トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

井原鉄道が分岐する駅、JR清音駅

2021年07月28日 | 日記

JR伯備線の清音駅です。岡山県総社市清音上中島にあります。伯備線は山陽と山陰を結ぶ陰陽連絡鉄道の一つで、岡山県の倉敷駅から新見駅を経由して鳥取県の伯耆大山駅に至る鉄道(幹線)です。清音駅には停車しませんが、岡山駅から伯備線を経由して島根県の出雲市駅を結ぶ特急「やくも」が、1日15往復運行されています。
JR清音駅の右側(倉敷駅寄り)に、駅を跨ぐ通路(跨線橋)がありました。入口に「井原鉄道清音駅」と書かれています。井原鉄道井原線の清音駅に向かう通路になっています。  井原鉄道井原線は、岡山県と広島県、周辺の自治体を中心に設立された第3セクターの井原鉄道が開業させた鉄道で、JR総社駅を起点に、江戸時代に整備された西国往来(山陽道)に沿ったルートで、広島県のJR神辺駅との間を結んでいます。 平成11(1999)年1月11日11時11分11秒に出発式を行ったといわれています。
JR清音駅は、井原鉄道の分岐駅としての役割も担っています。

木造平屋建てのJR清音駅の玄関口です。向かって右側に電話ボックスと郵便ポストがありました。左側には、”金田一耕助”の顔出し写真パネルのようなパネルが置かれています。”金田一耕助”は、横溝正史の推理小説の中で難事件を解決する名探偵として知られています。横溝正史は、太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年から3年半の間、清音駅の西を流れる高梁川を挟んだ対岸にある吉備郡岡田村(現在の倉敷市真備町岡田)で疎開生活を送っていました。

パネルの顔の部分にはカバーがつけられていました。
岡田村で疎開生活を送っていた横溝正史は、岡田地区の人々と野菜づくりをしながら交流する一方で、「本陣殺人事件」や「蝶々殺人事件」、「獄門等」、「八つ墓村」などの推理小説を執筆していたそうです。そして、昭和23(1948)年、この地を舞台にした小説「本陣殺人事件」で「第1回探偵作家
クラブ賞」(現在の「推理作家協会賞)を受賞し、本格推理小説作家としての地位を固めた人です。疎開生活を送った「疎開宅」には、現在も、金田一耕作のファンが、全国から訪れているということです。
なお、岡田村には、江戸時代初期に藩祖伊東長実(ながざね)が封じられてから、明治維新まで、岡田藩主伊東氏1万石の陣屋が置かれていました。 

駅舎の左側(総社駅側)のようすです。トイレとその先に跨線橋が見えました。2面3線のホームをもつ清音駅の島式ホームへの移動に使用されています。

駅舎への入口にあった「建物資産標」です。大正13(1924)年11月と書かれています。
伯備線は、大正8(1919)年、山陰側の起点、伯耆大山駅から伯耆溝口駅間(伯備北線)が開業したことに始まります。一方、山陽側からは6年後の大正14(1925)年、倉敷駅・宍粟(現在の豪渓)駅間が、伯備南線として開業しています。その後も延伸工事は進み、昭和3(1928)年10月25日、備中川面駅・足立駅間が延伸開業し、全通しました。そして、伯備線と改称されました。現在、倉敷駅と石蟹駅の間が複線区間になっています。 清音駅が開業したのは、大正14(1925)年2月17日。 伯備南線の倉敷駅・宍粟(現豪渓)駅間が開業したときでした。 開業の3ヶ月前に建設された駅舎は、96年が経過した今も、現役で活躍しています

「清音駅」と書かれた駅舎への入口から駅舎内へ入ります。正面の改札口の先に2面3線のホームとその先の東口広場が見えます。改札口の手前左側にあった駅事務所は閉鎖されていますが、清音駅は、令和3(2021)年3月1日から終日無人駅になりました。ちなみに、清音駅の1日平均乗車人員は、平成30(2018)年には、1,650人だったそうです。
駅舎への入口の左側に運賃表と券売機が設置されています。
駅舎の右側(南側)の部分です。ベンチと自動販売機が設置された、待合いのスペースになっています。列車を待つ人がおられなかったせいか、広々とした印象でした。 改札口から駅舎前の3番ホームに出ます。

伯備線の総社駅・新見駅方面行きの普通列車が停車する3番ホームを、倉敷駅方面に向かって歩きます。写真は、倉敷駅側の端に近い所から見た島式ホームです。手前側が2番ホーム、向こう側が1番ホームになっています。井原鉄道の列車は、2番ホームの、井原鉄道の跨線橋の南側のホームに停車するようになっており、上屋の下に駅事務所が設置されていました。 井原駅方面から来た井原鉄道の列車は、このままJR伯備線を通り、終着駅のJR総社駅に向かって行きます。

改札口付近まで戻ってきたとき、ちょうど、JR総社駅から来た、井原駅方面に向かう井原鉄道の単行気動車が、2番ホームに到着しました。井原鉄道の列車は、行き違いがない場合には、総社駅行きの列車も井原駅方面行きの列車も、ともに2番ホームの南側に停車しています。行き違いのある場合には、総社駅行きの上り列車が2番ホームに、井原駅方面に向かう下り列車が島式ホームの左側の1番ホームに停車するのだそうです。

入線していた井原鉄道の単行気動車が出発して行きました。この先で、伯備線から分かれて、右側を流れる高梁川を渡り、次の停車駅である川辺宿駅(旧西国往来の川辺宿に因む駅名)に向かって進んで行きます。
3番ホームを総社方面(北側)に向かって歩きます。。新見駅方面に向かう列車が停車するホームです。トイレの先に跨線橋の入口がありました。
跨線橋の左側にはかつて荷物の積み降しをしていたと思われる側線がありました。
跨線橋の下を総社方面に進みます。駅名標がありました。清音駅は、倉敷駅から7.3km、総社駅まで3.4kmのところに設置されています。
跨線橋を越えて進みます。ふり返って南(倉敷駅方面)側を撮影しました。右側の白い建物はトイレ、その先に駅舎の切妻屋根が見えます。跨線橋の下に島式ホームと線路、そして井原鉄道の乗車口に向かう跨線橋が見えます。左側の島式ホームに赤い自動販売機が見えました。
跨線橋の上です。窓が両側に設けられた明るい通路になっています。

島式ホームの1番乗り場に降りました。ホームの左側にはJR倉敷駅・岡山駅方面に向かう列車が停車します。線路の左側に、東口広場から井原鉄道の乗り場に通ずる跨線橋の通路が見えました。

島式ホームから見た改札口です。左側に井原鉄道井原線の乗り場に向かう跨線橋が見えます。
島式ホームの駅舎側です。ホームの右側の線路の跨線橋の向こう側に、井原鉄道井原線の清音駅があります。

ホームを倉敷駅方面に向かって進みます。「出場用」と記されたJRの改札口がありました。JRの列車で清音駅に来て、井原鉄道井原線に乗り継ぐ人のための出口になっています。
JRからの出口の先、跨線橋の下に井原鉄道の自動券売機が設置されていました。
その先が井原鉄道の改札口でした。井原鉄道の清音駅は駅の業務全般を委託する業務委託駅になっています。
駅舎の南側の井原鉄道の跨線橋の入口まで戻って来ました。入口から階段を上ります。
両側が真っ白に塗られた通路です。各ホームにはエレベーターも設置されています。井原線のホームがある島式ホームに下る階段の脇には観光案内が掲示されていました。突き当たりを左に下ると、東口広場へつながっています。駅を跨ぐ通路としても利用されているようです。
このとき、岡山駅を経由してJR赤穂線の長船駅に向かう、上り普通列車が1番ホームに到着しました。

跨線橋をさらに進み、東口広場に出ました。通ってきた井原鉄道の跨線橋の登り口が見えます。

東口広場から見た東側の光景です。正面に、標高302mの福山が見えます。福山の山頂にはかつて福山城があり、中世の軍記物「太平記」に載っている「備中福山の合戦」で知られています。 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の「建武の新政」で、天皇による政治が復活しました。そのとき天皇方についた足利尊氏は、天皇を支えた新田義貞や楠木正成と対立して敗れ、九州に逃れました。九州で勢力を蓄え、30万人の軍勢で京の都をめざしました。尊氏は7500隻の軍勢で海路を、弟の足利直義は20万人で陸路を進み、備中国に入りました。

福山城は、天皇方の新田義貞軍の最前線で、大井田氏経が1,500人で守っていました。延元元(1336)年5月に三日三晩にわたる戦いが始まりました。足利直義の大軍に対し、大井田軍は奮戦し、足利直義軍は2万人の死傷者を出したといわれています。しかし、大軍の前に福山城は落城し、残った400人の大井田軍は、足利軍と20回以上の戦闘を繰り返しながら、備前国の三石城に逃れたと伝えられています。 足利軍は、その後も進軍を続け、福山の合戦から7日後、神戸湊川の戦いで天皇方の新田義貞、楠木正成の軍を破ったのです。楠木正成はこの戦いで戦死しています。勝った足利尊氏は、この後、京に入り、室町幕府を開くことになります。 

清音駅の駅舎前に戻ってきました。駅前広場から西に延びる通りは、高梁川の左岸を走る岡山県道24号(倉敷・清音線)につながっています。そこから、川辺橋で西側に渡ると、倉敷市真備町につながっています。

井原鉄道と分岐するJR伯備線の清音駅を訪ねて来ました。
「ゴミ一つないきれいな駅」でした。










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