。同じ被害が明治40(1907)年にもありました。宿場の人々は、愛宕様をお祀りして、火災や病気除けを願ったのです。
宿場の端まで、ゆっくり歩いて20分ぐらいでした。国道181号線を走るドライバーは、「坪井宿」の標識がなければ、ここに宿場があったことに気がつかないでしょう。
旧宿場町の中で、目立つ看板をつけた商店は2つの鮮魚店だけ。余りにも普通で、目立たない小さな集落です。古い民家も残っていますが、町並み保存」とかけ声をかけて残しているわけでもありません。「古くなって、普通に修理したら今の形になっただけだよ」と言われそうなぐらい、自然なのです。
車で走っていないので確かなことはわかりませんが、「車で約2分」で通り過ぎるというネットの記述は多分正しいのでしょう。
小さな宿場町でしたが、かつては、参勤交代の途中の大名も、ここで休憩したところでした。地元の人々には、かつての繁栄が誇りなのではないでしょうか。
JR姫新線は、日中は2時間に1本ぐらいの列車しかありません。「時刻表」を見ると、この時間では、坪井駅から新見駅を経て伯備線経由で岡山駅に帰る方が、津山駅に引き返して津山線で岡山に帰るより15分ぐらい早く着くのです。
「乗り放題切符」でしたので、坪井駅では、新見に向かう姫新線の列車、キハ120系の単行ワンマン列車の到着を待つことにしました。
先日、ネットで検索していたら、「おかやま歴史発見の旅ー『出雲街道』歴史の道」に、「車では約2分で旧宿場町を通過」と書かれている、
宿場町がありました。
旧出雲街道の旧坪井宿です。急に行ってみたくなって、小さな宿場町にかつての面影をさがしに出かけました。
JR西日本の「岡山・尾道おでかけパス」、JR西日本岡山支社管内の在来線乗り放題切符(1800円)ですが、それを使って、津山から姫新線の新見行きで約20分の坪井駅をめざしました。
JR坪井駅です。昭和61(1986)年に無人駅になり、その後、開業以来の木造駅舎も撤去され、プレハブ風の小さな駅舎になっていました。
駅から、南に約50mぐらい行けば国道181号線。旧出雲街道です。右に曲がって、次の旧久世宿方面に進みます。松江藩やその支藩の広瀬藩の参勤交代の道。慶長8(1603)年、森忠政が津山に入封してから整備された街道と宿場町でした。津山城下町からは、院庄で吉井川を渡り、旧久米郡内の領家(茶屋)、千代(せんだい)を経て、坪井宿へ入っていました。
やがて、181号線はゆるやかに右にカーブします。181号線から分かれて、そのまま、分かれ道をまっすぐ行くと、「出雲街道坪井宿」の看板がありました。その奥の、久米川を渡る大渡(おおわたり)橋を渡って、右方向に進むと旧出雲街道坪井宿です。その道を久米川に沿って歩きます。旧坪井宿は、津山城下町から3里半(14km)。参勤交代が制度化された、江戸時代前期、寛永年間(1624~43)に整備されました。
旧街道の右側、久米川沿いに坪井一里塚の跡がありました。一里塚は1里(36町、約4km)ごとにつくられ、5間(約9.1m)四方に土を盛り、
中央に松や榎木を植えていました。津山からは、領家、坪井、追分の順に、設置されていたといわれています。この地には、明治初年まで、周囲8尺(2.4m)の松があったと説明には書かれていました。
一里塚跡付近で久米川に合流する七森(ななもり)川に沿って進みます。
水切り瓦のついた民家が見えました。
このお宅を抜けて、少し行くと、道幅が7mとずいぶん広くなり、道路の左側(南側)に、七森川から引いたという水路が流れていました。この水路は、かつては街道の中央部を流れていたそうです。中央の水路の右(北)側が出雲街道で、多くの旅籠や民家が並んでいました。水路の左(南)側は地元の人が通る里道になっていました。水路をはさんで分けられているので、その形から「麦飯町」と呼ばれていたそうです。道幅はどちらも2間(約3.6m)ずつでした。現在は、この水路が左側に移されていて、4間(7.2m)が道路になっています。広いはずですね。
しばらく進むと、左側の民家の前に、「坪井の宿場」の石碑と案内板がありました。
上の写真の水路の左側に、案内板がありました。
案内板の右斜め前のお宅(現、林原鮮魚店)があるところに、旧坪井宿本陣が置かれていました。
その先の左側にある金毘羅宮の常夜灯。安政2(1855)年の銘がありました。これも、かつては宿場町の中央の水路のところにありました。火袋のところだけは、木でつくられていました。「上田丁」(上町) 世話人住屋助左衛門ら3人と、「下田丁」(下町)からも、3人の世話人の名が彫られていました。
白壁に袖壁のついた民家です。2軒並んだ手前のお宅はサッシに改造されていましたが、奥のお宅には全面に格子戸が残っていました。
この2軒は、どなたも住んでいないお宅のようでした。立派な造りのお宅でしたが、傷みが進んでいるようでした。
虫籠町、格子戸、なまこ壁、袖壁のなどのついた民家が、今も残っています。
街道の出口(久世宿方面)です。181号線との合流地点には、花壇がつくられていました。
そこには、「津山市環境衛生推進員会」の23年度最優秀団体賞を受賞したという標識がおいてありました。花壇の手前にも、「出雲街道坪井宿」の看板が立っていました。
旧坪井宿の入り口にあった「下愛宕様」の祠です。
坪井宿は明治になって2回大火を経験しました。明治14(1881)年には、36世帯80余棟が焼失しました。同じ被害が明治40(1907)年にもありました。宿場の人々は、愛宕様をお祀りして、火災や病気除けを願ったのです。
宿場の端まで、ゆっくり歩いて20分ぐらいでした。国道181号線を走るドライバーは、「坪井宿」の標識がなければ、ここに宿場があったことに気がつかないでしょう。
旧宿場町の中で、目立つ看板をつけた商店は2つの鮮魚店だけ。余りにも普通で、目立たない小さな集落です。古い民家も残っていますが、町並み保存」とかけ声をかけて残しているわけでもありません。「古くなって、普通に修理したら今の形になっただけだよ」と言われそうなぐらい、自然なのです。
車で走っていないので確かなことはわかりませんが、「車で約2分」で通り過ぎるというネットの記述は多分正しいのでしょう。
小さな宿場町でしたが、かつては、参勤交代の途中の大名も、ここで休憩したところでした。地元の人々には、かつての繁栄が誇りなのではないでしょうか。
JR姫新線は、日中は2時間に1本ぐらいの列車しかありません。「時刻表」を見ると、この時間では、坪井駅から新見駅を経て伯備線経由で岡山駅に帰る方が、津山駅に引き返して津山線で岡山に帰るより15分ぐらい早く着くのです。
「乗り放題切符」でしたので、坪井駅では、新見に向かう姫新線の列車、キハ120系の単行ワンマン列車の到着を待つことにしました。
やはり古事記神話の謎は天皇礼賛だけではないいびつな構造をしているある種の正直さが心惹かれるのでしょう。
古事記神話の構造をザックリいうと高天原の2度の地上への介入がその構造の中心となっている。1度目はイザナギとイザナミがオノゴロ島を作り、国生み神生みを行い、次にイザナミのあとを継ぎスサノオが
根之堅洲国で帝王となる。第二の高天原の介入はアマテラスによる九州への天皇の始祖の派遣とそれに続く天皇を擁する日本の話でこれは今も続いている。
これらの2度の高天原の介入に挟まれた形で出雲神話がある。天皇の権威を高めるのに出雲があまり役に立たないのに古事記で大きく取り上げられている。その神話の構造の歪さに我々は心を惹かれる。
たとえば天皇も大国主も大刀(レガリア)の出どころはスサノオでありその権威の根源を知りたくなってしまう。そうなると島根県安来市あたりの観光をしてしまいたくなる。