風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

選択

2010年03月12日 | スピリチュアル
この世にはあると思えばあるし、ないと思えばないものが多いです。
愛、信頼、信念、友情、真理などから、幽霊、悪霊から、ギリシア神話の神々、古事記の神々まで、キリがありません。
あると思って生きることもできるし、ないと思って生きることもできるということです。
どちらが良いことでも正しいことでもありません。
あると思うのか、ないと思うのか、その選択があるだけです。
あるともないとも決めないという選択もあります。
選択肢は無限ですが、選択した一つの結果を受け入れなければならないのが、この世のルールです。

永遠の愛を信じれば、裏切られましょうし、悪霊を信じれば、常に怯えて暮らすことになるでしょう。
神や仏を信じられれば安心かもしれませんが、自分という存在のアイデンティティが揺らぐかもしれません。
かと言って、何ものをも信じられなければ、自分の存在する意味さえ見失われていきます。
何かを信じるのも信じないのも、自分の一生涯をかけた真剣勝負にならざるを得ません。

何かを信じようが信じまいが、それは個々の重い選択であることには変わりがありません。
誰にもその選択の結果を尻拭いしてあげることはできません。
どんな方向を選択し、どんな結果を身に受けようとも、その結果を堂々と受けきるだけしかできません。

個々の選択ですから、世の中に流布する言説を参考にするのは結構なのですが、鵜呑みにすると後悔します。
あくまでも自分の心の奥から湧き起こる声に耳を澄ます必要があります。
心が乱れていると、ますますその声が聞こえなくなりますから、要注意です。

こうすれば誰でも上手くいく道などというのは、理論上はありえても、現実の人間の選択としてはありえないような気がします。
迷い悩むというのも大切な選択肢です。
逆に言えば、もうこれ以上ないというところまで、迷い悩んだらいいじゃないかと思ったりもします。
本当に進退窮まったときにこそ、ああでもないこうでもないというレベルの心の騒音が消え、
これしかないという選択肢が現れるような気がします。

どんな選択にせよ、その選択をするのは自分の心です。
その心が歪んでいたり、ひねくれていたりすると、正常な選択を出来なくなるのは自明の理です。

仏教に「直心是道場」という言葉があります。
自分の究極のところの素直な心こそが、選ぶべき道を選んでいく場なのだ、という意味なんだと思います。

選択肢は無限です。
無限の選択肢の中から、これだと確信を持って一つの道を選べたら、心の絶えざる妄念は消えるでしょう。
誰かや何かに選ばされるのではなく、自分が選ぶことができたら、生きるということは自由自在の境地に昇華します。
それには、日々のささやかな行いの中で、何を選択していくかということになります。
人がこの世で与えられている選択肢というのは、日常の中にしかありませんから。

日常を選択の宝庫と見るか、灰色の牢獄と見るか。
まずその選択から始めなければいけないのかもしれません。


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2 コメント

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選択 (flower)
2010-03-13 20:59:10
自分の心の奥から湧き起こる声に耳を澄まし、いま抱いている5年10年15年先の夢や希望が見えたとします。
でも一気に近づくことは出来ません。今、自分に出来ることは、自分の心の声と向き合い信じて、日常の選択を積み重ねながら暮らしていくことしかないようです。(=”いまここ”を大事にすること)
そして、いつの間にか夢や希望に近づいていたら嬉しいです。
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flower さんへ (torut21)
2010-03-14 19:13:49
それなら、「いまここ」こそが夢や希望そのものなんじゃないですか。
「いまここ」はあくまでも「一気」だと思います。
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