トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR安浦駅と武智丸

2020年09月27日 | 日記
二隻の船がつながっているように見える防波堤の先に灯台が見えます。太平洋戦争中に造られたコンクリート船の第一武智丸と第二武智丸でつくられた防波堤です。広島県呉市安浦町の三津口湾内の安浦漁港にあります。この日は、コンクリート船でつくられた防波堤を見るため、JR呉線の安浦駅を訪ねました

JR呉線の東側の起点、三原駅から乗車した広駅行きの227系電車は、1時間余りで、JR安浦駅の3番ホームに到着しました。前方に安浦駅を跨ぐ横断陸橋が見えました。

電車は、次の安登駅に向かって出発して行きました。呉線は、軍都、広島市と
軍港、呉市(明治35年に市制を敷く)を結ぶため、明治36(1903)年、海田市駅・呉駅間が開業したことに始まります。東側の起点、三原駅側からは、昭和5(1930)年3月に、三原駅・須波駅間が三呉線として開業しました。その後、西に向かって延伸し、現在の安浦駅が開業したのは、昭和10(1935)年2月のことでした。「三津内海(みつうちのうみ)駅」としての開業でした。そして、その年の11月24日、三津内海駅・広駅間が開業して全通し、呉線と改称されました。
駅名標です。安浦駅は、風早駅(東広島市)から6.3km、次の安登駅まで4.5kmのところ、呉市安浦町にあります。
昭和19(1944)年、賀茂郡内海町、三津口町、野路村が対等合併し、賀茂郡安浦町が生まれました。それをきっかけに、「三津内海駅」として開業した駅は、昭和21(1946)年5月1日、安浦駅と改称されました。
安浦町は、その後、豊田郡と賀茂郡の町村の入れ換えにより、昭和31(1956)年、豊田郡安浦町となりました。そして、現在の呉市に編入されたのは、平成17(2005)年3月のことでした。


3番ホームの端から見た広駅方面です。左側に引き込み線が見えました。工事用車両の留置に使用されているそうです。
ホームの端から駅舎方面を撮影しました。手前の横断陸橋の先に跨線橋が見えます。駅舎は、3番ホームの右側、跨線橋の手前にあります。安浦駅は2面3線のホームをもち、島式ホームの右側が2番ホーム、向こう側が1番ホームになっています。広駅行きの電車は、基本的には駅舎寄りの3番ホームに、三原駅行きの電車は、1番、2番ホームに入線するようになっています。
駅舎に向かって引き返します。民家との境に引き込み線の車止めがありました。

切妻屋根の白い駅舎、横断陸橋の階段や駅前の建物などが見えます。安浦駅の1日平均の乗車人員は、平成30(2018)年には543人だったそうです。

島式ホームにある掲示板です。観光地図に、イラストの入った駅名標示、安浦駅の名所案内が並んでいます。後方には、比較的新しい民家や分譲中の土地が見えます。安浦駅は、新しい町づくりの進行中といった雰囲気が感じられる地域にありました。

駅舎まで来ました。上屋の下にベンチが置かれています。
駅舎の隣のトイレを越えた先に、屋根のついた跨線橋があります。
駅舎前から見た、島式ホームの上屋です。跨線橋と連なる形で設置されています。3脚のベンチが置かれ、待合いのスペースになっています。

長いホームを跨線橋を越えて進みます。ホームの端から見た三原駅方面です。ゆるやかに左にカーブしながら風早駅方面に向かっています。正面の円錐形の山は飯野山です。
三原駅側から見た跨線橋です。 平成30(2018)年7月5日からの西日本豪雨により、安浦駅は駅構内が冠水する被害を受けました。呉線の沿線では、ほかにも、線路への土砂の流入や斜面の崩壊などの被害もあって、呉線は163日間にわたり運休となりました。復旧したのは、その年の12月25日のことでした。

跨線橋を渡って島式ホームに降りました。島式ホームから見た、安浦駅の木造駅舎です。
駅舎前に戻りました。

3番ホームを示す標識の脇の柱に建物財産標がありました。
「財 第6号 鉄 C停 旅客上家 S10 . 2 」と書かれていました。
昭和10(1935)年の開業時につくられた上屋のようです。

自動改札機が設置された改札口です。安浦駅は、平成8(1996)年、JR西日本広島メンテックによる業務委託駅になりました。
改札口を入って左側が待合いスペースです。木製のベンチが並ぶ広々とした空間です。

待合いスペースから見た事務所と自動券売機です。
駅舎から出ました。上屋が大きく外に張り出し、その奧に、飲物の自動販売機が設置されています。駅舎前にはタクシーが待機していました。
タクシーの脇の柱に、建物財産標がありました。
読みづらい写真ですが、「 建物財産標  財 第5号 鉄 C停 本屋1
S10 . 2 」 と書かれています。駅本屋も開業時のもののようです。

駅舎前の取付道路です。すぐ前に「安浦駅前交差点」があります。交差点の右側の樹木が茂っているところには、呉市立安浦中学校がありました。
駅舎前から駅前交差点に向かって右側(西側)の風景です。右側に見えるのは、駅の表側と裏側を結ぶ横断陸橋。近くに、安浦交通が運行する乗り合いバスが待機していました。
交差点に向かって左側です。安浦町の地図が掲示してありました。

安浦町の観光地図では、めざす武智丸は、安浦駅前交差点を左折して進み、国道185号(芸南街道)に出て、まっすぐ東に進んで行くとたどり着けるようです。
安浦駅前から見た駅舎の全景です。駅舎を出て、取付道路を駅前交差点に進みます。
交差点を左折して進みます。正面に、ホームで見た飯野山の姿がありました。この先で、国道185号に合流します。
国道185号の右側には細長く船溜まりが続いています。その右側に、広い土地が広がっています。地元の方は「かつて、塩田があったところだ」と言われていました。

やがて、三津口湾の沖合に、めざす防波堤が見えてきました。第一武智丸と第二武智丸の二隻のコンクリート船でつくられた防波堤です。 太平洋戦争の終戦直後の昭和20(1945)年9月、枕崎台風により三津口湾は甚大な被害を受けました。三津口湾には、防波堤がなく、それまでに何回も被害を受けていたため、この地の漁業協同組合の菅田国光会長は、昭和22(1947)年、県に防災のための防波堤を建設することを陳情しました。しかし、当時の技術では、軟弱な港の地盤に防波堤をつくることは技術的に難しかったので、戦争中に航行していたコンクリート船を使用することに変更し、払い下げを要請しました。

国道185号の脇に立つ菅田国光会長の顕彰碑です。菅田会長が要請した2籍のコンクリート船の払い下げが認められたため、海底を浚渫し、その上にコンクリート船を沈め、置き石をおいて固定したそうです。経費は、当時のお金で800万円だったそうです。
菅田会長の碑は、この日も、三津口湾の防波堤を見守っていました。
国道を右折して、「生かき」を扱うお店が並んでいる通りを進みます。
コンクリート船が置かれている手前に、公園風の広場がありました。
コンクリート船の脇を通って防波堤に向かう通路がつくられていましたが、「危険につき立入禁止」の標示が貼られていました。柵の手前から、武智丸を撮影することにしました。

手前に置かれていた第一武智丸の船首部分です。海の向こうに飯野山が見えます。海側には波消しブロックが敷き詰められていました。

太平洋戦争が始まる直前の昭和16(1941)年、欧米各国からの鉄や銅の輸入が途絶えてしまったため、その代替として、建造されたのがコンクリート船でした。

大阪で土木工事会社を経営していた武智昭次郎氏が、兵庫県高砂市で「武智造船所」を立ち上げ、コンクリートの「貨物船」を造り上げました。その後、三井造船玉野工場でエンジンやクレーンを装備し、海軍輸送船として、昭和19(1944)年6月に竣工しました。第二・第三武智丸も続いて竣工したそうです。 写真は第一武智丸の船首側から船尾側を撮影したものです。

広場にあった説明板には「海の守り神 武智丸」と題して、「2300排水トン(800総トン) 船長64m 船幅10m 昭和19~20年にかけて4隻建造、3隻就航」とありました。  写真は第一武智丸の船尾部分です。

第一武智丸(手前)と第二武智丸の接合部分です。 竣工していた3隻のコンクリート船は、呉鎮守府、横須賀、佐世保鎮守府にそれぞれ配備されました。他の1隻は建造の途中で終戦を迎えたようです。呉鎮守府に配備された第一武智丸には、船長ほか20名の乗組員が乗務していたそうです。また、第三武智丸は、小豆島沖で機雷に触れ沈没したといわれています。
沖側にある第二武智丸には「海の守り神 武智丸」「港内減速」と書かれていました。 漁港にはたくさんの漁船が停泊していました。


水害から復活した呉線と安浦駅。
太平洋戦争中に建造され、今も安浦漁港で防波堤として余生を送る武智丸。 
考えさせられることの多い旅でした。

 











JR狩留家駅と中郡古道

2020年09月22日 | 日記
JR芸備線の駅、狩留家(かるが)駅です。最初は駅名の読み方がわかりませんでした。調べてみると、「狩留家」の地名の発祥は、「『広島県町村合併史』によれば、狩留家は昔、皇室の領地で稲置狩倉が置かれたことによるとある。『稲置』とは郷程度の皇室領を管理する職名で、『狩倉』は御領地の荘園領主が鹿皮や干し肉などの安定確保のために設けられた狩り場のことで、庫裡が設けられており宿泊施設もあった」という。もののふが『狩』をして『留』まる『家』、すなわち『狩留家』となったのが地名の由来とされている」(NPO狩留家「狩留家の歴史」)とのこと。また、「『狩留家』の名前は、平安時代の保延5(1139)年に初めて文献に登場した」そうです。 長い歴史をもつ町にある駅、JR狩留家駅を訪ねることにしました。

広島駅から三次駅行きの芸備線の列車に乗車しました。キハ40系のワンマン運転の列車でした。

広島駅から1時間程度で、狩留家駅の1番ホームに到着しました。1面2線の狩留家駅のホームから見た三次駅方面です。駅舎は左側にあり、下車した乗客は、ホームの端にある構内踏切で駅舎に向かうようになっています。やがて、乗車してきた列車は、次の白木山(しらきやま)駅に向かって出発して行きました。
島式ホームから見た広島駅方面です。右側が、上り(三次駅方面行き)列車が発着する1番ホーム。左側が広島駅方面に向かう下り列車が停車する2番ホームです。しかし、狩留家駅で引き返す広島駅行きの列車も多数運行されており、1番ホームに到着した折り返しの列車が、そのまま1番ホームから出発して行くケースもあるようです。
狩留家駅の駅名標です。狩留家駅は、広島市安佐北区狩留家に設置されています。広島駅側のかみふかわ(上深川)駅から2.2km、次のしらきやま(白木山)駅まで2.2kmのところ、上深川駅と白木山駅の中間点にある駅のようです。 狩留家駅は、広島シティネットワークエリヤの北端の駅で、芸備線ではICOCAが利用できるのはこの駅までだそうです。

長いホームを歩いて広島駅側の端まで来ました。。線路は右にカーブしながら上深川駅に向かっています。
広島駅側の端から見た駅舎側です。ホームと切妻屋根の駅舎の間に引き込み線と車止めが見えました。JR芸備線は、広島駅から三次駅、備後落合駅を経由して伯備線の備中神代駅を結ぶ全長159.1kmの路線です。広島駅から岡山県の備中神代駅まで直通する列車はなく、広島駅・三次駅間、三次駅・備後落合駅間、備後落合駅・備中神代駅を経て新見駅までの3区間に分かれて運行されています。

引き込み線の向こうに自転車置き場と民家の屋根が見えました。JR芸備線の広島駅~三次駅間は、大正4(1915)年4月28日、芸備鉄道として、東広島駅(現在の広島駅から640m離れたところにあった)・志和地(しわち)駅間が開業したときに始まりました。このとき、狩留家駅も開業しています。

芸備鉄道はさらに延伸を続け、大正4(1915)年6月1日には三次駅(現在の西三次駅)まで開業し、その後、大正9(1920)年には広島駅への乗り入れが始まりました。 国有化されたのは、昭和12(1937)年7月のことでした。 2番ホーム側の周辺の光景です。なだらかな傾斜地に集落が広がっています。
2番ホームのすぐ前の畑に「狩留家なす」とかかれた幕が見えました。「狩留家なす」は緑色をしたなすで、広島県のブランド野菜だそうです。1980年代、自家用として作り始めたのが始まりだそうで、現在は、平成24(2012)年6月、55人で立ち上げた「NPO法人狩留家減農薬農園」に所属する農家の皆さんが栽培されているそうです。
ホームから見たJR狩留家駅の駅舎です。駅舎の左側、かつて駅員の宿直室だったスペースは、高齢者の交流施設「夢かるが」として使用されているようです。

ホームの三次駅側の端まで来ました。遮断機のついた構内踏切がありました。
構内踏切から駅舎に向かいます。
駅舎の前まで来ました。待合スペースの前にベンチが3脚設置されていました。この駅の1日平均の乗車人員は、平成29(2017)年には185人だったそうです。
自動改札機が設置された改札口から駅舎内に入ります。狩留家駅は、昭和58(1983)年に簡易委託駅となり、平成19(2007)年には完全な無人駅になりました。乗車券の発券は駅舎内にある自動券売機で行うようになっています。
入って右側にはベンチとテーブルが置かれており、広々とした空間になっていました。
待合スペースにあった狩留家駅の説明板です。地元の狩小川(かこがわ)郷土史研究会の方がつくられたもののようです。それには、大正4(1915)年の「開業当時、駅長など11人の駅員が常駐した。最盛期には1日平均450人の乗降客があったという。ここは、皇室のお狩場で、鹿皮、肉などの供給、また、戦闘訓練も行われ、一般人は入ることができなかった。宿泊施設もあり「場のまる」が地名の由来」と書かれていました。
駅舎から出ました。駅舎の右側のスペースは交流施設「夢かるが」になっています。駅舎の入口にポストが見えました。
ポストの後ろの柱に建物財産標がありました。狩留家駅の駅舎は、「昭和28(1953)年竣工の木造瓦葺き」といわれていますが・・

よく見えなかったのですが、「建物財産標 日本国有鉄道 財第5号 鉄 
駅本屋 昭和○○年11月30日」と書かれていました。年号の部分だけは、23年なのか28年なのかはっきり読めませんでした。おそらく、28年なのでしょう。

駅への取付道路です。右側の広場はちびっこ広場です。

ちびっこ広場の前にあった「散策マップ」です。
狩留家の名は、荘園時代に稲置狩倉が置かれたことに由来すると最初に書きましたが、江戸時代後期には、三篠(みささ)川を上下する三田船を利用して、三篠川沿いの20ヶ村から送られてくる物資の集散地として栄えたところでした。

「散策マップ」にあった地図です。中央がJR狩留家駅と芸備線です。その西を流れるのが三篠川。赤い線で示されているのが中郡道です。豊臣秀吉による天下統一後、安芸国を領地として与えられた毛利輝元が、広島城の築城にあたり、吉田郡山城から広島まで、人や資材の往来のため、三篠川沿いに整備したといわれる街道です。街道の道幅は3尺から6尺で一定していませんでしたが、天正19(1591)年には整備が完了していたといわれています。

駅前からまっすぐ進みと、左右の通り(県道37号広島・三次線)と合流します。この左右の通りが毛利輝元が整備した中郡道です。道路脇につくられていた「夢街道 ルネサンス」の碑です。これは、国土交通省中国地方整備局が歴史や文化を今に伝える街道を「ルネサンス認定地区」として認定しているものです。中郡道は、平成25年度に「中郡古道」として「夢街道 ルネサンス」に認定されました。
中郡道に沿って歩いてみようと思いました。右折して三篠川の上流に向かって歩きます。
中郡道は三篠川の堤に上っていきます。その先に三篠川を渡る上西橋が見えてきました。
上西橋のところで右折すると、芸備線の坊地(ぼうじ)踏切があります。「白木山駅ー狩留家駅 138K012M」と書かれていました。備中神代からの距離でしょうか?
芸備線の三次駅方面への列車は、この先で三篠川を渡る「第1三篠川橋梁(全長88m)」を渡り、次の白木山駅に向かって進みます。 平成30(2018)年7月、西日本豪雨による濁流により、第1三篠川橋梁の5本あった橋脚のうち三次側の2本が流され不通となりました。三次側の2本の橋脚は、大正14(1915)年つくられた石積みで、広島側の橋脚はコンクリート製だったそうです。 復旧したのは、1年3ヶ月後の令和元(2019)年10月のことでした。

上西橋を渡ります。「中郡道」と手書きされた案内標識がありました。かつて三篠川に架かっていた橋は、これより少し下流(左側)にあったようです。

上西橋から見た三篠川の上流部です。三篠川は写真のように、この先で右にカーブしています。第1三篠川橋梁は、カーブした先にあります。対岸の堤の上に緑色の「三篠川」の標識が見えました。

上西橋を渡り、三篠川の対岸に着きました。中郡道は手前の川沿いの道かその先の田んぼの中の道なのかわかりませんでした。近くの畑で作業をしておられた女性に教えていただこうと声をかけましたら、地域の歴史を研究しておられる方を紹介してくださり、たくさんの資料をいただき、説明もしていただきました。教えていただいたとおり、上西橋からまっすぐ進み、田んぼの向こうの道を右折して進むことにしました。

旧街道がつくられた頃、三篠川を渡る橋は、「こちら側から正面の白壁のお宅の前に向かって架けられていた」そうです。
中郡道は道幅3尺から6尺ぐらいだったそうです。旧街道の雰囲気を残す通りを進んでいきます。遠くに「三篠川」の標識が見えます。
「三篠川」の標識が見えるようになりました。中郡道は、白壁のお宅の先から、堤防上の道を吉田方面に向かっていました。

駅への取付道路の入口にあった「夢街道 ルネサンス」の碑まで帰って来ました。JR狩留家駅を左に見ながら中郡道(現在は広島県道37号)を進みます。

江戸時代、狩留家の町は三田船による舟運と油絞り業で栄えたところです。中郡道の街道筋には両替商、酒屋、醤油屋、油問屋、宿屋、鍛冶屋などの商家が立ち並んでいたそうです。

中郡道の左側に旧芸備銀行の建物がありました。「商業の中心地であった狩留家に、大正2(1913)年、広島商業銀行の狩留家出張所として設立され、後に、芸備銀行狩留家出張所になった(狩小川郷土史研究会の説明)」建物です。

旧街道の右側に、手作りの道標がありました。中郡道はここで、左折して進んでいました。来た道をまっすぐ進む通りは、狩留家の本陣に向かう道でした。左折しないでまっすぐ進みます。

長町橋を渡ります。

長町橋の下を流れる湯坂川です。この先で三篠川に合流しています。先ほど、中郡道と分かれてきましたが、中郡道はこの湯坂川に沿って進んで行くことになります。

右側に、郵便局がありました。その脇に「胡子(えびす)神社」が祀られています。明治22(1889)年、街道筋の商人たちが商売繁盛を願って、出雲大社から事代主命(えびす信仰の御祭神)を勧請してお祀りしたそうです。郵便局の前では狭いと思って移そうとしたら、工事に携わった人がけがをしたため、そのままこの地に祀られた(狩小川郷土史研究会)」そうです。

その先で通りは、右にカーブします。その先に、狩留家の本陣、黒川家がありました。徳川家康が江戸幕府を開くと、関ヶ原の戦いで西軍で戦った毛利氏は山口に移り、替って広島藩には福島正則、続いて浅野長晟が入封してきました。黒川本陣は、藩主が狩猟などで狩留家に来たときの宿舎や休憩所として使われていました。

中郡道との分岐点まで引き返してきました。ここから、中郡道をたどってみることにします。

湯坂川沿って進みます。JR芸備線のアンダークロスを抜けます。
旧街道の雰囲気を残す通りを歩きます。
県道37号のバイパスの下をくぐります。
バイパスを抜けると、中郡道は山裾を通る道になりました。

名前に惹かれてやってきたJR狩留家駅でしたが、狩留家の町の歴史をたどる旅になりました。