風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

心の波

2010年03月31日 | 雑感
季節が巡るように、人の心にも波があるように思います。
調子のいいとき、落ち込むとき、やたらイライラするとき、なにを見ても幸せなとき。
波に上手に乗っていれば、たとえひどく落ち込んでも、いずれは上昇の波に乗れます。
波を信じず、ジダバタもがけばもがくほど、沈んでいくのかもしれません。

ある人を観察するに、どの視点でその人を見るかでまるきり評価が違ってきます。
自分にとっての損得で見るか、快不快で見るか、美醜で見るか、善悪で見るか。
その見方はお好みのままです。
その視点が自分の都合に偏っていると、何ごとも公平に見るということが出来なくなります。

自分にも心の波があるように、誰にだって心の波というものがあります。
上手くお互いの波長が合えば心地よい関係になるのでしょうが、相反する波長の相手の場合はなにかとぶつかってしまいます。
その場合は、その波長のズレがお互いに修正可能なものなのかどうかを見極めるのが大切になります。
どうしてもずれが大きすぎて修正の余地がないという相性もあるのだと思います。
その反面、ちょっとお互いの波長を調整すれば、とても心地よい関係を生み出すことも可能なのだと思います。

さらに言えば、お互いの波長などに関係なく誰彼と上手くやろうとおもうなら、自分の都合を捨てればいいのです。
自分が固執しようとする、人を評価する視点をぶん投げるのです。
他人を評価しようとする視点を投げ捨てれば、その人そのものが目の前にいるだけです。
男も女も、老人も子供も、美人も不器量も、ただただ生きている人が目の前にいるだけです。
なにを評価しようというのでしょうか。
人ができるのは、その目の前の人とどんな関係を築くことができるのか、というだけです。

お互いに笑顔をさらりとかわすだけで、人と人との間には何かが築かれます。
人を賢いだの馬鹿だの、美人だの不器量だの、役に立つだの立たぬだのと評価しているうちは、さらりとした笑顔はかわせません。

一人で旅行して思い出に残るのは、さりげない人々との交流です。
そこには一切の損得も計算もないからこそ、記憶に深く刻まれる何かが残るのだと思います。

今でも時々思い出すのですが、サンタフェに行ったときのことです。
サンタフェというのは独特の雰囲気を持った街で、いろいろと思い出はあるのですが、なぜかいつも念頭に浮かぶことがあります。
そのときは夏真っ盛りで、街中の公園のベンチでボーっと坐っていました。
すると長髪の金髪頭に、格好のよいスエードの帽子をかぶった若い青年が、黙々と公園内に散らばったゴミを拾い集めていました。
誰かに何かを訴えようといういうような気配は全くありません。
他人の目など全く気にせず、ひたすら陽気にゴミを拾い集めていました。
今になって思えば、かなり禅の世界に近い気がするのですが、「陽気に」というのが禅にはないかもしれません。

ともかくも、ぼくはどういうわけかときおり彼のゴミを拾っていた姿を思い出します。
人というのは、誰かの意図や思惑やらで誰かに印象付けられるものではないだろうということです。
誰かが、誰かのありのままでその姿を光らせているとき、それを見た人間はなぜか心に深く刻み付けられるようです。
素直が一番ということだけを言いたいがために、長くなりました。