風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

スローライフ

2010年03月15日 | 雑感
ぼくの生まれ育った東北の町では、夕暮れ時になりますと魚屋さんが串刺しにした魚を炭火で焼いていたものです。
魚はカレイやニシンだったような気がします。
育ち盛りですから、その匂いをかぐとたまらなく腹が減りました。
今だったら迷わず買って酒の肴にするのでしょうが、九州のこの町ではそういう魚屋さんはありません。

スローライフと言いますが、スーパーですべて買い物を済ませてしまうようなことでは、スローライフではない気がします。
魚は魚屋に行って採れたてのものを分けてもらい、野菜は八百屋に行ってあれこれ旬のものを分けてもらう。
それぞれの店で、ベストな調理方法なども教えてもらう。
日々、店に行っては食材の薀蓄を学びつつ、食卓を健康的で楽しいものに仕上げていく。
そういうのがスローライフなのでしょう。
スーパーでパック詰めの切り身の魚や、ビニールハウスで大量生産された野菜ばかりを買っていたのでは、そうはいかないでしょう。

要するに、便利さよりも過程を重要視するのがスローライフというものでしょう。
食材にもそれぞれの食材の旬やら特性があるわけです。
産地についての情報も深いものがあるでしょう。
豊前海でカキを養殖している漁師さんと話すことがありましたが、なぜ豊前のカキが美味しいのかはきちんと理由がありました。
たくさんの川が山から流れてくる地形で、海の養分が豊富なのだそうです。
しかもその川筋には住宅などが密集しておらず、天然の養分が豊富なのだそうです。

そういう感じで、なんに限らず美味しいものはすべからくきちんとした裏づけがあるはずなんです。
そういう裏づけを生きた知識として蓄積するのも、また楽しからずや、です。

磁器や陶器といった生活用品でも、今でこそ大量生産品ですが、そりゃあ、奥が深い薀蓄ではちきれんばかりです。
しかも骨董とよばれる昔のものは、その製法が秘伝・口伝の類ではちきれんばかりですから、楽しもうと思えばどこまでものめり込めます。

人との会話でもそうです。
仕事が絡みますと、どうしてもこの人はお金になるかどうかという視点に縛られてしまいますが、
楽しむための会話というのもありえましょう。
大工の八公とご隠居さんの会話みたいなものです。
相手の何かを判断するための会話ではなく、会話の流れ自体を楽しむ。
そのためにはお互い「~のため」という策略から自由でいなければならないでしょう。

こういう不景気なときは、頑張る方向を間違えると、エライ目にあいます。
どうせ不景気なのですから、あくせくせずに、少ないお金で楽しむ工夫をうんとすればいいのだと思います。

ぶらぶら散歩し、旬の魚や野菜を家族分だけ買って、へらへら会話を楽しみ、本でも読んで、眠くなったら、寝る。
そうすれば、世の中の不景気などは関係ありません。
スーパーが追求する大量生産大量消費型の効率主義は決して悪いことではありませんが、今の時代には心の豊かさをもたらしません。

地元の商店街を見直してみましょう。
きっとそれまでの商売を通してしこたま溜め込んだ薀蓄を、披瀝したくてうずうずしている商店主たちがそこここにいるはずです。