歌川広重の東海道五十三次の水口宿です。そこには、名物のかんぴょう干しをしている農家の女性が描かれています。江戸時代、旅人は木賃宿に泊り名物泥鰌(どじょう)汁に舌鼓を打っていました。
旧東海道の50番目の宿場である水口宿は、49番目の土山宿から2里29町(約11.5km)のところにありました。旧東海道の土山宿方面から西に、旧水口宿を歩きました。いつ降り始めてもおかしくないような天候でした。
宿場の東から、旧東海道土山宿方面を写しました。ここからスタートしました。
水口宿の東の入口にある山川橋を渡ります。
坂を少し登ったところに、旧東海道水口宿の案内板がありました。
その先にあった東見附跡。「見附」とは、往来する旅人の取り締まりや警備にあたるところです。享保(1716~1736)年間の絵図では、枡形の土居がめぐらされ木戸や番所も置かれていました。そこから、国道1号線を渡って宿場の中心部に入ります。
いただいた「水口お散歩MAP」(案内図)には、このあたりに脇本陣跡があったと書かれていました。しかし、案内も人通りもなかったので、確認することができませんでした。
少し進んだ左側に竹垣が見えました。水口藩本陣跡でした。天保14(1843)年には、水口宿の東西22町6間の間に家が692軒あり、その中に本陣、脇本陣が一軒ずつと他に旅籠が41軒ありました。
本陣跡に入っていきます。正面に「明治天皇聖蹟」の碑がある左手前に本陣跡の碑がありました。本陣は、間口が一般の家の3軒分に相当する広大なもので、代々鵜飼家が経営にあたっていたと書かれていました。ちなみに、水口宿の人口は、天保14(1843)年には2692人(男1314人、女1378人)だったそうです。
その先で、道が二つに分かれます。その中心に高札場跡がありました。宿場の規定やお触れを掲げ住民や旅人に知らせていました。
復元された高札場です。かつての東海道はここから左の道に進んでいました。
高札場跡を過ぎてさらに進みます。このあたりから、古い町並みが残っている地域に入ります。
すぐ先で、通りは再び二つに分岐します。旧東海道は右の道を西に向かっていました。水口宿には、三筋の道が東から西に通っていました。その真中の道が旧東海道でした。
雰囲気のある町並みをさらに進みます。
街道の左側に石製の案内がありました。公用の貨物を次の宿場まで運ぶために伝馬と人足の手配を行っていた役所、問屋場の跡でした。江戸中期以降、この地に置かれ宿場内の有力者が宿役人となり運営にあたったそうです。
観光用の「からくり時計」が立っていましたが、時間が悪く動き出すまでずいぶん時間がありました。さらに三筋の真中の道を進みます。
商店街が続きます。
次の交差点で旧街道から外れ小学校に向かって進みます。その手前左側に、黄色い建物が見えました。旧図書館でした。
昭和3(1928)年、水口出身の実業家井上好三郎の寄付によって建設されました。ヴォーリズ設計事務所が設計した洋風建築です。平成13(2001)年、国の登録有形文化財に指定されました。明治38(1905)年滋賀県立商業学校(現県立八幡商業高校)の英語教師として、アメリカからやってきたウイリアム・メレル・ヴォーリスは、近江兄弟社を設立しメンソレータム(現メンターム)の販売を行うとともに、建築設計監督事務所を設立し教会などの洋風建築を多数建設しました。
旧街道に戻り、さらに進むと、近江鉄道の電車が横断しているのに出会いました。
踏切の手前には小さな橋がかかっていました。石橋です。
石橋のところで、後ろを振り向くと、二つ目のからくり時計が立っていました。水口町の三筋の道路がそこで合流していました。からくり時計のすぐ左(真中)の道が旧東海道でした。
からくり時計のところから、三筋の道路の北(左)側の道を引き返します。大岡山の山麓に立派な寺院がありました。家松山大徳寺です。江戸幕府を開いた徳川家康ゆかりのお寺です。大徳寺の開山の叡誉(えいよ)上人が、徳川家康の家臣本多平八郎の叔父だった関係で、関ヶ原の戦いの後、家康は上洛に際してこの寺に宿伯していました。そのため、山号に、家康にちなむ「家」の文字が使われています。
大徳寺の寺門は徳川家の定紋の葵を入れた「立ち葵」。山門には、徳川家の家紋の「三つ葉葵」が刻まれています。
境内には、家康の腰掛石がありました。これは、家康が大徳寺を訪れた際、腰掛けていた石といわれています。
水口藩の最大のできごとであった天保の大一揆。一揆の指導者として処刑された11人の農民の慰霊碑の五輪塔がありました。
石橋のからくり時計の場所に戻ります。その先の近江鉄道の踏切を渡り、左折すると水口石橋駅です。石橋にちなむ駅名です。さらに、旧街道を歩きます。
左側に湖東信用金庫。その前で、旧東海道は右折します。かつての街道は、まっすぐ西に向かっていましたが、水口城ができてから、城から離れたルートになりました。
右折しないで、かつての街道をそのまま進みます。右側に水口教会があります。昭和5(1930)年、旧図書館と同じヴォーリスの設計で建設されました。これも、国の登録有形文化財に指定されています。
もう一度、湖東信用金庫に戻ります。ここで旧東海道の案内に沿って右折します。
お散歩MAPに書かれているように、旧東海道は、ここから六カ所のカーブで水口城下町を通過していきます。この案内図にしたがって進みます。
5分ぐらいで行きどまりになります。第2のカーブです。米屋さんの前で左折して進みます。
途中、ユーモラスな囲碁クラブの建物が右側にありました。
雨が激しく降り出しました。行き止まりになって左折します。第3のカーブです。
5分ぐらいで再度右折します。「小坂町」の道標と東海道の案内図がありました。
案内の石標や案内図のそばにあった「力石」です。この地に古くからあったようで、江戸末期を代表する歌川国芳の錦絵にも描かれている大石だそうです。
力石を見ながら、第4のカーブを右折して進みます。左側に百間長屋跡の案内が立っていました。水口藩の下級武士が住んでいた棟割長屋で、百間(180m)もの長さがあったようです。玄関口は南(左)側の郭内(武家地)にあり、街道沿い(北側)には出入り口がありませんでした。武士は、街道沿いの町場には許可がない出られませんでした。買い物は、「与力窓」と呼ばれた高窓から、ひもがついたザルに銭を入れて降ろし、物売りは銭の額に応じて品物を入れ、そのザルを引き上げて取引していたそうです
さらに進みます。右側に真徳寺があります。その表門は、郭内(武家地)にあった60~80石取りの中級武士の屋敷門を移築したものです。
さらに進むと、道路は突き当たりになります。
右側にあるのが林口五十鈴神社です。
その先に一里塚がありました。この林口一里塚はもとはやや南にありました。郭内(武家地)の整備を進めて東海道が北に移ったのにあわせて、五十鈴神社の東の端に移したそうです。明治になって撤去されていたのを、今の位置に復元したそうです。
一里塚の第5のカーブを左折します。途中の右側に「旧東海道」の案内がありました。お散歩MAPでは、「旧東海道」の案内があった向かい(左)側に、水口宿の西の入(出)口の西見附跡があったようです。ここで右折します。第6のカーブです。ここで、湖東信用金庫からまっすぐ進んで来る道(かつての東海道)に合流します。
湖東信用金庫の前で右折してから、ここまで六つのカーブを歩いてきました。もとの旧街道の延長にある通りに戻りました。ここから、次の石部宿に向かう旧東海道の旅が始まることになります。
東海道掛川宿の七曲がり(2012年9月4日の日記)や岡崎宿の二十七曲り(2012年11月4日の日記など)を歩いてきましたが、水口宿でも、東海道の城下町らしい道筋を歩いてきました。激しい雨にぬれながら、やっとここまでたどり着きました。