トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

出雲往来を歩く、勝山宿

2012年06月30日 | 日記
松江藩、広瀬藩、津山藩等の参勤交代の道として、江戸時代初期、津山藩主森忠政によって整備された出雲往来。すでに、これまで土居宿(「惣門のある出雲街道の宿場町」2012年2月5日の日記)、勝間田宿(「金太郎ゆかりの石畳の宿場町」2012年4月30日の日記)、津山宿、坪井宿(「車で2分の小さな宿場町 旧出雲街道 坪井宿」2012年3月3日の日記)、久世宿(「出雲街道はどっちの道?真庭市久世町」2012年2月26日の日記)を訪ねました。この日は、久世宿の次の宿場町、勝山宿をゆっくりと歩いて来ました。

勝山宿は、江戸時代、出雲往来の宿場町であるとともに、三浦氏2万3千石の城下町でもありました。また、旭川を利用した高瀬舟の起点として、商業の中心地としても栄えました。

岡山県初の「町並み保存地区」に指定された真庭市勝山は、歩いてみたい日本の百カ所、「遊歩百選の町」に選定され、平成21年度の都市景観大賞(国土交通大臣賞)を受賞した美しい町でもあります。

「のれんがかかる城下町」としても知られています。それぞれのお宅が個性あふれるデザインののれんを、自己負担でつくって飾る、市民が主体的に取り組む町づくりを進めています。

スタートは、白壁を連想させるJR中国勝山駅。すぐ前を、国道181号線が東西に走っています。この道を右(東)に、10分ぐらい歩くと、岡山県立勝山高校の正門に向かう道が、北に延びています。

この道は、江戸時代、勝山高校の裏、太鼓山の南麓にある高田神社の参道でした。太鼓山は、明和3(1766)年に、時を知らせる太鼓櫓を建てたために、こう呼ばれるようになりました。

高田神社です。近郷の氏神として信仰を集めてきました。久寿2(1155)年、熊野神社を勧請して創建されました。

坂を登ったところにある本殿は、寛文11(1671)年の建築。入母屋式、檜皮葺き、妻入で正面に唐破風の向拝をもつ中山造で、南に向いて建っています。高田神社の前には、勝山高校の校舎とグランドがありました。

駅前に戻ります。北に向かう坂道を登り、台地の上に出ます。

道の突き当たりは、太鼓山南麓にある玉雲宮です。この一帯は、勝山の神社、仏閣が並んでいる地域です。先ほどの高田神社は、玉雲宮の右隣にある化生寺のさらに右隣にありました。玉雲宮に向かうこの道は、かつての大手道。南は、登ってきた坂にある建設会館の西側の石段まで続いていました。

この大手道は、武家屋敷の中心線になっています。その両側に200戸近い武家屋敷が立っていました。大手道の西側は上級武士の屋敷町になっていて、100坪の屋敷地と25坪の居宅が与えられたそうです。

これは、現存する唯一の武家屋敷、渡辺唐兵衛の屋敷跡。渡辺家は安政(1854~1859年)期には、200石取りで、役料16人扶持の上級武士でした。武士の居宅には「切腹」をする時のために、必ず「仏間」がつくられたと聞いていましたが、ここにはありませんでした。窓口の女性にお聞きすると、「お宮さんを祀っている部屋はありますよ」とのことでした。

大手道の東側には下級武士の屋敷町が広がっていました。茶の木で区画された狭い屋敷に住んでいたと言われています。

駅前に戻って、旧出雲往来に沿って歩きます。国道181号線の北の通り、新町に入ります。10mぐらい入ったところに「旅館朝日屋」の看板があるお宅があります。このあたりに、かつて、番所が置かれていました。「ひのきぶたい」と書かれているように、通りの両側にひのきの木組みがつくられていて、ウッドストリートと名付けられています。

街灯の下につり下げられた風鈴の音が迎えてくれました。出雲往来北側の北新町は、明治初年には41戸(136人)、南側の南新町には、34戸(138人)が居住していたということです。左側にあった旦酒店。
ここには、戦時中、疎開していた谷崎潤一郎が一時滞在していたと、町の方からお聞きしました。

津山信用金庫勝山支店の先、文化センターの端に恵比寿堂がありました。勝山宿の繁栄を願って祀られた小さな祠ですが、元禄時代の絵地図にも描かれていたといいます。平成14(2002)年に、元の場所であるこの地に帰ってきたそうです。

まっすぐ行けば、旭川にかかる鳴門橋(下橋)ですが、ここで、旧出雲往来は右に曲がり、岡山県指定の「町並み保存地区」に入ります。トマト銀行から先は、中川町。出雲往来の東側には高田用水があり、町並みが西側だけにあったので、片原町と呼ばれたこともありました。

伝統的な町並みが続いています。銘菓「二万三千石」で知られる京菓子店。中川町には、明治初年、44戸(195人)が居住していたということです。

浄土真宗大雲寺。ここから先は、下町になります。ここも、伝統的な民家が並んでいます。通りの右側を流れていた「高田用水」は、この先、民家の下を流れることになります。

幅1,2m、長さ1,5kmで、農業用水としてつくられました。生活用水としても使われているように、澄んだ水が流れています。室町時代につくられたといわれています。明治初年の居住者は45戸(158人)。明治末から大正末にかけて、この町は、勝山で最もにぎやかなところだったそうです。

通りの右手に「郷宿」と書かれた建物が見えてきます。江戸時代の公事宿(くじやど)で、訴訟のために城下にやってきた人が泊まる藩公認の宿でした。京都の公事宿鯉屋を舞台に、京都町奉行所の与力を弟に持つ田村菊太郎が、次々に起きる事件を解決していく、「公事宿事件書留帳」(澤田ふじ子著)シリーズで、その存在が広く知られるようになりました。この郷宿は、明治になってから、郷宿としての機能を失い、染物業を営む高田屋の所有となったと言われています。

郷宿の先の路地を右折して、旦坂を登っていくと、先ほどの妙円寺、玉雲宮、化生寺、高田神社など、神社、仏閣が連なる道になっていきます。その手前の店先に断面が菱形の道標が立っていました。

北から見て正面に「左 玉雲宮」、右面に「すぐ かみがた」と刻まれており、左の坂道を上がると玉雲宮へ、まっすぐ行けば上方方面に向かうことを示しています。裏には、「文政四年 真嶋屋茂兵衛」と刻まれ、この道標は真嶋屋茂兵衛がつくったことがわかります。

これは、町に立つ案内板です。これによると、左方面に旦坂を登っていく道(緑色)が出雲往来だとしております。これは、「勝山町史」の説に従ったからだと言われています。

しかし、岡山文庫「城下町勝山ぶらり散歩」は、
① この道標に「すぐ かみがた」と刻まれてあること
② 武家屋敷の背後を街道が通ることに対する疑問
③ 元禄期、享保期の絵図には旦坂を登る道が描かれていないこと
④ 久世方面に行くのに旦坂を登ることを禁じたという、
 記録(「御先格見出」)があることから、ここは、まっすぐに行く道が出雲往来だったと説明しています。  

つまり、新町から中川町、下町、中町と歩いてきた道が、旧出雲街道であったということです。(案内図では、上から旭川を渡って来た緑色の道は途中で曲がらないで、まっすぐ新町まで行き、国道181号線の一つ北の四つ角を左折して駅前で国道181号線に合流する道です)

なお、郷宿の隣の水島呉服店には、疎開していた谷崎潤一郎の机や手紙、送別会の写真が残っていて、深い交流があったことが伺えます。

郷宿の前を左に折れて進むと、旭川にかかる中橋にいたります。元禄年間、当時架かっていた上橋以外にも橋を架けてほしいという、中町、下町等の住民の要求で、40年後に幕府の裁定で、下橋(鳴門橋)とともに掛けられた橋です。そのときの「幅1間」の約束が今も守られていて、車の入れない歩道専用橋となっています。

この橋の東詰に石碑が残っています。江戸時代の船着き場は、JR勝山駅の裏に当たる浜地区にありました。明治に入ると上町、中町、下町等の人々が、鳴門(下)橋を浚渫して、上町まで高瀬舟を引き上げることができたそうです。橋の下の上下流一帯で、荷の積み下ろしをしたようです。ここは、荷の積み下ろし場の跡が今も完全に残っており、当時の面影を伝えてくれています。

また、中橋から見える城山(左)と太鼓山(右)、その下の民家の姿はすばらしく、勝山で最も美しい光景と言われています。太鼓山の南麓が、高田神社など神社・仏閣や武家屋敷が並ぶ地域になっています。

出雲往来に戻って、西側の2軒目が郷土資料館。このあたりは、中町です。明治初年には、49戸(225人)が居住していました。

郷土資料館の向かいの清友醤油店は、屋根の修理をしていました。入口には、醤油を船着き場まで運んだレールが、まだ残っているそうです。しかし、公開されていないので、見学はご遠慮しました。

旦坂を登ると、太鼓山の南麓の、神社・仏閣が並ぶ通りになります。最初にあるのが、安養寺。「文化往来館ひしお」にくっつくようにして山門がありました。(「ひしお」は、清友醤油店の醤油蔵を建て替えたもので、敷地内に大きな醸造桶が飾ってありました)

ここは、勝山藩主三浦家の菩提寺です。本堂に裏の小高いところに、白壁の土塀に囲まれて藩主の墓が残っています。お掃除も草取りがきちんとなされていました。お殿様もさぞかし喜んでおられることでしょう。この道を進むと、右側奥に武家屋敷館の渡辺唐兵衛の屋敷、左側には、妙円寺から高田神社まで神社・仏閣が続きます。

再び、町並み保存地区に戻り、旭川の上流に向かって進みます。出雲往来の両側には、「町並み保存地区」が続きます。上町の民家ののれんも折りからの風にはためいています。

その中に、「まし満や」と書かれたのれんを掛けたお宅がありました。すぐ、浮かんできたのが、郷宿の前(旦坂)の道標をつくった、真嶋屋茂兵衛さん。真嶋屋は、山中刻み煙草の製造販売で財をなしました。茂兵衛さんのご実家がここなのでしょうか?

この駐車場のあたりが、勝山の豪商、金田氏の屋敷跡。江戸時代には、宿場の本陣を兼ねていたと言われています。

出雲往来は、三差路で左に曲がり神(上)橋を渡りましたが、カーブのところに2つの道標が並んでいました。

1つは、出雲往来を整備した津山藩主の森氏が往来沿いに建てた、同じ規格の道標です。  「是より右ゆばら」、「元禄二年三月」と刻まれています。ちなみに、元禄2年は1689年です。川から堀りだされたらしく表面がすべすべしていました。もう1つの大きい方の道標は、嘉永6(1853)年に建てられたもの。
 (西側) 右 京 大坂往来
 (南側) 南 雲伯往来    (東側)大仙 倉吉道
と刻まれていました。こちらは、庶民の旅が盛んになった江戸後期のもので、高さ1,5m、 25cm角の立派なものでした。
 
神橋を渡って来た旅人から見て、正面の突き当たりにあるのが、「おにのすみか」という居酒屋になっている、かつての玉屋です。建物は300年以上の歴史を刻んでいます。郷土資料館に、「めあらい薬」の、大きな木製の看板(元禄元年製)が展示してありますが、ここが、その玉屋の跡でした。

神橋(上橋)です。勝山宿の西の出入口にあたります。江戸初期の寛文5(1665)年に、初めて土橋が架かりました。元禄期には「高田橋」と呼ばれていました。津山方面からの旅人は、神橋を渡って、対岸の西町を通って美甘宿方面に向かって行きます。

寅さんシリーズの最終作で、利き酒に酔ってこの橋を歩くシ-ンが撮影されたところのようです。明治初期、上町には25戸(94人)が居住していたそうです。

玉屋の前をまっすぐ進むと、道の両側の広い敷地に、辻本店の酒造場があります。江戸時代の文化年間創業という老舗酒造業の辻本店。かつては「萬悦」のブランドでしたが、「御前酒」と替えてから人気が出て、岡山県では「御前酒と言えば勝山の辻本店」と言われるほど、広く知られています。屋号が「炭屋」で、もとは炭を扱っていたとのことです。

辻本店の敷地に祀られていた恵比寿堂です。新町の文化センターのところにもありました。こちらも元禄時代の絵地図に載せられています。このあたりは、山本町。明治初期には25戸(94人)が居住していました。

この先には、藩主三浦家のお屋形があり、その境には木戸がつくられていて町人が自由に行き来することはできなかったようです。

旧真庭市役所。ここが、藩主三浦家のお屋形があったところです。勝山初代藩主の三浦明次は、お屋形の完成を待って、明和7(1772)年に江戸から入ってきました。転封が決まってから7年後のことでした。三浦家は、ここまで4度目の転封、財政的にもかなり厳しい状況でした。幸い、これ以後は、明治維新まで10代にわたって勝山の地にとどまることになりました。明治維新後の明治6(1874)年に、屋形は競売にかけられ、1361円で売却されたとのこと。旧市役所は、その時の競売で残ったところで、その前の駐車場になっているところに、大手御門が、西に向いて建っていたと言われています。この門は、宿場の本陣役を兼ねていた金田氏が建てたと言われています。参勤交代の時には、この門から出発し、出雲往来に沿って久世に向かって進んで行きました。

出雲街道の宿場町、三浦氏2万3千石の城下町、そして、旭川の水運を利用した高瀬舟の起点。様々な顔を持つ勝山。今は、伝統ある建築物をそのまま生かしたお店がたくさん営業しています。町の人々が力を合わせて町づくりを推進しています。
それが、のれんと3月のひなまつり。
勝山は、山と川に囲まれた山間の魅力あふれる町でした。



今年もひまわりが咲いた! 岡山一番街

2012年06月17日 | 日記
岡山一番街に夏が来ました!

JR岡山駅の地下改札口の前に、
今年もひまわりが飾られました。
白い柏葉(かしわば)あじさいとのマッチングが
絶妙です。

去年も、一年で一番昼間の長いこの季節に、
ひまわりは、ここで咲いていました。
ひまわりが来て、夏が来ました。
あれから1年。

しとしとと雨の降る梅雨になり、
あの暑苦しい瀬戸内の夏を迎えて。
そういえば、去年の夏は台風が岡山市を直撃しました。
南区には避難勧告がでたんだよね。

秋になり、冬が来て新しい年を迎えました。
門松とともに・・・・?
そして、一番街にチューリップが咲いて
春になりました。

一番街は、人の流れが多くなっているように感じます。
JR倉敷市の西口に、アウトレットモールができてから、
毎日多くの人を集めています。
その波及効果が一番街にも表れていると言われています。
歩いてみて、なるほどと思います。

ひまわりに惹かれて一番街に足を向ける人には、
スカイツリーとディズニーリゾートのチケットが
当たるかも知れませんね。
何かすかっとしない、今日この頃、
多くの人で賑わうといいですね。
ひまわりもそれを望んでいることでしょう。

98度のお湯が湧く湯村温泉

2012年06月12日 | 日記
「1泊2食付きで7,800円」というパンフレットを目にして
急に行ってみたくなって、家人とともに行ってきました。
兵庫県北部の湯村温泉に。

湯村温泉と聞いてすぐに連想したのは、政府登録国際観光旅館の
井筒屋でした。
家の近くに住んでる方が、
「井筒屋で但馬牛を食べてきた」というのを、
これまでよく聞いていたからです。

高松からの乗客を乗せてやってきたバスは、
岡山駅付近を10時に出発しました。
このバスは、最近話題にのぼっている、
「高速ツアーバス」という範疇に入るのだと思いますが、
高速道路は中国道と鳥取道の一部だけで、
一般道を走る時間の方が多かったという印象でした。

途中の鳥取砂丘で昼食と休憩がありました。
時間があったので、砂丘のらくだを見に行きました。

また、割引券をいただいたので、「砂の美術館」にも入りました。
絶対王政時代の「エリザベス一世」像。
砂でつくったとは思えないほどのすばらしさでした。

15時に湯村温泉に着きました。

「1泊2食付きで、7,800円」という設定のため、
夕食は、18時30分から、
セルフサービスで食べることになっていました。
私は、
部屋で仲居さんにお世話をしていただいて食べる温泉宿の食事に、
息苦しさを感じてしまうタイプなので、
セルフサービスは歓迎です。

チェックインして、すぐに露天風呂に向かいました。
脱衣場で着替えて入ります。

もう少し熱くてもいいかなという印象でした。
あがってから帰るとき、
露天風呂と客室を結ぶ長い渡り廊下から、
男性用の露天風呂がのぞけることに気がつきました。

湯村温泉は、かつての湯村温泉町と、
温泉と漁港で知られる浜坂町とが合併してできた、
兵庫県美方郡新温泉町にあります。

歓楽街的な雰囲気をさがしましたが、これだけでした。
廃業した映画館跡か、劇場の跡かは定かではありませんが・・。

落ち着いた雰囲気の温泉町でした。

源泉の温度は98度、毎分470リットルが湧き出ているそうです。
泉温98度というのは日本一の高温なのだそうです。

仕切りの中に卵をつり下げて、
温泉で茹でて温泉卵をつくる人が多くいました。

そのため、町内には「たまご」を置いている店がたくさんありました。

湯村温泉は、
遣唐使として渡った唐からの帰途、
山陰を通った円仁(えんにん)によって発見されたといわれています。
嘉祥元(848)年のことだったそうです。
かれは、没後「慈覚大師」の大師号を贈られました。
春来川畔の源泉の荒湯(あらゆ)の脇に彼の像がつくられています。

春来川沿いには、足湯が並んでいます。
冬には春来川からも湯気があがるといわれ、
昔から川の中に足を付けていたと伝えられています。
今も多くの方が足湯を楽しんでいます。

外湯の薬師湯です。
もとの役場の跡につくられました。
唐様の門が印象的です。

湯村温泉の名を日本中に広めたのは、
吉永小百合の主演で制作された「夢千代日記」でした。
荒湯を見下ろすところに、吉永小百合そっくりの
夢千代像が立っています。

胎内被曝者である夢千代が、母親から引き継いだ
湯村温泉の芸者の置屋でひき起こされる、
さまざまな人間模様を描いた作品です。
夢千代像のそばには、早坂暁や三田佳子など、
関係者の手形が飾ってあります。
吉永小百合の「夢一途」の手形です。

「夢千代館」です。

放映された「夢千代日記」のセットや衣装が展示されています。

撮影の時に、吉永小百合が着ていた着物だそうです。

これは、湯村温泉が発見された嘉祥元(848)年創建の正福寺。

ここには、一つの花にめしべが2~4本ある珍種の八重桜があります。
もちろん、今はその季節ではなく確認できませんでした。

「湯が出る村」から名づけられたと思われる湯村温泉。
周囲の環境も湯の量も質も、すばらしいところでした。

帰りも同じ「高速ツアーバス」です。
湯村温泉に15時に到着して、宿泊客を降ろした後、
15時30分には、帰りの客を乗せて出発します。
岡山駅付近に到着するのは、19時30分頃です。
ドライバーは2人乗車しておられましたが、
ドライバーにとっても、
かなりタフなコースだったのではないでしょうか。









”MOMO 2”と岡山電気軌道

2012年06月06日 | 日記

”タマ駅長”で、和歌山電鉄を再建したことによって、全国に知られるようになった岡山電気軌道。
本家の岡山市の路面電車は、”オカデン”の愛称で広く知られています。オカデンの車両にも、”TAMA”が描かれています。

この車両は、”MOMO2”(1011A・1011B)。
岡山電気軌道の開業100周年を記念して、1編成2億8000万円で建造し、平成23(2011)年10月にデビューしました。

”オカデン”は、明治45(1912)年5月5日、岡山駅前と内山下分岐点(現在の東山線の城下=しろした電停)間で
開業しました。後ろに乗った車掌が、運転席まで張られたロープを引いて、運転席にあるベルを鳴らして合図する「チンチン電車」でした。

開業後、5月の1ヶ月間に、57万人が乗車したとのことです。ちなみに、当時の岡山市の人口は10万人、県全体で120万人だったようです。大人気だったのですね。(しかし、長くは続かず、経営的に苦しい時期がずっと続いていきます。
後に、バスを運行していた両備バスと合併し、現在も、両備グループの一員になっています。)

そして、開業してから1ヶ月後の6月1日、城下から、当時岡山市最大の繁華街だった西大寺町まで延伸しました。

”MOMO 2”は2両固定編成で、高齢者に優しい低床式車両です。
岡山駅からの先頭車両となる1011Aは、車内が白色で統一されています。

岡山駅寄りの車両1011Bは、天井も床も座席も黒一色です。どちらも料金投入箱の赤い塗装が引き立っています。

”MOMO 2”という名前からわかるように、丸みを帯びた車体は、平成14(2002)年に初めて導入された、元祖”MOMO”と、基本的なデザインは同じです。どちらも、木材をふんだんに使用していて、JR九州の個性的な車両の設計者として有名な、水戸岡鋭治さんの設計によるものです。
なお、”MOMO”は2億3000万円。国県市の補助金1億1000万円と市民の募金500万円も建造に貢献しています。

さて、これは”MOMO 2”の運転席。

運転席の後ろ側にある電光掲示板。停車する前に、駅(停留所)名と料金が表示されます。いずれもすっきりとした、機能的なデザインです。

100周年記念車両という”MOMO 2”なので、車内には、記念の写真も掲示されています。これは、昭和20(1945)年の6月29日の岡山空襲の跡の写真。焼け野原になった岡山市街地を、9月9日に復活した”オカデン”が、乗客を乗せて走っているようすを伝えています。

現在、”オカデン”は、岡山駅前ー東山線と岡山駅前ー清輝橋線の2系統4.7kmで営業運転しています。

私は、この4月から清輝橋線を利用して通勤するようになりました。

岡山駅前のオカデン乗り場です。右側が東山行、左側が清輝橋行のホームです。

これは、清輝橋行の終点、清輝橋電停。屋根がついたホームです。

駅名表示と、次の電車の到着時間の案内表示です。

オレンジ色で表示された部分は、”MOMO”または”MOMO 2”の運行であることを、示しています。

概ね10分ごとに、電車はやってきます。時間を気にしないで乗車することができます。

清輝橋線は、昭和21(1946)年、清輝橋電停まで延長されました。それ以前の終点は、大雲寺電停でした。新西大寺町の入り口付近に、おかやま信用金庫内山下支店があります。

その脇を、南東に斜めに入っていく道の先に、大雲寺電停跡があったと言われますが、残念ながら、当時を示す面影はまったく残っていませんでした。

その他の車両です。”MOMO”と”MOMO 2”以外は、ほとんど、車体に広告を載せて走っています。

車両は全部で21両。平成の時代になってから改造された車両が中心です。

岡山市街地の柳川交差点にある32階建てのマンション、グレースタワーは、同じ両備グループの両備不動産が建設しました。その下を走るオカデンです。

オカデンの1日平均輸送人員は約9500人。年間約330万人が利用しています。売上高は4億円弱。岡山電気軌道全体の4分の1程度を占めています。毎日、乗車するようになって改めて感じましたが、サービスの行き届いた、楽しい電車になっています。