風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

光を浴びる

2010年03月09日 | 雑感
今日は所用で隣町まで電車で行きました。
灰色の雲が町を覆っています。
電車の車窓からは、車に乗って道路から見る風景とはだいぶ違った表情をしています。
鉄の街と呼ばれただけあって、線路脇にはず~っと大小の工場が立ち並んでいます。

旅行でこの街を訪れたのなら、明治維新以来の日本の産業革命の歴史に思いを馳せるのかもしれません。
でも、ぼくはこの町に住んでいるわけですから、そういうロマンチックなことには思いが及びません。
この先当分続くであろう不景気のこの街に与える影響を考えたりします。
所用が済んで、帰りの電車では思わず缶入りハイボールを買って飲みました。
そういう気にさせるどんより曇った空でした。

猫は二日ほど姿を見せませんでした。
餌にも牛乳にも手をつけていませんでした。
でも、今ではきれいさっぱり平らげています。

日曜日には滝に行きました。
写真はいつものように仲間のKちゃんが撮ってくれたものです。
真ん中には入れませんでした。
いくら水量が多くても夏なら真ん中に入れます。
でも、寒いと身体がこわばって、無事で滝から出てこれる気がしません。
足の感覚やらなんやらが麻痺したようになってしまいます。
だから端っこのほうで、滝のしぶきを浴びただけでした。

先ほどFMの番組を終えました。
番組に出てくるような人たちは皆一生懸命生きています。
生きることを楽しんでいます。
それが当たり前のことなんでしょうが、一方で道を見失い、命のかけようがないという人もたくさんいるのでしょう。

希望と絶望の間には超えがたい深遠が広がっているように見えます。
そうでもないんですけどね。
どれほど絶望の淵に叩き込まれたって、あっけらかんと空を見上げて太陽の姿を探せばいいんです。
要らぬ遠慮は要らないんです。
誰かの目線で自分を裁くことをやめて、ひたすら太陽の姿を探せばいいんです。
冷え切った自分の心と身体を暖めてやることがすべてに率先してすることです。

太陽はだれをも裁きません。
ぽかぽか天空に輝いているだけです。
その光を身体いっぱいに浴びたらいいんです。

死ぬときには誰でも死ぬだけです。
死ぬことなど天に任せることです。
それよりも、生きている間は、太陽を浴びて、身体と心の織り成す冒険をひたすら楽しめばいいんです。

絶望などという傲慢で、陰気で、勘違なゲームだけは、何とかして卒業しましょう。
今の世の中、絶望したりするゲームをするほど、余裕はなくなりました。
余裕があるときの絶望はゲームとして成り立ちますが、余裕のないときの絶望はひたすら絶望になってしまいます。

まずはともあれ、太陽の光を浴びましょう。