アニメーション技術はそれを支えるデジタル機器技術と共に年々進歩を遂げているが、宮崎駿監督はそうしたデバイスの技術進歩についていけないようである。宮崎氏の発言を切り取ってツイートしているロボットアカウントがあるが、そこでツイートされた内容は宮崎氏が電子機器には全く疎い事を如実に示すものだった。
簡単に言えば宮崎氏が慣れ親しんだ昔のアニメ制作技術に対して現在はデジタル技術の成熟で制作過程がほとんど電子化されており、これが宮崎氏にとってはパラダイムの跳躍に等しいテクニカル・ギャップまたはカルチャー・ギャップを感じさせているのだ。誰だって自分が若い時に最初に慣れ親しんだ技術がもっとも熟知していて使いこなせる(*1)のだからそこを肯定したいのは気持ち的に当然かも知れないが、しかし技術の進歩もまた時代の必然なのであって、仕方ないとも言える。宮崎氏は必死に現代の最新技術を否定しようとあれこれ文句を言ってデジタル技術をくさすのだが、それはもう技術の進化と時代の刷新についていけなくなった人間の遠吠えにしか聞こえなくなっているのも事実である。
宮崎氏が持っているアナログ技術でしか表現できない理屈を超えたニュアンスや味があるのは確かである。それを大切に思う気持ちも理解はできる。しかし、基礎技術が刷新されて一種のパラダイムシフトを経た後の時代には新しい技術を使いこなす人の中から前時代には想像もつかない表現を可能にする人なり法則なりが生まれるはずである。
宮崎氏が氏の若い時に習った技術でしか作れないのは仕方ないのだが、現在進行中の宮崎駿監督の長編新作に於いては、若いアニメーターに昔の技術ばかりを強要するのはいささか酷な気もしなくはない。若いアニメーターはこれからの時代を作る人材である。その彼らがレガシー技術ばかりで作品を作らされるとなると、ジブリを卒業した後で他所で使ってもらえるのだろうかと。もちろん、技術の問題の彼方にアニメーション制作における理屈を超えた表現のスピリットを学ぶ貴重な機会でもあるのでそういった意味での価値は非常に大きい筈だが。
宮崎氏はジブリに於いても若い才能を食い潰す事でつとに有名である。若くて才能に恵まれているのに宮崎氏にその才能を食われてしまい、気がつくとエネルギーが全て吸い取られている、という具合である、一方で若い才能からエネルギーを吸収した宮崎氏はすこぶる元気になる、と。冗談ではなく本当にそうした傾向があるらしい。そこから言えるのは、宮崎氏には次世代のクリエイターを育てる能力は無い、ということ。そうなると、宮崎氏の技術は直接承継されるものではなく、新時代の表現者は宮崎氏とは直接縁のないところから出現するのを待つしかないのかもしれない。
話を最新技術に弱い宮崎氏に戻すと、なにしろデジタル技術などにはからきし弱いので、例えばブルーレイディスクと言ってもそれが具体的にどのようなものかは知らないのである。だから技術に多少詳しい人が見たら恥ずかしくなるような間違った言説も飛び出すことがある。
<宮さん(宮崎駿)botのツイートから引用>
ネガ・フィルムは置いておくだけで劣化していくんです。だからもし作品を残しておきたいと思うならば、ブルーレイにするしかない。その残す形として、公開当時の状態にしないと意味がないということです。でもブルーレイだって、そのうちレッドレイかなんかに取って代わられたりするんでしょうけれど。
↑この発言などは象徴的かもしれない。
技術の進歩によって「ブルーレイがレッドレイに取って代わられる」と宮崎氏は言うのだが、これは間違いで、実際に起きたことは「レッドレイがブルーレイに取って代わられた」のである。つまりレッドレイとは赤色レーザーを使用するDVDやCDの技術(旧技術)であり、ブルーレイは青色レーザーを使用する最新の光ディスク技術である。ブルーレイ技術が新しくてレッドレイ技術の方が古いのだ。ちなみに現在の光ディスクの形式としてはブルーレイが最終到達形であるとされている。宮崎氏はこうした技術的背景を全く知らないので上掲のような頓珍漢な発言になってしまうのである。
宮崎氏は自分が詳しいアニメ技術や思想について第三者が間違った発言をしようものなら憤りの感情と共にそれを訂正するであろうが、上記の例のように自分が詳しくない分野については平気で間違った発言をしてしまう。人間にはよくある事ではあるが、いささか他者に厳しく自分に甘いような姿勢の印象も禁じえない。
技術云々の話は別にしても、宮崎駿監督はアニメーション制作において稀有な才能の持ち主であり、作家として日本が世界に誇れる天才的なクリエーターであることは間違いない。(*2) 彼のイマジネーションから生まれるストーリーとビジュアルの説得力は深く大きく理屈を調節して心に迫る力を持っている。(*3) そこに確実なる普遍妥当性があるからこそ日本だけでなく世界各国で評価されているのは間違いない。それは本当に凄いことであり、宮崎氏の天才ぶりを証明するものと言えよう。
だからこそ時代の変化に振り回されることなく、どのような形であれ良作を作り続けてほしいと願うものである。
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(*1)
宮崎氏の主張の概要は、宮崎氏がアニメーション制作で学んだアナログ技術(紙と鉛筆を中心に作りフィルムに焼き付ける)が表現手段として最適であり、微妙なニュアンスの表現やフィルム上の傷やフィルム走行時の揺らぎですらアニメーションの表現に必要な要素として挙げている。これは宮崎氏が若い頃のアニメーション制作の道具であり技術仕様であるが、確かに紙と鉛筆でならではの表現の味があり、それはデジタル技術でおいそれと同じことができる訳でもないだろうし、同じことをやる意義もないだろう。宮崎氏の見解は旧来の世界では正しいかもしれない。しかし現代には現代の道具や技術仕様があり、若い世代はそうした現代の技術を駆使してアニメーション表現に挑戦しているのである。その中から宮崎氏の想像の範疇を超えた表現が出てくる可能性もあり、ここが宮崎氏にとって極めて困難なパラダイムシフト事案となっている。だからこそ全力で否定しにかかっているものと思われる。全否定してしまえば楽だからである。
(*2)
有名な「ルパン三世 カリオストロの城」などは筆者の場合、初めて見た時にはあまりの面白さに椅子から転げ落ちた程である。S.スピルバーグ監督も激賞したそうだが、日本にはこんなに凄いエンターテインメント作品が作れる監督がいたのか、と喫驚したものである。世の中にエンターテインメント作品はごまんとあるが、別格の凄さ、次元の違う圧倒的な面白さがそこにはあったのだ。ところが、この作品を作った当時の宮崎氏はいわば不遇の時代を過ごしており、その心の中には相当な創造的エネルギーが貯留していたらしい。映画会社の都合と事情により、宮崎氏はこの作品をなんと4ヶ月で完成させる必要があったという。長編アニメーション映画を着手から完成まで4ヶ月で、というのはあまりにも無茶苦茶なオーダーである。だが宮崎氏はこれを引き受けて見事に作ってみせた。時間が無さ過ぎるので考えている暇はなく、自分の引き出しの中にあるものでどんどん作っていかなくてはならなかった。この作品について当の宮崎氏は出来に不満があるようだが、不遇だった当時、蓄積していたエネルギーが鬱憤と共に一挙に爆発した事で大傑作が生まれたのであった。宮崎氏は今でも人々から「カリオストロの城が好きです」と言われるそうで、それが非常に不満らしいのだが、実は「カリオストロの城」には当時の宮崎氏の「魂の大爆発」が見られることである種特別な作品になり得たのではないかと思われる。人々の無意識・深層心理に直接訴える何かが間違いなくあったのだ。従って、多くの人が今でも「カリオストロの城」を好む事は決して不思議ではないのである。ちなみに筆者も同感である。
(*3)
スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫氏は、「となりのトトロ」に於いて、初めてトトロに遭遇したメイがトトロのふかふかした(*3a)お腹部分を人差し指で軽く押すシーンを挙げて、「あのシーンでメイが押したトトロのお腹は本当にフカフカした柔らかさがあるように表現できているが、これを描けるのは宮崎駿だけです」と言い切る。「他の人が描くとあんなに柔らかい表現はできない。もっと硬いもののようになってしまう」、と。宮崎駿氏はセルアニメーションの技術とセンスでは正に右に出る者のない凄いアニメーターであり表現者なのである。プロ中のプロであり、正に芸術家の域である。
(*3a)
今どきなら「モフモフ」と表現するのかもしれない。
簡単に言えば宮崎氏が慣れ親しんだ昔のアニメ制作技術に対して現在はデジタル技術の成熟で制作過程がほとんど電子化されており、これが宮崎氏にとってはパラダイムの跳躍に等しいテクニカル・ギャップまたはカルチャー・ギャップを感じさせているのだ。誰だって自分が若い時に最初に慣れ親しんだ技術がもっとも熟知していて使いこなせる(*1)のだからそこを肯定したいのは気持ち的に当然かも知れないが、しかし技術の進歩もまた時代の必然なのであって、仕方ないとも言える。宮崎氏は必死に現代の最新技術を否定しようとあれこれ文句を言ってデジタル技術をくさすのだが、それはもう技術の進化と時代の刷新についていけなくなった人間の遠吠えにしか聞こえなくなっているのも事実である。
宮崎氏が持っているアナログ技術でしか表現できない理屈を超えたニュアンスや味があるのは確かである。それを大切に思う気持ちも理解はできる。しかし、基礎技術が刷新されて一種のパラダイムシフトを経た後の時代には新しい技術を使いこなす人の中から前時代には想像もつかない表現を可能にする人なり法則なりが生まれるはずである。
宮崎氏が氏の若い時に習った技術でしか作れないのは仕方ないのだが、現在進行中の宮崎駿監督の長編新作に於いては、若いアニメーターに昔の技術ばかりを強要するのはいささか酷な気もしなくはない。若いアニメーターはこれからの時代を作る人材である。その彼らがレガシー技術ばかりで作品を作らされるとなると、ジブリを卒業した後で他所で使ってもらえるのだろうかと。もちろん、技術の問題の彼方にアニメーション制作における理屈を超えた表現のスピリットを学ぶ貴重な機会でもあるのでそういった意味での価値は非常に大きい筈だが。
宮崎氏はジブリに於いても若い才能を食い潰す事でつとに有名である。若くて才能に恵まれているのに宮崎氏にその才能を食われてしまい、気がつくとエネルギーが全て吸い取られている、という具合である、一方で若い才能からエネルギーを吸収した宮崎氏はすこぶる元気になる、と。冗談ではなく本当にそうした傾向があるらしい。そこから言えるのは、宮崎氏には次世代のクリエイターを育てる能力は無い、ということ。そうなると、宮崎氏の技術は直接承継されるものではなく、新時代の表現者は宮崎氏とは直接縁のないところから出現するのを待つしかないのかもしれない。
話を最新技術に弱い宮崎氏に戻すと、なにしろデジタル技術などにはからきし弱いので、例えばブルーレイディスクと言ってもそれが具体的にどのようなものかは知らないのである。だから技術に多少詳しい人が見たら恥ずかしくなるような間違った言説も飛び出すことがある。
<宮さん(宮崎駿)botのツイートから引用>
ネガ・フィルムは置いておくだけで劣化していくんです。だからもし作品を残しておきたいと思うならば、ブルーレイにするしかない。その残す形として、公開当時の状態にしないと意味がないということです。でもブルーレイだって、そのうちレッドレイかなんかに取って代わられたりするんでしょうけれど。
↑この発言などは象徴的かもしれない。
技術の進歩によって「ブルーレイがレッドレイに取って代わられる」と宮崎氏は言うのだが、これは間違いで、実際に起きたことは「レッドレイがブルーレイに取って代わられた」のである。つまりレッドレイとは赤色レーザーを使用するDVDやCDの技術(旧技術)であり、ブルーレイは青色レーザーを使用する最新の光ディスク技術である。ブルーレイ技術が新しくてレッドレイ技術の方が古いのだ。ちなみに現在の光ディスクの形式としてはブルーレイが最終到達形であるとされている。宮崎氏はこうした技術的背景を全く知らないので上掲のような頓珍漢な発言になってしまうのである。
宮崎氏は自分が詳しいアニメ技術や思想について第三者が間違った発言をしようものなら憤りの感情と共にそれを訂正するであろうが、上記の例のように自分が詳しくない分野については平気で間違った発言をしてしまう。人間にはよくある事ではあるが、いささか他者に厳しく自分に甘いような姿勢の印象も禁じえない。
技術云々の話は別にしても、宮崎駿監督はアニメーション制作において稀有な才能の持ち主であり、作家として日本が世界に誇れる天才的なクリエーターであることは間違いない。(*2) 彼のイマジネーションから生まれるストーリーとビジュアルの説得力は深く大きく理屈を調節して心に迫る力を持っている。(*3) そこに確実なる普遍妥当性があるからこそ日本だけでなく世界各国で評価されているのは間違いない。それは本当に凄いことであり、宮崎氏の天才ぶりを証明するものと言えよう。
だからこそ時代の変化に振り回されることなく、どのような形であれ良作を作り続けてほしいと願うものである。
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(*1)
宮崎氏の主張の概要は、宮崎氏がアニメーション制作で学んだアナログ技術(紙と鉛筆を中心に作りフィルムに焼き付ける)が表現手段として最適であり、微妙なニュアンスの表現やフィルム上の傷やフィルム走行時の揺らぎですらアニメーションの表現に必要な要素として挙げている。これは宮崎氏が若い頃のアニメーション制作の道具であり技術仕様であるが、確かに紙と鉛筆でならではの表現の味があり、それはデジタル技術でおいそれと同じことができる訳でもないだろうし、同じことをやる意義もないだろう。宮崎氏の見解は旧来の世界では正しいかもしれない。しかし現代には現代の道具や技術仕様があり、若い世代はそうした現代の技術を駆使してアニメーション表現に挑戦しているのである。その中から宮崎氏の想像の範疇を超えた表現が出てくる可能性もあり、ここが宮崎氏にとって極めて困難なパラダイムシフト事案となっている。だからこそ全力で否定しにかかっているものと思われる。全否定してしまえば楽だからである。
(*2)
有名な「ルパン三世 カリオストロの城」などは筆者の場合、初めて見た時にはあまりの面白さに椅子から転げ落ちた程である。S.スピルバーグ監督も激賞したそうだが、日本にはこんなに凄いエンターテインメント作品が作れる監督がいたのか、と喫驚したものである。世の中にエンターテインメント作品はごまんとあるが、別格の凄さ、次元の違う圧倒的な面白さがそこにはあったのだ。ところが、この作品を作った当時の宮崎氏はいわば不遇の時代を過ごしており、その心の中には相当な創造的エネルギーが貯留していたらしい。映画会社の都合と事情により、宮崎氏はこの作品をなんと4ヶ月で完成させる必要があったという。長編アニメーション映画を着手から完成まで4ヶ月で、というのはあまりにも無茶苦茶なオーダーである。だが宮崎氏はこれを引き受けて見事に作ってみせた。時間が無さ過ぎるので考えている暇はなく、自分の引き出しの中にあるものでどんどん作っていかなくてはならなかった。この作品について当の宮崎氏は出来に不満があるようだが、不遇だった当時、蓄積していたエネルギーが鬱憤と共に一挙に爆発した事で大傑作が生まれたのであった。宮崎氏は今でも人々から「カリオストロの城が好きです」と言われるそうで、それが非常に不満らしいのだが、実は「カリオストロの城」には当時の宮崎氏の「魂の大爆発」が見られることである種特別な作品になり得たのではないかと思われる。人々の無意識・深層心理に直接訴える何かが間違いなくあったのだ。従って、多くの人が今でも「カリオストロの城」を好む事は決して不思議ではないのである。ちなみに筆者も同感である。
(*3)
スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫氏は、「となりのトトロ」に於いて、初めてトトロに遭遇したメイがトトロのふかふかした(*3a)お腹部分を人差し指で軽く押すシーンを挙げて、「あのシーンでメイが押したトトロのお腹は本当にフカフカした柔らかさがあるように表現できているが、これを描けるのは宮崎駿だけです」と言い切る。「他の人が描くとあんなに柔らかい表現はできない。もっと硬いもののようになってしまう」、と。宮崎駿氏はセルアニメーションの技術とセンスでは正に右に出る者のない凄いアニメーターであり表現者なのである。プロ中のプロであり、正に芸術家の域である。
(*3a)
今どきなら「モフモフ」と表現するのかもしれない。