トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

鉄道連絡船の駅、南海電鉄和歌山港駅

2018年12月19日 | 日記

和歌山港から出港する南海フェリーの「フェリーかつらぎ」(2,620トン)です。イエローの地にオレンジの2本のラインが鮮やかです。側面の”NANKAI”もどこか誇らしげです。全長108メートルで、8トントラック39台、旅客427人を輸送する能力を持っています。平成11(1999)年から就航しており、紀伊水道の対岸にある徳島港までを、約2時間で結んでいます。

電車が発着する南海電鉄和歌山港駅のホームから見た和歌山港の桟橋です。遠くて見えにくいのですが、「フェリーつるぎ」(2,604トン)が着岸しています。薄いグリーンの地にオレンジの2本のラインは「フェリーかつらぎ」と色こそ違いますが、同じデザインです。全長108メートルで、8トントラック39台、旅客427人を輸送することができます。同じ臼杵造船所で製造された姉妹船といっていい存在です。こちらは「フェリーかつらぎ」よりも2年早い、平成9(1997)年に就航していますが、2019年度末の新造船の導入により引退することになっています。現在、2隻のフェリーで1日9往復(深夜便の1往復は休航中)運行されています。

南海フェリーの和歌山・徳島航路は、”南海四国ライン”と呼ばれています。フェリーを運行している南海フェリーは、昭和50(1975)年に設立され、和歌山・小松島航路(和歌山港~小松島港間)の運行を引き継ぎました。そして、平成11(1999)年4月には航路を和歌山・徳島間に変更し、10月には「フェリーかつらぎ」を就航させました。昭和60(1985)年に、小松島港への旅客輸送を担っていた国鉄小松島線が廃止されるまでは、小松島側でも鉄道連絡線が運行されていました。写真は、南海フェリーの「南海四国ライン 和歌山港フェリーターミナル」です。乗船客は乗り場への連絡通路を通って、待合室の中にある乗船口に向かうようになっています。

南海本線の孝子(きょうし)駅から乗車した「普通車」(南海電鉄の普通列車の呼び方)が、終点の和歌山市駅に着きました。この日は、鉄道連絡線の和歌山港線和歌山港駅を訪ねることにしていました。

到着した和歌山市駅の「6番のりば」です。線路の先には車止めがあり、その先にある「7番のりば」にも電車が停車していました。この列車が和歌山港行きの電車でした。和歌山港線は、昭和31(1956)年5月に和歌山市駅~和歌山港駅(後の築港町駅)間、2.3kmが開通したことに始まります。そして、当時盛んだった木材輸送のため、昭和46(1971)年に水軒(すいけん)駅まで延伸開業(全長5.4km)されました。しかし、延伸開業したときには、木材輸送はすでにトラック輸送に切り替わっており、和歌山市駅から水軒駅にまで行く旅客列車は、朝夕2往復だけの運転でした。

和歌山港線は、平成13(2001)年からワンマン運転になっています。2251号車と2201号車の2両編成の電車が、単線・電化区間の和歌山港駅に向かって出発しました。和歌山港線が水軒駅まで開業したとき、和歌山港は現在地に移設され、合わせて現在地に和歌山港駅も移設されました。それに伴い、それまでの和歌山港駅は築港町駅に改称されることになりました。

平成17(2005)年5月に和歌山港駅~水軒駅間2.6kmが廃止され、11月には、途中駅だった久保町駅、築地橋駅、築港町駅も廃止されて、現在の和歌山港線になりました。

和歌山市駅からは2.8km。発車して5分ぐらいで、終点の和歌山港駅の海寄りの2番ホームに到着しました。線路の先に車止めが見えます。これを見ると、わずか2.8kmでしたが、遠くまでやってきたと感じてしまいます。この線路は、開業当初からここで行き止まりになっていました。

1面2線の島式の長いホームが広がっています。どっしりとしたホームの上屋も・・。ホームは地上3階部分にあります。改札口は階段を下った2階部分にあります。

山側の1番ホームの下には集落が広がっています。和歌山港駅のあるところは、和歌山市薬種畑だそうです。紀州和歌山藩の薬種畑があったところなのでしょうか?

時刻表です。和歌山港線の電車は13本運行されています。特急”サザン”や急行も運行されていますが、和歌山市駅にはすべての列車が停止するようになっています。特急”サザン”に乗れば、和歌山港駅から65分でなんば駅に着くことができます。

ホームの和歌山市駅側です。乗車してきた2両編成の電車は、和歌山市駅に向かって出発して行きました。

ホームの和歌山市駅側の端から見た南海フェリーの「和歌山港フェリーターミナル」です。そこから港に向かって、連絡通路が延びているのが見えます。

3階のホームから降りて、2階の改札口を出ました。和歌山港駅は無人駅になっていますが、南海フェリーのスタッフが案内に立っておられます。この日は女性スタッフの方でした。

改札口の前にあった「案内」です。改札口を出た左側には地上に下りる階段があり、バス・タクシーのりばにつながっています。南海フェリーの乗船口へは、右側に向かって連絡通路を進んで行くことになります。

途中の窓から見えた連絡通路です。建物の2階部分に、フェリー乗り場に向かって設けられていました。

連絡通路を進みます。このあたりから、先ほどホームから見た「和歌山港フェリーターミナル」の裏側になります。

”動く歩道”も設置されていました。

その先が、旅客用の待合室です。中に乗船口もありました。また、トイレがあり、自動券売機、飲物の自動販売機、ベンチ、テレビが置かれています。徳島港まで、2,000円でした。この日は平日の午後でしたが、20人ぐらいの方が、”フェリーかつらぎ”の乗船を待っておられました。旅客は減少傾向にあり、特に、平成10(1998)年の明石海峡大橋の開通以後は、旅客の落ち込みが激しくなったそうです。

”フェリーかつらぎ”の出帆を見ようと、待合室のエレベーターで地上に下りました。しばらく右(南)方面に歩き、乗船する自動車の駐車場に入ります。

13時40分、定時に”フェリーかつらぎ”が出帆していきました。

自動車の搭乗口に行くために引き返します。駅からの連絡通路と待合室のある建物です。

その脇にあった自動車の搭乗口です。フェリーが出発した後でしたので、閑散としていました。ここから、駅に向かって引き返します。

フェリー前交差点です。多くの車両が行き交う交通量の多い交差点でした。写真の中央には和歌山港駅のホーム、右側には「和歌山港フェリーターミナル」建物が見えます。その前は駐車場になっています。

フェリー前交差点を和歌山港駅の側に渡り、右に進みます。

連絡通路の下をくぐると、左側に和歌山港駅が見えました。

和歌山港駅の下まで、戻ってきました。

駅舎の下から見たホームの上屋です。和歌山港線は、平成14(2002)年5月26日に、この先の水軒駅までが廃止されています。その廃線跡が気になりました。

これは、和歌山港駅の山寄りの1番ホームの旧水軒駅方面です。昭和46(1971)年に水軒駅まで延伸開業したときから、この線路だけが水軒駅につながっていたそうです。

その先に車止めがあり、線路も途絶えています。

車止めの先にもかつての線路跡が残っているように見えます。

下から見た和歌山港駅のホームの端です。手前の2番ホームの車止め付近を撮影しました。その向こう側に廃線跡が残っています。

その先のようすです。駅の先には「花王」工場の西門がありました。工場への入口のアンダークロスの左右にバラストらしきものが見えます。下からは線路は確認できませんでしたが、線路跡が残っていると感じました。

線路跡らしきところは、その先も、旧水軒駅の方に向かって続いていました。

和歌山市と徳島市の二つの県庁所在地を2,000トン級のフェリーが結ぶ”南海四国ライン”。大阪のなんば駅から特急”サザン”に乗車し、終点の和歌山港駅で、”南海四国ライン”に乗り継げば、なんば駅から徳島港まで行くことができます。南海四国航路連絡列車が走る和歌山港線は、日本でも唯一といっていい鉄道連絡線でした。和歌山港駅から和歌山港まで続く長い連絡通路には驚かされました。機会をみて、旧水軒駅までの廃線跡と、廃止された途中駅(久保町駅、築地橋駅、築港駅)跡を訪ねてみたいと思いました。

貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(3)

2018年12月13日 | 日記
大阪市貝塚市は寺内町として知られています。寺内町は室町時代から江戸時代にかけて、浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。防御のために壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。貝塚寺内町は、浄土真宗願泉寺を中心にした寺内町でした。

願泉寺です。これまで、寺内町の面影を求めて、中心寺院の願泉寺から寺内町に残る登録有形文化財の商工業者の邸宅を訪ねて来ました。

これは、観光案内所でいただいたマップに、ルートを書き込んだものです。中心部を左右(南北)に引かれた太線が紀州街道。青いマークのラインが、現在の府道堺阪南線、赤いマークのラインは、貝塚市立北小学校からこれまでに歩いた経路とこの日歩いた経路です。この日は、マップの左側にある紀州口から卜半(ぼくはん)家墓所まで歩いてきました。

紀州街道が、貝塚寺内町の南の境である清水川にぶつかるあたりは紀州口と呼ばれています。寺内町への南の入口にあたるため、多くの旅籠が軒を並べていました。紀州和歌山藩の参勤交代に使用された本陣もこの地に置かれ、旅籠町と呼ばれていました。清水川に架かる清水橋のほとりに建つ清水地蔵堂です。今回は、ここからスタートしました。

紀州街道を大阪方面に向かって歩きます。

「はんと印刷」と書かれた看板のあるお店の前で、府道堺阪南線に合流しました。正面に「村雨」の看板のある和菓子のお店が見えます。

府道の向こう(東)側に、上善寺が見えました。

府道の東側から、大阪方面を撮影しました。目の前に「貝塚南町郵便局前」の標識が見えました。いただいたマップに見える鍵方に曲がっているところ(枡形)は、このあたりにありました。その先に、貝塚中央商店街の入口にある横断陸橋が見えます。

先ほど姿が見えた上善寺を訪ねることにしました。貝塚中央商店街の一つ手前の通りを右折しました。通りの入口に小さな祠がありました。

祠を過ぎて進みます。狭い通りの最初の四つ辻を右折して進みます。

府道から見えた浄土宗上善寺です。右折した辻まで引き返し、さらに先に進みます。途中から急な登り坂になりました。これまで歩いてきた堀之町筋(堀之町通)の利齋(りさい)坂や北小学校の玄関の先にあった石段と同じ段丘に上っていきます。

段丘の上にあった妙泉寺です。貝塚市内唯一の日蓮宗寺院です。もとは、岸和田市内にありましたが、慶長3(1598)年にこの地に移ってきました。現在の本堂は、文化3(1806)年に再建されたものだそうです。

妙泉寺から、北に向かいます。このあたりは近木(こぎ)町。感田神社の夏祭りに練り歩く近木太鼓台の格納庫です。7月の夏祭りには、2人の叩き手を乗せた7基の太鼓台が威勢よく掛け声をかけながら町内を練り歩くそうです。

南側から貝塚中央商店街に入りました。右折して、伝統的な商店街を南海電鉄貝塚駅方面に向かって進みます。左側に「要眼寺参拝者駐車場」の看板が見えました。その先の「ヤマハ」の看板のあるお店の角を左折します。

要眼寺です。貝塚寺内町は、慶長5(1600)年、願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家の私領になることが、徳川家康によって認められました。現在、貝塚市立北小学校があるところに卜半役所を設置し、寺僧と呼ばれる五ヶ寺が願泉寺の檀家を預かるとともに、家来として町政を担っていました。要眼寺は、満泉寺、正徳寺、泉光寺、真行寺(今はありません)の4ヶ寺とともに寺僧として町政にもかかわっていました。

「卜半家墓所」とマップに書かれていましたので、訪ねて見ることにしました。要眼寺の前の通りを北に向かいます。マップで確認すると、この先の中之町通(通称「なかんちょ通り」)を隔てた向こう(北)側に、寺僧の他の4ヶ寺がありました。写真の前の建物手前を右折して進みます。

次の左右の通りを右折、すぐ左折して写真の向こう側に進みます。突きあたりの左側に入口がありましたが、入っていいのかどうかわかりません。ご近所の方にお尋ねしますと、「鍵がかかっているでしょう? 今は閉めていますよね」ということでしたので、お詣りすることはあきらめました。

入口のドアから撮影しました。塀で仕切られていて、見える範囲はこの程度でした。

貝塚中央商店街に戻って駅に向かいました。写真は駅側から見た商店街の入口です。南海電鉄貝塚駅に戻ってきました。

貝塚寺内町を一回りしてきました。貝塚寺内町は、国の重要文化財や登録有形文化財の建築物の宝庫でした。東西550メートル、南北800メートルという比較的小さな寺内町でしたが、見どころが多く、一回りするのに多くの時間がかかりました。しかし、ていねいにつくられたマップやパンフのおかげで、楽しい町歩きになりました。







貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(2)

2018年12月12日 | 日記
大阪市貝塚市は寺内(じない)町として知られています。寺内町は、室町時代から江戸時代初期にかけて浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。貝塚寺内町は浄土真宗、願泉寺を中心に成立、発展してきました。

前回は、貝塚市内で唯一周壕の遺構が残る感田神社と、中心寺院の願泉寺や町政を担った寺僧の寺院を訪ねて来ました。今回は、寺内町に残る商工業者の邸宅跡を訪ねて歩くことにしました。

前回と同じように、観光案内所でいただいた「貝塚寺内町登録有形文化財マップ」を手に寺内町を歩きました。マップにある、国の「登録有形文化財」に登録されている邸宅のうち、並河家、山田家、竹本(久男)家、利齋(りさい)家は前回訪ねてきました。今回は、それ以外の七家を訪ねるつもりでした。

貝塚市立北小学校からスタートしました。北小学校は、かつて、この地を支配した願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家の政庁、「卜半役所」が置かれていたところです。小学校の正門前の通りは「御下筋(おしたすじ)」と呼ばれていました。御下筋を、地図の右(北)に向かって歩きます。

すぐに、前回訪ねた利齋(りさい)家の前の通り”堀之町筋”(堀之町通)を横切り、利齋家の土蔵の脇を北に進みます。利齋家では代々当主は「孫左衛門」を名乗り、江戸時代には薬種問屋を営む傍ら、北町の惣分年寄をつとめていました。寺内町には、中之町、北之町、南之町、西之町、近木(こぎ)町の五町がありました。それぞれの町には町会所が置かれ、年寄などの町役人がつとめていました。利齋家は17世紀の建物といわれ寺内町最古の町屋といわれています。国の登録有形文化財です。

利齋家から北に進んだところにあった岡本家の邸宅です。貝塚寺内で発展した代表的な産業は、廻船業と鋳物業、そして、特産の和泉櫛をつくる櫛挽(くしびき)だといわれていますが、江戸時代の中期以降木綿を扱う店も増えていったそうです。岡本家は、屋号を「唐津屋」といい、当主は代々「市郎兵衛」を名乗っていました。江戸時代には北之町の町年寄をつとめており、家業の醤油醸造業を、昭和30年代(1955~1965年)まで営んでいたそうです。主屋は江戸時代中期の建物といわれ、国の登録有形文化財に登録されています。

岡本家の先で、東西の通りを左折します。写真は、右折した正面にあった「堀之町太鼓」の格納庫です。寺内町の産土神(うぶすなかみ)である感田神社の夏祭りに行われる”御輿渡御(みこしとぎょ)”の太鼓台を納めています。左折して西に進みます。

10メートルぐらいで、かつての紀州街道である府道堺阪南線の北町(きたちょう)交差点に入ります。紀州街道は紀州和歌山藩の参勤交代の道でした。当時よりかなり拡幅されています。すき家の脇を右(大阪方面)に折れ、大阪方面に向かって進みます。

府道の右側に、ブルーシートに覆われた邸宅がありました。被災されているようです。宇野家です。本家で鋳物業を営んでいた「金屋長右衛門」(屋号)から分家して、江戸時代には製粉業を営んでいました。明治20(1887)年頃に、本家の居宅と家業を引き継いで、屋号を「金屋茂兵衛(かなやもへい)」と名乗り、鋳物業で栄えました。少し先にある土蔵のあたりから、振り返って撮影しました。国の登録有形文化財です。

やがて、府道が緩やかに右カーブするようになると、堀新の交差点になります。ここで、府道から左に分岐している通りがあります。この通りがかつての紀州街道でした。

かつての紀州街道に入ります。通りには、往事の雰囲気を残す建物も残っていました。

紀州街道を引き返して、堀新交差点まで戻りました。堀並橋の下に小さな川が流れています。寺内町の北の境になっている川でした。どっしりとした和風の建物の脇を流れる北境川です。大阪湾に向かって流れています。

こちらは、東側の北境川です。改修工事がなされていましたが、かつては、寺内町の防御のため、壕と土塁がありました。

大阪湾側の北境川の脇にあった尾食(おめし)家の主屋です。紀州街道が北境川とぶつかるこのあたり、現在の北町・堀三丁目付近は、寺内町への上方(大阪)側からの入口にあたるところから、「上方口」と呼ばれていました。また、周辺の地域は「二軒屋町」と呼ばれ、旅籠が軒を連ねていたそうです。尾食家も、江戸時代を通じて旅籠屋や両替商を営んでいました。幕末には、干鰯(ほしか)等の魚肥の販売や、木綿の仲買なども行っていたそうです。主屋は、天保10(1839)年に建てられ、国の登録有形文化財に登録されています。

寺内町の北の入口、北境川から紀州和歌山方面に向かって引き返します。先に見てきた宇野家が進行方向左側にありました。広い敷地に建てられていました。

「マップ」上に黒く引かれたラインは、紀州街道です。紀州街道は、通ってきた岡本家の上(西)のあたりで鍵形に曲がっています。枡形(ますがた)になっていました。

枡形のあるところは、先に上方口に行くために右カーブしたすき家のあった交差点付近にあたります。このあたりが枡形になっていたところのようです。

すき家のあった北町交差点を過ぎると、その次は北町南交差点です。通りは「堀之町筋(堀之町通り)」です。和風の建物の向こう側に利齋家の土蔵があります。右側の読売新聞・読売旅行の入るビルの向こうには北小学校がありました。

北町南交差点で右折して西に向かいます。通りは舗道になっており、「貝塚寺内町めぐり道」の銘がはめ込まれています。その先右側にある駐車場の手前を左折して、府道と並行した通りを進みます。

左側の駐車場越しに見えた北小学校です。

次の四つ辻の右にあった西町の竹本(章次)家。江戸時代末期に建設された主屋は登録有形文化財になっていますが、一部2階建ての部分が増築されているような印象でした。元の所有者の手を離れたときに改装されたようです。マップの説明では、江戸時代の「住人の職業は不明ですが、その建築構造から願泉寺卜半家の家来屋敷であった可能性がある」そうです。

竹本(章次)家の次の四つ角は、寺内町の中之町通(通称なかんちょ通り)、現在の西町海塚麻生中線です。横断します。貝塚寺内町の通りは、紀州街道が拡幅された府道堺阪南線と中之町通りを除けば、かつての通りがそのまま残っているそうです。

その先にあった吉村家です。厨子2階建ての主家はピンク色に塗られています。江戸時代には「泉久(いずきゅう)」という屋号で油屋や両替商を営む傍ら、西町の中老役をつとめていたそうです。主屋は、江戸時代中期から末期にかけて建てられたもので、登録有形文化財に登録されています。

吉村家の先の四つ辻です。右折して西に向かって進みます。

左側に間口も奥行きも広い、平入り、黒漆喰塗りの厨子2階建ての重厚な建物がありました。廣海(ひろみ)家の主屋です。天保6(1835)年に北前船の廻船問屋を開業しました。主に、肥料問屋として干鰯等を扱っていました。倉の2階に望遠鏡を備え(「めがね倉」というそうです)、港に入る廻船の種類を見分けていたといわれています。

さらに西に進み、振り返って撮影した廣海家です。明治時代中期に廻船問屋から撤退した後は、肥料を扱っていたといわれています。

廣海家の西にある四つ辻で、舗道の「貝塚寺内町めぐり道」が終わりになりました。そこで、左折、次の三差路を再度左折して、廣海家の裏側を東に向かって歩きます。廣海家はこのブロックの大半を敷地にしていたようです。

マップです。次は、名加家をめざして歩きます。吉村家からまっすぐ南に向かう通りに出て、さらに南に進んでいくことにしました。

廣海家の裏側の通りを歩いて、吉村家から南に向かう通りに戻りました。さらに南に向かいます。その先の四つ辻を左に向かうと紀州街道沿いに・・・

「村雨 塩屋堂」の看板を掲げたお菓子屋さん「(株)塩五」があります。観光案内所でいただいたパンフ「ぴたっと貝塚」には「口当たりよく、もちもち感があって甘さ控えめな小豆の蒸し菓子」で「貝浦の村雨にちなんで名づけられた由緒ある和菓子」だそうです。

吉村家から続く通りに戻ります。通りはその先で細い路地のような道になります。さらに南に進み、四つ辻の右前の向こうに黄色い壁のお宅がありました。そこで右折しました。南町になりました。

菊の花がきれいな名加(なか)家の邸宅です。江戸時代から大正年間(1912年~1925年)まで、貝塚の名産である黄楊(つげ)櫛の卸問屋を営んでいました。「ぴたっと貝塚」には「黄楊櫛(和泉櫛)は静電気を抑え髪や地肌にやさしく、素朴な手触りと使い込むほどになじむ質感が最高の伝統工芸品です。11世紀の発祥とされ、匠の技は代々受け継がれ生産量は日本一を誇っている」と書かれていました。 名加家の主屋は、江戸時代中期から後期にかけて建てられたもので、登録有形文化財に登録されています。

名加家から、黄色い壁のお宅のあるところに戻ります。さらに南に進みます。四つ辻の角に吉原地蔵堂があります。さらに進むと、鍋谷工務店のビルがあります。その前を右斜め前に進んで行きます。

その先に、小さい橋がありました。下を流れるのは清水川。ここが寺内町の南の境になります。この先は海塚(うみづか)三丁目です。

こちらは右(下流)側です。寺内町の防御のためにつくられた壕にあたる清水川と土塁があったところです。

その先にあった浄土宗寺院の龍雲寺です。貝塚市内で唯一の尼寺だそうです。

龍雲寺の前は「海塚(うみづか)町墓地」になっています。貝塚寺内の墓地にあった説明板には「慶安元(1648)年の『貝塚寺内絵図』の中にも記載されている。江戸中期につくられた墓石も多い」と書かれていました。

墓地内の六観音には、安永6(1756)年の銘があるそうです。

岩橋善兵衛の墓です。「案内板」には「岩崎善兵衛は、宝暦6(1756)年生まれで、レンズ磨きを営む傍ら蘭学を学ぶ。寛政5(1793)年『窺天鏡(きてんきょう)』と呼ばれる望遠鏡を制作した。伊能忠敬の日本沿海測量の時にも用いられた」と書かれていました。善兵衛の法名は「釈義天」でした。

墓地から出て、清水川の手前を右折して東に向かって歩きます。10分ぐらいで南北の通り、紀州街道にぶつかります。

紀州街道を左折して大阪方面に向かって歩きます。すぐ先のポストのそばに清水橋がありました。下には海塚町墓地の手前にあった清水川が流れていました。紀州街道が清水川にぶつかる辺りは「紀州口」と呼ばれていました。また、その周辺の現在、南町や海塚三丁目の地域は「旅籠町」と呼ばれ、旅籠が軒を並べていました。紀州和歌山藩の本陣も、このあたりに置かれていたそうです。

清水橋から見た清水川です。小さな流れになっています。

清水地蔵です。ご近所の方々が管理しておられるそうです。

今回は、寺内町の町政を担っていた卜半役所から、寺内町の北の境から南の境まで、寺内町で栄えた商工業者の邸宅の跡をたどりながら歩いてきました。前回訪ねた邸宅を含め、寺内町にあった登録有形文化財の11家をすべて訪ねることができました。
次回は、残る寺内町の面影をたどって、紀州口から歩くことにしています。