トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

新選組ゆかりの地を歩く

2013年07月29日 | 日記
幕末、倒幕をめざす尊王攘夷派と激しく戦った新選組。前回(2013年7月21日の日記)は屯所跡を中心に歩きましたが、今回は、京都市内に残る新選組ゆかりの地を歩きました。


  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      新選組関連年表

  文久2(1862)年12月 会津藩主松平容堂、京都守護職として京都に入る
  文久3(1863)年 1月 幕府、江戸で浪士を募集し近藤勇らが参加する
              2月 浪士組、京都に入り、壬生を屯所とする
              3月 近藤勇、芹沢鴨らが会津藩主預かりとなる
              8月 8月18日の政変がおきる
              9月 芹澤鴨らが暗殺される
                「新選組」の隊名を与えられる
  元治元(1864)年 6月 池田屋事件がおきる
               7月 禁門の変がおきる
             10月 伊東甲子太郎が新鮮組に入隊する
  慶応元(1865)年 3月 屯所を西本願寺に移す
  慶応3(1867)年 3月 伊東甲子太郎が御陵衛士になる
              6月 新選組、幕臣に取り立てられる
                 新選組の屯所を不動堂村に移す
             11月 伊東甲子太郎が暗殺される
                 藤堂平助が戦死する(油小路事件)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

文久3(1863)年2月、京都に入った浪士隊の清河八郎らは、生麦事件の処理に不満を持って横浜に到来していたイギリス艦隊への対応のために江戸に帰るべきことを説き、朝廷の許可を得て、3月に江戸に帰ります。芹沢鴨や近藤勇ら京都に残留した浪士は、京都守護職を頼り壬生浪士隊として、その指揮下に入りました。その後、宮中クデーデターの「7卿落ち」で知られる「8月18日の政変」に出動した壬生浪士隊に、会津藩から新選組の隊名を授けられ、これ以後、新選組を名乗ることになりました。この日は、まず、京都守護職が置かれた金戒光明寺を訪ねることにしました。

京阪電鉄の神宮丸太町駅で降りて、東に向かいます。東大路通りを越えてさらに進み、平安神宮の裏を過ぎたところで左折します。そして道路の突き当たりを右折して進むと、金戒光明寺の高麗門の前に出ます。ここは、14代将軍、徳川家茂(いえもち)の上洛に先立ち、京都の治安を維持するために派遣された京都守護職、会津藩主松平容堂(かたもり)の本陣があったところです。高麗門には「京都守護職本陣 旧蹟」と書かれています。

紫雲山金戒光明寺、通称黒谷。浄土宗大本山です。江戸初期、知恩院とともに、城のような構造に改修されていました。会津藩兵、1000人が常駐し1年おきに交代していました。 境内の東北の隅にある会津藩士の墓地を訪ねて、参道を進みます。左手に修理中の山門がありました。「参道」の石標に従って進み、三重の塔に至る石段を左折して進みます。

塔頭西雲院の脇に慰霊碑がありました。「明治40年3月建之 旧会津藩有志者」と刻まれていました。

慰霊碑の脇に、会津藩主の松平容堂に従い京都に来て亡くなった、会津藩主の墓が並んでいました。

京都守護職の本陣は金戒光明寺に置かれていましたが、御用屋敷は、現在の京都府庁の敷地に置かれていました。次は、京都守護職の屋敷跡を訪ねて、京都府庁に向かうことにしました。

丸太町通りを引き返して鴨川に出て丸太町橋を渡ります。京都御所に沿ってさらに西に向かいます。御所の南西隅を右折して北に上り、聖アグネス教会の角を左折して、下立売通りを西に向かいます。平安女学院中・高等学校の先に京都府庁がありました。

京都府庁です。京都守護職の屋敷はこの敷地にありました。南の入り口から、中に入ります。

入り口におられた守衛さんにお聞きすると、屋敷跡の石碑は、入り口から入ってすぐ右側の植え込みの中にあるとのこと。この屋敷跡は、慶応3(1867)年6月、新選組は幕臣として取り立てられることになりましたが、それに反対して佐野七五三之助(しめのすけ)ら4人が交渉が決裂した後に自刃したところといわれています。


8月18日の政変が起きる直前の文久3(1863)年8月12日、壬生浪士隊の筆頭局長芹沢鴨は大和屋焼き討ち事件をおこしています。芹沢は35人の隊員とともに、以前資金供与を断った生糸商の大和屋に押しかけて焼き討ちにした事件です。大和屋は、外国人との貿易で財を成した商人であり、大和屋の生糸の買い占めで生糸の価格が暴騰して西陣の西陣の織物職人を中心に生活に苦しむ人がいたといわれています。だから、単なる狼藉ともいえないのかもしれませんが・・・。

御所の中立売御門から西に向かいます。京都ブライトンホテルの建物を左に見ながら、堀川通りに向かって歩きます。鳥取藩京都藩邸の敷地があったNTTを過ぎると堀川通りに着きます。このマンションの建物があるあたりに、焼き討ちされた大和屋があったといわれています。

また、写真の手前の橋は、堀川第一橋と刻まれています。ここは、かつて中立売橋があったところで、焼き討ちの時には、この橋の上に多くの見物人が押しかけたといわれています。

芹沢鴨は、上洛の途上(文久3年2月)中山道の本荘宿で、宿割りの不始末に激怒し野陣と称して大篝火を炊かせたり、大坂出張中に大坂相撲の力士と乱闘事件(文久3年6月)を起こしたり、様々な蛮行で知られています。京
都守護職が粛清を決断したのが、この大和屋事件だったといわれています。

文久3(1863)年9月18日、屯所の壬生八木邸の奥座敷で眠っていたところを近藤勇らに襲われ、縁側伝いに隣の部屋に逃げた後、そこで力尽きたといわれています。島原の角屋(すみや)で行われた浪士組の宴会の後で酩酊し、寝込んだところを襲われたということです。

壬生寺の壬生塚に、芹沢鴨の墓が残っています。

御所に引き返します。
中立売御門の前で右折し南に進みます。

その南にある門が蛤御門(はまぐりごもん)です。あの「禁門の変」の舞台となったところです。この変は、その前におきた池田屋事件が契機になっています。

京都御所の南、丸太町通りに面している堺町御門です。文久3(1863)年8月頃の京都では、長州藩を中心にした尊王攘夷派が政治の実権を握っていました。これに反感を持つ薩摩藩(公武合体派)は会津藩と図って、8月18日にクーデターを決行します。これによって、7人の尊王攘夷派の公卿が御所から追放され、長州藩も堺町御門の守衛の任務を解かれ、尊王攘夷派は京都から一掃されたのでした。 このとき、会津藩から壬生浪士隊に出動命令が出され、御所の御花畑御門を守るようになりました。この「8月18日の政変」で任務を全うした浪士隊は、高い評価を受け「新選組」という名が与えられたのでした。

禁門の変のきっかけになった池田屋事件の地を訪ねるため、ここから、南東に向かい、木屋町通りを高瀬川沿いに南に下りました。三条大橋の西の高瀬川にかかる三条小橋に向かいました。三条大橋は、東海道を西に来た旅人にとっては、京都への入り口にあたるところです。

これは、高瀬川沿いの説明版にあった昭和初期の三条小橋(高瀬川にかかる)の写真です。新選組の時代も、こんな雰囲気だったのではないでしょうか。

三条小橋から三条通りを西に5軒目に池田屋事件の舞台になった旅館池田屋跡(当時は三条小橋から3軒目だったそうです)がありました。”海鮮茶屋 池田屋 花の舞”です。それ以前には、パチンコ店だったこともあるそうです。  元治元(1864)年4月、前年の「8月18日の政変」以来、入京を禁じられているはずの長州藩士や諸藩の尊王攘夷派の浪士が密かに京都に潜入していることに、新選組は気がつきました。

四条小橋の一つ北の真橋(しんばし)通りにある、”しる幸”という飲食店の片隅に、古高俊太郎の旧宅跡の碑が残っています。潜入している尊王攘夷派の潜伏先が、古高が営む薪炭商枡屋湯浅喜右衛門だと知って、6月5日屯所に連行しました。そして、「6月20日頃の風の強い日を選び、御所の風上に碑を放つ。その混乱に乗じて公武合体派の中川宮を幽閉し、京都守護職の松平容堂を討ち、天皇を長州に連れ去る」という計画を知ることになります。

八坂神社の西門前の東大路通りをはさんだ向かいにある祇園会所跡です。今はコンビニのローソンになっています。 新選組は、7月8日、会津藩の援軍とここで合流し、尊王攘夷派を討つことにしていました。しかし、会津藩は時間になっても来なかったので、新選組24人を2組に分け、近藤勇ら10名は鴨川の西側の、土方歳三ら24人が鴨川の東側の探索を始めました。

7月8日の亥の刻(午後10時)、近藤ら4人(沖田総司・永倉新八・藤堂平八)で池田屋にいる20数名の尊王攘夷派に切り込みました。後に、土方隊が到着して、9名を討ち取り、4名を捕縛しました。会津藩・桑名藩・彦根藩も合流し、翌朝には、さらに20数名を捕縛しました。新選組が壬生の屯所に帰還したとき、沿道には見物人があふれていたということです。

これは、三条大橋です。西詰めから二つ目の南北の擬宝珠に刀傷が残っています。
これがその刀傷です。寺田屋事件のときにつけられた傷だといわれています。

再び、御所の蛤御門に戻ります。7月8日におきた池田屋事件の結果は長州藩に届きます。「8月18日の政変」で京都から追放された三条実美ら尊王攘夷派の公家の復権を嘆願し認められなければ武力に訴えてでも目的を果たすと、長州藩は2000人の大軍が三軍に分かれて京都に進軍します。幕府側は、会津・薩摩藩が守備につき、新選組は伏見方面の九条河原に派遣されました。

7月19日未明に、一挙に戦端が開かれました。伏見からは福原越後が率いる一隊が北に向かって進軍しましたが、京都に入る前の藤森で大垣藩兵に阻止され撤退します。また、山崎天王山からの一隊は堺町御門付近で戦火を交えます。過激な家老、来島又平衛や尊王攘夷派の理論的指導者だった久留米の神官、真木和泉は蛤御門を攻撃し、守りを固める会津・薩摩藩と戦闘に入ります。かれらは、一時御所内に突入しかけるほど善戦しますが、薩摩藩に背後を突かれ敗退し、来島は蛤御門の近くで戦死します。真木和泉や久坂玄瑞らの隊は、堺町御門で福井藩兵と激戦を続けましたが、久坂は鷹司邸に追い詰められて自刃して果てました。新選組は、会津藩から御所への転戦を命じられて到着しましたが、すでに長州藩は総崩れの状態でした。天王山まで逃れた真木らは、追い詰める新選組の近藤らの目前で陣地に火を放ち自刃しました。長州藩は一日持たず敗れ去り、御所を攻撃したことにより朝敵となり、京都に立ち入ることができなくなりました。今も蛤御門には、当時の弾丸の跡が残っています。

禁門の変は、もっとも激戦だった「蛤御門」の名をとって「蛤御門の変」とも呼ばれています。しかし、禁門の変はこれだけでは終わりませんでした。鷹司邸と長州藩邸から出た火は、折からの北風にあおられ南に向かって延焼しました。北は丸太町通り、南は八条通り、東は寺町通り、西は堀川通りまでが焼け野原になり、2万7513軒の家が焼けてしまいました。一番の被害者は、大火に見舞われた京都の人々でした。


ちなみに、長州藩邸は河原町御池にありました。

「長州屋敷跡」の石碑はホテルオークラの客待ちタクシーの左に立っています。

ホテルオークラの並びにある京都市役所も長州藩屋敷の敷地だったようです。

ホテルオークラの京都市役所に向いているところに、桂小五郎の座像がつくられています。あの池田屋事件の時には、参加する予定でしたが、早く着きすぎて席をはずしていたため難を逃れた、運のいい方でした。


もう一人、粛清された浪士として、伊東甲子太郎(いとうかねたろう)を挙げることができます。二番目の新選組の屯所が置かれていた西本願寺から堀川通りを南に進み七条通りを渡ってから堀川通りの一本東の通り(油小路通り)に入ります。

油小路通りの左側に本光寺があります。ここで伊東甲子太郎は息絶えました。伊東は、文武両道に優れた尊王攘夷派の浪士でした。かれは、近藤勇に武術の腕を買われて新選組に迎えられ、北辰一刀流の弟子を率いて、元治元(1864)年10月に入隊しました。しかし、尊王攘夷派の伊東と佐幕派の近藤では考え方が合うはずはなく、慶応3(1867)年3月離党して、孝明天皇の御陵を守る御陵衛士(ごりょうえじ)の役につき、東山の高台寺月真院へ本拠を構えます。弟の伊東三樹三郎、門下生の内海次郎、伊東を近藤に紹介した藤堂平助と近藤のスパイであった斎藤一も一緒でした。新選組に残った伊東の4人の同調者は、近藤に会津藩邸に呼び出されて追い詰められ、自刃させられたといわれています。

伊東は、新選組を乗っ取り近藤暗殺を企てていましたが、近藤のスパイの斎藤一が、慶応3(1867)年11月10日、近藤に通報しました。近藤は、11月18日(坂本龍馬暗殺の3日後)伊東を七条醒ヶ井(さめがい・現堀川通り)の自宅に招き酒宴を開きました。その帰りに、新選組の大石鍬次郎(くわじろう)ら4名に襲われ惨殺されました。死骸を引き取りに来た藤堂平助ら7名も襲われ(油小路事件といわれます)、伊東三樹三郎・藤堂平助ら3名が死亡、残る4名は薩摩藩邸に逃げ込みました。これによって高台寺党は全滅しました。しかし、近藤は、薩摩藩邸に逃げ込んだ篠原泰之進ら残党によって伏見街道で襲撃され負傷させられました。統制のための粛清を繰り返した新選組を象徴するような、一連のできごとでした。

幕末、歴史の中心は京都に移りました。朝廷か幕府か、開国か攘夷か、社会が混乱していた時代、多くの志をもった人たちが倒れていきました。しかし、新選組の活動にもかかわらず、時代は倒幕に向かって進んでいました。伊東が殺害された翌年には、江戸城の無血開場ががなされたのでした。

新選組の屯所跡を訪ねて

2013年07月21日 | 日記

幕末、攘夷か開国か、朝廷か幕府か、国は大きく揺れていました。京都には尊王攘夷派の志士が集まり騒然としていました。権威の失墜を恐れる幕府は、公武合体の政策を推進し、孝明天皇の実妹和宮を14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室として迎え、将軍家茂の上洛も計画していました。そのため、京都守護職に会津藩主松平容保(かたもり)を任命し、治安の維持につとめていました。このような状況のもと、新選組は結成されました。今回は、新選組の屯所跡を訪ねて歩くことにしました。

新選組の結成の地、壬生。新選組が活躍していた当時は、田んぼと畑が広がる鄙びたところでした。最初の屯所を訪ねるため、阪急大宮駅からスタートしました。

京福電鉄大宮駅の「嵐電四条大宮駅」の表示を見ながら、壬生に向かって、まず、大宮通りを南に下りました。10分程度歩き、仏光寺通を右折します。  
仏光寺通を西に向かいます。南北の通りである壬生川通りとの交差点の先、民団京都府中京支部会館の脇に、「肥後藩屋敷跡」の石碑がありました。少し歴史の世界に近づいてきました。
坊城通りの先に石碑がありました。「壬生寺」と書かれています。写真の建物は、「壬生寺老人ホーム」でした。石碑で右折して、坊城通りを北に進みます。

すぐ、壬生寺の山門がありました。いよいよ、新選組の結成の地に着きました。新選組は、”浪士組”として、文久3(1863)年2月23日に壬生にやってきました。将軍家茂の上洛にあわせて京都の治安を安定させるため、応募してきた浪士で結成されました。企画したのは、庄内出身の清河八郎でした。

写真は、壬生寺の向かいにある新徳寺です。ここで、浪士組を率いていた清河八郎が「真の目的は尊王攘夷、将軍の警護は名目だった」と、そして「(生麦事件の処理を不服としたイギリス艦隊が横浜に着いていたので、)対応のために江戸に帰る」と演説しました。結局、3月13日に、浪士組は江戸に帰還してしまいます。

京都残留を主張した近藤勇や芹沢鴨は、京都守護職の会津藩の指揮下に入り”壬生浪士組”と呼ばれました。その後、文久3(1863)年8月に起きた、「七卿落」で知られる「八月十八日の政変」時に出動したとき、近藤ら隊士の活躍ぶりに公家たちも感動したということで、会津藩から「新選組」の隊名を授けられました。新選組が誕生した瞬間でした。  壬生寺を過ぎて、北に50mぐらいのところに、「御菓子所 鶴屋」というお菓子屋さんがあります。壬生の郷士、八木源之丞邸跡です。新選組の最初の屯所が置かれていたところです。

奥に母屋が残っています。しかし、正確には、屯所はここではなく、母屋から100mほど北東にあった離れ座敷だったようです。しかし、隊士たちはいつも母屋に入りびたっていました。また、母屋の東側には道場「文武館」があり、隊士たちが鍛錬していました。

「新選組屯所遺蹟」の碑です。

もう一度、壬生寺に戻ります。山門から境内に入ります。かつて、境内では新選組の調練が行われていました。非番の日には、かれらも自由な時間を過ごせたようで、沖田総司は、近所の子供や子守の子を集めて鬼ごっこをしたり、境内を走り回って遊んでいたといわれています。

私が訪ねた日は、境内の阿弥陀堂で、「慰霊供養祭」が開かれる予定でした。そのせいか、本堂に近づくと「ぶしという名にいのちをかけて しんせんぐみは、今日もゆーく」という三橋美智也の「ああ 新選組」の歌が、寺務所から流れていました。阿弥陀堂の中で100円を払って、裏に抜けると、壬生塚がありました。
壬生塚です。新選組にゆかりの石碑や慰霊碑が建てられていました。「誠」のところでポーズをとって記念撮影をする若い人がたくさん来ていました。

境内にながれていた「ああ 新選組」の歌碑です。横井弘作詞 中野忠晴作曲でした。そういえば、「供養祭」の参加者の中に「三橋美智也後援会」の名もありました。

おなじみの近藤勇像。新選組の局長です。

新選組の顕彰碑です。

隊士の数が増えると、八木邸だけでは手狭になって、坊城通りをはさんで向かい側にある前川邸も屯所としました。ここは八木邸より広く、総坪数443坪、部屋数12間。 畳数は合計146畳あったそうです。家主の前川荘司氏は新選組の高圧的な態度に恐れをなして、六角通りにあった本宅に移っていったということでした。中には入れませんが、池田屋事件の前に、古高俊太郎を拷問して自白させた部屋も残っているそうです。入り口は、綾小路通りに面しています。豪壮な郷士の住宅の雰囲気を残していました。

長屋門から中に入ります。ご家族が住んでおられるので、公開されていませんが、母屋では新選組ゆかりの品を販売しておられました。

母屋の中に入って驚きました。若い女性ばかりです。男くさい雰囲気を醸す新選組のイメージとはまったく違っていました。

この写真は、綾小路通りから坊城通りを撮影したものです。左が前川邸の長屋門です。このつきあたり(きんつばが名物のお店です。)の付近で拍子木をたたいて隊員を集めていたということです。

前川邸から東に続く綾小路通りには、今も当時の面影を残す民家が残っていました。

さらに綾小路通りを東に向かいます。壬生川通りを越えて進むと左側に光縁寺があります。新選組の”菩提寺”といわれています。

門前には、「見物・見学はお断り」の張り紙。「参詣」のために入りました。100円を支払い、ご住職の説明をお聞きしてから、裏の墓地に入りました。お話によると、新選組の馬場がこのあたりにあり、隊士が毎日往来していました。当時の住職に、山南敬助は「この寺の家紋を瓦で見て自分の家紋と同じことに気がついた」と伝えたことから住職と知り合い、同じ年齢だったことから親しくなったそうです。この寺が、葬式を出すことのできないような困窮した人々も葬っていることを知って、新選組では、屯所で切腹した隊士をここに葬るようになりました。そして、山南自身もここに葬られました。

墓地の一番奥に、隊士のお墓がありました。気持ちを込めてお参りした後、撮影しました。手前にあるのが山南敬助の墓です。真ん中が大石酒造の墓。左は松原忠司、小川信太郎、市橋謙吉、田内知源ら12名の隊士の墓でした。


元治元(1864)年7月8日、新選組は、京都三条木屋町の旅館池田屋に潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊王攘夷志士を襲撃しました。薪炭商を営む枡屋こと、古高俊太郎の自白から、「御所に火を放ちその混乱に乗じて中川宮を幽閉、一橋慶喜や松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去る」という計画を察知したからでした。吉田稔麿や宮部鼎蔵ら「殉難七士」を含めて9名を討ち取り4名を捕縛しました。池田屋事件の後、壬生の屯所に帰ってきた隊士を、地元では拍手で迎えたということです。この事件の後、新選組は大規模な隊士募集を行い、隊士数が急増したため、また、長州藩に好意的であった西本願寺を内部から監視するため、慶応元(1865)年3月10日、屯所を西本願寺に移転しました。

西本願寺の阿弥陀堂です。この北にあった北集会所(きたしゅうえしょ)が屯所でした。阿弥陀堂との境には竹矢来を設けて仕切っていたといわれています。北集会所は300畳もある大きな建物だったので、改造して小部屋をたくさんつくりました。八木邸の屯所にあった道場「文武館」を解体して運び、牢屋や首切り場もつくっていたということです。

現在、阿弥陀堂の北には、安穏殿と輪転蔵が建っています。このあたりが屯所があったところでしょうか。

太鼓楼も屯所として使用していたようです。移転後2ヶ月して、幕府典医の松本良順が訪ねたとき、170~180名の隊士のうち、3分の1が病気で裸で寝ていたということです。浴場の設置を勧め、栄養改善のために豚や鶏を飼育して食べることを指導したそうですが、時の悲鳴や調理時の匂いに、西本願寺は頭を悩ませたということです。

堀川通りから見た太鼓楼です。説明版が、かつて屯所があったことを伝えてくれています。


慶応3(1867)年、6月15日(秋という説もあります)、新選組は屯所を不動堂村に移転させます。木津屋橋町(堀川通りと油小路通りに挟まれた地域)の南側にあった、三番目の屯所をめざして歩きます。

七条通りを南に渡り、堀川通りの一本東の南北の通りに入り、塩小路通りを南に越えて進みます。

アパホテルの手前に不動堂明王院がありました。京都最後の屯所は、不動堂村のこのあたりにあったといわれています。この屯所は西本願寺が立ち退きを条件に移転費用を出したもので、大名屋敷のように立派なものだったようです。1万平方メートルの広大な敷地の周囲に高塀で囲まれ、物見櫓や厩、幹部の部屋や隊士の部屋、中間や小者の部屋もある使い勝手のいい建物でした。1度に30人が入れる風呂もついていたということです。
移転後、すぐに新選組の隊士は幕臣に取り立てられました。しかし、この立派な屯所は半年間ぐらいしか使われることがありませんでした。明治元(1868)年に鳥羽伏見の戦いが始まり、隊士は伏見に移って行ったからです。提灯に「まぼろしの屯所」と書かれていますが、建物がまったく残っていないこともあって場所の特定ができないために、こう呼ばれるようになりました。

堀川通りに続き、南に向かう油小路通りの西にあるリーガロイヤルホテルの前庭の緑地の中に、新選組の顕彰碑が残っています。このあたりまで屯所はあったのでしょうか?
厳しい規律と鉄の団結のような男の世界である新選組。その屯所跡を歩きました。壬生の屯所跡には、若い女性があふれていました。厳しい規律を保つために繰り返された粛清など、あまり知りたくないこともありましたが、一つの時代を生き抜いた、男の生き様に触れた旅でした。


旧倉吉線を、打吹駅から上小鴨駅まで歩きました

2013年07月07日 | 日記
かつて、山陰本線倉吉駅から山守(やまもり)駅を結んでいた旧倉吉線。前回は、激しい雨の中、倉吉駅から歩き始め、打吹(うつぶき)駅で挫折しました。雨と風に負けたからです(2013年6月4日の日記)。

この写真は、旧打吹駅の跡地につくられた倉吉線鉄道記念館(以後は「鉄道記念館」と書きます)に展示されていたものです。貨車と客車を連結した混合列車を牽引していた倉吉線の蒸気機関車の姿が写っています。旧倉吉線は。明治45(1912)年に、倉吉駅・打吹駅間が開通しました。そして、昭和33(1958)年に、山守駅まで延伸しました。全長20kmの鉄道でした。

これが、倉吉線鉄道記念館です。今回は、ここ打吹駅跡から西に向かい、関金駅まで歩くことにしていました。しかし、今回は厳しい暑さに、旧上小鴨(かみおがも)駅跡で断念しました。度重なる挫折に情けない思いもありましたが、倉吉線の跡地は、自転車・歩行者専用道路として、大切に残されていました。鉄道記念館で、駅や列車の写真を見た後、出発しました。
鉄道記念館にあった旧打吹駅の写真です。倉吉線は、姫新線の勝山(現、中国勝山)駅につながる計画でしたが、昭和60(1985)年に廃止になりました。
以前、訪ねたとき、近くのタクシー会社のドライバーから教えていただいた駅に向かう道路。この先に駅舎があったようです。写真の右側にかつて倉吉線を走っていたSLが静態保存されていました。

C1176号機の姿を見ながら、西に向かって進みます。

公園になっている旧打吹駅。列車はここから西に向かって進んでいました。

公園を出た線路跡は、2車線の道路になっていました。道路を西に向かって進みます。

グンゼの工場を過ぎると、その先の一級河川、小鴨(おがも)川に向かって、ゆるやかに右にカーブしながら上って行きます。

道路は、右カーブになりましたが、かつての線路跡はまっすぐ川に向かっていました。小鴨川の手前の土手を左に進み、打吹駅の方向を振り返って見ました。まっすぐ進む線路跡は、下の道路のような道筋になるのでしょうか?

小鴨川の対岸です。線路跡は、左にある市営住宅のあたりに向かっていたようです。小鴨川にかかる出口橋を渡ってすぐ左折して市営住宅に向かって歩き、市営住宅の手前を右折して進み、その先にある小さい川を渡りました。

田んぼの向きとは、明らかに異なる盛り土の跡が田んぼの中にありました。その先の道路に向かって続いていました。道路の手前に、常夜灯や灯籠が立っていました。
灯籠のあるところから振り返って撮影しました。盛り土の跡がはっきりわかります。線路跡です。

線路跡は道路に合流しました。先に進みます。
左カーブが始まるあたりに「福祉の里」の看板が見えました。

「福祉の里」の看板の向かい側(道路の左側)に線路が復元されて公園風に整備されていました。もちろんかつての線路跡ではありません。線路跡は道路の中に吸収されています。
さらに、線路跡を進みます。道路の右側に、枕木で土留めがしてある果樹園がありました。線路跡らしい光景でした。

打吹駅を出てから20分ぐらいで、「西中学校」の案内のある交差点につきました。その先に、「花と緑のふれあいロード」の案内がありました。
その向かいに、当時のプラットホームが残っていました。そこに線路が敷設され、トイレとベンチのある休憩所がつくられていました。

倉吉線の西倉吉駅の跡でした。「ロードステーション にしくら」と書かれた標識がつくられていました。ちなみに、倉吉線の打吹駅から西倉吉駅までは2.6kmだったそうです。

これは、鉄道記念館にあった旧西倉吉駅の写真です。女子高校生の通学風景です。駅の出口は、プラットホームの写真の右側にありました。彼女たちは、今何歳になっているのでしょうか?

これも、鉄道記念館に展示されていた写真です。DLに牽引された列車が停車しています。行き違いのできる駅だったようですね、角度から見ると倉吉駅行きの列車のようです。なつかしい腕木式の信号機が見えます。

ここから旧上小鴨駅までの倉吉線の線路跡、3.9kmの区間は、「花と緑のふれあいロード」という、自転車・歩行者の専用道路になっていました。また、かつての駅跡は、その休憩所として整備されていました。

旧西倉吉駅から次の小鴨駅方面に向けて進みます。道路の左側に学校給食センターと消防署がありました。その先で道路は、90度左にカーブします。鉄道では考えられないカーブです。近づいてみるとガードレールの先に、舗装された道が続いています。

桜の並木が延びて、道路の法面(のりめん)に転々と石の標識が続いています。

石標には、境界を示す「エ」のマークが刻印されていました。間違いありません。倉吉線の線路跡です。まっすぐ続いていました。暑い日でしたが、田んぼの中を渡ってくる風はさわやかで、気持ちのいいウオーキングになりました。次回は、桜の花が満開になる春に歩いてみようと思いました。

この道路脇には、県道501号という道路標識がありました。この自転車・歩行者専用道路が県道501号線です。
線路跡の道路は、地元の方々が、お花の管理をしておられるようです。でも、もう菜の花の季節は終わっていますよね。掲示をはがすのを忘れたのでしょうか?

あじさいの花がきれいでした。

西倉吉駅から30分(1.9km)。道路が二つに分岐します。左の道路を歩きます。小鴨駅跡に着きました。

ここも、ふれあいロードの休憩所(ロードステーション おがも)になっています。トイレも休憩所の雰囲気も、西倉吉駅とそっくりです。

鉄道記念館に展示されていた小鴨駅の写真です。駅舎は、ホームの待合室といった雰囲気です。駅につながる道路は今も同じところに残っています。

小鴨駅に入ったディーゼルカーです。駅の位置から見て、下り山守方面行きの列車だと思います。鉄道記念館にあった写真です。

ふれあいロードの案内板です。次の上小鴨駅跡まで、2kmあります。

汗をびっしょりかいて、水をたっぷり飲んで、ひたすら歩きました。30分で、上小鴨駅跡に着きました。今は、「ロードステーション かみおがも」。ここも、西倉吉駅跡と小鴨駅跡のふれあいロードの休憩所と同じ雰囲気です。
鉄道記念館にあった上小鴨駅の写真です。駅舎は、山守方面に向かって左側にありました。

上小鴨駅の先で、「花と緑のふれあいロード」は終わります。旧打吹駅から旧上小鴨駅までは6.9kmありました。普通に歩けば、1時間半ぐらいの距離です。ここで断念したのはほんとに恥ずかしいです。

打吹駅跡から上小鴨駅跡まで、倉吉線の線路跡を歩いてきました。線路跡はサイクリングやウオーキングのための道路として整備されており、廃止後28年になりますが、市民や観光客に大事に守られていました。


































岡山駅の隠れた見どころ

2013年07月02日 | 日記

中四国の結節点としての機能をもつ岡山県。その大きな機能を担っているJR岡山駅(以下、「岡山駅」と書きます)。 最近はやや議論が低調ですが、道州制が論議されるときには、必ず岡山県の存在がクローズアップされていました。 私にとってのJR岡山駅は、いつも通勤時に通過している最も身近な、相棒のような存在です。

先日、朝日新聞社が刊行している「JR全駅・全車両基地地 岡山駅」をめくっていたら、まったく知らなかった岡山駅の姿が描かれているのに気がつきました。そこに描かれていた、岡山駅の隠れた見どころを実際に見てみることにしました。

市街地の中心部につながる東口から、東西連絡通路にエスカレーターで上がります。

通勤ラッシュの時間が終わった東西連絡通路です。東西連絡通路は、幅10m、全長120mで、壁面上部のハイサイドライト(壁面上部にある窓ガラス)からの自然光を取り入れていて明るく広々とした空間になっています。現在の岡山駅は、平成18(2006)年に開業された橋上駅舎です。岡山駅の東西を結んで橋上につくられた東西連絡通路から、改札口に入るような構造になっていました。

東口からのエスカレーターを上がると、すぐ右側に新幹線の改札口があります。改札口は4レーンだけです。岡山駅には、”のぞみ”も”ひかり””こだま”も、九州新幹線の全列車も停車するのに、4レーンだけと少しさみしい感じもしました。

しかし、岡山駅は、かつて新幹線のターミナル駅だった栄光の歴史を持っています。昭和47(1972)年、山陽新幹線が岡山駅まで開通したときです。新大阪始発だった九州に向かう特急・急行が岡山始発になりました。それも、わずか3年間。昭和50(1975)年、山陽新幹線が博多まで延伸されてからは、単なる通過駅になってしまいました。

こちらは、新幹線から在来線への乗り継ぎ(もちろん、その反対もありますが)の改札口です。改札口は8レーンあります。下車する乗客が使用する改札口の2倍設けられています。岡山駅で下車する乗客より、在来線へ乗り継ぐ乗客の方が多い、岡山駅の性格をよく表しています。

岡山駅の1日の平均乗車人員は、59,232人(2011年度)ですが、乗り継ぎを含めた延べ利用者は、その2.5倍になるといわれています。東京駅からは約3時間半、新大阪駅からは約50分で、また、広島県の県庁所在地、広島市とは40分で(山口県の県庁所在地である山口市とは、新山口駅を経由して)つながっています。

東西連絡通路に戻って進みます。東西のほぼ中央あたりに在来線の改札口があります。改札口の上部の全面に、列車の発車時刻が掲示されています。岡山駅開業時から走る山陽本線、山陰連絡の伯備線、兵庫県西南部とを結ぶ赤穂線、岡山県北部の中心都市津山に向かう津山線、中西部の中心にある総社市を結ぶ吉備線、四国連絡の本四備讃線(以下、「瀬戸大橋線」と書きます。)とかつての四国への玄関口宇野に向かう宇野線が、岡山駅から放射線状に延びています。岡山駅で乗り継ぐ乗客が多いのも理解できるような気がします。

これは、改札口の正面にある在来線の出発時刻です。様々な行き先に向けて出発していきます。岡山駅の隣駅は7駅あります。埼玉県の大宮駅に次いで、日本で2番目に多いのだそうです。ちなみに7駅とは、山陽新幹線の新倉敷駅と相生駅、在来線は山陽本線の北長瀬駅と西川原就実駅、瀬戸大橋線の大元駅、津山線の法界院駅、そして吉備線の備前三門駅です。

岡山駅は、明治24(1891)年、山陽鉄道(明治39=1906年の鉄道国有化以後は、山陽本線)の岡山駅として開業しました。神戸から西に延伸してきた山陽鉄道は、この年岡山まで延びてきました。

1番ホームです。在来線の一番東側にあります。1・2番ホームは山陽本線を西に向かう列車が発着します。
1番ホームの線路付近には、神戸からの距離143.4kmを示すキロポストが立っています。倉敷駅から鳥取県の米子市、島根県の松江市や出雲市駅に向かう“特急やくも”など伯備線(昭和3=1928年開業)の列車も、ここから出発していきます。

2番線のホームです。隣に伯備線の”特急やくも”が停車しています。このホームの東にはレールでできた柱が立っており、現在も上屋根を支えています。

この柱には“BARROW STEEL”と刻印されており、1889(明治22)年の刻印もありました。

こちらは、“CAMMEL SHEFFILD 1887”という英字の刻印が見えます。「週間JR全駅、全車両基地 岡山駅」によれば、イギリスのカムメル社製なのだそうです。1880年代にイギリスで製造されたレールが、本来の役割を終えた後も、ホームの上屋を支えているのです。製造されてから100年をはるかに超えた今も・・・。初代の岡山駅の時代の名残を今に伝えています。
3番ホームに、山陽本線の上り姫路行きの列車が停車していました。東岡山駅から分かれて播州赤穂に向かう赤穂線(昭和37=1962年開業)も、このホームから出発していきます。また、かつての津山線・因美線経由に代わり、山陽本線・智頭急行を経由して因美線に入り鳥取市に向かう”特急”スーパーいなば”も、このホームから出発しています。なお、このホームでは、列車の入線の告知に「いい日旅立ち」、「汽車」と「線路は続くよ、どこまでも」が使われています。

愛媛県の松山市・宇和島市を結ぶ予讃線の“特急しおかぜ”が停車している8番ホーム。宇野線(瀬戸大橋線)が発着するこのホームには1面のホームに4線(5~8番線)が設けられています。そのうち、6番ホー目と3両編成の普通列車が到着する7番ホームは行き止まりの形になっています。このホームからは、土讃線の”特急南風”で高知市へ、高徳線を通る”特急うずしお“で徳島市へ、本四備讃(瀬戸大橋)線を走る快速”マリンライナー”で香川県高松市へ行くこともできます。

岡山駅は、四国4県の県庁所在地と直接つながっているのです。また、新幹線で広島県の県庁所在地、広島市とつながり、1~4番ホームから発着する特急列車で山陰の県庁所在地、松江市・鳥取市と直接つながっています。 「中四国の結節点」岡山県の地位は、新幹線など、岡山駅を起点とした鉄道網でも支えられています。まさに、中四国の結節点ですね。

かつて、四国連絡の役割を担った宇野線と、現在その役割を担っている瀬戸大橋線の起点は岡山駅です。8番線と隣の9番線の間の線路付近に、黄色いポールがありました。起点を示す0キロポストです。「0k000m」とかかれています。宇野線は、明治43(1910)年の開業です。同じ年に、宇高連絡船も就航しました。このホームでは、列車が入ってくるとき、「瀬戸の花嫁」のメロディが流れてきます。

在来線の特急への乗り継ぎ客の便宜のために、特急券の自動販売機が6・8番ホームに立っています。岡山駅ではこの1カ所だけに設置されています。

このホームの東の屋根は、今も木造の柱が支えています。

そこには、「大正12年12月」という「建物資産標」の表示が残っています。岡山大空襲を耐えて生き残っています。岡山駅舎は大正15(1926)年に2代目駅舎が建てられていますので、これは初代の駅の名残と考えられています。

このホームの東にある5番ホームへの入り口には、木造の上屋の妻壁が残っています。

装飾を考えたのだと思いますが、これも初代の駅舎の名残です。

かすかに塗料がはげて赤く見えている屋根は、新しい東西連絡通路の反対(東)側にある、東陸橋のものです。

東陸橋をホームから撮影したものです。これまで見てきた木製の柱も、木造の上屋の妻壁も、レールでできた柱も、すべてこの東陸橋付近に残っていました。

昭和35(1960)年に建築された東陸橋。そこに、木製の袖壁が残っています。3代目駅舎は、新幹線が岡山まで延伸したとき(昭和47年)に建設されていますので、2代目駅舎時代の名残だと思います。

岡山駅には、ホームをつなぐ通路には、もう一つ地下通路があります。大正11年(1922)年の建造だそうですが、初代駅舎の時代につくられたものです。ホームに上る階段と通路とのコーナー部分(4番ホームを示す掲示が設置された部分)に丸みを帯びたところがあり、当時のモダン建築の雰囲気を伝えています。

宇野線の0キロポストの西側に立つ白いポールが、津山線(9番線)の0キロポストです。

明治31(1898)年、中国鉄道が岡山市・津山間で開業しました。しかし、山陽鉄道との話し合いがつかず、岡山駅に乗り入れたのは、明治37(1904)年のことでした。この年に開業した吉備線と同時に岡山駅に乗り入れることになったそうです。快速”ことぶき”が発車を待っていました。

隣の10番ホームは、吉備線のホームです。吉備線の赤い車両のそばに、吉備線の0キロポストがありました。
開業当時の吉備線は、岡山駅・総社駅(現東総社駅)・湛井(たたい)駅間で運行していました。昭和19(1944)年に、西総社駅(現総社駅)・岡山駅間が国有化され吉備線になり、岡山駅・津山駅間は津山線となりました。なお、9番・10番線は、「桃太郎」が入線告知に使われていました。

東西連絡通路を東口に降りていくと、駅前の噴水の近くに桃太郎像が建っています。犬、さる、雉をお伴に鬼退治にいった桃太郎の若々しい姿です。吉備の温羅(うら)伝説にちなむ「桃太郎」のお話の主人公です。

東口から東西連絡通路に上っていく階段の左側にある「つどいの広場」、そこに飾られている壁画「躍進」。新幹線の岡山開業にあわせて、昭和47(1972)年、地元の民間放送局、山陽放送(RSK)が岡山駅の玄関口を飾る作品を設置しようと企画しました。岡本太郎氏の作品です。


「週刊JR全駅・車両基地シリーズ」で読んだ岡山駅の姿に刺激されて、普段なにげなく通っていた駅の構内を、ゆっくりと歩いてみました。「知る」ことはなかなか楽しいものだと気がつきました。「躍進」の作品のように、中四国の結節点として「躍進する岡山県」であり続けたいものですね。