風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

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2010年03月26日 | スピリチュアル
陽光は眩しいのに、風が冷たい一日でした。
終日10度を切っていたようです。

どういうわけか、日月神示とかアセンションとか、そういう話に対する興味がぷつんと切れてしまいました。
その類の本を開けば今でもなるほどと思うのですが、どうなろうともこの「今」をどう生ききるかでしかありません。
それは、以前にも紹介した「伊勢白山道」のリーマンさんとも同調している気がします。
僕が紹介したと言うのもおこがましいですね、彼のブログは精神世界の分野でダントツにトップを独走していますから。

ぼくも伊勢白山道式の先祖供養は毎日しています。
しなければいけないという意識ではなく、したら気持ちがいいから続けています。
何人かの知り合いにもそのやり方を紹介しました。
いちいち手書きでそのやり方を書いて渡していたのですが、ある親切な方がそれをワープロで清書して、コピーしてくれました。
リーマンさんのブログに飛べば、話は簡単なのですが、そこはいろいろと「ご縁」というものがあるのでしょう。
ぼくがいいと思うことは、ぼくが紹介するまでです。
こういう世界のことは、あれこれ言えばいうほど警戒心を生みやすいものでもあります。
そういう入り口を探している方には、そういう入り口があるということだけを、教えることができるだけです。

昨夜も禅道場に行きました。
禅では、過去に対するわだかまりも未来に対する不安も、一切取り合いません。
普段の日常に人がどっぷりと浸かっている妄想、分別、執着を否定しますから、純一の絶対的今を掴むという修業です。
禅から言わせれば、おそらくどんな哲学も倫理学も社会学も、妄想、分別、執着の類です。
この今の「いのち」にこだわりぬきます。
この今の、そのままに「活きたいのち」にこだわります。

こうなればいい、ああすればよかったなどという戯言には一切かかわりません。
今この瞬間のお前を出してみろと迫られます。
なかなかスリリングです。
嘘のつきようがありません。

そうすると、未来に対する不安というものなんかに対しては、覚めた興味はありますが、その不安に巻き込まれることはありません。
過去にどんなに縛られようが、未来にどんなに恐れを抱こうが、すべきことは今、この瞬間の自分の行為です。

こうしてぼくはブログを書いているわけです。
これを読んで、誰かがせせら笑おうが、腹を立てようが、それはそれで仕方がないことです。
ぼくの選んだ選択ではなく、そう感じることを選択したそれぞれの読者のそれぞれの「生きる」という姿です。
ぼくはぼくの「生きる」という姿をそのままに示すだけです。
「生きる」姿そのものに、いいも悪いもありません。
池に飛び込むカエルと、夕焼け空をすいすい飛ぶトンボと、どちらがいいも悪いもありません。

生きるということは、その姿を世界に示すことです。
なかなか勇気がいることですが、示さなければいけないのなら、できうれば、堂々と示したいものです。