トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

海洋堂ホビートレインに乗って「はげ」駅へ行きました

2014年07月25日 | 日記
「はげ」というのはちょっと口にするのがはばかられる言葉です。でも、あるのです、「はげ」駅が。何年か前、初めてこの駅を通過したときから、いつも気になっていた駅です。いつか、この駅で下車しようと思っていました。このたび思いついて、JR予土線にある「はげ駅」に行ってきました。ところで「はげ駅」はどんな字なのでしょうか?

「半家」と書きます。全国の珍名駅、難読駅にいつも入っています。私も、最近はすっかりこの仲間入りをしてしまいました。ですから、2回目の訪問になる今回は言ってみれば、表敬訪問でした。心を躍らせて、JR予土(よど)線の始発駅である窪川駅に向かいました。行ってみてわかったことですが、予土線は今年、節目の年を迎えていました。

これはJR土讃線の窪川駅の入り口です。JR予土線の始発駅であり、土佐くろしお鉄道中村線の始発駅でもあります。

JR窪川駅前にあった「鉄道開通記念碑」です。この記念碑がつくられた昭和26(1951)年、国鉄土讃本線はここ窪川駅まで延伸しました。土讃本線はこの後さらに延伸し、昭和48(1963)年には中村線が開業します。そして、国鉄分割民営化の翌年の昭和63(1988)年、土讃本線は土讃線と改称され、中村線は土佐くろしお鉄道に移管されました。

この日は窪川駅から宇和島行きの予土線の列車でJR半家駅に向かうことにしていました。窪川駅の4番ホーム、予土線のホームに向かいます。さて、予土線は宇和島から鉄道の敷設が始まりました。明治44(1911)年に設立された宇和島軽便鉄道株式会社によって、大正3(1914)年に宇和島駅・近永(ちかなが)駅間が開通しました。その時から、今年で100年になります。開通100周年の節目の年を迎えているのです。

ホームに降りると、すでに列車は入線していました。鮮やかな色彩の列車です。宇和島軽便鉄道は、その後、近永駅から少しずつ延伸し、国有化され軌間も1067ミリに改軌されるなどの動きを経て、昭和49(1974)年に若井駅まで全通し、予土線と改称されました。今年、それから40周年を迎えました。現在は営業上、北宇和島駅・若井駅間が予土線になっています。

ホームに掲示してあったポスターです。この顔を思い出しましたか? 今年(平成26年)の3月15日にデビューした、0系新幹線そっくりの顔をした列車です。メディアでも取り上げられましたので、私も知っていました。宇和島・近永間開通100周年、予土線開通40周年記念事業の目玉事業として誕生しました。

これも、近くに掲示してあったポスターです。「予土線3兄弟」と書かれています。これから乗車する列車もポスターの中にありました。右下の列車がそれです。「海洋堂ホビートレイン」です。ポスターの上にある黄色い列車が「しまんトロッコ」。おなじみのトロッコ列車です。

ホームで出発を待っていたとき、その黄色い列車が隣のホームに入ってきました。こちらが実物の「しまんトロッコ」です。手前のコトラ152462とキハ544の2両編成です。JR九州の話題の車両で知られる水戸岡鋭治さんが設計して、平成25(1913)年10月にリニューアルデビューした列車です。

これから乗車する「海洋堂ホビートレイン」のフロントマスクです。正面上部に「ホビートレイン」、下部に英語で「海洋堂ホビートレインしまんと」。フィギュアを展示する四万十市にある海洋堂フィギュア館にちなむ列車です。

海洋堂ホビートレイン、キハ324に乗車しました。単行のワンマン運転の列車でした。青い床にはウミヘビやウミガメの絵。赤いシートが印象的な車両です。

中間部にあったショーケースです。

その中には、フィギュアが展示してありました。なかなか楽しい車内です。

13時20分、定時に出発しました。最初の駅、若井駅を過ぎてしばらくすると駅のホームでもないのに列車が停車しました。「行き違い?駅でもないのに?」と思っていると、「行き違いのため停車します」と運転士さんが電話型のマイクで放送されました。ここは、行き違いのためにつくられた川奥信号場でした。正面の信号は当然のことながら赤。ここまで同じ線路を走ってきた土佐くろしお鉄道中村線とJR予土線が分岐します。この先を右前に向かう線路が土佐くろしお鉄道の中村線、予土線は左の線路を進み、その先でトンネルに入ります。

やがて、行き違いの対向車がやってきました。窪川駅行きの予土線の列車でした。ここ川奥信号場は、窪川駅から3.6kmの地点にあり、予土線の線路上の起点になっています。ただし営業上は先に書いたように、若井駅と北宇和島駅までの76.3kmが予土線です。

予土線の列車は停車することなく、窪川駅に向かって進んで行きました。続いて、私が乗車している宇和島行きの海洋堂ホビートレインも出発します。左側の線路に入り進んで行きます。

海洋堂ほびートレインがトンネルに入った時の車内の風景です。少し大げさかも知れませんが、幻想的な光景が広がっています。

予土線は、蛇行する「清流四万十川」を右や左に見ながら進んでいきます。この日はやや霞んでいましたが、それでも緑の木々と空の青を映して美しく流れる四万十川の姿が見られました。

トンネルから出て四万十川に架かる橋を渡ると、またトンネル。トンネルと橋が続く路線をかなりのスピードで進みます。土佐大正駅から車内販売の方が2名乗車して来られました。お聞きすると、地域起こしの活動をしておられる方々でした。この近くから東京に出てのJターンだと言われていましたが、販売には上手な土地の言葉を使っておられました。

商品を載せたカートにも、0系新幹線のヘッドマークがついていました。

お話ししている間に、「もうすぐ写真を撮るといいですよ」と言われて撮影した写真です。JR半家駅に到着する直前、線路の右側にある橋の下にもう一つ橋が見えました。欄干も何もついていない簡素で素朴なつくりの橋でした。

ズームして撮影しました。いかにも心細い感じの橋です。水面からの高さも余りなく、水かさが増すと水面下に沈んでしまいそうな橋です。「中半家沈下橋(なかはげちんかばし)」だと教えてくださいました。

すぐにめざすJR半家駅に着きました。時刻表通りの14時12分。窪川駅から50分ぐらいかかりました。切符を運転士さんに見せて下車しました。

列車の中の二人の女性販売員の方に手を振っていると、いつの間にか「海洋堂ホビートレイン」は出発していました。

まずは駅周辺を見ようと、ホームを歩き使用済み切符の投入箱のあるところの階段を下っていきます。60段余りの階段を下り斜面を降りると国道381号線にぶつかります。

国道の先の田んぼの向こうに四万十川。ここでは左から右に向かって流れています。流れの先は四万十市(旧中村市)です。「半家」は平家の落人の集落であり、源氏の討伐を避けるため、「平家」の「平」の字の上の横棒を下に移して「半」として「半家」で記したと言われています。多くの方がそう教えてくださいました。もう一つの説は、崖を表す「はげ」が語源だとするもの。駅からの長い階段を下っているうちに、「崖」を表す「はげ」という説も説得力があるように思いました。もともと「はげ」という地名があるところに、平家の落人伝説に基づく「半家」という字を当てたのではないでしょうか?

階段を下ったところにあった広場にある自転車置き場です。

自転車置き場の前にあった「女性消防隊のポンプ倉庫」と公衆電話。

左の江川崎方面を撮しました。このあたりは四万十市西土佐半家といわれる地域です。

こちらは反対方向です。まっすぐ進んだ先に、蛇行する四万十川の鉄橋があります。

15分ぐらい歩くと、予土線の鉄橋の高架下をくぐります。

その先の「半家大橋」。列車内で撮影した2つの橋が重なる写真にあった橋梁です。上に見えた重量感のある橋がこの橋でした。

半家大橋を渡って、対岸を四万十川に向かって下ります。

列車内から撮影した半家沈下橋の入り口です。欄干のない、水面から低い橋です。四万十川が氾濫したときには橋は水面下に沈み流されるのを防いでいるのです。幅は3mほどで、水面からの高さは2~3mぐらいです。車止めがしてありました。

この日の四万十川は穏やかでした。このくらいの水位のときは安心して渡ることができます。車内販売の方からいただいた観光パンフレットの地図には、中半家沈下橋から四万十川の河口の四万十市(旧中村市)までに9本の沈下橋が描かれていました。

中半家沈下橋の入り口付近の風景です。振り返って撮影しました。崖状の地形です。「はげ」らしい風景です。

渡り切って、国道に出るため上っていく途中に放置してあった水船です。四万十川で使われていたものでしょうね。

国道381号線をJR半家駅に戻ります。駅を示す標識です。右折して上っていきます。

駅に上っていく道です。上方の白い建物はホームの待合室です。

ホームに戻ってきました。建物は待合室だけです。

奥行きがほとんどない待合室の内部。ドアもありません。清掃用具もありますが、少しほこりっぽい印象でした。

待合室にあった時刻表です。宇和島行き、窪川行き、どちらの列車も1日7本のみです。

そのとき、突然ごとごとという音がして、「しまんトロッコ」が通過していきました。時刻表に載ってない「臨時列車」として運行されています。

これは、待合室の「財産標」です。「昭和49年2月28日」とありました。近永駅から若井駅まで開通した年に、この待合室も完成したようです。

待合室の近くのレールの近くにあったキロポスト。「37キロ」を表しています。先にも書きましたが、予土線の線路上の起点は川奥信号場です。川奥信号場は若井駅から3.6kmのところにあるそうですから、次の家地川(いえぢがわ=「ぢ」の字が使われています)駅まで2.2kmあります。そのため、川奥信号場から半家駅までは35.3kmになるのではないかと思うのですが、「37km」(37k396m)と記されています。どうしてなのでしょうか?

ホームの乗車場所の案内です。上りも下りもほとんど同じ位置です。

15時59分、定時に宇和島行きの列車がやって来ました。乗車したのは私一人でした。

4分ほどで次の西江崎駅に着きました。ここで7分停車です。予土線の列車にはトイレがありません。乗客は一斉に、写真の右側にある、駅舎に隣接したトイレに向かいます。

改札口です。その隣に「ようこそ 日本一暑い駅に」と書かれています。昨年(平成25年)の8月12日、摂氏41度を記録しています。現在まで、日本の最高記録が継続しています。

ここで、窪川行きの列車と行き違いです。その窪川行きの列車は「予土線(宇和島鉄道)宇和島・近永100周年」と書かれたヘッドマークをつけていました。「宇和島・近永間開通100周年」、「予土線開通40周年記念」を迎えた予土線の記念の年をお祝いしていました。

この先、予土線の終点、宇和島駅までまだ35.1kmあります。宇和島駅には17時24分に到着する予定でした。予土線の旅は、この先まだまだ続きます。





もぐさ売る お店が残る 宿場町 旧中山道柏原宿

2014年07月15日 | 日記

幼い頃、いたずらをしたときには「灸(やいと)をすえるぞ!」といって、よく叱られました。今でも「お灸をすえる」ということばが残っています。灸は艾(もぐさ)を体のツボに置き上からそれを燃やすことで疲れを癒す治療法です。歩く旅が中心だった江戸時代、旅人にとって艾は必需品でした。その艾を商うお店が、今も旧中山道の柏原宿に残っています。「伊吹堂 亀屋左京」です。寛文元年(1661)創業で、350年を超えて商いを続ける老舗です。江戸時代、柏原宿には9軒の艾屋があったそうですが、今も商いを続けているただ一つのお店です。

旧柏原宿は、現在の米原市柏原にあります。JR東海道線を米原駅で乗り換えて13分、雨が今にも落ちてきそうな天候のなかを、JR柏原駅に着きました。

駅前にあった観光案内です。中央が旧中山道です。図の左方向が東の江戸側、右側が西の京側です。旧中山道は、武蔵、上野から信濃に入り、木曽11宿、美濃16宿を経て近江国に入ります。柏原宿は近江国の最初の宿場で、江戸から60番目の宿場でした。

柏原駅から旧中山道にいたる通りです。突き当たりの左右の通りが旧中山道です。左折して江戸側に向かって進みます。

最初は美濃国と近江国の境ま行くつもりでしたが、雨模様の天候が心配で途中で挫折。東海道本線を渡る野瀬踏切から引き返すことにしました。写真は野瀬踏切です。

これは野瀬踏切から江戸側の中山道を撮影したものです。江戸から59番目の宿場、今須宿方面です。

野瀬踏切を渡ってすぐ右折。旧中山道を柏原宿に向かって歩きます。雨が降り始めました。

10分ぐらい歩くと、左側に案内板と石碑がありました。石碑には「中山道柏原宿」と刻まれています。街道沿いに東町、市場町、今川町、西町がありました。天保14(1843)年の「宿村大概帳」によれば、柏原宿は人口1468人、家数344軒、本陣・脇本陣各1軒、旅籠22軒、江戸日本橋から114里27町8間(450.7km)でした。また、宿場の長さは13町(1.4km)ある大きな宿場町でした。

石碑から10分で東目付跡に着きます。設置されていた案内などによれば、宿の東の入り口で、道の両側に食い違いの形で土塁が築かれていたそうです。見付とは本来城門のこと、後に宿場用語になったそうです。貴人の到着時には宿場役人の出迎えの場になっていました。柏原宿には宿の西側に、西目付も設置されていました。

通りの両側には「中山道柏原宿」の看板が続いています。

柏原宿にはベンガラ(弁柄)で塗られたお宅が続いています。建物はほとんどすべて建て替えられていましたが、建て替えのときには従来の工法で建てるお宅が多いため、旧街道の雰囲気を今も感じ取ることができます。

八幡神社を過ぎて、「JR柏原駅0.3km」の現代の道標の先の民家に、屋号が書かれていました。「旅籠屋 大和郡山藩坂田郡内取締大工 惣左衛門」。柏原宿は、この中に書かれているように、江戸時代初期は天領でしたが、享保9(1724)年に、柳沢吉保で知られる大和郡山藩領になりました。

この写真は、旧中山道からJR柏原駅を撮影したものです。この先からが柏原宿の中心部、市場町にはいります。

ベンガラで塗られたお宅が続いています。雨は降ったり止んだり、蝋燭屋助三郎、煮売屋源蔵、旅籠屋角屋久蔵などの屋号を見ながら進みます。

通りの左側に「問屋役 杉野重右衛門」の屋号を掲げたお宅がありました。問屋は人馬の継立(つぎたて)を行う宿役人です。6軒の問屋が東西3軒ずつに別れ自宅で10日交代でつとめていました。村の年寄役が問屋を補助し、下役に帳付、馬指、人指がおりました。旧中山道の各宿場の継立のための人馬は、50人、50疋が常備されていました(ただ、木曽路11宿は例外で25人、25疋になっていましたが)。人馬の輸送を助ける助郷村は52ヶ村。遠方の村が多く宿場も助郷村もともに苦しんでいたといわれています。隣のはびろ会館があるところに、「東の荷蔵跡」がありました。荷物の移送が当日中にできなかったとき、荷物を保管したところです。藩の年貢米を集荷する郷蔵(ごうぐら)も兼ねていました。西の荷蔵もあるそうです。

街道をはさんで斜め前、郵便局の手前に脇本陣跡がありました。「脇本陣 問屋役 年寄 南部源右衛門」と屋号に書かれていました。この先にある本陣の南部家の別家で、江戸時代を通して脇本陣をつとめました。敷地は隣の郵便局を含む228坪、建坪73坪という広さでした。

脇本陣の向かいの「旅籠屋京丸屋五兵衛」。この前にあった案内板にあった天保14(1843)年の職業記録には、「もぐさや9軒、造り酒屋3軒、炭火茶屋(煮売屋)12軒、大工10軒、豆腐屋9軒、鍛冶屋1軒、医師1軒、その他商人が28軒、職人が13軒・・・」などが書かれています。

京丸屋の先にあった「医師 年寄 堤覚之丞」の邸宅跡。一時、柏原小学校が置かれたこともありますが、現在は接骨院になっていました。

接骨院の向かいにあった案内板。柏原宿の概略の説明がありました。

その裏にあったお宅が、「暖流」「夜明け前」「足摺岬」「越前竹人形」などの作品で知られる映画監督吉村公三郎さんの生家です。祖父は柏原宿の最後の庄屋、父は広島市長、兄は朝日新聞記者で「天声人語」の執筆者だったということです。

本陣の南部辰右衛門家跡です。脇本陣跡の隣が「造り酒屋 西川瀬左衛門」家跡、その次が「東の庄屋 吉村武衛門」家跡(吉村公三郎生家)、その隣が本陣でした。敷地526坪、建坪138坪。文久元(1861)年皇女和宮の江戸下向のときの宿泊地になりました。4000人を超える行列への対応で、宿役人は大変だったことでしょう。その後、14代将軍家茂が、第二次長州征伐の途上の慶応元(1865)年に、この本陣に宿泊しています。明治になってから柏原小学校の前身である郷学校がここで創設されました。

その先に市場橋を渡りますが、その手前右側に火伏せの神として知られる秋葉山の常夜灯がありました。文化12(1814)年建立の常夜灯でした。その手前に高札場があったそうです。江戸中期から幕末まで8枚の高札が掲げられていました。正徳大高札が6枚、明和大高札1枚、隣の宿場までの運賃添高札1枚です。高さ0.9mの石垣の上に、高さ3.33mの建物が建てられていたということです。

市場橋を渡ります。前方左側の広い更地があり、その向こうに広大な屋敷が見えました。めざしていた「艾屋 亀屋七兵衛佐京」、柏原宿にただ一つ残る艾屋です。建物は文化12(1815)年頃の建築といわれています。

伊吹堂の立派な看板が掛けてあります。伊吹堂の6代目七兵衛佐京は、当時江戸の流行の中心だった吉原で、遊女に「江州柏原の伊吹山の麓、亀屋佐京の切り艾」と歌わせたり、「伊吹艾」の浄瑠璃をつくって演じさせたりしたそうです。そのため、伊吹艾は全国に知られるようになり、9軒の艾屋が並ぶ繁栄を迎えたのでした。

艾は伊吹山に自生しているオオヨモギが原料です。葉を乾燥させ、石臼でひいて葉の裏の白い綿毛のようなものを採集してつくりました。現在も従来からの方法で艾をつくって販売しているそうです。私が訪ねた日、お店は閉まっていました。「土曜日・日曜日は閉まっています」とのことでした。私は、この店の番頭がモデルになってできた、元祖福助人形を見たかったので、お休みだったのはほんとうに残念でした。

街道の右側の先にあった柏原役場跡です。現在は診療所になっています。「中山道六拾宿 中山道柏原宿」の石碑がありました。旗は「やいとまつり」と染められて、街道筋の各家に立てられていました。

その先にあった「柏原宿歴史館」です。松浦久一郎邸を改修して、平成10(1998)年に開館しました。建物は文化庁の登録有形文化財に登録されています。

歴史館には柏原宿を代表する史料が展示されています。万治元(1660)年から昭和30(1955)年の長期にわたる柏原宿や柏原村の出来事を書き留めていた記録、「萬留帳(よろずとめちょう)」。宿場内の案内が充実しているのはこの史料のおかげだと思います。2つ目は、高札場に掲示していた正徳年号の高札です。三つ目は、この先にある柏原御茶屋御殿の玄関にあった蟇股(かえるまた)です。装飾用の部材です。歴史館の内部は撮影禁止になっていました。

左側に農業協同組合があります。ここは柏原小学校のあったところです。柏原宿本陣跡に最初につくられた郷学校は、今川町に移り「開文学校」と改称されました。その後、医師、堤覚之丞の邸宅跡に移り、明治11(1898)年にこの地に移って初めての校舎を建築しました。この地は、中世、柏原にあった箕浦代官所だったところだそうです。柏原小学校は、昭和33(1958)年に国道21号線沿いの現在地に移るまで、この地にありました。

街道の向かいにあった「中山道 柏原宿」の碑。人間の背より高い木製の碑です。

福祉交流センターに入っていく道が、街道から左に延びています。ここは、江戸時代、西の荷蔵が設置されていたところです。東の荷蔵と同じように使われていました。また、隣の「艾屋 年寄 亀屋 山根為蔵」家の別棟に、明治34(1901)年に柏原銀行が設立されました。昭和18(1943)年に滋賀銀行と合併するまでの42年間、この地の産業活動を支援していました。

左側に学習塾のKUMON。ここに、「年寄 木村勘左衛門」の邸宅がありました。その先に、石の道標が残っています。

これがその道標です。「やくし江乃道」と刻まれています。最澄が創建したという明星山明星輪寺泉明院への道標です。道標は、享保2(1717)年の建立で、正面が漢文、横2面がひらがなと変体かなが使われています。

その先の交差点です。右前が柏原御茶屋御殿が置かれていたところです。江戸幕府の3代将軍、徳川家光のとき、将軍の上洛時の休息や宿泊のための施設としてつくられ、元禄2(1689)年に廃止されました。江戸時代を通じて14回使用されたそうです。

現在は、当時の井戸跡だけが残っています。

左側にどっしりとしたお宅があります。

郷宿跡の案内が立っていました。郷宿とは、案内によれば「脇本陣と旅籠屋の中間の施設で、武士や公用で旅する庄屋などの休息や宿泊に使われていた」そうです。

緩やかな右カーブを進むと、中井川橋を渡ります。柏原宿の出口が近づいてきました。

丸山橋を渡りすぐ左折すると、形のいい一里塚が見えました。もちろん復元されたものです。ここは江戸の日本橋から115番目の一里塚だったそうです。江戸方115里の地点ということでしょう。

説明によれば、北塚は街道の右側の愛宕神社の参道の隣の白い建物、「仲町集会所」のあたりに築かれていたそうです。

南塚は「街道を横切る2本の川のため、東側の川岸で、街道より奥まったところに置かれた。現在は東側の川床になっている」とのことです。この川の川床かな? 古図には、2つの塚とも3本の榎(えのき)の木が描かれているそうです。 

南塚の位置がよくわからないので、心残りでしたが、先に進みます。

5分ぐらいで、西目付跡に着きます。柏原宿の西の出口です。東目付と同じ構造だったそうです。この地点の高さは、標高174m。彦根城の天守閣の上にもう一つ天守閣を積み上げたぐらいの高さなのだそうです。ここまで、東の入り口から13町(1.4km)。 長い高地の道が続いているのですね。

続いて、「中山道柏原宿」の石碑です。これも東の入り口付近の石碑と同じつくりでした。

石碑の先には、かつての松並木が残っています。

松並木を抜けると、中山道は田んぼの中を進むことになります。旅人は、次の醒ヶ井(さめがい)宿まで1里半(5.9km)、山沿いの道を進んでいくことになります。

艾を売る「伊吹堂 亀屋佐京」のお店が見たくてやって来た旧中山道柏原宿でしたが、残念ながら、お店は休業日でした。しかし、柏原宿の町並みの説明も丁寧で、かつての宿場町の姿をしのぶことができました。雨の中を歩いた苦労が報われた気がしました。 





















1日3往復の”秘境駅” JR芸備線内名駅

2014年07月07日 | 日記

JR芸備(げいび)線は備中神代(びっちゅうこうじろ)駅と広島駅を結ぶ鉄道です。昭和5(1930)年に途中の東城(とうじょう)駅までが開業しました。これから訪ねる内名(うちな)駅を含む備後落合(びんごおちあい)駅までが開業したのは、昭和11(1956)年のことでした。実際の運行は、新見駅が起点になっています。備後落合駅まではJR西日本岡山支社の管轄です。ぽつりぽつりと雨が降り始めました。

新見駅の1番ホームです。芸備線の備後落合駅に向かう列車はこのホームから出発します。私がホームに着いたときには、すでに入線していました、キハ120359号車。ワンマン運転の単行気動車でした。

これは、ホームにあった芸備線の時刻表です。右側の時刻表が芸備線のもので、これから訪ねる内名駅を通る備後落合駅に向かう列車が3本と、途中の東城駅に向かう列車が3本ありました。私は、13時ちょうどに出発する備後落合行きの列車に乗って内名駅に向かうことにしていました。これ以前の備後落合駅行きは5時08分発の快速列車で、この後は18時23分発でした。

トイレ付きのキハ120359号車の内部です。「NIGATA1996」と車内に書いてありました。1996年に新潟鉄工(現在は新潟トランシス)で製造された車両です。13時定時に出発しました。私を含めて、7名が乗車していました。

出発です。伯備線の駅なのに伯備線の列車が停車しない布原駅(2014年3月31日の日記)に停車して、新見駅から10分ぐらいで備中神代駅に着きました。芸備線の起点駅です。1日3本しか運転されないため、もちろん下車するわけにはいきません。右奥に跨線橋と伯備線のホームが見えます。2面3線の駅です。

備中神代駅を出発してから20分ほどで野馳(のち)駅に着きました。岡山県側の県境の駅です。

野馳駅から、広島県との県境を越えて5分ぐらいで、広島県最初の駅、東城(とうじょう)駅に着きました。東城駅を過ぎてからは成羽川の谷に沿って走るルートになりました。地形的な問題からか、30km、25km、20km、15kmなどの速度制限がかかっている区間があり、列車はゆっくりと進んでいきます。中国山地の奥深いところを走っていることを実感することができます。

13時54分、布原駅から9駅目の内名駅に到着しました。右側にホームと待合室が設置されています。線路をはさんで、駅前に民家があります。もちろん、私は初めての訪問でした。

下車したのは、予想通り、私一人でした。下車してすぐ列車の前から撮影しました。さて、内名駅は、牛山隆信氏が主宰されている「秘境駅ランキング」の32位。広島県からは5駅が上位200位にランクインしていますが、その中の最上位にランクされている駅です。ちなみに、JR芸備線から3駅(この列車の終点備後落合駅も148位にランクインしています)、JR三江線から2駅がランクインしています。”秘境駅”なのに、駅のすぐ前に民家があることに、少し違和感がありました。

内名駅のすぐ先は、またしても時速25kmの速度制限のある区間になっています。

やがて、列車は次の小奴可(おぬか)駅に向かって出発していきましたが、ゆっくりとしたスピードのためか、いつまでもその姿をとどめていました。

線路脇にあった29キロポスト。芸備線の起点である備中神代駅から29kmのところにあることを示しています。

内名駅の駅名標です。乗車して来た列車は、終点の備後落合駅に14時24分に到着します。そして、10分後の14時34分に新見行きの列車として折り返します。内名駅に戻ってくるのは15時02分。それまでの約1時間が、内名駅での滞在時間です。その列車を乗り過ごすと、20時38分発の次の列車まで待たないといけません。なにせ超過疎路線の芸備線ですから・・。

駅の周囲を歩いてみることにしました。竹藪に囲まれた駅から坂道を下ります。すぐそばを、芸備線に平行して成羽川が流れており、近辺に10軒程度の民家が点在しています。雨が降り続く中を、成羽川に架かる内名橋を渡って集落のある地区に向かいます。

20分ぐらい歩くと、山裾を走る3mぐらいの道路に出ます。家に近づくと犬が吠えてくれました。

民家の右手には成羽川の谷まで、青々とした田が広がっています。農村地帯に住んでいる私には「ふるさとの光景」です。

駅への取り付け道路の近くにあった八雲神社。内名地区の鎮守の神様です。地元の方々がきれいに草を刈ってくださっています。

内名駅への案内標識です。案内にしたがって右折します。

すぐ前にあったバス停の待合室のような建物。中には小学校の児童が使っている椅子が2脚ありました。かごの中には「防犯パトロール」の腕章がはいっていました。ここに集合して「安全安心」のための活動に取り組むのでしょう。

成羽川に向かって下っていきます。白い平屋の建物は内名集会所です。

集会所の敷地内にあった「ふるさと内名の碑」です。地区の歴史が刻まれています。
「昭和10年6月 芸備線 東城小奴可間開通  昭和22年3月 内名地区に電灯がつく 昭和30年10月 芸備線内名駅開設」

内名橋のたもとに来ました。道の両側の草は、地元の方が刈り取ってくださったのでしょう。

内名橋を渡ったところの自転車置場。雑草におおわれた放置自転車もありましたが、1台は駅に来られた方のものではないでしょうか。

自転車置場から右折して駅に向かう上り坂です。

登り切ると正面に待合室、停車している車の右にトイレが見えます。その後ろにある竹藪が覆っています。ホームには左の舗装された道から入ります。ところで、駅前の民家にはどのようにしていくのでしょうか? 踏切がありません。

ホームの待合室の脇にトイレに行く石段がついています。

待合室です。入り口にドアがありません。このあたりは積雪もあることでしょう。冬は寒そうです。入り口の設備は鉄道電話?。受話器のマークが書かれていました。入り口にあった鉄道財産標には「鉄停 駅 待合所1号 昭和30年7月」と記されていました。

内部です。窓が多く周囲から光が差し込む明るい待合室です。きれいに整頓整頓されており、駅の掲示物も一通りそろっていました。

1日3本の列車の出発時間が書かれている時刻表です。新見方面には7時台、15時台、20時台に出発していきます。

”秘境駅”によく置かれている旅のノート。「秘境 内名駅」と書かれています。中を読ませていただきました。広島県福山、大阪、長野からの人、全駅下車をめざしている人、2回目訪問という人、次は道後山駅(秘境駅ランキング 48位)に向かうという秘境駅を旅する人、いろいろな方が訪ねておられました。

旅のノートを眺めていると、15時前になりました。ここまで乗せて来てくれた列車が戻って来る時間です。幸い雨も小康状態、乗り場で待つことにしました。

定時の15時1分過ぎ、備後落合駅からの列車、キハ120359号車が帰ってきました。「お帰り!」、よくぞ戻ってくれました!なんとか、新見に戻ることができそうです。

内名駅は「秘境駅ランキング」の32位。牛山隆信氏の評価では「秘境度10ポイント(P)、雰囲気8P、列車到達難易度17P、外部到達難易度12P、鉄道遺産指数5Pの52ポイント」になっています。 確かに、1日3本の列車だけなので、こういう評価になるのでしょうね。 しかし、集会所も八雲神社も、駅への道路も住民の方の手によって生活しやすいように整備されていました。駅周辺は紛れもなく地区の方々の生活が営まれている場なのです。列車で来るにはほんとに不便なところですが、この地に生きる人々の誇りを感じる駅でした。