トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”レトロ電車”を追って琴平線に乗る

2015年07月24日 | 日記
このところ、香川県高松市を走る”ことでん”、高松琴平電鉄を訪ねています。すでに、志度線(「高松琴平電鉄 志度線を行く」2015年7月4日の日記)と長尾線(「日本で3番目のICカード ”ことでん”」2015年7月12日の日記)に乗りました。この日は、”ことでん”の本線ともいうべき琴平線に乗ることにしていました。長尾線と志度線は軌道線からスタートしましたが、琴平線は地方鉄道線としての開業でした。関西の鉄道を視察してから開業したそうで、当時から軌間1435ミリで、「四国の阪急」とも呼ばれたモダンな鉄道だったようです。

この案内は、”ことでん”のホームや駅に掲示されている”レトロ電車”の運行案内です。毎月1回運転している”レトロ電車”、7月は19日(日)に運転することになっています。

7月19日、岡山県のJR児島駅からマリンライナーで瀬戸内海を越えて、高松駅前にある琴電高松築港駅に着きました。出札窓口で”一日フリーきっぷ(1230円)”を購入して改札をくぐりました。

”一日フリーきっぷ”です。琴電高松築港駅から終点の琴電琴平駅までの片道運賃は620円、往復すると1240円です。”1日フリーきっぷ”はそれより10円安く、しかも、志度線や長尾線にも乗ることができます。お買い得です。きっぷに載っている電車は、20形23号車。この電車が、この日走る”レトロ電車”の主役です。

たくさんの乗客が待つホームに、”レトロ電車”は回送列車として入線してきました。5000形500号車と20形23号車の2両錬成の電車です。500号車は、昭和3(1928)年3月に加藤車両で3両(他に510号車と520号車)製造されたものの1両で、”ことでん”のオリジナル車両です。今年で87歳を超え、米寿のお祝いをする日も近くなってきました。

折り返して琴平行きの先頭車両になる20形23号車です。昭和36(1961)年に近鉄から移ってきました。製造されたのは、大正14(1925)年10月。川崎造船で製造されました。10月で90歳を迎えます。2015年の4月に、90歳を記念して”ことでんカラー”(ファンタゴンレッドとオパールホワイト)に塗装し直されているそうです。

先頭車両になるので、乗務員の方が行先表示を変更しておられます。

「祝 90年 卒寿」のプレートが掛けられています。”ことでん”の皆さんのお心遣いです。新しく塗装がなされているので、90歳には見えませんね。

待っていた乗客はすでに乗車されました。すると、窓が次々に開けられました。全列車に冷房が完備されている”ことでん”ですが、”レトロ電車”には冷房がついていないからです。

ここからは、終点の琴電琴平駅で、折り返しの出発時間まで休憩していた”レトロ電車”の写真になります。高松築港駅では乗客がどんどん乗り込んで行かれたので、内部の撮影ができませんでした。まず、5000形500号車です。

500号車の運転席。路面電車のような印象です。

500号車の緑色の横シートの座席です。サービスのためでしょう、開けてくださっていた窓から撮影しました。

こちらは、20形23号車です。

23号車の運転席です。

23号車の横シートの座席です。

さて、再び高松築港駅に戻ります。”レトロ電車”は、定時に琴電琴平駅に向けて出発していきました。帽子を取って見守る少年に見送られながら・・。

折り返して琴電琴平行きになる電車が入ってきました。1086号車と1085号車の2両編成。琴平線の電車は2両の固定編成で、車両番号は連番で、琴平方面に行く先頭車両が奇数番になっています。1080形の電車は、もと京浜急行1000形車両で、6編成12両が”ことでん”に移籍しています。1086号車・1085号車は、平成元(1988)年に”ことでん”仕様に改造されました。

女性の運転士さんでした。私は、この電車で”レトロ電車”を追いかけることにしました。さて、”ことでん”琴平線は、大正15(1926)年に、当時の琴平電鉄によって、栗林公園駅と滝宮間が開業しました。また、昭和2(1927)年には、現在の瓦町駅と琴電琴平駅まで延伸されました。昭和18(1943)年には、琴平電鉄は讃岐電鉄(志度線の経営母体)、高松電気軌道(長尾線の経営母体)と合併し高松琴平電鉄となりました。そして、戦後の昭和23(1948)年、現在の琴電高松築港駅まで延伸開業されました。現在の”ことでん”の路線が全通しました。

栗林公園駅に着きました。”ことでん”が開業したときの始発駅でした。木の香りのするような新しい駅です。平成16(2004)年に再建された駅舎です。

駅スタッフがおられる有人駅でした。全国に知られた”栗林公園”の最寄駅です。コンパクトで清潔な駅でした。

駅を出ると紫雲山(しうんざん)の山容が見えます。その手前に栗林公園があります。

このとき、緑の長尾線の電車が通過していきました。長尾線には車庫がなく、この先の仏生山駅に隣接する仏生山の車庫まで回送されているところです。

続いて、「しあわせさん こんぴらさん」のパッケージ車両(1206号車・1205号車)が出発していきました。この車両は旧京浜急行700形で、平成16(2014)年に”ことでん”仕様に改造されました。”こんぴらさん”に参詣する人は多く、戦前には、琴平電鉄のほか、丸亀(戦後坂出まで延伸)からの琴平参宮電鉄と、坂出からの琴平急行電鉄(戦後琴平参宮電鉄に吸収される)の三社の電車が覇を競っていました。

栗林公園駅にあった時刻表です。琴平線は琴電琴平行きが30分ごとに運行され、その間に区間運転の一宮行きと滝宮行きが1本ずつ運行されています。

栗林駅から見た琴平方面の線路です。高松築港駅からここまでは複線区間でしたが、この先は単線区間になります。

三条駅、太田駅を過ぎると、左側に引き込み線が見えました。仏生山(ぶっしょうざん)駅に着きました。長尾線と琴平線の車庫と工場があるところです。

高松藩松平氏の菩提寺、仏生山法然寺の最寄駅です。駅前から車庫と工場を一回りします。本日運行されている23号車と500号車以外の”レトロ電車”が休んでいるはずでした。

駅の正門から10mぐらいのところに”レトロ電車”が・・。一回りしなくてもあっけなく見つかりました。1000形120号車が道路のすぐそばで休んでいました。この車両は、琴平線の開業に備えて、大正15(1926)年10月、汽車会社で製造した、”ことでん”のオリジナル車両です。

5両(100号車、110号車、120号車、130号車、140号車)製造されましたが、そのうちの1両、120号車です。当時の地方鉄道としてはぜいたくな車両だったそうです。

120号車の後ろに連結されていた、3000形300号車です。これも、大正15(1926)年10月に製造された”ことでん”のオリジナル車両で、日本車輌で5両(300号車、315号車、325号車、335号車、345号車)製造されたものの1両です。この120号車と300号車は、イベント用として活躍しています。次回の”レトロ電車”の企画では、ぜひ走ってほしいと願っています。

ホームに近いレール上で出番を待っていた現役車両です。奥が栗林公園駅を走っていた1206号車と1205号車。手前が1100形の1108号車と1107号車です。1100形はもと京王電鉄の5000形。”ことでん”には4編成8両が移って来ています。「目鼻立ちの整った、彫りの深い美顔」と讃えられる、デザイン性に優れた名車として知られています。なお、京王電鉄は軌間1372ミリ、”ことでん”と京浜急行は軌間1453ミリ。”京王5000形が移ってきたとき、”ことでん”では、京浜急行の台車の上に京王電鉄の車両を載せて整備したといわれています。

仏生山駅を出ると、畑や水田が見える地域を走るようになりました。仏生山駅の次の駅は空港通り駅。平成18(2006)年に開業した、比較的新しい駅です。ここから、前面に富士山形のなだらかな山を見ながら進みます。山の名前はよくわかりませんでした。とりあえず、「おにぎり山」と呼ぶようにしました。

電車は前面のおにぎり山に向かって走ります。2面3線の一宮駅につきました。一宮駅は区間運転の終起点になる駅で、ここで折り返す電車は、左の3番線に入り、そこから出発していきます。

駅舎を外から撮影しました。白を基調にした駅舎です。

一宮駅は、名前通り、讃岐一宮の田村神社の最寄駅です。これは駅舎の脇にあった案内図ですが、小さくて見にくいのですが、中央部に田村神社が描かれています。

一宮駅から円座駅。そしてさらに進むと、左側に一見湖のような大きな池、奈良須池が見えてきました。対岸の建物が小さく見えます。

奈良須池の岸辺にある岡本駅です。「途中下車指定駅」の看板が駅にありました。”ことでん”は指定駅では途中下車が可能になっています。

岡本駅の先で高松市から綾歌郡綾川町に入ります。次は、挿頭丘(かざしがおか)駅です。山を切り開いた切り通しにある1面1線の棒状駅です。駅へは階段を下ってホームに入っていきます。

ちょうど琴平方面行きの電車が入ってきました。1202号車と1202号車。もと京浜急行の700形。平成15(2003)年”ことでん”仕様に改造されました。挿頭丘駅から次の畑田駅間は0.8km。琴平線の最短区間です。

畑田(はただ)駅、陶(すえ)駅を過ぎると、次は綾川駅です。長い歴史をもつ琴平線の駅とは思えないような、近代的な雰囲気の駅です。琴平線で最も新しく、平成25(2013)年に開業しました。

駅の裏には”イオンモール綾川”が。大型ショッピングモールが建っています。たくさんの若い人が下車して、建物に向かって歩いていきます。

綾川駅の前には、一戸建ての新しい住宅団地が広がっています。”ことでん”の将来の駅の姿を想像させてくれるような駅でした。

この駅にいるとき、琴電琴平駅から折り返してきた”レトロ電車”が帰ってきました。先頭の500号車です。

2両編成の後ろ側になった23号車です。卒寿とは思えないしっかりとした足取りで走っていました。

綾川駅の次の駅は滝宮(たきのみや)駅です。この駅付近が、綾川町の役場も置かれている綾歌郡綾川町の中心地です。雰囲気のある駅舎でした。それもそのはず、大正15(1926)年、琴平線が栗林公園駅と滝宮駅の間で開業したときの終点になった駅舎だったのです。この駅舎は開業前に、初代社長が関西の私鉄を視察してデザインされたもので、急勾配の三角屋根と玄関のひさしが末広がりになっているところに特色があります。なお、現在の終点である琴電琴平駅まで延伸したのは、昭和2(1927)年3月15日のことでした。

有人駅ですが、この時間には「駅スタッフは不在」という案内が出ていました。駅舎の内部です。出札口もそのまま残っていました。また、建設当初には、駅舎の柱と柱の間をモルタル塗りにしていたようです。大正期の洋風の木造建築様式を今に伝えています。

駅舎の中にあった、経済産業省の「近代化産業遺産」のプレート。平成20(2008)年に認定されました。

駅にあった説明によれば、綾川町はさぬきうどん発祥の地なのだそうです。弘法大師、空海の甥で弟子でもあった智泉がこの地でうどんをつくったのがさぬきうどんの始まりだそうです。そのため、昔からうどんに使われる小麦を栽培していた地域で、今も県のブランド小麦である「さぬきの夢2000」の小麦畑が広がっているそうです。

駅周辺を歩きます。念仏踊りで知られる滝宮天満宮の参道とその先の拝殿です。天満宮の名のとおり、菅原道真をお祀りしています。駅から5分ぐらいのところに鎮座していました。

これも駅から5分ぐらいのところにあった綾川町役場の庁舎です。

滝宮駅のホームです。この駅も、高松築港との間で区間運転を行う、電車の終点と起点になっています。滝宮駅行きの電車は向こう側の2番ホームに入って、折り返して高松築港行きとして出発して行きます。琴電琴平駅と高松築港駅間を走る電車は、すべて手前の1番ホームを通ることになっています。

滝宮駅の次の羽床(はゆか)駅までが綾歌郡綾川町にある駅です。国道32号の新線に接している、この栗熊(くりくま)駅からは、丸亀市になります。

栗熊駅前の風景です。緑一色の田園地帯です。田舎育ちの私は、こういった風景に出会うと思わず深呼吸をしてしまいます。次の岡田駅までは2.6km。円座駅・岡本駅間と並ぶ最長区間になっています。

岡田駅に着きました。1204号車と1203号車の高松築港行きの電車とすれ違いました。この駅までが丸亀市に属しています。

次の羽間(はざま)駅です。駅付近は仲多度郡まんのう町になります。黄色がシンボルカラーの琴平線です。駅名表示も黄色で統一されています。

榎内(えない)駅からは仲多度郡琴平町になります。琴電琴平駅の手前にあったJR土讃線との立体交差です。この写真は、琴電琴平駅から引き返す時に、電車の前方から撮影したものです。絶好のタイミングで、JR四国の普通列車とすれ違いました。

”ことでん”のイベント電車として、動態保存されている”レトロ電車”。私たちよりずいぶんお年を召しておられますが、まだ、こうして走ることができます。冷房をつけることができないため、第一線で活躍することはできませんが、イベント電車として、活躍の場を与えられているのは嬉しいことです。整備にあたる人たちの技術力と会社のご理解に感謝です。
次回、8月の運行日にも訪れたいと思いました。



日本で3番目のICカード、”ことでん”

2015年07月12日 | 日記

瓦町駅に到着した”ことでん”の志度線の電車です。電車の前面に「IruCaの10周年」を記念するヘッドマークを掲げています。”IruCa”は”、ことでん”の愛称をもつ高松琴平電鉄のICカード乗車券です。平成17(2005)年にサービスを開始しました。JR東日本の”Suica”、JR西日本の”ICOCA”に次いで、日本で3番目に導入しました。JR四国や大手私鉄に先んじての導入でした。

”IruCa”のヘッドマークです。”IruCa”は、今年で導入から10周年を迎えました。発行数は30万枚といわれています。平成21(2009)年には、香川大学の学生証が”IruCa”と一体型に変更されました。ICカード乗車券と学生証との一体化は国立大学では初めてのことでした。

”ことでん”の駅で見られる”いるか”のキャラクターがついた備品です。”ことでん”こと高松琴平電鉄は、平成13(2001)年、瓦町駅ビルに入居していた”コトデンそごう”の経営破綻に伴う経営難のため、高松地裁に民事再生法の適用を申請しました。当時の”コトデン”は必ずしも市民の支持を受けていたとは言い難い状況にあったそうで、再生に向けて「コトデンは要るか要らないか」という議論もなされたそうです。そんな経緯で”IruCa”と名づけられたといわれています。また、愛称も”コトデン”から現在の”ことでん”に変更しました。ところで、JR西日本の”ICOCA”は関西弁の「行こか(行こうか)」から名づけられたそうですね!?

これは、”ことでん”長尾線の林道(はやしみち)駅の待合室です。”IruCa”での乗降客は「出」「入」にそれぞれタッチしてから出入りされています。駅には乗車券の自動販売機も設置されていますが、私がこの日見た乗降客は、みんな”IruCa”を使っておられました。

この日は、”ことでん”の長尾線に乗ることにしていました。始発駅である”ことでん”の高松築港駅へ向かいました。

長尾線は、高松築港駅から瓦町駅、木田郡三木町を経由して、さぬき市の長尾駅まで行く鉄道です。路線のシンボルカラーは緑色になっています。明治45(1912)年、出晴(現在の瓦町駅付近)・長尾駅間が、高松電気軌道によって開業しました。志度線と同じく、軌間1067ミリの軌道線として開業しました。地方鉄道法による鉄道になり軌間1435ミリになったのは、昭和20(1945)年のことでした。

長尾線を経営していた高松電気軌道は、昭和18(1943)年、志度線を経営していた東讃電気軌道(後に讃岐電鉄となる)と琴平線を経営していた琴平電鉄と合併し、高松琴平電気鉄道になりました。現在の”ことでん”は志度線、長尾線と琴平線の3路線を運行しています。ちょっと見づらいのですが、真ん中の緑の駅名からは「農学部前」や「学園通り」など、学生の利用が多い印象を受けましたが、開業当初は四国八十八ヶ所霊場の八十七番札所長尾寺への参拝路線の性格もあったようです。

高松築港駅にあった長尾線の時刻表です。すべて長尾駅行きで区間運転はありません。日中は、毎時、08分、28分、48分発の20分間隔で運行されています。

私は”IruCa”を持っていませんので、この日も”一日フリーきっぷ”(1230円)を購入して改札を入りました。高松築港駅から長尾駅まで470円、往復で940円ですので、私のように途中の駅で自由に乗り降りしたい者には、ほんとにお得な切符です。

高松築港駅は2面3線の駅で、長尾線の電車は3番ホームに入ります。高松築港駅は始発駅ですが、待避線はなく折り返し駅になっています。

緑の長尾線の電車が到着しました。待っていた多くの乗客は、到着した方が下車するのを待って乗車します。602号車・601号車の2両編成です。”ことでん”の長尾線は2両の固定編成です。600形車両は名古屋市交通局の東山線(地下鉄)の電車で、平成10(1998)年琴電に移籍してきました。外から見て全面の左側の窓が2枚に別れた3枚窓のフロントマスクです。出発します。瓦町駅までは複線区間、琴平線の電車と共用になっています。

瓦町駅の改札口です。長尾線の電車は乗り換えはありません。瓦町駅を出ると琴平線と別れて進みます。

瓦町駅から0.9km、花園駅に着きます。昭和29(1954)年に信号場から駅に昇格して開業しました。

花園駅に入って来る長尾線の1306号車・1305号車です。京浜急行から平成23(2011)年に移籍してきました。長尾線はもともとが路面電車(軌道線)で開業したため、電車は民家をかすめて窮屈そうに進んでいきます。

長尾線の電車は県道10号線高松長尾大内線(長尾街道)に沿って走ります。花園駅の先でJR高徳線と交差します。写真は長尾線をまたぐ高徳線の高架です。

花園駅の次の駅は林道(はやしみち)駅です。花園駅から1.8km。長尾線の駅間の最長区間です。この先、木太東口(きだひがしぐち)駅、元山(もとやま)駅を過ぎると、市街地を抜けて田園地帯に入ります。その後、国道11号線を越える高架を走ることになります。

高架の駅、水田駅。高松築港行きの電車がホームで待っていました。伊藤園のラッピング電車、平成19(2007)年の京浜急行からやって来た1302号車・1301号車でした。  水田駅を出て、高架で高速道路で越えると田園地帯の中を下っていきます。次の駅、西前田駅に着きました。

西前田駅から、1.1km、高田(たかた)駅に着きました。2面2線の駅でしたが、右側のホームに停まりました。駅員の方がいらっしゃいましたので、フリーきっぷを示して外へ出ました。

香川県立高松東高校が川の対岸にありました。最初に受けた、学生の利用がが多いという印象は間違っていなかったようです。この日は日曜日でしたので静かでした。高田駅は高松市の最後の駅でした。1.3km先の池戸(いけのべ)駅から木田郡三木町に入ります。

池戸駅から0.8km。左側に見えた白い建物です。香川大学農学部と読めました。その先で停車しました。農学部前駅でした。ここで若い人が10人ほど下車しました。

農学部前駅です。1面1線の駅です。下車後、徒歩で農学部の建物に向かいました。農場があるためか、奥行きはかなりあり広々とした印象でした。

長尾線の駅名表示です。シンボルマークである緑に統一されています。

農学部前駅から0.5km。長尾線の駅間最短距離区間です。すぐに次の駅に着きました。平木(ひらぎ)駅です。乗ってきた電車と、対向車、ホームの裏に停車していた3編成の電車が並んでいます。手前から1254号車・1253号車、隣が水田駅で見た1302号車・1301号車。奥で休憩しているのは1216号車と1215号車、こくみん共済のラッピング電車です。1216号車と1215号車は、元京浜急行の車両で、平成17(2005)年に”ことでん”に移って来ました。

かつて、玉野市電の線路跡を歩いたとき(2014年11月20日の日記)に、玉野市のすこやかセンターで静態保存されている”ことでん”からの里帰り車両に出会いました。玉野市電で活躍していたモハ103号車が玉野市電の廃止に伴ってコトデンに移り、760号車と名前を変えて活躍しました。京浜急行から1216号車と1215号車がやって来たため、平成18(2006)年に玉野市に里帰りしたものです。写真は玉野市のすこやかセンターで余生を送るコトデン760号車です。

”ことでん”は「指定駅」では途中下車ができるようになっています。三木町の中心付近にある平木駅はその「途中下車指定駅」になっていました。

これは駅前にあった案内板です。いつ作製された地図かわかりませんが、この案内図には次の「学園通り駅」が描かれていません。学園通り駅が三木町の強い要望を受けて設置されたのは、平成14(2002)年のことでした。

平木駅から0.6km。学園通り駅に着きました。長尾線で最も新しい駅です。付近は近代的な雰囲気がただよう三木町の中心地です。駅におられた方にお聞きすると、「新しい町で近くに三木高校があるので、学園通りと名づけたのでしょう」とのことでした。

三木高校に行こうと歩き始めました。駅前のショッピングセンターの近くにあった三木町文化交流プラザです。近代的な雰囲気はこの建物を中心に広がっています。

その先にあった香川県立三木高校です。新しい駅に「学園通り」と名づけた三木町の人々の誇りを感じる学校です。

駅に隣接した「花の駅」です。線路の脇に手入れの行き届いた花壇がありました。三木町の人々のこの駅にかける思いが伝わってきます。

学園通り駅に戻ります。駐輪場の屋根の上にある青いラインはホームの屋根です。今は明るい雰囲気の駅ですが、昭和53(1978)年、長尾線の100年を超える歴史の中で唯一の死亡事故が、この駐輪場のすぐ傍の踏切で起きました。長尾駅発瓦町駅行きの750形2両編成の上り電車とダンプカーが衝突して電車は脱線し線路北側の田んぼに転落しました。電車の運転士とダンプカーの運転手が死亡、乗客2名が重傷を負うことになりました。この事故で750形車両1両が廃車になってしまいました。

学園通り駅から見た、次の白山(しろやま)駅方面の風景です。”東讃富士”(三木富士)と呼ばれる白山の優雅な姿が見えます。

学園通り駅から1.3km、白山駅に着きました。優美な姿を見せていた東讃富士のふもとにあります。1面1線の駅です。

これは、駅の脇にある踏切から見えた東讃富士。この先に白山神社があります。

登り切ったところにある白山神社の拝殿です。背後に見えるのが東讃富士です。白山駅に向かって下ります。次の井戸駅までは0.5km。農学部前駅・平木駅間と並ぶ、長尾線での駅間の最短距離区間です。そして、井戸駅から0.6kmで、公文明(くもんみょう)駅に着きます。

公文明駅です。高松築港行きの1254号車・1253号車が出発して行きました。1面1線の棒状の駅です。この駅は鉄道ファンにはよく知られています。この先に”お立ち台”があるからです。

駅から出て線路と並行して走る県道10号高松長尾大内線に出て長尾方面に向かって歩きます。その先の橋を渡って、左側にある鴨部橋梁に向かって歩きます。鴨部橋梁上を走る長尾線車両の撮影スポットなのです。

やって来ました。伊藤園のラッピング電車、1301号車・1302号車です。この日は撮影していた人は一人もいませんでした。この先はさぬき市です。

さぬき市にある長尾駅に着きました。終着駅です。線路の間にあるのは、ATSの標識です。”ことでん”のATSは時速20km、15km、10km、5kmの4段階で速度照査をする仕組みになっているそうです。その15kmから5kmまでのの標識が車止めに向かって並んでいます。

長尾駅のホームから見た瓦町方面です。東讃富士と呼ばれるとおり東讃地方のどこからでも見える白山の姿です。

長尾駅の外観です。日曜日のせいか駐輪場はがらがらでした。

長尾駅の近くにある長尾寺です。四国八十八ヶ所霊場の八十七番札所です。長尾駅から10分ぐらいのところにありました。

地方鉄道でありながら、ICカード乗車券をいち早く導入した”ことでん”高松琴平電鉄。乗降客に優しい便利で清潔な駅。全車冷房完備の電車が走る、すてきな鉄道になっていました。


高松琴平電鉄志度線を行く

2015年07月04日 | 日記

香川県高松市を走っている高松琴平電鉄(琴電)志度線の車両です。

四国には三社の私鉄が走っています。写真は、その中で最も長い歴史をもつ伊予鉄道の郊外線です。ちょうど路面電車と平面交差をしているところ(全国唯一、鉄道と路面電車の平面交差、伊予鉄道」 2015年4月8日の日記)です。

土佐電鉄の路面電車(「全国第2位の路面電車、土佐電鉄に乗る」2014年5月27日の日記・「土佐電鉄、後免線を行く」2014年6月8日の日記)もすでにまとめました。土佐電鉄は、県や周辺市町村の支援を得て、2014年10月1日、バス事業の高知県交通と新たに「とさでん交通」を設立し、両社の鉄道事業とバス事業を引き継ぐことになっています。

快速マリンライナーで、JR高松駅に着きました。そこから駅前にある玉藻(たまも)公園に向かって歩きます。

琴電高松築港駅です。高松築港駅まで延伸したのは、昭和23(1948)年のことでした。

琴電高松築港駅の改札口です。ここは、琴平線と長尾線の電車の始発駅(終着駅)になっています。琴平線は、大正15(1926)年、琴平電鉄によって、栗林公園・滝宮間が開通した後、昭和2(1927)年には琴平・瓦町間が開通しました。関西の大手私鉄並みの設備を備えた鉄道で、「讃岐の阪急」とも呼ばれていました。また、長尾線は琴平線に先立つ明治45(1912)年、高松電気軌道によって、現在の瓦町・長尾駅間が開通しました。会社名のとおり、軌道線として開通しました。改札口の上の時刻表の黄色は琴平線、緑色が長尾線の出発時刻を表しており、その路線の車両も同じような色で塗装されています。

ホームに立ったとき、黄色の塗装がなされた琴平線の電車が到着しました。高松築港駅は琴平線と長尾線の始発駅(終着駅)ですが、待避線はなく、乗客が降りるとすぐに次の乗客を乗せて出発していきます。この電車は、1103号車と1104号車の2両編成で、もとは京王電鉄の5000系車両でした。5000系車両はデザイン性に優れ、昭和38(1963)年から昭和44(1969)年にかけて合計155両が製造され、京王電鉄の主力車両として活躍しました。しかし、平成8(1996)年に全廃され、翌平成9(1997)年に4編成8両が琴電に移ってきました。

車掌さんが乗務されています。電車は玉藻公園になっている高松城跡に沿って進みます。高松城跡の堀には海水が引かれています。

高松築港駅と瓦町駅の間は複線区間になっています。

この日は、琴電の志度線の電車で志度に向かうことにしていました。志度線は高松築港駅には乗り入れていませんので、瓦町駅で乗り換えなければなりません。

見えにくい路線図ですが、志度線は赤で示された路線で、瓦町駅とさぬき市の志度駅間12.5kmを結んでいます。志度線も明治44(1911)年東讃電気軌道(後、讃岐鉄道)によって軌道線として、志度駅と今橋(いまばし)駅間が開通しました。瓦町まで開業したのは、大正2(1913)年のことでした。現在の高松琴平電気鉄道(琴電)は、讃岐鉄道(志度線)、琴平電鉄(琴平線)そして高松電気軌道(長尾線)が太平洋戦争中の昭和18(1943)年、陸上交通事業調整法によって合併して設立されました。現在はすべての路線が軌間1435ミリの鉄道線になっています。

瓦町で琴平線の電車を降りて志度線のホームに向かいます。志度線のホームには3両編成の電車が待っていました。志度方面から628号車、627号車、801号車と並んでいました。600形は平成11(1999)年に、800形は平成12(2000)年に、いずれも名古屋市営地下鉄からやって来た車両です。600形の2両は貫通できますが、801号車から2両目の627号車へは貫通することはできません。1時間に3本、ラッシュ時を除く日中は、毎時06分、26分、46分に出発して行きます。

運転席です。「3連」でしたが、通勤時間帯を過ぎていましたので、2両でもゆったりと座ることができそうでした。

次の駅は今橋(いまばし)駅。瓦町駅から0.6kmでした。志度線は軌道線でスタートしたためか、駅間の最短が0.6km、最長が1.3kmという間隔で駅が設置されています。ここで下車しました。

ホームの裏側に見えた今橋車庫を見たかったからです。志度線の電車はここで休憩しています。721・723・724号車、803・?・732号車(真ん中は確認できませんでした)、802・629・636号車の3編成が羽を休めていました。700形車両ももとは名古屋市営地下鉄の車両で、2編成4両が、平成10(1998)年に琴電にやって来ました。

「”Iruca”10周年記念」を示す列車表示です。琴電といえば、”Iruca”です。何せ、導入は平成17(2005)年で日本で3番目。JR東日本の”Suica”、JR西日本の”Icoca"に次いで、大手私鉄を差し置いての導入でした。

これが”Iruca”の料金支払い乗降システムです。房前駅(ふさざき)駅で撮影しました。乗降時には「出」「入」にタッチして入退場されていました。

駅や車両で見られる”Iruca”のマーク。「いるか」と一緒にPRに役立っています。

でも、券売機もあります。これは、春日川駅にあった券売機です。この日は利用している人を見ることはありませんでした。

私は”Iruca"を持っていないので、この切符を使用しました。「1日フリーきっぷ」です。1230円支払って、高松築港駅で買いました。琴電の全路線1日乗り放題切符です。なお、琴電は「指定駅」では途中下車ができることになっています。

志度線の電車は終点の志度まで、並行したり、離れたりしますが、基本的には国道11号線(志度街道)に沿って走ります。台形をした屋島の姿が見えるようになりました。

琴電屋島駅に着きました。二面二線の相対式のホームです。左側に趣ある駅舎が見えました。車掌さんにフリー切符を見せて下車しました。

琴電屋島駅の外観です。明治44(1911)年開業です。当時はここから360m離れたところにあったそうです。平成21(2009)年、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されました。

駅舎の中です。内部はきれいに整備されています。赤い塗装の志度線にあわせて窓枠や天井には赤系の色が使われています。駅員さんはおられませんでした。

琴電屋島駅から真っ直ぐ屋島方面に向かって歩きます。すれ違う人が一人もいません。正面の建物の左脇を進みます。その先に、かつて屋島山上を結ぶ屋島ケーブルがありました。廃止されていることは知っていましたが、どんなようすか見ておきたいと思っていました。

ケーブルの駅があったあたりに、新しい建物が建設中でした。地元の方が歩いて来られ、「今コミュニティハウスを建設中なんだ」とのことでした。屋島ケーブルは、距離0.8km。高さにして265mを登っていたそうです。定員121名の大きなケーブルカーでした。山上には四国八十八ヶ所霊場の84番札所である屋島寺があります。

その裏に屋島ケーブルの車両が保存されていました。地元の方は「さび止めを塗っているから」とのこと。以前はどんな色だったか思い出せませんでした。

古い案内板が残っていました。「屋島山上 0.8km」と書かれていました。屋島のケーブルカーは1台だけだったようです。中間部でのすれ違いはありませんでした。

軌間1067ミリの屋島ケーブルの線路跡です。平成17(2005)年8月31日に廃止されました。今は琴電屋島駅前から屋島山上まで屋島ドライブウエー経由のバスが運行されているそうです。地元の方は「ケーブルの線路跡を登山道に整備することを考えているのだけど」とおっしゃっていました。

ケーブルが走る滑車も残っていました。どなたかが草を刈ってくださっているのでしょう、荒れ果てた感じはしませんでした。近くに旅館も残っていましたが、人通りはまったくありませんでした。遅い昼食を食べさせていただいた、琴電屋島駅近くの食堂のご主人は、「人が全然通らないんだ」と嘆いておられました。たくさんの人で賑わっていた頃の面影は残っていませんでした。

二面二線の八栗駅に着きました。85番札所、八栗寺の最寄り駅です。ここから歩いていく参拝客もおられました。

国道11号線と並行して走るようになりました。頂上近くに八栗寺がある、五剣山が異様な山容を見せています。

琴電の八栗新町駅に着きました。下車して少し先まで歩き、振り返って撮影しました。正面が琴電の八栗新町駅。左の国道11号の左側には、JR高徳線の讃岐牟礼駅があります。ここが、琴電とJR高徳線が最も接近しているところでした。

塩屋駅を過ぎると左手に海が見えるようになりました。後ろを振り返って撮影しました。

房前(ふさざき)駅に着きました。右側にホームのある一面一線の駅です。しかし、よく見ると左側の樹木が並んで生えているところは、元のホーム跡のようです。かつては二面二線の駅だったようですね。

琴電の線路の脇から撮影しました。驚いたのは、途中で海側に見えていた五剣山が反対側に見えたことです。五剣山を背景に走る志度線の電車です。

志度線はもともと軌道線として開業しました。線路が広くありません。外から見ると、電車は両側の民家や樹木の間を窮屈そうに走っています。

次の原駅を過ぎると、いよいよ終点の志度駅です。並行して走る国道11号線に「さぬき市」の標識が見えました。志度駅は高松市の隣のさぬき市にあります。

瓦町駅から30分余。終点の志度駅に着きました。乗客が下車すると、電車はすぐに折り返して出発していきました。車掌さんの安全確認をする声とホームを見つめる姿がみえました。

写真は駅舎の外からホーム方面を撮影したものです。「かつての志度駅は現在地よりも100mほど前にあった」とそこでお聞きしました。それなら、そこまで行ってみようと思いました。写真の道を左に進みJR志度駅に向かいます。

国道11号線の向こう側にあるJR志度駅。ここから高松方面に向かって引き返します。

香川県立志度高校の標識が見えました。

左折すると香川県立志度高校に向かう道を、反対の右側に向かいます。琴電の線路の脇にある倉庫風の建物があります。現在はコーヒー店になっていますが、ここに、かつての琴電志度駅がありました。

かつての琴電志度駅の跡です。コーヒー店になる前には、志度名産の下駄の倉庫だったそうです。

琴電の志度線に乗って瓦町から琴電志度駅までやって来ました。琴電志度線は軌道線として、大正2(1913)年に、現在の瓦町駅まで開業しました。これまでの100年を越える歴史を秘めて、この日も走っていました。”iruca"をいち早く導入し、全車冷房完備という電車が、車掌さんも乗車したツーマン体で運行されています。初乗りが190円というのは少し高いかなとも思いますが、サービスを考えたら利用者は納得されているのかもしれません。私が買ったフリー切符は、志度線、長尾線、琴平線乗り放題です。すごいお特感がありました。