トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

出雲街道はどの道? 真庭市久世町

2012年02月26日 | 日記
明治時代につくられた旧遷蕎(せんきょう)小学校。
国指定の重要文化財です。

「出目幽谷 遷于蕎木」(詩経)から山田方谷が命名したと言われています。

明治38年7月に着工し、明治40(1907)年に完成しました。
江川三郎八の設計によるもので、
木造2階建て中央を大きくつくり東西両翼の棟は左右対称。
当初は天然スレート瓦で葺いていた、
ルネサンス式の校舎として知られています。

また、校章は高瀬舟をイメージして「久世」の文字も織り込まれています。
これも江川三郎八の手によるものです。

また、懐かしの学校給食を味わうイベントをしているところとしても
人気を博しています。

真庭市久世町。この町に、真庭市役所は置かれています。

木を素材にしたユニークな市庁舎です。


ここ真庭市久世町は、
慶長8(1603)年、森忠政が18万6000石の領地で津山を領したときから、その支配下にありました。享保12(1755)年に、森家に嗣子がなく改易されてからは、幕府領となりました。途中、鳥取藩領(延享2=1745~)の時期もありましたが、宝暦5(1755)年から再び幕府領となりました。
この間、上町に置かれた代官所の支配を受けていました。

この日は、時折雪が舞う肌寒い日でした。

国道181(313)号線を渡ってさらに進むと、小さい路地の先に、代官の官舎だった旧久世陣屋跡があります。

久世代官の中で、最も知られているのが、20代目の早川八郎左衛門正紀(まさとし)です。天明7(1787)年に48歳で着任し、享和元(1801)年関東地廻役代官に転ずるまで、14年間、ここの代官として過ごしました。

この間、「年貢を徴収しやすくするため、定免法(一定期間年貢量を固定する)を検見法(毎年の実地検分をもとに年貢量を決定する)に改め、領民の税負担を軽減するようにしました。(幕府は収入を安定したものにするため、享保7=1722年に、検見法から定免法に転換していました。) 
幕府の役人が、幕府の方針と違う触れを出すのは、かなり勇気のいることだったのではないでしょうか?

大森銀山で知られる大森代官の土手平左衛門や滋賀県の琵琶湖の湊町海津(かいづ)の代官、西与一左衛門など、気骨のある方が各地にいたのです!代官といえば、権力を笠に着て搾取する姿が時代劇の定番ですが、領民のために頑張った代官の方が、実は多かったのかもしれませんね。
 
このほか、「赤子間引き」の禁止、質素倹約の奨励、庶民のための学校である「典学館」を設けるなど領民のための施政を進め、領民から慕われたと、説明板には書かれていました。

隣の重願寺の山門は、旧陣屋から移されたものだと言われています。

久世は、また、津山藩主森忠政が整備し出雲藩やその支藩の広瀬藩の参勤交代の道であった、旧出雲街道の宿場町でもありました。本陣をつとめていたのは、慶長17(1612)年頃に移住してきた景山家で、宝暦6(1756)年からと言われています。残念ながら、本陣があった場所は、案内がなくよくわかりませんでした。

元禄(1688~1704)時代からは、備中の足守から来て山陰に向かう、大山道がここから分岐することになりました。そのため、春秋2回の牛馬市が立ち、町には13軒の博労(ばくろう)問屋もあったそうです。このように、久世の宿場町は博労宿でもあったのです。

旧陣屋跡から50メートルぐらいで、上町商店街のアーケードにぶつかります。この道が旧出雲街道です。

これは、アーケードから右方向(勝山方面)を見たものです。宿場町らしく、今も旅館が並んでいました。その先で、津山方面から出雲方面に向かう旅人は左側を流れる旭川の土手に、並んで歩くことになります。

旭川の土手はサクラが植えられていて、”再春さくら通り”といわれる通学路になっていました。

折り返して、勝山方面から久世宿に入ります。先ほど見た旅館を左側に見て、旧街道を津山方面に向かいます。

上町商店街のアーケード内は、廃業した店舗が多いのと、天候の影響もあって薄暗い印象でした。


アーケードを抜けると中町商店街。晴れ間がのぞくようになり、日射しが差し始めました。

中町を抜けると信号のある交差点です。津山信用金庫久世支店から先が、下町商店街。
アーケード街です。

抜けると、日本キリスト教団久世教会。


三坂川にかかる天神橋を渡って、左に華蔵庵(けぞうあん)の黒松。

高さ18m、目通り4.3m、樹齢360年という、岡山県下最大級の黒松とのこと。

そのそばに、「てんしんはし」の石標も残っていました。

続いて、白漆喰塗り込め、虫籠窓に出格子、なまこ壁の下板張りという出雲街道沿いに多い伝統的な民家が姿を現します、白漆喰の民家が、本当にきれいです。

上町から下町にかけての旭川沿いには、かつて高瀬舟の船着場があり、年貢米など様々な物資が積み出され運び込まれていました。天保9(1838)年には、家数398軒、1542人が居住し、たいそう繁栄していたと記録されています。

さらに、まっすぐ進みます。

壁一面に書かれた宣伝文句。左を見ると、国道181号線の向こうに遷喬小学校がみえました。


さらにまっすぐ行くと、右に向かう国道181を渡ります。写真の左のやや細い道をまっすぐ進みます。その先のJR姫新線の線路で、この道は行き止まりになっていました。

私は、この道こそ旧出雲街道だと思い込んでいました。
 

これは、「おかやま歴史発見の道・出雲街道歴史の道」にあった地図ですが、よく見ると、旧出雲街道は天神橋を渡ったところから、旭川寄りに曲がっているようです。また、北に向かう道にも旧出雲街道と記されています。

これはいけない!一度引き返して、天神橋から歩き直すことにしました。あの漆喰塗り込め民家から、再度スタートします。街道を右に曲がる道は2つありました。

1つは、白壁の村岡商店と苦田商店の間の道を右折して、旭川に向かって進み、苦田商店の敷地に沿って左折します。進むと、民家にぶつかりますが、そこで再度右折して、旭川の土手道に入ります。そこから、まっすぐ旭川の土手道を進みます。城下町に入る街道によくある、鍵形のカーブでした。

2つめの道は、苦田商店の先を、緩やかにカーブする道です。この道は、旭川の土手と平行する道を進んでいきます。

私には、最初の鍵形のカーブを通って旭川の土手道を通る方が、地図の道に近いと思われました。
この道を進むことにしました。

旭川の土手を15分ぐらい歩くと、久世高校に渡るいずみ橋の北詰に着きます。

そこを左折して、真庭市役所の入り口のところ(オレンジの看板)を右折して進みました。

ところところ、民家が途切れてはいましたが、国道181号線の南側を、津山方面に向かう道でした。

この道が、旧出雲街道なのでしょうか? もう一つ確信がもてません。

「岡山県の歴史散歩」(岡山県高等学校教育研究会)には、「国道181号線の北側は、北に向かう旧大山道に沿って、切妻の妻が水切り瓦やなまこ壁になった商家建築が残っている」と書かれています。その通り、この道沿いに歩いていくと、東町と西町の商家建築が見えてきます。

煙出しのついた豪壮な建物は村澤邸。かつて油屋を営んでおられたそうです。

旧街道にある伝統的な町並みを今に伝えてくれています。

この道が旧大山道なのでしょうか?

どれが、かつての出雲街道なのでしょうか?

悪天候のためか、ほとんど人に会うことがなかったので、正しいことがわかりませんが、私には、上町からまっすぐ東に向かう道が一番街道らしいと思いました。

でも、地図の道とは違っているのです。

江戸時代から、久世の町は、陣屋町、宿場町、そして、旭川の水運を利用した物資の集散地として繁栄しました。現在も合併してできた真庭市の政治・経済の中心地として、古い伝統を生かしながら新しい歩みを始めています。


岡山一番街の春一番、今年も・・・・

2012年02月22日 | 日記
岡山駅の地下街、一番街に、
今年もチューリップの季節がやってきました。

地下のパン屋さんに寄ろうと思って、
地下改札口に出たときに気がつきました。
改札口前のチューリップです。

勤務先に急ぐ通勤客の視線の先もチューリップです。

改札口を出て、
ももたろう大通りに向かうメインルートに向かいます。

最近、花の種類が飛躍的に増えて、
名前もわからない花が多くなりました。
私でも一目でわかる、身近にある花です。
この花の姿を見るだけで、春の訪れを感じます。

しばらく立ち止まって、1本1本確認です。

きれいですねぇ・・・・。

2月29日には、チューリップのプレゼントもあるようです。
たくさんの募金も集まればいいですね。


たくさんのつぼみが並んでいます。
満開になるまで、しばらく楽しめそうですね。


いつまでも寒い今年の冬、
早く暖かい春になってほしい、
チューリップを見ながら感じた朝でした。

津山の町並み保存地区を歩く

2012年02月15日 | 日記
このところ、出雲街道を少しずつ歩いています。

土居宿に続いて、今回は、津山市の町並み保存地区、
城東地区の出雲街道を歩きました。
 
津山駅から今津屋橋を渡って鶴山通りに入ると、
”ごんご通り”の看板がみえました。
”ごんご”とは河童(かっぱ)のこと、
城下町を仕切る吉井川に面した作陽学園のあたりが、
”ごんご”がいたずらをするところだったようです。
今津屋橋商店街には、多くの河童の像が展示されていました。
 
天満屋デパートが入る、アルネ津山に続く商店街を後ろに、
東(姫路方面)に向かって出発しました。

駅前にあった案内図です。
緑色で描かれた津山城のすぐ西の大きな南北の通りが鶴山通り、
茶色で示してあるのが、旧出雲街道です。
京町から伏見町に入ります。
城の真南にあたります。

左側の家並みの間から、再建された津山城備中櫓が見えました。
岡山城下町でも、旧山陽道は現在の表町商店街で、
岡山城のすぐ近くを通っていましたが、
ここ津山城下町でも、出雲街道が城からごく近いところを通っていました。

この写真は、JR津山駅に飾ってある津山城の復元CGです。
慶長8(1603)年、18万6500石で入封した森忠政が
翌年から13年がかりでつくりあげた津山(鶴山)城です。

伏見町は、その森忠政がかつていた、
美濃国兼山(現御嵩町)にあった地名だそうです。
ちなみに、森忠政は、本能寺の変の折り、
織田信長とともに戦死した森蘭丸の弟です。

家並みの先に宮川大橋があります。

宮川大橋の手前に、延宝6(1678)年、大番屋が置かれました。
この大番屋までが城下の内町、宮川から先は外町として、
往来の取り締まりを行っていました。
冒頭の出雲街道の石標はここに置かれています。

宮川大橋を渡ったところは、
ガードレールの替わりに、白壁の土塀風に仕上げてありました。
そのあたりは材木町です。
津山城築城当時の材木置き場があり、材木商や大工職人が居住していたから
こう名付けられたそうです。
津山城の石垣から100mぐらいの距離でしょうか?

少し進むと、街道は家並みに突き当たります。

ここで、街道は鍵形に曲がります。
橋本町の案内板が立っています。

左折してしばらく行くと今度は右折します。
この先の1.2kmが町並み保存地区になっています。

曲がってすぐ右側に、京御門。
銘菓「桐襲(きりかさね)」で知られる和菓子屋さんです。

城下町づくりは、津山城の築城と同じ慶長9(1604)年に始まりました。
津山は、中世には林田郷(はいだごう)といわれていた地域で、
元和3(1617)年、橋本町と林田町、その東の勝間田町ができました。
ここまでが、築城当時の城下町の区域ということになります。
また、江戸時代から明治時代にかけてつくられた町屋が、
今も多く残されているところです。

林田(はいだ)町に入ります。
津山は、中世には「林田郷」とよばれていました。
ですから、ここは、
近郷の村からやってきた人々が住み着いて成立した町ということになります。
 
町の中央にある苅田(かんだ)酒造の建物です。
大きな煙出しがついていて、広い間口をもった立派なお宅です。
脇道に入ると煉瓦つくりの煙突が見えています。
「清酒 諸白 醸造元」の古い看板、
低い軒にナマコ壁、下見板、出格子(でごうし)、大戸など、
このあたりの伝統的民家の姿を伝えています。

やがて、勝間田町になります。

大きな火の見やぐらがひときわ目立つ作州城東屋敷。
明治8(1875)年に建てられた日新小学校の跡です。
学校統合によって一時分校になった後、
明治36(1903)年に廃校になりましたが、
その後も津山工芸専修学校や青年学校、
保育園等に使用された教育施設でした。
平成5(1993)年から、現在の形になりました。
県指定文化財のだんじりの展示館になっています。
映画の「寅さん」シリーズ最終作(「おとこはつらいよ、寅次郎」)の
ロケ地になったところです。

勝間田町の東は中之町。

中之町の玄関先を飾る布製の飾り。
その先の西新町に入るところで、
出雲街道は、また、鍵形に右・左に曲がっています。
左側の民家に大きなたらいがつり下がっていました。

糀製造の三谷商店さんの看板でした。

西新町に入ります。

街道の両側の民家は、比較的新しい建物が多く、
新しく整備が進んでいる地域という印象です。
民家の玄関口の飾りが替わりました。

お聞きしますと、
「火事の時にがんがん叩いて知らせるんですよ」とのお答え。
中之町と西新町、東新町は「新町」と書かれているように、
城下町の拡大に伴って、
寛永・正保年間(1624 ~1647年)に成立した職人町でした。

見どころは、津山洋学で知られる箕作阮甫の旧宅と城東むかし町屋です。

JR津山駅前に立つ、箕作阮甫さんです。

嘉永6(1853)年、ペリー来航の折り、
アメリカ国書の翻訳にあたった人です。
かれの生家は、医師でした。
京都で医術を学び、文政2(1819)年津山で医師を開業しました。
そして、文政6(1823)年、藩主とともに出た江戸で、
洋学を学ぶことになったのです。

城東むかし町屋(旧梶村邸)です。  屋号は米屋。
元禄年間(1695)年頃には街道の南側に住んでおり、
後に現在地に移ってきたそうです。
明和4(1767)年「札元並」という町役に任命され、
その後、数代にわたって「札元」をつとめたということです。
明治4(1871)年から梶村を名乗り、
銀行業務に勤しみながら県会議員をつとめたようです。
建物は、文化庁の登録有形文化財に指定されています。

東新町の家並みです。
もともとは、町人町と足軽町が混在していたところです。
 
ここは職人町ではなかったのですが、
鍛冶屋さんが多かったようです。
職人町の「鍛冶屋町」には
刀剣をつくるところが多かったのですが、
ここ東新町には、生活に密着した鎌や鍬をつくる人が
多く居住していたようです。

今も、「元禄年間創業」という、
作州鎌をつくるお店が残っています。

その先は、また鍵形のカーブ、荒神曲りです。

そのまま進んで、左側にあったのが以前の洋学資料館の建物。
赤い煉瓦の建物です。

今は、箕作阮甫旧宅の隣に新しい資料館が建てられました。

建物の前に、津山洋学を担った人たちの像が建てられています。

林田小学校のあたりまでくると、もうJR東津山駅の近くです。
出雲街道は、津山の城下町でも旧街道の雰囲気を残していましたが、
城下町を抜けた東方のこのあたりも、
同じような雰囲気で、次の勝間田宿に向かっています。

津山城東地区は、江戸時代の雰囲気を今も感じるところです。
特に、林田町から勝間田町の、
江戸時代後期から明治時代にかけての家並みは、
大変すばらしいものでした。












東海道と中山道が出会う宿場町

2012年02月10日 | 日記
江戸時代、江戸と京を結ぶ大動脈であった東海道と中山道。海岸に近いところを移動する(海路を移動するところもあった)東海道に対し、「すべて山の中である」と言われた木曽路に代表される中山道。一見、出会うはずがないと思うのですが、その2つの街道が出会う宿場がありました。東海道の52番目、中山道の88番目の宿場である草津宿です。現在の滋賀県草津市にあります。

その合流点に、追分道標が立っています。

 「左 中仙道美のぢ  右 東海道いせみち」。文化13(1816)年につくられた灯籠にこのように刻まれており、ここで、2つの街道が出会ったことを教えてくれています。基壇には、この道標を寄進した、京、大坂、岐阜などの飛脚問屋らの名が刻まれています。この道標の近くが、東海道伊勢道(江戸)方面への出口です。旧東海道は、おおむね、現在のJR草津線とJR関西本線に沿って、江戸につながっていました。

民家はほとんどが建て替えられていましたが、当時の雰囲気を残す一角もありました。

この先のゆるやかなカーブを曲がると、草津川の土手に上がっていきます。

右側に、また灯籠(道標)が見えてきました。
  
  左 東海道いせ道  右 金勝寺しがらき道
  文化13(1816)年丙子三月建之
  奉 京都中井正治右衛門 橘武成

この道標は、かつては、現在地の反対の左側にあったと言われています。

現在の道筋には、東海道を歩く人のために、「←東海道→」の案内板が要所に設置されています。それに従って、草津川にかかる橋を渡ります。かつて、東海道、中山道を行く旅人は、現在の橋より少し手前を、徒歩で渡っていたといわれています。

川底が民家の屋根よりも高い天井川で、もともと「砂川」と呼ばれていたように、通常は、流れは多くなかったようです。

現在では、草津川の付け替え工事が終わっていたので、水はまったく流れていませんでした。

東海道を進む旅人は、ここから草津川の対岸を下り、国道1号線の上をわたり、東海道新幹線の下をくぐり、JR草津線の千原駅の前をとおって、次の石部宿へ向かっていました。

もう一度、追分道標に戻ります。

ここは、草津川をくぐるトンネルです。草津川は天井川のため、出水期になると通行に悩んでいたため、大路村戸長、長谷庄五郎が当時の中井弘県令に願いを出し、明治19(1886)年に完成させたものです。

このトンネルが中山道美濃路(江戸)方面への出口です。旧中山道は、JR東海道本線に沿って名古屋に向かっていました。右側に追分道標、左側に復元された高札場がありました。

トンネルの中には、「大名行列」の絵など、6つの壁画が描かれていました。

駅前商店街(旧大路村内)を抜けて、次の守山宿へ向かっていきます。そして、トンネルの反対側が、草津宿本陣前を通って、次の大津宿(京都)方面へ向かう東海道・中山道です。
「天保14(1843)年には、人口2351人、家数が586軒あり、2つの本陣、2つの脇本陣に、旅籠が72軒あった」という記録が残っているそうで、にぎやかな宿場だったようです。

少し進むと、右側に旧草津宿の本陣跡、田中七左衛門邸があります。当時の姿をとどめる貴重な遺構として、国指定の史跡になっています。全国の本陣の中でも、最大級の規模を誇っていました。平成8(1996)年に改修され一般公開されました。

門前に掲げられた「細川越中守宿」の札は、関札(宿札)といわれています。ここには、2000枚以上の紙製の関札と、460枚の木製の関札が残っているそうです。また、浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三などの、歴史上よく知られている人も宿泊しているようです。

 天保10(1839)年4月7日、薩摩藩の支藩の佐土原藩主、 島津忠徹(ただゆき)はここで死亡しました。 藩の跡目相続は、生存中に決めないといけないため、 その事実を隠し70日ほど亡骸(なきがら)をここで保管したそうです。 「4月7日より6月25日朝まで滞在した」と、記録に残っているようです。 ちなみに、公式には、忠徹の死は5月26日となっています。残念ながら、本陣内は「撮影禁止」になっていました。
 
脇本陣跡です。

「そばや」さんになっていました。家の隅に石碑が残っています。

もう一つの脇本陣跡、藤屋与左衛門邸跡です。

こちらは、吉川芳樹園という茶舗になっていました。文化庁の登録有形文化財に指定されています。

次は、太田酒造の建物です。

太田道灌を祖とするそうで、「道灌」という大きな看板が目に着きました。

ここは、宿場の中心である「問屋(場)」の跡です。輸送に必要な馬や人足を手配したり宿の管理にあたったところです。また、東海道に3カ所しかなかった、荷物の重量検査を担当する「貫目改所」も置かれていました。
そのため、「草津の政所(まんどころ)」と呼ばれていました。

これは何年か前に訪れたときの写真ですが、当時はアーケードがついていました。今は、それも撤去され青空に白壁が映えていました。

これは、以前訪ねたときの草津宿の町並みです。今回は、電線が整理されていたせいか、すっきりとした印象を受けました。

立木神社の門前をとおり、矢倉橋を越えると、東海道は旧矢倉村に入ります。


さらに歩くと、三差路の右側に矢橋道標があります。

ここは、「矢倉立場」があったところです。「立場」とは、宿場と宿場の間に茶店などが設置され、旅人が杖を立てて休憩することからつけられたようです。歌川広重の浮世絵にも描かれた「乳母餅(うばがもち)」を出す店もここにありました。

その隅に、矢橋道標が立っています。
  
 右 やばせ道  これより二五丁 大津へ 船わたし

この三差路は、海路(琵琶湖を船)で大津へ向かう、矢橋の渡しに向かう分岐点でした。

「急がば回れ」! 海路は速いけれど、天候に左右されます。陸路は確かですが、時間がかかります。堅実に進めようという「急がば回れ」は、ここから生まれたといわれています。

最後になりましたが、草津宿の玄関口、JR草津駅。

駅前には、追分道標を模した道標がつくられていて、宿場町の玄関口らしい雰囲気をかもし出していました。

草津本陣が一般公開された平成8年頃、草津から来られるお客様は、本陣の写真のついたテレホンカードを持ってきてくださっていました。

本陣や宿場を中心にした町づくりや町並みの整備が一層進んでいることがわかりました。







惣門のある出雲街道の宿場町

2012年02月05日 | 日記
出雲国松江城下から、出雲、伯耆、美作の国を経由して、播磨の国姫路とつながる旧出雲街道。
その旧出雲街道の中に、宿場町の入り口と出口に惣門を設けていた宿場がありました。現在は、復元された惣門が、訪ねる人を迎えています。
そこは、旧出雲街道土居宿、今の美作市作東町土居にあります。城下町の入り口や出口の総門はめずらしくありませんが、宿場町の惣門は、当時、貴重な存在でした。
JR津山駅からキハ120系のディーゼルカーで約40分。旧土居宿の玄関口、JR美作土居駅に着きました
出雲街道土居宿は、岡山城主宇喜多氏と小早川氏の支配を受けた後、関ヶ原の戦いの後の慶長8(1603)年から津山藩領になっていました。その後、元禄10(1697)年から幕府領、延享2(1746)年から三日月藩領、寛政6(1794)年から龍野藩領と替わっていきました。

元禄年間(1688~1704年)には戸数113戸だったのが、文化12(1815)年には216戸になったといわれ、江戸時代中期に最も繁栄した宿場だったようです。
駅前広場に「出雲街道土居宿を後世に残す会」の作成した、「出雲街道土居宿跡案内図」がありました。

それを見ると、再建された西惣門は、駅から比較的近いところにあることがわかりました。
駅からまっすぐに進むと、正面に東西に延びている旧出雲街道にぶつかります。
めざす西惣門は、旧出雲街道に出る直前の右側にありました!

慶長年間(1596~1614年)、江戸幕府が出雲街道と美作7駅(土居・勝間田・津山・坪井・久世・勝山・美甘・新庄宿がありますが、津山は城下町でしたので)を定めたとき、宿場町の東西の両端に関門を設けることにしたのです。
それからは、毎朝夕、門番によって開閉されていたそうです。(門の大きさ)高さ 6m50cm、幅7m88cm。(門扉の大きさ)高さ 3m40cm、 幅3m60cm。現在地(平成13=2001年に再建された)から南に10mずれた、旧出雲街道上にあったようです。

播磨の国との国境にある土居宿だけに、主に国境警備のためにつくられたのでしょう。
この惣門は、高麗門の形式になっています。高麗門は、皇居の桜田門や蛤門がその代表的な例です。鏡柱2本と内側(手前側)の控柱2本で構成され、2本の鏡柱の上に冠木(かぶき)を渡して、小さな切り妻屋根を乗せ、鏡柱と内側(手前)の控柱の間にも小さな切妻屋根を乗せています。宿場町に西の勝間田宿方面からやってくる旅人は、裏側からこの門をくぐることになっていました。
西惣門で旧出雲街道を右に折れて進み、宿場町の入り口から折り返して、土居宿を歩いてみることにしました。
「出雲街道土居宿」の碑から進むと、すぐに一里塚跡があります。慶長9(1604)年津山藩主森忠政のとき、街道の両側に、36町ごとにつくられたもので、左手(北側)に黒松、右手(南側)に榎が植えられていました。案内板によれば、「黒松は戦時中に献木のため切られ榎も戦後切られたのを、昭和47(1972)年に松と榎を植えて復元したそうです。
榎の木の下につくられた、「土居一里塚 南塚跡」の石碑が残っていましたが、下の方はがれきに埋もれていました。石碑を読んでいる間中、すぐ前の民家に住む飼い犬が、ずっと吠え続けていました。
  
一里塚を過ぎ、山家川にかかる門尻橋の手前左側に、「勤王四士元埋葬の地  川下約10m河原内」という案内がありました。
勤王四士とは、岡元太郎、井原応輔、島浪 間、千屋金策の4人で、勤王派の同士を募るため美作の国を遊説中、盗賊に間違えられてここ土居宿まで逃れてきましたが、惣門が閉まっていて宿場に入れず追い詰められて、元太郎は切腹し、応輔、浪間は惣門の外で刺し違えて自害したといわれます。また、金策は宿場内の泉屋という宿で自刃したといわれています。この埋葬の地は、西の惣門の外のすぐ近くでした。

江戸時代は、西惣門の下をくぐって、土居の宿場に入ります。
ほとんどの民家が建て直されて、当時を伝えるものは残っていませんでしたが、案内は丁寧で、駅前にあった案内板とあわせると、当時の様子がよくわかりました。
街道の左手(南側)に「本陣跡」。ブロック塀の上に張られた「本陣跡」の案内板は、片方が外れて垂れ下がっていました。「間口55m」とあるように、偉容を誇る建物だったようです。資料によれば、はじめ妹尾氏、後になって安東氏がつとめていたようです。

その先の左側に「土居駅跡」。人馬の継立てをしていた問屋場の跡のようです。
 
明治になって、交番があったのでしょうか?「巡査屯所」跡です。現在は、土居駐在所になっていました。
その並びに、大きな楠の木がありました。幕末期からある楠の木のようです。
その奥に「土居老人共同作業所」の建物。その建物を右奥に入ると、「宿場資料館」の入り口がありました。閉館のようでした。
高札場の跡でした。

その先に右に折れる道があり、
「土居子安八幡神社」と「御旅所」の碑がありました。八幡神社の御輿の出発地点なのでしょうか?歩いている間、ほとんど人に会いませんでしたので、お尋ねすることができません。案内板によると、この並びに脇本陣があったと書かれていました。

脇本陣は、東の出口付近にもう一つあったようです。資料によれば、亀井家や和田家がつとめたとありますが、よく分かりませんでした。
現在の道案内は、ここを左に曲がって姫新線の踏切をわたり、佐用方面に行くようになっていますが、江戸時代の出雲街道は、この道を右に向かっていました。
街道を曲がったところに、もう一つの脇本陣跡。振り返って撮影しました。
その先に「東惣門跡」がありました。これも振り返って撮影したもので、土居宿の光景です。
旧出雲街道を行く旅人は東惣門を抜け、この先で、万の乢(たわ)を越えて、播磨国佐用宿へと旅を続けました。

宿場の東の端、東惣門まで行ってから、JR土居駅に引き返しました。
昭和11(1936)年12月に竣工した美作土居駅に戻ってきました。
その8ヶ月前の昭和11(1936)年4月、当時の姫津東線が佐用駅・美作江見駅間を延伸開業させ、姫津西線を編入して、姫津線と改称しました。そして、10月には、津山駅・東津山駅間を姫津線に編入、姫路駅と新見駅間が全通し、「姫新線」と改称されました。

開業からすでに75年が経過している駅舎です。木造平屋建て切妻造りで、外壁は下見板張り、正面に三角形のポーチがついた懐かしい姿です。正面右にトイレ部分を増築していますが、他は開業当時のままで、建設当時の面影を今に伝えてくれています。
駅を出た右側に、板塀に囲まれた2軒続きの長屋風の建物1棟と一戸建ての建物2棟が残っていました。鉄道官舎として使われていた建物です。
長屋風の官舎は、草におおわれ放置されているようでした。

復元された立派な西惣門。
この町に住む人々の町への誇りを感じることができた旅でした。







倉敷美観地区を歩く   その2

2012年02月01日 | 日記
重要伝統的建造物群保存地区、倉敷美観地区。

2回目の今回は、「絵図で歩く 倉敷のまち」(吉備人出版)をもって、大原家別邸の有隣荘から倉敷川に沿って、美観地区の終わりとなる、前神橋まで歩きました。

有隣荘の前の道は、「屋敷割絵図」(宝永7=1710)には、「内川岸町五拾八間」と書かれているそうです。

有隣荘の先に、樹齢400年以上といわれる立派な松の木がある旅館鶴形があります。旅館鶴形は、延享元(1744)年の建築で、国指定重要文化財の旧大原家住宅と並ぶ、倉敷でも最古の建物のひとつです。江戸中期の風格ある町屋建築の面影を伝えています。旅館鶴形の先は、倉敷考古館です。

倉敷考古館は、昭和25(1950)年、
江戸時代後期に建てられた土蔵造りの米倉を改装して開館しました。旧石器時代から室町時代までの考古資料を展示しています。「屋敷割絵図」(宝永7=1710)には、旅館鶴形は油屋九郎右衛門、倉敷考古館は花屋次郎兵衛の屋敷があったと書かれていますが、江戸時代末の「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)には、どちらも小山安右衛門の屋敷になっているそうです。「倉敷新地図」(昭和3=1928年)には、「鴨井鮮魚部」と書かれています。私には、佃煮の製造会社、鴨井食品として身近な存在でした。商人の栄枯盛衰の様子も伝わってきます。

「倉敷新地図」から、倉敷川が倉敷考古館のところで、鶴形山に沿って倉敷市羽島に行く川を分流していることがわかります。

倉敷考古館前に中橋が架かっています。明治10(1877)年に架けられたもので、橋の下を通る船のことを考え、
アーチ状の橋になっています。「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、「新橋」という木の橋が描かれていて、「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)にも、木の橋になっています。この木の橋を架け替える形でつくられたようです。

中橋を渡ると「倉敷館」です。観光案内所になっている洋風の建物です。平成10(1998)年、「登録有形文化財」に指定されました。

大正6(1917)年に竣工した倉敷町役場です。北東部にある塔の部分は銅板葺きだそうです。その後、昭和3(1928)年倉敷市になってからは市役所として使われました。昭和7(1932)年に市役所が移転してからは、倉敷市職業照介所、倉敷市公益質屋、倉敷農業共済組合事務所としても使われたそうです。
その後、昭和60~62(1985~1987)年解体修理を経て、「倉敷館」となり観光案内所として使われています。

この倉敷館のあったところは、「屋敷割絵図」では、銭屋助兵衛の屋敷、「倉敷村本田小割絵図」では、植田武右衛門(汶四郎から改名)の屋敷でした。倉敷村に移住後、質屋を営み、文政7(1824)年には、223石余を所有する大地主(水澤家に次ぐ所有高)になっていました。江戸時代後期から経済力を蓄えた「新禄派」の代表として、文政11(1828)に、水澤常太郎とともに倉敷村の庄屋に就任しています。天保12(1841)年に庄屋を退き、新邸に移ったため、屋敷は村会所として使われることになりました。
このときから、
この地は、約90年余りに渡り、倉敷の政治の中心だったことになりますね。

倉敷館から倉敷川の右岸を進むと、倉敷民芸館があります。昭和23(1948)年、初代館長、外村吉之介が、江戸時代後期に建てられた土蔵を改装して開館しました。現在では、古今の民芸品の所蔵が1万点となり、1年に3回入れ替え、常時1000点を展示しているそうです。ここも、倉敷館と同じ銭屋助兵衛、植田武右衛門の屋敷があったところ、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)では、「向下川岸町」と書かれていました。

さらに進むと、日本郷土玩具館。昭和42(1967)年、館長の大賀政章が自宅を改装して開館しました。
「こふく ふともの 糸物類 瀧もとや弥兵衛」という看板がかかっているように、江戸時代には呉服・太物・糸物商を営んでいたようです。

倉敷館に戻って、中橋を渡り、倉敷考古館から倉敷川左岸を歩きます。倉敷川に沿って右に曲がります。「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、この道の上に、「土手町壱町拾三間」と書かれているそうです。「倉敷新地図」(昭和3=1928年)には「土手町」と書かれています。

今も、お店屋さんの店先に、「土手町」の名残がありました。

旅館くらしきです。昭和32(1957)年の創業です。ここは、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、銭屋助太夫の屋敷、「倉敷新地図」(昭和3=1928年)には、「河原砂糖店・河原建材店」となっています。旅館くらしきは、砂糖店の建物を改築して開業したそうです。

旅館くらしきの前に、「常夜燈 金毘羅大権現」の銘がある石灯籠が立っています。寛政3(17931)年の銘もあります。もともとは少し下流にある前神橋の東詰めに建てられ、倉敷川をさかのぼる船の目印になっていたと言います。昭和33~34(1958~59)年頃、この地に移設されたそうです。

その先、倉敷川に沿って、「倉紡製品原綿積み降ろし場跡」という、モニュメントがあります。明治21(1888)年、地場の資本で設立された倉敷紡績の最初の工場が、明治22(1889)年に開業しました。原料になる原綿や製品がここで積み降ろしされたようです。ここから、現在倉敷アイビースクエアとなっている倉敷紡績倉敷工場まで、荷車で運ばれていました。

いまも、荷車の轍があたる部分につくられた石畳が残っています。

「土手道」をさらに進むと、倉敷川に架かる高砂橋に着きます。いわゆる倉敷美観地区はここで終わります。

高砂橋の先に、平行して前神橋が架かっています。高砂橋は、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、湾曲した木の橋に「前神橋」と書かれているそうです。「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)にも、木の橋が書かれているようです。

高砂橋はかつては前神橋と呼ばれていて、昭和6(1931)年に、初めてコンクリート製の橋が架けられたそうです。そして、現在の前神橋は、昭和29(1954)年に、古い橋の下手に平行して新たに架けられたものだそうです。

先に書いた寛政3(1791)年の銘のある「常夜灯 石灯籠」は、前神橋の東詰めの船着き場に川灯台としてつくられたものだったようです。


前回も書きましたが、初めてじっくり見て回った倉敷美観地区でした。江戸時代以来の倉敷の歴史をたどって歩きました。いい勉強になりました。「絵図で歩く 倉敷のまち」に感謝しています。