トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR風早駅と万葉陶壁

2020年06月28日 | 日記
車窓から見える瀬戸内海の風景を思い出しては、乗ってみたくなる鉄道がJR呉線です。 この日は、東広島市にある呉線の駅、風早(かざはや)駅を訪ねることにしました。
東広島市安芸津町風早の祝詞山八幡神社にある万葉陶壁です。平成2(1990)年に、当時の豊田郡安芸津町と八幡神社が、「町づくり事業」の一環として建立したものだそうです。 奈良時代、朝鮮半島にあった新羅の国に送られた使節の役人と奈良の都で夫の無事を祈る妻の愛の歌をもとに制作されました。

JR風早駅を訪ねるため、JR山陽本線三原駅に向かいました。 1番ホームに広駅行の電車が入線していました。JR西日本広島支社の誇る最新車両、227系3両編成の電車でした。 227系は、平成27(2015)年3月14日のダイヤ改正で広島地区の在来線で運行を開始し、平成31(2019)年の春から、広島地区のすべての列車で運行されています。

三原駅から1時間ほどで風早駅に着きました。 2面2線のホームを持つ風早駅ですが、広駅行きの列車は、駅舎側のホームに到着しました。 下車したとき、跨線橋で結ばれた向かいのホームに、三原駅行きの列車が到着しました。 ホームの番号の標示は見つかりませんでした。 地元の方、お二人とともに下車しました。
風早駅の駅標です。 風早駅は、東広島市安芸津町風早に設置されています。 三原駅側の一つ前の駅、安芸津駅から3.2km、次の安浦駅まで6.3kmのところにあります。

二つの列車が出発した後の三原駅方面の光景です。ホームはゆるやかに左にカーブしています。 
跨線橋を渡って、向かい側のホームに降りました。 ホームの上屋が設置されていました。 呉線は、三原駅と山陽本線海田市駅を結ぶ87kmの鉄道です。 明治36(1903)年、軍港のあった呉駅と海田市駅間が開通したことに始まります。 

広島県東部の起点三原駅からは、昭和5(1930)年、須波駅までが三呉線として開通し、その後、延伸を続けます。そして、昭和10(1935)年11月24日、呉駅までが全通し、呉線となりました。 風早駅は、昭和10(1035)年2月17日、三呉線の竹原駅と三津内海駅(みつうちのうみ駅・現在の安浦駅)間が開業したのに伴って開業しました。
写真は、ホームの上屋の下のようすです。 ベンチが3脚だけという簡素なつくりになっています。
ホームの上屋付近から見た駅舎です。 ホームにはベンチが置かれています。 風早駅の1日平均の乗車人員は、平成29(2017)年には、217人だったそうです。
駅舎に向かうため、跨線橋を上ります。 跨線橋の上から見た駅舎とホームの上屋です。 線路は、ゆるやかに右カーブしながら広駅方面に向かって延びています。 風早駅は海に向かって張り出した尾根を囲むようにつくられたようです。 写真の左側には瀬戸内海が広がっています。
跨線橋の上から見た瀬戸内海です。 穏やかな海の向こうに瀬戸内の島々が見えます。 筏が見えるあたりでは、カキの養殖が行われています。
広駅方面行きの列車が停車するホームの脇の小高い所に、神社の本殿と拝殿が見えました。 地図で確認すると、「銭神神社」と書かれていました。 お金儲けに御利益のある神社なのでしょうか。
駅舎の前に来ました。 駅舎に接してベンチが置かれています。 駅舎への入口には、ICOCA専用の改札機と、使用済み切符の回収箱が設置されています。 ICOCAの改札機は、平成19(2007)年から使用されているそうです
駅舎内です。長いベンチが置かれています。 風早駅は、国鉄時代の昭和35(1960)年に貨物扱いが廃止され、10年後の昭和45(1970)年10月1日には無人駅化され、簡易委託駅となりました。
ベンチの向かい側です。 時刻表や自動券売機など駅らしい風景が広がった一角になっています。 広島県立豊田高校が近くにあり、平日には高校生の姿も多く見られるはずです。 
ホームから駅舎への入口からまっすぐ進むと、駅舎からの出口があります。待合のスペースの向かいは駅事務所の跡なのでしょうか。 駅舎から出ます。

駅前広場から見た駅舎です。 スレート葺きの屋根に白壁という風早駅の駅舎です。 風早の地名については、地元の自治会がつくられた資料には、「伊予国の中部(現在の愛媛県松山市北条付近)の有力者だった風早氏が6世紀ごろに北上し、安芸国のこの付近や島々に勢力を広げ、その一族がこの地に住み着くようになった」といわれ、「風早氏に因んでこの地を『風早』と称するようになったともいわれている」(シリーズ「風早ものがたり」)と書かれています。

駅舎に並んで建つのはトイレです。 その周囲は自転車置き場として使われているようです。
駅前広場と駅への取付道路です。 その向こうに、瀬戸内海が見えます。 無人駅(簡易委託駅)となってからは、道路の左側のお店で乗車券の販売が行われていました。 
この後、万葉時代の風早の歴史に触れるため、祝詞山八幡神社にある万葉陶壁を訪ねるつもりでした。 正面のお宅に向かって歩きます。

駅舎の正面にあるお宅の前で、買い物を終えた地元の方に、祝詞山八幡神社に行く道をお尋ねしますと、「じゃあ、一緒に行きましょう」とのこと。 正面にあったお宅の前で左折して、ご一緒に祝詞山八幡神社まで歩くことにしました。 
広島県道206号(風早停車場線)を進みます。
 商店街を抜けると、左側に急傾斜の石段がありました。 登り切ったところに、鳥居がありましたので、跨線橋から見た「銭神神社」の参道のようです。

その先で、歩いてきた県道は、海岸沿いを走る国道185号(芸南街道)に接近します。 しかし、合流しないで左方向に向かいます。 左側にレンガ造りの「登り窯」のような構造物がありました。 ご一緒に歩いてくださった方は、「たこつぼを製造していたところですよ」と、説明してくださいました。
さらに進むと、県道は呉線のアンダークロスとなります。 抜けると右方向に道なりに進みました。

安芸津風早郵便局を左側に見ながら進むと、右側に風早地域センターの建物がありました。 その先で、県道353号(内海三津線)との交差点を渡ります。
交差点をまっすぐ進みます。

すぐに、祝詞山八幡神社の下に着きました。
伊予国からこの地に移り住んだ豪族の風早氏が、豊後国の宇佐八幡宮から分霊し、祀った神社だといわれています。 駅からゆっくり歩いて、20分ぐらいで、ここまでやって来ました。 ここで、案内してくださった方にお礼を申し上げてお別れしました。 迷わずに来られたのはこの方のおかげでした。  
石段の次の道を上ります。その先の小高いところに、万葉陶壁と万葉歌碑が見えました。
天平8(736)年6月、奈良の都を旅立った、遣新羅使(けんしらぎし)の一行(大使:阿倍継麻呂 副使:大伴三中)が、風除けのできる穏やかな海であった風早の浦に停泊していた船の中で、宿泊したときに作られた歌が、「万葉集」に載せられています。 「風早の浦」は、JR風早駅一帯の呼称とされていたそうです。
歌碑には、「風早の浦に船泊りする夜に作れる歌」として、次の二首が刻まれていました。 
   わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり
   沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを
これは、都を出るとき、妻から送られた歌
  君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ
に、答えて歌ったものだといわれています。
万葉陶壁です。 遣新羅使として、潮の流れや、風、波など、危険を伴う長旅を続ける夫と、留守を守る妻との愛の歌に因んでつくられたものです。 山下真一画伯の原画をもとに、陶芸作家の財満進氏が制作された陶壁といわれています。
風早駅に戻って来る途中で、風早駅の後ろにそびえる保野山(地図には「灘山」と書かれています)の山頂付近の斜面に、「万」の字が見えました。毎年11月の第2土・日曜日の「火とグルメの祭典あきつフェスティバル」の夜、風早小学校、安芸津中学校、県立豊田高校の児童生徒や地域の有志300名の人々が運び上げた薪を焚き、縦110メートル、横58メートルの「万」の字を浮かび上がらせる「万文字焼(まんもじやき)」の舞台です。地元の消防団員の人たちが、地域に対する恩返しにと計画したもので、平成2(1990)年から始まったそうです。保野山は、もともと「狼煙(のろし)」を上げる火の山だったそうで、遠くからでも見通すことができる位置にあるそうです。

JR風早駅への旅は、祝詞山八幡神社に作られた万葉歌碑と万葉陶壁を見る旅になりました。 ご案内くださった地元の方の温かさに触れる旅にもなりました。
思い出深い旅でした。