トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

清水湧く宿場町、旧中山道醒ヶ井宿

2014年10月21日 | 日記
江戸時代、江戸と京を69の宿場で結んでいた中山道。参勤交代の大名や幕末には皇女和宮の降嫁の道としても使われました。地域によって、「木曽路」「美濃路」「近江路」などと呼ばれています。

近江の名峰、伊吹山の麓に、古事記、日本書紀の時代から湧き出る「居醒(いさめ)の清水」で知られていた宿場町があります。中山道62番目の宿場、醒ヶ井宿(さめがいしゅく)です。町の中には「醒井宿」と表記されているところもありましたが、この先は、引用部分以外は「醒ヶ井宿」と記述することにします。まぶしいぐらいの秋晴れだった一日、醒ヶ井宿をゆっくりと歩いてきました。中山道は柏原宿(「もぐさ売る お店が残る 宿場町 旧中山道柏原宿」2014年7月15日の日記)から近江路に入ります。

JR米原駅で大垣行きの普通列車に乗り換えて、昼前にJR醒ヶ井駅に着きました。

JR醒ヶ井駅舎です。「さめがいコミュニティセンター」と同居していました。

道の駅、「醒ヶ井水の宿」が、駅を出た右側にありました。

駅前にあった観光案内図です。濃い茶色で示されているのが、旧中山道です。この日は、醒ヶ井宿の江戸寄りの入り口から西に向かって歩くことにしていました。駅前を左右(東西)に走る国道21号を渡り、次の角を左折(東行)して進みます。中山道を歩く前に訪ねたいところがありました。

5分ぐらいで、めざす洋風の建物に着きました。旧醒ヶ井郵便局。現在は、醒ヶ井宿資料館として使われています。ここで、醒ヶ井宿の基本的な情報をいただくつもりでした。建物の建築は、明治時代に近江八幡市の八幡商業の英語教師として来日し、滋賀県の各地に洋風の建築を残しているウイリアム・メレル・ヴォーリズによるもので、国の登録有形文化財に登録されています。

資料館の中にあった、正徳元(1711)年に定められた駄賃や人足についての高札です。宿場の高札場に掲げられていたものです。

醒ヶ井宿資料館から、醒ヶ井宿の東の入り口に向かいます。写真は、国道21号に合流する手前にあった「醒ヶ井宿」の石碑です。このあたりが宿場の入り口でした。説明は書かれていませんでしたが、旅人を取り締まる「目付」(めつけ)が置かれていたのでしょう。天保14(1843)年の「中山道宿村大概帳」によれば、人口539人(男266人 女273人)、家数は138軒で本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒という比較的小さな宿場でした。

石碑の隣に設置されていた「中山道分間延地図(東京国立博物館蔵)」の醒ヶ井宿の部分を示した案内です。「高五百二拾八石余 江州坂田郡醒井宿 番場宿江壱里」と中央部に書かれていました。

「醒ヶ井宿」の石碑から街道に沿って、京都方面(西)に向かって歩き始めました。醒ヶ井新町です。ベンガラで塗られた家並みが続いています。

街道の左側に伝統的な民家が残っていました。家の前にあった、手作りと思われる六地蔵風の彫刻が印象に残りました。

街道は緩やかに右にカーブします。右前方にも重厚な造りの商家が見えます。その先で、街道は緩やかに左にカーブします。この付近から、宿場の中心部の地蔵町になります。

ごみ収集場所にありました。「中山道を美しく 未来に残そう 美しい街道 醒ヶ井宿地蔵町」とキャラクターが呼びかけていました。清水の湧く宿場町だけに、環境に気をつけようという住民の強い思いを感じました。この後も旧街道に沿って、たくさんの呼びかけが並んでいました。

左カーブの先に、加茂神社の鳥居が見えました。昭和6(1931)年の銘のある鳥居が建っています。石段を登っていくと最上段に明治34(1901)年奉献の1対の常夜灯がありました。その先はすぐ名神高速道路の防音壁です。高速道路の建設によって、昭和36(1961)年3月にこの地に移転して建立されたといわれています。加茂神社はこの地に深く根を下ろした神社のような雰囲気でしたが、江戸時代の旅人が見たこの地の光景は、今とは違ったものだったようですね。

加茂神社の本殿脇から見た醒ヶ井宿です。この先でゆるやかに右に曲がりながら、旧街道は進んでいます。

加茂神社を下った左側に、日本武尊(やまとたけるのみこと)の像がありました。景行天皇の時代、伊吹山に大蛇が住み旅人を苦しめていました。天皇からこの大蛇を退治するように命じられた日本武尊は、剣を抜いて大蛇を切り伏せましたが、大蛇の猛毒によって高熱を出して苦しむことになってしまいました。その後、この地にたどり着き体や足をこの清水で冷やしたら、体調も戻ってさわやかに目覚めたといわれています(説明板から)。このときの清水が、「居醒の清水」でした。醒ヶ井は、日本武尊にまつわる伝説の多いところで知られています。

鳥居の手前の川の中に、「居醒の清水」の木碑が立っていました。ここが、伝説の「居醒の清水」でした。その隣には「蟹石」の碑も立っていました。醒ヶ井宿には「三水四石」の名所があるといわれていますが、その「三水」の一つ「居醒の清水」と、「四石」の一つ「蟹石」があるところでした。雄略天皇から命じられた勅使が、美濃国本巣郡の湧き水で、はい出してきた三尺余の蟹に水を飲ませようとして放したとき、あっという間に石に変わったといわれています。そのときの石がこの「蟹石」でした。

居醒の清水は、年間を通じて水温12.3度~15度。湧き水は神社の大きな岩の下から湧き出しています。一日の湧水量は1.5万トンといわれる名水です。この地域に水道が完備した昭和37(1962)年以前には、各家に設けられた井戸水とともに、飲料水としても使われていたそうです。また、夏場には野菜を洗ったりスイカやお茶を冷やすのに使われていたということです。また、居醒の清水は、醒ヶ井宿を流れる地蔵川の源流にもなっています。資料館でお聞きしましたら、伊吹山の麓にある醒ヶ井ですが、湧き水は伊吹山には関係のない、鈴鹿山脈からの地下水なのでそうです。

加茂神社の脇にあった「腰掛石」(左)と「鞍掛石」(右)です。これらも「四石」に数えられています。日本武尊が熱病に罹ったとき腰をかけて体を冷やした「腰掛石」。「鞍掛石」は日本武尊が乗馬のときの鞍を置いた石だといわれています。「四石」のもう一つは「影向石(ようこうせき)」ですが、現在は埋没してしまっているそうです。

地蔵川に沿って街道を進みます。地蔵川の底に生えている梅花藻(ばいかも)です。

梅花藻は小さい花を水の中に咲かせます。

少し見にくいのですが、梅花藻とともに生きるハリヨ。清流にしか生息しない魚だそうです。「食べられません」と、資料館でお聞きしました。

街道の左側の地蔵川に沿って歩きます。家並みは地蔵川の左岸に続いており、家に入るための橋が架かっています。料理屋さんの看板です。「本陣 樋口山」と読めました。

醒ヶ井宿には本陣が1軒あったそうですが、その本陣が、かつてここにありました。

地蔵川は秋の澄み切った青空を映して、清らかに流れています。梅花藻の緑が透けて見えています。

これは、醒ヶ井宿資料館にあった昭和45(1970)年の宿場の中心部の写真です。宿場町の面影をまだ色濃く残しています。説明には「切妻平入りの建物が続く」と書かれていました。

本陣の隣に残っていた問屋跡です。問屋は人足や馬の継立の事務をしていた役所で、大名や役人に人馬を提供していました。平成12年からの調査によって、この建物は17世紀の中頃から後半にかけて建設され、現在は当時の半分だけが残っていることが明らかになったそうです。醒ヶ井宿では、問屋業務は4人で、2軒ずつ半月交替でつとめていたようです。

現在は「問屋場資料館」として使われています。中には、梅花藻とともに生きる「ハリヨ」のいる水槽が展示用に設置してありました。

これは、醒ヶ井宿の入り口あった「中山道分間延地図」の「醒井宿」の部分の一部です。問屋のある中心部の地図ですが、この部分だけでも6軒の「問屋場」があったことがわかります。元禄13(1698)年の「醒井宿明細帳」には10軒の問屋が書かれているそうです。江戸時代を通じて7~10軒の問屋が設されていたようです。

中町の江龍家の建物です。この邸宅には、本陣の門が移築されて残っているそうです。写真の左端に見える門だと思います。

大きな石灯籠が目印となっている、料理屋多々美家。居醒の清水は現在は鱒の養殖にも使われているそうですが、多々美屋は鱒の甘露煮で知られています。

その隣が、明治天皇の行幸時の宿舎だったところです。現在は門だけが残っていました。

その向かいにある久保田呉服店。「居醒の清水」でつくった150円コーヒーをいただくことができます。お店の前の案内には「居醒の清水が平成名水百選の日本一!」と書かれていました。

これは、了徳寺の「お葉附き銀杏(いちょう)」の石碑です。「昭和4(1915)年12月17日文部大臣指定天然記念物」と刻まれています。「銀杏の木は8~11月にかけて実(ぎんなん)をつけますが、その一部が葉の上についているそうです。化石から出土した銀杏によく似ている」と説明には書かれていました。

旧街道は「醒井大橋」で地蔵川を渡ります。地蔵川はここで旧街道から離れ、天野川に合流し琵琶湖に流れ込むことになります。

「醒井大橋」の手前の地蔵川に「十王」と刻まれた石灯籠がありました。この下から清水が湧き出ています。「三水」の一つの「十王水」です。「平安中期の天台宗の高僧、浄慶法師がこの水源を開き仏縁を結んだ」といわれています。本来は「浄慶水」とつけるべきところですが、近くに「十王堂」があったから「十王水」となったそうです。

「十王」とは、黄泉の国で死者を裁くとされる10人の王のこと、死者は10人の王によって次々に裁かれたといわれています。

旧中山道は醒井大橋の先で地蔵川と別れます。右に行く橋は「居醒橋」です。

西町に入ります。名神高速道路に向かって進んでいきます。

その先に「西行水」の案内がありました。「三水」の一つ「西行水」が湧き出ていることころです。西行は東国へ向かう途中にこの地に来て、清水の湧き出る茶屋で休憩しました。西行が出発した後、彼に恋をしてしまった茶屋の娘は、西行の飲み残した茶の泡を飲んで懐妊し、やがて男子を出産しました。

西行水が湧き出るあたりです。さて、東国からの帰りに西行はこの地に寄って、娘からこの話を聞いたとき、西行は「もしわが子ならば、元の泡に帰れ」と唱えたそうです。すると、子どもは泡になって消えてしまったと伝えられています。

伝説を秘めて、今も「西行水」は湧き続けていました。

かつての雰囲気を感じながら旧街道をさらに進みます。

名神高速に沿って歩くようになったとき、旧街道の右側に「中山道醒ヶ井宿」の道標が見えました。右の側面には「番場宿へ一里」、左の側面には「柏原宿へ一里半」とありました。このあたりが醒ヶ井宿の西の出口にあたります。

さらに進みます。その先にはかつて松並木が続いていたといわれますが、現在はその名残はありません。正面のお宅の手前は交差点になっています。旧街道はお宅の右側をまっすぐ番場宿に向かってました。

交差点の手前の左側にあった「霊場松尾寺」の道標です。道標を左に見ながら、まっすぐ西に進みます。

六軒町に入ります。右側に、かつての茅葺き民家のような建物がありました。六軒茶屋跡です。このあたりは、江戸時代の初期は天領でしたが、享保9(1724)年大和郡山藩の飛び地になりました。藩主柳沢吉里(柳沢吉保の長男)は隣接する彦根藩の枝折との境界を明確にするため、中山道の北側に同じ形をした六軒の茶屋を建てたそうです。

六軒茶屋はこのあたりの名所となり、広重の浮世絵にも描かれているそうです。現在は6軒の一番手前にあった茶屋だけが残っています。居住者はおられないようでしたが、昭和30(1955)年の写真が展示してありました。

これがその写真です。光線の関係で見にくいのですが、左側に松並木が残っていたことがわかります。

「古事記」・「日本書紀」の時代から名水で広く知られていた清水湧く宿場町、旧中山道醒ヶ井宿を、ゆっくりと歩いてきました。まぶしいぐらいの秋晴れの中を、清らかな水と美しい景色、そして伝説を楽しむことができた旅でした。



酒造りで栄えた伊丹の面影を訪ねて

2014年10月07日 | 日記

天正2(1574)年に荒木村重が伊丹城を改修して築き上げた有岡城と惣構の城下町は、天正7(1579)年、織田信長に攻められ10ヶ月の籠城を経て落城しました。その後、一時池田信輝(織田信長の家臣)の嫡子之助(ゆきすけ)の支配を受けた後、豊臣秀吉の直轄領になりました。それからは、焼け落ちた城と侍町には人家が建つことなく放置され城の跡は、江戸時代には「古城山」と呼ばれるようになっていました。

JR伊丹駅の西にある有岡城の本丸跡です。石垣や建物の礎石、井戸の跡などが残り、当時の面影を伝えています。

かつての有岡城の面影を求めて歩いた日(2014年9月22日の日記)、鵯塚砦跡からJR伊丹駅跡に戻り、もう一つの伊丹、酒造りで栄えた伊丹を訪ねて歩き始めました。

白壁の商家の雰囲気のあるショッピングモールの中を進みます。電柱には「旧伊丹郷町」と書かれています。有岡城が落城した後、伊丹郷町では酒づくりが盛んになり、特に、寛文元(1661)年に摂関家筆頭の近衛家の所領になってからは、江戸へ送る「下り酒」の主要な産地になっていきました。

伊丹郷町は伊丹、円正寺、北少路、昆陽口(こやくち)など15ヶ村からなり、猪名野神社(有岡城の岸の砦があった所にたてられています)が伊丹郷町の氏神でした。写真は、猪名野神社の拝殿です。

やがて、ニトリの脇にあった大溝跡に出ます。

復元された大溝跡です。伊丹郷町の酒蔵からの排水が流れ、ほのかに酒の香りが漂っていたといわれています。

その先で県道13号(尼崎池田線)を渡ります。横断陸橋の先に、大きな酒蔵がありました。”白雪ブルワリービレッジ長壽蔵”です。お酒の販売店やレストランも併設されています。現在の伊丹の酒造りを象徴するところです。

県道を渡ってすぐ右折して北に1ブロック歩きます。市立美術館、市立工芸センターなどが並ぶ、”みやのまえ文化の郷”に着きます。その一角に白壁と格子づくりの商家があります。写真の手前から二つ目が旧石橋家住宅、その向こうが旧岡田家住宅です。旧岡田家の観光ボランティアのお話によれば、石橋家は雑貨の販売や金融業で、岡田家は酒造業で財をなした商家でした。

この二つの商家は裏側の通路でつながっていて、自由に行き来できるようになっています。私が訪ねた日には、旧石橋家住宅にはお月見のお供えがされていました。それを、見ながら隣の旧岡田家住宅に入ります。

旧岡田家住宅の内部は酒造りに関する展示が行われていました。伊丹の清酒造りを始めたのは、山中幸元(ゆきもと)だといわれています。山中幸元は、山陰(月山富田城)を本拠にしていた戦国大名の尼子氏の再興に力を尽くし、天正6(1578)年に討ち死にした山中鹿介(しかのすけ)幸盛の長男でした。

旧岡田家住宅です。さて、山中幸元は親戚に預けられていましたが、豊臣秀吉の戦乱の中で、猪名川上流の摂津国川辺郡鴻池(こうのいけ)村に落ち延びました。慶長5(1600)年には、幸元の子、鴻池善右衛門が三段仕込みによる清酒の大量生産を始めたといわれ、現在の鴻池には「清酒発祥の地」を示す「鴻池稲荷祠碑」が残っています。その後、鴻池善右衛門は大坂に出て両替商として財をなし、鴻池新田の開発を進めました。

旧岡田家住宅の正面です。現在、伊丹でつくられている「白雪」と「老松」の樽酒が飾ってありました。 伊丹の清酒は猪名川の水運(当初は馬による運搬でしたが、後には高瀬舟に変わっていきました)で、神崎(尼崎市)から大坂湾に運ばれ、菱垣廻船(享保8=1743年以降は専用の樽廻船に変わる)で江戸に送られていました。寛文(1661~1677)年間以降、幕府の厳しい酒造統制により周辺部の酒造地域が没落していきました。伊丹は近衛家の支援で京都にも送られるようになります。

これは、旧岡田家住宅に展示されていた主な酒造の郷を示した説明図です。元禄時代(1691~1702年)には伊丹の清酒は「伊丹諸白」とか「丹醸」と称され、江戸への「下り酒」の主要な産地となりました。また、元文5(1740)年には伊丹の「剣菱」が将軍の「御膳酒」に指定されました。なお、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の中では「酒を持て」というせりふはかつては「剣菱をもて」というせりふだったようです。「酒」といえば「剣菱」と、酒の代名詞に使われるぐらい、江戸ではよく知られた酒だったようです。

これは旧岡田家住宅の中に展示されていた薦被りの樽酒です。伊丹の酒は全盛期の享保15(1730)年~宝暦5(1755)年には毎年18万樽(6万5千石)文化元(1804)年には27万7704樽(10万石)が江戸に送られました。ちなみに、享保15(1730)年、酒を専門に運搬する樽廻船ができた時には、大坂から江戸へは平均30日(早くて10日、2ヶ月かかることもあったようです)を要していましたが、航海技術の進歩、港の整備等により、幕末には平均10日で輸送することができるようになったそうです。

”白雪ブルワリービレッジ長寿蔵”に戻ってきました。酒造りの最盛期には、伊丹郷町には酒造家が85人、2,500軒の町家があり、10,000人を超える人口を擁していました。伊丹郷町は町の有力な酒造家から選ばれた町役人が町政を担当していました。また、元禄10(1697)年からは、大手酒造家24家に帯刀が許されていました。

伊丹の代表的なブランド「白雪」の樽酒が見えました。天文19(1550)年創業の小西酒造の酒です。昭和14(1939)年から始まった「山は富士、酒は白雪」というCMのコピーで広く知られています。小西家の始祖は文亀永正(1501~1520)年代、守護一色氏の陣代であった小西石見守でした。その子、小西宗雄が、天文19(1550)年に伊丹に来て、薬種商を営む傍ら濁り酒を造り始めたようです。その後、清酒業を本業にして規模も広げていったといわれています。「白雪」のブランド名は、寛永12(1635)年、小西家2代目の新右衛門宗宅が下り酒を江戸に送る途中、雪を頂いた富士の気高さに感動して名付けたといわれています。

酒の販売店のガラス越しに見えた、新選組局長の近藤勇から小西酒造に送った礼状です。小西家は3代目新右衛門證園、4代目新右衛門霜巴がさらに拡大します。元禄7(1694)年には江戸茅場町に生産者の出店として初の酒問屋を開業しました。現在は、小西酒造東京支店があるところだそうです。元禄10(1697)年4代目新右衛門霜巴が町役人として町政に参画し帯刀も許されました。以後、小西家は、代々その役につくことになったそうです。

これは、老松酒造の店舗です。老松酒造には「御免酒(ごめんしゅ)」と書かれていました。元禄10(1697)年、伊丹の大手の醸造業者24軒に帯刀が許され、また、幕府の御膳酒にもなったため、御免酒と呼ばれたそうです。

享保元(1716)年発行の酒番付(「和漢酒文献類聚」)では、老松酒造が東の大関に位置づけられていました。

老松丹水(おいまつたんすい)を持ち帰る人々です。時間によっては、順番を待つ人が長い列をつくっています。地下95mから汲み上げた、醸造に使われる水が老松丹水で、店舗の脇に引いてありました。

小西酒造の長寿蔵です。将軍の御膳酒に指定された「剣菱」のように、江戸で大変な人気を博した「伊丹諸白」や「丹醸」(伊丹の清酒)でしたが、天保(1837~1840)年間に灘(なだ)で「宮水」が発見されてからは、灘の酒に追い上げられることになりました。海に近い灘と比べ、猪名川の高瀬舟からスタートする伊丹は輸送面での負担が大きかったようです。

写真は老松酒造の社屋です。伊丹では小西酒造と老松酒造が酒造会社として、現在も営業を続けています。太平洋戦争中に村岡家、岡田家、鹿島家、石橋家、田中家の5家が合併してできた大手柄酒造もありましたが、小西酒造が「大手柄」のブランドで委託生産をしているようです。老松酒造は、2軒の竹内家と新田家が合併して誕生しました。みやのまえ文化の郷に旧岡田家住宅が残っていた岡田家も、大手柄酒造に参画していたようですね。
 
江戸時代の末期から明治時代にかけて、「剣菱」や「松竹梅」、「男山」などの銘柄の伊丹の酒が、灘や伏見、北海道などの蔵元に買収されたり、移転していき、伊丹の酒は衰退期を迎えることになりました。かつて、伊丹の小西酒造には社会人野球のチームがありました。私の記憶では、西武や阪神でプレーした谷中真二投手が小西酒造出身だったように思います。解散してから、すでに20年が経過しました。「剣菱」といえば灘の酒と思い込んでいましたが、もとは伊丹の酒だったんですね。伊丹を代表する小西酒造も、近年は、酒蔵だったところがマンションや駐車場に変わっているとお聞きしました。残念なことです。将軍の御膳酒にも指定された光り輝く歴史を持つ伊丹の酒が、これからも輝き続けてほしいと願わざるを得ませんでした。