トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

鉄橋上の駅、阪神電鉄武庫川駅

2015年12月28日 | 日記
鉄橋の上にある駅を訪ねてみようと思いました。
すでに、JR土讃線の土佐北川駅(「鉄橋上にある「秘境駅」、JR土佐北川駅」2013年12月2日の日記)、JR福知山線の武田尾駅(「トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)と、伊予鉄道の石手川公園駅(「伊予鉄道の”鉄橋上の駅、石手川公園駅」2015年4月1日の日記)の三つの鉄橋上の駅は訪ねました。

私は、この日、阪神電鉄の武庫川駅を訪ねることにしていました。阪神地域の方にはおなじみの駅ですが、私はまだ一度も下車したことがなかったのです。武庫川の両岸をつなぐ鉄橋の上が駅のホームになっています。

付近の様子も見たいと思ったので、武庫川駅から一つ梅田寄りの尼崎センタープール前駅で下車しました。私が、これまで訪ねたJR土佐北川駅とJR武田尾駅は、”秘境駅探検家の牛山隆信氏が主催する”秘境駅ランキング”にランクインしている駅でした。愛媛県松山市の伊予鉄道の石手川公園駅は、松山市の郊外にありました。今回は、秘境駅の正反対にある都会の駅、阪神電鉄の武庫川駅に行ってみようと思ったのです。

「尼崎センタープール」はいわゆる泳ぐためのプールではなく、競艇場でした。改札口を出ると、「尼崎ボートレース場」への専用道がありました。

途中の窓から見た競艇場です。「レース開催中」ということでしたが、観客は多くはなかったようです。平素、どのくらい観客がおられるのかわかりませんが・・。

専用道は競艇場の前まで続いていました。こちらも人通りは多くはありませんでした。100円の入場料を払えば、舟券を買わなくても中に入ることができるらしいのですが、スルーして当初の目的地に向かいます。

競艇場の壁に沿って、西に向かって歩きます。競艇場の並びにあった水明公園に入りました。公園の中に、阪神電鉄の路面電車だった71形71号車が静態保存されています。きれいに塗装がなされていました。この電車は、水明公園の北側1kmほどのところにある阪神国道(国道2号線)を、昭和12(1937)年から38年間にわたって走っていました。残念ながら、周囲に囲いがされており、近くで見ることができませんでした。ちなみに、この路面電車は、昭和2(1927)年に開通し昭和50(1975)年まで運行された阪神国道線で、野田駅と東神戸駅間26kmを結んでいた、当時日本最長の路面電車でした。1970年は大阪万博の年、その頃も走っていたのですね。ちなみに、東神戸駅は神戸市の東部の脇浜町にあったそうです。

水明公園から北に向かって1ブロック歩きます。白壁の建物が再現されています。この通りは琴浦通り。ここから少し東方に鎮座している琴浦神社に由来する通りです。阪神国道(国道2号線)が開通するまでの幹線、中国街道でした。白壁の向かいには大庄小学校がありました。

これが琴浦神社です。祭神は、嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)だそうです。海岸の風景が優れているので、異浦(ことうら)と呼ばれたことから、琴浦といわれるようになりました。

白壁は尼崎市営団地の前につくられています。案内には、この通りである中国街道の説明が書かれていました。江戸時代には、西海道とも尼崎道ともいわれていた通りで、昭和2(1927)年に阪神国道が開通するまで、尼崎市の幹線道路でした。この先の西宮から西国街道とつながり兵庫への道にもなっていました。

この写真は、街道にあった松並木と大庄小学校の写真です。右の大木は、昭和47(1972)年まで小学校のグランドにあったと書かれていました。

ここから西に、中国街道を10分ほど歩くと武庫川に架かる武庫川橋を渡ることになります。

武庫川の西岸から見えた阪神電鉄武庫川駅の東側です。

武庫川橋を渡ると、武庫川右岸(西岸)の土手上の道路と交差します。この道を南に進むと阪神電鉄武庫川駅に着きます。

武庫川西岸の土手の下です。資材置き場になっています。その向こうにレールが見えました。資材置き場になっているところも線路跡です。ここは、阪神電鉄武庫川線の線路跡でした。太平洋戦争中の昭和18(1943)年、武庫川駅と洲先駅(現在の武庫川団地前駅)間が開通しました。武庫川団地の地にあった川西航空機(現・新明和)の工場への資材と会社員の輸送のために、軍の要請により、阪神電鉄の社員のほか勤労奉仕隊も動員して突貫工事で敷設されたそうです。現在、線路跡が残っているのはここまでで、これより北側は住宅地になっています。

昭和19(1944)年には東海道線の西ノ宮駅(現在の西宮駅)までの貨物線が開業しました。国鉄西ノ宮駅に向かう貨物線は、歩いてきた旧中国街道の北にある阪神国道(国道2号線)の南側に次の武庫大橋駅が設けられていました。さらに北に進み、左カーブしながら東海道線甲子園口駅に入っていました。

西ノ宮駅からは武庫川線に国鉄のSLや貨車が乗り入れていたため、武庫大橋駅から洲先駅まではいわゆる三線軌条になっていました。阪神電鉄の軌間は1435ミリ、国鉄の軌間は1067ミリのため、片側のレールから1067ミリのところと1435ミリのところに、もう一方のレールが敷かれていました。こうして、3本のレールを使って、国鉄と阪神電鉄が運行していました。この写真は、少し武庫川駅に近づいてから撮影しました。留置中の阪神電鉄武庫川線の車両です。その上を阪神本線の線路が走っています。武庫川駅の北側で線路は二つに分岐し、右方向に行く線路は、上を走る阪神本線への連絡線です。

これが、連絡線です。上を走る本線に向かって上って行きます。

現在の阪神電鉄武庫川線は武庫川駅と武庫川団前駅(かつての洲先駅)間、1.7kmを結んでおり、2両の固定編成の車両が往復運転しています。朝夕は2両編成の列車、2編成が運行にあたっています。日中は1編成のみの運行になるため、1編成がこうして夕方の運行まで待機しているのです。

武庫川の西岸にある武庫川駅舎です。歩き始めた尼崎センタープール前駅は尼崎市にありました。駅舎のあるこちら側は西宮市、武庫川の中央付近に尼崎市と西宮市の境界線があります。武庫川駅は、明治38(1905)年、阪神本線の開通と同時に開業しています。

武庫川の下流(南)側から見た、阪神本線の武庫川駅の屋根付きのホームです。武庫川の対岸まで100mを超えるホームが続いています。

改札口から入ります。右に行くと武庫川線のホーム。左に行くと階段を上って阪神本線のホームに行くことができます。

階段から見た阪神本線の線路です。神戸三宮駅方面を撮影しました。

2面2線のホームです。神戸三宮駅方面行きのホームに上がりました。向こうのホームは梅田駅方面行きの電車が発着しています。武庫川駅の1日平均の乗降客は28,271人(1013年)だそうです。

神戸三宮駅方面行きのホームにあった時刻表です。「普通」、「急行」が停車しています。東改札口付近にありましたが、このあたりは尼崎市の領域になるのでしょうか?

待合室です。ガラスに描いてある模様がモダンです。

東側の改札口付近です。ホームの南側、金網のむこうは東西を連絡する通路になっています。武庫川駅は橋の上にある駅だということがよくわかります。

こちらは東改札口の外から見た風景です。左の明るいところは通路への出口になっています。

改札口の前を自転車に乗った方が来られ、通路に入っていかれました。

通路から見た武庫川西岸です。正面の白い建物は兵庫医大。その向こうに武庫川女子大もあります。

東改札口入口です。左側の白い囲いの中はバリアフリーの通路です。自転車の方もここを利用して上がって行かれています。

東改札口の外から見た武庫川駅のホームです。手前に通路があり、架線も見えています。

梅田方面行きのホームとの間の踏切です。「特急」が通過していきました。

東改札口の外から見たホームです。歩いている方の姿も見えました。

こちらは、梅田方面行きの改札口への入口です。中に入ります。

梅田駅方面行きの電車のホームです。椅子の後ろに武庫川の水面が見えました。

目線を上げると、歩いて来た旧中国街道の武庫川橋が見えました。

線路の下にも水面が見えました。まさしく鉄橋の上にある駅です。

駅標です。武庫川線の案内もありました。

4つ目の鉄橋上にある駅、武庫川駅を訪ねました。鉄橋の上が全面ホームというのは、この駅が初めてでした。武庫川の中央に尼崎市と西宮市の境界があるそうです。二つの市にまたがるホームを持つ駅でした。

レトロな駅舎が続く、南海電鉄汐見橋線

2015年12月17日 | 日記

南海電鉄の汐見橋(しおみばし)駅に昭和30年代の「南海沿線観光案内図」が残っているというお話しをお聞きしました。さっそく行ってきました。写真がそのレトロな案内図です。

難波駅から南海本線の普通列車で岸里玉出(きしのさとたまで)駅に向かいました。岸里玉出駅は、平成5(1993)年に現在の形で開業しました。写真は南海本線のホームから見た汐見橋線のホームです。電車は黄色いビルの手前を左にカーブして汐見橋駅に向かっていきます。

汐見橋線のホームです。ホームの端には車止めがあり、行き止まりになっていることがわかります。汐見橋線は、南海電鉄高野線として、明治33(1900)年に開通しました。訪ねる汐見橋駅は、当時「道頓堀駅」と呼ばれていた、高野線の始発駅だったのです。しかし、現在では、このように南海本線から直行で行くことはできません。南海本線の支線のような存在になっています。

岸里玉出駅から汐見橋駅の間は4.6kmあります。写真は、ホームに入ってきた、汐見橋線を往復運転している電車です。2両の固定編成で、向こう側の汐見橋駅方面の車両が2232号車、手前の車両が2282号車です。4.6kmを、9分で結んでいます。

全長4.6kmという距離でしたので、汐見橋線に沿って歩いて汐見橋駅に行くことにしました。3階にあるホームから、2階のコンコースを経由して、地上部分にある、岸里玉出駅の難波駅側、岸里出口に出ました。駅前のスーパーの脇を抜けて進みます。

しばらく歩いて、岸里玉出駅方面を振り返りました。南海電鉄の本線と、分岐した汐見橋線の高架が見えました。左が南海本線で、右が汐見橋線の高架です。

汐見橋線の高架に沿って、道路の歩道部分を進んでいきます。

高架が少しずつ下っていきます。やがて、国道26号線に合流します。「西成区岸里3丁目」の標識がありました。写真は国道を跨ぐ汐見橋線の橋脚です。架線も見えています。

国道26号線に沿って進み、西成郵便局の先の交差点を左折します。左折した先にあった、大阪市営地下鉄四つ橋線の岸里駅への入口をみて、まっすぐ進むと・・

正面に汐見橋線の線路が見えました。高架下、2.5m。かなり下っています。ここからは、再度高架に沿って歩きます。

汐見橋線の線路は、この先で地上に降ります。その先で、左折して汐見橋線の線路を渡ります。

左折して正面に見えた「銀座商店街」です。昭和の香りを今に伝えるレトロな商店街です。

駐輪されている自転車を見ながら銀座商店街に入ります。アーケードのある商店街です。昼過ぎの時間でしたので、さほど人通りは多くありませんでした。お総菜を売る店や懐かしい昔ながらの喫茶店、雑貨屋さんが並んでいます。「NHKの朝の連続ドラマ『ふたりっ子』の舞台になった」そうですが、私は通勤時間のため、このドラマを見たことはありませんでした。

銀座商店街の途中で右に曲がります。商店街が続いています。「西天駅前商店街」という標識が見えました。「西天駅前」。汐見橋線の二つ目の駅「西天下茶屋駅」にちなむ商店街です。昭和の香りを味わいながら、まっすぐに商店街を歩きます。

線路の手前で、西天駅前商店街方面を振り返って撮影しました。右側が、歩いて来た西天駅前商店街からの道です。銀座商店街も西天駅前商店街も自転車が似合う通りでした。左側は西天下茶屋駅です。駅に接した建物の奥行きは1mぐらいしかありません。家と言うより壁と感じてしまいました。

汐見橋線は、もともと高野線として開業しましたので、複線になっています。ここは、汐見橋駅方面行きの駅舎の入口です。岸里玉出駅から、1kmのところにあります。1日の乗降客は284人(2012年)だそうです。

駅舎に入りました。コンパクトな駅舎ですが、事務室や天井の塗装にレトロ感が漂っています。周囲の町の雰囲気に溶け合っているような駅でした。

駅舎の手前の踏切を渡って岸里玉出駅方面に行く側の駅舎に向かいます。こちらが駅の正門入口だったのでしょうか。壁の塗装からレトロ感はさらに増します。この西天下茶屋駅は、汐見橋線の開業から15年後の、大正4(1915)年に開業したそうです。

駅舎内には改札口がありました。上りと下りに別々の改札口があるぜいたくな駅でしたが、残念ながら無人駅になっていました。

岸里玉出駅方面に向かって撮影しました。南海電鉄は軌間1067ミリです。両側の駅舎の向こうにホームが見えています。ここから、次の津守(つもり)駅に向かって歩きます。写真の右側に向かって進みました。

車1台がやっと通れるような静かな通りが続いています。「橘三丁目」から「松三丁目」そして「梅南三丁目」と花にまつわる通りを抜けていきます。

阪神高速堺線の下をくぐり国道26号線を渡り、津守浄水場に沿ってさらに進むと、広い西成公園が見えてきます。

その並びに大阪府立西成高等学校が見えてきます。この一帯には、かつて、大日本紡績(現ユニチカ)の広い敷地がありました、その跡地につくられたのが、西成公園と西成高校なのだそうです。

西成公園が途切れたあたりで、汐見橋線の線路とぶつかりました。踏切から見た津守駅方面です。

踏切の右側には、津守商店街のアーケードが見えました。

西成高校の向かいに、津守駅があります。津守駅は大正2(1913)年に開業しました。西天下茶屋駅から1kmのところにありました。1日の乗降客は約600人(2012年)で、利用者の大半が、西成高校の生徒や先生方だそうです。そのためでしょうか。レトロ感のないすっきりとした駅舎に建て直されていました。ここからは見えませんが、2面2線のホームをもっています。駅員さんは勤務しておられないようでした。

高校生が毎日通っている改札口。その先にホームの上屋が見えます。

津守駅を出て歩き始めたとき、折り返して岸里玉出駅に向かう、汐見橋線の電車が通過していきました。

津守駅から先は、市営住宅の中の道を抜けた後、木津川に沿って建つ工場の中を抜けて進みます。阪神高速の17号線が木津川を越えるあたりを歩きます。

阪神高速の下をくぐった後は、右折して進みます。この先に、次の木津川駅がありました。汐見橋線が高野線として開業した明治33(1900)年には、この駅と汐見橋駅の二つの駅があっただけでした。かつては、モダンな駅舎だったに違いありません。しかし、いかにも寂れた感じがします。空き地のまま放置されている駅前のようすから、余計に老朽化が目立っているのが残念です。津守駅から1kmのところにありました。ここも駅員の姿はありませんでした。

駅舎前から左に向かって進むと踏切がありました。線路から見た汐見橋駅方面です。明治33(1900)年に高野線として開業したときに設置されました。木津川駅という名前からも連想されるように、この駅は木材の集散地として栄えた花形の貨物駅でした。寂れたと書きましたが、1日の乗降客は86人(2012年)だそうです。汐見橋線を利用される方は、ほんとに少なくなっています。

木津川駅の構内を撮影しました。1面2線のホームの上屋が見えます。今は途切れていますが、手前に引き込み線がつくられています。この先に木材の集積場があったのでしょう。

この写真はホームから撮影しました。手前のフェンスで仕切られている先は、線路が撤去されていました。このあたりにかつての栄光を感じることができました。いま、雑木や雑草が生えている広い敷地が活用され、多くの人が集まる駅になってほしいと願わずにはいられませんでした。

木津川駅の踏切を渡り、公園の手前を左折して、汐見橋線を左に見ながら進みます。阪神高速15号線堺線に合流した先で、汐見橋線の踏切を渡ります。踏切から、木津川駅方面を撮影しました。線路の橋桁が見えました。2線それぞれに橋桁が着いています。さぞかし下には大きな川が流れているのだろうと思いましたが、下は埋め立てられていて川の姿はありませんでした。

ここは、琴江橋跡。現在は、琴江歩道橋が上に架かっています。踏切の脇に「琴江橋跡」の石碑が設置されていました。

琴江橋跡の踏切を渡り、再度、汐見橋線を右にして歩きます。芦原自動車学校の先を右折して進みます。芦原町の手前の踏切を渡ります。これは、踏切から見た、次の芦原町駅の2面2線のホームです。大正元(1912)年に開業した比較的新しい駅です。

線路の右側に、芦原町駅がありました。木津川駅から700mのところにあります。

無人駅でした。駅舎内の時刻表を見ると、やがて汐見橋駅行きの電車がやって来ます。ここからは電車で次の汐見橋駅まで行くことにしました。150円を支払い1駅分の乗車券を購入して改札を入りました。ちなみに、岸里玉出駅から汐見橋駅までの乗車券は210円でした。ホームにあった駅名表示。「芦原町」は「あしはらちょう」でした。ちなみに、1日の乗降客は181人(2012年)だそうです。

芦原町駅はJR大阪環状線の芦原橋駅から250mのところにあります。ホームの先で、JR環状線との立体交差がありました。環状線の赤い電車が走っていきました。光線の関係で黄色く見えていますが・・。

終点の汐見橋駅に着きました。到着した、1面2線のホームの端です。車止めがつくられています。明治33(1900)年に開業したときには、「道頓堀駅」と呼ばれていました。しかし、4ヶ月後に現在の「汐見橋駅」と改称されました。そして、昭和4(1929)年に、高野線が難波駅発になったため、それ以来、支線の扱いを受けるようになっています。現在の乗降客は、1日495人(2012年)だそうです。駅員がお一人勤務しておられました。

反対側のホームです。こちらも車止めが設置されています。その先に駅舎の屋根が見えました。

駅舎に入りました。改札口の上に、めざす「南海沿線観光案内図」がありました。しかし、案内図はレトロでしたが、内部はきれいに塗装が施されていました。

これが「南海沿線観光案内図」です。紀伊半島から四国東部、淡路島南部にいたる地域が描かれています。南海フェリーも描かれています。

ここも、同じ掲示物が貼ってあると言われていましたが、きれいに生まれ変わっていました。

汐見橋駅の外観です。かつては、貨物駅としての施設もつくられていたといわれています。駅前は千日前通りです。

隣は、阪神電鉄の桜川駅の入口です。

前を走る千日前通り。それと交差して、写真の向こうに側に向かう新なにわ筋の先に、道頓堀川にかかる汐見橋があります。かつてはここから汐の満ち干が見えたからと名づけられたといわれています。

南海電鉄高野線として開通した汐見橋駅と岸里玉出駅間は、開通してから29年後に高野線から離れた支線の扱いを受けるようになりました。現在も、30分ごとに2両編成の電車が片道9分かけてこの間を往復しています。レトロな駅舎が続く沿線は、駅舎と同じく昭和の香りがする町でした。
今回は、3時間ぐらいかけて、4.6kmの線路に沿って歩きました。私のように昭和を生きた者には何とも懐かしい気持ちにさせられる、楽しい旅でした。今後もときどき乗ってみたいと思った旅でした。



JRの短距離路線、阪和線東羽衣支線に乗る

2015年12月09日 | 日記

南海電鉄羽衣駅の3番ホームに着いた南海電鉄高師浜線の車両です。私鉄の最短路線である高師浜線を訪ねた日(「全長1.5km、私鉄の最短路線に乗る」2015年11月27日の日記)、近くを走るJR阪和線の東羽衣支線を訪ねました。

南海電鉄の駅舎内の通路にあったJR東羽衣駅の案内です。めざすJR東羽衣支線はJR東羽衣駅(高石市東羽衣一丁目)とJR鳳駅(おおとりえき・堺市西区鳳東町)を結んでいます。一駅間、全長1.7kmの短距離路線です。東羽衣支線は本線である阪和線とともに、昭和4(1929)年に阪和電気鉄道として開業しました。当時、浜寺海岸への海水浴客でにぎわっていたそうです。

南海電鉄羽衣駅から見た東羽衣駅です。行き止まりの高架駅になっています。上に見える二つの箱形の建物が線路とホームのようです。さて、開業した阪和電気鉄道は、昭和15(1940)年に南海鉄道に吸収された後、昭和19(1944)年に国有化され、国鉄阪和線になりました。

駅舎前には多くの自転車が並んでいます。駅前にある不動産屋のお客さんの自転車にしては多すぎます。自転車置き場はないのかな?と思って捜してみました。

ありました。ホームを過ぎたあたりの1階部分に自転車置き場がありました。東羽衣支線の電車は高架上を走り鳳駅に向かいます。

駅前から階段を上ります。この駅からは、次の鳳駅を経由して大阪の天王寺駅、和歌山駅方面に行くことができます。阪和線は、羽衣駅から大阪のなんば駅や和歌山市駅とつながっている南海電鉄とほぼ平行して走っています。

正面に改札口、その向こうにトイレ、その両側に階段が設置されています。

そのとき、向かって右側の階段から多くの乗客が降りてこられました。こちらの階段は降車客専用のようです。

改札口前の空間です。さほど広くはありませんが、券売機や案内の掲示物などがコンパクトにまとまっています。駅員さんもおられ、乗客の対応をされていました。

駅に掲示されていた路線の案内図です。阪和線の鳳駅から東羽衣駅に延びる東羽衣支線(「羽衣線」と表記されています)も書かれています。

時刻表です。日中は1時間に4本、早朝から深夜まで運行されています。「待たずに乗れる」列車になっています。JRは定期券の割引率が高く割安感があるということで、南海電鉄からこの駅でJRに乗り換える方も多いそうです。1日平均乗車人員は4,702人(大阪府統計年鑑 2011年)だそうです。

南海電鉄にも東羽衣駅の案内がありましたが、東羽衣駅にも南海電鉄羽衣駅の案内の掲示がありました。よくわかる親切な案内です。

120円を投入して自動券売機でJR鳳駅までの乗車券を購入して改札を通り、左側の階段で3階部分に上りました。2面1線のホームがありました。その時、ホームには一人の乗客もおられませんでした。そのためか、広々とした印象です。こちら(北)側のホームは乗車ホーム、線路をはさんだ右(南)側のホームは降車ホームになっていました。

ホームの頭端にあった車止めです。これを見ると終着駅だなあ!と、感じてしまいます。東羽衣支線は全長1.7kmの短距離路線ですが、日本一の短距離路線ではありません。「日本の鉄道 ナンバーワン&オンリーワン」(伊藤博康著 創元社)によれば、JR在来線の最短路線は、JR宮崎空港線(田吉駅ー宮崎空港駅)で、全長1.4kmだそうです。また、JR支線の最短路線はJR鶴見線の大川支線(武蔵白石駅ー大川駅)で、全長1.0kmの路線だそうです。大川支線は、平日は朝夕の通勤時間帯だけ運行され、土・日曜日には朝2本、夕方1本の運行のみとなる、閑散路線といっていい存在だそうです。

降車側のホームの下にあった「停車場中心」の標識。キロ数は書かれていませんでしたが、営業キロは、鳳駅から1.7kmになっています。

鳳駅からの電車が到着しました。103系電車の3両編成、ワンマン運転でした。乗客は反対側のホームに降りていかれました。鳳駅に向かって、クモハ103ー2504号車、モハ102ー451号車、クハ103ー192号車の3両編成です。鳳駅と東羽衣駅の間を一日中往復している電車です。

東羽衣支線ですが、列車には「羽衣線」と書かれていました。JRではすべて「羽衣線」を使用しています。到着した電車の運転士さんは、折り返して先頭車になる運転席にゆっくりと移動されています。

折り返し、先頭車になるクモハ103ー2504号車です。

先頭車の先、鳳駅方面の風景です。高架上を走るようです。午前11時42分、3両編成の電車は出発しました。

高架上を走ります。閑静な住宅地を下に見ながら進みます。すぐ、左側の車窓に羽衣学園中学・高等学校が見えました。

その先には、羽衣国際大学がありました。この日は土曜日、昼食時のせいか学生の姿がほとんど見えませんでした。

東羽衣支線の高架に沿った道路です。高架下は、ほとんど駐車場として使用されていました。羽衣国際大学への入口付近です。

高架が少しずつ高度を下げ始めると、国道26号線を横切ります。これは、国道から見た東羽衣支線の橋桁です。「JR鳳駅へ500m」と書かれています。このあたりは、「堺市中区鳳西町9丁」(堺市は~丁目ではなく~丁となっています)です。鳳駅が近くなったようです。

国道26号線の先を走る鳳行きの電車です。静かな住宅地を、左にカーブしながら高度を下げて進んでいきます。

鳳駅の手前です。カーブが終わり、地上を走るようになりました。

東羽衣駅を出発してから3分後、鳳駅に着きました。東羽衣支線のホームは5番ホームでした。鳳駅は、3面5線の堂々とした駅です。一日の乗車人員は16,744人で、阪和線の関西空港線部分の途中駅では第2位(1位は三国ヶ丘駅だそうです)の乗車人員を誇っています。

ホームから東羽衣駅方面を撮影しました。ホームの先に線路跡らしいスペースが見えました。

ホームの南端にあった「到着時刻表」「出発時刻表」です。これを見ると、乗車してきた東羽衣駅発11時42分発の鳳行きの電車は、11時35分に鳳駅を出発し、11時39分に東羽衣駅に到着した電車でした。その電車は11時42分に東羽衣駅を出発し、11時45分に鳳駅に到着しました。そして、鳳駅に5分間停車して、11時45分に東羽衣駅へ向かって、また出発していきます。

運転士さんが、次の東羽衣駅行きの11時45分発の電車に乗務するため、こちらに移動しておられます。ホームの左側はもとの6番ホームです。線路は撤去されています。

鳳駅には階段の外に、エレベーターとエスカレーターが設置されています。平成20(2008)年に設置されたそうです。東羽衣駅で、高齢者の方が、休み休みに階段を上っておられた姿を思い出しました。

鳳駅です。手前の車両は阪和線の電車です。線路を跨ぐ鳳駅舎です。

JR阪和線の東羽衣支線は、全長1.7km。電車で所要3分の路線です。その前に訪ねた南海電鉄高師浜線は1.5kmでした。二つの路線とも、歩けば20分で行ける距離を結んでいます。しかし、そんな距離でも、列車を運行する意味は十分にある立派な路線でした。誇り高い短距離路線、おかげさまで、短距離路線に少し興味が湧いてきました。