トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

中之島を西に、安治川隧道まで歩く

2013年01月02日 | 日記
中央(中之島)公会堂があることで知られる大阪、中之島。  旧淀川の堂島川と土佐堀川にはさまれた、東西3kmの地域です。

東の天神橋から西の船津橋と端建蔵橋(はたてくらはし)まで22の橋が架かっており、
”水の都”大阪を象徴しているところです。
この日は、天神橋付近から西に向かい、端建蔵橋を越えて川口に入り、その後、いつかは絶対にくぐろうと思っていた安治川隧道まで歩きました。前半は、橋を確認して歩くような旅になりました。

中之島の東の端で、中之島をまたぐ天神橋です。ここからスタートしました。

中之島の東部、中之島公園です。バラ園はよく知られています。

天神橋の西に架かる難波橋。
江戸時代、天神橋・天満橋とともに”浪花三大橋”といわれていました。当時は、200mを越える木橋でしたが、木造のため洪水でたびたび流されていました。

明治9(1915)年、市電の敷設に伴い堺筋に移され、市章を組み込んだり照明灯をつけたり整備されました。今も”ライオン橋”と呼ばれ親しまれています。

難波橋から見える中央公会堂。両替商を営み”北浜の風雲児”と呼ばれた岩本栄之助が、父の遺産50万円と自分の財産50万円を合わせて100万円を寄付して建てられました。コンペで選ばれた岡田信一郎の設計案をもとに、当時を代表する建築家である辰野金吾や片岡安の設計・監督により、大正2(1923)年から5年4ヶ月をかけ延べ18万人を動員して、大正7(1918)年に完成しました。昭和36(1961)年に永久保存が決まり、平成14(2002)年リニューアルされました。 国の登録有形文化財に登録されています。

公会堂の北に架かる水晶橋。昭和4(1929)年に架設されました。河川の浄化のため堂島川の可動堰を兼ねていたそうです。歩いてみるとさほどでもないのですが、高速道路の高架に押しつぶされそうに見えます。

南から公会堂につながる栴檀木橋(せんだんのきはし)。中之島やその北の堂島あたりに120あった蔵屋敷に行くためにつくられたといわれています。橋筋に栴檀の木があったので命名されたそうです。明治18(1885)年に淀川大洪水で流出し、大正3(1919)年に再建、昭和10(1935)年建て替えられました。橋の上に大正時代の親柱と昭和初期の橋名板が展示されていました。

公会堂の西に、平成14(2002)年のリニューアルの時に切り出された外壁が展示されています。断面の厚さ53cm、表面は化粧煉瓦貼りのモルタルです。

上流から見た淀屋橋です。御堂筋に架かっています。江戸時代の大坂きっての豪商、淀屋に因む橋です。御堂筋が堂島川をまたぐところ(淀屋橋の北側)に架かるのは大江橋。
 
淀屋橋の北西にある日本銀行大阪支店です。

淀屋橋の北に大阪市役所がありました。

淀屋の初代岡本三郎右衛門常安(じょうあん・つねやす)は、伏見城の造営や淀川の堤防改修に高い技術を発揮しました。その後、今の北浜に移り淀屋と称し材木商を営なみ、中之島の開拓を行いました。2代目淀屋言當(げんとう)は、幕府の許可を得て米市を中之島に開きます。当時、米を保存する蔵屋敷が、中之島には135棟も並んでいたといわれます。こうして、莫大な財産を築き、請われるままに大名にも多くの資金を貸し付けました。淀屋橋は、中之島に渡るため橋を土佐堀川に淀屋が自費で建設したことによってこう呼ばれたのでした。

これは”なにわ筋”に架かる常安橋。淀屋が開拓した中之島にはかつて常安町がありました。それに因む橋名でした。しかし、繁栄をきわめた淀屋は、その貸し付けが武家社会を揺るがすようになり、宝永2(1705)年5代目淀屋廣當(こうとう)のとき、幕府から闕所(けっしょ・大坂所払いと財産没収)処分を受け、莫大な財産を没収されてしまいます。しかし、4代重當は闕所処分を予想して、番頭であった牧田仁右衛門に暖簾(のれん)分け”しておりました。牧田家は出身地の倉吉(鳥取県倉吉市)に店を開き、”淀屋”を名乗って、明治まで多額の資産を有していました。また、宝暦13(1763)年、大坂に「淀屋清兵衛」の暖簾を掲げることができました。闕所から58年後のことでした。淀屋の強い経済力や影響力を感じながら歩きました。

四つ橋筋が土佐堀川をまたぐところに架かる、肥後橋から見た中之島。右にフェスティバルホール、左に朝日新聞社があります。近代的な高層ビル群が目立つようになります。

中之島も西部になると、水道管を伴う橋が頻繁に見られるようになります。また、生活感を感じる橋が多くなりました。新なにわ筋に架かる上船津橋です。阪神高速の下にありました。

ここが、中之島の西の出口です。端建蔵橋(はたてくらはし)を渡って川口に入ります。

現在の西区川口です。東の木津川と西の安治川に囲まれたところです。
安治川は、江戸時代に新たにつくられた川です。淀川の洪水で被害が絶えなかったので、江戸時代前期の貞享元(1684)年、河村瑞賢に命じて九条島を開削し淀川の水を直接海に流す工事に、取りかかりました。4年後に完成し、この地域が安らかに治まるようにとの願いをこめて安治川と名づけられました。

現在の川口一丁目と二丁目の一部である川口には、江戸時代に舟番所や舟奉行所が置かれ、”水の都大阪”の玄関口でした。明治の初めには、多くの外国人が居住し、ここから外国文化が入ってきました。大阪の”文明開化発祥の地”ともいわれるところでした。

しかし、河港であった川口は、貿易港としては限界がありました。明治31(1899)年、外国人の貿易商人が海に面した神戸に移ってからは、キリスト教の宣教師が居住するようになります。

本田小学校の脇にある「川口居留地跡」の碑です。明治になってからは外国人の居留地になっていました。当初26区画、後10区画が追加されました。後からやって来たキリスト教の宣教師たちは、病院や学校や教会を経営していました。説明板には、1・2番区画には信愛女学院、8番区画にはバルナバ病院、20番区画には大阪製氷所があったと書かれていました。

これは、本田小学校に隣接する「川口基督教会」です。旧居留地の21番区画にありました。大正9(1920)年の建設で、現在は国の登録有形文化財に登録されています。

外国人居留地の隣接した、旧本田、富島、古川、梅本町にあった「雑居地」。条約未締結国の外国人など居留地に居住できない外国人が日本国民と混住していました。「多くの中国人が居住し、中国人の経営する中国料理店が多くあり、大阪名物の1つになっていた」と説明されているように、日本の中華料理の発祥の地になりました。その他、理髪業、クリーニング、精肉業、製パン、ラムネ、牛乳、ビールなどがここから生まれました。

この家並みは、川口基督教会の東向かいにあります。どことなく、居留地の雰囲気が残っていました。

居留地の西に、慶応3(1867)年に運上所(うんじょうしょ)ができました。税関の前身です。大正9(1920)年に港区築港に移るまでこの地にありました。現在は、ここに大阪税関富島出張所があります。

安治川にそってさらに南に歩きます。対岸の大阪市中央卸売市場が途切れる所、国津橋付近に、大正4(1915)年につくられた「河村瑞賢紀功碑」がありました。大坂城築城のときに川底に落ちた花こう岩を引き上げてつくったといわれています。
ここから、広い通りを南に進みます。

源兵衛渡しの信号の交差点に出ます。「渡し」の名前のように、”水の都”には多くの渡しがありました。今も大阪市が運営する「渡し」が8ヶ所あるのだそうです。ここには、かつて「源兵衛渡し」がありました。

源兵衛渡しの交差点を右折すると、その道は、安治川沿いの建物にぶつかります。ここが安治川隧道の入り口です。安治川の川底をくぐり対岸の此花区西九条二丁目を結んでいます。安治川隧道は、太平洋戦争中の昭和19(1944)年9月に完成したものです。

向かって右側のシャッターは車両用のエレベーターです。ここから川底まで下ります。川底を渡り対岸で、再びエレベーターに乗って地上に出ていました。現在は、車両用のエレベーターは供用されていません。

左の奥まったところが、歩行者用のエレベーターです。ひっきりなしに人が出てきます。

私は、一番左にある階段を下りました。90度で曲がりながら下っていきます。

安治川隧道は、沈埋(ちんまい)函式隧道(水底に掘った溝に、両側が開いた沈埋函を埋めて接合し、後から水を抜いてトンネルを完成させる工法)で建設された最初の隧道なのだそうです。

下りきると川底を渡ります。エレベーターで降りた方と一緒に対岸まで歩きます。

途中にあった案内です。JR環状線の西九条駅までわずかの距離です。対岸(西九条側)に渡ったところで、登りのエレベーター前におられた係員の方に、深さをお尋ねしました。「深さ17m、幅83m、階段93段」と即座に答えが返ってきました。多くの方に訊かれているのでしょうね。 帰宅して調べてみると、「延長80.6m、深さ16.94m」でした。バッチリでした!  すばらしいですね。

エレベーターで地上に出ました。この間、ほんの5分程度。橋を渡るのと同じ時間で対岸に着きました。 建物は、左右の正反対でしたが、西区安治川一丁目とまったく同じデザインでした。右側が歩行者用のエレベーターの出入口。左が車両用でした。

建物から北に向かって10分ぐらいで、JR環状線西九条駅に着きました。

中之島の東から西に向かい、川口を経て、安治川隧道で対岸に渡ってきました。中之島の東部は中央公会堂や府立図書館、日本銀行など歴史的建築物があり、中央部から西には近代的な高層ビル群など新しい顔が並んでいました。江戸時代の”天下の台所”大坂を支えた淀屋などの大商人の活躍の後も残っていました。大阪の”文明開化”の幕を開いた川口の居留地や雑居地跡。太平洋戦争の末期にも、こういう大規模工事を続けていたのだ、そして、それが現代でも現役で使われていることに感動を覚えた安治川隧道。その気になって歩かないとわからないような、隠れた歴史に触れた旅でした。






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1 コメント

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見ました (山田)
2013-01-06 10:19:41
 すばらしい所を歩かれましたね。知らないことばかりで、勉強になりました。淀屋の取りつぶしを予見していた、四代目がすごいです。状況を判断する目と集める力があったんでしょうね。貴重な情報ありがとうございます。
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