トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

水間鉄道水間観音駅を訪ねる

2018年09月28日 | 日記

水間鉄道水間線(以下「水間線」)の水間観音駅です。水間線は、水間寺へ参詣する人々を輸送するために敷設された鉄道です。長く「水間駅」として親しまれて来ましたが、平成21(2009)年「水間観音駅」に改称されました。貝塚市水間にある駅です。相輪のついた「卒塔婆風の外観をもつ駅」として広く知られています。平成11(1999)年に、国の有形登録文化財に登録されています。

水間寺の本堂と三重塔です。「寺伝」によれば、天平年間(729~749年)に聖武天皇の勅願により、行基が開創した寺院です。聖観世音菩薩を本尊とする天台宗別格本山の寺院で、「水間観音」と呼ばれ多くの人々の尊崇を受けて来ました。「水間観音駅」に改称されたのも、このような経緯によるものでしょう。

南海電鉄本線の貝塚駅に隣接している水間線の貝塚駅です。貝塚の「だんじり祭り」に協賛する提灯が掲げられています。「だんじり祭り」といえば岸和田が有名ですが、元禄16(1703)年、岸和田藩3代藩主岡部長泰が京都の伏見稲荷を岸和田城内に勧請し、五穀豊穣を祈願して稲荷祭りを行ったのが、その起源だといわれています。貝塚も岸和田藩の領内だったためこうして「だんじり祭り」を行っているようです。

水間線は、大正14(1925)年12月24日、貝塚南駅~名越(なごせ)駅間が開業したことに始まります。そして、4日後の12月28日、貨物線の貝塚駅~貝塚南駅間が開業。それから約1ヶ月後の大正15(1926)年1月30日、名越駅~水間駅(現・水間観音駅)間が開業しました。そして、昭和9(1934)年1月20日、貝塚南駅~貝塚駅間でも旅客輸送が始まり、貝塚駅~水間駅間の全線で旅客営業が行われるようになりました。ちなみに、貨物営業は、昭和47(1972)年5月1日に廃止されています。

水間線に乗って水間観音駅に向かう前に訪ねてみたいところがありました。 水間線貝塚駅のすぐ前に、線路と並行して走る通りがあります。その道を線路に沿って歩きます。

5分ぐらいで、水間線の踏切に着きました。踏切を渡った先に、白壁のお宅が見えます。かつて、この付近にあった駅を確認するつもりでした。

踏切から見た水間観音駅方面です。左側の線路脇に0キロポストとその先の勾配標が見えます。この0キロポストは水間線の起点を表しています。開業時の水間線の起点は貝塚南駅でしたので、このあたりに貝塚南駅があったことになります。貝塚駅から200mのところでした。近くのお店の人にお聞きすると「このあたりに貝塚南駅があったよ」とのことでした。昭和9(1934)年に貝塚南駅~貝塚駅間で旅客営業が開始するまで、貝塚南駅には、行き止まりの線路がホームを挟んで2本と、駅構内を右にカーブする線路(貝塚駅に向かう貨物線)があり、駅舎は行き止まりになった線路の先にあったそうです。(web上の「0キロポスト」を参考にさせていただきました)

勾配標の先を撮影しました。線路の向こう側の空き地のあたりに、貝塚南駅の旅客用のホームがあったそうです。

線路を渡って、水間観音駅方面を撮影しました。画面の向こうから手前に向かって旅客用のホームが延びており、貝塚南駅の駅舎は前面の白壁のお宅のあたりにあったと考えられています。

踏切の手前に、線路に沿って延びる通りがあります。その道を進んでいきます。左側に貝塚郵便局、右側に「シルバー人材センター」が入る建物があるところで広い通りに出ます。そこで右折すると、水間線の海塚(うみづか)第1踏切に出ます。

写真は、海塚第1踏切から貝塚駅方面を撮影したものです。右側が「シルバー人材センター」が入っている建物です。その前の線路との間に空き地が見えます。貝塚南駅は、昭和27(1952)年に「海塚(うみづか)駅」と改称されましたが、その時に、貝塚南駅から100m(貝塚駅から300m)離れたこの地に移ってきたそうです。空き地はホームの跡だといわれています。その後、海塚駅が、昭和47(1972)年に廃止されるまで、この地で営業を続けました。

このマップは水間線の貝塚駅に掲示されていたものです。移ってきた海塚駅の場所が示されています。

水間線の貝塚駅に戻ります。自動券売機の右側には駅事務所。問い合わせなどにも対応してくださいます。自動券売機で切符を買って入ります。水間観音駅まで290円でした。窓口でお聞きしますと「乗り放題きっぷ」もあり、電車だけなら600円。水間線の貝塚駅と水間観音駅で買うことができるそうです。

ホームに入ります。写真は、通ってきた改札口を振り返って撮影しました。改札口はありましたが、駅スタッフに切符を見せて入ればいいようです。

正面に時刻表と運賃表。水間線は、直営駅の貝塚駅と水間観音駅以外は、電車の中で両替や支払いを終えるようになっています。

2番ホームの中ほどから見た駅事務所方面です。線路の先には車止めがありその先は駅事務所です。

反対側の1番ホームです。左の白いビルはJR貝塚駅への連絡階段と通路になっています。その左側は南海電鉄貝塚駅です。この駅は、水間線に先立つ明治30(1897)年10月1日に開業しています。

ホームの水間観音駅側です。水間線は電化されていますが、全線単線の区間です。その先で、線路は大きく左側にカーブして、0キロポストのあった踏切に向かっていきます。現在の車両は、平成2(1919)年に架線電圧を1500ボルトに昇圧したとき、東急電鉄の7000系車両に置き換えたもので、現在、2両編成を5本(計10両)所有しているそうです。車両番号も順次1000形に改められています。

水間観音駅からやって来た電車が到着しました。ワンマン運転の2両編成、1001号車(貝塚駅方)と1002号車(水間観音駅方)です。 水間線は、基本的には、貝塚駅からは毎時15分、35分、55分発、水間観音駅からは、毎時12分、32分、52分発になっています。終点までの所要時間は15分。中間駅の名越(なごせ)駅には、水間線唯一の1面2線のホームがあり、ここで行き違いをしています。

折り返し、水間観音駅行きになる電車です。ロングシートの車両です。通勤・通学時間帯を過ぎていましたので、2両編成ですが乗客は10人程度でした。

この日見たオリジナルヘッドマークです。1万円でオリジナルヘッドマークをつくり、10日間運行する電車につけて走るという企画だそうで、現在もこのような形で行われています。

貝塚駅から15分で、水間観音駅に着きました。2面2線のホームです。

乗車してきた、赤いラインの1001号車と1002号車です。2両編成の車両にしては長いホームです。

ホームの端から見た貝塚駅方面方面です。待避線で、青いラインの1003号車(貝塚駅側)と1004号車(水間観音側)が停車しています。

静態保存されているクハ553号車です。72両製造された元南海電鉄1201系の車両で、昭和8(1933)年にデビューしました。水間線には、12両が、昭和46(1971)年に移ってきました。架線電圧600ボルトの車両で、水間線への入線当時は、写真のようなクリーム色とマルーンの塗装になっていたそうですが、その後、クリーム色に赤と水色の2本の帯がついた塗装に変わりました。 平成2(1990)年架線電圧を1500ボルトに昇圧し、昭和63(1989)年から平成2(1990)年にかけて東急電鉄の車両を導入したことにより、この1両が静態保存されることになりました。

ホームから見た駅舎です。寺院風の駅舎の相輪が見えています。

改札を抜けて駅舎内に入ります。

中心部の天井部分です。洋風のデザインである吹き抜けになっています。鉄筋コンクリート造りで、大正15(1926)年に建設されました。建設から90年以上経過していますが、今も基本的な構造は替わっていないそうです。冒頭で書きましたが、平成11(1999)年、国の登録有形文化財に登録されています。大阪府では、南海電鉄の浜寺公園駅と諏訪ノ森駅に続いて3件目の登録でした。

駅前広場に出ました。卒塔婆風の外観が水間寺の最寄駅らしい雰囲気を醸し出しています。

これは駅舎に掲示されていた水間観音駅付近の案内図です。この日は最後に水間寺にお詣りすることにしていました。マップの通り水間観音駅から下の方に向かい、喫茶母恵夢(ポエム)から水間街道を歩いて行きます。

喫茶母恵夢の角にあった道標です。「水間観音駅」と「龍谷山水間寺」の文字が」見えました。「奥貝塚・水間まち並みづくり協議会」によって建てられた道標でした。「龍谷山水間寺」の方に向かいます。

水間寺への参道という性格を持っていた水間街道です。両側に続く懐かしい伝統的な家並みの間を進んで行きます。広い敷地に大きな構えの民家が続いています。

マップの「水間街道」と「新水間街道」の合流点の先、水間寺の向かいの通りです。織田信長・羽柴秀吉が天下統一をめざしていた時代、紀伊国は高野山、根来寺、雑賀集などの寺社や国一揆など、中央集権への動きに対立する勢力が、高い経済力と軍事力をもって地方自治を行っていました。天正13(1585)年、羽柴秀吉が根来へ侵攻したとき、水間寺は根来側についたため、本堂を焼失するなど大きなダメージを受けました。

厄除橋から水間寺に入ります。
寺内にあった説明には、「水間寺の寺号は、蕎原(そぶら)川と秬谷(きびたに)川の合流点に位置することによる」と書かれていました。江戸時代、水間の地域は岸和田藩の支配を受けるようになっていましたが、寛永17(1640)年に岸和田藩主として入封した岡部氏は藩内の寺社の復興に積極的に取り組みました。水間寺もその支援を受け、本堂は、文化8(1811)年に再建され、三重塔は、天保5(1834)年に建立されました。

本堂は、入母屋造り、本瓦葺きの二重屋根をもち、大阪府内でも最大級の規模になっています。三重塔は大阪府内で唯一のものだといわれています。

水間鉄道水間線は、水間寺への参拝客の輸送のために開業しました。
この日は、水間寺と水間観音駅を訪ねてきました。水間観音駅は、開業から90年を経ていますが、今なお現役の駅舎として使用されています。国の登録有形文化財の駅として、これからも、長く活躍してほしいものです。



駅舎に櫓がある駅 JR学駅

2018年09月16日 | 日記
四国の中心部を東西に流れる四国一の大河、吉野川。その右岸の田園地帯を、吉野川とほぼ並行して走る鉄道があります。徳島県三好市の佃駅から徳島市の佐古駅に至る、全線徳島県内を走るJR徳島線です。実際の運用ではJR阿波池田駅とJR徳島駅が起終点になっています。

青春18きっぷの期限が迫った日、久しぶりにJR徳島線に乗ってきました。徳島駅の2番ホームで出発を待つワンマン運転の1500形気動車です。排気ガス中のチッ素化合物を60%削減したというJR四国が誇るエコ車両です。また、従来の1000形車両に比べ床面の高さが80ミリ低い1100ミリ、車椅子に対応したトイレを設置し、車椅子スペースも確保したつくりになっているバリアフリー車両でもあります。平成18(2006)年から平成26(2014)年までの8年間で34両が製造されました。この日に乗車した1567号車は平成25(2013)年に近畿車輛で製造された車両です。

12時39分発の穴吹駅行きの列車が出発しました。列車は佐古駅に向かって高架を上っていきます。車両の最後尾から見た徳島駅方面です。複線区間に見えますが、左側に見える線路はJR高徳線の線路です。徳島線と高徳線の2つの単線路線が並んでいる区間になっているのです。

佐古駅を出ました。最後尾から見た佐古駅のホームです。やがて、高徳線は左に離れて行くことになります。JR徳島線は、のどかな田園地帯を走ることもあり、穏やかな気分になれる路線です。
沿線にある町のうち、うだつのある商家建築が並ぶ脇町(穴吹駅が最寄駅になります)と貞光町(「うだつのある町、徳島県脇町と貞光町」2011年3月14日の日記)、穴吹駅と貞光駅の中間にある小島(おしま)駅(「”青春18きっぷ”のポスターの駅」JR小島駅」2014年9月30日の日記)、阿波池田町(「阿波池田、うだつの町並み」2012年8月16日の日記)はすでに訪ねてきました。この日は、受験生に人気の「合格祈願きっぷ」の入場券で知られるJR学駅を訪ねることにしました。

JR徳島駅から40分余(24.8km)、13時20分過ぎに学駅の2番ホームに到着しました。学駅の2番ホームは穴吹・阿波池田方面行きの列車が、1番ホームには鴨島・徳島方面に行きの列車が停車することになっています。運転士に青春18きっぷを見せて、地元の人らしい3人の人とともに下車しました。

列車はすぐに出発して行きました。ホームの阿波池田駅側の端にある跨線橋が見えます。

向かいの1番ホームにあった駅名標です。学駅は吉野川市川島町にあります。阿波川島駅から3.5km、次の山瀬駅へ2.8kmのところにある駅です。徳島線は、明治32(1899)年2月16日、徳島鉄道によって徳島駅・鴨島駅間が開業したことに始まります。そして、8月19日には川島駅(現・阿波川島駅)まで延伸しました。学駅が開業したのは、同年12月23日に山﨑駅(現山瀬駅)まで延伸したときでした。現在までに、開業から120年近い年月が流れています。

駅舎の上屋から突きだした櫓が見えます。
学駅は駅舎に櫓のある駅です。徳島鉄道として開業しましたが、8年後の明治40(1907)年に国有化され、明治42(1909)年、徳島線と線路の名称が決められました。現在の徳島線にあたる区間が全線開通したのは、大正3(1914)年に川田(かわた)駅・阿波池田駅間が開業したときでした。

跨線橋の上から見た徳島方面です。2面2線の長いホームが広がっています。JR四国にある特急列車との行き違い駅では、1線スルーになっている駅が多くあります。徳島線も徳島駅から鴨島駅までは1線スルーになっていますが、学駅はまだ1線スルーの対応ができていないようです。

跨線橋の上から見た学駅の南側の風景です。豊かな緑の中に、比較的新しい民家が並んでいます。
駅名にある「学」地区は、駅の南側一帯の地域だといわれています。「学」の地域は、もとは「学島村」といわれ、かつて、この地に阿波国の学問所があったため名づけられたといわれています。また、この地の了慶寺におられた名僧を慕って全国から学びに来る人がいたことから名づけられたとか、「学」は、「ガク」は「ガケ」に通ずるとして「崖状を成した地形」から名づけれたともいわれています(「おもしろ地名駅名歩き事典」村石利夫著 みやび出版)。ちなみに、崖状の地形は、学地区の南側にあるといわれています。

以前、脇町、貞光、阿波池田を訪ねてきましたが、吉野川の沿岸地域は大雨とそれに伴う洪水に苦しんできました。年間降水量が2000ミリを超える地域で、大雨や洪水は夏の稲の生育時期に起こり、米の収穫は難しかったといわれています。そのため、米に替わる農作物として藍やタバコの栽培が盛んになりました。上流地域の池田町や貞光町はタバコの取引で財を成した商人が多かったところです。そういう経緯から、商人が建てた家並みが今も残っています。しかし、日露戦争の戦費を得るため、政府がタバコの専売制度を敷いたため、池田町のタバコの扱いは激減しました。一方、徳島名産の藍は、江戸時代、阿波徳島藩の財政を支える産物になっていました。中流地域の脇町では藍の取引で栄えた商人によってつくられたうだつの家並みが、今も多くの観光客を集めています。

跨線橋から見た駅舎の櫓です。よく見ると切妻屋根が四方に張り出したつくりになっています。

ガラスの部分には、花びらの模様がつくられていました。

1番ホームから駅舎に入ります。入口の幅と上の櫓の幅がほぼ同じ大きさになっています。

駅舎内の天井です。木組みがあるところが櫓の部分です。天井が上に盛り上がっていますが、すべて塞がれています。櫓は灯り取りの意味はないようです。装飾のためにつくられたのでしょうか。

駅舎の中にあった時刻表です。特急”剣山”が一日7往復、普通列車は日中は1時間、1~2本が運行されています。

駅舎の隅にあった自動券売機。学駅は平成22(2010)年から無人駅になっています。

駅舎から駅前広場に出ました。玄関ポーチと上部の櫓の幅が同じデザインになっています。美しい駅舎でした。

駅前には、バス停がありました。学駅は吉野川市川島町にありますが、隣の阿波市市場町の最寄駅にもなっており、市場町とをつなぐバスが運行されていました。

駅舎の東側です。自転車置場になっているところは、かつて、貨物を扱う事務所の建物があったところ、右側の高い所は貨車の線路が敷かれていたところだそうです。

駅舎の東側から見た駅舎の姿です。櫓と玄関ポーチと白壁がマッチしていて、どの角度から見ても美しい駅でした。

そこから、さらに東に向かいます。道路と駅の敷地との境界には、懐かしい枕木の柵がつくられていました。

駅舎内に戻りました。駅事務所の入口に、昨年度の「合格祈願きっぷ 学駅臨時発売のご案内」とお礼が掲示してありました。硬券の入場券5枚とお守り袋をセットにした「合格祈願きっぷ」の駅として受験生に人気の駅ですが、駅での販売は正月の一時期だけだったようです。

残念ながら、櫓のある駅舎は、明治32(1889)年の開業時からのものか、その後の改修・改築によってつくられたものかよくわかりません。櫓は、灯かり取りのためにつくられたものか、単なる装飾のためにつくられたのかもよくわかりませんでした。
でも、学駅は、合格祈願きっぷで全国に知られるようになりましたが、櫓のある駅舎は美しく魅力ある駅でした。



南海電鉄深日駅跡を訪ねる

2018年09月09日 | 日記
このところ、南海電鉄多奈川(たながわ)線の駅を訪ねています。
多奈川線は、南海本線のみさき公園駅から多奈川駅に向かう2.6kmの盲腸線です。かつては、沿線にある深日(ふけ)港から淡路島と四国に向かうフェリーに合わせて、大阪なんば駅から多奈川駅に乗り入れる直通急行「淡路号」が運行されており、多くの乗客で賑わっていました。

多奈川線の車両です。多奈川線を訪ねた日は、いつも、2200系車両(2252号車+2202号)の2両編成の電車が往復運転をしていました。 これまで、深日港駅(「南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる」2018年8月27日の日記)、多奈川駅(「大阪府で最も西にある駅、多奈川駅」2018年8月27日の日記)、深日町(ふけちょう)駅と多奈川線内の各駅を訪ねてきました。この日は、南海本線にあった深日(ふけ)駅跡を訪ねることにしていました。多奈川線深日町駅の開業によって、最終的に廃止された駅でした。

多奈川線の深日町駅です。駅舎の左側のアーチ形の高架の上を、多奈川線の電車が走っています。深日駅跡を訪ねるには、深日駅に取って代わる形で開業した深日町駅からがふさわしいと考え、ここからスタートしました。

深日町駅の前を走る大阪府道752号です。駅舎の右側の光景です。正面に多奈川線の鉄橋があります。鉄橋を左方向に向かうとみさき公園駅に、右方向に向かうと深日港駅・多奈川駅に向かいます。鉄橋の向こう側は深日中央交差点で、右に向かう府道65号と左に向かう府道752号(旧国道26号)が分岐しています。深日駅跡をめざして、左に向かって歩きます。

府道752号(和歌山阪南線)を進みます。左側に、泉州南消防組合岬消防署を見ながらさらに進みます。道路からは見えないのですが、消防署の裏の100mぐらいのところを、府道に沿って大川が流れています。

やがて、府道752号は右カーブになります。

右カーブが始まると、正面にブラウンの建物が見え始めました。深日変電所の建物です。変電所の向こう側を南海本線が走っているはずです。

カーブが終わると、道路の左側の大川と並んで進むようになりました。前方右側に高齢者施設の建物が見えました。

大川にかかる南海橋です。高齢者施設の前に架かっています。ここまで、深日町駅からゆっくり歩いて15分ほどでやってきました。

高齢者施設の向かいに建設会社の看板が見えました。看板の前を左折します。

南海橋を渡ります。旧深日駅への取付道路だと思いました。この先に変電所、そして深日駅跡があるはずです。

南海橋からの道の左側に、深日変電所がありました。明治44(1911)年に建設された煉瓦造りの建物です。建物の前に変電設備がありました。今も現役の変電所のようです。

変電所を過ぎると、雑草に覆われた細い道になります。その先に、南海本線の線路が見えました。旧深日駅が開業したのは、明治31(1898)年、南海本線の尾崎駅・和歌山北口駅(現紀ノ川駅付近)間が開業したときでした。現在、泉南郡岬町になっている深日、多奈川、孝子(きょうし)地区の人々が利用する駅でした。しかし、当時、地元の人たちは「若者が和歌山市などの都会に出て遊びを覚えることを防ぐため、できるだけ集落から離れたところに設置してほしい」という願いを抱いていたそうです。それに応えたからかもしれませんが、深日駅は、深日、多奈川地区から離れた、山深いところに設けられていました。(「私鉄全駅全車両基地『南海電気鉄道①』週刊朝日百科」より) 「線路用地内 立入禁止 南海電気鉄道株式会社」と書かれた立札が目に入ってきました。

安全確認を繰り返し行って、立札の付近まで入らせていただいて撮影しました。複線の線路の両側に、雑草に覆われたホームの跡が残っていました。2面2線のホームだったようです。さて、深日駅の利用者は、先に書いたような経緯があったためか、さほど多くはなかったようです。深日駅が開業する以前と同じように、大川を船で移動して箱作(はこつくり)駅に向かう人もおられたそうです。

この写真は、和歌山市駅に向かう南海電車の先頭車両から見た深日駅跡の全景です。

変電所の建物の近くに来ました。どっしりと存在感のある美しい建物でした。
その後の深日駅を取り巻く動きをたどってみます。大正4(1915)年には、南海本線に孝子駅が開業しました。また、昭和19(1944)年に多奈川線が開業して深日町駅が開業すると、深日駅は旅客扱いを休止し貨物駅に変わって行きました。そして、その翌年の昭和20(1945)年には駅業務を休止し、昭和33(1958)年に正式に廃止となりました。多奈川線の深日町駅が開業したことが、深日駅のその後に大きな影響を与えたことは明らかです。 廃止から60年経ちましたが、残されたホームと周辺の光景が、深日駅の哀しい歴史を今に伝えてくれています。

変電所の窓は塞がれているようです。今は、倉庫として使用されているのでしょう。

引き返します。南海橋を渡り府道に出ました。右側にある大川の流れに沿って進みます。大川は、この先も、深日町駅の先まで府道752号に並行して流れ、その後、府道を横切った後、深日港の東部付近で、大阪湾に流れ出て行きます。

道路の左側に車の形をした建物が見えました。車輪の部分も残っていました。「中華そば」と書かれています。

近くで見ると、左側にバスのフロント部分がありました。バスの車体を使用した食堂の跡のようです。郵便受けも残っていました。

このとき、前方の右の山裾を南海本線の電車が通過していきました。

これは、その少し先の光景です。右から左に進んでいた本線に対し、多奈川線は左側の山裾を左から右に進み、両線は中央の二つの山塊の間で合流し、みさき公園駅に向かっています。

これは、みさき公園駅に向かう多奈川線の電車内から見た本線との合流地点です。二つの山塊の間を南海電車は走っているようです。

大阪府の最南端にある泉南郡岬町を走る多奈川線には、それぞれ特徴のある駅がありました。
大阪府の駅の中で最西端にある多奈川駅、淡路島や四国への最短ルートとして賑わった深日港駅、三連アーチ形の高架のホームに上がる階段が残っていた深日町駅、雑草に覆われてはいましたが、哀しい歴史を伝える深日駅と、訪ねる度に新しい発見がありました。





多奈川線深日町駅に向かう

2018年09月04日 | 日記
南海本線から分岐する鉄道が6路線あります。汐見橋線、高師浜(たかしのはま)線、空港線、多奈川(たながわ)線、加太線、和歌山港線の6路線です。これまで、汐見橋線(「レトロな駅舎が続く、南海電鉄汐見橋線」2015年12月17日の日記)と高師浜線(「私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る」2015年11月27日の日記)は訪ねてきました。

南海電鉄多奈川線は、大阪府の最南端、泉南郡岬町にあるみさき公園駅から、多奈川駅までの2.6kmの路線です。戦時中の昭和19(1944)年、潜水艦などを製造していた川崎重工業泉州工場で働く従業員の輸送を目的に開業しました。みさき公園駅から、深日町(ふけちょう)駅、深日港(ふけこう)駅を経て、終点の多奈川駅までを、2両編成ワンマン運転の電車が6分ぐらいで結んでいます。写真は、多奈川線内を往復運転している南海電鉄の2200系車両(2252号車+2202号車)です。深日町駅で撮影しました。このところ、多奈川線の駅を訪ねていて、すでに、深日港駅(「南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる」2018年8月27日の日記)と多奈川駅(「大阪府で最も西にある駅、南海電鉄多奈川駅」2018年9月1日の日記)を訪ねて来ました。この日は、残る深日町(ふけちょう)駅を訪ねることにしていました。

以前訪ねた深日港駅です。昭和23(1948)年に開業した深日港の最寄駅です。深日港からは淡路島・徳島を結ぶ航路が開設され、大阪なんば駅から多奈川駅間に、直通急行「淡路号」が運行されていました。このルートは、大阪市と淡路島・徳島を結ぶ最短ルートとして、多くの人に利用されていました。

しかし、大阪港や神戸港からのフェリーが増加したことや、平成10(1998)年に明石海峡大橋が開通したことにより、輸送客が激減。深日港を起点にしていたフェリーは廃止されました。多奈川線の”直通急行淡路号”も、これより早い平成5(1993)年に廃止されています。写真は、繁忙期に使用されていた深日港駅の広い改札口です。今もそのまま残されており、多くの乗客で賑わっていた頃の面影を伝えています。

深日港で出発を待っている高速船”インフィニティ”です。かつての賑わいを取り戻すため、岬町と淡路島の洲本市は、深日港と洲本港の間を55分で結ぶ”深日洲本ライナー”(1日4往復)の試験運行を、昨年に引き続き行っています、期間は、平成30年7月1日から来年の2月までとなっています。

「深日港駅」の駅名は難読駅として知られています。「ふけ」は「湾曲したところ」を表す「ふくれる」「ふくろ」が転じた「ふけい」に由来するそうです。また、「深日」の字は、奈良時代に法隆寺が朝廷に提出した財産目録に「河内国日根郡鳥取郷深日」と書かれているそうで、いずれも奈良時代までさまのぼることができる由緒ある駅名(地名)のようです。
この日は、深日港駅から深日町駅を訪ねるつもりでした。深日港駅から駅前広場の先を撮影しました。踏切の向こうに和風の建物が残っていました。昭和の雰囲気を残す通りだとお聞きしたこともあり、ここから歩いて深日町駅に向かいました。

多奈川線に沿った道を昭和の雰囲気を探して歩きました。建物には「旅館とらや」の文字がありました。旅館の建物でした。人の気配がなく廃業されているようでした。かつては、多くの宿泊者で賑わっていたと思われます。

裏に回ってみました。引き返して深日港駅前の踏切を渡り大阪府道65号(岬加太港線)を深日町方面に歩きます。多奈川線の線路の向こうに、とらや旅館の存在感のある建物が見えました。

とらや旅館に戻り、深日町駅をめざして歩きます。とらや旅館のすぐ先の左側に、「岬荘」と書かれた木造アパートが残っていました。しかし、草に覆われて、がラスはすべて破壊されていて、屋根と柱と壁だけといった状況でした。使われなくなって、かなりの時間が経過しているようです。

その先の左側にあった”お好み焼き よっちゃん”のお店です。ここも廃業されていました。

古くからの通りに、和風の民家が並んでいます。

道なりに進みます。静かで落ち着いた雰囲気を感じる通りです。

正面左側に「地球塾」の看板があるところを右折して進むと、深日町駅の近くに行くことができます。

右側の民家の間から、深日港駅に向かう多奈川線の電車が見えました。突きあたりのピンク色の建物がかすかに見えました。

突き当たりにあるピンク色の建物の前に来ました。「軽食喫茶ロータリー」と書かれた看板がありました。残念ながら廃業されているようでした。この通りは、大阪府道752号和歌山阪南線(旧国道26号・2017年から)のみさき公園側(左側)です。

府道752号の右側です。深日中央交差点です。通りを跨ぐ多奈川線の鉄橋の手前、右側に深日町駅があります。府道752号は、交差点から左に向かって、和歌山市に向かって延びています。ここで右に分岐しているのが、府道65号(岬加太港線)です。多奈川線は、この通りと並行して、多奈川駅に向かっています。

深日町駅です。左側の多奈川線の高架はアーチ状になっています。三連のアーチが見えました。

深日町駅を過ぎて、多奈川線の鉄橋の下に入りました。正面がみさき公園駅方面です。2車線分の幅があります。左側の鉄橋上には線路が見えますが、右側には線路がありません。多奈川線が開業した頃には、2車線分の線路が敷設されていたのではないでしょうか。

鉄橋の下をくぐって府道65号の脇に出ました。府道を横断する陸橋と三連アーチが見えました。

これは、横断陸橋から見た三連アーチです。

横断陸橋からの線路とホームの姿です。よく見ると駐車場と高架線の間に、樹木で覆われていましたが、ホームに上がっていく階段が残っていました。現在は、駐車場になっていて階段を上ることはできませんが、駐車場の部分を通れば、駅前広場からアーチの下を抜けて階段に行くことができます。かつては、こちら側の線路も敷設されていたのだと確信しました。

自動券売機で切符を購入してホームに向かいます。改札の先に長い階段がありました。

1面1線のホームに上がりました。ずいぶん下の方に駅舎の屋根が見えました。

ホームから見たみさき公園駅方面です。駅から出発して行った電車が見えますが、みさき公園駅からやって来た多奈川駅行きの電車は、まっすぐに向こう側のホームに入る構造になっています。

こちらは、多奈川駅方面の光景です。ホームにある上屋と向こう側にかつてのホーム跡が見えました。やはり、かつては2面2線のホームをもった駅だったようです。しかし、対向するホームを使用していたという記録は残っていないのだそうです。

ホームの上屋の中にあった駅名標です。深日町駅は、みさき公園駅から1.4km、深日港駅まで0.7kmのところにありました。

ホームの間にあった「駅中心点 1k000M」の標識です。みさき公園駅から1.4kmと、距離は少し違っていましたが、なぜなのかよくわかりませんでした。他の多奈川線の駅と同じように、長いホームが残っています。現在は2両編成の電車が走っていますので、ホームに柵が作られています。かつての”直通急行「淡路号」は6両編成で運用されていましたので、その名残だといわれています。

多奈川線の深日町駅を歩きました。深日町駅は、岬町に合併する前の旧深日町の最寄駅として開業しました。
高架上にある線路を支える三連アーチと府道を跨ぐ橋桁が印象的な駅でした。



大阪府で最も西にある駅、南海電鉄多奈川駅

2018年09月01日 | 日記
南海電鉄の本線から分岐する路線は、汐見橋線、高師浜線、空港線、多奈川線、加太線と和歌山港線の6線ですが、すでに、汐見橋(しおみばし)線(「レトロな駅舎が続く、南海電鉄汐見橋線」2015年12月17日の日記)、高師浜(たかしのはま)線(「私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る」2015年11月27日の日記)は訪ねて来ました。今回は、大阪府最南端の町、泉南郡岬町を走る多奈川(たながわ)線に乗って、多奈川駅を訪ねることにしていました。多奈川駅は、大阪府の最西端に位置する駅として知られています。

みさき公園駅です。多奈川線の起点になっています。多奈川線は、戦時中の昭和19(1944)年に、潜水艦などを建造していた川崎重工業泉州工場に勤務する従業員を輸送することを目的に、南淡輪(みなみたんのわ)駅をこの地に移設し、多奈川駅とを結ぶ鉄道として開業しました。当初は会社合併により、近畿日本鉄道の路線としての開業でした(昭和22年、会社分離により南海電鉄多奈川線になっています)。現在の「みさき公園駅」に改称されたのは、隣接するみさき公園が開園された、昭和32(1957)年4月のことでした。また、現在の姿に改装されたのは、平成2(1990)年。南海電鉄では「海を思わせるヨットのデザインを採り入れ、紺と白を基調とした外装と熱線反射ガラスを採用した」と説明されています。平成14(2002)年には、「第3回近畿の駅百選」に選定されました。「青い空とマッチしたモダンで清潔な駅」だなと感じました。

この地図は、”深日港観光案内所さんぽるた”でいただいたパンフレットに載っていたものです。みさき公園駅から深日町(ふけちょう)駅、深日港(ふけこう)駅を経て終点多奈川駅までの2.6kmの鉄道です。この日は、終点の駅、多奈川駅を訪ねることにしました。

多奈川線の電車に乗車しました。この日は、2252号車(多奈川側)+2202号車(みさき公園側)の運用でした。行き先表示には「みさき公園・多奈川」と書かれています。多奈川駅に着いてから撮影しました。

車両の内部です。土曜日の昼過ぎの電車でしたので、乗客はほとんどおられませんでした。

みさき公園駅を出たワンマン運転の2200系2両編成の電車(2202号車+2252号車)は、途中で、並行してきた南海本線と離れて進んで行きました。

前回訪れた深日港駅(「南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる」2018年8月27日の日記)まで2.1km。駅前の踏切から見た多奈川駅です。

深日港駅から1分(500メートル)、みさき公園駅から6分で、多奈川駅に着きました。2面1線のホームにまっすぐに入って行きます。

2面1線のホームです。頭端式のホームの突きあたりに車止めがありました。全長2.6kmの短距離路線ですが、これを見ると、遠くにやって来たなあと感じてしまいます。車止めの向こう側に駅舎が見えました。向かって左側のホームの左側には、今は撤去されていますが、かつては線路があり2面2線の駅になっていました。

乗車してきた2200系車両です。みさき公園駅と多奈川駅間の線内を往復運転しています。左側のドアが開き、左側のホームに降車しました。現在はこのホームで乗降が行われています。長いホームを駅舎に向かって進みます。

駅舎の前に移動して、2面1線のホームの右側のホームを撮影しました。現在は使用されていないホームですが、かつては、降車用のホームだったともいわれています。駅舎前から見えた深日港駅方面です。ホームの上屋の先に長いホームが残っています。ホームは柵で囲まれ、安全面の配慮がなされています。今でこそ2両編成の電車が運行されていますが、6両編成の電車が入線していた時代がありました。

昭和23(1948)年に完成した深日港です。川崎重工業泉州工場の船溜(ふなだまり)を改修して深日港が完成すると、深日港から淡路島や徳島に向かう航路が開設されました。昭和22(1947)年の路線譲渡によって多奈川線を所有していた南海電鉄は、昭和23(1948)年11月3日に、多奈川駅と深日町駅の間に深日港駅を開設し、難波駅から多奈川駅に乗り入れる直通急行(「淡路連絡急行「淡路号」)を運行するようになりました。このルートは、大阪市と淡路島・徳島間を結ぶ最短コースとして、やがてメインルートになっていきました。6両編成で運行された「淡路号」に合わせて、長いホームがつくられていたのです。

こちらは、2面1線のホームの左側のホームです、駅舎の前から深日港方面を撮影しました。ホームの脇の草に覆われてるところに、線路の跡がありました。2面2線のホームだった頃、ここが1番線でした。到着した線路が2番線になっていました。

これはホームの上屋です。どっしりとした重量感のある上屋の下に、ベンチが設置されていました。多くの人で賑わった多奈川線ですが、平成10(1998)年の明石海峡大橋の開業によって、深日港を拠点にしていた旅客船業者は大きな打撃を受け、深日港から撤退して行きました。多奈川線の花形であった「淡路号」も、それに先立つ平成5(1993)年に廃止されています。

駅スタッフをお見かけしましたが、自動改札機で改札を出ました。駅舎には自動券売機が設置されていました。通勤時間帯には1時間に3本、その他の時間帯は2本の列車が運行されていました。

駅舎の外へ出ました。平屋建ての駅舎です。広い駅前広場がありました。多奈川駅が開業された頃をしのぶことができます。

駅舎に向かって左側には、広い自転車置き場がありました。

広場から多奈川線に平行して走る通り(大阪府道65号岬加太港線)に出ました。岬町を走るメインルートです。かつての町の雰囲気を残す建物がありました。

通りから見た多奈川駅のホームです。長いホームにどっしりとした上屋が見えました。

多奈川線のホームの海側には、かつての川崎重工業に替わって、新日本工機の工場が広がっています。多奈川線は、今もここにある工場の従業員の”通勤の足”という役割を担っているようです。

多奈川線に乗ってきました。
大阪と淡路島・四国を最短コースで結ぶための大きな役割を果たしていた南海電鉄多奈川線。多くの人に親しまれた淡路連絡急行「淡路号」の栄光の歴史を支えた路線でした。その当時の面影は、今も残る長いホームからわずかにしのぶことができました。
いつまでも、その当時の面影を後世に伝えてほしいと願っています。