松江藩、広瀬藩、津山藩等の参勤交代の道として、江戸時代初期、津山藩主森忠政によって整備された出雲往来。すでに、これまで土居宿(「惣門のある出雲街道の宿場町」2012年2月5日の日記)、勝間田宿(「金太郎ゆかりの石畳の宿場町」2012年4月30日の日記)、津山宿、坪井宿(「車で2分の小さな宿場町 旧出雲街道 坪井宿」2012年3月3日の日記)、久世宿(「出雲街道はどっちの道?真庭市久世町」2012年2月26日の日記)を訪ねました。この日は、久世宿の次の宿場町、勝山宿をゆっくりと歩いて来ました。
勝山宿は、江戸時代、出雲往来の宿場町であるとともに、三浦氏2万3千石の城下町でもありました。また、旭川を利用した高瀬舟の起点として、商業の中心地としても栄えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/fc/037e5924e4783d0a26b168544d6f5685.jpg)
岡山県初の「町並み保存地区」に指定された真庭市勝山は、歩いてみたい日本の百カ所、「遊歩百選の町」に選定され、平成21年度の都市景観大賞(国土交通大臣賞)を受賞した美しい町でもあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/2b/6cd638c1a91bc7c0bb3df6fdc849edc8.jpg)
「のれんがかかる城下町」としても知られています。それぞれのお宅が個性あふれるデザインののれんを、自己負担でつくって飾る、市民が主体的に取り組む町づくりを進めています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/19/a491278dce35691b09e65f4c3a59fe17.jpg)
スタートは、白壁を連想させるJR中国勝山駅。すぐ前を、国道181号線が東西に走っています。この道を右(東)に、10分ぐらい歩くと、岡山県立勝山高校の正門に向かう道が、北に延びています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/86/be724640973f38bf8d3af84a04bd6df3.jpg)
この道は、江戸時代、勝山高校の裏、太鼓山の南麓にある高田神社の参道でした。太鼓山は、明和3(1766)年に、時を知らせる太鼓櫓を建てたために、こう呼ばれるようになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/bc/9bfa3f42ef8b5d49d0d436e4ab980e6f.jpg)
高田神社です。近郷の氏神として信仰を集めてきました。久寿2(1155)年、熊野神社を勧請して創建されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/f4/ed618d6a3309cc69d056fd3539fdbeb1.jpg)
坂を登ったところにある本殿は、寛文11(1671)年の建築。入母屋式、檜皮葺き、妻入で正面に唐破風の向拝をもつ中山造で、南に向いて建っています。高田神社の前には、勝山高校の校舎とグランドがありました。
駅前に戻ります。北に向かう坂道を登り、台地の上に出ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/ee/c5bb24acb856d6caa3d3ec4695a88528.jpg)
道の突き当たりは、太鼓山南麓にある玉雲宮です。この一帯は、勝山の神社、仏閣が並んでいる地域です。先ほどの高田神社は、玉雲宮の右隣にある化生寺のさらに右隣にありました。玉雲宮に向かうこの道は、かつての大手道。南は、登ってきた坂にある建設会館の西側の石段まで続いていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/e1/b29a5c7ca621f139a74aab68b52817f7.jpg)
この大手道は、武家屋敷の中心線になっています。その両側に200戸近い武家屋敷が立っていました。大手道の西側は上級武士の屋敷町になっていて、100坪の屋敷地と25坪の居宅が与えられたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/31/0f081d39730786c687c982ad629db05f.jpg)
これは、現存する唯一の武家屋敷、渡辺唐兵衛の屋敷跡。渡辺家は安政(1854~1859年)期には、200石取りで、役料16人扶持の上級武士でした。武士の居宅には「切腹」をする時のために、必ず「仏間」がつくられたと聞いていましたが、ここにはありませんでした。窓口の女性にお聞きすると、「お宮さんを祀っている部屋はありますよ」とのことでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/00/51ddd56cef0f838c5fc970cc67ac5f0e.jpg)
大手道の東側には下級武士の屋敷町が広がっていました。茶の木で区画された狭い屋敷に住んでいたと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/d0/718ff4221baf74e66f4923a92cec3227.jpg)
駅前に戻って、旧出雲往来に沿って歩きます。国道181号線の北の通り、新町に入ります。10mぐらい入ったところに「旅館朝日屋」の看板があるお宅があります。このあたりに、かつて、番所が置かれていました。「ひのきぶたい」と書かれているように、通りの両側にひのきの木組みがつくられていて、ウッドストリートと名付けられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/42/e9da012066f34bddf4774b472f37f15b.jpg)
街灯の下につり下げられた風鈴の音が迎えてくれました。出雲往来北側の北新町は、明治初年には41戸(136人)、南側の南新町には、34戸(138人)が居住していたということです。左側にあった旦酒店。
ここには、戦時中、疎開していた谷崎潤一郎が一時滞在していたと、町の方からお聞きしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/e3/7d7193dadec416fa59acbbed7975609a.jpg)
津山信用金庫勝山支店の先、文化センターの端に恵比寿堂がありました。勝山宿の繁栄を願って祀られた小さな祠ですが、元禄時代の絵地図にも描かれていたといいます。平成14(2002)年に、元の場所であるこの地に帰ってきたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/87/6e4b40913648112d36666482ba968cdc.jpg)
まっすぐ行けば、旭川にかかる鳴門橋(下橋)ですが、ここで、旧出雲往来は右に曲がり、岡山県指定の「町並み保存地区」に入ります。トマト銀行から先は、中川町。出雲往来の東側には高田用水があり、町並みが西側だけにあったので、片原町と呼ばれたこともありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e3/b04013cf0a5b76b0ba9f7ae3798f5e41.jpg)
伝統的な町並みが続いています。銘菓「二万三千石」で知られる京菓子店。中川町には、明治初年、44戸(195人)が居住していたということです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/16/564c524759987e4047a8db05ede1df1f.jpg)
浄土真宗大雲寺。ここから先は、下町になります。ここも、伝統的な民家が並んでいます。通りの右側を流れていた「高田用水」は、この先、民家の下を流れることになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/78/75e10458fe3b0c95d707d2ef44b63258.jpg)
幅1,2m、長さ1,5kmで、農業用水としてつくられました。生活用水としても使われているように、澄んだ水が流れています。室町時代につくられたといわれています。明治初年の居住者は45戸(158人)。明治末から大正末にかけて、この町は、勝山で最もにぎやかなところだったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/cf/1119d16eb9eaeb4154ba18338f6c38b5.jpg)
通りの右手に「郷宿」と書かれた建物が見えてきます。江戸時代の公事宿(くじやど)で、訴訟のために城下にやってきた人が泊まる藩公認の宿でした。京都の公事宿鯉屋を舞台に、京都町奉行所の与力を弟に持つ田村菊太郎が、次々に起きる事件を解決していく、「公事宿事件書留帳」(澤田ふじ子著)シリーズで、その存在が広く知られるようになりました。この郷宿は、明治になってから、郷宿としての機能を失い、染物業を営む高田屋の所有となったと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/c6/7eaa6ec4ef9e817521eeae4fe61b237e.jpg)
郷宿の先の路地を右折して、旦坂を登っていくと、先ほどの妙円寺、玉雲宮、化生寺、高田神社など、神社、仏閣が連なる道になっていきます。その手前の店先に断面が菱形の道標が立っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/04/35bd8ad544118f30ab45543cfbc66788.jpg)
北から見て正面に「左 玉雲宮」、右面に「すぐ かみがた」と刻まれており、左の坂道を上がると玉雲宮へ、まっすぐ行けば上方方面に向かうことを示しています。裏には、「文政四年 真嶋屋茂兵衛」と刻まれ、この道標は真嶋屋茂兵衛がつくったことがわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/5e/aa2023d67b922388f69bb06ff76353c0.jpg)
これは、町に立つ案内板です。これによると、左方面に旦坂を登っていく道(緑色)が出雲往来だとしております。これは、「勝山町史」の説に従ったからだと言われています。
しかし、岡山文庫「城下町勝山ぶらり散歩」は、
① この道標に「すぐ かみがた」と刻まれてあること
② 武家屋敷の背後を街道が通ることに対する疑問
③ 元禄期、享保期の絵図には旦坂を登る道が描かれていないこと
④ 久世方面に行くのに旦坂を登ることを禁じたという、
記録(「御先格見出」)があることから、ここは、まっすぐに行く道が出雲往来だったと説明しています。
つまり、新町から中川町、下町、中町と歩いてきた道が、旧出雲街道であったということです。(案内図では、上から旭川を渡って来た緑色の道は途中で曲がらないで、まっすぐ新町まで行き、国道181号線の一つ北の四つ角を左折して駅前で国道181号線に合流する道です)
なお、郷宿の隣の水島呉服店には、疎開していた谷崎潤一郎の机や手紙、送別会の写真が残っていて、深い交流があったことが伺えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/b7/a6a34128c8b79df46756be3c5653fb45.jpg)
郷宿の前を左に折れて進むと、旭川にかかる中橋にいたります。元禄年間、当時架かっていた上橋以外にも橋を架けてほしいという、中町、下町等の住民の要求で、40年後に幕府の裁定で、下橋(鳴門橋)とともに掛けられた橋です。そのときの「幅1間」の約束が今も守られていて、車の入れない歩道専用橋となっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/81/ddb5024fc464cf4db20079bf5427850b.jpg)
この橋の東詰に石碑が残っています。江戸時代の船着き場は、JR勝山駅の裏に当たる浜地区にありました。明治に入ると上町、中町、下町等の人々が、鳴門(下)橋を浚渫して、上町まで高瀬舟を引き上げることができたそうです。橋の下の上下流一帯で、荷の積み下ろしをしたようです。ここは、荷の積み下ろし場の跡が今も完全に残っており、当時の面影を伝えてくれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/5b/35b6553b77acaa91b13d20840110a1de.jpg)
また、中橋から見える城山(左)と太鼓山(右)、その下の民家の姿はすばらしく、勝山で最も美しい光景と言われています。太鼓山の南麓が、高田神社など神社・仏閣や武家屋敷が並ぶ地域になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/1b/155dcc48f022ee1438f73dfa4301a412.jpg)
出雲往来に戻って、西側の2軒目が郷土資料館。このあたりは、中町です。明治初年には、49戸(225人)が居住していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/8a/b3500021922c7efcb28676e22a77962f.jpg)
郷土資料館の向かいの清友醤油店は、屋根の修理をしていました。入口には、醤油を船着き場まで運んだレールが、まだ残っているそうです。しかし、公開されていないので、見学はご遠慮しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/b2/726bfa8e05f2d57351e856d707b1fcec.jpg)
旦坂を登ると、太鼓山の南麓の、神社・仏閣が並ぶ通りになります。最初にあるのが、安養寺。「文化往来館ひしお」にくっつくようにして山門がありました。(「ひしお」は、清友醤油店の醤油蔵を建て替えたもので、敷地内に大きな醸造桶が飾ってありました)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e9/fc8f4769068f9f6de2941017858abefb.jpg)
ここは、勝山藩主三浦家の菩提寺です。本堂に裏の小高いところに、白壁の土塀に囲まれて藩主の墓が残っています。お掃除も草取りがきちんとなされていました。お殿様もさぞかし喜んでおられることでしょう。この道を進むと、右側奥に武家屋敷館の渡辺唐兵衛の屋敷、左側には、妙円寺から高田神社まで神社・仏閣が続きます。
再び、町並み保存地区に戻り、旭川の上流に向かって進みます。出雲往来の両側には、「町並み保存地区」が続きます。上町の民家ののれんも折りからの風にはためいています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/5f/98fb027bf3c4e3879777e1e1991d7a0d.jpg)
その中に、「まし満や」と書かれたのれんを掛けたお宅がありました。すぐ、浮かんできたのが、郷宿の前(旦坂)の道標をつくった、真嶋屋茂兵衛さん。真嶋屋は、山中刻み煙草の製造販売で財をなしました。茂兵衛さんのご実家がここなのでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/4d/491996da71ed94e540e6c685d275141f.jpg)
この駐車場のあたりが、勝山の豪商、金田氏の屋敷跡。江戸時代には、宿場の本陣を兼ねていたと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/85/1700c152991d13dcd7463c25fc956307.jpg)
出雲往来は、三差路で左に曲がり神(上)橋を渡りましたが、カーブのところに2つの道標が並んでいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/ff/2696519d7d571f888f1d21e958c55ec7.jpg)
1つは、出雲往来を整備した津山藩主の森氏が往来沿いに建てた、同じ規格の道標です。 「是より右ゆばら」、「元禄二年三月」と刻まれています。ちなみに、元禄2年は1689年です。川から堀りだされたらしく表面がすべすべしていました。もう1つの大きい方の道標は、嘉永6(1853)年に建てられたもの。
(西側) 右 京 大坂往来
(南側) 南 雲伯往来 (東側)大仙 倉吉道
と刻まれていました。こちらは、庶民の旅が盛んになった江戸後期のもので、高さ1,5m、 25cm角の立派なものでした。
神橋を渡って来た旅人から見て、正面の突き当たりにあるのが、「おにのすみか」という居酒屋になっている、かつての玉屋です。建物は300年以上の歴史を刻んでいます。郷土資料館に、「めあらい薬」の、大きな木製の看板(元禄元年製)が展示してありますが、ここが、その玉屋の跡でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/5b/e9f0dc34dc6ab47eba9c1090975815eb.jpg)
神橋(上橋)です。勝山宿の西の出入口にあたります。江戸初期の寛文5(1665)年に、初めて土橋が架かりました。元禄期には「高田橋」と呼ばれていました。津山方面からの旅人は、神橋を渡って、対岸の西町を通って美甘宿方面に向かって行きます。
寅さんシリーズの最終作で、利き酒に酔ってこの橋を歩くシ-ンが撮影されたところのようです。明治初期、上町には25戸(94人)が居住していたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/bb/ab59b696a31c43d50ab11f7b2768ac57.jpg)
玉屋の前をまっすぐ進むと、道の両側の広い敷地に、辻本店の酒造場があります。江戸時代の文化年間創業という老舗酒造業の辻本店。かつては「萬悦」のブランドでしたが、「御前酒」と替えてから人気が出て、岡山県では「御前酒と言えば勝山の辻本店」と言われるほど、広く知られています。屋号が「炭屋」で、もとは炭を扱っていたとのことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/2e/d3b7504ab2c28f89b9c27525ef2f1aba.jpg)
辻本店の敷地に祀られていた恵比寿堂です。新町の文化センターのところにもありました。こちらも元禄時代の絵地図に載せられています。このあたりは、山本町。明治初期には25戸(94人)が居住していました。
この先には、藩主三浦家のお屋形があり、その境には木戸がつくられていて町人が自由に行き来することはできなかったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2f/747fcdd05b614d5ef0e9a746f8133c77.jpg)
旧真庭市役所。ここが、藩主三浦家のお屋形があったところです。勝山初代藩主の三浦明次は、お屋形の完成を待って、明和7(1772)年に江戸から入ってきました。転封が決まってから7年後のことでした。三浦家は、ここまで4度目の転封、財政的にもかなり厳しい状況でした。幸い、これ以後は、明治維新まで10代にわたって勝山の地にとどまることになりました。明治維新後の明治6(1874)年に、屋形は競売にかけられ、1361円で売却されたとのこと。旧市役所は、その時の競売で残ったところで、その前の駐車場になっているところに、大手御門が、西に向いて建っていたと言われています。この門は、宿場の本陣役を兼ねていた金田氏が建てたと言われています。参勤交代の時には、この門から出発し、出雲往来に沿って久世に向かって進んで行きました。
出雲街道の宿場町、三浦氏2万3千石の城下町、そして、旭川の水運を利用した高瀬舟の起点。様々な顔を持つ勝山。今は、伝統ある建築物をそのまま生かしたお店がたくさん営業しています。町の人々が力を合わせて町づくりを推進しています。
それが、のれんと3月のひなまつり。
勝山は、山と川に囲まれた山間の魅力あふれる町でした。
勝山宿は、江戸時代、出雲往来の宿場町であるとともに、三浦氏2万3千石の城下町でもありました。また、旭川を利用した高瀬舟の起点として、商業の中心地としても栄えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/fc/037e5924e4783d0a26b168544d6f5685.jpg)
岡山県初の「町並み保存地区」に指定された真庭市勝山は、歩いてみたい日本の百カ所、「遊歩百選の町」に選定され、平成21年度の都市景観大賞(国土交通大臣賞)を受賞した美しい町でもあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/2b/6cd638c1a91bc7c0bb3df6fdc849edc8.jpg)
「のれんがかかる城下町」としても知られています。それぞれのお宅が個性あふれるデザインののれんを、自己負担でつくって飾る、市民が主体的に取り組む町づくりを進めています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/19/a491278dce35691b09e65f4c3a59fe17.jpg)
スタートは、白壁を連想させるJR中国勝山駅。すぐ前を、国道181号線が東西に走っています。この道を右(東)に、10分ぐらい歩くと、岡山県立勝山高校の正門に向かう道が、北に延びています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/86/be724640973f38bf8d3af84a04bd6df3.jpg)
この道は、江戸時代、勝山高校の裏、太鼓山の南麓にある高田神社の参道でした。太鼓山は、明和3(1766)年に、時を知らせる太鼓櫓を建てたために、こう呼ばれるようになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/bc/9bfa3f42ef8b5d49d0d436e4ab980e6f.jpg)
高田神社です。近郷の氏神として信仰を集めてきました。久寿2(1155)年、熊野神社を勧請して創建されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/f4/ed618d6a3309cc69d056fd3539fdbeb1.jpg)
坂を登ったところにある本殿は、寛文11(1671)年の建築。入母屋式、檜皮葺き、妻入で正面に唐破風の向拝をもつ中山造で、南に向いて建っています。高田神社の前には、勝山高校の校舎とグランドがありました。
駅前に戻ります。北に向かう坂道を登り、台地の上に出ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/ee/c5bb24acb856d6caa3d3ec4695a88528.jpg)
道の突き当たりは、太鼓山南麓にある玉雲宮です。この一帯は、勝山の神社、仏閣が並んでいる地域です。先ほどの高田神社は、玉雲宮の右隣にある化生寺のさらに右隣にありました。玉雲宮に向かうこの道は、かつての大手道。南は、登ってきた坂にある建設会館の西側の石段まで続いていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/e1/b29a5c7ca621f139a74aab68b52817f7.jpg)
この大手道は、武家屋敷の中心線になっています。その両側に200戸近い武家屋敷が立っていました。大手道の西側は上級武士の屋敷町になっていて、100坪の屋敷地と25坪の居宅が与えられたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/31/0f081d39730786c687c982ad629db05f.jpg)
これは、現存する唯一の武家屋敷、渡辺唐兵衛の屋敷跡。渡辺家は安政(1854~1859年)期には、200石取りで、役料16人扶持の上級武士でした。武士の居宅には「切腹」をする時のために、必ず「仏間」がつくられたと聞いていましたが、ここにはありませんでした。窓口の女性にお聞きすると、「お宮さんを祀っている部屋はありますよ」とのことでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/00/51ddd56cef0f838c5fc970cc67ac5f0e.jpg)
大手道の東側には下級武士の屋敷町が広がっていました。茶の木で区画された狭い屋敷に住んでいたと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/d0/718ff4221baf74e66f4923a92cec3227.jpg)
駅前に戻って、旧出雲往来に沿って歩きます。国道181号線の北の通り、新町に入ります。10mぐらい入ったところに「旅館朝日屋」の看板があるお宅があります。このあたりに、かつて、番所が置かれていました。「ひのきぶたい」と書かれているように、通りの両側にひのきの木組みがつくられていて、ウッドストリートと名付けられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/42/e9da012066f34bddf4774b472f37f15b.jpg)
街灯の下につり下げられた風鈴の音が迎えてくれました。出雲往来北側の北新町は、明治初年には41戸(136人)、南側の南新町には、34戸(138人)が居住していたということです。左側にあった旦酒店。
ここには、戦時中、疎開していた谷崎潤一郎が一時滞在していたと、町の方からお聞きしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/e3/7d7193dadec416fa59acbbed7975609a.jpg)
津山信用金庫勝山支店の先、文化センターの端に恵比寿堂がありました。勝山宿の繁栄を願って祀られた小さな祠ですが、元禄時代の絵地図にも描かれていたといいます。平成14(2002)年に、元の場所であるこの地に帰ってきたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/87/6e4b40913648112d36666482ba968cdc.jpg)
まっすぐ行けば、旭川にかかる鳴門橋(下橋)ですが、ここで、旧出雲往来は右に曲がり、岡山県指定の「町並み保存地区」に入ります。トマト銀行から先は、中川町。出雲往来の東側には高田用水があり、町並みが西側だけにあったので、片原町と呼ばれたこともありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e3/b04013cf0a5b76b0ba9f7ae3798f5e41.jpg)
伝統的な町並みが続いています。銘菓「二万三千石」で知られる京菓子店。中川町には、明治初年、44戸(195人)が居住していたということです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/16/564c524759987e4047a8db05ede1df1f.jpg)
浄土真宗大雲寺。ここから先は、下町になります。ここも、伝統的な民家が並んでいます。通りの右側を流れていた「高田用水」は、この先、民家の下を流れることになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/78/75e10458fe3b0c95d707d2ef44b63258.jpg)
幅1,2m、長さ1,5kmで、農業用水としてつくられました。生活用水としても使われているように、澄んだ水が流れています。室町時代につくられたといわれています。明治初年の居住者は45戸(158人)。明治末から大正末にかけて、この町は、勝山で最もにぎやかなところだったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/cf/1119d16eb9eaeb4154ba18338f6c38b5.jpg)
通りの右手に「郷宿」と書かれた建物が見えてきます。江戸時代の公事宿(くじやど)で、訴訟のために城下にやってきた人が泊まる藩公認の宿でした。京都の公事宿鯉屋を舞台に、京都町奉行所の与力を弟に持つ田村菊太郎が、次々に起きる事件を解決していく、「公事宿事件書留帳」(澤田ふじ子著)シリーズで、その存在が広く知られるようになりました。この郷宿は、明治になってから、郷宿としての機能を失い、染物業を営む高田屋の所有となったと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/c6/7eaa6ec4ef9e817521eeae4fe61b237e.jpg)
郷宿の先の路地を右折して、旦坂を登っていくと、先ほどの妙円寺、玉雲宮、化生寺、高田神社など、神社、仏閣が連なる道になっていきます。その手前の店先に断面が菱形の道標が立っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/04/35bd8ad544118f30ab45543cfbc66788.jpg)
北から見て正面に「左 玉雲宮」、右面に「すぐ かみがた」と刻まれており、左の坂道を上がると玉雲宮へ、まっすぐ行けば上方方面に向かうことを示しています。裏には、「文政四年 真嶋屋茂兵衛」と刻まれ、この道標は真嶋屋茂兵衛がつくったことがわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/5e/aa2023d67b922388f69bb06ff76353c0.jpg)
これは、町に立つ案内板です。これによると、左方面に旦坂を登っていく道(緑色)が出雲往来だとしております。これは、「勝山町史」の説に従ったからだと言われています。
しかし、岡山文庫「城下町勝山ぶらり散歩」は、
① この道標に「すぐ かみがた」と刻まれてあること
② 武家屋敷の背後を街道が通ることに対する疑問
③ 元禄期、享保期の絵図には旦坂を登る道が描かれていないこと
④ 久世方面に行くのに旦坂を登ることを禁じたという、
記録(「御先格見出」)があることから、ここは、まっすぐに行く道が出雲往来だったと説明しています。
つまり、新町から中川町、下町、中町と歩いてきた道が、旧出雲街道であったということです。(案内図では、上から旭川を渡って来た緑色の道は途中で曲がらないで、まっすぐ新町まで行き、国道181号線の一つ北の四つ角を左折して駅前で国道181号線に合流する道です)
なお、郷宿の隣の水島呉服店には、疎開していた谷崎潤一郎の机や手紙、送別会の写真が残っていて、深い交流があったことが伺えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/b7/a6a34128c8b79df46756be3c5653fb45.jpg)
郷宿の前を左に折れて進むと、旭川にかかる中橋にいたります。元禄年間、当時架かっていた上橋以外にも橋を架けてほしいという、中町、下町等の住民の要求で、40年後に幕府の裁定で、下橋(鳴門橋)とともに掛けられた橋です。そのときの「幅1間」の約束が今も守られていて、車の入れない歩道専用橋となっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/81/ddb5024fc464cf4db20079bf5427850b.jpg)
この橋の東詰に石碑が残っています。江戸時代の船着き場は、JR勝山駅の裏に当たる浜地区にありました。明治に入ると上町、中町、下町等の人々が、鳴門(下)橋を浚渫して、上町まで高瀬舟を引き上げることができたそうです。橋の下の上下流一帯で、荷の積み下ろしをしたようです。ここは、荷の積み下ろし場の跡が今も完全に残っており、当時の面影を伝えてくれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/5b/35b6553b77acaa91b13d20840110a1de.jpg)
また、中橋から見える城山(左)と太鼓山(右)、その下の民家の姿はすばらしく、勝山で最も美しい光景と言われています。太鼓山の南麓が、高田神社など神社・仏閣や武家屋敷が並ぶ地域になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/1b/155dcc48f022ee1438f73dfa4301a412.jpg)
出雲往来に戻って、西側の2軒目が郷土資料館。このあたりは、中町です。明治初年には、49戸(225人)が居住していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/8a/b3500021922c7efcb28676e22a77962f.jpg)
郷土資料館の向かいの清友醤油店は、屋根の修理をしていました。入口には、醤油を船着き場まで運んだレールが、まだ残っているそうです。しかし、公開されていないので、見学はご遠慮しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/b2/726bfa8e05f2d57351e856d707b1fcec.jpg)
旦坂を登ると、太鼓山の南麓の、神社・仏閣が並ぶ通りになります。最初にあるのが、安養寺。「文化往来館ひしお」にくっつくようにして山門がありました。(「ひしお」は、清友醤油店の醤油蔵を建て替えたもので、敷地内に大きな醸造桶が飾ってありました)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e9/fc8f4769068f9f6de2941017858abefb.jpg)
ここは、勝山藩主三浦家の菩提寺です。本堂に裏の小高いところに、白壁の土塀に囲まれて藩主の墓が残っています。お掃除も草取りがきちんとなされていました。お殿様もさぞかし喜んでおられることでしょう。この道を進むと、右側奥に武家屋敷館の渡辺唐兵衛の屋敷、左側には、妙円寺から高田神社まで神社・仏閣が続きます。
再び、町並み保存地区に戻り、旭川の上流に向かって進みます。出雲往来の両側には、「町並み保存地区」が続きます。上町の民家ののれんも折りからの風にはためいています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/5f/98fb027bf3c4e3879777e1e1991d7a0d.jpg)
その中に、「まし満や」と書かれたのれんを掛けたお宅がありました。すぐ、浮かんできたのが、郷宿の前(旦坂)の道標をつくった、真嶋屋茂兵衛さん。真嶋屋は、山中刻み煙草の製造販売で財をなしました。茂兵衛さんのご実家がここなのでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/4d/491996da71ed94e540e6c685d275141f.jpg)
この駐車場のあたりが、勝山の豪商、金田氏の屋敷跡。江戸時代には、宿場の本陣を兼ねていたと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/85/1700c152991d13dcd7463c25fc956307.jpg)
出雲往来は、三差路で左に曲がり神(上)橋を渡りましたが、カーブのところに2つの道標が並んでいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/ff/2696519d7d571f888f1d21e958c55ec7.jpg)
1つは、出雲往来を整備した津山藩主の森氏が往来沿いに建てた、同じ規格の道標です。 「是より右ゆばら」、「元禄二年三月」と刻まれています。ちなみに、元禄2年は1689年です。川から堀りだされたらしく表面がすべすべしていました。もう1つの大きい方の道標は、嘉永6(1853)年に建てられたもの。
(西側) 右 京 大坂往来
(南側) 南 雲伯往来 (東側)大仙 倉吉道
と刻まれていました。こちらは、庶民の旅が盛んになった江戸後期のもので、高さ1,5m、 25cm角の立派なものでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/32/b33fbfa82a9c26b8d2e7d8967f880d6b.jpg)
神橋を渡って来た旅人から見て、正面の突き当たりにあるのが、「おにのすみか」という居酒屋になっている、かつての玉屋です。建物は300年以上の歴史を刻んでいます。郷土資料館に、「めあらい薬」の、大きな木製の看板(元禄元年製)が展示してありますが、ここが、その玉屋の跡でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/5b/e9f0dc34dc6ab47eba9c1090975815eb.jpg)
神橋(上橋)です。勝山宿の西の出入口にあたります。江戸初期の寛文5(1665)年に、初めて土橋が架かりました。元禄期には「高田橋」と呼ばれていました。津山方面からの旅人は、神橋を渡って、対岸の西町を通って美甘宿方面に向かって行きます。
寅さんシリーズの最終作で、利き酒に酔ってこの橋を歩くシ-ンが撮影されたところのようです。明治初期、上町には25戸(94人)が居住していたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/bb/ab59b696a31c43d50ab11f7b2768ac57.jpg)
玉屋の前をまっすぐ進むと、道の両側の広い敷地に、辻本店の酒造場があります。江戸時代の文化年間創業という老舗酒造業の辻本店。かつては「萬悦」のブランドでしたが、「御前酒」と替えてから人気が出て、岡山県では「御前酒と言えば勝山の辻本店」と言われるほど、広く知られています。屋号が「炭屋」で、もとは炭を扱っていたとのことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/2e/d3b7504ab2c28f89b9c27525ef2f1aba.jpg)
辻本店の敷地に祀られていた恵比寿堂です。新町の文化センターのところにもありました。こちらも元禄時代の絵地図に載せられています。このあたりは、山本町。明治初期には25戸(94人)が居住していました。
この先には、藩主三浦家のお屋形があり、その境には木戸がつくられていて町人が自由に行き来することはできなかったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2f/747fcdd05b614d5ef0e9a746f8133c77.jpg)
旧真庭市役所。ここが、藩主三浦家のお屋形があったところです。勝山初代藩主の三浦明次は、お屋形の完成を待って、明和7(1772)年に江戸から入ってきました。転封が決まってから7年後のことでした。三浦家は、ここまで4度目の転封、財政的にもかなり厳しい状況でした。幸い、これ以後は、明治維新まで10代にわたって勝山の地にとどまることになりました。明治維新後の明治6(1874)年に、屋形は競売にかけられ、1361円で売却されたとのこと。旧市役所は、その時の競売で残ったところで、その前の駐車場になっているところに、大手御門が、西に向いて建っていたと言われています。この門は、宿場の本陣役を兼ねていた金田氏が建てたと言われています。参勤交代の時には、この門から出発し、出雲往来に沿って久世に向かって進んで行きました。
出雲街道の宿場町、三浦氏2万3千石の城下町、そして、旭川の水運を利用した高瀬舟の起点。様々な顔を持つ勝山。今は、伝統ある建築物をそのまま生かしたお店がたくさん営業しています。町の人々が力を合わせて町づくりを推進しています。
それが、のれんと3月のひなまつり。
勝山は、山と川に囲まれた山間の魅力あふれる町でした。