トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

高梁川の”水江の渡し”に乗る

2015年04月24日 | 日記
伊予鉄道に乗って、”三津の渡し”を訪ねたとき(「市道を走る渡し船”三津の渡し”に乗る」2015年4月14日の日記)、岡山県倉敷市に残る”水江の渡し”を思い出しました。松山市にあった”三津の渡し”と同じように、市道(中島・柳井原線)をつないで走る渡しで、倉敷市役所の道路管理課の所管になっています。この時期は朝7時から11時、午後は2時から6時まで運行されています。
”水江の渡し”は倉敷市を流れる高梁(たかはし)川を渡る人の足として活躍しています。4月中旬のこの日、何年かぶりに”水江の渡し”に乗ってみようと倉敷市水江地区を訪ねました。
JR倉敷駅の北口からバスでイオンモール倉敷に着きました。ここから、”水江の渡し”をめざして、イオンモールの前の県道をさらに歩きます。
オートバックスと倉敷消防署中洲分署との間の道を右折して進みます。
5分ぐらい歩くと、セブンイレブンが右に見えてきます。さらに進みます。正面に高梁川左岸の堤防が見えて来ました。
酒津用水を渡って道なりに左折し、高梁川左岸の堤防上に登ります。この地域は中世末まで”吉備の穴海”とよばれる浅い海でした。江戸時代に入って開墾が進み、江戸時代中期にはすべてが陸地となっていきました。
堤防上を走る県道を渡り、高梁川の河川敷に降りていきます。開墾が進んでからは、高梁川はここより北の、現在の総社市清音のあたりで東西に分岐して、水江地区の東西を南に流れていました。
河川敷の道は、やがて行き止まりになります。ここで右折すると”水江の渡し”に向かう道に入ります。
右折して渡船場に向かいます。さて、高梁川は荒れ川で氾濫を繰り返し、住民を苦しめておりました。大正時代(1912-1925年)を通して行われた大改修工事を経て現在の高梁川になりました。氾濫が無くなり農業用水も安定的に供給されるようになりました。
幅2mぐらいの舗装された道が続きます。しかし、高梁川の付け替えで土地を失った人は移住したため、家と農地や墓地が川の両側に分かれた人も出てきました。この人たちの通行のため、大正14(1925)年頃に、高梁川の両岸をつなぐ、たくさんの渡しがつくられました。
左に新しく架けられた橋梁が見えました。この橋は”水江の渡し”に替る新しい市道に架かっていて、この道が完成すれば、”水江の渡し”は廃止されることになっています。
正面に高梁川の水面が見え始めると、道は左にゆるくカーブします。その手前で、自転車に乗ったおじさんが追い越して行かれました。農作業ができるような道具を持っておられました。おじさんは、桟橋で自転車に施錠して道路の隅に置いてから、対岸に向かって「おーい!」と声をかけられました。
対岸の倉敷市船穂町柳井原地区の桟橋付近です。吹き流しが泳ぎ、赤色灯が点滅していました。赤色灯の点滅は、渡し船が運航しているというサインです。桟橋の左側に渡し船が見えました。やがて、呼びかけた声が聞こえたのか、船頭さんが降りて来られました。おじさんが「赤色灯が点滅していたら船頭さんが詰所にいるから、手を振るか、声を出して呼ぶと降りてくるからな!」と教えてくださいました。
船頭さんが桟橋に停まっていた渡し船をバックさせて方向転換させました。その後、渡し船はこちらに向かって来ました。船頭さんにお聞きしたところでは、渡し間の距離は、約46mぐらいだそうです。松山市の”三津の渡し”の半分ぐらいです。
1分ぐらいで到着しました。船頭さんは現在お二人がつとめておられ、月・水・金曜日と火・木・土曜日に別れて交代勤務をされているそうです。日曜日と祝日には運行されていません。
渡し船は対岸の船穂側に常駐しているそうです。また、船頭さんの詰所も船穂側にあるそうです。タイヤを並べた、桟橋の左側に着岸しました。
乗船するとすぐ出発しました。バックして方向転換した後、対岸に進んで行きます。写真の中央の柱の上に赤色灯がついています。
この写真は、到着した船穂側の桟橋から見た高梁川の上流付近です。中洲の両側からの流れが合流するためかなりの水量です。船頭さんによれば「合流地点の桟橋の前は深さ9mぐらいあるよ!」とのことでした。
上陸しました。一緒に渡ったおじさんは、船頭さんとも顔なじみの方でした。慣れた道をどんどん先に歩いて行かれました。
道標がありました。右の方に行くとハイキングコースがあるようです。そういえば、船頭さんは「ハイキングに行かれる方がよく乗船されますよ」と言っておられました。
ここから、左に向かって500mぐらい下流で高梁川右岸の堤防を越えると、”高瀬通し”の一の口水門に着きます。”高瀬通し”は江戸時代に備中松山藩が玉島地区に干拓した阿賀崎新田への灌漑用水としてつくられましたが、一方で、藩の産品を積んだ高瀬舟が玉島港との間を往来していました。一の口水門と二口水門は、用水路を樋で仕切って水を満たして舟を通す閘門(こうもん)式水門で、スエズ運河より195年早く、パナマ運河より240年早い延宝年間(1673年~1681年)に完成したものでした。
一の口水門は高梁川からの水の取り入れ口でした。
おじさんの後を追って石段を上って行きます。
登った右手にあった「9k2」と書かれた標識です。”水江の渡し”があるところは、高梁川の河口から9.2kmぐらいのところのようでした。
登った正面にあった船頭さんの詰所です。船頭さんは、ここで待機していて、乗船客がいると降りて行かれるようです。「1日だいたい15人ぐらいを運んでいるよ」とおっしゃっていましたが、船頭さんは、多くの時間をここで過ごしておられるのでしょう。
詰所から山に登っていく道です。写真の道を左に登っていくと墓地に着きます。冒頭で、大正時代の高梁川の改修工事で「家と農地と墓地が川の両側に別れた人もいた」と書きましたが、ここの墓地にお墓を持つ方にも、そういう人がおられたのしょう。
詰所の前から山に沿って行く市道です。山陽自動車道の方に向かっています。
建設中の新しい橋です。船頭さんからお聞きしたとおり、「センターラインが書かれたら完成する」ような状態でした。正面は山陽自動車道です。
高梁川方面です。完成したら、高梁川を一瞬で越えることになりそうです。
引き返すことにしました。桜の花が咲く脇を桟橋に向かいます。
停まっていた渡し船です。「最大乗車人員9名」と書かれています。昭和の時代に田んぼの中の用水路を走っていた”川舟”に、エンジンをつけたような渡し船です。
座席にはござが敷いてありました。三人ずつ向かい合わせに座るのでしょう。
桟橋に自転車とともに渡ってきた方がいらっしゃいました。バイクは乗れないけれど、自転車は一緒に渡してもらえるようです。「お金はいいのですか?」「要りません」というやりとりが聞こえて来ました。

♪村の渡しの 船頭さんは 今年六十のおじいさん 年はとっても お船こぐときは
 元気いっぱい 櫓(ろ)がしなる ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ ♪

少年の頃に歌った童謡をつい思い出してしまいました。エンジン付きの舟に替わりましたが、昭和の雰囲気を十分残している渡しでした。運行も残り後わずか、たくさんの人の心に残る渡しであってほしいと願った旅でした。





市道を走る渡し船、”三津の渡し”に乗る

2015年04月14日 | 日記

これは、伊予鉄道郊外線の1日乗車券です。1,200円で購入しました。ターミナル駅の松山市駅から放射線状に延びる伊予鉄道の横河原線、郡中線、高浜線の1日乗り放題切符です。しかし、平成27年4月1日からは、路面電車と郊外線の電車の両方が1日乗り放題できる、1,500円の新しい切符が生まれることになっていました。郊外線だけの1日乗車券の最後となる日、この切符を使って高浜線に乗車しました。

以前、郊外電車に乗ったとき、高浜線の港山駅で見つけた湊三嶋神社の案内看板です。看板の「当駅下車3分 三津の渡し右」という記述が気になって、もう一度訪ねてみたいと思っていました。「三津の渡し」というのですから、渡し船があるはずでした。

港山駅は松山市駅から7駅目(7.4km)にありました。

この日は、大手町駅と古町(こまち)駅で、郊外電車と路面電車の平面交差を見た(「全国唯一、鉄道と路面電車の平面交差、伊予鉄道」2015年4月8日の日記)後、高浜線の高浜行きの電車に乗車して、港山駅で下車しました。港山駅は、古町駅から5.6km。15分ぐらいで港山駅に着きました。出集札の委託駅で、高齢の駅員さんが立っておられました。1面2線のホームでした。

駅員さんの後ろが駅の出口です。出口から撮影しました。ちょうど横河原行きの電車がホームに入っていました。踏切の敷石の上から撮影しました。通りかかった高齢の男性に、三津の渡しについてお聞きしたら、「踏切から海の方に向かって2分ぐらいで着くよ。船が来なかったら、おーい!と呼んだら来てくれるけんな!」とのこと。どうやら「渡し」は今もあるようです。

教えていただいたとおり、海に向かって進みます。静かな通りです。

右側に、小高い山に築かれていた港山城に向かって登る道がありました。そこに案内板もありました。

その手前にあった洗心庵跡の石碑です。洗心庵は宝暦(1751~1764)年間の前期に建てられた尼寺でした。嘉永5(1852)年から20年間、円明尼という尼僧が居住していましたが、明治になって廃仏毀釈で廃寺になったそうです。寛政7(1795)年、洗心庵では小林一茶も参加して句会が開かれたと、手作りの掲示板には書かれていました。

その先にあった現代の道標。この道の先に向かって「伊予鉄道三津駅」と書かれていたのには、少し違和感がありました。この先には海しかないはずなのに・・・。

海が見えました。三津の渡しのようです。乗り場は石段状になっていました。洗心庵の説明にあった小林一茶も、ここで渡しを降りて、句会に参加したそうです。

左にあった「渡し」の案内板です。年中無休でした。

そのとき、お向かいにあった桟橋に停まっていた船が動き始めました。私の姿を見て迎えに来てくださっているようです。

桟橋の右側に「渡船ご利用の皆様へ」という掲示がありました。ブザーを押すと船の操舵室に連絡が行くようになっています。「おーい」と呼ぶ必要はないようでした。

「渡し」を見に来ただけなのに・・、と船長さんに申し訳ないことをしてしまったと考えているうちに、船はどんどん近づいて来ます。平成22(2010)年に就航した3.トン、全長9.1mの船だそうです。

1分ぐらいで、船が到着しました。フェリーと同じように正面から乗るようになっています。きれいな船で、座席には布団状のクッションが置いてありました。船長さんにお礼を言ってから乗船しました。船は、すぐに方向転換のためバックに動き始めました。この船は「こぶかり丸」でした。対岸の三津の人たちは三津の渡しを「洲崎の渡し」と呼び、手前の港山の人々は「古深里(こぶかり)の渡し」と呼んでいます。そのため、2隻の船名は「すさき丸」と「こぶかり丸」と命名されています。

船から見た、伊予鉄道港山駅方面です。この道は、松山市道高浜2号線。「渡し」の約80mは、この市道の1部になっています。海ではなく道路なのだそうです。「市道」の渡しと聞いて、ふるさと、岡山県倉敷市の「水江の渡し」を思い出しました。海ではなく高梁川なのですが、倉敷市道になっている「渡し」だったからです。「水江の渡し」も今も現役で利用者の輸送にあたっています。

渡った先から、港山駅方面を撮影しました。正面の山が港山。左の神社が湊三嶋神社です。港山には中世(1460年代)この地で勢力を張った河野通春が築いた港山城がありました。当時、河野通春は、河野家の宗家で道後の湯築城に拠る河野教通と争っていました。通春は周防の大内氏と結び、制海権を得ていましたので、宗家の教通をしのぐ力を持っていたのです。通春は、文明10(1478)年、文明13(1481)年の二度、教通と戦いましたが、そのとき港山の麓で流れ弾にあたって戦死したと、来る途中の洗心庵近くにあった案内には書かれていました。

瀬戸内海方面を撮影しました。左の建物のあたりが現在の三津浜港です。広島への航路をもつ石崎汽船の本社ビルもあります。三津浜港は河野氏が支配していた頃からの港町で、松山にある港の中で最も早く開かれたところです。初めは「御津(みつ)」と書いたそうですが、この近くの呼び名の熟田津、飽田津、就田津の3つの名前から「三津」と改められたといわれています。熟田津(にぎたづ)は「万葉集」の額田王の歌で広く知られています。

これは、伊予鉄道三津駅前にあった案内図です。白い線で道路が描かれていますが、三津の渡しから南に繋がっています。三津の渡しが「松山市道高浜2号線」という道であることがよくわかります。伊予鉄道三津駅は地図の南の端にあります。港山駅から来る途中にあった「伊予鉄道三津駅」の道標に違和感を感じてしまったのですが、そのとおりだと納得しました。

湾内にはたくさんの船舶が舫(もや)っており、港山側には小さな造船所もありました。ずいぶん栄えていた港のようです。江戸時代には、この地に御船場(おふなば)を置き、御船手(おふなて)を配置して、その統治下でたくさんの船の運航がなされていました。三津の渡しは、ずっと棹で船を操る手こぎで運行されていましたが、昭和45(1970)年にエンジン付きの渡船に転換したそうです。

このとき、港山側の桟橋に女性が立ちました。すぐにこちら側にいた「こぶかり丸」が、対岸に向かって出発していきました。こうして、「三津の渡し」は年間5万人の人を輸送しているそうです。

港山側に戻り、海岸線に沿って歩きます。民家の前に手作りの案内がありました。

「熟田津跡」と書かれていました。熟田津はこのあたりにあったようですね。

突き当たりが、対岸から見えた湊三嶋神社。この地で討ち死にした港山城主だった河野通春を祀っています。

港山駅に戻りました。古くから、松山市と松山市の外港であった三津港は三津街道によって結ばれていました。しかし、三津街道の道路事情が悪かったため、伊予鉄道高浜線を敷設することになりました。こうして、明治21(1888)年現在の松山市駅・三津駅間が、軌間762ミリの軽便鉄道として開通しました。その後、伊予鉄道が整備した高浜港を結ぶために、明治25(1992)年三津駅から高浜駅まで延伸しました。伊予鉄道高浜線は松山市とその外港を結ぶために設置された鉄道だったのです。

港山駅からに引き返し、三津駅に到着しました。港山駅から乗ってきた横河原駅行きの3000形3両編成の電車が出発していきました。さて、高浜線の軌間が現在と同じ1067ミリになるのは、昭和6(1931)年のことでした。

モダンな三津駅舎です。三津浜港は、明治時代に、「坂の上の雲」で知られる正岡子規や秋山好古、真之兄弟も帰省のときに利用したといわれています。子規は家族や親類、友人たちに送られて三津浜から豊中丸で出帆しました。彼の作品「半生の記」には「最もいやだったのは、初めて出京で三津浜から出帆したとき」と正直に書いているそうです。駅前の案内に書かれていました。

駅前から三津浜港に向かう道です。商家に挟まれた狭い道路が当時の面影を伝えてくれています。ここから15分ぐらいで三津の渡しに行くことができるそうです。

この地図は三津駅前にあった観光案内図です。三津駅、三津浜港、三津の渡し、港山駅などの位置関係がよくわかります。

岡山県倉敷市にある水江の渡しは、並行して建設中の橋梁が完成すると廃止されることになっています。三津の渡しは利用する人も多く、「松山市道高浜2号線」の一部としてこれからも活躍を続けていくことでしょう。港山駅にあった看板を見るまでまったく知らなかった三津の渡しでしたが、よくぞ見つけたと自分を誉めたいような大発見でした。

全国唯一、鉄道と路面電車の平面交差、伊予鉄道

2015年04月08日 | 日記

松山市内を走る伊予鉄道の路面電車です。中心市街地の松山市駅と道後温泉、JR松山駅などを循環しています。写真は松山市駅からJR松山駅前に向かう路面電車(軌道線)です。

路面電車の松山市駅停留場の向かいにある松山市駅です。松山市駅は郊外電車(鉄道線)のターミナル駅でもあります。ここから、南東に進み東温市に向かう横河原線、南西に進み西予市に向かう郡中線、松山観光港方面に向かう高浜線の3路線が放射状に延びています。伊予鉄道といえばすぐに道後温泉に向かう路面電車を連想しますが、鉄道線も市民の足として活躍しています。

これは、鉄道線の主力車両、元京王線で活躍していた3000形車両です。10編成30両が在籍しています。日中は3両編成で鉄道線を走っています。

ターミナル駅の松山市駅のホームです。1番ホームから、高浜線が出発する2番ホームを撮影しました。後ろの3番ホームに停車しているのは郡中線の電車です。やって来た高浜線の電車に乗って、北に向かいます。

伊予鉄道高浜線は、昭和2(1927)年4月に開業しました。松山市駅から0.9km、2分ぐらいで最初の駅、大手町駅に着きました。郊外線ではJR松山駅の最寄り駅になります。大手町駅は開業時は江戸町駅と呼ばれていました。現在の大手町駅は出改札業務の委託駅で、この日は高齢の駅員さんが働いておられました。1日の乗降人員は2500人(2008年)。高浜線で2番目に多い駅だそうです。

下車して路面電車の大手町駅前停留場に行きました。道路の中央にある敷石が歴史を感じさせてくれます。路面電車の開業は、高浜線から9年後の昭和11(1936)年5月でした。そのときは、高浜線に合わせて江戸町駅前停留場という名前でした。路面電車の向かう先は正面に見えるJR松山駅の最寄り駅、JR松山駅前停留場でした。

大手町駅の2面2線のホームから見た高浜線の線路(複線)です。左(JR松山駅方面)から路面電車がやって来て高浜線の線路を横断して進んで行きました。高浜線と路面電車は直角に平面交差しています。

しばらくして、今度は左(JR松山駅前停留場方面)に向かう”坊ちゃん列車”が高浜線を横切って走って行きました。形はSLですが、ディーゼル機関車です。石炭を積む替わりに給油しているところを見たことがあります。

これは、高浜線の電車が路面電車を横断するところです。3000形の3両編成の電車です。

そして、路面電車と高浜線の電車が交差する光景です。高浜線の電車が近づくと「かんかん」という警報が鳴って路面電車が停車します。自動車も停止線で止まったところを郊外電車が通過していきます。鉄道線と軌道線が平面交差するのが見られるのは、今ではこの伊予鉄道だけになりました。

大手町駅から再度高浜線の電車に乗車して進みます。前方に車両基地が見えてきました。線路が複雑に並んでいます。中央が乗車して来た高浜線の高浜方面へいく線路、右が大手町・松山市駅方面に向かう高浜線の線路。左はJR松山駅前に向かう路面電車の線路です。軌間は1067mmです。

大手町駅から2分(0.9km)、電車はそのまま進み、古町(こまち)駅に停車しました。明治21(1888)年、伊予鉄道の松山市駅・三津浜駅間が開業したとき、古町駅も設置されました。伊予鉄道で最も早く開業した駅の一つです。

古町駅のホームの先から高浜方面を撮影しました。駅の右側に路面電車の車庫と整備工場、左側に郊外電車の車庫と整備工場があります。伊予鉄道のすべての電車が、夜は古町駅の車庫で体を休めるのです。

下車して駅の外に出ることにしました。出口に向かう通路に、オレンジ色の制服を着た人が立って集札をしておられました。この駅も出改札の委託駅でした。古町駅の1日乗降人員は大手町駅と同じ2,500人、高浜線で2番目に乗降客の多い駅だそうです。

出口に向かって路面電車の並んでいる前を歩きます。右側の電車が時計回りに市内を循環する電車で手前に向かって進みます。左側が反時計回りに回る電車で向こう側に向かって進んでいきます。古町駅は4面5線のホームをもち、郊外電車が3線を、路面電車が2線を使用しています。

駅から外へ出ました。伊予鉄道の駅ビルの隣にセブンイレブンがありました。出改札の委託を受けていたオレンジ色の制服の方は、セブンイレブンのスタッフでした。

駅から、走って来た方向に引き返します。路面電車がJR松山駅方面に進むところを見たかったので、古町駅の手前にある、線路を横断する踏切まで戻りました。郊外電車の車庫・整備工場が見えました。3000形の電車が休憩しています。その左の車両は、平成7(1995)年に導入されたステンレス製の新型車両610形です。2編成が在籍しているそうです。

やがて、古町駅からJR松山駅方面に向かう路面電車が出てきました。高浜線の松山市駅方面に行く鉄道の線路を横断しているところです。

次に、高浜線の高浜方面に向かう電車が通る線路を横断していきます。

高浜方面行きの郊外電車の線路を横断した後は、路面電車の線路に入りました。ここも、郊外電車(鉄道線)と路面電車(軌道線)が平面で交差するところでした。全国で二つしかない平面交差が、伊予鉄道の隣り合う2つの駅付近に集中してありました。

これは、古町駅の高浜線のホームから見たJR松山駅方面です。右側の線路から古町駅に入ってくる路面電車が走っています。高浜線の線路の上を横断しているところです。

高浜線の線路上から、路面電車の古町駅に向かう線路に入りました。その後はもちろん古町駅に停車します。

全国で、伊予鉄道だけになった軌道線と鉄道線の平面交差。日中の電車の本数は、郊外線が1時間4本、路面電車が6本あるそうです。こういった光景が1日に何回も見られる伊予鉄道は、それだけでも楽しい駅でした。

伊予鉄道の”鉄橋上の駅”、石手川公園駅

2015年04月01日 | 日記

愛媛県松山市の市街地を流れる石手(いして)川に架かる石手川鉄橋。伊予鉄道横河原線にある鉄橋です。伊予鉄道といえば、市街地を循環している路面電車を連想しますが、ターミナル駅である松山市駅から、放射線状に鉄道路線が延びています。横河原線は松山市駅と南東部の横河原駅(東温市)を結んでいる鉄道です。

これは横河原線の愛大医学部前駅に掲示されていた伊予鉄道の路線図です。伊予鉄道には横河原線の他に、松山市駅から松山観光港の手前の高浜に向かう高浜線、伊予市にある郡中港に向かう郡中線の2路線があります。しかし、高浜線と横河原線は直通運転をしており、実質2路線のような運用になっています。

これは松山市駅側から石手川鉄橋を撮影したものです。鉄橋だけではなく、歩行者のための通路も併設されています。横河原線は、明治26(1893)年に松山市駅・平井駅間が開通しました。この鉄橋もそのとき建設されました。長さは35.8mだそうです。

横河原線の3000形の電車が停まっています。ここは鉄橋であるとともに駅でもあります。石手川公園駅。横河原線の最初の駅で、松山市駅から0.8kmのところにあります。3両編成の最後部は完全に鉄橋上にあります。車掌さんの姿が見えますが、伊予鉄道の鉄道線はすべて車掌さんが乗務しています。

ホームです。1面1線のホームです。河川敷の上に建てられている部分には屋根がついており待合のスペースになっています。

松山市駅方面に向いてホームを撮影しました。ホームを覆う屋根とベンチ、掲示物。その先、石手川の土手の樹木。

石手川公園駅の駅表示です。次のいよ立花駅までは0.6kmで、横河原線の駅間最短区間になっています。ちなみに、伊予鉄道の郊外線の駅は、概ね駅間1km前後で設置されています。

駅標の下にあった時刻表です。15分ごとに運行されています。鉄橋上にはありますが、土佐北川駅とは違って、この駅はいわゆる”秘境駅”ではありません。”秘境駅らしさ”の対極にある雰囲気の駅でした。

ホームから見た鉄橋です。三角形を組み合わせたトラス橋に緑のプレートが見えます。

プレートには「土木学会選奨土木遺産 2012 石手川橋梁」と書かれています。石手川鉄橋は、平成24(2012)年に土木学会から「選奨土木遺産」に選定されています。現役の鉄橋であり、明治26(1893)年の建設から一度も移設されていない日本最古の鉄橋ということが選定の理由だそうです(移設されている鉄橋では、もっと古く現役というものがあるようです)。建設から110年を超えて現役という鉄橋です。

松山市駅に向かう列車が到着し鉄橋の上に停止しました。石手川公園駅は、四国の鉄道としてはJR土讃線の土佐北川駅(「鉄橋上にある「秘境駅」、JR土佐北川駅」2013年12月2日の日記)と並ぶ橋上の駅です。

石手川公園駅の出入口です。平成25(2013)年にバリアフリーに改修されました。以前は、写真右のホームに階段で直接上っていたそうです。

駅から出て周辺のようすを見ることにしました。駅裏の自転車置き場から見たホームです。橋脚や橋桁、自動販売機も見えます。

駅裏から踏切を渡って撮影しました。駅の待合いスペースです。駅にはトイレの設備はありませんでした。

駅の前後は石手川公園です。駅名はこの一帯の公園の名前からつけられたようです。石手川の河川敷をかさ上げしてつくられた公園で、駅前には遊具も設置されており、子ども連れの若いお母さんの姿が見えました。

公園から見えた石手川鉄橋。明治の香りを残した鉄橋です。110歳を超えてなお頑張っている誇らしい姿です。

帰りに、ホームから北を撮影しました。観覧車が見えるあたりが松山市駅。写真では見えませんが、右の樹木の間から松山城天守閣の姿が見えました。

今は桜の季節。駅裏には花を楽しむ人たちの姿がありました。

橋上の駅、伊予鉄道石手川公園駅は松山市街地の南部にありました。橋上といっても、河川敷の部分に大部分の駅の設備があり、そこからはみ出した部分が鉄橋の上にあるという印象でした。駅の構造からすると、JR土讃線の土佐北川駅よりも、トンネルの駅から鉄橋にはみ出していたJR福知山線武田尾駅(「トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)と似た印象でした。もちろんスケールと迫力では武田尾駅に大きく及びませんでしたが・・。