トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

全国第2位の路面電車、土佐電鉄に乗る

2014年05月27日 | 日記

武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の幕末の群像が建つ高知駅前です。

JR高知駅は2階のホームに列車が着きます。1階に降りた南側の駅正面に、もう一つの電車乗り場がありました。四国で最初に開業した土佐電鉄の路面電車乗り場です。開業は、明治37(1904)年。以来、110年に渡って走り続けています。

路面電車乗り場には、①のりばと②のりばの2つの乗り場があります。

この日、高知駅から路面電車乗り場に着いたとき、2両の電車が入線していました。南側から駅に向かって撮影した電車です。これは、クリーム色と緑色のツートンカラーの電車。②のりばにいた320号車です。正面から左右に斜めに切れ込んだフロントデザイン。

車体にはドイツ語が書かれています。

車体の上には「オーストリア グラーツ市電」と書かれています。平成2(1990)年、開業85周年の記念にスタートした、世界の電車を高知で運行するという事業である「世界の電車」計画によって、オーストリアのグラーツ市からやってきた電車です。ちなみに、第1号はドイツシュツットガルトからやってきました。現在は、ポルトガル(リスボン市)、ノルウェー(オスロ市)からやってきた路面電車とこのグラーツ市からの電車が、土曜日、日曜日、祝日に、交代で高知駅前と枡形(ますがた・伊野線沿線)間を運行しています。

①のりばにいた電車です。アンパンマンの顔が全面に描かれています。高知県香美郡在所村はやなせたかしさんの父親の出身地です。土佐電鉄の後免線の終点は香美郡後免町。そのためでしょうか、JR四国も、特急列車にアンパンマン列車を運行しています。

この電車は616号車。600形車両です。

電車の中に「私の履歴書」が掲示されていました。車両の紹介をしています。600形車両は土佐電鉄の車両の中で最も多い、30両が在籍しています。昭和28(1953)年から昭和53(1978)年まで東京都電として活躍していた7000形をモデルにして、昭和35(1960)年に土佐電鉄で生まれた車両だそうです。全長は13.2mあり、定員は67名になっています。なお、土佐電鉄の軌間は1,067ミリです。

どちらの電車も、”はりまや橋”までは、高知駅から南に延びる”はりまや通り”を走ります。アンパンマン電車の616号車は”はりまや橋”からさらに南に進み、桟橋通五丁目電停に向かう桟橋線を走ります。桟橋線の運賃は200円の均一料金です。

電車内で、1日切符を買いました。土佐電鉄の全線1日乗り放題で、1,000円でした。年月日をコインで擦ると赤地で当日の日付が出てきました。下車するとき、それを、運転士の方に示すといいようです。

高知市で最も知られている”はりまや橋”です。ここまで約0.8kmありました。土佐電鉄の路面電車は、はりまや橋から四方面に延びています。北はJR高知駅に向かう駅前線、南は桟橋五丁目に向かう桟橋線、東は後免町(ごめんまち)に向かう後免線、そして、西に延びて伊野に向かう伊野線です。4路線合わせて、25.3km。路線の長さでは、広島電鉄に次いで、全国で2番目の規模を誇る路面電車です。

”はりまや橋”から”はりまや通り”をはさんだ東側にある”はりまや橋商店街”です。

私が乗車したアンパンマンの616号車は、この先で鏡川を渡って桟橋通り五丁目に向かいます。はりまや橋の「のりば④」で下車しました。ここから高知県吾川(あがわ)郡いの町に向かう、土佐電鉄伊野線に乗ることにしていました。

伊野線の電車の乗り場ははりまや橋の「のりば②」です。ここから、終点の伊野電停まで11.2km。起点と終点を含めた34駅を40分余りで結んでいます。

着きました。伊野線の終点、伊野電停の駅舎です。到着したとき、駅舎内で電車の到着を待っていた5,6人の方が出てこられました。

乗車してきた212号車。伊野線の電車は、赤地に白で「いの」と書かれた方向板をつけています。伊野駅に着いたとき、運転士さんは乗客が降りた後、赤い方向板をはずして車内に取り込みました。乗車してきた電車は、やがて「文殊通」行きの電車となって出発していきました。「文殊通電停」ははりまや橋から後免町にいたる「後免線」の沿線にある電停です。

駅舎内に入りました。木の香りがしました。チリ一つ落ちていない清潔な待合室でした。トイレをお借りしてから外へ出ました。

線路の終点です。文具店の前に車止めがありました。伊野線の端までやってきましたので、ここから、”はりまや橋”に向かって引き返すことにしました。

徒歩で、一つ先にある、伊野駅前電停に着きました。電停名の「伊野駅」とは、土佐電鉄の「伊野駅」ではなくJR伊野駅のことでした。ここからJR伊野駅に向かいます。50mぐらい南にありました。

JR伊野駅です。土佐電鉄と同じ平屋の駅舎です。

中にあった時刻表です。土佐電鉄の伊野駅発の電車は20分ごとに出発していますが、JR伊野駅発の高知行きの普通列車はほぼ1時間に1本程度の運行になっていました。

土佐電鉄とJR土讃線とは、ほぼ平行して走っています。土佐電鉄の路面電車は、はりまや橋電停までに、伊野駅前電停の先は、枝川電停でJR枝川駅と、朝倉駅前電停でJR朝倉駅と、鏡川橋電停でJR高知商業高校前駅と、旭駅前通電停でJR旭駅と接続しています。

JR伊野駅から土佐電鉄の鳴谷電停に戻りました。そしてやってきた電車に乗って4分、中山電停で下車しました。中山電停は伊野電停から2.3kmのところにあります。ここで下車したのは、次の「矢代通電停」で見たいものがあったからです。

徒歩で6分。「矢代通電停」に着きました。矢代通電停から少し先に向かいます。

ホームがないのに、行き違いができるようになっていました。上りと下りの路面電車が行き違いをするためにつくられたところです。

線路の中央に「通標確認」「通標授受確認」と書かれたポストが立っています。文殊通電停行きの614号車(赤い塗装)と伊野電停行きの624号車がやってきました。

「通標確認」の位置で、双方の電車が通標(タブレット)交換を行いました。懐かしい光景です。国鉄時代に単線区間で行っていたのを思い出します。土佐電鉄のいの線は鏡川橋電停から伊野電停までが単線になっており、正面衝突を避けるために行われています。実は、土佐電鉄では昭和54(1979)年にこの先の咥内(こうない)電停と宇治団地前電停の間で600形電車同士の正面衝突事故が発生しました。その事故を教訓に、今もこうしてタブレットの交換が行われているのです。私が見たかったのはこのタブレット交換でした。

受け取ったタブレットは運転席の右側におさめられて、電車とともに走っていきます。

矢代信号所(交換所)の次は、白い集合住宅が電停前にある宇治団地前電停です。ここから次の咥内電停までは893mあり、土佐電鉄の駅間の最長区間になっています。写真は咥内電停です。歩いて15分ぐらいで着きました。

単線の専用軌道はさらに続きます。朝倉神社前電停です。途中で宮の奥電停を経由して徒歩で15分かかりました。その先で、緩やかな右カーブが始まります。

道路が二つに分岐します。土佐電鉄の路面電車はさらに右カーブして高知大学の前の通りを進んで行きます。写真の左側にあったのがJR朝倉駅でした。

木の香りがするようなログハウスの駅、JR朝倉駅です。駅の正面にあったプレートには「旧国鉄初のログハウスの駅」と書かれていました。

JR朝倉駅から道路を横断して進むと、土佐電鉄の朝倉電停に着きました。安全地帯がありません。道路上のグリーンで囲まれたスペースで乗降します。道路の大部分を土佐電鉄が占めています。ここからは、電車の本数が増え、ほぼ15分に1本ぐらいで発車していきます。

右側一帯は高知大学。写真は正門付近を撮したものです。

大学の前ですから電車の利用者も多いのでしょう。道路の脇に待合室がありました。

その先が再び電車の交換場所。ここでも通標(タブレット)交換が行われましたが、写真が間に合いませんでした。残念。 写真は、交換の直前、右側の電車の運転士さんが待ちかまえているところです。

300m歩いた曙町電停です。道路幅が狭いため駅標は電柱に巻き付けてありました。風雨のせいか「曙」の部分ははがれ落ちていました。

その先は、市場前信号所。またしても交換場所です。

こちらも電柱を活用して、「乗降はできない」ことを伝えています。

その先で、道路部分が最も狭くなっているエリアに入ります。鴨部電停です。乗降客も運転手さんも慣れているのでしょうが、思わずはっとする場面も。電車から降りたところ、その前を、軽乗用車がスピードを落とさず通過していきました。

電車は大きく左カーブをしながら横断陸橋の下をくぐっていきます。そして、鏡川にかかる鉄橋を渡ります。両側を橋で囲まれて窮屈そうに渡っている路面電車が見えます。

鏡川橋を渡ると右カーブ、その先が鏡川橋電停です。ここからは、複線区間になります。そのため、電車の運行本数もさらに増え、ほぼ4分に1本ぐらいの運行になります。

道路脇にあった待合室。ここに運転手さんの休憩所もつくられています。ここから道路の中央を走ります。ほぼ4分に1本の運行ですので多くの電車が見えるようになりました。

外国電車の終点である枡形電停を過ぎて、次のグランド通電停に着きました。伊野線は、明治37(1904)年、堀詰・乗出間が本町線として単線で開業したことに始まります。そして2年後の明治39(1906)年に、鏡川橋電停まで延長しました。開業したときの「乗出」電停は、ここ「グランド通電停」にありました。また、堀詰電停は「はりまや橋電停」の一つ手前に現在もあります。グランド通電停で、110年前に土佐電鉄が生まれた頃に思いをはせる人もいることでしょう。

上町一丁目電停です。この写真は、伊野方面に向かっていたときに撮影したものです。写真の601号車は土佐電鉄の伝統ある塗装を守っています。最近は路面電車の全面広告はめずらしくありませんが、土佐電鉄は昭和44(1969)年から、長崎電気軌道に次いで全国で2番目に全面広告を始めました。手前の「はりまや橋」方面に向かって走っています。

はりまや橋電停に近づいてきました。軌道には芝生が植えられています。舗装道路の中の鮮やかな緑に、ほっとします。 はりまや橋は目の前です。

土佐電鉄は全国で2番目に全面広告を始めました。また、路線の長さも広島電鉄に次いで全国第2位です。広島電鉄の路線の長さは35.1kmですが、鉄道線とされている宮島線を除くと19.0kmで、土佐電鉄の方が上回っています。しかし、路面電車だけの運賃収入では土佐電鉄の9億5700万円に対して、広島電鉄は39億9300万円と大きく差をつけられています(データは2011年度です)。 路線キロでは上回っても収入では広島電鉄の4分の1程度にしかなりません。やはり、日本一の路面電車は広島電鉄なのでしょうね。「全国第2位」に縁のある土佐電鉄ですが、私は矢代通電停付近でのタブレット交換の様子を見せていただけるだけでも、すばらしい路面電車だと思います。  楽しい旅でした。






JR生瀬駅をめざして、旧福知山線をさらに歩く

2014年05月10日 | 日記
JR尼崎駅から伊丹、宝塚、三田、篠山口の各駅を経由して福知山駅を結ぶJR福知山線。昭和61(1986)年、旧福知山線の複線電化により新線が使用されるようになるまでは、生瀬(なまぜ)駅・武田尾駅・道場駅間は、武庫川渓谷に沿って走る路線でした。

旧路線の武田尾駅と生瀬駅間で最長の北山第2トンネルです。かつての福知山線の線路跡は一部ハイキングコースに整備されていますが、現在も線路跡をたどることができます。休日には多くのハイカーで賑わっているようです。旧武田尾駅から北山第2トンネルまで歩いた日(「”視界ゼロ”のトンネルをめざして旧福知山線を歩く」2014年5月4日の日記)、さらに、現在のJR生瀬駅間まで歩きました。

真っ暗で周囲がまったく見えなかった北山第2トンネル、”視界ゼロ”でした。武田尾駅から生瀬駅までに8つのトンネルが残っていましたが、その6つ目のトンネルでした。その出口にあった、プレートです。「北山第二」と読めます。トンネルを出た後、さらに、生瀬駅に向かって歩きました。ありがたいことに、降っていた雨はいつの間にかあがっていました。

2人組の女性が目の前のトンネルから出て来ました。7つめのトンネルです。視界は北山第2トンネルより開けていて、しかも枕木が撤去されていましたので、スムーズに歩けました。ただ、中央部にあった水溜まりのため”視界0”以上に歩きにくいところもありました。

出口にあったプレートです。「北山」と読めます。北山第1トンネルでした。その先は、再び、枕木が半分埋もれた道になります。

武庫川沿いの線路跡の右(山)側に金網で覆いがしてある洞穴がありました。

張り紙をみてびっくり! 近寄らない方がいいようです。

北山トンネルから5分ぐらいで「橋梁上通行禁止」の札が掛かった橋に来ました。足下は鉄板1枚の橋です。「通行禁止」であっても、渡るしかありません。

緑に覆われた道が続いています。気持ちのいいハイキングです。

10分ほどで、また橋梁跡に着きました。手すりがついた長い橋で、下を名塩川が流れています。白い掲示板は、「事故があっても責任を負いかねます」というJR西日本からのメッセージが書かれていました。武田尾駅方面にあった掲示と同じものでした。

左側の武庫川の下流に見えた、中国縦貫道の鉄橋です。かなり、生瀬駅に近づいて来ました。緑の世界の真ん中を武庫川が流れています。晴れていたらさぞかしと思わせる美しい風景が続いています。

名塩川にかかる橋梁から10分程度で、国道にぶつかり行き止まりになりました。福知山線はここから大きく左カーブしながら正面の山の中腹(河岸段丘上?)を生瀬駅に向かっていました。

国道に上がります。この写真は通ってきた線路跡です。手前の舗装道路を下って、田んぼの左側にある山裾の道が福知山線の線路跡です。

国道に上がりました。しかし、横断歩道がありません。車のとぎれるのを待って渡ります。国道は工事中のようでたくさんの柵が並んでいました。福知山線の線路跡はここから山に向かっていたはずですが、たくさんの柵があって道がわかりません。木之本地蔵への参道の手前を左折して、国道に沿って進むことにしました。

中国道の高架下をくぐり緩い左カーブを進むと、山の中腹に、8つ目のトンネルが見えてきました。トンネルの入り口に入場を停止させる柵が見えました。福知山線のかつての線路跡です。

さらに左カーブの道を進みます。その先に三叉路があります。右折して少し進むと現在のJR福知山線の鉄橋とその先にある城山トンネルが見えました。

城山トンネルの左側にあった白い物体です。どうもトンネルの入り口を塞ぐ「ふた」のようです。としたら、これはかつての福知山線のトンネル跡です。 新旧二つのトンネルが並ぶ光景です。

国道から見上げた旧トンネル跡。鉄橋の橋台も残っています。

国道の左側、武庫川側に生瀬バス停がありました。生瀬駅付近までやって来ました。

バス停の反対側、山側に見えた光景です。鉄橋の橋台が二つ並んでいます。先ほど見たトンネルを抜けたところにあたります。向こう側の白く見えるコンクリート製の橋台が現在のJR福知山線の、手前の黒っぽく見える、切石を積み上げた橋台がかつての福知山線の橋台です。

「生瀬通り」という案内が見えました。通りかかった方に確認して、横断歩道の向こう側を右折して駅に向かって坂道を上っていきます。現在の福知山線には武田尾駅と生瀬駅のあいだに西宮名塩駅が設置されていますが、旧福知山線には駅は設置されていませんでした。

坂道を上りながら左折していくと純白の駅舎が見えました。JR生瀬駅です。14時40分、武田尾駅から約3時間半かけて、5.4kmを歩きました。

内部も純白の明るい駅舎です。清潔感にあふれています。昭和61(1986)年に新しいルートになったときに設置された新しい駅舎です。静かな雰囲気の駅ですが、1日平均乗車人数は1937人(2011年)だそうで、かなりの乗降客がいらっしゃいます。

改札口を入ったところのホームには、三田・福知山方面行きの電車が停車します。向かいの2番ホームに上がります。こちらのホームには、宝塚・尼崎方面行きの電車が停車します。ホームに上がったとき1番ホームから福知山方面行きの電車が出発していきました。

2番ホームの裏(武庫川)側に平らな地形をした土地がありました。ここが、かつての福知山線の生瀬駅があったところです。生瀬駅は、明治31(1898)年、当時の阪鶴鉄道がここまで延伸したとき、有馬口駅として開業しました。生瀬駅と改称されたのは、明治32(1899)年。路線が三田駅まで延伸したときでした。かつての生瀬駅は現在よりやや宝塚方面寄りにあり、1面2線の島式ホームをもっていたそうです。

こちらは、宝塚・尼崎方面に行く線路です。2面2線のホームの先にトンネルが見えました。

旧福知山線の廃線跡を歩く旅は、必然的にトンネルや橋梁などの鉄道遺産を訪ねて歩く旅になります。一番印象に残ったのは”視界ゼロ”のトンネルでしたが、武庫川渓谷沿いの美しい風景も印象に残りました。現在の福知山線は、乗車するとぐんぐん先に進む感じがしますが、かつての福知山線はのどかな美しい風景の中をゆったりと走るぜいたくな路線でした。ずいぶん時間のかかる旅でしたが、乗客はこの窓外の風景に慰められたのではないでしょうか。



"視界ゼロ”のトンネルをめざして、旧福知山線を歩く

2014年05月04日 | 日記

JR福知山線の武田尾(たけだお)駅です。この駅は、昭和61(1986)年道場(どうじょう)駅と生瀬(なまぜ)駅間が、複線・電化されるに伴い新線に置き替わって設置された駅です。駅の3分の2がトンネルの中、残る3分の1が鉄橋上にある、「トンネルと鉄橋の駅」として知られています(「トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)。

武庫川に架かる鉄橋の上にある駅のホームから、武庫川の下流方面を見た光景です。写真の左側の武庫川沿いの道路が、複線・電化される以前の福知山線の線路跡です。武庫川に沿った線路が生瀬駅まで続いていました。

この日は、旧福知山線の線路跡を通り、生瀬駅までの5.4kmを歩くことにしていました。「午後から雨」という予報に違わず、雲の広がった空を見ながら歩く旅になりました。さて、線路跡を横断しているのは神戸市の水道管です。以前の福知山線は、この先で1面2線の旧武田尾駅に入っていました。写真の奥に見える橋の左岸のあたりに旧武田尾駅がありました。

旧武田尾駅跡です。右側に売店があり、中央に花壇がつくられています。「駅のホームはこの花壇の付近にあって、左側の山裾と売店前の道路のあたりに線路が敷設されていた。先ほどの水道管の真下に、上り下りの線路が合流するポイントがあった」とご近所の方が説明してくださいました。

花壇の標識には、直進すると「桜の園 JR廃線敷」に到ることが記されていました。旧福知山線の廃線跡は一部ハイキングコースや親水公園に整備されています。旧線路跡を歩く人は多いようで、地元の人もみんなよくご存じでした。ただ、お話をお聞きしたすべての人から尋ねられたのが「懐中電灯を持っている?」ということ。旧線跡のトンネルには灯りがなく、中には、真っ暗な”視界ゼロ”のトンネルがあるようでした。このトンネルをめざして歩くことにしました。

旧武田尾駅からさらに進みます。その先で、工事現場にぶつかりました。迂回路が写真の右側にあり、トラックの右の新橋を渡って進みました。

上の写真の白い壁の向こう側に、切石を積んだ、かつての鉄橋の橋台が残っていました。橋台を左に見ながら進みます。

橋台が残るあたりから見た線路跡です。線路跡は右にカーブしながら進み、やがてトンネルに入っていました。

親水公園の整備のときにつくられたトイレです。生瀬駅まで旧線路脇にあったトイレはここだけでした。

線路跡です。枕木とバラストの線路跡が残っています。枕木の上を小股で歩いて進みます。

武田尾駅・生瀬駅間には、歩いて確認した限りでは、8つのトンネルがありました。その最初のトンネルに入ります。トンネルの中にも枕木とバラストの道が続いていました。

かなり老朽化していますが、「長尾山第3T」と読めました。長尾山第3トンネルでした。トンネルを抜けると「親水広場」の標識がありました。

工事中の橋台から、2つめの鉄橋跡。木製の橋が架かっていました。

橋の下に、かつての橋台が残っていました。

最初のトンネルから10分ぐらいで、2つ目のトンネルに入ります。出口が、入口から見えていました。「照明なし」と書かれていましたが、出口からの光線のおかげで懐中電灯の灯りなしでも歩くことができました。出口付近にあった枕木とバラストは撤去されていました。

このプレートも老朽化が進んでいましたが、長尾山第2トンネルではないでしょうか?

トンネルを抜けると2つ目の木製の橋です。この付近は親水公園の整備に伴い、枕木とバラストが撤去されていました。

木製の橋の先にあった「ふるさとの 桜づつみ 回廊 さくらの名所 たけだお 誕生記念」の碑。桜の園と親水公園の整備の記念につくられたものです。

その先から緩い下り坂を歩く、枕木とバラストの道になります。

親子の昼食風景です。2つめのトンネルから15分ぐらいで、石のベンチが整備されています。小さなお子さんとのお弁当にぴったりの高さですね。

その先に3つ目のトンネルがありました。ベンチのあったところから10分ぐらいのところでした。

トンネルの入り口にあったJR西日本の「告」の看板です。「ハイキングコースではないので、事故が起きても責任は取りかねる」旨の案内でした。この廃線跡は人気のハイキングコースで、たくさんの人が利用しています。しかし、ここは、すでにハイキングコースではなく、単なる線路跡の道になっているのでしょうか?自己責任の行動であることを噛みしめながら歩くことにしました。

2組のカップルがトンネルから出てきました。6分ぐらいで出口に抜けました。これもめざすトンネルではありませでした。

トンネルを抜けると、線路跡に撤去された枕木が積まれていました。

歩いてきたトンネルの出口にプレートがありました。「長尾山トンネル」と読めました。

目の前に、通れないようにフェンスで仕切られた鉄橋がありました。武庫川第2橋梁です。右側に川に向かって張り出した通路があります。床面は鉄板1枚が敷かれているだけです。カッパを着て右側の通路に入ると、対岸から2組の若いカップルがこちらに向かって歩いて来ました。軽い足取りです。

トンネルは期待していますが、鉄橋は別です。通路上ですれ違うのは怖いので、カップルの到着を待つことにしました。私は、以前、JR土讃線の線路跡を大杉駅から歩いていたとき、同じような形の切石を敷いた通路を渡ったことがありました。(2013年12月2日の日記)このときは、まったく人通りがなかったため恐怖心に負けてしまい、途中で引き返すことになってしまいました。高所恐怖症を発症したのでした。

カップルに負けじと、勇気を振り絞って渡ります。3分ぐらいで対岸に着きました。こちら側からは鉄橋がはっきり見えました。枕木の上にレールが残っていましたが、これは何のレールなのでしょうか?レールが小さすぎます。

渡った先は、またトンネル、これで4つ目です。「トンネル内照明なし」の掲示。横尾野トンネルです。枕木の上を歩きます。これもめざすトンネルではありませんでした。

トンネルを抜けると、武庫川が左側に来ていました。先ほど横切って線路が右になったのです。急流の武庫川渓谷です。写真は後ろ向きに撮影しました。

雨が勢いを増しました。進行方向の右側に鉄道遺産が残っていました。こちらからは表示が見えません。振り返って撮影しました。上に55、下のR270の表示です。制限速度とカーブの表示でしょうか?

もう一つは、24。これはキロポストです。尼崎駅から24kmであることを示しています。

その先の小さい水の通路跡? まさか鉄橋は架かっていなかったと思いますが。 今はグレーチングで覆われていました。

武庫川渓谷沿いの道です。雨に濡れた渓谷と緑の通路はほんとうにきれいでした。枕木は雑草の下に隠れています。

5mぐらいのトンネルを抜けました。小さいですが、5つめのトンネルです。その先は3mぐらいの鉄橋跡。鉄板が1枚かぶせてありました。

樹木が覆っていて、通路が狭く感じます。このような道が続いています。

左側の武庫川沿いの風景はすばらしい。天候がよければ快適なハイキングになっていたことでしょう。

キロポストなどの鉄道遺産が残っていたところから20分ぐらい。6つ目のトンネルに着きました。これがめざしていたトンネルでした。福知山線の旧線路跡で最長のトンネルです。中央部分は真っ暗でした。懐中電灯の灯りで枕木は見えますが、視界はほんとうに”ゼロ”です。出口近くになってほのかに明るくなりましたが、スリル満点の道でした。

このトンネルは北山第2トンネル。やっと、たどり着きました。

”視界ゼロ”のときは、足下を確認するだけでしたが、出口近くになって少し余裕ができました。足下の枕木が
撤去されていることに気がつきました。撤去された枕木は、側面に立てかけてありました。

トンネルの側面にあった作業員の避難場所です。

このあたりまで来ると、武庫川の流れもかなり緩やかになり、廃線跡も緩やかに下っていました。ここまで、出発してから2時間かかりました。トンネルと橋梁を捜しながら歩く旅でした。この先、生瀬駅までまだかなりの距離があります。廃線跡をたどる旅は、この先まだまだ続きます。