トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

石屋川の上にある阪神電鉄石屋川駅

2016年01月30日 | 日記
阪神電鉄が走る神戸市から尼崎市にかけては、鉄橋の上にある駅がいくつかあります。その中の一つ、西宮市と尼崎市の境にある武庫川駅は、すでに訪ねて来ました(「阪神電鉄武庫川線(1.7km)に乗って、阪神鳴尾球場を訪ねる」2016年1月4日の日記)。武庫川駅は武庫川の両岸に跨るホームが広がる大きな駅でした。

この日は、武庫川駅ほど大きな川ではありませんが、石屋川の上にある駅、阪神電鉄石屋川駅を訪ねることにしました。

阪神電鉄神戸三宮駅から、梅田駅行きの普通列車で新在家駅を過ぎ、右側にある石屋川車庫を過ぎると、その先に阪神電鉄石屋川駅はありました。石屋川駅は高架上の駅。その下を石屋川が流れています。

乗って来た”青胴車”は、すぐに、次の御影駅に向かって出発していきました。阪神電鉄石屋川駅は、明治38(1905)年4月12日、阪神電鉄本線の開通と同時に開業しました。開業から111年目に入っています。

高架上のホームから神戸三宮駅方面を撮影しました。1面2線のホーム。右側のホームに梅田駅方面行きの電車が停車します。阪神電鉄で1面2線の島式ホームは、石屋川駅以外では、元町駅があるだけだそうです。

椅子のようなものがホームにありました。日当たりのいい明るい駅に、よく似合っています。

梅田駅方面行きの電車が停車するホームの中央部分から見た北側の風景です。

護岸工事がなされている石屋川が見えました。確かにホームの下を流れています。

ホームから見た南側、石屋川の下流方面です。遠くに阪神高速神戸線の橋梁が見えます。どうも、石屋川駅は「石屋川の上にある駅」というよりは、「駅の下の1部に石屋川が流れている」というのがふさわしいようです。

このとき、神戸三宮方面行きの電車が通過していきました。

列車がやってきた先には、次の御影(みかげ)駅がかすかに見えています。ゆるく右にカーブしているようです。

ホームからの降り口は、北側に1カ所だけ。階段を下ります。高架上から地上部分におります。

階段を下った右側にあったトイレ。お借りしましたが、清潔で美しいトイレでした。職員はおられなかったようですが・・・。

自動改札口を出てから、振り返って撮影しました。1日の平均乗降人員は5602人(2010年度)いらっしゃっるようです。高架下にある駅舎です。駅舎内の売店らしきところは、シャッターが閉まったままでした。

外から見た駅舎です。少し、窮屈そうな印象です。石屋川の東岸の道路も高架のホームの下をくぐっています。

これは、駅舎にあった石屋川駅周辺の地図です。石屋川駅の南部一帯は、酒造業がさかんな”灘五郷”で知られている地域です。

神戸市東灘区御影石町二丁目に石屋川駅はあります。岩屋駅、大石駅、岩屋川駅と石にかかわる駅が並んでいます。そして、このあたりが御影石町。御影石(花崗岩)にかかわる町だったのでしょうか? どうやらそうではなく、古代、このあたりに「澤之井」という泉があり、神功皇后がその水面に姿を映したことに由来する地名のようです。

駅周辺には静かな住宅地が広がっています。駅前に喫茶店がありましたが、他にはお店は見えませんでした。神戸三宮方面行きの普通列車が入ってきました。

石屋川は、静かな住宅地にふさわしく、駅の中央を静かに南に流れていました。


旧南海電鉄平野線の面影を求めて

2016年01月16日 | 日記

旧南海電鉄平野線の平野駅があった大阪市平野区平野本町にある公園を訪ねることにしました。
南海電鉄平野線は、大正3(1914)年に阪堺電気軌道の平野支線(軌間1435ミリ)として開業しました。阪堺電気軌道の今池電停から分岐し、現在の阪神高速松原線に沿って進み、平野電停まで行く5.9kmの複線の路線でした。当時の今池電停は、現在の阪堺電気軌道の今池電停から100mぐらい南にあったといわれています。その後、大正4(1915)年から阪堺電気軌道が南海電鉄と合併したため、南海電鉄平野線となりました。昭和55(1980)年に廃止されるまで、66年間に渡って旅客輸送に活躍した路面電車でした。

地図を見ると、南海電鉄高野線の帝塚山駅から東に向かうと阪堺電気軌道、大阪市営地下鉄御堂筋線、JR阪和線、大阪市営地下鉄谷町線、そして近鉄南大阪線と多くの鉄道と交差しながら行くことができそうです。ということで、南海電鉄高野線帝塚山駅からスタートすることにしました。この日、南海電鉄難波駅から高野線の各駅停車の電車に乗車して帝塚山駅に着きました。進行方向の先に駅員の方が立っておられました。

これは、難波駅方面を撮影しました。各駅停車の電車を降りると、ホームの幅が3mぐらいでかなり窮屈な印象を受けました。このときは出口の方向に進む方ばかりですので、安全面は心配なかったのですが、乗車客と下車客が混じりあう時間帯には、安全に気を使わないといけませんね。そのためか、ホームにあるはずのベンチもなく、ホームの全面が移動に使えるようになっていました。

南海電鉄高野線は、明治31(1898)年に大小路駅(現・堺東駅)から狭山駅間が開業したことに始まります。帝塚山駅は昭和9(1934)年に開業しました。ホームの裏側は交通量の多い道路でした。ホームだけでなく、駅舎もかなり狭い感じでした。

列車が通過してから、駅に隣接する踏切から帝塚山駅のホームを撮影しました。やはりかなり狭いホームです。

踏切から東に向かって歩き始めました。帝塚山は芦屋と並ぶ高級住宅地としてよく知られています。すぐに、右側に重厚な建物が目に入ってきました。大正5(1916)年に、帝塚山の高級住宅地に邸宅をもつ、大阪船場の木綿問屋を経営する大商人などの財界人が設立した名門校、帝塚山学院です。

帝塚山学院の脇を右に進んで行きます。グランドを北側、南側、西側の三方から囲むように、校舎がつくられていました。これは、東側の出入り口です。

もとの道に戻り、さらに東に進みます。この一角は広い敷地をもつ高級住宅地になっていました。交差点に入ります。

交差点は併用軌道になっていました。阪堺電気軌道上町線の電車が走っています。道路の突き当たり付近は帝塚山三丁目電停になっていました。帝塚山三丁目電停は、明治33(1900)年、大阪馬車鉄道帝塚山駅として開業しました。この鉄道が開業してから、かつての田園地帯は別荘地として発展することになりました。帝塚山三丁目電停は相対式のホームではなく、互い違いにつくられています。これは堺市方面行きの電車の電停です。

堺市方面に向かって電車が出発して行きましたが、次の電停からは専用軌道になっているようです。見に行くことにしました。静かな住宅地の中を10分ほど南に歩くと、次の帝塚山四丁目電停に着きました。

相対式2面2線のホームです。ちょうど2両の電車がすれ違いました。

ここから引き返して、さらに東に向かうと、万代池に出ます。大正時代には、帝塚山共楽園と呼ばれる遊園地だったところだそうです。東南の池畔には、昭和30(1955)年万代池公園に150本の桜が寄付されたことを記録する石碑が建っていました。今も桜の公園として知られているそうです。

万代池からさらに東に向かい、あべの筋に出て左折し北に向かいます。

”スーパー玉出”の手前の交差点を右折(東行)します。”玉出”と言ってもパチンコ店ではありません。スーパーマーケットでした。

南港通りに出ます。道路の中央に分離帯のある道路を東に向かいます。

ほどなく、あびこ筋の交差点に出ます。交差点の下には、大阪市営地下鉄御堂筋線の西田辺駅があります。西田辺駅は、昭和27(1952)年に、御堂筋線(当時は地下鉄1号線)が、ここ西田辺駅まで延伸されたときに開業しました。

南港線をさらに東に進みます。シャープの本社を見ながら進みます。

シャープの本社のビルを過ぎると、JR阪和線の高架下をくぐります。高架下まで来たとき、天王寺方面に向かう普通列車が通過していきました。この電車はこの先で南田辺駅に着きます。南田辺駅は、昭和4(1929)年天王寺駅と和泉府中駅間が開通したときに開業した駅です。

JR阪和線の高架をくぐってさらに東に向かいます。進行方向の左側から阪神高速松原線の高架が見えて来ると、正面には、近鉄南大阪線の高架がありました。近鉄南大阪線は、阿部野橋駅と奈良県の橿原神宮前駅を結んでいます。

高架の手前、大阪市営地下鉄谷町線の駒川中野駅前交差点です。「駒川中野」という駅名は、この日の目的だった南海電鉄平野線に因むものでした。旧南海電鉄平野線は、現在の阪神高速松原線の下を走っていた路面電車でした。その平野線の駒川町電停と中野電停の間に、地下鉄谷町線の駅がつくられたため、「駒川中野駅」と命名されたと言われています。

右側に「こまがわ」商店街がありました。専門店が並ぶ商店街です。

「こまがわ」商店街の内部です。土曜日の午後、高齢者の方が多い印象でしたが、たくさんの人が行き交う明るい雰囲気の商店街でした。

「こまがわ」商店街のお向かいは「Lovely Mall」と書かれた商店街でした。アーケードのない商店街でしたが、人通りはさほど多くありませんでした。

「Lovely Mall」の北端に来ました。このあたりに、旧南海電鉄平野線の駒川町電停があったと言われています。しかし、現在では南海時代の面影をしのばせるものは、この”Lavely Mall”の名前だけになっていました。

南港線に引き返します。その脇にある、地下鉄谷町線の駒川中野駅への入口です。駒川中野駅は、昭和55(1980)年、地下鉄谷町線の天王寺駅と八尾南駅間が延伸されたときに開業しました。

駒川中野駅からは、阪神高速松原線の高架下を東に向かって歩きます。阪神高速松原線は元の南海電鉄平野線の線路跡でした。

阪神高速松原線が大きく右カーブを始めます。今では、当時の面影はまったくといっていいほど残っていません。

阪神高速松原線が右にカーブを始めるところを撮影しました。樹木が見えるところが背戸口(せとぐち)公園です。旧南海電鉄平野線は、昭和55(1980)年に11月に廃止されました。大阪市営地下鉄谷町線の天王寺から八尾南間が延伸開業したため、役割を終えたからだといわれています。阪神高速の延伸計画が出たときに、阿倍野電停から西平野電停までの専用軌道を阪神高速道路公団に売却したといわれています。今池(0.4km)飛田(0.8km)阿倍野(0.5km)苗代田(0.5km)文ノ里(0.5km)股ヶ池(0.6km)田辺(0.5km)駒川(0.5km)中野(1.1km)西平野(0.5km)平野の11電停があったそうです。さて、この背戸口公園の中に、平野線の西平野電停がありました。

背戸口公園の中に、タイルでレールをイメージした模様が描かれていました。かつての線路跡に描かれているのではないかと思われるほど、リアリティがありました。中央のホームに入る線路のイメージです。

1面2線のホームと枕木も描かれています。

ベンチの間にあった碑に書かれていた「なんかいでんしゃ ひらのみち」です。左から3つめの「いまいけ」から「とびた」・「あべの」(ここで阪和線と連絡)・「なわしろだ」・「ふみのさと」・「ももがいけ」・「たなべ」・「こまがわちょう」・「なかの」・「にしひらの」・「ひらの」のすべての電停が記されています。

レールの模様があるところに、黄色の柵があります。踏み切りを連想してしましました。アイディア満載でうれしくなってきます。

この模様は公園の端まで続いています。そういえば、西平野駅は終着駅ではなく、次の平野駅までさらに延びていました。

背戸口公園を出て右方向を見ると、阪神高速松原線の平野出口が見えました。

ここから、平野線の終点、平野駅があった公園までまっすぐ(東方向)に進みます。住宅地の中を歩きます。道路の先の右側に駐車している車の向こうに公園がありました。

公園に入ります。

平野本町にある公園です。この中に、かつて平野駅がありました。

少し広くなったところに、八角形の屋根をもったベンチがありました。平野駅の駅舎は八角形をしていたそうです。

ベンチの奥の塀に描かれた、平野線を走っていた車両です。モ205型車両です。平野線末期の車両だといわれています。平野線が廃止された跡は阪堺電軌軌道に引き継がれて活躍をつづけたそうです。近くにあった「説明」には、「モ205型は開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製化したもので通称『改造車』と呼ばれていた」と書かれていました。

終点を連想させる施設です。レール材でつくられています。信号機も設置されていました。地面にはレールがデザインされています。

公園の端から振り返って撮影しました。よく見ると車止めもつくられていました。

公園の端にあった、現代の道標です。JR関西本線の平野駅まで、1kmだそうです。

平野線時代の面影を残すものはないかと、付近を歩いてみました。公園の前の商店街の右側のようすです。「なんかい も~~る」の字が見えました。

公園の左側のようすです。「NANKAI MALL 平野南海」が見えます。平野線が廃止されてから35年を超えましたが、この商店街は、今も南海平野線とともに生きておられるようです。

南海電鉄高野線帝塚山駅から3時間30分。途中でゆっくり食事をとりましたが、かなりの時間をかけて歩いてきました。平野線の名残はまったくと言っていいほど見つかりませんでした。しかし、その存在を伝えようと頑張っている様子はよく伝わってきました。道標にしたがって、商店街から1km先にあるJR平野駅に向けて歩くことにしました。

阪神電鉄武庫川線(1.7km)に乗って、阪神鳴尾球場を訪ねる

2016年01月04日 | 日記
このところ、短距離路線を楽しんでいます。
”鉄橋上の駅”、阪神電鉄武庫川駅を訪ねた日(2015年12月18日の日記)、短距離路線の一つ、阪神電鉄武庫川線に乗ってきました。阪神電鉄武庫川駅から武庫川団地前駅を結ぶ、全長1.7kmの路線。武庫川駅から武庫川に沿って走っています。

阪神電鉄武庫川駅です。武庫川線の起点です。阪神本線の改札口は武庫川の東西の両岸に設置されていますが、駅舎としては、武庫川の西岸にあるこの建物がそれにふさわしいものです。この駅舎は昭和59(1984)年4月に開設されました。武庫川線の洲先駅・武庫川団地間が延伸された時だったそうです。クラシックな印象ですが、割に新しいのですね。

駅舎内にあった運賃表です。武庫川団地前駅まで140円。途中に東鳴尾駅、洲先(すざき)駅が設けられています。

こじんまりとした改札口です。そこに、駅員の方が一人おられました。武庫川線乗り場に向かって、右方面に進みます。

武庫川線のホームの前にあった中間改札です。ここも、昭和59(1984)年に設置されました。驚いたのは改札口の多さです。ここから階段を上って阪神本線に乗り継ぐ乗客が多いからでしょう、出口よりも多く設けられていました。もう一度乗車券を入れて武庫川線のホームに入ります。

これは外から見た武庫川線のホームです。武庫川線は、川西航空機(現・新明和工業)の従業員や資材の輸送のために太平洋戦争中の昭和18(1943)年、武庫川駅と洲先駅(現在の武庫川団地前駅)間で開業。翌、昭和19(1944)年、武庫川駅から北に延伸し、武庫大橋駅を経て、東海道本線の西ノ宮(現西宮)駅までの貨物線が開業しました。阪神電鉄の軌間は1435ミリ、国鉄は1067ミリのため、片方のレールから1067ミリと1435ミリのところにもう一方のレールがある、いわゆる”三線軌条”になっていました。

ホームに、折り返し武庫川団地前駅行きになる列車が到着しました。7990号車と7890号車の2両固定編成の武庫川線専用車両です。

これは、到着した7990号車と7890号車の北側の線路上に留置されていた、7964号車と7864号車です。こちらの編成は、夕方からの運行に備えて待機しているのです。このほか、7861号車と7961号車のワンマン仕様に改造されている車両も武庫川線で運用されています。

武庫川線のホームに戻りました。かつて、”赤胴車”として優等列車に使われていた電車ですが、現在は普通電車に使われています。

ホームに戻りました。下車した乗客の向こうを、阪神本線の電車が通過しています。

20人ぐらいの乗客を乗せて出発しました。ワンマン運転です。右側に線路が敷設できるような空き地があります。武庫川駅から東鳴尾駅間は複線も可能な用地が確保されているようです。

これは、武庫川駅に最も近い小松踏切で撮影した7990号車と7890号車です。この先で阪神高速神戸線の下をくぐります。

阪神高速神戸線の武庫川出口(IC)です。

武庫川ICの向こう(西)側にあった武庫川女子大学です。

武庫川駅から0.7km、1分ほどで東鳴尾駅に着きました。駅の手前の鳴尾南踏切から見た東鳴尾駅です。昭和59(1984)年に武庫川団地前駅まで延伸したとき、1面2線の島式ホームに改造されました。武庫川線は日中は2両編成の電車が往復運転をしていますが、朝夕の通勤通学時間帯には、武庫川駅に待機していた7964号車と7864号車も運行に加わります。その場合の行き違い駅として使われています。昭和18(1943)年の開業時には列車交換ができる駅として開業されましたが、昭和35(1960)年に1面1線の単式ホームに改造されていました。

鳴尾南踏切からホームへはバリアフリーの通路がつくられています。出入り口は武庫川駅方面寄りのこの入口だけです。ちなみに、1日平均の乗車客は1,892人だそうです。

ホームにあった自動改札機です。無人駅ですので、乗車券のない方は、「武庫川団地駅で精算するように」という案内がありました。

次の洲先駅までは、400mしかありません。

外から撮影した東鳴尾駅のホームです。

出発してすぐ見つけた勾配標です。

洲先駅への入口です。右側が駅のホームへの通路、左側が川添南踏切です。武庫川駅寄りのホームへは、階段で上がるようになっています。しかし、反対側のホームの端、武庫川団地前駅方面のホームへの入口はバリアフリー構造になっていました。駅前の風景としておなじみの商店が見あたらず、住宅だけの駅前風景です。

洲先駅のホームです。1面1線のホームになっています。さて、昭和18(1943)年に開業したときの洲先駅は、現在よりも0.6km南に置かれていました。現在の武庫川団地前駅のある場所で、川西航空機の工場に隣接していました。つまり、開業時の武庫川線の終着駅だったことになります。

その後、武庫川線は、昭和21(1946)年に旅客営業を休止しました。そして、洲先駅は、昭和23(1948)年に現在の地で終着駅として開業し、武庫川線は旅客営業を再開することになりました。

これは、ホームにあった地図です。武庫川の中央に尼崎市と西宮市の境界線があります。尼崎市に最も近い西宮市の駅ということになりそうです。昭和59(1984)年、ここから武庫川団地前駅までの0.6kmが延伸されてから、洲先駅は通過駅になっています。現在では無人駅になっています。

洲先駅から0.6km、終点武庫川団地前駅に到着します。武庫川駅から5分ぐらいで到着しました。2面2線の相対式ホームになっていますが、左側のホームだけが使用されおり、右側のホームへは行くことができない構造になっていました。

たった1.7kmの路線でも車止めを見ると、遠くまでやってきたと感じます。行き止まりの終着駅です。

これは駅にあった時刻表ですが、10時から16時までの日中は、1時間3往復の運行になっています。往復に必要な時間は約10分ですので、1編成の車両での往復運転が十分可能です。

武庫川団地前駅は終着駅ですが、駅員さんはおられません。無人駅です。昭和18(1943)年、武庫川線が開業したとき、この駅のあたりにかつての終点である洲先駅がありました。しかし、昭和20(1945)年6月の阪神大空襲により川西航空機の工場ともども破壊されました。洲先駅は先ほども書きましたが、昭和23(1948)年に、0.6km北の現在の地に移転して終着駅となり旅客営業を再開しました。

待合室です。ガラスの模様が明るい雰囲気で、気に入りました。

武庫川駅によく似た改札口です。武庫川団地前駅は、その名のとおり、昭和54(1979)年に入居が始まった武庫川団地の入居者の利便のために、昭和59(1984)年に開業しました。武庫川団地前駅は、2万人が居住する武庫川団地の北東の端に設置されており、通勤・通学を中心に1日7,834人が利用しているそうです。無人駅が多いため、この駅には自動精算機も備えてありました。もちろん、自動改札機や自動券売機も備えています。

武庫川団地前駅の駅舎です。到着した7990号車が停車しています。

お隣にはマックスバリューの店舗がありました。

駅前には広大な敷地を誇る武庫川団地が広がっています。戦前には、ここに川西航空機の工場がありました。”レインボータウン”の愛称のとおりカラフルな集合住宅が並んでいます。そこから足を延ばしてみようと思いました。マックスバリューの前を団地に沿って歩きます。団地が途切れた向かいに、鳴尾浜臨海公園があります。その中をさらに進みます。

臨海公園を抜けたところにある、通りの向かい側にネットに覆われたスタジアムがあります。武庫川線とともに、密かにめざしていた阪神鳴尾浜球場です。シーズンオフ、しかも年末のこの時期ですので、使用されてはいませんでしたが、阪神タイガースのファームの公式戦が行われている球場です。また、その裏の敷地内にある虎風荘、「阪神タイガース寮」も見えました。

阪神鳴尾浜球場の正面。「タイガーデン」です。

こちらが虎風荘です。「報道関係者・球団関係者以外立入禁止」になっていました。人がいないのではないかと思えるほど静かでした。

阪神電鉄武庫川線は全長1.7kmの短小路線です。川西航空機工場への輸送のためにつくられ、阪神空襲で大きな被害を受けた路線でした。戦後、川西航空機工場の跡地にできた武庫川団地の住民の輸送のために復活した路線です。歴史の大きな波に揺れ続けた路線でした。たった1.7kmしかなくても、今もしたたかに走り続けています。