トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

多度津街道を歩く(1) 多度津の町並み

2018年06月26日 | 日記
久しぶりに香川県の多度津町(香川県仲多度郡多度津町)を訪ねました。今年の4月に何回か(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影」2018年4月9日の日記・「四国鉄道発祥の地を歩く」2018年4月13日の日記・「JR四国工場への引き込み線を歩く」2018年4月26日の日記)訪ねていますが、今回は、多度津から金毘羅宮に向かう参拝客が歩いた多度津街道を歩いてみようと思ったのです。
多度津町にあった道標です。「すく 金刀ひら道」、「右 はしくら道」、見えない裏面には「すく ふなハ」と書かれた石標(明治14年辛巳5月吉日 石工 当地 吉田歌吉)と、もう一つ「手形 きしゃば」(大正10年4月3日)」と書かれた二つの石標がありました。古代から水上交通の要衝として知られた多度津の町は、江戸時代後期の天保9(1838)年に多度津藩によって多度津湛甫(たんぽ・港)が整備されました。その結果、北前船や地元の廻船問屋によって各地の様々な産品が陸上げされ、多度津からは地元産品の砂糖や綿が積み出されて、ものの行き来が一層活発に行われるようになりました。ものだけではなく、文化文政期(1804~1829年)からさかんになった金毘羅詣りでも、多度津から金毘羅宮をめざす参拝者が増えていきました。道標の「ふなハ(船着場)」や「金刀ひら道(金毘羅道)」は、多くの参拝客の役に立っていたはずです。
現在のJR多度津駅です。現在地に多度津駅が移設されたのは、大正2(1913)年のことでした。それ以前の多度津駅は、現在の多度津町民会館のところにありました。明治22(1889)年、讃岐鉄道によって、丸亀・多度津・琴平を結ぶ鉄道が開業したときからでした。当時は、丸亀駅から多度津駅に着いた列車は、琴平駅に向かってスイッチバックで出て行くようになっていました。讃岐鉄道は経営が盤石とはいえず、山陽鉄道に買収され、後に国有化されることになります。国有化された後、スイッチバックの必要のない現在地に移設されたといわれています。先ほどの「きしゃば(汽車場)」の道標は、現在の駅舎への案内のためにつくられているようです。
多度津駅前の風景です。道路の右側に多度津交番、香川県立多度津高等学校、多度津町役場が並んでいます。
今回の旅のスタート地点とした多度津商工会議所をめざします。JR多度津駅から駅前通りをまっすぐ歩きます。多度津町役場を過ぎ、桜川に架かる豊津橋を渡って多聞院など寺が並ぶ通りを進むと、交差点の手前に先ほどの道標がありました。交差点を右折し、極楽橋を渡って進むとJR四国工場。そこは、江戸時代後期、多度津陣屋があったところです。左折して町民会館(かつての多度津駅跡)の先の金刀比羅橋を渡って多度津交差点に出ます。そして交差点を右折して、港に向かって進みます。
東浜地区にある多度津町商工会議所の建物です。江戸時代には船番所が置かれていたところです。ここをスタート地点にしたのは、多度津町立資料館でいただいた資料では、「丁石(ちょうせき)」から推定した多度津街道の「起点推定地」が商工会議所になっていたからです。「丁石」は、多度津街道に一丁ごとに建てられた石標のこと、以前歩いた「丸亀街道」(「金刀比羅宮まで3里 丸亀街道を歩く」2013年12月30日の日記)にも設置されていました。
多度津から金毘羅宮に向かう参拝客は、ここから、東浜商店街に沿ってほぼまっすぐ南東方向に向かっていました。商工会議所前をスタートします。東浜商店街を進みます。多度津交差点の付近には、百十四銀行や高松信用金庫など金融機関の建物が並んでいます。
多度津交差点の手前にあった合田酒店の建物です。屋号は柳井屋、山口県柳井の出身。「創業、元禄年間(1688~1703年)、310年を超える歴史をもつ多度津最古の酒屋。現在の建物は江戸末期の建築、黒塗りの虫籠窓(むしこまど)など往事の雰囲気を残す」と店内にあった「案内」には書かれていましたが、多度津港で讃岐三白(砂糖・塩・綿)を扱う廻船問屋だったともいわれています。屋根は改装されていましたが、黒漆喰のなまこ壁や虫籠窓など重厚なつくりの商家建築でした。
須賀金刀比羅神社です。この先の交差点の左を流れる桜川の対岸に鎮座しています。境内の左側に灯籠が並んでいますが、資料によれば、多度津港の沿岸にあった、信者から寄進された灯籠(常夜灯)が移されているそうです。
多度津交差点です。左に行けば大通りで、須賀金刀比羅神社の方に向かいます。右に進めば、多度津山に整備された桃陵公園に向かいます。この交差点の付近に、かつて、多度津から琴平に向かっていた琴平参宮電鉄の起点、多度津桟橋通駅がありました。町の人にお聞きすると「化粧品を扱っているお店のあたりにあった」というご返事でした。右側のビルの1階に化粧品のお店がありました。
この写真は交差点から桃陵公園に向かう道を撮影しました。琴平参宮電鉄の多度津駅は白いビルからその先(かつてタクシー会社の営業所があったといわれます)にかけての場所にあったようです。琴平参宮電鉄は、金毘羅宮への参拝客の輸送のため、大正14(1925)年、善通寺赤門前駅・多度津桟橋通駅間が開通し、多度津と琴平が繋がりました。路面電車風の電車が運行されていましたが、昭和38(1963)年に全線が廃止されました。
多度津交差点に戻ります。交差点をまっすぐに横断し、本町通(ほんまちどおり)一丁目に入ります。かつては、多度津随一の商店街でした。
現在の本町通商店街です。江戸時代から古い歴史を誇る多度津街道が通り、多くの人でにぎわっていました。しかし、この日は金曜日でしたが、お店をたたんだ商家やシャッターの閉められたお店もありました。右側に、多度津町立中央公民館本通分館を見ながら進みます。
ここからは、かつての雰囲気を残す建物をたどって歩くことにします。「合田 方圓堂」という屋号が残っています。中2階を設けた厨子2階建て。本瓦葺きの平入りで黒漆喰塗りの商家です。本町通の商家に共通する特色です。
両側に切妻づくり平入り、広い敷地の商家が並んでいます。右の手前が「備前屋」、小国家の建物です。ご先祖は、屋号からわかるように、備前国(岡山県)の出身で、岡山藩の武士だった方だそうです。「江戸時代から明治中期まで、『餅』『まんじゅう』の製造販売店。『傳五餅(でんごもち)』の名で親しまれおみやげとして購入された。明治中期以降は肥料の販売業に、昭和初期からは住宅になっている」と「案内」には書かれていました。
これは、備前屋さんのかつての写真です。玄関前に掲示されていました。のれんの形などから、傳五餅を販売していた頃の建物ではないでしょうか。
ガラスや額縁を扱っていた「小国ガラス店」があったところです。現在は、「まちの博物館よっていってやー」に改装され、多度津商店街やイベントの写真を展示しています。多度津町では、賑わいを取り戻す活動をおこなっており、空き家を改装して居住する場合には助成があるそうです。
その先、「ゆ」ののれんが見えました。銭湯の「清水温泉」だったところです。「説明」には、「大正末期から営業を始め、昭和50年頃まで営業した、一時期『日の出湯』と改名したこともあった」と書かれていました。現在は「喫茶店になっている」と、町の人からお聞きしました。
路地に入って上を見上げると、レンガ造りの煙突が見えました。銭湯らしい風景が残っています。
備前屋の向かいにあった「てつや」です。「代々、多度津の商人。幕末まで鉄の原料問屋として刀鍛冶を営んでいた。明治になってからは昭和初期まで、舶来用品や雑貨の卸売りとアメリカのスタンダード石油の特約店になっていた」そうです。
このマークは通り沿いのお宅の軒下にかざってあったものです。町の活性化のためにつくられたものなのでしょう。
その先にあった、洋風建築も含む大邸宅です。合田邸です。屋号「島屋」。「貴族院議員を務めた合田健吉氏が建造した大正末期から昭和初期の建物」だそうです。洋風の建物は応接間で、ステンドグラスもついています。前からは見えないのですが、レンガつくりの蔵もあるそうです。合田家は「多度津七福神」の一つです。「多度津七福神」は、北前船の寄港地になっていた多度津で廻船問屋として財をなした七つの家。景山家、塩田家(2家)武田家(3家)と合田家のことです。讃岐鉄道を開業に導いた景山甚右衛門も、七福神の一人でした。
その先で桜川に出ます。本町橋が架かっています。その手前を右折します。護岸工事をしている桜川に沿って歩きます。出発地点に近い須賀金刀比羅宮のあたりは、豊かな水量がありましたが、上流部分のこのあたりの桜川は小さな流れになっていました。
右折して100メートルぐらい進んだところにあった橋のたもとに、道標が見えました。「左 古んひら道」「右 いやだに道」、見えてはいませんが「ふなハ」。嘉永元(1848)年に建立された道標です。 この橋は鶴橋。「大正5(1916)年7月修」と欄干にありました。「多度津街道は鶴橋が起点だった」と、いただいた資料には書かれていました。ここで左折します。対岸に金毘羅灯籠がありました。正面に「周防岩国」、「文化12(1815)年」の銘のある灯籠でした。信者が寄進したものです。
鶴橋の先の写真です。多度津町教育委員会の資料には「この先に、多度津街道の一の鳥居があった」と書かれています。「こんぴら一の鳥居跡」と書かれた碑が地上に埋め込まれているといわれていましたが、見つけることができませんでした。
これが「一の鳥居」です。寛政6(1794)年、出雲国松江の信者によって寄進された鳥居で、多度津交差点から見た桃陵公園への道の先、桃陵公園の登り口に移設されていました。
鳥居の足下にあった「こんひら一の鳥居」の碑です。
鳥居の足に「雷電為右衛門」の名前も刻まれています。江戸時代の相撲の横綱、雷電も寄進に協力していたようです。雷電の名前があることから「雷電鳥居」とも呼ばれています。
鶴橋から先の多度津街道は、まっすぐ南東方向に向かっていました。多度津中学校の東側の脇を進みます。
その先で、JR予讃線の「中学踏切」(33k625M)を渡ります。多度津街道は、この先もまっすぐ金毘羅宮に向かっていました。
予讃線の松山方面に向かう線路です。線路の先に見えるのは天霧山(あまぎりやま)。金刀比羅宮に向かう参拝客を、街道の右側から見守り続けてきた山です。

この日は、多度津街道を、その起点推定地とされる多度津商工会議所前からJR予讃線の中学踏切まで歩きました。多くの参拝客を迎えた本通のかつての面影をたどる旅になりました。この先、いつのことになるか自信がありませんが、終点の金刀比羅宮まで歩きたいと思っています。



妖怪の駅長がいる駅 JR大歩危駅

2018年06月12日 | 日記
”四国三郎”の愛称をもつ吉野川の右岸の深い渓谷を見下ろす位置につくられたJR土讃線の大歩危(おおぼけ)駅です。徳島県三好市西祖谷村徳善西にあります。写真の左下にホームの上屋と駅舎が見えます。駅舎の背後には四国山地の山々が連なっています。そそり立つ急斜面にしがみつくように民家の屋根が点在しています。
大歩危駅前からは、祖谷のかずら橋に向かう四国交通のシャトルバスが発着しています。
ホームで下車した訪問客を駅舎への入口で迎えているのは、平成23(2011)年4月から駅長に就任している妖怪の「子泣き爺(こなきじじい)」のモデルになった「児啼爺(こなきじじい)」の木像です。かつて、ここには、帽子を被ってきちんと正座して駅長の「児啼爺」とともに観光客を出迎えていた柴犬の「虎太朗(こたろう)」の姿もありました。虎太朗は、児啼爺の駅長就任から3ヶ月後の平成23(2011)年7月、2歳のときに、助役に就任し、毎週日曜日の午前9時から1時間、勤務していました。しかし、残念ながら、平成25(2013)年11月に「ストレスのため」(案内所スタッフのお話)に退任しています。
この写真は、木像の「児啼爺」の前から見た吉野川の対岸に連なる山々です。駅事務所を改装してできた観光案内所(「ほっと案内所」)の女性スタッフのお話では、「中央の山の右側のあたりが児啼爺の故郷で、そこにあるあざみ峠(あざみのたわ)には、児啼爺の石像と妖怪研究家である直木賞作家、京極夏彦氏の書かれた石碑がつくられています」とのことでした。
ホーム側から見た駅舎です。児啼爺の右側、「ほっと案内所」の入口のドア付近に樹木がありました。コンクリートのたたきと駅舎との間の狭い空間にカエデの木がありました。女性スタッフのお話では「最初は、1枚のもみじの葉ぐらいの大きさで、ほんとうに小さかったんです」。少し大きくなってから、大歩危駅を管理する兵藤文市阿波池田駅長が命名された「ど根性もみじ」でした。エアコンの排水で育ったといわれています。なお、兵藤駅長は、今も現役の阿波池田駅長で「この日も、朝は大歩危駅に来られていたよ」とのことでした。
地元の人々に見守られて来た「ど根性もみじ」ですが、最近、心配な状況に陥っています。写真は「ど根性もみじ」の根元の部分です。見ると、大きな穴が空いており、そこから蟻が出て来ていました。女性スタッフは「ど根性もみじが危機的状況です」とおっしゃって、この穴から、蟻除剤をスプレーしておられました。「2週間ぐらいで枯れてしまうのではないか」と言われる方もいて、危機感を募らせておられました。
岡山駅から乗車したJR高知駅行きの「特急南風1号」(右側)は、途中の宇多津駅で高松駅から来た「特急しまんと3号」を併結して、8時50分頃、大歩危駅2番ホームに到着しました。アンパンマン列車の岡山行き「南風6号」の到着を待って出発していきました。2面3線の大歩危駅ですが、発着ホームは特に一定していないようです。多くの特急列車は1番ホームから発着していました。上に見えるのは、吉野川に架かる大歩危橋です。
2番ホームに、かずらでつくった橋のオブジェが展示されています。その向こうには、ホームの上屋と「らぶらぶベンチ」があり、待合いのスペースになっていました。土讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって丸亀駅・多度津駅・琴平駅間が開通したことに始まります。その後、国有化され高知側からも工事が行われて、昭和10(1935)年に多度津駅・須崎駅間が開業、そして、昭和26(1951)年には窪川駅までが開通して、全線開業となりました。大歩危駅は、昭和10(1935)年に三縄駅と豊永駅間が開業したとき、阿波赤野駅として開業しました。大歩危駅になったのは、15年後の昭和25(1950)年のことでした。大歩危駅は、祖谷地方への入口の役割も果たしています。ちなみに、「大歩危駅」は珍名として知られています。大歩危の「歩危(ぼけ)」は「切り立った崖」を表しており、付近の地形から名づけられたといわれています(「おもしろ地名・駅名歩き事典」村石利夫著 みやび出版)。
駅名標です。小歩危駅から5.7km、次の土佐岩原駅まで7.2kmのところにあります。次の土佐岩原駅への途中で、全長4,179mの大歩危トンネルで県境を越えて高知県に入ります。また、土讃本線(当時)の沿線は土砂崩れなどの災害の多発地帯で、土讃本線ならぬ「土惨(ドサン)本線」と言われていました。そのため、国鉄は、川に近いところを通っていた路線から、トンネルを抜けるルートへの転換を図って来ました。大歩危トンネルは、昭和61(1986)年犬伏トンネル(6,012m)を抜けるコースに変更されるまで、四国の鉄道で最長のトンネルでした。
2番ホームにある「祖谷のかずら橋 ここで下車して下さい」と書かれた案内板です。ホームのオブジェやこの案内から、かずら橋など祖谷地方を訪ねる観光客がたくさんいらっしゃることがわかります。ちなみに、大歩危駅の1日平均乗車人員は、73人(2014年)だそうです。
構内踏切を渡った3番ホームの吉野川側に「展望台」がつくられていました。吉野川の渓谷が見えました。白い岩肌に映える木々の緑のコントラストがすばらしかったです。
展望台への入口付近から見た駅舎です。現在は上屋を金属で覆っていますが、木造平屋建ての駅舎です。ホーム寄りの屋根に「大歩危駅」と大きく書かれているのが見えました。
駅舎に入ります。まず、目に止まったのが、上敷を張った1畳ぐらいの台でした。少年の頃やっていた縁台将棋を思い出しました。縁台に座って世間話をするという雰囲気の待合いスペースでした。 大歩危駅は平成22(2010)年から無人駅になっていて、近距離の乗車券と自由席特急券を販売する自動券売機が設置されていました。
駅事務所を改装した「ほっと案内所」です。待合室側の右側にあるのが自動券売機です。駅が無人化されたとき、地元の人たちは「JR大歩危駅活性化協議会」を結成し、平成23(2011)年から、72人の住民によって案内所への改装が行われました。また、児啼爺駅長や虎太朗助役の任命も行われました。住民の方々がこのような行動を起こしたのは、「特急が停車する駅に、迎える人がいない!」という状況に危機感をもったからだったそうです。平成27(2015)年からは、三好市観光協会が運営するようになっています。
駅前広場からから見た駅舎です。右の建物はトイレです。
駅舎の横から始まる側線に駐車していた保線工事用車両です。車両の側面には、「Plasser & Theurer 」と書かれています。1953(昭和28)年に設立されたオーストリアの線路工事用重機メーカーの企業名(「プラッサー & トイラー」)でした。大歩危駅に常駐している訳ではないそうで、いつ移動するかなど「詳しいことは阿波池田の保線支区に問い合わせてみないとわからない」とのことでした。
この日、もう一つ、道の駅大歩危(ラピス大歩危」)にある「妖怪屋敷」を訪ねたいと思っていました。駅舎から坂道を上ります。「歩危(ぼけ)マート2号店」の店舗が両側に並んでいます。食料品や土産物を扱い、そばも食べることができる旨の案内も書かれていました。
上り坂の途中からみた駅前のロータリーです。さほど広くはない駅前広場でしたが、駅に向かう車は大きく右カーブして入っていました。
上りきったところが大歩危大橋。祖谷地区に向かうため、右側から大歩危大橋を渡ってやって来た車は、この三差路で右にカーブして、この道をまっすぐ向こうに進んでいきます。徳島県道45号西祖谷山山城線です。
大歩危大橋です。大歩危駅に到着したとき、ホームの上を跨ぐように架かっていた橋でした。駅で助役をつとめていた柴犬の虎太朗は助役を引退した後、この橋を渡った付近のお宅で元気に過ごしているそうです。
大歩危橋の上から見たJR大歩危駅の全景です。2面3線のホームと阿波池田駅方面の光景です。保線工事車両は、右側の駅舎の手前側にある側線に駐車しています。
橋のこちら側が、三好市西祖谷村徳善西、橋を渡った向こう側、吉野川の対岸が三好市山城町です。山城町は県境の町で、西は愛媛県、南は高知県と接しています。四国山地の山深いところにある町でした。大歩危橋を渡ると、国道32号に出ます。右折して阿波池田方面に向かって歩きます。
道の左側に「大歩危診療所」と書かれた案内標識があるところに「赤野台 山岳武士 木地師の里 国境武士の道 登り口」と書かれた看板が見えました。約700年前から、国境を守る武士たちは、徳島県最西端に位置し、土佐国、伊予国と国境を接するこの地域に、急斜面を開墾して村をつくって来ました。全国有数の地滑り地帯の急峻な斜面にある村で、身を守るのが難しく一歩あやまれば命を落としてしまう危険なところでした。平地が少ない土地のため、生活を続けていくにも厳しいところでした。
大歩危峡です。源流を愛媛県の瓶が森(かめがもり)に発する吉野川のつくったV字谷が、小歩危峡まで6kmに渡って続き、奇岩が連なっています。山城町は「児啼爺」だけではなく多くの妖怪伝承が残っているところです。厳しい地理的な条件の下で生きてきたことによります。崖や淵など事故や災害の多いところには、必ず妖怪伝承が残っています。これは、危険から子どもを守るために、この地に生きた人たちが、妖怪伝承を子どもの教育に利用してきたからでした。
山城町は、昭和30年代には1万5,000人であった人口が、現在では3,000人を切るような状況になっています。町の活性化をめざし、平成10(1998)年、地元のボランティアグループ「藤川会」の人たちを中心に、町の魅力を再発見する活動を始めました。その時に着目したのが妖怪伝承でした。
地元の人たちは、平成13(2001)年、全国に呼びかけ「児啼爺」の石像を建てました。それが、駅の観光案内所のスタッフの方からお聞きした、あざみ峠の石像でした。児啼爺は、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる「子泣き爺」のモデルで、「爺さんみたいな顔をしているが、赤ちゃんみたいな声で泣く。山の中で泣いているのでかわいそうだと思って抱いたらどんどん重くなってくる」のだそうです。
大歩危橋から徒歩20分ぐらいで、道の駅大歩危の駐車場に着きました。大きな「妖怪屋敷」の看板がありました。看板の下で、突き出た大きな鼻をもった妖怪、オオテングの木像が立って訪問客を迎えています
道の駅大歩危への入口です。地元の人々の活動はさらに続きます。地元の諸団体が結集する形で、平成20(2008)年に「四国の秘境 山城・大歩危妖怪村」を結成しました。そして、その年、世界妖怪協会(水木しげる会長)から「怪遺産」に認定されました。山城町の妖怪は50種、妖怪伝承のある場所は110ヶ所以上という妖怪の多さが、認定の大きな理由でした。また、民俗学者、柳田国男の著書である「妖怪名彙(ようかいめいい)」(昭和13年発行)の中に、山城町の妖怪4種類が掲載されていることも影響したといわれています。
道の駅の内部です。道の駅の「妖怪屋敷」がつくられたのは、平成22(2010)年のことでした。地元の人々の活動の賜物で、道の駅の利用者は着実に増加しているとお聞きしました。500円で入場料を購入して入場しました。
入口にいたのは、予想通り「児啼爺」でした。さて、柳田国男の「妖怪名彙」に掲載された山城町の4種類の妖怪は、「コナキジジイ」、「タカニュウドウ」、「ヤギュウサン」と「クビキレウマ」でした。「タカニュウドウ」は「下から見れば段々背が高くなり、上から見下ろせば、しだいに小さくなる」といわれ、地元にある大日如来像の前で山伏が供養を行ってからは出現しなくなったそうです。「ヤギュウサン」は、「クビキレウマ」という首のない馬に乗って現れる妖怪で、「これに会うと蹴り殺されるので親の言葉を守って、わがままを言ってはいけない」と教えられて来たそうです。

JR土讃線の大歩危駅周辺を歩いてきました。
雄大な自然の中を歩き、愛媛県や高知県の県境に近い厳しい環境の中を生きてきた人たちが、子どもの安全や命を守るために伝承してきた妖怪に触れた旅でした。地域の活性化のために尽力する人々の工夫と努力に触れる旅にもなりました。





国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(2)

2018年06月04日 | 日記

小松島市が整備した「小松島ステーションパーク」の一角にある「SL記念広場」に展示されているC12280号機とオハフ50272客車です。ここは、かつて小松島港と徳島駅を結んでいた国鉄小松島線の小松島駅の操車場があったところでした。大正2(1913)年、阿波国共同汽船(あわのくにきょうどうきせん)が小松島港と徳島駅間に敷設した鉄道は、開業当初から国が借り上げて小松島軽便線として営業を始め、その翌年の大正6(1917)年には国有化されました。一方、阿南鉄道が、大正5(1916)年、軽便線の途中にあった中田(ちゅうでん)駅を起点に開業させた鉄道は、その後、昭和11(1936)年に国有化され牟岐線となりました。そして、昭和36(1961)年に小松島線と牟岐線の起点が変更され、小松島線の起点は中田駅となりました。こうして、小松島線は、全長1.9kmの国鉄の最短路線となりました。そして、民営化される前の昭和60(1985)年に廃止されました。

前回は、JR中田駅から小松島駅跡に整備されている「小松島ステーションパーク」まで歩きました(「国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(1)」平成30年5月31日の日記)。写真は、小松島みなと合同庁舎(以下「合同庁舎」)です。小松島駅の駅舎とホームは、この敷地内に設置されていました。今回は、小松島駅跡から小松島港仮乗降場の周辺を歩きました。「仮乗降場」というのは、国鉄時代に、各鉄道管理局が利用者の便宜を図るため独自の判断で設置した乗降場でした。営業キロの設定がなく、全国規模の時刻表に記載されていない、いわゆる「幻の駅」でした。国鉄の赤字ローカル線が廃止されたときに、消滅したものが多かったそうです。

前回、SL記念広場、たぬき広場、合同庁舎と進んできました。写真の左側に一部写っている白い建物は、道路をはさんで向かいにあるミリカホール(小松島市保健センター)です。その先、港に向かって撮影しました。左側に切妻屋根の倉庫がありました。

交差点の手前左側、切妻倉庫のあるバスセンターの一角に、「国鉄」と書かれたコンテナが置いてありました。

コンテナがあったところの交差点の中央から見た左(北)側の風景です。錆がついているのか、茶色をした倉庫が見えました。このあたりに、小松島港仮乗降場の駅舎やホームがあったといわれています。

その先にある岸壁の向こうにデッキ広場がありました。

デッキ広場から見た南海フェリーの乗り場の跡です。現在は海上保安庁の巡視船が停泊していました。また、左側に、かつて、南海フェリーの乗船場であった、現在の小松島みなと交流センター(Kocolo)の建物が見えました。小松島港と和歌山港を結ぶ航路は、昭和31(1951)年に南海観光汽船(後に南海汽船)によって開設されましたが、昭和50(1975)年からは南海フェリーが運航するようになりました。

平成11(1999)年に、南海フェリーの航路が徳島港・和歌山港間に変更され、小松島港から撤退することになりました。小松島みなと交流センターは、デッキ広場の手前を左折して海に沿って北に向かって進んだところにありました。内部は、市民が制作された作品などを展示・販売するお店が並んでいます。お店の方にお聞きするとフェリーには「2階から乗車するようになっていた」とのことでした。

階段を上がって2階から撮影したフェリー埠頭の写真です。"JAPAN COAST GUARD" と側面に書かれた巡視船の「よしの」(左側)と「びさん」(右側)が停泊していました。埠頭にあった施設は、乗船のときに使用されていたものだそうです。

来た道を引き返して、合同庁舎の脇に戻りました。今度は小松島港仮乗降場の跡地をめざして、合同庁舎の脇の通路からミリカホールの手前を左折して北にむかって歩きました。左側に合同庁舎、右側にミリカホールを見ながら進むと、すぐに、右側に4階建ての集合住宅が見えました。

これが4階建ての集合住宅です。その先に、三角形のような形をした白色の建物がありました。壁面に「南海鶏飯(チキンライス)」と書かれています。

ちょうど、作業車が横付けされて樹木の伐採作業の最中でした。作業車や雑草で見えなかったのですが、ここが、小松島駅から小松島港仮乗降場へ向かう鉄道の線路があったところです。前回訪ねた小松島駅は、単式ホーム2面2線でした。その内の1線は中田駅側に寄ったところ、現在のたぬき広場があるあたりで分岐して小松島港仮乗降場へと向かっていたようです。その線路がここにつながっていたそうです。

この写真は、三角形のような形をしたお宅の前を抜けたところから振り返って撮影したものです。雑草に覆われていて地面がどうなっているか確認することはできませんでした。

その先を撮影しました。右側に先ほどの集合住宅、道路の先には南海フェリーの乗船場だった小松島みなと交流センターがあります。左側には、小松島港仮乗降場跡がありました。小松島港仮乗降場は、昭和15(1940)年、小松島駅構内に小松島港に上陸した貨物や旅客の輸送のために設置されました。昭和31(1956)年に、南海汽船が小松島港・和歌山港間に南海四国ラインを開設しました。南海フェリーが就航したのは、南海汽船から業務を引き継いだ昭和50(1975)年のことでした。

この道をまっすぐ進んだ先に、南海フェリー乗船場(小松島みなと交流センター)がありました。乗船場の手前に南海フェリーの看板が残っています。かつては「ちっか」(ちくわ)を売る女性の声がにぎやかだったといわれています。

小松島港仮乗降場に向かう線路は、道路を斜めに横断して中央の樹木の左側に向かっていました。車止めの手前の地面に線路跡を思わせる2本の亀裂が見えました。不思議なことに線路跡と位置が同じなのだそうです。線路の右側にはワシントンヤシの並木がありました。道路と線路を区別するために植えられたそうです。左の建物は手前がベルモニー会館小松島新港、その後ろに、バスセンターの交差点から見えた切妻屋根の茶色の倉庫がありました。このあたりに、小松島港仮乗降場があったそうです。その左側には道路をはさんで港がありました。

かつての写真をみると、切妻造りの駅舎には「和歌山、大阪なんば方面 南海フェリーのりば」と書かれた看板がありました。降車した乗客はフェリー乗り場に向かって、そのまま進行方向に歩いていたそうです。仮乗降場は「全国規模の時刻表には記載がない」と冒頭に書きましたが、小松島港仮乗降場は「臨時駅」と表記されて、時刻表にも掲載されていたそうです。小松島港仮乗降場跡の裏に回ります。あちらこちらに、釣りをしている人の姿が見えました。港と対岸の倉庫群です。

そこから東側を撮影しました。右側の切妻倉庫の左に停泊している船舶が見えています。南海フェリーは、就航から24年間後の平成11(1999)年、航路を和歌山港・徳島港間に変更するまで、輸送を続けました。

右側に小松島みなと交流センターの一部が、そして、中央に巡視船「よしの」が見えました。正面左に見えるのは徳島県内航海運組合の建物ですが、釣りをしておられた方のお話では「昔はもっと岸壁が近くて、この先には建物はなく、ホームの先端からすぐ先はもう岸壁だった」そうです。

小松島みなと交流センター付近から見た仮乗降場跡です。倉庫の近くの一段高くなっているところがホーム跡、その左側の部分が線路が敷設されていたところのようです。小松島仮乗降場は、小松島駅から300mのところに設置されましたが、構内駅としての扱いでした。出札口もあり、切符の販売もしていましたが、販売していた乗車券には「小松島駅発行」と書かれていたそうです。単式ホーム1面1線のホームでしたが、「機回し」のためにもう1線、線路が敷設されていたそうです。

国鉄の最短路線であった小松島線の跡地、1.9kmを歩いてきました。しかし、かつての面影を残す遺産はほとんどなく、当時のようすをイメージすることは難しいことでした。線路跡を歩かれた先人の記録と地元の人々の記憶が頼りでした。それでも、まだ、わからないところがたくさんあり、すっきりしない気持ちが残っています。