トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

庄原市東城町の家並みを歩く(2)~新町の家並み~

2017年07月02日 | 日記
広島県東北部の町、庄原市東城町は、かつて、中国山地の各地で”たたら製鉄”によって生産された鉄の集散地として栄えた町でした。旧街道に沿った町の中心部には、かつての繁栄の跡をしのばせる懐かしい町並みが残っています。観光案内所である「東城まちなか交流館えびす」でいただいた「街道東城路 ぶらり散歩マップ」を手に、町並みを歩いてきました。前回は、本町から枡形までまとめましたので、今回は枡形から新町の町並みのようすをまとめることにします。

「散歩マップ」にあった観光地図です。かつて、旧街道を本町(地図の右側)から歩いてきた旅人は、枡形で右折して西(地図の上)に向かい、次の通りを左折して再び南(地図の左側)に向かって歩いていました。

これが枡形付近の写真です。正面が西に向かう通りです。その後、黒い車が出てきた通りに入っていきます。

右折した右側には「ポケットパーク」がつくられていました。ベンチが置かれトイレも設置され、町歩きの人の休憩所になっています。心がなごむ文字通り「小さな庭」になっています。

ポケットパークの向かいのお宅です。常夜灯には「新町」と書かれています。道案内も兼ねているようです。東城町の「町並みづくりガイドライン」には、「歴史を感じることができる町並みの形成に努力しましょう」ということで、「木製の郵便ポスト、木製行燈(あんどん)、や木製常夜灯」など「地域の生活に潤いを与える小物、装置、仕掛けを設けましょう」ということになっています。木製の常夜灯で新町を案内しています。

枡形にあった「街角ギャラリー」。このお宅のNさんが撮影された見事な写真も飾られています。

Nさんのギャラリーの端にあった時計。「ここの時計の時刻は、全然あてにはなりませんぞい!」。そして、「会社に、学校に、バスに、電車に、そして人生に乗り遅れるかも・・」と書かれています。遊び心に思わず笑ってしまいました。

新町には、かつての商家の家並みが豊かに残っています。新町筋に入ってすぐ、右側にあった後藤生酢の製造元の建物がありました。シャッターには「赤酢 広島縣備後国東城町醸造元 後藤生酢醸造場」と書かれています。「マップ」によれば、「130年前から変わらぬ製法で、酒粕を原料に地元の硬水を使い『赤酢』の製造をしている」そうです。漆喰の白壁に鏝絵(こてえ)が描かれています。

これが鏝絵です。左官職人が使う道具の「こて」で、漆喰の塗装材料を塗ってレリーフを描いた作品のことで、民家の壁に家内安全などの願いを込めて飾られました。漆喰は説明によれば「消石灰を主原料として、これに『糊』としての『ツノマタ』(海草の一種)と繊維材料としての『すさ』(麻の繊維を短く切ったもの)を加えたもの」なのだそうです。

玄関前に鏝絵のギャラリーがあったお宅です。数軒先の左側にありました。見事なできばえの作品ばかりでした。

後藤生酢の製造元から先の商家の家並みです。じっと見つめていたいような美しい家並みです。

岸森刃物店と常夜灯、そしてM氏邸です。その先の、通りに日射しが延びているところから右(西)に、暁学池(きょうがくいけ)小路が延びています。享保2(1717)年の町絵図には、この奥に「暁学院」(教学院とも書かれている)という寺院が描かれているということです。「暁」の字は呉音では「きょう」と読むのだそうです。

手前が「後藤生酢売捌所」。先ほどの醸造場でつくられた赤酢を売り捌いているところなのでしょう。そこから2軒目に古河印刷所の商家も見えます。古河印刷所のあるところでは、かつて醤油の醸造が行われていたそうです。

通りの左側の家並みです。一番先にあるのが生熊酒造の建物です。

古河印刷所の向かい側にあったのが、生熊酒造の建物です。幕末の慶応元(1865)年創業。正面の伝統を感じさせる大きな看板には「超群 生熊久太郎醸 広島県比婆郡東城町」と書かれていました。「比婆郡(ひばぐん)」の郡名は、東城町が庄原市と合併した時に消滅しました。「超群」のブランドは、昭和元(1925)年に生まれたそうです。岡山県でも、TVのコマーシャルが流れていてよく知られています。平成27(2015)年に醸造場は移転して、ここでは醸造はしていないそうです。格子が目立つ正面からの姿など、特色ある東城の商家が見られます。

生熊酒造前から見た、この先の新町の町並みです。静かな落ち着いた家並みが続いています。

その先で、旧街道は左にゆるやかにカーブします。新町からの出口が近づいてきました。

カーブが始まって、すぐに左側に「谷繁元信球歴館」という看板が喫茶店のような建物にありました。プロ野球の横浜ベイスターズや中日ドラゴンズで活躍し、後にドラゴンズの監督になった谷繁元信氏の記念館のようです。時間の関係で素通りしてしまいました。ひょっとして谷繁監督のご実家なのでしょうか?

新町から広い道路に出ました。正面に見えたヤマモトロックマシン株式会社(旧山本鉄工所)の旧自治寮の木造の建物です。平成28年2月25日、工場棟5棟、旧自治寮3棟が、国の登録有形文化財に登録されました。昭和初期に、地元の棟梁である曽田敏郎氏が建設したもので、「日本の木造建築の黄金期である当時の姿をとどめている」ことが評価されたようです。ガイドに掲載されていた、当時の社員寮だった緑色の3階建ての自治寮を撮影しようと思いましたが、敷地内に入らなければ難しく、これが精一杯でした。

登録有形文化財の建築物群の向かいにあった、ヤマモトロックマシンの工場です。現在の東城町を代表する工場で、削岩機の製造では日本でも有数の企業だそうです。

この後、ヤマモトロックマシンの会社の前の道を進み、五反田橋で東城川を渡って進むと、左側にモダンな建物が見えてきました。庄原市東城支所の建物です。前回、まとめた館町(以前の家中町)に、昭和5年ごろ、東城町役場がありました。発展する東城町を象徴するようなモダンな建物に変わっていました。隣にあった消防署の建物とうまくマッチしていました。

庄原市東城町は、魅力的な町でした。江戸時代から明治・大正・昭和の時代の建物が残り、当時の面影を今に伝えてくれています。
そんな貴重な町並みを守るべく、「町並みづくりガイドライン」を作成し保存につとめておられる多くの方がいらっしゃいます。
私にとっては、時々乗車してみたくなるJR芸備線に乗っているうちにたまたま出会った町で、こんな美しい町並みが残っていることをまったく知りませんでした。
また、訪ねてみたくなるような、いい町でした。