二隻の船がつながっているように見える防波堤の先に灯台が見えます。太平洋戦争中に造られたコンクリート船の第一武智丸と第二武智丸でつくられた防波堤です。広島県呉市安浦町の三津口湾内の安浦漁港にあります。この日は、コンクリート船でつくられた防波堤を見るため、JR呉線の安浦駅を訪ねました
JR呉線の東側の起点、三原駅から乗車した広駅行きの227系電車は、1時間余りで、JR安浦駅の3番ホームに到着しました。前方に安浦駅を跨ぐ横断陸橋が見えました。
電車は、次の安登駅に向かって出発して行きました。呉線は、軍都、広島市と
軍港、呉市(明治35年に市制を敷く)を結ぶため、明治36(1903)年、海田市駅・呉駅間が開業したことに始まります。東側の起点、三原駅側からは、昭和5(1930)年3月に、三原駅・須波駅間が三呉線として開業しました。その後、西に向かって延伸し、現在の安浦駅が開業したのは、昭和10(1935)年2月のことでした。「三津内海(みつうちのうみ)駅」としての開業でした。そして、その年の11月24日、三津内海駅・広駅間が開業して全通し、呉線と改称されました。
駅名標です。安浦駅は、風早駅(東広島市)から6.3km、次の安登駅まで4.5kmのところ、呉市安浦町にあります。
昭和19(1944)年、賀茂郡内海町、三津口町、野路村が対等合併し、賀茂郡安浦町が生まれました。それをきっかけに、「三津内海駅」として開業した駅は、昭和21(1946)年5月1日、安浦駅と改称されました。
安浦町は、その後、豊田郡と賀茂郡の町村の入れ換えにより、昭和31(1956)年、豊田郡安浦町となりました。そして、現在の呉市に編入されたのは、平成17(2005)年3月のことでした。
3番ホームの端から見た広駅方面です。左側に引き込み線が見えました。工事用車両の留置に使用されているそうです。
ホームの端から駅舎方面を撮影しました。手前の横断陸橋の先に跨線橋が見えます。駅舎は、3番ホームの右側、跨線橋の手前にあります。安浦駅は2面3線のホームをもち、島式ホームの右側が2番ホーム、向こう側が1番ホームになっています。広駅行きの電車は、基本的には駅舎寄りの3番ホームに、三原駅行きの電車は、1番、2番ホームに入線するようになっています。
駅舎に向かって引き返します。民家との境に引き込み線の車止めがありました。
切妻屋根の白い駅舎、横断陸橋の階段や駅前の建物などが見えます。安浦駅の1日平均の乗車人員は、平成30(2018)年には543人だったそうです。
島式ホームにある掲示板です。観光地図に、イラストの入った駅名標示、安浦駅の名所案内が並んでいます。後方には、比較的新しい民家や分譲中の土地が見えます。安浦駅は、新しい町づくりの進行中といった雰囲気が感じられる地域にありました。
駅舎まで来ました。上屋の下にベンチが置かれています。
駅舎の隣のトイレを越えた先に、屋根のついた跨線橋があります。
駅舎前から見た、島式ホームの上屋です。跨線橋と連なる形で設置されています。3脚のベンチが置かれ、待合いのスペースになっています。
長いホームを跨線橋を越えて進みます。ホームの端から見た三原駅方面です。ゆるやかに左にカーブしながら風早駅方面に向かっています。正面の円錐形の山は飯野山です。
三原駅側から見た跨線橋です。 平成30(2018)年7月5日からの西日本豪雨により、安浦駅は駅構内が冠水する被害を受けました。呉線の沿線では、ほかにも、線路への土砂の流入や斜面の崩壊などの被害もあって、呉線は163日間にわたり運休となりました。復旧したのは、その年の12月25日のことでした。
跨線橋を渡って島式ホームに降りました。島式ホームから見た、安浦駅の木造駅舎です。
駅舎前に戻りました。
3番ホームを示す標識の脇の柱に建物財産標がありました。
「財 第6号 鉄 C停 旅客上家 S10 . 2 」と書かれていました。
昭和10(1935)年の開業時につくられた上屋のようです。
自動改札機が設置された改札口です。安浦駅は、平成8(1996)年、JR西日本広島メンテックによる業務委託駅になりました。
改札口を入って左側が待合いスペースです。木製のベンチが並ぶ広々とした空間です。
待合いスペースから見た事務所と自動券売機です。
駅舎から出ました。上屋が大きく外に張り出し、その奧に、飲物の自動販売機が設置されています。駅舎前にはタクシーが待機していました。
タクシーの脇の柱に、建物財産標がありました。
読みづらい写真ですが、「 建物財産標 財 第5号 鉄 C停 本屋1
S10 . 2 」 と書かれています。駅本屋も開業時のもののようです。
駅舎前の取付道路です。すぐ前に「安浦駅前交差点」があります。交差点の右側の樹木が茂っているところには、呉市立安浦中学校がありました。
駅舎前から駅前交差点に向かって右側(西側)の風景です。右側に見えるのは、駅の表側と裏側を結ぶ横断陸橋。近くに、安浦交通が運行する乗り合いバスが待機していました。
交差点に向かって左側です。安浦町の地図が掲示してありました。
安浦町の観光地図では、めざす武智丸は、安浦駅前交差点を左折して進み、国道185号(芸南街道)に出て、まっすぐ東に進んで行くとたどり着けるようです。
安浦駅前から見た駅舎の全景です。駅舎を出て、取付道路を駅前交差点に進みます。
交差点を左折して進みます。正面に、ホームで見た飯野山の姿がありました。この先で、国道185号に合流します。
国道185号の右側には細長く船溜まりが続いています。その右側に、広い土地が広がっています。地元の方は「かつて、塩田があったところだ」と言われていました。
やがて、三津口湾の沖合に、めざす防波堤が見えてきました。第一武智丸と第二武智丸の二隻のコンクリート船でつくられた防波堤です。 太平洋戦争の終戦直後の昭和20(1945)年9月、枕崎台風により三津口湾は甚大な被害を受けました。三津口湾には、防波堤がなく、それまでに何回も被害を受けていたため、この地の漁業協同組合の菅田国光会長は、昭和22(1947)年、県に防災のための防波堤を建設することを陳情しました。しかし、当時の技術では、軟弱な港の地盤に防波堤をつくることは技術的に難しかったので、戦争中に航行していたコンクリート船を使用することに変更し、払い下げを要請しました。
国道185号の脇に立つ菅田国光会長の顕彰碑です。菅田会長が要請した2籍のコンクリート船の払い下げが認められたため、海底を浚渫し、その上にコンクリート船を沈め、置き石をおいて固定したそうです。経費は、当時のお金で800万円だったそうです。
菅田会長の碑は、この日も、三津口湾の防波堤を見守っていました。
国道を右折して、「生かき」を扱うお店が並んでいる通りを進みます。
コンクリート船が置かれている手前に、公園風の広場がありました。
コンクリート船の脇を通って防波堤に向かう通路がつくられていましたが、「危険につき立入禁止」の標示が貼られていました。柵の手前から、武智丸を撮影することにしました。
手前に置かれていた第一武智丸の船首部分です。海の向こうに飯野山が見えます。海側には波消しブロックが敷き詰められていました。
太平洋戦争が始まる直前の昭和16(1941)年、欧米各国からの鉄や銅の輸入が途絶えてしまったため、その代替として、建造されたのがコンクリート船でした。
大阪で土木工事会社を経営していた武智昭次郎氏が、兵庫県高砂市で「武智造船所」を立ち上げ、コンクリートの「貨物船」を造り上げました。その後、三井造船玉野工場でエンジンやクレーンを装備し、海軍輸送船として、昭和19(1944)年6月に竣工しました。第二・第三武智丸も続いて竣工したそうです。 写真は第一武智丸の船首側から船尾側を撮影したものです。
広場にあった説明板には「海の守り神 武智丸」と題して、「2300排水トン(800総トン) 船長64m 船幅10m 昭和19~20年にかけて4隻建造、3隻就航」とありました。 写真は第一武智丸の船尾部分です。
第一武智丸(手前)と第二武智丸の接合部分です。 竣工していた3隻のコンクリート船は、呉鎮守府、横須賀、佐世保鎮守府にそれぞれ配備されました。他の1隻は建造の途中で終戦を迎えたようです。呉鎮守府に配備された第一武智丸には、船長ほか20名の乗組員が乗務していたそうです。また、第三武智丸は、小豆島沖で機雷に触れ沈没したといわれています。
沖側にある第二武智丸には「海の守り神 武智丸」「港内減速」と書かれていました。 漁港にはたくさんの漁船が停泊していました。
水害から復活した呉線と安浦駅。
太平洋戦争中に建造され、今も安浦漁港で防波堤として余生を送る武智丸。
考えさせられることの多い旅でした。