トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧東海道水口宿を歩きました

2013年03月28日 | 日記

歌川広重の東海道五十三次の水口宿です。そこには、名物のかんぴょう干しをしている農家の女性が描かれています。江戸時代、旅人は木賃宿に泊り名物泥鰌(どじょう)汁に舌鼓を打っていました。

旧東海道の50番目の宿場である水口宿は、49番目の土山宿から2里29町(約11.5km)のところにありました。旧東海道の土山宿方面から西に、旧水口宿を歩きました。いつ降り始めてもおかしくないような天候でした。

宿場の東から、旧東海道土山宿方面を写しました。ここからスタートしました。

水口宿の東の入口にある山川橋を渡ります。

坂を少し登ったところに、旧東海道水口宿の案内板がありました。

その先にあった東見附跡。「見附」とは、往来する旅人の取り締まりや警備にあたるところです。享保(1716~1736)年間の絵図では、枡形の土居がめぐらされ木戸や番所も置かれていました。そこから、国道1号線を渡って宿場の中心部に入ります。

いただいた「水口お散歩MAP」(案内図)には、このあたりに脇本陣跡があったと書かれていました。しかし、案内も人通りもなかったので、確認することができませんでした。

少し進んだ左側に竹垣が見えました。水口藩本陣跡でした。天保14(1843)年には、水口宿の東西22町6間の間に家が692軒あり、その中に本陣、脇本陣が一軒ずつと他に旅籠が41軒ありました。

本陣跡に入っていきます。正面に「明治天皇聖蹟」の碑がある左手前に本陣跡の碑がありました。本陣は、間口が一般の家の3軒分に相当する広大なもので、代々鵜飼家が経営にあたっていたと書かれていました。ちなみに、水口宿の人口は、天保14(1843)年には2692人(男1314人、女1378人)だったそうです。

その先で、道が二つに分かれます。その中心に高札場跡がありました。宿場の規定やお触れを掲げ住民や旅人に知らせていました。

復元された高札場です。かつての東海道はここから左の道に進んでいました。

高札場跡を過ぎてさらに進みます。このあたりから、古い町並みが残っている地域に入ります。

すぐ先で、通りは再び二つに分岐します。旧東海道は右の道を西に向かっていました。水口宿には、三筋の道が東から西に通っていました。その真中の道が旧東海道でした。

雰囲気のある町並みをさらに進みます。

街道の左側に石製の案内がありました。公用の貨物を次の宿場まで運ぶために伝馬と人足の手配を行っていた役所、問屋場の跡でした。江戸中期以降、この地に置かれ宿場内の有力者が宿役人となり運営にあたったそうです。

観光用の「からくり時計」が立っていましたが、時間が悪く動き出すまでずいぶん時間がありました。さらに三筋の真中の道を進みます。

商店街が続きます。

次の交差点で旧街道から外れ小学校に向かって進みます。その手前左側に、黄色い建物が見えました。旧図書館でした。

昭和3(1928)年、水口出身の実業家井上好三郎の寄付によって建設されました。ヴォーリズ設計事務所が設計した洋風建築です。平成13(2001)年、国の登録有形文化財に指定されました。明治38(1905)年滋賀県立商業学校(現県立八幡商業高校)の英語教師として、アメリカからやってきたウイリアム・メレル・ヴォーリスは、近江兄弟社を設立しメンソレータム(現メンターム)の販売を行うとともに、建築設計監督事務所を設立し教会などの洋風建築を多数建設しました。

旧街道に戻り、さらに進むと、近江鉄道の電車が横断しているのに出会いました。

踏切の手前には小さな橋がかかっていました。石橋です。

石橋のところで、後ろを振り向くと、二つ目のからくり時計が立っていました。水口町の三筋の道路がそこで合流していました。からくり時計のすぐ左(真中)の道が旧東海道でした。

からくり時計のところから、三筋の道路の北(左)側の道を引き返します。大岡山の山麓に立派な寺院がありました。家松山大徳寺です。江戸幕府を開いた徳川家康ゆかりのお寺です。大徳寺の開山の叡誉(えいよ)上人が、徳川家康の家臣本多平八郎の叔父だった関係で、関ヶ原の戦いの後、家康は上洛に際してこの寺に宿伯していました。そのため、山号に、家康にちなむ「家」の文字が使われています。

大徳寺の寺門は徳川家の定紋の葵を入れた「立ち葵」。山門には、徳川家の家紋の「三つ葉葵」が刻まれています。

境内には、家康の腰掛石がありました。これは、家康が大徳寺を訪れた際、腰掛けていた石といわれています。

水口藩の最大のできごとであった天保の大一揆。一揆の指導者として処刑された11人の農民の慰霊碑の五輪塔がありました。

石橋のからくり時計の場所に戻ります。その先の近江鉄道の踏切を渡り、左折すると水口石橋駅です。石橋にちなむ駅名です。さらに、旧街道を歩きます。

左側に湖東信用金庫。その前で、旧東海道は右折します。かつての街道は、まっすぐ西に向かっていましたが、水口城ができてから、城から離れたルートになりました。

右折しないで、かつての街道をそのまま進みます。右側に水口教会があります。昭和5(1930)年、旧図書館と同じヴォーリスの設計で建設されました。これも、国の登録有形文化財に指定されています。

もう一度、湖東信用金庫に戻ります。ここで旧東海道の案内に沿って右折します。

お散歩MAPに書かれているように、旧東海道は、ここから六カ所のカーブで水口城下町を通過していきます。この案内図にしたがって進みます。

5分ぐらいで行きどまりになります。第2のカーブです。米屋さんの前で左折して進みます。

途中、ユーモラスな囲碁クラブの建物が右側にありました。

雨が激しく降り出しました。行き止まりになって左折します。第3のカーブです。

5分ぐらいで再度右折します。「小坂町」の道標と東海道の案内図がありました。

案内の石標や案内図のそばにあった「力石」です。この地に古くからあったようで、江戸末期を代表する歌川国芳の錦絵にも描かれている大石だそうです。

力石を見ながら、第4のカーブを右折して進みます。左側に百間長屋跡の案内が立っていました。水口藩の下級武士が住んでいた棟割長屋で、百間(180m)もの長さがあったようです。玄関口は南(左)側の郭内(武家地)にあり、街道沿い(北側)には出入り口がありませんでした。武士は、街道沿いの町場には許可がない出られませんでした。買い物は、「与力窓」と呼ばれた高窓から、ひもがついたザルに銭を入れて降ろし、物売りは銭の額に応じて品物を入れ、そのザルを引き上げて取引していたそうです

さらに進みます。右側に真徳寺があります。その表門は、郭内(武家地)にあった60~80石取りの中級武士の屋敷門を移築したものです。

さらに進むと、道路は突き当たりになります。

右側にあるのが林口五十鈴神社です。

その先に一里塚がありました。この林口一里塚はもとはやや南にありました。郭内(武家地)の整備を進めて東海道が北に移ったのにあわせて、五十鈴神社の東の端に移したそうです。明治になって撤去されていたのを、今の位置に復元したそうです。

一里塚の第5のカーブを左折します。途中の右側に「旧東海道」の案内がありました。お散歩MAPでは、「旧東海道」の案内があった向かい(左)側に、水口宿の西の入(出)口の西見附跡があったようです。ここで右折します。第6のカーブです。ここで、湖東信用金庫からまっすぐ進んで来る道(かつての東海道)に合流します。

湖東信用金庫の前で右折してから、ここまで六つのカーブを歩いてきました。もとの旧街道の延長にある通りに戻りました。ここから、次の石部宿に向かう旧東海道の旅が始まることになります。

東海道掛川宿の七曲がり(2012年9月4日の日記)や岡崎宿の二十七曲り(2012年11月4日の日記など)を歩いてきましたが、水口宿でも、東海道の城下町らしい道筋を歩いてきました。激しい雨にぬれながら、やっとここまでたどり着きました。



青春18きっぷで水口城を訪ねました!

2013年03月24日 | 日記
慌ただしい年度末、3月も半ばを過ぎて、やっと18きっぷの旅に出ることができました。
今回は、江戸幕府の3代将軍徳川家光の入洛の際の宿館として建てられた水口(みなくち)城跡を訪ねることにしました。現在の滋賀県甲賀郡水口町にあります。

JR岡山駅を、7時07分発の電車で姫路へ、そこから新快速の電車に乗り継いで、10時35分にJR草津駅に着きました。

草津駅から、10時57分発のJR草津線の電車に乗り換えて、近江鉄道の電車に乗り継ぐため、JR貴生川駅に向かいました。JR草津線は、江戸時代の東海道に沿って走っていました。

11時20分に貴生川駅に着きました。岡山駅を出てから、乗り継ぎ時間も含めて4時間15分後でした。 同じ貴生川駅舎内にある近江鉄道の貴生川駅のホームに向かいました。

「近江鉄道」の案内にしたがって、近江鉄道貴生川駅のホームにおりました。東海道線のホームの隣にありました。

階段を下りると、ホームの手前にある出札口に列ができていました。切符を買う乗客の列でした。事務室では女性の駅員の方が切符を売っておられました。私も列に並んで、1駅先の「水口城南駅」行の切符を160円で買いました。自動販売機で買うものと思い込んでいましたので、駅員さんから渡されたときは少し感動しました。

もっと驚いたのは、渡された切符が硬券だったことです。ほんとになつかしい・・・。
男性の駅員さんの脇を通ってホームへ入ります。切符はすでにはさみが入れてあって、ここではチェックしていただくだけ。

ホームには、すでに電車が入っていました。黄色い車体の元西武鉄道の車輌です。近江鉄道は、西武鉄道で使用されていた車輌が多いことで知られています。

向かいのホームにあった車輌には、西武ライオンズの“レオ”のマークがありました。八日市駅方面に向かう列車に乗りました。

最初の駅、水口城南駅で下車しました。「水口石橋」など「水口」がつく駅が4つありました。

なつかしい鉄製の改札口です。待合室のいすにはきれいにカバーが掛けられていました。心も温かくなりました。
 
駅前の広場は、曳山の広場になっていました。享保20(1725)年に、町衆の力で巡行したことに始まります。今年も4月20日~21日の曳山祭りには、町内各町の曳山が巡行することになっています。

町内の各所に、曳山を収納するための山蔵が設置されていました。

水口の町の北に横たわる大岡山です。水口は、古代から東国や伊勢に向かう街道があって人の往来も頻繁だったところです。現在につながる町の基礎ができたのは、天正13(1585)年、豊臣秀吉が家臣の中村一氏(かずうじ)に命じて水口岡山城を築かせ、山麓の集落を城下町として整備させてからです。この山に、水口岡山城は築かれました。

曳山の広場を出て右折。水口岡山城があった方向に向かって歩きます。道路の左側に「御本丸町」の石標がありました。石碑から目を上げると、平成3(1991)年、木造で再建された水口城、「水口城資料館」でした。もとの水口城は、寛永11(1634)年、江戸幕府の3代将軍徳川家光が30万人の大軍を率いて上洛したとき、家光の宿館として築城されたことに始まります。作事奉行には小堀遠江守政一(小堀遠州)が任命され幕府の直営事業として建設されました。このとき、小堀遠州はほとんど伏見の邸宅に帰らず、熱心に築城の指揮監督をつとめたそうです。

水口城の周囲には水堀がありますが、それに沿って遊歩道があり一回りすることができます。かつての水口城は、南北75間、東西73間のほぼ正方形で、東側に出丸(枡形)がつけられていました。水口城資料館はその枡形の中につくられていました。水口城資料館になっている水口城跡に入る前に、堀に沿って一回りすることにしました。

城の南東の隅から北の水口城資料館を撮った写真です。水口城は、別名“碧水城”と呼ばれていました。堀には注水坑がないにもかかわらず、今もたっぷりと水をたたえており枯れたことがないそうです。豊かな湧水があるそうです。

水口城跡を南から北に向かって歩いていると右前方に矢倉跡の石積み(水口岡山城の石を転用しているそうです)が見えました。乾(いぬい)御矢倉跡です。正方形をした水口城の本丸の四隅には矢倉が置かれていました。北東の艮(うしとら)御矢倉、南東の巽(たつみ)御矢倉、南西の坤(ひつじさる)御矢倉、そして北西の乾御矢倉でした。その中で、乾御矢倉の規模が最大だったそうです。ちなみに、現在の水口城資料館は乾御矢倉をモデルにして建てられています。

本丸の宿館(御殿)があったところは、現在、滋賀県立水口高校のグランドになっています。休日だったこの日は、野球部が練習試合をしていました。

水口高校のグランドと堀の間に、土塁跡が残っています。

「水口城址」の碑から堀にかかる橋を渡って枡形にある水口城の出丸に入ります。かつての水口城もこの橋から出丸に入り、枡形を右の方に進んで大手門から本丸の御殿に入っていました。

これは、資料館に展示してあった宿館(御殿)の模型です。宿館として建てられたため天守閣はありません。出丸は模型の右端にある小さい四角形の部分です。写真の向こう側から手前に橋を渡って入ります。その後、枡形で右折して大手門から本丸御殿に入っていました。水口城の宿館(御殿)は、京都の二条城を摸してつくられており、すべて柿(こけら)葺きだったそうです。将軍家光の入洛に際してつくられた宿館は、その後は2度と使われることはありませんでした。城番を置いて幕府の管理の下に置かれていました。ちなみに初代城代は坪内玄蕃という人だったそうです。

天和2(1682)年、石見国吉永(現島根県大田市)から、加藤明友が甲賀郡など2万石を与えられて入封し水口藩が成立しました。加藤明友は“賤ヶ岳の七本槍“で知られる加藤嘉明の孫でした。資料館の職員の方のお話しでは、明友は、本丸の宿館(御殿)に「三つ葉葵」の瓦が使われていたため、本丸を使用せず「お預かりしている」という意識で生活していたということです。なお、本丸御殿は、正徳(1711~1715)年間に撤去されています。

水口城から近い藤栄(ふじさかえ)神社は、加藤氏の祖、加藤嘉明を祀っています。社標の文字は、明治の書家、巌谷一六の手になるものだそうです。

石標を裏からみて驚きました。リユースの素材だったからです。明治時代になって必要がなくなった国境石に彫られていました。高名な書家の文字を刻むのに・・・です。
 
水口藩の2代藩主加藤明英は、元禄8(1695)年、5千石の加増を受けて2万五千石で下野国壬生(みぶ)藩主になりますが、正徳2(1712)年、その子、嘉矩(よしのり)の時、再び水口藩に戻って来ます。その間は、入れ替わりに下野壬生藩にいた鳥居忠英(ただてる)が水口藩主をつとめていました。再入封した加藤氏は「加藤和泉守条目」を制定して支配体制の整備を行いました。また、江戸末期には藩校「翼輪堂」(よくりんどう)を設立して藩士の子弟教育にも力を入れるなど加藤氏は明治維新まで、11代にわたってこの地を支配しました。

2万5千石の加藤氏の家臣は、国元、江戸詰あわせて江戸末期には300名ほどいたそうです。家臣のトップの家老は俸禄600石を受けていました。資料館には文政期の分限帳が展示されていました。

家臣は「郭内(かくない)」とよばれる武家地に住み、許可なくそこから出ることはできませんでした。 60石以上の俸禄を受けていた士分の家臣は、長屋門のついた屋敷に住んでいました。現在町内の真徳寺の表門として、60石~80石取りの中級の家臣(蜷川氏)の長屋門が移築されていて、当時の面影を今に伝えています。

下級武士は扶持米を受けていました。かれらの生活は苦しく内職に精を出す毎日だったようです。「郭内」(かくない)の北の境、街道沿いにある長屋、百間(ひゃっけん)長屋がかれらの住まいでした。彼らの生活のようすが説明に書かれていました。

水口藩政の最大のできごとは、天保13(1842)年に、幕府の検地に反対して1万人の農民が蜂起した大一揆でした。町内の大徳寺には、一揆の指導者として処刑された11人の農民を慰霊する五輪塔が祀られています。

江戸幕府の3代将軍、徳川家光の入洛の際の宿館としてつくられた水口城は、江戸時代を通して水口藩2万5千石、加藤氏の政治の中心として機能していました。また、水口の町は、東海道の50番目の宿場町として、また、この地域の経済の中心地としても大きな役割を果たしていました。


午後から降り出した激しい雨の中を歩いた水口でした。来たときと同じ水口城南駅から帰途につくことにしました。

水口城南駅で列車を待っていたときにやってきた近江鉄道車輌です。車輌の全面が警察の広告(?)になっていました。珍しい、私は初めて見ました。 17時21分発の電車で貴生川まで行き、青春18きっぷで帰途につきました。

銀山街道の宿場町、上下

2013年03月09日 | 日記

白壁の町並みが続く広島県府中市上下町(旧甲奴郡上下町)に行ってきました。上下は、江戸時代、大森銀山で産出された銀を、京や大坂への積み出し港である備中国笠岡へ送る、銀山街道の宿場町でした。

元禄11(1698)年に福山藩水野家が嗣子の死亡によって断絶してから、上下は天領(幕府領)となり、同13(1700)年には、代官所が置かれました。そして、九州の中津藩(大分県)に2万石を割譲した享保2(1717)年から幕末まで、上下には大森銀山代官所の出張陣屋が置かれ、甲奴郡(12ヶ村)と神石郡(10ヶ村)を管轄していました。幕府がこの地を天領にしたのは、銀を運ぶための街道を確保するためだったともいわれています。

これは、町の要所に立ててあった案内図です。ひな祭りのイベントでにぎやかな上下の町を、銀山街道に沿って、北の入口(案内図の左)から南の出口(案内図の右)まで歩きました。

江戸時代以前、大森銀山で産出された銀は、日本海側の温泉津(ゆのつ)から博多に向かって運び出されていました。江戸時代になってから大森銀山は天領となり、天候の影響を受けやすい日本海ルートを避けて安全な陸路に変更され、中国山地を越えて尾道に送られるようになりました。

上下の町から北の三次方面に向かって、国道432号線を撮った写真です。大森銀山から尾道までは、約130km。 最盛期には年に数回、産出量が低下してからは年1回(秋に)、小原、赤名、三次、吉舎(きさ)などの宿駅を通り尾道に向かっていました。尾道までは3泊4日の行程でした。しかし、文化(1804~1818)年間の記録では、銀400貫、銅3120貫(1貫は3.75kg)の輸送に、馬270頭、人足300人を要したとされており、街道沿いの村には大きな負担になっていました。その後、途中の吉舎で尾道に行く街道から別れ笠岡に向かうルートもできました。上下は、笠岡へ向かう街道の宿場町でした。

上下中学校の付近で国道432号線から別れ、左に進み、上下の町並みに入ります。

やがて街道の右側に、2階建ての洋風建築が見えてきます。旧甲奴郡役所、現在の上下町商工会館です。昭和5(1930)年落成の洋風建築で、平成23(2011)年、文化庁の登録有形文化財に指定されました。

商工会館の木造の階段を昇った二階から見た町並みです。

商工会館の先で、JR上下駅へ向かう道が分岐しています。私は、街道からそれて右折して上下駅に向かいました。

上下駅の駅事務所があったところにそば屋さんが入っていました。この日は、たくさんの方がそばを食べておられました。土産物も売っていました。駅の待合室もトイレもとてもきれいでした。

駅にあったJR福塩線の時刻表です。昼間の列車はほとんどありません。駅舎をそば屋さんが使っておられる理由がよくわかりました。

そば屋さんののれんにあるマークは上下のシンボルマークです。町の方々に掲げてありました。もう一度、銀山街道に戻ります。商工会館近くで、右折して進みます。

すぐ、右側に「真野(しんの)時計店」の建物がありました。白壁がまぶしいぐらいです。2階は、ご主人が収集した幕末の歴史資料の資料館になっています。店の経営の傍ら関心のある人に案内をしておられます。ここから、白壁の町に入ります。

真野時計店の脇の道を右に進み路地に入ると、旧角倉家の外門があります。これは、もと上下代官所の外門を移築したものだそうです。正四角錐の屋根と2階ののぞき窓に特色があります。角倉家は、大名貸しで多額の融資をしていた上下の財閥でした。

真野時計店の向かいにある真野菓子店。黒漆喰になまこ壁、うだつのある建物です。「つちのこ饅頭」を売っています。上下でも、つちのこの目撃談があったようです。

これも、角倉家ゆかりの建物です。かつての土蔵です。昭和25(1950)年にキリスト教会になりました。建て増しされた八角形の展望櫓と十字架が見事で、現在の上下のシンボルです。

板塀に囲まれた水路沿いの小路です。路地もまた大変きれいでした。上下キリスト教会の向かいにありました。

明治時代の自然主義文学の代表作、田山花袋の「蒲団」のヒロインのモデルとして知られる岡田美知代の生家です。美知代は県議や上下町長を歴任した岡田胖十郎の長女で、明治37(1904)年に上京して田山花袋に弟子入りしました。これがきっかけで「蒲団」のヒロインのモデルになったといわれています。現在、生家は上下歴史文化資料館になっています。美知代の生家が解体の危機に陥ったとき上下町が買い取り、平成15(2003)年に資料館としてオープンしました。うだつや白壁が目にしみます。

岡田家の隣の商家にある、「大成権尚旭堂」と右から書かれた看板に目がいきます。昭和初期の銅板浮き文字仕上げの看板です。今も現役です。

江戸末期の建物が残る重森本店。薬局の斜め前、右側に建っていました。

旧街道左側に、「指物濱一」と書かれた大きなのれんがかかる旧田辺邸。上下が天領だったとき、幕府の公金を扱う掛屋(かけや)をつとめていました。田辺家は、掛屋、両替商の「大元締」でした。天領時代、幕府は上下に掛屋を33軒つくったといわれています。掛屋が貸し出した「上下銀」は、備中国から周防国まで広がり、取り立てはかなり厳しかったといわれています。

旧田辺邸は奥行きが長い邸宅でした。蔵から店頭まで商品を運ぶためのトロッコのレールが屋内に残っていました。

家具店の指物濱一(さしものはまいち)が買い取り、展示場として、奥は喫茶店として使われています。

イベント広場である「十里辻広場」。尾道からも三次からも東城からも、10里のところにあることにちなむ命名です。

黒漆喰のなまこ壁の重厚な民家。2軒がうだつを重ねているような吉田本店の建物。呉服店を営んでいました。特徴である格子窓(こうしまど)は、光と風を取り込むのに適しています。

十里辻広場の並びにある明治時代初期の警察署の建物です。見張り櫓が残っています。現在は岡田屋。「天領そば」で知られています。

銀山街道はその先の四つ角を直進します。再び寄り道をして、左に曲がって進みます。すぐ、翁橋を渡ります。 

上下は「分水嶺の町」。この上下川は江の川水系で、山陰に向かい北に流れていきます。

翁橋を渡って進みます。左に末広酒造記念館。美術工芸品のお店。奥の酒蔵が資料館になっています。展示物の酒造の道具や土人形などを、奥様が案内してくださるそうです。

右に福万旅館。その向かいの土田旅館。このあたりも、白壁となまこ壁の民家が続きます。

道の突き当たりにあるのが「翁座」です。木造2階建て。大正12(1923)年、棟梁、前藤惣三郎(まえとうそうざぶろう)によって建てられました。「映画実演」の大きな看板が目を引きます。

上下町商工会館に展示されていたかつての写真です。こちらは右から「映画実演」と書かれています。

昭和2(1927)年の開館という芝居小屋で、当時は桝(ます)で仕切られた「枡席」だったようです。

江戸末期の歌舞伎劇場の構成だそうです。昭和21(1946)年、田中家の所有となり、映画常設館として使われました。昭和35(1960)年映画の不振で閉館します。そして、昭和48(1973)年、現在の所有者によって改修されます。平成6(1994)年、桟敷や舞台の中央にある「回り舞台」、花道(「奈落」もあります)が再現されました。平成9(1997)年に、翁座主催の「翁座まつり」で平幹二郎(上下高校卒業)の公演が行われ、芝居、落語、コンサート等に使用されるようになりました。2階は創設当時のままだそうです。

翁橋を渡り、旧警察署近くの交差点に戻ります。左に曲がって、再び銀山街道を進みます。この日は雛祭りのイベントで真影流の実演が行われていました。立てたござを真剣で一気に切り裂いていました。

写真の左が旧郷宿跡。公事(訴訟)のために訪れる人が宿泊していた宿です。戦後の道路の拡幅で大部分が切り取られたといわれています。大きなうだつが印象的でした。

拡幅された道路を渡ります。その先で旧街道は、右に大きくカーブします。旧街道の雰囲気を残した町並みが続きます。

左向きの緩いカーブが始まると、その先(写真では手前側)で国道432号線に再度合流し南の府中方面(平成24年7月21日の日記)に向かって、銀山街道は進んでいきます。

国道の脇にあった「分水嶺」の案内です。先ほど渡った上下川は江の川に合流し日本海に注いでいます。このあたりから南に流れていく矢多田川は、芦田川に合流し瀬戸内海に向かって流れて行きます。町内に分水嶺があるのは全国で上下だけだそうです。

案内板のそばを国道から西に入っていきます。石垣が残っています。天領時代に代官所があったところです。その後、上下町役場となり、平成の大合併以後は府中市上下支所が置かれていました。今は石垣に、往事の面影をしのぶだけになっています。

大森銀山で産出した銀を運搬する銀山街道の宿場町として栄えた上下の町は、現在もかつての姿をしのばせる町並みが残る素敵な町でした。JR福塩線の運行本数が減って交通は不便になってしまいましたが、町並みを最大のウリにして、町の活性化を図ろうとする住民の熱意を感じる町でした。

兵庫運河を歩く

2013年03月05日 | 日記

清盛塚です。これまで、築島水門から西南へ、新川運河に沿って、清盛塚まで歩いてきました(平成25年2月22日の日記)。この日は、清盛塚の南にかかる清盛橋を渡って、兵庫運河沿いに高松橋まで歩きました。

清盛橋からの新川運河です。写真の左から、正面のマンションの脇を向こうに向かっています。手前に来る水路が兵庫運河です。

昭和62(1987)年に橋の拡幅工事を実施したとき、市民の要望により清盛橋と名づけられました。清盛橋には、源平の戦いのレリーフがはめ込まれていました。渡ってそのまま進んで行くと、JR和田岬駅方面に向かっていきます。

この案内図は、運河沿いのプロムナードに展示されていたものですが、図の中央が清盛塚で、運河を下に渡っているのが清盛橋。渡ってから、運河沿いに図の左の方に向かって進みました。

兵庫運河です。和田岬の西の東尻池(ひがししりいけ)と新川運河を結ぶ掘削工事を進めるために、明治26(1893)年に兵庫運河株式会社が設立されました。そして、工事が始まって3年後の明治32(1899)年に完成しました。船の通行がないせいか、兵庫運河はやたら広く感じました。中央の橋は住吉橋です。

さらに西に進みます。JR和田岬線にかかる和田旋回橋です。兵庫運河には、清盛橋を含めて6つの橋が架かっています。この西に、さらに材木橋、御崎橋と高松橋が架かっていました。これは、JR和田岬線の和田回旋橋です。船がここを通るときには、橋が水平に回転していました。今は、固定されていて動きません。一時、JR和田岬線の廃止の要望書がJRに出されたこともあったそうです(平成25年2月28日の日記)。

材木橋です。 兵庫運河が完成してから、利用する船が増え、両岸にはやがて工場や倉庫が建てられるようになりました。また、食品や木材などの運搬も活発になりました。後になって船の通行が少なくなってからは、貯木場としても使われました。 南側の兵庫運河に面したところには材木問屋が多く材木町と呼ばれ、橋名にもなったようです。

これは、西側のプロムナードから見た材木橋です。原木ではなく加工木材が輸入されるようになってからは、貯木場としての機能はなくなっていきます。

材木橋から見た兵庫運河の西の風景です。写真の左側には学校や集合住宅が並んでおり、河岸はプロムナードになっていました。西側には船溜まりもありました。

プロムナードにあった案内板です。兵庫運河の歴史が説明されていました。

プロムナードにあったミニ花壇です。兵庫運河を移動する船が少なくなり、現在では水上スポーツや地域イベントに利用されています。市民による町づくりが進んでおり、この花壇も「市民花壇」の名がついています。

西側にあった船溜まりです。レジャー用の船が舫っていました。

西側から見た御崎橋(みさきばし)です。橋の北側に川崎重工の車両工場がありました。

車両も見えました。御崎橋から西は運河沿いには歩けないので、迂回して高松町に出ました。

不二製油の工場の脇から、高松橋で兵庫運河を渡ります。高松橋を渡った北側は神戸市長田区になります。イオンショッピングセンターがありました。

ショッピングセンターの手前の橋の上に、八尾善四郎の銅像が立っています。兵庫運河建設の功労者です。兵庫運河株式会社は、和田岬を迂回しないで兵庫港に入るための運河の建設を計画していましたが、「運河をつくると作物がつくれなくなる」とか「井戸水が枯れてしまう」という反対の声も出ていました。

仲間が離れていくなか、八尾善四郎は私財を投げ打って、兵庫運河を完成させたといわれています。

銅像の八尾善四郎の目の先にあるにある風景です。船の先の方に建物が見えますが、そこは、人工島の苅藻島(かるもじま)です。運河を掘削した土砂で浅瀬を埋め立ててつくったところです。

昭和3(1928)年に架橋された高松橋は可動橋でした。水平に回転したJR和田岬線の和田旋回橋に対して、高松橋は上下に移動する可動橋でした。ちょっと見づらいのですが、写真は高松橋にあった説明です。高松橋は、オランダで17世紀に生まれ19世紀後半から20世紀前半に欧米で流行した「一葉式跳開橋」でした。不二製油のある橋の東側の27.889mが跳ね上がり、下を進む船を通していたようです。同じような橋に、東京の隅田川にかかる勝鬨橋(かちどきばし)があります。現在の橋は、平成6(1994)年に完成した橋ですが、以前の「はね橋」に似せた形であり、親柱も以前のものを修復復元しています。しかし固定されており、可動橋ではありません。

高松橋を越えてさらに進み、「苅藻島入口」の標識で左折します。その先にある苅藻橋を渡ると苅藻島に入っていきます。

苅藻橋から見た苅藻島です。

新川運河から高松橋まで、兵庫運河に沿って歩いてきました。和田岬の沖合の海の難所を通ることなく、兵庫の港に入るためにつくられた兵庫運河は、歩いてみるとその規模の大きさに驚いてしまいます。現代とは比較にならないぐらいの格差社会だったのかもしれませんが、難工事のなか、私財を投げ打って完成させた八尾善四郎の行動には頭が下がります。橋をたどって歩く旅でしたが、八尾善四郎の使命感と熱意に触れた旅でした。  太平洋戦争中、私財が不足して銅像が接収されそうになったとき、地元住民がそれを阻止して銅像を守ったというお話に救われたような気持ちになりました。