トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

全長2.7km、 JR和田岬線に乗ってきました!

2013年02月28日 | 日記

JR山陽本線の兵庫駅を起点にするミニ鉄道があります。全長2.7km。4分間で終点に着いてしまう鉄道、JR山陽本線の支線、JR和田岬線です。兵庫駅から1駅先の和田岬駅とを結んでいます。和田岬線は、明治23(1890)年に山陽鉄道によって開業した、120年を超える長い歴史をもつ鉄道です。また、和田岬駅は、開業当時は「和田崎町(わださきまち)駅」と称しており、貨物営業だけを行う貨物駅としての開業でした。そして、貨物の営業は、昭和55(1980)年に廃止されるまで、90年間に渡って行われました。

明治28(1895)年に、和田崎町駅は、現在の「和田岬駅」と改称されました。その後、明治39(1906)年に国有化され、明治44(1911)年には旅客営業も開始しました。この日、午前9時10分発の午前中の最終列車に乗るために、早朝から出かけました。自動販売機で和田岬駅までのキップ(140円)を買って、兵庫駅の改札口を入りました。そして、左側の階段を上りました。

階段を上がった左側にもう一つ改札口がありました。和田岬線の改札口です。持っていた切符を自動改札機に入れると、「切符は回収されました」というメッセージとともに回収されました。切符を持たないで列車に乗るということに、少し違和感がありました。

和田岬線の時刻表です。この日は平日でしたので、一日17往復。列車は、朝と、夕方から夜にかけてに集中しています。昼間の運行はありません。日曜日にいたっては、朝夕2往復だけの運行です。和田岬駅の先にある三菱重工や三菱電機の工場に勤務する人々の輸送を主に担っている鉄道だからです。

改札口から右に曲がって、ホームに向かってゆるやかに上がっていきます。右側のやや上に、JR神戸線(山陽本線)のホームが平行してつくられていました。兵庫駅で線路は行き止まり、車止めもついています。終着駅の雰囲気です。

和田岬方面です。和田岬に向かう本線は左にカーブしていきます。その手前で、山陽線のJR鷹取駅に向かう線路を右に分岐しています。平日の昼間は、訓練用として使用されることもあるとのことでした。

和田岬駅からの電車が入ってきました。クハ103-254など103形6両の固定編成で和田岬線の専用列車です。 和田岬線は、平成13(2001)年に電化されました。それも、和田岬線の長い歴史の中では「つい最近」といってもいい時期の電化です。長い非電化の時期を経ての電化であり、決して「お荷物」ではない路線なのです。 この日は、着いた列車からは、数人の乗客が降りてこられました。

各車両にあった行き先表示です。

車内です。座席はすべて横シートでした。電化される前は、座席はほとんど撤去されていたこともあったそうですが・・・。  9時10分。出発進行!です。車掌も乗務されていました。すぐ、鷹取駅に向かう線路を分岐。左カーブが終わると、国道2号線の高架をくぐります。

国道2号線の高架下を、兵庫方面に向かって撮った写真です。右の手前に進む線路が本線で、正面の線路は川崎重工兵庫工場(車両カンパニー)に向かう分岐線です。この先で新幹線の車両が一瞬だけ見えました。

その先、緑の門の先が川崎重工兵庫工場(車両カンパニー)です。兵庫運河まで、広大な敷地が広がっていました。

これは、兵庫運河の方から見た工場で、運河沿いに車両が並んでいました。川崎重工は、国内最大の車両メーカーです。ここ兵庫工場は100年以上の歴史をもち、川崎重工での車両の生産を一手に担っている基幹工場です。  0系新幹線から台湾新幹線、最近のE5(東北新幹線用)、E6(秋田新幹線用)車両のほか、JR各社や小田急、京浜急行の大手私鉄の車両、札幌、仙台、神戸地下鉄車両など幅広く生産しています。この分岐線は、この工場で生産された車両を納車するために使用されています。JRの車両など線路でつながった納車は、ここから兵庫駅まで送られ分岐線を使ってJR鷹取駅を経由して、そこから全国へ送られています。 手動でのポイント切り替えの設備が近くにありました。

写真は、兵庫運河のプロムナードの案内に載せられていた、0系新幹線車両の積み出し風景です。台湾やシンガポールを中心としたアジア諸国への車両の提供は、今もこの工場からの輸出で行われています。  また、アメリカ合衆国での川崎重工の車両のシェアは、35%でトップ。アメリカ向けの車両は、ニューヨークとネブラスカ州にある工場から提供されており、最大の顧客であるニューヨークの地下鉄には、1980年代から累計2000両以上納入しているそうです。現在、ニューヨーク地下鉄が保有する車両の約3割が、川崎重工製だそうです。

川崎重工の工場を過ぎると、兵庫運河にかかる15.5mの和田旋回橋を渡ります。かつて、兵庫運河を航行する船舶を、橋を水平に回転させることによって通過させていました。明治33(1900)年に架橋された、日本最古の鉄道可動橋です。  現在は固定化されていて、回転させることはできません。 和田岬の臨海部の方々は兵庫運河を生かした町づくりを進めています。「船の航行や散策に和田旋回橋が障害になっている」として、和田岬線の廃止の要望書をJRに提出したことがあったそうです。

一方、JR和田岬駅のすぐそばに和田岬駅がある神戸市営地下鉄海岸線は、平成13(2001)年に開業しました。神戸市営地下鉄海岸線は、13万人の輸送を見込んでいましたが、実際には4万人の輸送しかなく、830億円の累積赤字があったとか。 JR和田岬線は、4億円の売上がある黒字路線ということで、廃止されるとそれが地下鉄海岸線に移るという目論見があったのではないかといわれています。 要望書に対し、JRは電化したうえで存続させたということです。 写真は、和田旋回橋の橋脚部分です。ここに回転させるための設備が載っていました。今も、竣工当時の橋脚は健在でした。 

スピードが落ち始めると、右側に、”2002年FIFA ワールドカップ”の会場だった御崎公園球技場が見えました。

右側に商店街が見えるとスピードがどんどん遅くなり和田岬駅に入りました。

9時14分、和田岬駅に到着しました。 下車した50人ぐらいの乗客の大部分は、そのまま前方に向かって歩いていきます。三菱重工や三菱電機の関係の方なのでしょう。

残る10人ぐらいの方がホームから階段を下りて商店街の方に歩いて行かれました。

和田岬駅の時刻表を見ると、折り返して兵庫駅に向かう電車は9時25分発でした。

昭和62(1987)年、国鉄の分割民営化により、JR西日本の駅になったJR和田岬駅は、平成11(1999)年に無人駅となり、戦時中に建てられた木造駅舎は、平成21(2009)年に撤去されました。駅舎跡はコンビニに替わっていました。現在の和田岬駅には駅舎もなく駅職員もいません。片面のプラットホームがあるだけでした。切符の自動販売機もありません。この日は、折り返しの電車を待っていた方もおられませんでした。電車の撮影をしたかった私は、急いで平行する通りを兵庫駅方面に向かいました。

現在、和田岬線では、改札業務はすべて兵庫駅で行っています。和田岬駅から兵庫駅に向かう乗客は、切符を持たないまま電車で兵庫駅に向かいます。兵庫駅に着いてから、和田岬線の改札口のそばにあった切符の自動販売機で、目的地まで切符を買って、改札から出るようになっています。

歩いてJR兵庫駅に戻る途中、兵庫駅の西にあるキャメルタウンから見える和田岬線のホームに、6両編成の和田岬線の電車が止まっていました。夕方の運行が始まる17時15分まで休息をしているようでした。

JR兵庫駅に帰って、和田岬線の改札口に上がっていきました。改札口は閉鎖されていました。

さらに上がってJR神戸線(山陽本線)のホームに出ると、左下にある和田岬線のホームで休憩中の電車の姿が見えました。

和田岬線は、全長わずか2.7kmのミニ鉄道です。沿線にある川崎重工兵庫工場や和田旋回橋、兵庫運河などバラエティに富んだ見どころがある、魅力あふれる鉄道でした。今日も、多くの通勤客の輸送に汗を流しています。

兵庫の津、新川運河を歩く

2013年02月22日 | 日記

神戸市兵庫区にあった案内図です。図の黄土色の部分は、江戸時代の西国街道(山陽道)です、図の下のJR神戸線(山陽本線)の兵庫駅から、上(海)に向かっていました。西国街道は左に曲がって当時の神戸村に向かっていましたが、そのまま進むと兵庫の津に向かっていきます。

現在の船溜まりです。日米修好通商条約で神戸の港が開港してからは、兵庫港から神戸港にウエートが移っていきました。大正時代には、全国の34%を占める国内最大の貿易港に成長して行くことになります。

兵庫港周辺の経済活動の活性化をめざして、当時、兵庫の第2区長の神田兵右衛門が中心になり、須磨方面から和田岬を迂回しないで兵庫港に入る兵庫運河の建設が計画されました。和田岬の沖合は強い風と波で海難事故が起きる海の難所でした。

明治8(1875)年、和田岬の東に、船舶の避難地としての機能をもつ半円形をした新川運河が完成しました。運河の南側、現在中央卸売市場があるところは中之島と呼ばれるようになりました。新川運河だけしか掘削できなかったのは、資金不足のためでした。 兵庫運河の構想は、その後、八尾善四郎の兵庫運河会社の手によって受け継がれ、明治32(1899)年に3年の年月を経て実現しました。全長25km、水面積34ヘクタール、日本最大の運河です。和田岬を迂回しないで須磨駒ヶ林(こまがばやし)と兵庫港の間を航行することができるようになりました。当時は船舶5万隻、筏1万枚が利用していたといわれています。関連する兵庫運河、兵庫運河支線、新川運河、苅藻島運河、新湊川運河の5運河を総称して、兵庫運河と呼ばれています。

兵庫の町の中の西国街道を歩いた日(平成25年2月18日の日記)の午後、新川運河に沿って大輪田橋まで歩いてきました。

新川運河にかかる築島橋からみた築島水門。ここで水量の調整をしているようです。

築島橋からみた大阪湾方面。新川運河の出入り口でした。

新川運河沿いに、大輪田の泊の石椋(いわくら)の石材が展示されていました。石椋は、巨石を3~4段積み上げ、松杭で補強してつくった防波堤や突堤の基礎のことです。昭和27年(1952)年、新川運河の浚渫工事のときに、重さ4トンの巨石が20数個と一定間隔で打ち込まれた松杭とともに発見されたものだそうです。

石椋の構造です。石椋の説明にあった図面に書かれていたものです。

これも石椋の説明にあった写真です。写真中の①はモニュメントの設置場所、①から②までの間に斜めに白く見えているところが新川運河で、②は石椋の出土場所です。③の上に白く見えていることろが兵庫運河で、③は②から北西に250mのところにあり、平成15(2003)年、奈良時代後半から平安時代中期の建物の一部が発見されたところです。当時、そこは海中だったところと考えられ、巨石は大輪田の泊(おおわだのとまり)の石椋の石材と推定されています。

大輪田の泊は、律令国家の管理のもとで瀬戸内海航路の港として整備が行われたところです。後に平清盛が整備したことでも知られています。最終的な完成は、工事の再開を許された東大寺の重源によって、建久7(1196)年になされたということです。

新川運河にかかる入江橋に座っている”清盛くん”です。現在、兵庫地区は平清盛に因む場所を歩く”津の道”を売り出しています。

経島山来迎寺(通称築島寺)です。石椋のモニュメントの近くにあり、新川運河に面していました。阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、コンクリート造りで再建されました。

来迎寺の境内です。手前の左側に「松王小児入海之碑」があります。
大輪田の泊を整備しようとした清盛は、風や波を避ける目的で、承安3(1173)年、人工島である経ヶ島を築きました。海を埋め立てる難工事で、「人柱を立てて」という意見もあり、一つひとつの石に一切経を書いて埋め立てたといいます。このとき、清盛の侍童の松王(香川の城主、田井民部の長男、当時17歳)が「人柱は罪が重い、わたし一人を身代わりに沈めてほしい」と申し出、千僧読経のうちに松王は海に沈み、経ヶ島造営も完成しました。来迎寺には、人柱となった松王の供養塔が設けられていました。

また、写真の正面奥に、京都嵯峨野の祇王寺(平成24年12月10日の日記)ゆかりの京の白拍子、祇王・祇女と、二人を寵愛した清盛の供養塔も祀られていました。

ここから西に向かって歩くことにしました。新川運河に沿って、キャナルプロムナードが整備されています。

ゆっくりと散歩される人の姿が見られました。

プロムナードから見た大輪田水門です。

キャナルプロムナードの真ん中あたりにあった「兵庫城址」の石碑。「最初の兵庫県庁の跡」と書かれていました。 天正8(1580)年に池田信輝・輝正父子が築城したのが兵庫城です。現在の新川運河をはさんだ両岸の切戸町(きれとちょう)から中之島中央市場に掛けての東西、南北ともに140mの規模で、周囲に3.6mの堀がついていたといいます。 兵庫城は、江戸時代の元和3(1617)年から尼崎藩の陣屋となります。さらに明和6(1769)年からは幕府領となって、大坂町奉行所の与力・同心の勤番所となり明治の時代を迎えます。 慶応4(1868)年5月23日、兵庫県となったとき、ここに最初に兵庫県庁が置かれました。その後、県庁は明治元(1868)年9月18日(9月8日に「明治」に改元された)に今の神戸地方裁判所の地に移り、明治6(1873)年現在地に移ったそうです。 ちなみに、明治7(1874年)、新川運河が完成したときに、兵庫城の大部分は川敷になっているそうです。

大輪田水門とその西の大輪田橋の間は、東の築島水門と同じように船溜まりになっています。

大輪田水門を過ぎて中之島とつながる大輪田橋のたもとに十三重の石塔が建っています。高さは8.5mで、鎌倉時代に建てたものといわれています。もともとあった場所から10mほど北に移動されたとき発掘されましたが、墓ではないことが確認されています。

西国街道の近くにある能福寺です。兵庫大仏で知られています。平清盛はここで剃髪し”浄海”と称して出家しています。

清盛は、養和元(1181)年に京都で死亡した後、遺骨は福原に持ち帰られたといわれています。能福寺の境内に、“平相国廟”もつくられています。しかし、清盛の墓の場所はまだよくわかっていないようです。

中之島に渡る大輪田橋です。 大正13(1924)年竣工されました。この橋は2度大きな災害に遭っています。昭和20(1945)年3月17日の神戸大空襲と平成7(1995)年の阪神・淡路大震災です。神戸大空襲では、水を求めてこの橋に避難した人が煙に巻かれて犠牲になりました。

阪神・淡路大震災では、橋の親柱が崩れ落ちました。ここは一カ所残った親柱です。

崩れ去った親柱は、復興モニュメントとして再構成され保存されています。

大輪田橋の右側に見えた新川運河です。運河はこの先を左にカーブして大阪湾に出て行きます。写真の正面から右(西)に向かう流れが兵庫運河で、苅藻島(かるもじま・兵庫運河で掘削した土砂で浅瀬を埋め立ててつくった人口島)の方に続いています。

古代の大輪田の泊から、兵庫の津として江戸時代まで繁栄した兵庫の港でしたが、明治以降神戸港に繁栄を奪われてしました。復興を目指して建設した新川運河や兵庫運河でしたが、どうだったでしょうか ? 私にとっては、大輪田の泊からの栄光の歴史をたどる旅になりました。














兵庫の津と西国街道

2013年02月18日 | 日記
神戸は、安政5(1858)年に締結された日米修好通商条約が締結され、明治時代になって旧居留地が開かれてから発展した港町でした。それ以前は、神戸の西にある兵庫の港(兵庫の津)が西回り航路、菱垣廻船・樽廻船などの港として繁栄していました。

京都から瀬戸内海沿いに西に向かう西国街道(山陽道)も、兵庫の津を通っていました。江戸時代には、ここに本陣・脇本陣が置かれ、人馬・人足などの宿駅の役割も担っていました。この日は、兵庫の津の中心部を、西国街道沿いにたどることにしました。スタートは、JR山陽本線(神戸線)の兵庫駅。ここから、JR山陽本線(神戸線)に沿って東に向かって歩きました。

15分ぐらいで、西柳原町にある柳原蛭子(えびす)神社の赤い鳥居が見えてきます。

その脇に「西国街道西惣門跡」の石碑が立っていました。西国街道から、兵庫の町へ入る場合の西の入り口で、惣門が置かれていたところです。説明によれば、「織田信長の家臣池田信輝の兵庫城築城のとき、天正8(1580)年につくられた」ということです。ここが、江戸時代の兵庫の津の入り口です。ここには、高札場も設置されていました。

これは、市内にあった案内の地図ですが、そこに黄土色で示されているのが旧西国街道です。明石方面から来た旅人は、この地図の中央下側にあたるJR山陽本線の兵庫駅の方から山陽本線を斜めに横切り、柳原蛭子神社に来ていました。

西国街道は、蛭子神社の左側の道を西柳原町から東柳原町、北逆瀬川町へとまっすぐ海(地図の上方)に向かっていました。途中で国道2号線(阪神高速)を越えて、さらに200mぐらい進んだ南仲町の民家の軒先に、石の道標がありました。

これは、町にあった案内図です。図の左から右に向かって西国街道沿いの町名が書かれています。北仲町で上の方にカーブしています。曲がらないでまっすぐ進むと兵庫の津の船溜まりに向かっていました。

「札場の辻跡」です。高札場が置かれた四つ辻です。このあたりが兵庫の津の中心地で、本陣、脇本陣も置かれていたようです。ちなみに、高札場は西惣門、そして東惣門、兵庫の港に近い築島来迎寺の前と、ここの4カ所に設置されていました。

先ほどの地図のように、西国街道はここで左(写真の道の方)に曲がりました。この先、本町(以前の北仲町、小物町、木場町、木戸町、江川町)から湊町へ進み、東惣門に向かっていました。

街道の左側にあった岡方(おかかた)惣会所の跡。本町公園の向かいにありました。兵庫の津は、明和6(1769)年に天領となり、それ以後、明治維新まで大坂町奉行所の支配を受けていました。惣会所は、町の政治を進める組織で、兵庫の津では、浜に接した地域の南濱と北濱、そして浜に接していない地域である岡方の三地域(「三方(みかた)」と呼ばれました)に分けて行われていました。それぞれの惣会所では、名主が惣代や年寄などを指揮して行政を進めていました。

岡方惣会所の跡地の碑があったところにあった建物です。少しレトロな、昭和の雰囲気を残すビルが建っていました。

その先で、国道2号と斜めに交差しますが、横断歩道がないので、度量衡店を右折して進みます。日曜日でお休みでしたが、秤(はかり)を扱うお店でしょう。

七宮(しちのみや)神社の脇に着きます。説明によれば、平清盛が大輪田の泊(兵庫の津)を整備しようとしたとき、余りの難工事のため「南無七大明神」の神号を奉り祀ったのが七宮神社の起源だったということです。この脇を横断して、左方向に向かって引き返し、度量衡店の向かいで右折して、さらに旧街道を進みます。

湊八幡神社の前に、東惣門跡の石碑が立っていました。西国街道は、ここから兵庫の津を抜けていました。

西国街道は、正面のJR山陽本線の高架をくぐって、さらに東に向かっていました。

兵庫の津の中の西国街道は、東と西の惣門の間が約800mぐらいの距離でした。 「大輪田の泊」として日宋貿易で栄えた鎌倉時代から江戸時代まで、兵庫の津は国内有数の港として繁栄をきわめていました。その繁栄をしのんで歩いた旅でした。現代の西国街道沿井の道は、どちらかというと落ち着いた雰囲気の住宅地域という印象でした。




旧居留地からメリケンパークへ

2013年02月12日 | 日記

神戸港からJR三宮駅をつなぐフラワーロード。ここは、旧生田川の跡で、旧居留地の東の境界になっていました。

旧居留地に残る、居留地時代唯一の遺構、浪花町筋にある、”居留地15番館”です。明治14(1881)年頃に建設されました。説明によれば、木骨煉瓦造り2階建て、寄棟造り。コロニアル風の開放されたベランダがついています。

平成元(1989)年、登録有形文化財に指定され、翌年から3年間かけて明治時代の姿を取り戻していました。しかし、平成7(1995)年の阪神淡路大震災で倒壊。部材を回収することから始めた改修工事で平成10(1998)年に復旧しました。他の建物は大正時代に建てられたものだそうです。 

これは、明石町筋にある”商船三井ビル”。現在は、大丸インテリア館として使われています。

安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結されました。そのときに、アメリカ合衆国以外にも、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと同様の条約を結びました。東京、大坂の街を開くとともに、箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟の5港を開港し、そこでは、外国人が一定の範囲で土地を借り、建物を購入したり商館や住宅を建てることが認められていました。
兵庫は、10年後の慶応3(1867)年12月7日の明治維新直前に「神戸港」として開港されました。神戸港が開港してから、江戸幕府の支配下にあったのは、2日間だけだったそうです。

兵庫(神戸)の旧居留地にある、旧西国街道(山陽道)に面した大丸百貨店。ここは、旧居留地の北側の境界でした。神戸の旧居留地は、東側が先に書いたフラワーロード、西側は鯉川(現在は暗渠となり鯉川筋になっています)、南側は瀬戸内海で区切られた東西700m、南北500mの25.8haの地域でした。特に南は湿地帯や多くの流砂が広がっているところでした。洪水の不安があるため、天井川であった湊川の付け替え工事が進められ、これによって兵庫と神戸の両町がつながったのです。
旧居留地は、イギリス人土木技師のハートが設計し126区画(25.8ha)に分けられました。

京町と浪花町筋の間にある神戸市立博物館です。

旧居留地は、明治32(1899)年、日本が治外法権を回復されたとき、日本に返還されました。

これは、旧居留地にあったビルのテナントの案内板です。「旧居留地」を屋号に使ったものが、今も見られます。「旧居留地」は神戸の人々にとって、今も身近な存在、誇りなのでしょう。

この写真は、以前、クリスマスの時期に撮影した南京町です。横浜や長崎と並ぶ中華街です。神戸の中華街は、旧居留地の西の鯉川筋をはさんだ西側に隣接した、元町通りや栄町通りにあります。
華僑の人々は、修好通商条約の対象外だったので、旧居留地には居住できず、当時は、いわゆる「雑居地」(日本人との混住地)に居住していたのです。

鯉川筋と海岸通りの交差点にある神戸郵船ビル。写真の通りが鯉川筋、旧居留地の西の境界でした。
鯉川筋を海岸方面に進むとメリケンパークに入ります。その入り口の手前交差点に「メリケン波止場」の石碑が立っていました。「メリケン」、何とも懐かしい響きです。そういえば、小麦粉も「メリケン粉」でした。

メリケン波止場の石碑です。先にも書きましたが、兵庫(神戸)港は慶応3(1867)12月7日に開港されました。翌4(1868)年閏4月2日(西暦では1868年5月23日)に鯉川尻につくられた長さ18.2m、幅10.9mの波止場(小さな突堤の上にあった浮き桟橋)でした。明治(1908)年、第一回のブラジル移民船笠戸丸は、ここから出港しました。

石碑の案内に載せられていた写真。昭和26(1951)年ごろのメリケン波止場の様子です。正式には「第3波止場」といわれたそうですが、アメリカ領事館が近くにあり「アメリカ領事館前波止場」と呼ばれるようになり、それがなまって「メリケン波止場」になったようです。石碑の横には「神戸税関萬国波止場」と書かれていましたが、こう呼ばれた時期もあったようです。

昭和62(1987)年、メリケン波止場と中突堤(現在、ポートタワーがある南北の波止場)との間、約16haを、埋め立てられてできたのがメリケンパークです。神戸開港120周年記念事業として行われました。

ポートタワーから見た、ホテルオークラです。下から撮影するとなかなかうまくいきません。

メリケンパークから見た海岸通り方面。海と空の青色とマッチして、本当に美しい光景です。

阪神淡路大震災で倒壊したメリケン波止場。倒壊した姿のまま保存されています。

中突堤です。ここにポートタワーが立っています。

南の端、中突堤の先端にあるオリエンタルホテルです。

ポートタワーの近くから出発している循環バスの「シティループ」。異人館がある北野とを結んでいます。

中突堤の西の向かい側にあるハーバーランド。ここは、JR神戸駅の南にあった旧湊川貨物駅の跡地でした。再開発により、昭和60(1985)年から工事を始めて、平成4(1992)年に完成しました。

ポートタワーからみたバーバーランドです。この南には、川崎重工や三菱重工の造船所が広がっています。やはり、神戸は、海と船が今も主役のようです。

寒さの厳しい冬の一日、神戸の開港にかかわる歴史を訪ねて歩きました。港町、神戸のよさを満喫しました。



”ポートライナー”に乗ってフラワーロードを歩く

2013年02月06日 | 日記
”六甲ライナー”に乗ったとき(2013年1月24日の日記)、もう一度”ポートライナー”に乗ってみたくなりました。

JR三宮駅から”ポートライナー”でポートターミナル駅に行き、下車してからフラワーロードをゆっくりと歩きました。

JR三宮駅の東にある”ポートライナー”三宮駅に向かいました。

駅に着いたとき、ちょうど列車が出たところでした。この先で右に大きくカーブして南に向かって行きました。神戸港沖に建設された人工島であるポートアイランドと神戸市の中心部にある三宮を結ぶ鉄道(軌道)です。”ポートライナー”は、現在2系統が走っています。一つは、中公園駅、市民広場駅を経由し北埠頭駅から中公園駅に戻り三宮駅に帰る、循環路線。もう一つは、途中の市民広場駅からポートアイランドの南にある神戸空港に向かう路線です。

車両には運転席がありません。自動列車運転装置(ATO)による無人運転です。世界に先駆けて始めた無人運転でした。 ”ポートライナー”は昭和56(1981)年2月に開業し、その年の3月からの神戸ポートアイランド博覧会の観客の輸送にも使われました。

三宮から1.8km、3分余でポートターミナル駅に着きます。1面2線の駅です。ここで、下車しました。

ポートターミナル駅から見た、メリケンパークからハーバーランド方面です。少し北に引き替えし道なりに左折して、次の交差点を再度左折して第3突堤に入りました。突堤とは、ほんとにうまく名づけたものだと思います。まさに「海に向かって突き出した堤」です。

小豆島・高松方面にいくフェリーのターミナルです。ずいぶん前のことですが、高松からジャンボフェリーで、約4時間をかけてここに上陸したことがありました。

今は、出発便も到着便もないらしく閑散としており、事務室も消灯していました。

岡山県宇野と香川県高松を結ぶ宇高フェリーは、宇高国道フェリーの休止など、高速道路の無料化等の一連の動きの中で大苦戦をしていますが、神戸・高松間のジャンボフェリーは健在でした。”りつりん2”と”こんぴら2”で、1日4往復していました。

第3突堤からまっすぐ北に進みました。左側に神戸税関の建物が見えました。この道をまっすぐ行くとフラワーロードに進みます。

神戸税関の手前に「日本で一番短い国道です」の案内標識が立っていました。国道174号線です。

これは、税関の北にある阪神高速神戸線(その下の道路は国道2号線)です。この先を左右に渡る横断歩道から神戸税関の南までの178.1mが国道174号です。昭和27(1952)年、現行の道路法が制定されたとき「旧国道2号と神戸港を結ぶ市道(約940m)が国道174号に昇格」しました。昭和37(1962)年に、国道2号が現在の海岸通りに変更され760m程度南に移ったため短くなったとのことです。

表から見ると、東京にあった旧警視庁の建物によく似ている神戸税関。
最初に税関の庁舎ができたのは明治6(1973)年で、石造2階建て(大正11=1922年焼失)でした。2代目は、昭和2(1927)年につくられた花こう岩製の4階建てレンガ張りでした。当時日本最大の税関庁舎で、新港地区のランドマークになっていました。しかし、阪神淡路大震災で半壊してしまいました。そして平成10(1998)年竣工した3代目は、2代目の外観・内部ホールなどを保存・継承しています。

国道2号に平行する横断陸橋から見た神戸市役所。24階の展望ロビーは開放されていて、休日だったこの日も、多くの観光客が訪れていました。また、市役所の手前にある東遊園地は神戸ルミナリエの会場になっているところです。今年も、期間中340万人の観光客を集めました。

フラワーロードの名の通り、花や緑でいっぱいの通りでした。
フラワーロードは、かつて生田川(現在はさらに東を流れています)が流れていたところです。フラワーロードから西は、かつての「居留地」でした。安政5(1858)年日米修好通商条約によって、外国人の居住と交易を認めることになったところです。他の地域と隔絶するために、神戸の居留地は、東と西は川、北は西国街道(山陽道)、南は瀬戸内海で囲まれた区域でした。フラワーロード(旧生田川)は、居留地の東の境界になっていました。

市役所の北にあった花時計です。その先は、JR三宮駅でした。

いい天気でしたので、快適な町歩きになりました。散歩する多くの家族連れの方々とともに、歴史の流れも感じながら、のんびりと歩きました。