伊予鉄道に乗って、”三津の渡し”を訪ねたとき(「市道を走る渡し船”三津の渡し”に乗る」2015年4月14日の日記)、岡山県倉敷市に残る”水江の渡し”を思い出しました。松山市にあった”三津の渡し”と同じように、市道(中島・柳井原線)をつないで走る渡しで、倉敷市役所の道路管理課の所管になっています。この時期は朝7時から11時、午後は2時から6時まで運行されています。
”水江の渡し”は倉敷市を流れる高梁(たかはし)川を渡る人の足として活躍しています。4月中旬のこの日、何年かぶりに”水江の渡し”に乗ってみようと倉敷市水江地区を訪ねました。
JR倉敷駅の北口からバスでイオンモール倉敷に着きました。ここから、”水江の渡し”をめざして、イオンモールの前の県道をさらに歩きます。
オートバックスと倉敷消防署中洲分署との間の道を右折して進みます。
5分ぐらい歩くと、セブンイレブンが右に見えてきます。さらに進みます。正面に高梁川左岸の堤防が見えて来ました。
酒津用水を渡って道なりに左折し、高梁川左岸の堤防上に登ります。この地域は中世末まで”吉備の穴海”とよばれる浅い海でした。江戸時代に入って開墾が進み、江戸時代中期にはすべてが陸地となっていきました。
堤防上を走る県道を渡り、高梁川の河川敷に降りていきます。開墾が進んでからは、高梁川はここより北の、現在の総社市清音のあたりで東西に分岐して、水江地区の東西を南に流れていました。
河川敷の道は、やがて行き止まりになります。ここで右折すると”水江の渡し”に向かう道に入ります。
右折して渡船場に向かいます。さて、高梁川は荒れ川で氾濫を繰り返し、住民を苦しめておりました。大正時代(1912-1925年)を通して行われた大改修工事を経て現在の高梁川になりました。氾濫が無くなり農業用水も安定的に供給されるようになりました。
幅2mぐらいの舗装された道が続きます。しかし、高梁川の付け替えで土地を失った人は移住したため、家と農地や墓地が川の両側に分かれた人も出てきました。この人たちの通行のため、大正14(1925)年頃に、高梁川の両岸をつなぐ、たくさんの渡しがつくられました。
左に新しく架けられた橋梁が見えました。この橋は”水江の渡し”に替る新しい市道に架かっていて、この道が完成すれば、”水江の渡し”は廃止されることになっています。
正面に高梁川の水面が見え始めると、道は左にゆるくカーブします。その手前で、自転車に乗ったおじさんが追い越して行かれました。農作業ができるような道具を持っておられました。おじさんは、桟橋で自転車に施錠して道路の隅に置いてから、対岸に向かって「おーい!」と声をかけられました。
対岸の倉敷市船穂町柳井原地区の桟橋付近です。吹き流しが泳ぎ、赤色灯が点滅していました。赤色灯の点滅は、渡し船が運航しているというサインです。桟橋の左側に渡し船が見えました。やがて、呼びかけた声が聞こえたのか、船頭さんが降りて来られました。おじさんが「赤色灯が点滅していたら船頭さんが詰所にいるから、手を振るか、声を出して呼ぶと降りてくるからな!」と教えてくださいました。
船頭さんが桟橋に停まっていた渡し船をバックさせて方向転換させました。その後、渡し船はこちらに向かって来ました。船頭さんにお聞きしたところでは、渡し間の距離は、約46mぐらいだそうです。松山市の”三津の渡し”の半分ぐらいです。
1分ぐらいで到着しました。船頭さんは現在お二人がつとめておられ、月・水・金曜日と火・木・土曜日に別れて交代勤務をされているそうです。日曜日と祝日には運行されていません。
渡し船は対岸の船穂側に常駐しているそうです。また、船頭さんの詰所も船穂側にあるそうです。タイヤを並べた、桟橋の左側に着岸しました。
乗船するとすぐ出発しました。バックして方向転換した後、対岸に進んで行きます。写真の中央の柱の上に赤色灯がついています。
この写真は、到着した船穂側の桟橋から見た高梁川の上流付近です。中洲の両側からの流れが合流するためかなりの水量です。船頭さんによれば「合流地点の桟橋の前は深さ9mぐらいあるよ!」とのことでした。
上陸しました。一緒に渡ったおじさんは、船頭さんとも顔なじみの方でした。慣れた道をどんどん先に歩いて行かれました。
道標がありました。右の方に行くとハイキングコースがあるようです。そういえば、船頭さんは「ハイキングに行かれる方がよく乗船されますよ」と言っておられました。
ここから、左に向かって500mぐらい下流で高梁川右岸の堤防を越えると、”高瀬通し”の一の口水門に着きます。”高瀬通し”は江戸時代に備中松山藩が玉島地区に干拓した阿賀崎新田への灌漑用水としてつくられましたが、一方で、藩の産品を積んだ高瀬舟が玉島港との間を往来していました。一の口水門と二口水門は、用水路を樋で仕切って水を満たして舟を通す閘門(こうもん)式水門で、スエズ運河より195年早く、パナマ運河より240年早い延宝年間(1673年~1681年)に完成したものでした。
一の口水門は高梁川からの水の取り入れ口でした。
おじさんの後を追って石段を上って行きます。
登った右手にあった「9k2」と書かれた標識です。”水江の渡し”があるところは、高梁川の河口から9.2kmぐらいのところのようでした。
登った正面にあった船頭さんの詰所です。船頭さんは、ここで待機していて、乗船客がいると降りて行かれるようです。「1日だいたい15人ぐらいを運んでいるよ」とおっしゃっていましたが、船頭さんは、多くの時間をここで過ごしておられるのでしょう。
詰所から山に登っていく道です。写真の道を左に登っていくと墓地に着きます。冒頭で、大正時代の高梁川の改修工事で「家と農地と墓地が川の両側に別れた人もいた」と書きましたが、ここの墓地にお墓を持つ方にも、そういう人がおられたのしょう。
詰所の前から山に沿って行く市道です。山陽自動車道の方に向かっています。
建設中の新しい橋です。船頭さんからお聞きしたとおり、「センターラインが書かれたら完成する」ような状態でした。正面は山陽自動車道です。
高梁川方面です。完成したら、高梁川を一瞬で越えることになりそうです。
引き返すことにしました。桜の花が咲く脇を桟橋に向かいます。
停まっていた渡し船です。「最大乗車人員9名」と書かれています。昭和の時代に田んぼの中の用水路を走っていた”川舟”に、エンジンをつけたような渡し船です。
座席にはござが敷いてありました。三人ずつ向かい合わせに座るのでしょう。
桟橋に自転車とともに渡ってきた方がいらっしゃいました。バイクは乗れないけれど、自転車は一緒に渡してもらえるようです。「お金はいいのですか?」「要りません」というやりとりが聞こえて来ました。
♪村の渡しの 船頭さんは 今年六十のおじいさん 年はとっても お船こぐときは
元気いっぱい 櫓(ろ)がしなる ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ ♪
少年の頃に歌った童謡をつい思い出してしまいました。エンジン付きの舟に替わりましたが、昭和の雰囲気を十分残している渡しでした。運行も残り後わずか、たくさんの人の心に残る渡しであってほしいと願った旅でした。