トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

大雪の日の立山・黒部アルペンルート

2013年04月29日 | 日記

4月のある日、立山・黒部アルペンルートの旅に出かけました。写真は、扇沢駅に貼ってあったポスターですが、その右側、壁に囲まれた雪の道、「雪の大谷」を歩くのが一番の目的でした。その日の早朝、宿泊していたホテルを出発し、6時40分後頃、立山黒部アルペンルートの長野県側の入口、扇沢駅に降り立ちました。ただ、天気予報は大雪が降る悪天候とのことでしたので、雪の大谷が歩ければいいなあと祈るような気持ちでおりました。

立山・黒部アルペンルートの長野県側のスタート地点、扇沢駅です。ここに着いたとき、かなりの雪が降り積もっていました。さて、立山・黒部アルペンルートは、扇沢からトロリーバスで黒部ダムへ向かい、黒部湖駅から黒部平駅へ。さらに立山ロープウエーを乗り継ぎ、大観峰。アルペンルートの最高地点の室堂に登ります。そして、富山県側の立山駅まで、6つの交通機関を乗り継いでいきます。めざす「雪の大谷」は、室堂から美女平に向かう高原バスのルート上にあります

扇沢駅にあったライブカメラの映像です。黒部ダムは雪のためかすんで見えていました。案内では、標高1,454mにある黒部ダムは1.3度。他のモニターでは、標高2,316mの大観峰が零下1.5度、2,450mの室堂は、零下3.9度でした。さすが、立山連峰です。

私たちが乗るトロリーバスは、7時30分発でした。トロリーバスは、パンタグラフから電力を取り込んで走るバスですが、正確には「無軌条電車」といい、「電車」に分類されています。現在、我が国でトロリーバスが走っているのは、これから走る関電トンネルと、大観峰から室堂に向かう立山トンネルの2カ所だけだそうです。排気ガスが出ない、環境に優しい乗物です。

関電トンネルを走るトロリーバスに乗り込みます。昭和39(1964)年の開業で、開業50周年のマークが車体に塗装されていました。現在のトロリーバスは、平成24(2012)年に更新した新しい車輌で、3代目にあたるそうです。「くろよんダム」で知られる「黒部川第四発電所」の建設で最初に完成した関電トンネル(当時は「大町トンネル」と呼ばれました)を進んでいきます。対向車を避ける設備は中央部にあり、そこで対向してきたトロリーバスと行き違いをしました。

トロリーバスの終点、黒部ダム駅に着きました。関電トンネルの6.1kmを、16分かけて走りました。ここは、標高1,470m。地下トンネルの中に駅がありました。

駅の通路にあった案内図です。「現在地」から60段の階段を下って、地上に出て手前に進み、中央の堰堤を右に向かって歩き突き当たりを左折してトンネルの中に入って黒部湖駅まで歩きました。なお、展望台へは、「現在地」から左に向かい220段の階段を上がっていくことになります。外は何も見えないと思ったのでしょう、ほとんどの方は階段を下っていきました。

進行方向右側の放水口の写真です。左側が”くろよんダム”。貯水した水の圧力を両岸の山で受け止めるために、アーチ形のダムを設けることにしたということです。

雪は降り続いていました。みんな黙々と前に進みます。周囲はほとんど見えません。

堰堤にあった案内です。堰堤の高さは、186m。「松本城天守閣の6倍の高さ」だそうです。幅8,1m、長さ492mとあります。

振り返ると、左の高いところに展望台が見えます。黒部ダム駅から220段の階段を昇った所にある展望台です。

黒部ケーブルカーの黒部湖駅に入ります。標高1,455m。ここまで15分ぐらいかかりました。

ケーブルカーに乗るまでの間、駅員さんの説明がありました。扇沢駅でもありましたが、軽妙な話術で写真集のPRをしておられました。なかなか楽しいお話しで退屈しないで待つことができました。構内の案内では、大谷ウオークはできそうでした。少し安心しました。

折り返して黒部平駅に向かうケーブルカーが入っていました。昭和44(1969)年に運行を開始しました。

自然景観を保護し、雪の害を防止するため、日本で唯一の全線地下を走るケーブルカーでした。一番前の席から撮りました。

定員の130名のケーブルカーの内部です。車内もかなりの急傾斜になっています。最大勾配は31度だそうです。

黒部平駅まで5分かかりました。黒部平は、標高1,828m。黒部湖駅からの標高差、約400m。距離は0.8kmだったようです。中央に行き違いの設備がありました。ここは、後立山連峰と立山連峰の間に立っています。

続いて、大観峰行の立山ロープウエーに乗り換えます。平成24(2012)年から新車に変わっているようです。これもいっぱいの乗客。ロープウエーは大観峰までの標高差500mを一気に登ります。しかし、周囲は人、また人。まったく景色が見えません。窓際に立つ人に尋ねても「何も見えない」とのことでした。景観維持のため、支柱がまったくない構造になっています。

7分で大観峰駅に着きました。距離は1.7kmだったそうです。

標高2,316m。立山連峰の東側の岸壁に張り付いたように駅がつくられています。

駅の屋上のある屋上展望台に行きました。階段を登るとき息が切れるような感じがします。2,000mを越えていることを痛感しました。しかし、見えるのは白い雪ばかり。「目の前に、長野県と富山県の県境にある後立山連峰と黒部湖の景観が見える」と、ガイドブックには書かれていましたが・・・。ほとんど何にも見えません。

降りてきてがっくり。大谷ウオークは「見合わせ」になっていました。ここは、この建物から外に出ることができません。

人の流れに押されるように、次の立山トンネル、トロリーバスの乗り場に進みます。アルペンルートの最高地点、標高2,450mの室堂に向かいます。日本で最も高い所を走るトロリーバスです。
立山トロリーバスは、立山連峰の雄山の真下を貫通しています。昭和46(1971)年運行開始、平成8(1996)年からトロリー化されました。

中間地点の200m手前(大観峰寄りの地点)が破砕帯で、青いLEDの照明になっていました。破砕帯では地下水や土砂が吹き出して難工事になりました。水抜きトンネルをつくったりボーリングを行なったり、あらゆる知識と経験を結集して突破したところです。

破砕帯の約200m先で、行き違いのトロリーバスが来るまでしばらく待ち合わせをしました。ここは立山山頂の雄山の直下700mのところにあります。トロリーバスで5分(3.7km)で室堂に着きます。

室堂に着きました。トロリーバスの運転手さんになるにはどんな資格がいるのでしょうか。乗客のお世話が終った運転手さんにお伺いしました。「車の大型2種免許と無軌条電車運転免許が必要」なのだそうです。

標高2,450m。アルペンルートの最高地点です。いよいよ大谷ウオーク。期待でいっぱいです。

駅の下の室堂高原の碑です。その先では、道路の雪かきをしてくださっていました。

振り返って見た、立山駅。隣は、”立山ホテル”。 立山を代表するホテルです。

残念ながら、結局、大谷ウオークはできませんでした。高原バスで美女平まで行くことになりました。

仕方がないので、せめて写真だけでも・・。高原バスの一番後ろの座席から、雪の大谷の写真を撮ることにしました。雪の大谷に入りました。

この日は18mぐらいの雪の壁ができているでした。

雪がひっきりなしに降っていて、窓に雪の水滴がついて外が見づらいです。

美女平は、標高977m。標高差にして1,500mほど下りました。ここまで、23kmの距離を50分ほどかけて降りてきました。美女平ケーブルカー乗り場からホームに向かいます。

立山ケーブルカーが上がってきました。いっぱいの乗客でした。

立山ケーブルカーの先頭部分に乗りました。運転席がありましたが、乗務員は乗っておられませんでした。

よく見ると、ケーブルカーの前に貨車がくっついていました。立山駅でわかったのですが、スキー板が乗せてありました。雪はまだ降り続けていて、窓には水滴がついていました。

ケーブルカーから見た立山駅周辺です。なぜか雪景色がきれいに見えました。

立山駅に着きました。標高475m。美女平が977mだったので、標高差500mを7分(1.7km)で下ったことになります。ケーブルカーの貨車の前に、もう一つ運転席が着いていました。

階段をさらに下って進むと、富山地鉄の駅の改札口に着きました。列車が休んでいました。ここから富山地鉄富山駅までを、約60分でつないでいます。

山小屋風の立山駅。立山・黒部アルペンルートの富山県側の入口にあたります。長野県側の扇沢からトロリーバスで出発したのが7時30分でした。それから6時間近くをかけて、ここまでやってきました。

期待していた大谷ウオークは、大雪のため見合わせとなり、途中も積雪のため、ほとんど景色も見られませんでしたが、バラエティに富んだ交通機関を乗り継いだアルペンルートの旅は、結構楽しいものでした。機会があれば、もう一度大谷ウオークに挑戦したいものです。

歴史を訪ねて御堂筋を歩く 淀屋橋から本町通りへ

2013年04月17日 | 日記

幅43,2m、長さ4,7km、四列に並ぶイチョウ並木が続く大阪市のメーンストリート、御堂筋を、この日は淀屋橋から本町にむけて、大阪の商業の中心地、船場を歩きました。

スタートしてすぐ、御堂筋の左(東)側に日本生命本館の建物が見えてきます。

日本生命本館の南側を東西に走る今橋通りに、左折して入ります。本館の南の壁に埋め込まれた「懐徳堂旧址碑」を見つけました。懐徳堂(かいとくどう)は、享保9(1724)年、中井甃庵(しゅうあん)を中心にした5名が、藩校のなかった大坂に開いた塾でした。明治2(1869)年までの146年間、大坂町人の学問所として、中井竹山、富永仲基、山片幡桃ら多くの町人学者を生み出しました。懐徳堂では、儒学を中心にして幅広い学問を学ぶことができました。また、教科書をもたずに講義を受けてもいいし、用事があれば中途で帰ってもいいという町人の生活にあわせて学ぶことができたところに特色があったそうです。

懐徳堂の跡の碑から、今橋通りを東に二筋進むと、明治13(1880)年開園という、日本で最も古い幼稚園があります。大阪市立愛珠幼稚園です。外見からは、幼稚園というより豪壮な商家建築に見えます。現在の建物は、明治34(1901)年に再建されたものだそうです。訪ねたときはちょうど降園時間、お母さんに迎えられて園を後にする園児の姿がたくさん見られました。今も現役の公立の幼稚園なのです。

愛珠幼稚園の正門の冠木門の右に、「銅座の跡」の碑がありました。江戸時代、銅座があったところです。「銅座」は、諸国で産出した粗銅(あらどう)を買い上げ、銅吹屋で精錬させて、長崎へ回送し海外へ輸出していました。江戸時代の大坂で最大の銅吹屋は、明治以降財閥となる住友家でした。住友財閥は、銅の採鉱や精錬で、その経済的基盤を形成しました。(2013年4月13日の日記)

幼稚園の西の通りを北に進みます。近くのビジネス街から昼食をとりに出て行く人々といっしょでした。

幼稚園の敷地に沿って交差点を右折します。愛珠幼稚園の裏に、木造の建物がありました。

建物の前にあった碑には「史蹟 緒方洪庵旧宅及塾」と書かれていました。江戸時代の蘭学者、緒方洪庵の適々斎塾、適塾でした。適々斎は洪庵の号で、ここから大村益次郎、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉ら3000人以上の人材が世に出て行きました。ゾーフ・ハルマという当時最も権威のあったオランダ語の辞書を備えたゾーフ部屋で、塾生たちは、辞書を頼りに自習していました。二階の大部屋が塾生のいた部屋で、中央にある柱には、塾生たちがストレス発散のために斬りつけた刀傷が今も残っています。適塾は、その後、大阪帝国大学を経て大阪大学医学部へと発展して行きます。

洪庵の住んだ家は、寛政4(1792)年の北浜大火の後、ほどなくして再建されました。洪庵は、天保14(1843)年、両替商天王寺屋の分家、忠兵衛の持ち家だったこの家を買い取り、弘化2(1845)年に引っ越してきました。適塾の前方が塾の教室部分、後方が洪庵の居宅部分でした。この邸宅は、洪庵が文久2(1862)年に江戸に出府した後、たびたび改造されたようです。その後、大正4(1915)年の道路の拡張工事によって、前面が1~2m切り取られました。昭和39(1964)年に国の重要文化財に指定され、昭和50(1975)年の大規模修理によって、洪庵が居宅した当時に戻ったものだそうです。

愛珠幼稚園の向かいに「緒方洪庵記念財団 緒方ビル」がありました。緒方洪庵が中心になって開設した除痘館の跡です。万延元(1866)年にこの地に移ってきたそうです。

蘭学者の緒方洪庵のゆかりのビルらしく、入居者は医療関係団体ばかりでした。

御堂筋に帰り、さらに南に進み道修町で左折します。道修町は、江戸時代には、薬を一手に扱う「薬種仲間」が店を出していました。道修町の由来としては、① 道修寺という寺院があったから
② 江戸時代に、北山道修という薬学者がいたから ③ 江戸中期まで道修谷とよばれていたから
などが知られています。

今も、薬品にかかわる企業が集まっています。写真は、道修町にあった大日本住友製薬の本社ビルです。他に、武田薬品工業、塩野義製薬、田辺三菱製薬、小林製薬などがこの地に本社を構えています。

道修町には、歴史を誇る建物が目につきました。今も現役の薬品問屋、北垣薬品株式会社。

煉瓦造の日本基督教団なにわ教会です。昭和5(1930)年、ヴォーリズの設計で建設されました。
ヴォーリズは、アメリカから来日し、近畿各地で(この「日記」では、近江八幡や水口などで)洋風建築を建設しました。

築後100年を超えた煉瓦造の建物です。旧大阪教育生命保険ビルで、明治45(1912)年の建築です。こちらは辰野金五の設計で、現在は、オペラドメーヌの店(フレンチレストランウエディング)になっています。内部は、とてもきれいに改装されているそうです。高層ビルの間に立っていて、歩くのが楽しい一画でした。

歴史的な建造物を見ながら平野町に入ります。御堂筋に戻るつもりで、平野町通りを西に向かいました。あとニ筋で御堂筋というところに、「北組惣会所址」の碑を見つけました。江戸時代の大坂の町は三カ所に分けて治められていました。大川(淀川)、今の堂島川と土佐堀川でしたが、これより北は天満組、本町通りから北は北組、本町通りから南は南組でした。それぞれの組には惣会所が置かれ、町人の中から選ばれた惣年寄によって、幕府からの触れの伝達や税金の徴収を行っていました。平野町のあたりに、北組の惣会所が置かれていました。

御堂筋に出ると御堂筋の西側に、御堂筋のランドマークである大阪ガスの建物がありました。昭和8(1933)年の建設。1.2階は黒い石貼り、上部は白いタイル貼りの建物です。国の登録文化財に指定されています。

御堂筋から西に入ったところから見た大阪ガスの建物です。

大阪ガスの南にあったのが、御霊(ごりょう)神社です。船場の奥様を”御寮はん”と呼ぶ船場言葉に通じるため、船場の人たちから”御霊さん””御霊はん”と呼ばれて親しまれているそうです。文禄3(1594)年、源正霊神(武勇に優れた鎌倉権五郎景政の神霊)を合祀し、寛文年間(1661~1673)に御霊神社と改名しました。

御霊神社の境内に「御霊文楽座跡」の碑が立っています。江戸時代、ここで操り人形芝居や女義太夫が上演されていました。明治17(1884)年、松島(西区)にあった4世植村文楽軒を座主とする「人形浄瑠璃文楽座」が大正15(1926)年に焼失するまで上演されていました。「文楽といえば御霊」といわれていたそうです。

御堂筋の名前の由来になった南北御堂の一つ、北御堂です。西本願寺津村別院。津村は、円江(つぶらえ)とよばれていたこの辺りが、後に津村と呼ばれるようになったからといわれています。蓮如が開いた石山本願寺が織田信長に敗れ大阪から撤退した後、慶長10(1605)年、西本願寺の准如(じゅんじょ)上人が完成させました。広大な堂宇だったので、江戸時代には朝鮮施設の宿舎となり、明治天皇の行在所としても使用されました。昭和20(1945)年の大阪空襲で焼失し、昭和39(1964)年鉄筋コンクリート造で再建されました。現在、本堂は回修中でした。

北御堂の南の本町三丁目の信号を越えると、有名なゆるキャラがおりました。伊予銀行です。愛媛県今治のゆるキャラ”バリーさん”です。

伊予銀行には、愛媛県のゆるキャラが勢揃いしていました。今治地方観光大使の”バリーさん”のほか、”えひめ南予観光PRキャラクター にゃんよ”と”愛媛県イメージアップキャラクター みきゃん”です。

その南、中央大通り、阪神高速の高架下に船場センタービルがありました。この辺りは、糸屋、縫物師、呉服屋が多かったところです。今も繊維関係の会社が並んでいるところです。

「1000メートルの散歩道」と名づけられた船場センタービル。繊維の卸問屋とファッション、グルメの街です。御堂筋を挟んで東西に広がっていました。

中央大通りを越えてすすむとすぐに南御堂、東本願寺難波別院に着きます。開基は本願寺12世、教如(きょうにょ)上人。石山本願寺が敗れて京都に移ったときに、父顕如(けんにょ)と対立し再び大阪に戻り、慶長元(1596)年、道修町に大谷本願寺を建立します。大谷本願寺は、2年後に現在地に移ってきました。しかし、大谷本願寺は、5年後、家康の寄進によって京都烏丸に移って行きます。これが、現在の東本願寺というわけです。このように、南御堂は東本願寺の前身という由緒ある寺院ということになります。空襲で焼失し、現在の建物は昭和36(1961)年に再建されたものといわれています。

「芭蕉翁句碑」が立っています。元禄7(1694)年、南御堂の前にあった旅館、花屋仁右衛門の奥屋敷で51歳で、芭蕉は死亡したそうです。花屋の跡といわれる南御堂前に「此付近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」の石碑があるそうです。句碑には、「旅に病んで 夢は枯野をかけ回る」の句が彫られています。

南御堂の南に難波神社がありました。本堂の西側にあった稲荷神社は「博労町のお稲荷さん」と呼ばれ親しまれているそうです。

稲荷神社の近くに、「稲荷社文楽座跡」の碑があります。稲荷社文楽座は、文化8(1811)年に2世植村文楽軒によって創設された文楽小屋で、この名前から現在の文楽になったといわれています。

中之島の南にある淀屋橋から本町を経て長堀通りまで、船場のビジネス街を歩きました。高層ビルが並ぶ御堂筋から少し脇にそれると、歴史のたたずまいを感じるところがたくさんありました。この先、御堂筋は、心斎橋、道頓堀などのミナミの繁華街の中を、難波に向かって行きます。

歴史を訪ねて御堂筋を歩く 梅田から中之島へ 

2013年04月13日 | 日記
4月のある日、大阪のメインストリートである御堂筋を難波に向かって歩きました。

御堂筋は、沿道に東本願寺の南御堂、西本願寺の北御堂があることからこう呼ばれています。
JR大阪駅から難波の高島屋前までの4,7kmの道路が続いています。幅43,2mあり、4列に並んだいちょう並木が両側の高層ビルと調和した美しい風景をつくり出しています。江戸時代のこの通りは、幅5,4m、長さ1,3kmだったそうです。現在の長さになったのは、昭和12(1937)年に、全国初の公営地下鉄(現市営地下鉄御堂筋線)を建設するために、幅を広げ、南北に延長する工事が完成してからです。

スタートはJR大阪駅でした。大阪駅南口は、百貨店の大丸やホテルも入居しているアクティ大阪となり、駅の北口には専門店が入った高層ビルもつくられて、大阪の玄関口にふさわしい近代的な駅舎になっています。

JR大阪駅のある地域は”梅田”と呼ばれています。私鉄の阪神電鉄や阪急電鉄、そして大阪市営地下鉄の梅田駅もあり、多くの乗降客や買物客が行き来する賑やかな地域です。江戸時代、現在の梅田地区のあたりは、泥田が広がっていました。”梅田”は、この泥田を”埋めた”からといわれています。

JR大阪駅の東にある阪急ビルです。JR大阪駅に負けない高層ビルが建っています。梅田地区が発展したのは、明治7(1875)年、大阪ー神戸間の鉄道が開通し、洋風の赤煉瓦つくりの大阪駅が誕生してからです。当初は堂島付近に駅をつくることになっていましたが、火災を心配する声に押され梅田地区に変更されました。当時の大阪駅は、現在よりも西に寄っていたそうです。また、現在の中央郵便局のあたりに、大阪駅東口があったそうです。”梅田すてんしょ”と呼ばれ多くの人々を集めました。ちなみに、大阪~神戸間の運賃は上等1円、中等70銭、下等40銭。40銭で米8升が買えた時代でしたので、かなりの高額でした。

JR大阪駅南口の前、阪急ビルの向かいに見える阪神百貨店。阪神電鉄の梅田駅があります。ライバルでしたが、今はH2Oホールディングの仲間同士。陸橋を渡り阪神の前から、御堂筋を歩き始めました。

すぐに、梅田新道の交差点に着きました。西北の隅のあったのが道路元標です。ここは、西日本の
道路の起点と終点になっており、国道1号線(東京へ、終点)、国道2号線(北九州市門司へ、起点)、国道25号線(四日市市へ、終点)、国道26号線(和歌山市へ、起点)、国道163号線(伊賀上野市へ、起点)、国道176号線(宮津市へ、終点)が分岐しています。交差点の前の道路は、ここから東に向かう方が国道1号線、西に向かう方が国道2号線になっていました。

近くにあった案内によれば、道路元標は、旧道路法の制定(大正8=1919年)によって、大正11(1922)年、中之島の大阪市庁舎前に設置されたのが始まり(それ以前は里程元標)だそうです。その後、新道路法の制定(昭和28=1953年)によって市内を走る国道の起点と終点が梅田新道に定められたのに伴い、昭和28(1953)年大阪市道路元標もここに設置されたようです。その後、道路元標は新しくなりましたが、黒御影石の銘板は昭和28年当時のものをそのまま使用したといわれています。

これは、少し大阪駅寄りから御堂筋の左(東)側を見たものです。ガラス張りの高層ビルの隣に、足立宝石店の建物(現在売却物件になっています)があります。その裏にあるのが、菅原道真を祀る露(つゆ)天神社です。

梅田新道の交差点を左(東)に向かって渡り露天神社に向かいます。菅原道真が九州大宰府に流される途中に立ち寄り、”露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思い出づれば”と詠んだことから命名されたといわれています。

露天神社は、元禄16(1703)年に竹本座で近松門左衛門の「曾根崎心中」が上演されて以後、「お初天神」と呼ばれるようになりました。「曾根崎心中」はその前月にあった、堂島新地の天満屋の遊女お初と内本町の醤油屋の手代徳兵衛が天神の森で心中した事件をモデルにしたものです。「曽根崎心中」は大ヒットし連日大入り満員を続けたといわれています。お初と徳兵衛の像が境内に建てられていました。当時はお初天神の裏には森が広がっていたようです。

足立宝石店の裏の通りがお初天神の参道でした。手前右にある交番の脇からお初天神に入ることができます。江戸時代の初期は、堂島川(旧淀川)から北は、お初天神と「曾根崎墓」が知られる程度の寂しいところでした。お初がいた堂島新地は、貞享(1684~88)年間、河村瑞軒が行った堂島川の治水工事により、堂島川とその北の蜆(しじみ)川間に生まれた新地で、蜆川の南岸に沿って色街ができていました。

再び御堂筋の西側に戻ります。西側から見たお初天神通りの商店街です。国道2号線を南に渡って、さらに進みます。

曾根崎新地に入ります。大阪を代表する高級歓楽街で知られる”北新地”の飲食店街です。曾根崎新地は、江戸時代の宝永年間(1704~11)に開発され、茶屋や風呂屋、泊り茶屋などが建ち並んでいました。享保16(1731)年、堂島新地に幕府公認の米市場ができたため、色街は蜆川を越えて曾根崎新地に移ってきて、”北の新地”の名で親しまれていました。歩いてみると、気軽に入れる居酒屋や飲食店も並んでいて、庶民的な街にもなっているようです。なお、堂島はその後、米市で全国に知られ、各藩の蔵屋敷が立ち並ぶようになっていきました。

御堂筋の東の通りにあった曾根崎變電所です。昭和11(1936)年の竣工。大阪市営地下鉄御堂筋線に電力を供給しています。御堂筋線は昭和8(1933)年に梅田・心斎橋間が開通した、日本初の地下鉄でした。右から書かれていること、「変」の次が旧字体だったことが、歴史を感じさせてくれました。それにしても、大都会のど真ん中といっていいところにある変電所に、少し驚きました。

さらに南に進みます。滋賀銀行梅田支店の南の隅に「しじみはし」と「蜆川跡」の銘板が建物の壁に埋め込まれていました。蜆川は、この先の堂島川(旧淀川)にかかる大江橋の東で堂島川から別れ、今の北新地本通りのあたりを流れて再び堂島川に合流していたといわれています。蜆橋は蜆川にかかっていた橋の一つでした。そして、明治42(1909)年、ドブ川になっていた蜆川は”キタの大火”で家のがれきで埋まり、その後埋め立てられ姿を消して行きました。

その先は堂島です。先に書いたように、江戸時代に米市が開かれ、各藩の蔵屋敷が並んでいたところです。左前方に、中之島にある大阪市役所の建物が見えます。地上11階、地下4階。どっしりとした印象を受ける建物です。 昭和61(1986)年の竣工です。

すぐに大江橋に着きます。堂島川にかかっています。大正13(1924)年、淀屋橋とのセットで公募されたデザインによって建設され、昭和10(1935)年淀屋橋とともに完成しました。幅36,4m(淀屋橋と同じ)、長さ81,6m。

重厚なアーチとバルコニーが目を引きます。その向こうは中之島。日本銀行大阪支店の建物が見えます。 さて、旧淀川は天神橋付近で堂島川と土佐堀川に別れ、西(下流)の船津橋付近で再度合流し安治川になります。この二つの川に挟まれた中州が中之島です。中之島を開拓したのは、淀屋常安でした。山城の国から大坂に出てきて材木商で財を成し、大坂城の落城後は市中に捨てられていた鎧や刀剣を処分する特権を得て、莫大な利益を上げました。その財力で中之島を開拓しました。中之島には、江戸幕府公認の米市が置かれてから、諸大名の蔵屋敷が立ち並んでおり、文化11(1814)年には41の蔵屋敷があったといわれています。

中之島にある日本銀行大阪支店です。明治15(1882)年に今橋(この先さらに南にある)で開業しました。そして、明治36(1903)年に現在地に移ってきました。そこは、かつて島原藩の蔵屋敷があったところで、明治初期には五代友厚(関西財界の重鎮)の別邸があったところです。辰野金吾がベルギーの国立銀行をモデルに設計したもので、緑青が美しい丸屋根をもつネオルネサンス様式の建物です。ちなみに、辰野金吾は日本銀行本店や小樽支店も設計しています。大阪支店は、昭和49(1974)年、国の重要文化財に指定されました。

日本銀行大阪支店の南東隅の植え込みの中に「駅逓司大阪郵便役所跡」の碑が建っています。

明治4(1974)年、前島密により、東海道に新式郵便が施行されました。それに伴い、東京、京都、大阪に郵便役所が、東海道の宿駅62ヶ所に郵便取扱所が設置されました。ここは、大阪の郵便役所が建てられていたところです。当時、郵便は、東京ー大阪間は78時間、大阪ー京都間は7時間かかっていました。しかし、利用料金が高かったこともあり、新式郵便の利用者は、初めの3日間でわずかに53人だったそうです。

さらに南に進み、土佐堀川にかかる淀屋橋を渡ります。写真は、光線の関係で、淀屋橋の南詰めから梅田方面に向かって写しました。淀屋橋は、前の大江橋と同じ昭和10(1935)年に完成しました。長さは大江橋より短い54,5mです。

淀屋橋の南詰めから土佐堀川に沿って少し下ったところにあった淀屋の碑です。江戸時代の淀屋橋は米市のために、淀屋が自費で架けたものです。淀屋は、大名の蔵米の販売を一手に引き受け、請われるままに幕府や大名に巨額の資金を貸し付けるなどその財力は群を抜いていました。しかし、5代目の広當(ひろまさ、通称辰五郎)のとき、闕所(けっしょ)となり、全財産没収と大坂四方所払いの処分を受けて没落しました。

淀屋の屋敷跡の碑です。淀屋の碑の右に建っています。財力を誇った淀屋の邸宅は、敷地一万坪、その中に、いろは四十八蔵が建ち並んでいました。この碑は、淀屋の荷上げ場があったところに建っていました。闕所になった淀屋は、その後、倉吉淀屋から後継者を迎えて復活し明治まで繁栄を続けることになりました。

梅田から中之島までゆっくりと、御堂筋の歴史を訪ねて歩きました。歩くだけなら30分もかからないで行ける距離でしたが、時間をかけて、今まで知らなかった多くの歴史を学びながら歩きました。 大阪の持つ歴史の重みを感じた旅でした。




マイントピア別子に行ってきました

2013年04月07日 | 日記

桜の花が満開の3月末の一日、バスツアーでマイントピア別子(べっし)に行ってきました。ツアーの仲間は35人。当然ながら高齢者が中心でした。しかし、男性の姿が多かったのはアサヒビール四国工場の見学がコースの中に含まれていたからでしょうか?

新居浜市郊外にあるアサヒビールの工場の見学と試飲をすませて、昼前にマリントピア別子に着きました。名前のとおり、かつての日本三大銅山の一つ、別子銅山の跡地にありました。

マイントピアは鉱山施設を生かした観光施設として知られ、道の駅にも指定されています。旧別子銅山の端出場(はでば)地区にあり、昭和5(1930)年から閉山した昭和48(1973)年まで、採鉱本部が置かれていたところです。建物の前に置かれていた仲持(なかもち)像です。元禄4(1696)年の開坑から、銅山で製錬した粗銅(あらどう)や鉱山に生きる人々の生活物資を、男性は45㎏、女性は30㎏背負って運搬した人々です。

(からみ)煉瓦です。製錬の過程で出てきた鉱滓を固めて、護岸や擁壁の材料として四阪島(しさかじま)製錬所(明治38=1905年創業)でつくられたものだそうです。

マイントピアの建物の中にあったキャラクターです。大きなしっぽがあったのでタヌキなのでしょうね。

マイントピア内に展示してあった「歓喜坑」の写真です。元禄4(1691)年に発見された最初の坑道。前途有望な鉱脈の発見に、関係者がこの坑口の前で抱き合って喜んだのでこの名がついたといわれています。別子銅山は、元禄4(1691)年、住友吉左衛門(友芳)が江戸幕府に開坑を願い出たことに始まります。元禄15(1702)年幕府から永代請負が認められてから、一貫して住友家の所有となり、これによって住友財閥の経済的基礎が確立したといわれています。閉山時には、住友金属鉱山の所有でした。開坑から閉山までの約280年間で、72万トンの銅を産出しました。

昼食です。うどんとちらし寿司でした。私には量がやや多かったようです。

食堂から見えた煉瓦造の建物。明治45(1912)年に完成した旧端出場水力発電所の跡です。大量生産に伴う電力の確保のために建造されました。登録有形文化財に登録されています。ドイツシーメンス社製の発電機や同じくドイツのフォイト社製のペルド水車が残っています。

食事を済ませてから時間があったので、近くにあった施設の跡を訪ねてみました。第4通洞跡です。大正4(1915)年に完成しました。まっすぐ進む4,600mの坑道で、その先の立坑(たてこう)で海面下の堀場につながっていました。銅鉱石や機械の運搬等に閉山まで使われました。

銅山川にかかるトロッコの鉄橋です。第4通洞から続いています。

第4通道の前にトロッコの線路跡が残っています。

山の中腹にあった大斜坑跡です。大斜坑は、昭和44(1969)年完成しました。先の第4通洞が立坑につながって降りていくのに対し、大斜坑は海面下1,000mまで斜めにまっすぐ掘られた坑道でした。その近くに、運びだした銅鉱石を貯めておく貯鉱庫も残っていました。

旧端出場の貯鉱庫の跡です。第4通洞から運ばれてきた銅鉱石はこの上で落とされ、ここに貯められていました。大正8(1919)年に完成しました。

マイントピアの建物の中に展示されていた鹿森住宅の写真です。鉱山で働く人たちの居住区です。

この石段が鹿森住宅につながっていました。

昭和12(1937)年に開坑250周年記念式典のためにつくられた接待館の一部で、平成3(1991)年にマイントピアの少し上に移築された、泉寿亭(せんじゅてい)です。茶室風の数寄屋造です。

13時35分に再びマイントピアに戻ってきました。鉱山鉄道の線路跡を利用した観光用のトロッコ鉄道で移動する時間です。蒸気機関車に牽引された列車が入線していました。

鉱山鉄道は、正式には「住友別子鉱山鉄道」。明治26(1893)年開業しました。旅客営業もしていましたが、昭和52(1977)に廃止されました。これは、明治26(1893)年、ドイツのクラウス社製の蒸気機関車(SL)です。当時、伊予鉄道の所有するSLとの2台だけだったようです。

現在は、気動車に改造されていました。伊予鉄道のSLも同じように気動車に改造され”坊ちゃん列車”を牽引しています。私は、かつて伊予鉄道のSLが道後温泉駅の近くで給油しているのを見たことがあります(2010年2月15日の日記)。

観光客が乗り込みます。この日は日曜日でしたので満員の乗客でした。座席は指定されてはいませんでした。

満開の桜に見守られての出発です。もちろん煙もなく”しゅっぽしゅっぽ”ではありません。

途中で、打除(うちよけ)鉄橋を渡ります。その後、すぐに中尾トンネルをくぐります。トンネルから出ると打除駅に着きます。

打除駅には、かつて坑道で使われていた機関車や車両が展示されています。

到着したトロッコ列車です。

打除駅から、徒歩で観光用の坑道に向かいます。

ツアーのお仲間です。観光用の坑道の入口です。

観光坑道の中です。模型と説明で、銅鉱石の採掘の様子を学ぶことができます。これは、のみとつちで、掘り進んでいた堀場の状況を再現したものです。


観光用の坑道を見学した後、私たちは、ガイドをしてくださる方とともに、東平(とうなる)地区に移動しました。東平地区は、端出場に移る前の大正5(1916)年から昭和5(1930)年まで、別子銅山採鉱本部が置かれていたところです。標高750mの高所にあり、昭和43(1968)年の東平の鉱山の閉山まで大変な賑わいをみせていたところです。

マイントピアの建物がある端出場地区から専用バスで移動しました。標高差600mを30分かけて、車の対向も難しいほどの細い道路を登っていきました。高所に鉱山で栄えた町があったということで、”東洋のマチュピチュ”というキャッチフレーズで観光客を集めているところです。

下車すると最初に入ったのが、東平歴史資料館です。

小マンプです。資料館から西の第3通洞方面に向かっていくと2つのトンネルがあります。その短い方のトンネルです。「マンプ」は、坑道を意味する「間符」(まぶ)から転じたといわれています。坑道の跡でした。

中は、坑道で使われていた機械が展示場されていました。

小マンプから引き返します。南斜面に煉瓦積みの建物跡がありました。東平貯鉱庫跡です。

第3通洞からの銅鉱石や索道(リフト)で運ばれてきた銅鉱石を一時貯蔵するために使われていました。 マイントピア内に展示されていた写真です。明治38(1905)年ごろに建設されました。

索道基地跡という案内がありました。銅鉱や日常品を運搬した索道(リフト)の停車場跡でした。

展示されていた明治39(1906)年の索道基地の写真です。端出場と東平とを結んでいました。

端出場から東平へ索道で運ばれてきた物資は、そこから急斜面につくられた軌道で引き上げられていました。インクラインです。現在は、そこに階段が220段つくられていました。そういえば、ツアーの募集のときに「220段の階段が歩けるような靴で参加してください」という条件がついていました。しかし、参加者はみんな元気です。かなりの高齢者もおられましたが、全員無事に上がって来られました。

”東洋のマチュピチュ” 別子銅山の跡地に行ってきました。ツアーでしたので、施設のすべてをゆっくりとまわることはできませんでしたが、ガイドさんのお話もあって、かつての様子がよくわかりました。劣悪な労働環境の中を働き続けた多くの人々の姿をしのびながら歩いた旅でした。

大阪城の巨石を訪ねて

2013年04月02日 | 日記
多くの観光客を集める大阪城。 観光客は大きな石積みに驚きます。
大阪城に入る枡形には、一枚36畳敷き、100トンともいわれる巨石が積まれているところもあります。現在の大阪城は、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、31の西国大名を動員して、元和6(1620)年から10年に及ぶ大工事を経て完成しました。巨石を積んだ石垣もこのときつくられました。

今回は、大阪城に残る巨石を探して歩くことにしました。

これは、大阪城内に掲示されている案内図です。これによると、大阪城に入るには東の青屋口、北西にある京橋口、正門にあたる大手口、東南にある玉造口の4つ道があります。

この日は京橋口から入りました。京橋門跡です。かつては正面両側にある石積みに高麗門がありました。

京橋門跡を過ぎると枡形。
その正面に巨石がありました。大阪城内第2位の巨石、肥後石です。高さ5.5m、幅11m余、表面積約54㎡。 推定重量140トンといわれています。ただ、奥行きというか石の厚さは、50cmとも90cm程度ともいわれています。かつて、この石は「加藤清正によって運ばれた」といわれていたので「肥後石」と名付けられたようです。大坂城の建築は、丁場(工事現場)を各大名に割り当てて進められており、京橋付近を担当した大名は岡山藩主池田忠雄でした。実際には、彼によって運ばれたのではないでしょうか。もっと早くわかっていれば「備前石」と名づけられていたと思いますが。讃岐(香川県)小豆島産の巨石だそうです。

京橋門跡の石の計測をしておられた「大阪城研究会」の方に、大阪城の石積みについて教えていただいてからスタートしました。 写真で黒く見えているところは、肥後石の下にあった鉄製のくさびです。江戸時代のものだそうです。巨石を安定させるために打ち込んでいるそうです。

京橋門内の枡形は緩やかに右へカーブを描くように曲がって舗装されていました。肥後石の右にあった「京橋二番石」です。城内第7位の巨石です。高さ3,8m余、幅11,5m、表面積 36㎡。重さは80トンともいわれています。これも、岡山藩主池田忠雄が担当しています。説明してくださった方のお話しでは「30年ほど前に新しい石と取り替えられた」ということでした。これにも黒いくさびが打ち込まれていました。

京橋跡の枡形の左側にあった「夜泣き石」です。「この石も大きいですね」とお尋ねしたら「夜泣き石」と教えてくださいました。

次は、西から外堀を渡り大手口から大阪城内に入ります。正面に大手門が見えます。寛永5(1628)年再建の高麗門です。国指定の重要文化財に指定されています。

大手門の左に見える(写真の右側にみえる)のが多聞櫓。多聞櫓は、土塁や石垣上に築かれた櫓で、その右側に直角に折れて接続する続櫓とで構成されていて、松永久秀がこの形式の櫓を初めて築いたといわれています。この多聞櫓は高さ14.7mで最大規模のものだそうです。嘉永元(1848)年に再建された国指定の重要文化財です。さらに左に千貫櫓が見えます。立派な石垣の上にそびえています。

大手門内の枡形は左に曲がって多聞櫓から城内に入ります。ここにも巨石があります。

正面にあったのが見付石です。高さ5m、幅11m、面積約48㎡(29畳敷き)。推定重量約108トンといわれています。大手門付近は肥後熊本藩主加藤忠広の担当でした。加藤忠広はあの築城名人といわれた加藤清正の三男として生まれ熊本藩を継いだ方です。しかし、この後の寛永9(1632)年には参勤交代の途中で改易され、出羽庄内藩主お預けとなる数奇な人生を送った方でした。見付石は、大坂城内第4位の巨石です。

見付石の左、多聞櫓寄りにあったのが、大手二番石です。大阪城内第5位の巨石です。高さ5,3m、幅8m、面積約38㎡、推定重量約85トン。讃岐小豆島産だそうです。これも加藤忠広が担当したものです。先ほどの研究会の方のお話しでは、「見付石を縦に二つに切って、その前側の部分を、本のページを開くようにして左に貼り付けたのだ」ということでした。そのとき一部を切り取ったので、見付石よりやや小さくなったのだそうです。

大手三番石です。大手正面の見付石の右側にありました。城内第8位の巨石で加藤忠広が築いたものです。高さ4.9m、幅7.9m、面積約35㎡。推定重量約80トンの大きさだそうです。大手門の巨石はすべて加藤忠広が築き、後に筑後久留米藩主有馬豊氏が改築したものだそうです。

多聞櫓を入ると左手に千貫櫓が見えます。どっしりとした重量感のある2層の隅櫓です。多聞櫓と同じ嘉永元(1848)年の再建です。織田信長が、この地にあった石山本願寺との11年に渡る戦いのとき「これを落とした者に千貫与えても惜しくない」と言ったことに由来しています。 そこで右に曲がって進みます。西の丸庭園の券売所を左に見ながら右に進み、外堀の面して建つ六番櫓の裏側を見て左折します。

左側にある空堀とその先にある桜門です。

空手の試合が行われていた修道館の先を左折して、正面にある桜門に向かって空堀を渡ります。
桜門の左の巨石が虎石、右が竜石です。どちらも岡山藩主池田忠雄の担当でした。虎石は高さ2,7m、幅6,9m、面積18㎡、推定重量40トン。竜石は高さ3,4m、幅6,9m、面積約18㎡、推定重量52トンあります。大阪城内で虎石は11位、竜石は10位の大きさです。

桜門をくぐると、正面に蛸石(たこいし)があります。大阪城内最大の巨石です。高さ5.5m、幅11.7m、面積60㎡弱(畳36畳敷き)。備前犬島産の花こう岩で、推定重量130トンといわれています。岡山藩主池田忠雄が運搬したものでしょう。

「蛸石」の名前は、巨石の左下にある蛸のような模様に由来しています。花こう岩に含まれる鉄分が酸化してできたようです。たくさんの観光客が立ち止まり鑑賞していました。

蛸石の左にある四角の巨石、碁盤石です。囲碁に使用する碁盤からつけられました。大阪城内第6位の巨石です。高さ5,7m、幅6.5m、面積36,5㎡で推定重量82トン。備前沖ノ島産だそうです。備前沖ノ島は、岡山県笠岡市の沖にある北木島とも考えられているそうです。

蛸石に向かって左手にある振袖石。着物の振袖に似ていることから名づけられました。高さ4,2m、幅13,5m、面積約54㎡、推定重量120トンといわれています。備前犬島産だそうです。桜門の枡形は備前藩主池田忠雄の丁場であり、碁盤石とともに振袖石も池田忠雄の運搬になるものでしょう。

蛸石の右にあるのが、烏帽子(えぼし)石。烏帽子は元服した男子がつける袋形のかぶりものです。形が似ているのでつけられたのでしょう。これも池田忠雄の担当でした。

これは、山里丸の刻印広場にある城つくりを担当した大名の刻印の一覧です。石積みに使われた石はすべて花こう岩ですが、大阪城の近くには産出場所はありませんでした。産地は小豆島(全島花こう岩でできています)と犬島でした。担当した大名はどのようにして100トンもあるような花こう岩を運搬したのでしょうか。岡山藩や熊本藩には記録が残っていないようです。唯一残っていたのが、筑前黒田藩の記録でした。

切り出しから海岸まで、大阪から石積場までの陸路は修羅(しゅら)を使いました。太さ4~5寸(1,2m~1,5m)の硬い木を格子状に組んで梯子状の枠木の上に石を乗せ、修羅の下には丸太を置いて引いていたようです。

瀬戸内海の島々から大阪城までは海路で運ばれました。大きな筏(いかだ)をつくり、その下に綱で吊り下げて運んだそうです。筏の周囲には空樽などを浮かべて浮力を増していたそうです。

海が荒れるとたびたび転覆したり沈没しました。大阪に入ってからの川筋でもよく沈没事故が起きています。川底に落ちた巨石で底が浅くなって水運が停滞し商業に支障をきたしたこともあったそうです。大阪城で目に見えているところの石だけで50万個の石があるそうですが、石積みに使われる前に、運搬の途中で沈んだ石もたくさんあったようです。運搬には大変な苦労があったのですね。