トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧片上鉄道の線路跡を行く、周匝から柵原へ

2012年12月30日 | 日記
このところ、片上鉄道の線路跡を歩いています。
片上鉄道の跡地は、平成15(2003)年からサイクリングロード「片鉄ロマン街道」として活用されています。しかし、備前塩田駅から北にはロマン街道と線路跡が違っているところがかなりあります。 

今回は、線路跡をたどって、周匝駅跡から終点の柵原駅跡まで歩きました。

先に「片鉄ロマン街道」を歩きました。この日のスタートはコスモス街道から。

ロマン街道は、国道374号線の周匝橋で吉井川を渡ります。

この先、周匝橋を渡り終えるとすぐ左折します。

そして、左を流れる吉野川(吉井川に合流する直前の支流)の左岸の土手を上流に向かって歩き前方にある鷺橋(さぎはし)を渡ります。

吉野川にかかる鷺橋です。

鷺橋を渡ると再度左折。今度は吉野川の右岸を下流に向かって進みます。

大きく右にカーブして、ここから吉井川の左岸をさかのぼります。
周匝橋の一つ上流の飯岡(ゆうか)橋の脇を通過します。飯岡橋は、片上鉄道の吉井川第2橋梁の跡です。片上鉄道はここを北(右方向)に向かっていました。

吉井第2橋梁は自然災害で流失しましたが、平成13(2001)年に再建されました。

この先で、県道26号(主要地方道津山・柵原)線に合流します。ロマン街道は、県道の右(東)側の歩道部分を北に向かい、吉井川をさらにさかのぼって進みます。ここからは、ロマン街道は線路跡を進むことになります。


今度は、もう一度備前周匝駅に戻り、周匝駅跡から片上鉄道の線路跡をたどって進みます。

周匝駅跡があった材木店付近を振り返って写しました。朝からかかっていた一面の霧が、まだ晴れていませんでした。

駅跡からまっすぐに吉井川に向かって進みます。スーパーのティオの先で国道374号線を渡ります。
 
民家の塀のそばに片上鉄道の境界標が残っていました。上部に「片」の文字が彫られていました。

吉井川に架かる吉井川第2橋梁があったところに着きます。この橋の向こう側の出口で、ロマン街道が左右に交差していました。

飯岡橋を渡ると、すぐに、備前飯岡駅跡がありました。
吉ヶ原駅と同じように、三角屋根をもった駅舎があったそうです。

駅舎は残っていませんでしたが、ホームの跡や駅舎の跡は残っていました。

左側は下り線(柵原方面)のホームの跡でした。

左側の駅舎跡に石段が残っていました。右側のホームの手前には、「貨車を止めておくための線路があった」(ご近所の方のお話)そうです。

上りホーム(和気・片上方面)と駅舎の跡です。

駅跡の先に、線路と敷石の一部が残っていました。

ガードレールの先には飯岡郵便局があり、そこに向かってゆるやかに左にカーブしていました。線路跡は郵便局の前で県道を渡っていました。

郵便局の向かいの土木会社。線路はこの会社の中を延びていました。ご近所におられた方の「ところどころ畑や民家で断絶していますが、捜せばたどることができますよ」と言われた言葉に元気づけられ、線路跡をたどりました。

土木会社の裏です。線路跡は緩やかに左にカーブして山裾の民家付近を左に向かっていました。

山の麓の民家の裏にあった線路跡です。山に沿って吉井川方面に向かっていました。

線路跡は右の物置付近にありました。前方の墓地公園の上を県道に向かっていました。「早い時期からCTC(中央制御装置)を導入していた先進的な鉄道だった」
「1本あたり37両ぐらいの貨車を引いて1日8往復ぐらいしていたよ」。
「柵原で編成した貨車はそのまま和気から山陽本線で大阪、北九州など西日本の精錬所に送られていました」
「片上鉄道が廃止されて走らなくなったら、イノシシやシカが出没するようになった」
これらは、往事の片上鉄道を語ってくださった方のお話でした。

尾根の先端にあった橋台。今も当時の姿を伝えています。

向かいの橋台は、県道が手前に張り出したあたり、浪速精密工業の工場の脇にありました。線路は、その先、県道と並んで北に向かっていました。飯岡橋の先で県道に合流していたサイクリングロード「片鉄ロマン街道」は、ここからは線路跡を進むことになります。

道なりに1kmぐらい進みます。ロマン街道の案内図が見えました。

ここで県道と分かれて進みます。正面にキハ303のディーゼルカーの姿が見え始めました。

吉ヶ原(きちがはら)駅跡です。

DD13型ディーゼル機関車と客車。動態保存されており、毎月第一日曜日に運転されています。

文化庁の登録有形文化財に登録されている木造、鉄板葺きの駅舎でした。

吉ヶ原駅の先から柵原方面に向けて、線路が続いていました。

線路が途切れるあたりに柵原駅の駅標が立ててありました。「口」の文字が付け加えられていました。保存会の方がつくられたのでしょうか。

その先で、線路跡は途切れます。

特養老人ホーム「吉井川苑」の建物の後ろに、突如線路跡の土盛りが現われます。

その線路跡をたどります。民家と山の間でだんだん狭くなり、同時にブッシュも多くなり通行不能になりました。柵原病院の方から迂回して進みます。

エコシステムジャパンの工場の近くに、橋台が残っていました。先ほどの雑草の道が、ここで橋梁を越えていたのでしょう。

橋台の脇からエコシステムの社内に入ります。

かつての信号機やレールの一部が残っていました。

駐車場の車の下に残っていたレールの跡です。

ホームの跡も残っていました。

かつて、貨車に硫化鉄鉱を積み込んでいたところがそのまま残っていました。墓地公園で、お話しをうかがった方は、「柵原駅で貨車に硫化鉄鉱を積む仕事をしていた」とおっしゃっていました。
 
駅のすぐ横に同和鉱業柵原工業所があり、貨車に鉱石を積み込めるようになっていたそうです。このあたりで働いておられたのでしょうか。ここの硫化鉄鉱は、成分としては硫黄が49%で鉄が51%だったそうです。精錬で硫黄分を取出し硫酸系肥料の生産に使われていたそうです。積み出しに使われたところには、温泉で見られるように硫黄分がこびりついて残っていました。

ここは、片上鉄道の終点柵原駅跡でした。ここも、吉ヶ原駅と同じように、赤い三角屋根の駅舎があったそうです。職員用の跨線橋もあっといわれていますが、貨物の取り扱いが終了してからは、無人駅になっていたそうです。

線路の間に放置されていたがれき。現在の片上鉄道を象徴するような光景です。

何日もかけて、備前市の片上から久米郡美咲町の柵原までたどることができました。歩くだけでなく線路跡を見つけながら進んだ備前塩田駅から柵原駅までは、本当に楽しい時間でした。情報をくださった方、話し相手をしてくださった方に、心からお礼を申し上げます。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
見ました (山田)
2013-01-06 10:07:26
 久しぶりに見ることが出来ました。最終地点まで行かれたんですね。私たちは途中の駅までのサイクリングでした。詳しく見ておられるのに感心しました。
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すさい (青山 昌徳)
2019-04-11 16:53:09
50年前にすさいに住んでました。時の流れは流星の如し。僕も気が付けばもう60歳を超えてる。この場所も変わりますよね。しかし古き良き時代の痕跡が残っている。片上鉄道の痕跡。何度機関車に乗ったことか。
懐かしさを有難う。そしてご苦労様でした。
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柵原、吉ケ原、飯岡、周匝 (沼本)
2019-11-28 14:27:07
 両親の出身は、周匝と飯岡、父は、柵原鉱山に勤めていました。柵原の社宅、吉ケ原の借家、周匝と飯岡の両親の実家とそれぞれの駅に思い出があり郷愁が沸きます。
 
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