トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

登録有形文化財の駅が並ぶ三セク鉄道、北条鉄道に乗る

2016年04月30日 | 日記
JR加古川線の粟生(あお)駅と兵庫県加西市の北条町(ほうじょうまち)駅を結ぶ、北条鉄道に乗って来ました。名前からもわかるように、昭和60(1985)年に、国鉄から引き継いで、加西市や兵庫県などが出資する第3セクター鉄道に転換しています。

JR加古川駅から加古川線の電車で25分、粟生駅に着きました。到着したホームの外側に、北条鉄道のディーゼルカー、フラワ2000-2が停車しています。

振り返って加古川駅方面を見ると、粟生駅を起点とする神戸電鉄の車両も乗客を待っていました。

「ホームからすぐ乗り換えできます」という案内にしたがって、キップも持たないまま、北条鉄道のホームに向かいました。

フラワ2000-2の内部です。ワンマン運転と思い込んでいましたが、この列車には車掌が乗車されていました。乗り換え時間は2分間でしたが、隣のホームへの移動には適当な時間でした。北条鉄道は、大正4(1915)年に播州鉄道により、粟生駅-北条町駅間13.7kmが開業したことに始まります。昨年、2015年に開業100周年を迎えました。長い歴史をもっている鉄道です。

出発しました。緑濃き田園地帯を走ります。この風景は、この先、北条町駅まで続いていました。

次の駅、網引(あびき)駅です。粟生駅から3.5km。北条鉄道の中で駅間距離が最長の区間です。3分ぐらいで到着しました。北条鉄道は運賃を車内で現金で支払うシステムでした。210円を支払って下車しました。網引駅の第一印象は、新しくてきれいな駅というものでした。網引駅は、大正4(1915)年の開業時に設置された駅でしたが、放火によって焼失したこともありました。現在の駅舎とトイレは、平成25(2013)年に地元の企業の人々の労働奉仕で改修したものだそうです。

駅舎内の待合室です。木の香りがする、ギャラリーのような部屋になっていました。また、ボランティア駅長も任命されていました。待合室の展示物も、駅長のアイディアなのでしょう。

駅舎内に掲示されていた北条鉄道の運賃表です。この先、北条町駅まで6駅ありますが、そのうちの網引駅、法華口駅、長駅、北条町駅は、大正4(1915)年の播州鉄道として開業されたときに設置された駅でした。

別棟のトイレの脇にあった掲示の一部です。太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年に起きた大惨事を伝えています。播州鉄道を引き継いだ播但鉄道は、昭和18(1943)年に国鉄に移管され、国鉄加古川線北条支線になっていました。昭和20(1945)年3月31日15時50分に北条駅(現・北条町駅)を出発した列車が、網引駅の西300mのところで脱線転覆し、死者12名、負傷者104名という大事故を起こしたのでした。

これは、網引駅の待合室に掲示されていた紫電改の写真です。この大惨事が起きたきっかけは試行運転中の紫電改が墜落したことでした。紫電改の尾翼が線路を引っかけて、列車は脱線し、牽引していた蒸気機関車は180度転覆していたそうです。

網引駅から播磨横田駅までの各駅間距離は、いずれも2km未満しかありません。それならと、ここからは歩いて訪ねることにしました。次の田原駅へ向かう道からみた網引駅です。そびえ立つ、駅のシンボルのイチョウの木が見えました。

10分ぐらい歩いた時に見えた北条鉄道万願寺川橋梁です。先ほどの大事故は、ここから左側の方向で起きたということでした。

これは網引駅の待合室に掲示されていた河野孝幸氏の写真です。説明にあるように、網引駅に向かって万願寺川橋梁を走る北条支線の貨物列車の姿です。

田原(たはら)駅です。網引駅から1.1km。昭和27(1952)年に2代目田原駅として開業しましたが、駅舎はありませんでした。平成22(2010)年に、地元出身の方とその「ものづくり大学」の仲間の方々が、間伐材を使って完成させた駅舎だそうです。なお、初代田原駅は、大正8(1919)年に開業し、昭和18(1943)年に廃止されていました。このとき、北条町駅から折り返して来たフラワ2000-2が到着しました。

田原駅でも、平成24(2012)年、地元企業の無償の労働奉仕により、駐車場やトイレ、ホームへのスロープの整備がなされたそうです。

田原駅から1.5km。徒歩20分程度で次の法華口(ほっけぐち)駅に着きました。三重の塔が立つ駅です。地元の名刹、法華山一乗寺の国宝三重の塔を参考にしてつくられ、駅に寄付されたものだそうです。

法華口駅も、大正4(1915)年に北条線の開業と同時に開業しました。駅舎は開業当初の姿を今に伝えています。登録有形文化財に登録されている駅舎です。内部にはパン工房が入居していていました。

三重の塔の手前にあるトイレ。このトイレも登録有形文化財に登録されています。他の駅と同じように、地元企業の支援で、改修が行われています。

パン工房をとおってホームに出ます。国鉄時代の駅標だと思われましたが、健在でした。右から書かれていた駅名を消して、その上に左から書き直しされたようです。

北条鉄道の時刻表です。日中は1時間に1本の運行です。1つの車両が片道20分余りで、折り返し運転をしています。

ホームです。かつては、2面2線の行き違いもできる駅だったのでしょう。花いっぱいのきれいな駅でした。

次の播磨下里(はりましもさと)駅に向かって歩くつもりでしたが、線路に平行して走る道が見つかりません。途中でウオーキングしている人にお尋ねしましたが、「三角形の2辺を行く方が確実です」というご返事でした。約1時間かけてやっと着きました。この写真は、ホ-ムの向かい側から撮影しました。法華口駅からの駅間の距離は1.5kmありました。

踏切を渡って、播磨下里駅に入っていきます。花壇のわらを取り替えている人がおられました。正面が播磨下里駅の駅舎です。これも、大正4(1915)年に建設された駅舎で、登録有形文化財に登録されています。

駅舎の内部です。多くの人の手で磨かれたカウンターが残っていました。現在は、事務所の内部は待合いのスペースになっています。

待合いスペースの中央のテーブルの上に置かれていた「下里庵雑記帳」です。「下里庵」は、資料には「ボランティア駅長の僧が月3回開いている人生相談やお経の勉強会」と書かれています。この駅も、地元企業によってトイレや駐車場の整備が行われたそうです。

ホームへ出ました。新しい駅表の先に石庭が広がっています。全部で40トンの大小様々な石を並べており、第三セクターの駅では全国一だといわれています。

巨石に彫られたふるさとを讃える歌、その向こうには、”漂泊の俳人”種田山頭火の「炎天へ レールまっすぐ」の句が記されていました。「山あれば 山を観る  雨の日は雨を聴き  春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」。

次の長(おさ)駅に向かいます。花壇のお世話をしておられた方にお聞きすると「線路に沿って歩けば20分ぐらいで長駅に行ける」とのこと。休耕田の転換作物にレンゲを植えている田んぼを見ながら歩きます。

1.8kmを歩いて長駅のホームに入りました。今はレールも撤去されていますが、この駅も2面2線のホームだったようです。緑豊かな駅です。

ホームから駅舎の中を撮影しました。駅標からカウンターにかけて、かつての雰囲気が残っていました。

カウンターにあった「駅ナカ 婚活相談所 カンテレアナウンサー 新実 彰平」と手書きで書かれた看板です。北条鉄道では、どの駅でも興味深い取り組みが行われています。 

長駅も登録有形文化財に登録されています。法華口駅、播磨下里駅、長駅と続く3駅がすべて登録有形文化財に登録されています。登録有形文化財の駅が3つ続く、豪華な鉄道でした。私にとっては、もちろん初めての体験でした。

駅前の広い駐車場と自転車の駐輪場です。これも、地元企業のボランティアによって整備されたものでした。

長駅から1.6km。播磨横田駅に着きました。踏切の先に播磨横田駅がありました。北条鉄道の踏切はすべて鮮やかなオレンジ色に塗られています。播磨横田駅は、昭和27(1952)年2月に開業された駅です。北条鉄道の中で、ただ一つ国鉄になってから設置された駅でした。「兵庫県立フラワーセンター 加西グリーンエナジーパーク」の最寄駅だそうです。

ホームに見える大きな桜の木がこの駅のシンボルです。1面1線の単式ホーム。待合室風に見えるのはギャラリーです。待合室の感覚で使用されています。 

ギャラリーです。川瀬倭子(しづこ)氏の抽象画が展示されていました。日中はずっと開館している「駅の美術館」です。ホームから出ると、駅前の無料駐車場の整備工事が進んでいました。

播磨横田駅から、フラワ2000ー2に乗車して終点の北条町駅をめざしました。播磨横田駅と北条駅間は北条鉄道に移管されたときキロ数が改められ2.2km(-0.1km)となり、北条鉄道は全長13.6kmになりました。到着したとき、隣の線路には、2両の電車が待機していました。北条鉄道が保有する車両は3両ですので、全車両が勢揃いということになります。緑の車両はフラワ2000ー3です。この車両は、2008年に廃線になった三木鉄道から移ってきました。

フラワ2000-3に描かれている「ネッピー」。観光キャンペーンのキャラクターです。現在の3両の車両はすべてボギー車になっています。それ以前は、2両が和歌山県御坊市の紀州鉄道に移っていった2軸車のフラワ1985形が走っていました。ちなみに、形式番号に使われている「フラワ」は兵庫県立フラワーセンター 加西グリーンエナジーパークに由来していおり、また、「1985」「2000」は車両の導入年から採用されているそうです。

これはフラワ2000-3の後ろに停車していた、フラワ2000ー1です。外に出て陸橋から撮影しました。

駅の向かいにあったアスティア加西。生涯学習施設で加西市立図書館も入居しています。

北条鉄道の北条町駅舎です。北条鉄道の本社機能も担っています。

北条駅の内部です。ホームでは、駅スタッフが出発合図を送るための時間を確認しています。フラワ2000-2は、この後、すぐに出発していきました。

駅の窓口です。すっきりとした清潔な雰囲気です。

掲示板の上に、北条町駅の駅標が飾ってありました。以前、使用されていた実物の駅標です。


第3セクターの北条鉄道を訪ねました。たった13.6kmの盲腸線ですが、開業以来100年を超えた古い歴史をもち、登録有形文化財に登録されている駅が3つ並んでいる鉄道でした。訪ねてみて感じたことは、地元の人々に愛されている鉄道だということでした。地元企業の労働奉仕で駅舎やトイレの改修が行われ、駅舎が新しく生まれ変わっています。花壇の世話や駅の草取りに地元住民の方々が参加していること、ボランティア駅長による駅を使った各種の活動をしていることなど、人が集まる駅づくりにみんなで取り組んでいる素敵な鉄道でした。




関金駅跡から山守トンネルへ、倉吉線の跡地を歩く

2016年04月08日 | 日記
昭和60(1985)年に廃止された国鉄倉吉線。その跡地を少しずつたどってきましたが、このところ、ごぶさたしておりました。それでも、山陰本線の倉吉駅から上小鴨駅まで、倉吉線の全長20kmの半分(10.6km)は歩いてきました。(「旧倉吉線の線路跡を歩く」2013年6月4日の日記 「旧倉吉線を、打吹駅から上小鴨駅まで歩く」2013年7月7日の日記) いつかはその続きを歩こうと思っていました。やっと、実現しました。

倉吉線の跡地を歩くツアーのバスで、鳥取県倉吉市役所関金庁舎に着きました。この日は、旧倉吉線の関金(せきがね)駅跡から泰久寺(たいきゅうじ)駅跡を通って山守(やまもり)トンネルの先まで歩くことにしていました。

これは、倉吉市の中心市街地にある旧打吹駅跡につくられた「倉吉線記念館」に展示されていた写真です。

関金庁舎から10分ぐらいで、関金駅跡に着きました。かつては、島式の1面2線のホームがここにありました。機関車に牽引された列車はこの駅が終点で、折り返し運転をしていました。ここより先の泰久寺駅と終点、山守駅には機関車の付け替えができる設備がなかったからです。

これは、かつての関金駅舎の写真です。これも「倉吉線記念館」に展示されていたものです。関金駅の構内の南には、有蓋車用の貨物ホームがあったそうです。

駅前通りがあったところです。満開の桜の下で憩うツアーバスの方々です。

駅前通りで最も駅寄りにあった「駅前自治公民館」の建物です。かつて、関金駅前だったことを伝える、ただ一つの名残です。しかし、現在も、駅前には何件かの民家が建っていて駅前通の雰囲気を伝えてくれています。

駅跡の道路の向かい側にあった体育館風の建物です。「当時、このあたりには盛り土がしてあった」と、ガイドの男性が教えてくださいました。

泰久寺駅跡に向かって出発です。線路跡の県道を進みます。線路の法面も含めて道路にしたのでしょう、広い道路が続いています。左側に上蒜山、中蒜山、下蒜山の蒜山(ひるぜん)三座を見ながら進みます。

その先の「鏡ヶ成(かがみがなる)」の標識の先で舗装道路は終わります。道路は平行して走る国道313号に合流しています。倉吉線には、この先、中国山地を越えて、姫新線の勝山駅まで延伸する計画もあったそうです。

標識の先には、倉吉線時代のレールが残っています。このまま、まっすぐに進みます。さて、倉吉線は、明治45(1912)年に、当時の山陰本線上井(あげい・現、倉吉駅)と倉吉駅(後に打吹駅)間、4.2kmが開業しました。

まっすぐ続くレールの上を、田園風景を見ながら歩いていきます。倉吉線は、昭和16(1941)年に関金駅まで延伸しました。関金駅はこのとき開業したことになります。

その先でレールが途切れました。そして、線路跡の盛り土が掘削されていて段差ができていました。ガイドの方は「予算がついたところから改修したので、こういうことになるのです」とのこと。

段差の先には、枕木で階段がつくってありました。倉吉線は、その後、昭和33(1958)年に事実上の終点だった山守駅まで延伸し、開業しました。

さらに進みます。線路跡に平行して続く舗装道路を歩いていきます。

民家が迫っていますが、レールは続いています。

すでに、泰久寺地区に入っていました。泰久寺駅が近づいている感じがします。

民家の間を抜けて進むと、右側に、泰久寺駅の駅名のもとになった大久寺が見えました。曹洞宗の寺院のようです。

駅の手前に六地蔵がお祀りしてありました。ツアー仲間から「頭が重そう。」「笠地蔵か?」の声が聞こえました。

泰久寺駅跡に着きました。駅前広場が、関金駅に比べてかなり狭いことに驚きました。

「倉吉線記念館」にあった、泰久寺駅の写真です。待合室のような駅舎が写っていました。これなら、この広さで十分です。駅舎の向こうにホームの端が見えています。

泰久駅跡です。レール以外にホームも残っていました。倉吉線の駅で、ホームが残っているのはこの駅だけ、倉吉線で唯一のホームの遺構です。草取りをされる人がおられるのでしょう、きれいに整備されていました。

ホーム上にあった駅標です。しかし、枠は当時の遺構ですが、掲示してある駅標はレプリカだそうです。それでも、当時の雰囲気を伝えてくれています。ありがたいことです。

かつての泰久寺駅の写真です。「倉吉駅記念館」にあったものです。雪の中、列車から降りて、ホームを歩く中学生か高校生らしき姿です。

駅舎があったあたりを撮影しました。ここで、参加者一人ひとりに、ヘルメットと懐中電灯が配られました。

泰久寺駅からさらに進みます。竹藪の中を歩きます。ガイドさんは「竹は1年で大きくなります。いつも手入れをしていないととんでもないことになるのです」とおっしゃっていました。

その先で橋梁跡を渡ります。ヘルメット姿の一団が進んでいきます。

高い盛り土の上を歩きます。「落ちたら怖いね」と言いながら歩くツアーの参加者の姿です。

山守トンネルの入口に着きました。封鎖されていましたが、よく見ると右側に入口が設置されていました。「県の許可を取っています」とのこと。ヘルメットと懐中電灯が渡された意味がわかります。中は真っ暗でした。以前歩いた福知山線の旧線の「視界ゼロのトンネル」を思い出しました。(”視界ゼロ”のトンネルをめざして、旧福知山線を歩く」2014年5月4日の日記)懐中電灯が無ければ、一歩も先に進むことができませんでした。

全長107mの山守トンネルを抜けました。すぐ先で、線路跡は行き止まりになります。通行止めの柵の向こう側のようすです。下には道路が走っています。

製材所の屋根の上に、倉吉線の線路跡が見えます。この先、向こうの線路跡までは橋梁でつながっていたようです。今も残る線路跡からは、緩やかに右にカーブしながら、終点の山守駅に向かっていました。

泰久寺駅に戻ってから線路跡を離れました。国道に降りる途中で見た橋台です。ガイドさんは、「つくられた時のままの橋台です。70年が経過しています」と教えてくださいました。そういえば、関金駅から山守駅まで延伸したのは、昭和33(1958)年のことでした。

関金駅跡から山守トンネルの間の約4kmを、ゆっくりとした速度で2時間ぐらいかけて歩きました。倉吉線の中で、かつての遺構がよく残っている区間でした。もう少し時間があれば、山守トンネルから、終点の山守駅まで歩くことができたのではないかと思いました。少し残念でした。残る区間は、日を改めて歩いてみようと思っています。