Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教の教皇ヨハネ・パウロ2世への公開書簡(1983年11月21日)

2021年03月17日 | ルフェーブル大司教の言葉
ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教の教皇ヨハネ・パウロ2世への公開書簡(1983年11月21日)

教皇聖下、

 願わくは聖下が私どもをして聖下に次のような考察を全く子供としての率直さを持って提出することを許し給わんことを。

 20年前から教会の状況はあたかも占領されたかのように思われるほどです。教会の自己破壊のために数万の聖職者と数千万の信者達が苦悩と困惑の中で生きています。

 第二バチカン公会議の公文書の中に含まれている誤謬、公会議後の改革、特に典礼改革、公文書によって広められている間違った考え、聖職位階によってなされる権力の乱用は、人々を混乱と動揺の中に投げ込んでいます。この悲しみに溢れる現状において多くは信仰を失い、愛徳は冷め、教会の本当の一致という考えが時と空間に置いてたち消えています。

 聖なるカトリック教会の司教、使徒の後継者として、かくも多くの霊魂達が全世界で、教会の教導職によって定められ、常にどこでも教えられてきたその信仰と道徳の中に留まろうと望んではいるものの残念ながら方向を狂わされているのを見、私たちの心は動転しています。このことに口を閉ざしているとしたら、私たちにとってこれらの悪しき仕業の共犯になってしまうように思えます。ですから、私たちが過去15年間に取ってきた個人的な態度・足取り[でも足りなかったこと]を考えると、聖下に公に介入しなければならない義務を感じます。それはこの劇的な状況の主要な諸原因を告発し、使徒継承の聖伝によって忠実に私たちにまで伝わった信仰においてその兄弟達を固めるために、教皇聖下にペトロの後継者の権力を行使してもらうためです。

 このため私どもはこの手紙に付録を付け、この悲劇的な状況の源にある、そして、既に他方で聖下の前任者達によって排斥されている主要な誤謬を指摘することを致しました。次のリストはその付録の題ですがこれが誤謬の全てではありません。

1.-信仰において分裂している教会という横に広がりすぎた宗教統一的な教会の概念。これは特にシラブスによって排斥されている。

2.-団体的・協議会的統治と民主主義的指針。これは特に第一バチカン公会議によって排斥されている。

3.-信教の自由に関する文章に明らかに現れている人間の自然権に関する誤った考え。これは特にピオ9世のQuanta Curaとレオ13世のLibertas Praestantissimumによって排斥されている。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

5.-ミサの聖なるいけにえとその他の秘蹟に関するプロテスタント的考え。これはトレント公会議第22総会によって排斥されている。

6.-最後に、一般的に言って聖庁の廃止によって生じるようになってしまった異端の自由な流布。

 誤謬を含む公文書はそれが上にある源から来れば来るほどにそれだけより深い不安の困惑を引き起こします。聖職者も平信徒もこの状況に最も動揺しているのは他でもなく教会に、ペトロの後継者の権威に、教会の聖伝の教導職に最も強く我が身を付けているものなのです。

 教皇聖下、この不安が消えるようにするのは緊急のことです。なぜなら、群は散りぢりになり、捨てられた羊達を金で雇われたものが追っているからです。カトリック信仰の善のため、霊魂達の救いのために、私たちは聖下に彼らの誤謬に反対の真理をもう一度断言して下さるように、聖なる教会によって20世紀もの間教え続けられた真理を再確認して下さるようにとひたすらに願い乞い求めます。私たちが聖下にこれを申し上げるのは、聖ペトロが福音の真理に従っていないと聖パウロが聖ペトロをとがめたときの、その心境において申し上げています。聖パウロの目的は信者達の信仰を保護する以外の何ものでもありませんでした。聖ロベルト・ベラルミノはこのような場合の一般的道徳原理について語り、霊魂の救いに害を与えるであろう教皇の行為に対し人は抵抗する義務を持つと教えています。

 私たちがこの警告の叫びをあげるのは、この叫びは新しい教会法の誤謬、異端とは言わないけれども誤謬によって、またルターの生誕500周年の祝賀と演説によってますます激しくなるばかりですが、聖下の助けに出たいという目的なのです。...本当に限りは尽きました。教皇聖下、願わくは天主が私たちの助けに来たり給わんことを。私たちは絶えず聖下の意向のために聖なる童貞マリアに祈っています。

 私たちの忠孝に満ちた献身の情を受けとめて下さりますように。

マルセル・ルフェーブル(テュールの元司教)

アントニオ・デ・カストロ・マイヤー(カンポスの元司教)

 

第二バチカン公会議の教会論の主要な誤謬の要点

1.-"横に広がりすぎたlatitudinariste"宗教統一的な教会の概念。

 教会が「天主の民」であるという概念は以後数多くの公文書の中に現れる。公会議文書の"Unitatis Redintegratio"や"Lumen Gentium"、新しい教会法典(c.204.1)教皇ヨハネパウロ2世の書簡"Catechesi tradendae"とカンタベリーの英国聖公会での演説、キリスト者の一致のための秘書室が出した宗教統一のための方針"ad tatam Ecclesiam"などがその例である。

 この概念は横に広がりすぎた意味と誤った宗教統一の概念を含んでいる。

いろいろな事実が明らかにこの概念が残念なことに謬説であることを示している。たとえば諸宗教の儀式ができるような部屋を作ることの許可、カトリック聖書解釈学とはもはや相容れない統一聖書の発刊、カンタベリーで行われたような宗教統一的儀式。

 "Unitatis Redintegratio"では、キリスト者間の分裂は「この世にとって躓きの対象であり全ての被造物に福音をのべ伝えることへの障碍となる。・・・聖霊はその他の宗教をも救いの手段としてお使いになることを拒まれない」と言うことを教えている。この同じ誤りがヨハネ・パウロ2世の"Catechesi tradendae"という文書の中で繰り返されている。ヨハネ・パウロ2世がカンタベリーのカテドラルで1982年5月25日にあたかも使徒信経の一致がかつて教会に存在したことがなかったかのように「キリストの約束は私たちに信頼の念を起こさせ、聖霊は聖霊降臨の後そのすぐ初期の時代から教会内に導入された分裂をいやして下さると信じます」と宣言したのはまさにこの同じ精神であり、聖伝の信仰とは全く反対の断定である。

 「天主の民」という概念はプロテスタンティスムも同じキリスト教宗教の特殊な形態に過ぎないかのように信じろと促している。

 第二バチカン公会議は、異端の分派どもとの「聖霊における本当の一致」(Lumen Gentium, 14)「彼らとのまだ不完全なある種の交わり」(Unitatis Redintegratio, 3)があることを教えている。

 この宗教統一的な一致はレオ13世の回勅"Satis Cognitum"に矛盾している。この中でレオ13世は「イエズスは『一般的には似通っているがしかし互いに区別され、"不可分の唯一の教会を形成するある絆"によって繋がれているのではない多くの共同体を寄せ集めたような教会』を創立したのではない」と教えている。

 同様にこの宗教統一的な一致はピオ12世の"Humani Generis"という回勅に反している。彼はこの中で、[人は救霊の為には]カトリック教会に属さねばならに必要性[があるのだが、それを]を何らかの別の形に還元しようとする考えを排斥している。

 また同じ教皇の"Mystici Corporis"という回勅にも反している。この中では信仰において離ればなれになっているいろいろな共同体の絆であるような「霊的」教会という概念を排斥している。

 この宗教統一運動はピオ11世が回勅"Mortalium animos"の中で教えたものと反対である。この教皇はこう言った。「この点に関して非カトリック者がキリスト者の諸教会の一致を実現させようとして使っている手段のこの複雑な宗教統一運動とこの問題の根源にあるある誤った意見をここで示し排斥するのが適当である。この意見を支持する者たちはキリストのこの言葉を常に引用する。「彼らが一つとならんことを。一つの群れ一つの牧者とならんことを」(ヨハネ17:21、10、16)そして彼らはこのキリストの言葉は一度も実現したことのなかった望み、祈りを表現していると主張している。彼らは実にキリストの本当の教会が持つべき印である信仰と統治の一致が実際的に今日に至るまで決して存在したことがなくまた今日でも存在していないと言いたてている。」

 カトリックの道徳と法律が排斥するこの宗教統一運動はついに「非カトリックの役務者」から悔悛、御聖体、終油の諸秘蹟を受けることを許すに至ってしまった(新教会法典Canon 844)そしてカトリックの聖務者に御聖体の秘蹟を非カトリック者に配ることを許可し「宗教統一的なもてなし」を促進させている。

 これらのことは明らかに天主から受けた啓示に反している。天主の啓示は「分離」を命じ「光と闇、信者と非信者、天主の神殿を分派の神殿との」一致を投げ捨てている(コリント現14ー18)。

2.-団体的・協議会的・民主主義的な教会の統治

 今日の近代主義者達は、まず信仰の一致を揺るがして後、統治の一致を揺るがし教会の位階制度的な構造を揺るがしている。第二バチカン公会議の文書"Lumen Gentium"によって既に暗示された教えが今度は新しい教会法典によって明確に採択された。それは、教皇を含めた司教達の団体は同じく教会において最高権力を享受し、それは常住し恒常的であるという教えだ。

 この二重の最高権力という教えは教会の教導職の教えとその実践に反している。特にこれは第一バチカン公会議とレオ13世の"Satis Cognitum"とに反している。つまり、[教会の聖伝によれば]ただ教皇だけがこの最高権力を保持し、教皇が適当だと判断する限りにおいてまた非常事態においてこれを教皇が他のものに伝えるのだ。

 この重大な誤謬に教会の民主主義的な方針が付け合わされている。つまり、新教会法典が定義するように「天主の民」に主権が存するというのだ。

 このヤンセニスト的な誤謬は、ピオ6世がこれを勅書"Auctorem Fidei"によって排斥している(Dz.2592)。

 「基礎共同体」「草の根」をして権力を行使するようにと促す傾向は、シノドゥスの創設、司教協議会、司祭委員会、司牧委員会、ローマの無数の委員会、国別の委員会が修道会の懐にも作られていることに見いだせる。このことについては、第一バチカン公会議Dz3061と新教会法典447条を見よ。)

 教会内の権威の衰退は今日至る所で牛耳っている無秩序と混乱の源である。

3.-人間の自然権に関する誤った考え。

 第二バチカン公会議の宣言"Dignitatis humanae"は、「宗教の事柄に関し」人間に誤った自然権があることを断言している。このことは過去の教皇の教えと反対であり、彼らは厳しくかかる冒涜を否定している。

 ピオ9世は、"Quanta Cura"とシラブスの中で、レオ13世は"Libertas Praestantissimum"と"Immortale Dei"の中で、ピオ12世はイタリアのカトリックの法律家達に対してした演説"Le Riesce"の中で、人間理性と典からの啓示がかかる権利を打ち立てることを否定している。

 第二バチカン公会議はどこででも「真理は真理に固有の力でしか押しつけられることができない」と信じ宣言している。

 これはピオ6世がピストイア公会議のヤンセニストたちに反対の声を挙げて教えた教えに完全に反対である(Dz.2604)。

公会議はついに真理を支持しない権利、真理に従わない権利を宣言し、政府に、真理の宗教と偽りの諸宗教との法的平等を確立するようにさせ、宗教を理由に差別をもはやしないことを強制するという愚かさにまで達した。

 この教えは人間の尊厳に関する誤った観念に基づいている。これは、フランス革命の似非哲学、不可知論、唯物論から由来するもので聖ピオ10世は教皇令"Notre Charge apostolique"の中でこれらを既に排斥している。

 第二バチカン公会議は信教の自由から教会にとって堅実の時代が出ると言った。

 しかしグレゴリオ16世は反対に意見の規制なき自由が教会にとって利益になると言うことを述べるのは最高に恥知らずであると言っている。

 公会議は"Gaudium et Spes"の中で、人間のキリスト教的尊厳が托身の事実から由来し、托身はこの尊厳を全ての人に回復せしめたという偽りの原理を表明している。この同じ誤謬はヨハネ・パウロ2世の回勅"Redemptor hominis"の中で断言されている。この人間の偽りの権利が公会議によって認められたこの結果として我らの主[イエズス・キリスト]の社会統治の基礎が破壊され、宣教地における教会が、霊魂達がそのくびきの下にいるサタン的な力に対抗する戦いをし、我らの主を多くの人々の精神と心において統治させようとする権威と権力をゆるがせにしている。宣教精神は極端な改宗を勧めるものとして断罪されるだろう。

 宗教に関する国家の中立は、国家の大多数がカトリックである場合、我らの主とその教会にとって屈辱的である。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

 たしかに、教皇の権力は教会において最高権力である。しかし、この権力といえども天主の権力に従属するものであるから、絶対で無制限ではない。そしてこの天主の権力は聖伝、聖書、教会の教導職によって既に公布された諸定義によって表明されている(Dz.3116)。

 教皇の権力はその権力が教皇に与えられた目的によって制限されそれに従属している。この目的は第一バチカン公会議の憲章"Pastor aeternus"の中に明らかに定義されている(Dz.3070)。

 教会の構造を変更し、それを「天主の権利」に対して「人間の権利」と呼ぶことを主張することは、たとえば、信教の自由において、新しい教会法典によって許可された「御聖体によるもてなし」において、教会の中における2つの最高権力の肯定においてなされたことは、耐え難い権力の乱用である。

 これらの場合において、またその他のこれに似たような場合において、全ての聖職者とカトリック信者にはこれに抵抗し、従順を拒む義務があることは明らかである。盲目的従順はその時異常であり、誰一人として天主よりもむしろ人に従順だったことの責任を免れ得ない(Dz.3115)。もし悪が公であり、霊魂にとって躓きの対象であるときには、この抵抗は公でなければならない(S.Th.,2ae2ae,q.33,a.4)。

 これは目下と全ての正統的な権威との関係を治める道徳の基本原理に過ぎない。

金輪際、聖伝とカトリック信仰に堅く留まるもののみが罰を受け、異端説を唱え、あるいは本当の涜聖をやり遂げた者どもは全く心配すらしないと言う事実から、この抵抗が正しいことであることの確証を見いだす。なぜなら、これが権力の乱用の論理だからだ。

5.-ミサの聖なるいけにえに関するプロテスタント的考え。

 教皇ヨハネ・パウロ2世が、新しい教会法の前にある憲章の中で定義するままの教会の新しい概念は、ミサのいけにえという教会の主要な行為において深い変化をもたらしている。新しい教会論の定義は、全く正確に新しいミサの定義を持ち出している。つまり、それはサービスであり、団体的でエキュメニカルな交わりである。これよりも良く新しいミサを定義できない。新しいミサは新しい公会議後の教会のように、教会の聖伝と教導職からの深い断絶にあるものである。

 不当にも高揚された全てのことと蔑ろにされたこととを説明するのはカトリックと言うよりもむしろプロテスタント的な観念である。

 トレント公会議の第22総会でなされた教えとは反対に、またピオ12世の回勅"Mediator Dei"とは反対に、ミサにおける信者の参加の余地を誇張し、司祭の地位をただの座長におとしめ蔑ろにした。御言葉の典礼の地位を誇張し、罪の償いのためのいけにえという地位を蔑ろにした。共同体の食事と言うことを誇張してそれをし神聖化し、しかも、全実体変化による御聖体における主の現存への敬意と信仰を犠牲にしてまでもそうした。

 聖別された言語を廃止することにより無限にミサ典礼様式を多元化し、世俗的なあるいは異教的な要素を持ち寄ることによりそれを世俗化させた。また信者の本当の信仰と本当の敬虔の念を犠牲にしてまでも誤った翻訳を広範囲に広げた。

 しかし、フィレンツェとトレントの両公会議は、これら全ての変化に対し排斥文を発表し、私たちのミサは、そのカノンにおいて使徒の時代にまで遡ることを宣言している。教皇ピオ5世とクレメンス8世とはミサの変化や変更を避ける必要性について強く主張し、聖伝によって聖別されたローマ典礼様式を永遠に保護した。

 ミサの非神聖化、ミサの世俗化は、司祭職の世俗化をプロテスタント流になしつつある。

 プロテスタントのやり方に従った典礼改革は公会議後の教会の最も大きい誤りの一つであり、信仰と聖寵の崩壊をもたらす最もひどいものの一つである。

6.-異端の自由な流布

 探求の状態に落とされた教会の状況は、プロテスタント的な意見の自由を実践において導入し、教会内部においていろいろな数多い信経を作り上げてしまった。「聖庁」や「禁書目録」また「反近代主義者宣誓」などの「廃止」は、現代の神学者達において新しい理論が必要だと言うことを思わせ、信者の方向を迷わせる理論や、信者をカリスマ運動や聖霊降臨運動、基礎共同体へと駆り立てる新しい理論を出させた。これは結局天主と教会の権威に対抗して打ち立てられた真の革命である。

 多くの教皇達によって永久に排斥された現代の重大な誤謬は今より教会内で自由に発展している。

1-反スコラ学的な、実存主義的、反知性主義的な近代哲学がカトリック大学や大神学校で教えられている。

2-人間を全てのものの目的であるとする現代世界の言うがままをオウム返しに言おうとする教会当局の必要のため、人間中心主義が尊重されている。

3-自然主義(非超自然主義)-人間と人間的価値の高揚のために贖いと聖寵の超自然的価値が忘れられている。

4-進化論的近代主義のために、二十世紀の聖伝と啓示と教導職とが打ち捨てられている。彼らにとってもはや固定された真理もドグマも存在しない。

5-社会主義と共産主義-公会議がこれらの誤謬を排斥することを拒んだことはスキャンダルなことであった。そしてそのためにバチカンは今日では多かれ少なかれキリスト教的な社会主義や共産主義に対しては好意的であると信じるようになってしまったとしても不思議ではない。

そして過去十五年間の聖座の態度は、鉄のカーテンの向こうに対してであれ、こちら側に対してであれ、この判断が正しいことを確証している。

6-最後に、「フリーメーソン」「諸教会の宗教統一会議」「モスクワ」との一連の「同意」のために教会は牢獄にいる状態に還元させられた。これらのため教会はもはや自由に自分の使命を果たすことが全く不可能になってしまった。これらの同意は天に復習を叫ぶ本当の裏切りであり、それは最近最も躓きを引き起こし教会にとって最も害を及ぼした異端の主導者「=ルターのこと]に対してなされた賛辞の数々も同様である。

 教会がその敵に気を使うことなく我らの主イエズス・キリストの統治とマリアの統治とを実現させる自由を回復する時は来ている。




聖ピオ十世の最初の回勅『エ・スプレーミ・アポストラートゥス』

2021年03月16日 | カトリックとは
聖ピオ十世の最初の回勅『エ・スプレーミ・アポストラートゥス』

エ・スプレーミ・アポストラートゥス
1903年10月4日

全てのキリストの下に集めるという
教皇職についての聖ピオ十世の回勅
日本語訳:聖ピオ十世会

聖ピオ十世

 尊敬する兄弟たちである、聖座と平和と交わりを保つ全ての総大司教、首座大司教、大司教、司教、および、その他の教区長たちに、教皇ピオ十世は、教皇のあいさつと祝福をおくる。

1. 使徒座の最高の高みから(E supremi apostolatus cathedra)、私が天主の計り知れない配慮によって上げられたこの職座から初めてあなたたちに発言するとき、私が教皇職の重い責任をどれほどの涙と篤い祈りをもって避けようと努力したかと言うことを思い出させることは無駄なことではない。功徳は全く対応してはいないけれども、聖アンセルモが、自分はそれに反対で嫌であったにもかかわらず司教職の誉れを受け入れるように強いられた時の嘆きを私のものとすることが出来るようである。

 彼がその時あかしした悲しみの証言を私も今回再現する番であった。それは私がイエズス・キリストの群れの牧者という恐るべき使命をどのような霊魂の状態と意志とを持って受け入れたかを示すためである。彼はこう書いていた。

 「私の目の涙も叫びもその証人である。深い苦悩の内にある私の心からでる嘆きもそうである。それらは、私の上にカンタベリーの大司教職という天災が降り落ちてくる以前には、似たような悲しみが私に襲ってきたことが無かったと思われるほどであった。この日、私の顔をそばで見た人々はそれを無視することが出来なかった。生ける人と言うよりもむしろ死体にずっと近かった。私は驚きと苦しみとで蒼白だった。この選挙、いやむしろこの暴力に私はここまで抵抗した。私は真実を言う。私にできるかぎり抵抗した。しかし、望もうと望むまいと、今では私はますますはっきりと天主の計画が私の努力とは反対であると言うことを認めざるを得ない。私にとってどんな方法によってもこれを避けることが出来ないほどである。人々からの暴力と言うよりも、いかなる知恵もそれに打ち勝つことの出来ない天主からの暴力に負け、このカリスを私が飲まないで済むようにこれが私から遠ざかるようにと私にできるかぎりのすべての努力をした後に、私はついに自分自身の意見、自分の意志を捨てると言う決意以外のいかなる決意もないこと、そして天主の裁きと御旨とに完全に任せきるしかないと分かった。」

2. 確かに、私にとってこの重荷を避ける多くの真剣の動機が不足していたわけではない。私が小さいものであるという理由により、私が教皇職の名誉にふさわしいなどと決して考えることが出来ないということを考えなくとも、レオ十三世という、ほとんど26年の間教会を完全な知恵を持って統治し、その業績の輝きによって、敵どもの感嘆さえも勝ち得るほどであった、精神の崇高さと気高い徳を現し、その記憶を不死のものとした教皇の後継者に、私が選ばれるのを見て、どうして深く感動しないでいられようか?

 さらに、その他多くの理由には沈黙するとして、私は現代の人類の不吉な条件を考えて一種の恐怖に囚われていた。かつて無かったほど、今この時代に、人類社会が苦しんでいる深く深刻な病を誰が無視することが出来るだろうか。この病気は日に日に深刻に重大になっており、神髄まで犯しつつ、人類の廃墟へと引きずっている。この病とは、尊敬する兄弟たちよ、あなたたちがよく知っているとおり、これこそ天主を打ち捨てることであり、背教である。預言者のこの言葉に従って、この背教以外のいかなるものも、いささかの疑いもの無く、人類を確実にその崩壊まで導くものである。「見よ、あなたを離れるものは滅びる。」(詩篇73:27)かくも大いなる悪に対して私は、自分に委ねられた教皇職の力によって、解決策をもたらす義務をもっていると理解していた。私は天主のこの命令が私に与えられていることを理解していた。「今日、私は諸々の民の上に、国々の上に、おまえを立てた。根こそぎするために、倒すために、壊すために、打ちひしぐために、立てるために、植えるために。」(エレミア1:10)しかし、私は自分の弱さを良く自覚しており、かくも多くの困難を伴い、しかしいささかの遅れも許さないこの職務を担うのを恐れていた。

3. しかしながら、天主は、私の低さを権能のこの充満まで高めてくださることを良しとされたのであるから、私を強めてくださる方において勇気づけられる。天主の力に強められてこの仕事に着手する際、私は、教皇職の行使における私の唯一の目的がすべてをキリストの下に集める(エフェゾ1:10)ことであること、それはキリストが全てであり、全てのうちにまします(コロサイ3:11)ためであることを宣言する。

 おそらく、天主のことを人間的な短い測りで計ろうとして私の内密な考えを探り出そうとしそれを彼らの地上的な見方と彼らの派の利益に向けさせようとする者がいることだろう。これらの虚しい試みの出鼻をくじくために私は、まったき真実において、こう断言する。私は天主の御助けを持って、人類社会のまっただ中において、私にその権威を着せてくださった天主の役務者以外の何ものであることも望まず、それ以外の何ものでもないであろう。

 天主の利益こそが私の利益であり、その利益のために私の力と命を捧げ尽くす、これが私の確固不動の決意である。だから、もし私が霊魂の奥深くにある私のモットーを尋ねられるなら、私はこれ以外のものを与えることが出来ない。すなわち「キリストの下に全てを集める」である。

4. この大いなる業に着手し遂行することを望み、尊敬する兄弟たちよ、私の熱意を駆り立てることがある、それはあなたたちが私にとってこの事業における勇敢な援助者であるのが確実なことである。もし私がそれを疑っていたなら、天主に反乱してほとんどどこででも起こされた、そして今でもなされている不敬な戦争に直面しているにもかかわらず、私は不正にも、あなたたちがその戦いを知らない、あるいは無関心であると思っていたことになっただろう。現代についてこそ、天主に反乱して「異邦の民は乱れて騒ぎ、国々の民は虚しく吠え猛る」(詩篇2:1)ということがこれ以上真実ではありえない。そして天主の敵どものこの叫びはほとんどどこでも聞かれるものとなった。「われらから去り給え。」(ヨブ21:14)そこから、ほとんどの人々は、天主に対する敬意を全く捨て去ってしまった。そこからプライベートな生活においても公的生活においても天主の御稜威に対していかなる敬意も払われないのが生活習慣となってしまった。更には天主についての記憶と概念さえも完全に廃止してしまおうとあらゆる努力と作業を続けている。

5. 慎重に物事を考える人は、かのような精神の廃退は時の終わりについて告げられた諸悪の始まりではないかと恐れることが出来る。そしてこの地上との接触として聖パウロが語る滅びの子(2テサロニケ2:3)が本当に私たちの間に到来したのではないかと。かくも大きな大胆さと怒りを持って人はどこででも宗教を迫害し、信仰の教義に戦いを挑み、天主と人との全ての関係を無に帰そうと頑固な努力を続けている! 他方では、聖パウロの言うには、人としての反キリストの固有の性格は、それに相応しい単語がないほどの厚かましさで、天主の聖名を持つ全ての上に自らを挙げて創造主の地位を横領した、ということにある。それは天主の概念を完全に消し去ってしまうことは不可能ではあるが、反キリストは天主の御稜威を軽蔑し、目に見える世界を自分のために神殿のようなものとさせ、そこで同類のものたちから礼拝を受けると主張するのである。彼は天主の神殿に座し、そこであたかも自分自身が天主であるかのように示してしている。(2テサロニケ2:4)

6. 弱き死すべき人間たちが天主に対して挑む戦いの結果がどうなるかは、健全な精神の持ち主であれば、全く疑うことが出来ない。確かに自分の自由を乱用することを望む人間が、創造主の最高の権利と権威を犯すことができるかもしれない。しかし勝利は常に創造主のものである。それではまだ言い足りない。人間が勝利の希望を持って全く大胆にも天主に戦いを挑むとき人間にはほとんど完全な廃墟しかない。天主ご自身がそれについて聖書の中で私たちに教えている。聖書は、天主があたかもご自身の力と偉大さを忘れて、「あなたは、人間の罪に目を閉じてくださる」(知恵の書11:23)が、しかし後退したかのように見えた後には、「主は眠っていたもののように、ぶどう酒に倒された勇士のように目覚め」(詩篇77:65)、「天主は敵の頭を打ち砕かれた」(詩篇67:22)、それは全てのものが「地の果てまで全て天主が王である」(詩篇66:8)ことを知るためであり、「彼らが人間に過ぎぬことを思い知らせる」(詩篇9:21)ためである。

7. 尊敬する兄弟たちよ、私はこれら全てを揺るがない信仰をもって信じ期待している。しかしだからといって、各自に与えられた能力に従って天主の仕事を早めるために努力しないで良いというわけではない。うまずたゆまずする「主よ立ち給え。人間に勝たせ給うな」(詩篇9:20)という祈りのみならず、更には、これはもっと重要なことであるが、言葉と行いとによって皆の前で、天主が人間と全ての被造物について持つその主権の充満を、天主のために肯定し要求することである。それは天主の権利と命ずる権能が全ての人々によって崇敬を込めて認められ、実際に遵守されるためである。

 この義務を達成することは、自然法に従うばかりではなく、人類の利益のために働くことに繋がる。尊敬する兄弟たちよ、人類の大部分が、一方では文明の進歩を相応しく高揚するのだが、他方ではあたかも全てが全てに対立する戦いであるかのように互いに熱烈に相争っているのを見て、おそれと悲しみとに霊魂がつままされるのを誰が感じないでいられようか? おそらく、平和の望みは全ての心に宿され、平和を願ってそれを口にしないものは誰もいない。しかしこの平和を天主の外に探すものは正気を失ったものである。何故なら天主を追放したところには、正義も追放される。正義がないところには平和のためのいかなる希望も幻想になってしまう。平和は正義の業である(イザヤ22:7)。平和、つまり秩序の平穏を愛するが故に、「秩序の党」と呼ぶところのものを作るためにグループを作っている人々が存在し、しかもそのような者たちが多くあると言うことを私は知らないわけではない。しかし、何と言うことか! 彼らの期待は全く虚しく、全くの骨折り損だ! この世の物事の大混乱のまっただ中で平穏を再確立することが出来る秩序の党はただ一つしかない。それは天主の党である。天主の党こそを私たちは促進しなければならない。そしてこれにこそ私たちのできるかぎりの支持を与えなければならない。もしも私たちが公の安全保障を少しでも願っているのなら。

8. しかしながら、尊敬する兄弟たちよ、天主の御稜威と主権に関して諸国が戻ってくるために私たちがいろいろな努力を払ってきたが、イエズス・キリストによる以外には達成しえないだろう。使徒聖パウロは私たちに「既におかれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を誰も置くことが出来ない」と言っている(1コリント3:11)。キリストだけが「聖父が聖別して世に送られた」(ヨハネ10:36)者であり、「聖父の栄光の輝き、天主の本性の型」(ヘブレオ1:3)、真の天主かつ真の人であり、彼無くしては誰も、正しく天主を知ることが出来ない方である。何故なら、「聖父が何ものかを知っているのは、聖子と聖子が示しを与えた人のほかにはない」(マテオ11:27)からである。

 ここから、全てをキリストの下に集めることと、全ての人を天主への従順へと導くことは唯一の同じ事であることが分かる。従って、私たちの全ての努力が向かわなければならない目的とは、人類をキリストの支配下におくことである。こうすることによって、人は天主へと導かれるのである。

 それは、唯物論者が狂った夢物語の中で考え出した人間のことに無関心で死んだ神ではなく、生ける真の天主、本性の一性において三のペルソナの天主、この世の創造主、その無限の摂理によって全てのことに関わる天主、悪人を罰し善徳に報いを与える極めて正義な立法者である天主のことを語っているのである。

9. さて、キリストにまで辿り着く道はどこにあるのだろうか? それは私たちの目の前にある。それは教会である。聖ヨハネ・クリゾストモは私たちに正しくもこう言っている。「教会はおまえの希望である。教会はおまえの救いである。教会はおまえの避難所である。」(Hom. de capto Euthropio, n. 6.)

 そのためにこそキリストは、その御血の代価を持って勝ち取った後に、教会を創立したのである。そのためにこそキリストは教会にご自分の教えと掟を委ね、同時に、人々の聖化と救いのために、教会に天主の聖寵の宝を惜しみなく注いたのである。

 尊敬する兄弟たちよ、私とあなたたちとにどれほどの業が委ねられているかを見てほしい。それは、キリストの知恵から遠く離れて道に迷っている人類社会を、教会への従順へと導くことである。教会は彼らを今度はキリストに服従させるだろう。そしてキリストは天主へと服従させるだろう。もしも天主の聖寵によってこの事業が私たちに与えられているとするなら、願わくは不正が正義に場所を譲るのを見る喜びを私たちが持つだろう。そして私たちは天のいと高きところでこのとどろく声を聞き幸せであろう。「天主の救いと力と国とそのキリストの権威は既に来た。」(黙示録12:10)

 しかし結果が私たちの望みに対応するためには、全ての手段を使ってどのような犠牲を払っても、現代私たちが生きる時代に固有の、この怪物のような厭うべき不敬を全く根こそぎにしなければならない。この不敬によって人は天主の代わりに立っている。聖なる福音のいとも聖なる法律と勧告を、かつての尊厳まで高め直さなければならない。婚姻が聖なるものであることについて、青少年の教育について、この世の物の所有と使用について、国家の行政を司る者の義務について、教会によって教えられてきた真理を高く宣言しなければならない。最後に、法とキリスト教的制度に従って社会の諸階級の間にある正義に適ったバランスを再確立させなければならない。

 これこそが、天主の明らかな御旨に私を従わうために、私の教皇職の間、私の霊魂の全ての力を使って達成しようとする原理である。

 尊敬する兄弟たちよ、あなたたちの役割は、全てにおいてイエズス・キリストを形作る(ガラチア4:19)以外の何ものをも求めずに、あなたたちの聖性とあなたたちの知識、経験、徳に天主の栄光を求める熱心とによって私を助けてくれることである。

10. かくも高い目的に達成するために相応しい手段は何であろうか。それらは自明と心に浮かぶものであるから、それらを指摘するのはよけいなことであると思われる。願わくはあなたたちの第1の心遣いが、彼らの召命による義務により他の人々においてキリストを形作るように召されている人々においてキリストが形作られるようにとすることであるように。尊敬する兄弟たちよ、私はここで司祭たちについて語っている。何故なら、司祭職の名誉を持つ者たちは、彼らが共に生きる人々の中において、聖パウロが受けたと証言しているのと同じ使命を持っていると言うことを知らなければならない。聖パウロはこの優しい言葉を語っていた。「小さな子らよ、あなたたちのうちにキリストが形作られるまで、私はまた産みの苦しみを受ける。」(ガラチア4:19)ところで、もし彼らがまずキリストを着ていなかったら、聖パウロと共に「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の内に生き給うのである」(ガラチア2:20)「私にとって生きるのはキリストである」(フィリッピ1:21)と言うことが出来るまでキリストを着ていなかったら、彼らは一体どのようにしてこの義務を果たすことが出来るだろうか。また、全ての信者たちは、キリストの充満の年齢の測りに従って、完全な人間の状態へと向かわなければならないが、この義務は主要には、司祭の役務を行使する者たちに属するものである。それはただ単に彼らがイエズス・キリストの権能に参与するからだけではなく、イエズス・キリストの御業を真似て、それによって自分の内にキリストの御姿を再生しなければならないからである。

11. もしそうであるなら、尊敬する兄弟たちよ、聖職者たちを聖性へと養成するためにあなたたちがどれほど大きな心遣いをしなければならないだろうか! これを犠牲にするために譲歩することの出来るものは一つもない。従って、あなたたちの熱心の最善のかつ主要な部分はあなたたちの神学校へと向かわなければならない。それは神学校において教えの内容の完璧さと同時に道徳上の聖性が花咲くのを見るほど、神学校には秩序が導入され、学校運営が確保されるためである。神学校をあなたたちの心の最も甘美なところとせよ。この制度の繁栄を保証するためにトリエント公会議がそのいとも高い知恵において規定した全てのことを少しも蔑ろにすることがないようにせよ。青少年の候補者たちを聖なる叙階の秘跡に挙げるときには、聖パウロがティモテオへ書いていたことを忘れることがないように。「軽率に人に按手するな」(1ティモテオ5:22)。非常にしばしば、あなたたちが司祭職に上がるのを認めた者たちがそうあるように、彼らに委ねられた信者たちものちに同じようなものであるだろう(「この父にして、この子あり」と言うように、司祭と信者との間にも頻繁に言える)ということを確信してほしい。それがどのような性格ものであれ、いかなる個人的な利益も顧みてはならない。ただ天主の観点、教会と霊魂の永遠の幸せの観点から考えよ。それは聖パウロが私たちに警告したように「他人の罪に与らない」(1ティモテオ5:22)ためである。

 他方で、神学校を卒業したばかりの新司祭たちについてあなたたちの熱心が行き届かないことがないようにせよ。私はあなたたちに心の底から勧めるが、天の火に燃えているはずのあなたたちの心で、彼らを頻繁に抱きかかえるように。彼らをもう一度暖め、燃え立たせよ。それは彼らが天主と霊魂を勝ち得ることしか願わないようになるためである。尊敬する兄弟たちよ、私は真理の仮面を付けているがイエズス・キリストの香りが全くない或る新しい学問の邪悪な動きに、聖職者たちがつかまされないようにいとも大きな注意を払っている。これは偽りで邪険な議論を帯びて理性一本主義(=合理主義)や、半合理主義の誤謬の道を歩ませようとしている偽りの学問であり、これに対して既に聖パウロはティモテオにこう書いて警戒するように促していた。「あなたに委ねられたものを守れ、虚しい世間話と、偽学問の論争を避けよ。ある人々はそれに執心して信仰の道から迷ったのである。」(1ティモテオ6:20-21)これを言ったのは、学問の全ての分野において有益な学業に身を捧げ、より良く真理を弁護し、信仰の敵のする讒言を論破して勝利を収める準備をしている、称賛に値するこれらの若き司祭たちを裁くためではない。しかしながら、私はこのことを隠すことが出来ない。いや、私はそれをはっきりと公言しよう。私は、教会の聖なる諸学問と世俗の学問を蔑ろにすることなく、天主の名誉を求める熱心に駆られた司祭に固有の諸般の役務を執行しながら、霊魂の利益のために特に身を捧げる者たちを常に優先するし、将来にわたって優先するだろう。

 「子供たちがパンを求めても、さいてやるものはない。」(哀歌4:4)預言者エレミアがかつてしたこの嘆きを現代私たちに当てはめることが出来るのを見て、「私は心に大きな悲しみと絶えまない苦しみを感じている」(ローマ9:2)。実に、聖職者の中には個人的な好みを優先させて、現実に有益であると言うよりも見せかけだけの利益のことに勢力を使って活動しているものは不足していない。他方で、彼らよりも数は少ないかもしれないが、キリストの模範に倣って預言者の言葉を自分のものとしている司祭たちもいる。「主の例は私の上にある。私に油を注いで聖別されたからである。霊は貧しい人々に良い便りをもたらし、捕らわれ人に解放を、盲人に見えることを告げる」(ルカ4:18-19)。

12. しかし、人の道案内は理性と自由であるから、天主に霊魂に対する支配権を復権させる主要な手段は宗教教育であるということが分からない人がどこにいるだろうか。

 イエズス・キリストに敵対し、教会と福音を恐れる人々は、そのどれほど多くが悪意と言うよりもむしろ無知のためにそうしているであろうか! 彼らについてこう言うことが出来るだろう。「かの人々は自分たちの知らぬことを冒とくする」(ユダ10)これは一般大衆や、その社会条件が誤謬に最も近づきやすくしている最も卑しい社会階級の人々のみならず、極めて特別な高等教育を受け上の社会階級にいるような人々にさえもそのことが言えるのである。そこから多くの人々において信仰が喪失している。何故なら「科学の進歩が信仰を窒息させた」のではなく、むしろ無知がそうしたのであると認めなければならない。無知が大きければ大きいほど不信仰というより大きな害を引き起こしている。そのためにこそキリストは使徒たちにこの掟を与えた。「行け、諸国の民に教えよ」(マテオ28:19)。

13. 教える熱心が、それによって全てにおいてキリストを形作ることを期待し役立つような実りをもたらすために、愛徳以外に効果的なものは何もない。おお、尊敬する兄弟たちよ、このころを私たちの記憶の中にしっかりと刻みつけよう。何故なら「主は地震中にはおわさない」(列王上19:11)からである。苦々しい熱心によって霊魂を天主に引き寄せることが出来るなどと期待するのは虚しいことである。誤謬を厳しくしかり、悪徳を荒々しく辛辣に矯正することは非常にしばしば利益よりも大きな損害をもたらすだけである。聖パウロはティモテオに勧告して正しくこう言っている。「繰り返し論じ、反駁し、とがめよ」そして聖パウロは直ぐに言葉を加えて「全ての寛容を持って」(2ティモテオ4:2)と言っている。これ以上にイエズス・キリストが私たちに残された模範に適うものはない。

 イエズス・キリストこそ私たちにこう招いて下さった。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るが良い。私はあなたたちをやすませよう」(マテオ11:28)。私たちの主のお考えでは、この労苦する人、重荷を負う人とは誤謬と罪との奴隷状態にある人々に他ならなかった。この天主なる師には、何と大きな柔和があったことであるか! 不幸な全ての人々に対して何という優しさと、何という同情心をお持ちだったか! 天主の聖心は素晴らしくもイザヤによって私たちにこう描かれている。「私は彼のうちに霊をおく。彼は叫ばず、声を立てず、彼は折れかけたあしを折らず、弱い炎の灯心を消さない」(イザヤ42:1-3)。

 この「寛容で、慈悲に富む」(1コリント13:4)愛徳こそが、私たちに敵意を抱く人々、私たちを迫害する人々までも行き渡らなければならない。聖パウロが高らかに言うように、「侮辱されては祝福し、迫害されては堪え忍び、そしられては慰める」(1コリント4:12-13)のである。もしかしたら、彼らは実際そうあるよりももっと悪いように見えるだけなのかもしれない。彼らが他の人々とつき合っていること、彼らが持つ偏見、彼らが受けた教えや悪い模範、世間体、彼らの受けた愚かな忠告などのために、彼らが不敬の派に与するようになってしまった。しかし、彼らがそう思わせようとしているほどは実際、その心の底では彼らは悪たれてはいない。愛徳の炎がついには彼らの霊魂にある暗闇を追い払い、そこに光と共に天主の平和が支配するようになると期待できないなどと誰が言うことが出来るだろうか? しかし天主はその結果ではなく善意に報いを与えると確信し、うまずたゆまず愛徳を続けなければならない。

14. 尊敬する兄弟たちよ、しかしながら、キリストによる諸国の刷新というこの極めて困難な事業において、あなたたちとあなたたちの聖職者たちが助けもなくそのままであるということは、決して私の考えではない。天主がそれぞれ各自に自分の隣人の世話をするように命じたことを私たちは知っている。(シラの書17:14)司祭職をまとったものだけではなく全ての信者は例外なく天主と霊魂の利益のために働かなければならない。確かにそれは、各々の見解と傾きに従ってであるが、しかしそれは常に司教たちの方針と意志に従ってである。何故なら教会において、命じ、教え、指導する権利は「天主の教会を牧するために、聖霊によって教会の監督と定められたあなたたち」(使徒20:28)司教、以外の誰にも属していないからである。

 常に宗教の善のためという、さまざまな目的のためにカトリック信者たちがグループを作ることは、長い間、私の先任者の教皇たちによって承認され祝福されてきたことである。私も、喜んでこのように美しい事業を褒め、これが広がり、都会でも田舎でも、どこででも栄えるようにとの篤く望む。しかし、それと同時にこれらのグループに参加する人々がキリスト教的生活の義務を忠実に果たすことを、このグループの第1のそして主要な目的として持つように私は求める。実際、権利と義務について数多くの議論を手際よく提示し、それらに雄弁を持って回答を与えたとしても、もしもそれら全てが実践に結びつかなかったら、ほとんど意味がないからである。

 現代が要求しているもの、それは実践である。そしてそれは、無条件に天主の掟と教会の掟を完全に厳しく守ること、宗教を高らかに率直に表明すること、全ての形の愛徳を、自分のためとかこの地上での利益を求めずに実行すること、そのような実践である。

 多くのキリストの兵士たち(=カトリック信者のこと)が示したこのような種類の輝くばかりの模範は、多くの言葉と崇高な議論よりももっと多くの霊魂たちを揺さぶり導いてくれる。その時、おそらく無数の人間が世間体を踏みにじり、全ての偏見と躊躇を取り除いてキリストに帰依し、今度は彼らが、真の確実な至福の保証であるキリストに関する知識とキリストへの愛を促進するのを見ることになるだろう。

 すべての町と村とにおいて、主の掟が入念に遵守され、聖なるものが尊敬され、頻繁に秘跡を受けるようになると、一言で言うとキリスト教的生活があるべき姿に戻されるその日には、尊敬する兄弟たちよ、私が考えていたキリスト教に下に全てを集めるということが実現するのである。それは永遠の善を勝ち取ることが出来るということだけでなく、非常に幸福にも同時にこの世の福利と公の繁栄とも得られるだろう。

 何故なら、この結果がひとたび得られるなら、貴族も金持ちも小さい人々に対して正義を尽くし、愛徳を尽くすだろうし、この世の小さき者たちも、不幸な生活条件による不足を平和と忍耐を持って堪え忍ぶだろうからである。市民は自分のわがままではなく法律に従うだろうからである。皆が、「天主から出ない権威はない」(ローマ13:1)のであるから統治する人々に対して尊敬を愛を持つことを自分の義務と見なすだろうからである。

 更に、その時、皆の前で、イエズス・キリストによって創立された教会が、まったく完全な自由を享受しなければならず、いかなる人間の支配も受けてはならないことが明らかになるだろう。私はこの教会の自由を主張することによって、宗教の聖なる権利を保全するばかりか諸民族の共通善と安寧を計らうのである。「敬虔は全てに役立つ」(1ティモテオ4:8)のであり、敬虔が支配しているところは「民は平和の家に住む」(イザヤ32:18)からである。

15. 願わくは「慈悲に富む」(エフェゾ2:4)天主が、御憐れみによってイエズス・キリストにおける人類のこの刷新を早め給わんことを。何故なら、これは「望む者や走る者によらず、天主のあわれみによる」(ローマ9:16)からである。尊敬する兄弟たちよ、私たちは皆、「謙遜の霊において」(ダニエル3:39)絶え間ない熱烈な祈りによって、イエズス・キリストの功徳に頼って、天主にこの恵みを求めよう。また天主の御母のいとも力強い取り次ぎに頼ろう。それをもっと豊かに得るために、私があなたたちにこの書簡を与えるこの日は、聖なるロザリオの祈りを荘厳に祝うために定められているが、私は、前任者レオ十三世が十月を天主の御母にして童貞女なる聖母に捧げたその命令を再確認し、全ての教会において公にロザリオの祈りを唱えることを命じる。私はさらにあなたたちに、取りなしてとして、カトリック教会の守護者、聖母のいと浄き浄配である聖ヨゼフ、使徒たちの頭である聖ペトロと聖パウロとにも祈ることを勧告する。

16. これら全てのことが、私の望みに従って実現し、あなたたちの全ての仕事が成功を収めるように、私はあなたたちの上に天主の聖寵のたまものを豊かにあふるるばかり祈り求める。尊敬する兄弟たちよ、私があなたたち、また天主の御摂理によってあなたたちに委ねられた信者たちに対して抱く誠実な愛徳の証拠として、私は寛大な心の天主において、あなたたちとあなたたちの聖職者たちまたあなたたちの信者たちに、教皇祝福を送る。

ローマ、聖ペトロの傍らにて、
私の教皇職の第1年、1903年10月4日、
ピオ十世、教皇

ラテン語













ルフェーブル大司教著 『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

2021年03月16日 | カトリックとは
ルフェーブル大司教著 『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』
第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味




聖ヨゼフがこの修道士を安全に導いてくださったように、聖ヨゼフが聖ピオ十世会とその活動を現代の教会の危機から安全に導いてくださる

2021年03月15日 | お説教・霊的講話
ドモルネ神父様のミサの後のお話し


今日は、聖ヨゼフに関する、或る短い物語について、お話ししたいと思います。

スペインのモンセラートにあるベネディクト会修道院の、とある修道士は、エジプトに避難する聖家族への特別の信心を持っていました。その修道士はいつも、とりわけ、聖ヨゼフの様々な悲しみを黙想していました。ヘロデ王の兵士たちが、幼子イエズスを亡き者にしようと探していたための、聖ヨゼフの苦悩。突然あらゆる持ち物を捨てねばならず、また知らない国に行き、そこで外国人としての扱いを受けざるを得ないがゆえの、聖ヨゼフの窮乏。マリアとイエズスに、どのようにして満足な衣食住を確保できるかについての、聖ヨゼフの心配。エルサレムの神殿や聖地から離れ、異教で偶像崇拝を行う国に住むことに対する、聖ヨゼフの嫌悪。エジプトへの逃避行がどのくらいの期間に及ぶかを知らないがゆえの、聖ヨゼフの苦悩。しかし、このベネディクト会の修道士はまた、聖ヨゼフの持つ信仰と、天主の御旨への絶対的な信頼も、黙想していました。聖ヨゼフは、天主の御旨のご指示が自分にひとつづつ示されるたびに、完璧にそれに従ったのです。

ある日、このベネディクト会の修道士は長旅に出ていました。ところが、修道院に戻る道の途中、まだ修道院まで遠いところで、日が暮れてしまいました。あたりが暗くなり、修道士は道に迷ってしまったのです。そのあたりには危険な崖があり、また恐ろしい獣たちがいることを思い、修道士の心配はつのりました。

すると突然、修道士の前に、ロバを手綱で引く男が現れたのです。ロバの背には、大変美しく、気高く、おごそかな身なりの婦人が乗っていました。婦人の腕の中では、幼子が眠っていました。そこで、修道士はこの男のところに行き、自分が道に迷ったことを話し、助けを求めました。男は、修道士を修道院まで送ってくれると言いました。二人は歩きながら楽しく話しあったので、修道士の心は、喜び、安心、優しさで満たされました。

ところが、一行が修道院の門に着くや否や、この男とその家族は跡形もなく、消えてしまったのです。その時、ベネディクト会の修道士は悟りました。自分を修道院まで導いてくれたこの男こそ、聖ヨゼフ御自身であったことを。エジプトに逃げた時の、御自分の様々な悲しみに同情してくれたこの修道士に対して、聖ヨゼフは報いを与えられたのです。

ちょうど聖ヨゼフがこの修道士を、夜の崖や獣の危険から安全に導いてくださったように、聖ヨゼフが聖ピオ十世会とその活動を、現代の教会の危機という危険から安全に導いてくださることを信じています。

聖ピオ十世会の状況には、聖家族のエジプトへの逃避行と似ているところがあります。

1 ヘロデは、幼子イエズスを亡き者にすることを望んでいました。第二バチカン公会議を推進する人たちは、カトリック信仰を破壊してしまう宗教の自由、エキュメニズム、司教団体主義などの近代主義的誤謬を、聖ピオ十世会に認めさせることを望んでいます。

2 イエズスを救うために、聖家族は、聖地からエジプトへと逃げなければなりませんでした。カトリック信仰を守るために、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会は、正義に反する教会法上の制裁を耐え忍ばなければならず、またカトリックの教会から追い払われてしまいました。

3 国外に逃げ、あらゆるものを失った聖ヨゼフは、将来どのように生き延びることができるのか、心配されていました。教会当局からあらゆる支援を奪われた聖ピオ十世会は、将来どのように生き延びて、信仰をのべ伝えてゆくことができるのか、心配していました。

4 ヘロデのために、聖家族は、エルサレムの神殿に行って天主に祈りを捧げることができませんでした。近代主義的な司教たちのために、聖ピオ十世会は、司教たちの教区の教会ではミサを捧げることが禁じられています。

5 聖ヨゼフと聖マリアは、自分たちの物質的な持ち物を全て失ってしまわれましたが、イエズスと共にいるという深い幸福に包まれておられました。聖ピオ十世会は、教会法上の地位を不当に奪われてしまいましたが、カトリック信仰の全てをのべ伝え続けられるという深い幸福を感じています。

6 結局、聖家族が、聖地に安全に戻れるよう導かれたのは、聖ヨゼフご自身でした。 聖ピオ十世会が、カトリックの信仰についていかなる妥協もすることなく、公的な地位の承認を再び得られるよう導いてくださるのは、聖ヨゼフであると、私たちは信じています。

ですから、私たちは自らを、聖ヨゼフにおゆだねいたします。アーメン。




3月19日の聖ヨゼフの祝日には、私たち聖ピオ十世会と日本を、聖ヨゼフに対する奉献を更新したいと思います

2021年03月15日 | お説教・霊的講話
2021年3月7日(主日)四旬節第3主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 お知らせ(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、お知らせがあります。

今年は聖ヨゼフの特別聖年、聖ヨゼフが全カトリック教会の守護者と宣言されて150周年ですから、私たちはこの特別な年の聖ヨゼフの祝日、3月19日を熱心に、聖ヨゼフに対する信心を行なって過ごしたいと思っています。

この準備の為に、聖ヨゼフの祝日の前の3月は、聖ヨゼフ様の為に特別のお祈りをしましょう。私たちはいつも2回ノベナをしますけれども、もしもまだなさっていない方は、3月10日から9日間のノベナを始めて下さい。

これはロザリオを唱えて、聖ヨゼフの連祷を唱えて、聖ヨゼフに対する祈りを唱えて、聖ヨゼフへのメモラーレ、奉献の祈りを9日間お祈り下さい。

そして、3月19日の聖ヨゼフの祝日には、私たち聖ピオ十世会と日本を、聖ヨゼフに対する奉献を更新したいと思います。

思えば10年前、アジア管区を聖ヨゼフに奉献した時に、ここでしました。そして2013年に、フェレー司教様の下で、聖ピオ十世会を聖ヨゼフに奉献しました。

その奉献を、私たちも更新したいと思っています。私たちのこの御聖堂では、その次の21日の主日に、一緒に、ミサの後に、奉献の更新式をすることに致しましょう。

なぜかというと、今、世界が大きな危機にあるからです。聖ヨゼフ様の助けを特別に願わなければならない時が来ているからです。

そして特に聖ヨゼフに、私たちと私たちの家族、私たちの愛する人々を守って下さいますように、そして私たちが聖ヨゼフに倣って、イエズス様とマリア様に仕える事ができますように、特にお祈り致しましょう。

その後で感謝のノベナを行ないましょう。3月が聖ヨゼフの聖なる月となりますように致しましょう。

なぜ、こんなに聖ヨゼフが重要なのでしょうか?

なぜかというと、聖ヨゼフはまさに現代、ますますその重要性が、その聖徳が、その高さが、私たちに認識されているからです。旧約の時代のヨゼフ、太祖ヨゼフの物語が、ちょうど今、新約のヨゼフによって実現されようとされているかのようです。

旧約の聖ヨゼフは、子供の頃、兄弟からいじめられて、そして妬みで井戸に捨てられて、そしてもう死んだものと、いないものと思われていました。なぜかというと、夢を見たからです。「太陽と月と星々が、ヨゼフを礼拝している」と。それを見て、それを聞いたお父さんとお母さんは、「何だ、お前は私たちがお前の事を礼拝するとでも思っているのか。」

実際、ヨゼフがエジプトに行って、エジプトのファラオに次ぐ宰相となって、そして結局、お父さんとお母さん兄弟たちは、ヨゼフの元に会いに、そうとは知らずに、御恵みをもらいにやって来ます。

それと同じように、新約のヨゼフに対する、太陽であるイエズス・キリスト、月である聖母マリア様、星々である諸聖人が、聖ヨゼフに対して讃美と感謝を捧げているかのようです。そして私たちもそれに合わせて、聖ヨゼフを讃美するように招かれています。

その時に、旧約の時代に困っていた家族を助けたように、聖ヨゼフは秘密の倉庫から、私たちに必要な全ての恵みを与えて下さる事でしょう。

良い聖ヨゼフの祝日をお過ごし下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





3月19日の金曜日に、私たちは、私たちの修道院、使徒職、司祭、信徒を、聖ヨゼフに奉献します。では、なぜこのような奉献を行うのでしょうか?

2021年03月15日 | お説教・霊的講話


聖ヨゼフへの奉献についての短い説教

ドモルネ神父様

はじめに

3月19日の金曜日に、私たちは、私たちの修道院、使徒職、司祭、信徒を、聖ヨゼフに奉献します。では、なぜこのような奉献を行うのでしょうか?

1.私たちはキリスト教徒でありマリアの子であるから

私たちが奉献を行うのは、私たちがキリスト教徒だからです。キリスト教徒であるということは、私たちの模範であるイエズス・キリストに従うということです。ところで、キリストは、いと清き童貞のご胎内でご托身になった最初の瞬間から、ご自分を完全に、聖ヨゼフの権威と指導の下に置かれました。キリストは人間として、聖ヨゼフに対して、子としての敬意、従順、献身をお持ちでした。ですから、私たちも、キリストの兄弟として、自分を聖ヨゼフに完全に委ねるのです。

私たちが聖ヨゼフに自分を奉献するのは、また、童貞聖マリアがそのような奉献をなさったからです。聖母は童貞としてのご結婚によってご自分を聖ヨゼフに完全に委ねられました。聖母は、聖ヨゼフに全面的かつ決定的な信頼を寄せ、聖ヨゼフの権威と指導の下に自らの身を置かれました。童貞聖マリアは私たちの霊的な母ですから、私たちは聖母の模範に従います。マリアの子として、私たちは自分を聖ヨゼフに委ねるのです。

2.私たちの主イエズスが聖ヨゼフをすべてのキリスト教徒に対する権威として立てられたから

私たちが聖ヨゼフに自分を奉献するのは、さらに、私たちの主イエズスが聖ヨゼフを教会のすべてのメンバーに対する権威として立てられたからです。主は、私たちがすべての必要について、聖ヨゼフのもとに行くことを望まれます。私たちの主イエズス・キリストのこのご意志は、太祖ヨゼフの物語にはっきりと現れています。

旧約の物語が、新約の実現を予告するものであったことは、皆さんご存じでしょう。旧約の太祖ヨゼフは、新約の聖ヨゼフのかたどりでした。しかし、太祖ヨゼフには、何がおこったのでしょうか? エジプトの王は彼にこう言いました。「『おまえが私の王宮の支配者となれ。私の民はおまえの命令に従うだろう。…私はおまえをエジプト全土のかしらとする』。そして、王は自分の手から指輪を取って彼の手に渡し、絹の衣を彼に着せ、首に黄金の首飾りをかけました。王は彼を自分に次ぐ車に乗せましたが、その時、叫ぶ人々が、すべての者が彼の前にひざまずき、彼がエジプトの全地の支配者になったことを知るようにと告げました。王はヨゼフにこう言いました。『ファラオは私である。しかし、おまえの許可なしには誰一人手や足を上げることはあるまい』」(創世記41章41-44節)。そしてその後、エジプトの国に飢餓が訪れ、窮地に陥った人々が食べ物を求めたとき、王は彼らにただ一つのことを告げました。「ヨゼフのところに行け。彼の言うとおりにせよ」(創世記41章55節)。

同じように、王の王であるイエズス・キリストは、聖ヨゼフをご自分の全教会の管理者に任命され、私たちに必要なものすべてについて、私たちが聖ヨゼフのところに行くことをお望みになります。そして、エジプト人たちが太祖ヨゼフに、すべての家財や不動産、さらには自分自身まで捧げたように、私たちキリスト教徒も、聖ヨゼフへの奉献によって、すべての所有物と自分自身を聖ヨゼフに捧げるのです。確かに、聖ヨゼフはすでに、特に私たちが洗礼を受けて以降、私たちの面倒を見てくださっています。しかし、自分自身を明確に聖ヨゼフに奉献することによって、私たちは聖ヨゼフとの関係を強め、聖ヨゼフが私たちのためにもっと多くのことをしてくださり、そして聖ヨゼフが私たちにしてくださることがもっと効果的になるようにするのです。

3.聖ヨゼフは私たちの使徒職の拡張を任されているため

しかし、私たちが3月19日に行う奉献は、私たち自身のためだけではありません。私たちの修道院や、日本と韓国における使徒職を奉献するのです。これはとても重要なことです。

旧約の太祖ヨゼフの物語を読んでみてください。ヨゼフはすべての人に食べ物を提供し、そのおかげで彼は、すべての人に自分の家財や不動産、さらには自分自身を王にゆだねるよう取り計らったと言われています。すべての土地、すべての人々が王の個人的な所有物となったのです。聖ヨゼフも同じことをされます。司祭を通して、天のパンである私たちの主イエズスを、霊的に飢えている人々に配られます。そして、少しずつ、これらの国々が、自らを主イエズスに完全にゆだねるようにされるのです。聖ヨゼフは全教会を任されておられます。これは、聖ヨゼフが世界の教会の拡大の総司令官であることを意味します。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストがすべての日本人と韓国人に知られ、愛されることを望んでいます。私たちは間違いなく、この二つの異教の国がカトリックの国になることを望んでいます。ですから、私たちは自分の使徒職を聖ヨゼフに奉献することによって、謙虚かつ完全に、自分を聖ヨゼフの導きの下に置かなければなりません。私たちの使徒職の活動においては、私たちは自分の知恵ではなく、聖ヨゼフの知恵に信頼を置くことを望みます。聖ヨゼフは、日本と韓国におけるカトリック信仰をどのように発展させたらよいか、私たちよりもずっとよくご存じです。私たちは、ただ聖ヨゼフの素直な助手となることを望みます。


結論

この奉献のために、敬虔に準備しましょう。特に、聖ヨゼフの連祷と、聖ヨゼフへのメモラーレの祈りを毎日唱えることを、皆さんにお勧めします。

 


カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2021年03月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計92人でした。大阪では21人でした。
日本全体では、113人でした。天主様に感謝いたします。


【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 92, including children.

09:00 mass
M: 18 (incl. 2 children)
F: 19 (incl. 2 children)
Total: 37 (incl. 4 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 5 children)
F: 22 (incl. 7 children)
Total: 41 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 9 (incl. 1 child)
F: 13 (incl. 1 child)
Total: 22 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 43 (incl. 8 children)
F: 49 (incl. 10 children)
Total: 92 (incl. 18 children)








2021年3月14日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for March 14, 2021

2021年03月14日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年3月12日(金)13日(土)14日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 3月12日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 3月13日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 3月14日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭(小野田神父)【ミサの開始が午前に変更になりました。ご注意ください。月曜日のミサはありません。】

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

3月14日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of March 14, 2021.

Mass times in Tokyo: March 14
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.

Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, March 12: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, March 13: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, March 14: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30












五つのパンと二匹の魚の奇跡ーその全てに意味があるのです|天から下った生きるパンをいただくために 「ヨゼフのもとに行け」

2021年03月13日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年3月14日は四旬節第四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


「み旨のままに」全き "お任せ"を愛し尊ぶこと 1 J・P・ド・コッサード神父

2021年03月13日 | カトリックとは

み旨のままに 下巻 J・P・ド・コッサード S.J.著 水谷愛子訳

L'abandon à la Providence divine par Pere Jean-Pierre de Caussade S.J. 

第一巻の最初の手紙をご紹介いたします。

LIVRE PREMIER ESTIME ET AMOUR DE L'ABANDON  第一巻 全き「お任せ」を愛し尊ぶこと
LETTRE 1 A LA SŒUR ÉLISABETH BOURCIER DE MONTHUREUX  第一信
Bonheur et paix inaltérable de l'âme qui s'abandonne entièrement à DIEU. 主に全く己れを任せる霊魂の味わう変りない幸福と平和に就いて
Madame et très chère Sœur. Vous faites bien de vous attacher fortement et presque uniquement à l'excellente pratique de l'entier abandon à la volonté de DIEU. C'est là que gît pour vous toute la perfection; c'est la voie la plus simple, celle qui conduit plus tôt et plus sûrement à une paix profonde et invariable; c'est aussi la sauvegarde assurée qui conserve cette paix au fond de notre âme, au milieu des plus furieuses tempêtes. L'âme qui s'abandonne vraiment à DIEU n'a rien à craindre de la violence des orages. Loin de lui nuire, ils serviront infailliblement, non seulement à accroître ses mérites, mais encore à l'affermir de plus en plus dans cette union de sa volonté à la volonté divine, qui rend la tranquillité de l'âme invariable.  主のみ旨に全く己れをお任せしようという、この上ない美しい生き方に、ひたすら又深く心を引かれているとのお手紙を大変結構なことと拝見しました。そういう風に生きることによって、完徳の凡てを修めることができます。これは一番簡単な方法で、しかもより早く、より確かに深い変らない平和に、あなたを導きます。極く激しい嵐のさ中にも、霊魂の奥底に平和をたたえさせ、それをしっかりと保たせてくれます。主に全く己れを委ねた霊魂は嵐の激しさなど意に介しません。嵐は、このような霊魂に害を及ぼすどころか却って功徳を積ませ、霊魂の変りない平和の源である「み旨との一致」を益々堅固にするばかりです。
O quel bonheur, quelle grâce, quelle sûreté pour l'autre vie et quelle paix inaltérable pour celle-ci que d'être en DIEU seul, de n'avoir plus que DIEU seul; plus d'autre appui, d'autres secours, d'autre espérance qu'en DIEU seul! O la belle lettre que vient de m'écrire sur cela une de vos Sœurs! Durant un mois, dit-elle, cette seule pensée :DIEU seul, je n'ai plus que DIEU seul, cette seule pensée la consolait, la soutenait, l'encourageait si fortement, qu'au lieu de regrets, elle sentait un fonds de paix et de joie inexplicable. 11 lui semblait que DIEU prenait la place tout entière de directeur, d'ami, et que lui seul voulait lui être toute chose.   主にのみ生き、最早主しか所有せず、主以外に何の助けも支えも希望も持たないことは霊魂にとって何と大きな幸福、何という恵み、そして、どんなにか来世を保証し又とない恒久的な平和を与えてくれるでしょう。 先日あなたのところの一修女がこのことに就いて素晴らしい手紙を書いてよこしました。「この一か月というものは『主のみ』という考えで一ぱいでした。私は最早主しか所有していません」と。このことを思い出すことが彼女を慰め、支え、勇気づけ、又めそめそさせるどころか言い知れぬ平和と喜びに浸らせるのでした。主は唯一の指導者、唯一の友として彼女の心を全部占められ御自身だけが彼女の凡てでありたいと望んでおられるかのようです。
Plus nous nous pénétrerons de ces sentiments, plus notre paix sera solide; car cette détermination bien arrêtée de ne chercher que DIEU et de vouloir tout ce qu'il veut, c'est par excellence la bonne volonté à laquelle la paix a été promise. Comment les créatures pourraient-elles troubler l'âme qui n'a plus à leur égard ni désir ni crainte? Efforçons-nous d'en arriver là, et notre paix sera vraiment imperturbable. Imitons le saint archevêque de Cambrai qui dit de lui-même : « Je porte tout au pis aller ; et c'est au fond de ce pis aller que je trouve ma paix dans l'entier abandon. »   こうした気持を深く心に留めれば留める程、私共の平和は益々しっかりしたものとなります。主だけを求め、主の望み給うものは凡て望むという固い決意は、おもに根強い平和を約束する素晴らしい善意に懸っています。もはや被造物に対して何の魅力も恐れも持たない霊魂を被造物は乱すことができましょうか。そこまで行き着くように努めましょう。そうすれば私共の平和は真に動じないものとなります。カンブレの聖なる大司教が御自分に就いて言われたことを真似ようではありませんか。すなわち「私は物事の最悪の場合を考える。そしてその最悪の奥に完全な〈お任せ〉を以て平和を見い出す」と。


マリア様の浄配、天主の御母の夫、聖なる夫となるとはつまり、同じ事を考え、同じ望みを抱き、同じ愛で一致していたという事

2021年03月13日 | お説教・霊的講話
2021年3月7日(主日)四旬節第3主日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖ヨゼフの特別聖年、そして聖ヨゼフの祝日が、教会の守護者である聖ヨゼフの祝日がいよいよ近付いてきました。3月19日です。

3月の最初から、私たちはノベナを始めています、第1回目のノベナの今途中です。
もしもまだ始めてない方は、第2回目のノベナが3月10日から始まります。どうぞ皆さん一緒になさって下さい。

今日は、聖ヨゼフの聖徳の偉大さについて、少しだけ垣間見てみる事に致しましょう。聖ヨゼフの聖徳はどこに根拠があるのでしょうか?どこからそれを私たちは知る事ができるのでしょうか?

聖トマス・アクィナスによると、「天主様は、私たちにミッションを使命を与えると同時に、それを果たすのに必要な御恵み、聖寵を与える」と。

ですから、「使命が偉大であれば偉大であるほど、それに相応しい特別の御恵みも与えられる」という事です。

では、聖ヨゼフのミッションとはどうだったのでしょうか?

それは、聖家族を守る事、保護する事。そしてマリア様の浄配となる事でした。

「マリア様の浄配、天主の御母の夫、聖なる夫となる」という事はつまり、「この二人は、夫婦は、同じ事を考え、同じ望みを抱き、同じ愛で一致していた」という事です。

「天主への愛、イエズス・キリストへの愛で、全く同じ事を考えていた」という事です。

マリア様のお望みはすなわち、聖ヨゼフのお望みであって、ですからこのマリア様の聖徳のその輝きを考えると、聖ヨゼフの望みはまさに清められていて、全く聖なるものであったとしか、それ以外考えられません。

最近の、近年の神学の研究の深みにより、私たちは教皇様の断言によって、私たちはこの事を知っています、「聖ヨゼフは、洗者聖ヨハネの聖徳よりもはるかに優れていた」と。「なぜなら、そのミッションが優れていたから。」

ところで、洗者聖ヨハネは、その母聖エリザベトの胎内6ヶ月いた間、私たちの主によって既に罪の赦しを得ました。原罪の汚れをきれいに取り去られました。ですからその原罪の罪の傾きはたった6ヶ月しかありませんでした。

ところで、聖ヨゼフはどうなのでしょうか?もしも聖ヨゼフは洗者聖ヨハネよりももっと聖徳が高いとしたら、その原罪の汚れの影響はもっと少ないかもしれません。これはまったくの推測に過ぎませんですけれども。そして聖ヨゼフは、マリア様のような無原罪の御孕りというわけではないでしょう。それは、マリア様だけが特別に受けた御恵みであるからです。では一体、聖ヨゼフはどうだったのでしょうか?

聖トマス・アクィナスは、マリア様の無原罪の御孕りについて、実は間違っていました。なぜかというと、本当は、事実は、マリア様は一瞬たりとも原罪の汚れの影響を受けていない、無原罪の御孕りの方ですけれども、聖トマス・アクィナスは、ほんのちょっとだけ、一瞬だけを実は認めてしまっていたからです。

ところである神学者によると、「もしかしたら、この聖トマス・アクィナスがマリア様に想定したような、その最低限の事が、原罪の影響が、聖ヨゼフに適用されるかもしれない」と主張しています。

なぜかというと、聖ヨゼフの聖徳は、偉大でなければならないからです。なぜかというと、そのミッションがあまりにも偉大であるからです。「天主の御母の聖なる浄配となる」という使命を受けたからです。

この聖徳の輝きの聖ヨゼフを見ると、どれほど聖ヨゼフが童貞の内の童貞であるマリア様を守って、そして純潔自身であるイエズス様を守る、その童貞の守護者、純潔の保護者であった、その輝きを見る事ができます。

特に現代、聖ヨゼフの模範は、私たちにとって必要です。なぜかというと、この世界はあまりにも多くの不潔や、汚い事で乱れているからです。今日のちょうど書簡にも聖パウロは言っています、「私たちにはそのような事を、口にする事もできないほどのものがたくさんある。そういう事があってはいけない。それは偶像崇拝者だ」と。

聖ヨゼフにぜひ行きましょう。「Ite Ad Joseph.」そして、私たちにその聖ヨゼフの聖徳に倣う御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




マリア様は「決して心配する事はない。希望を失ってはいけない。十字架のいけにえに留まろう」と仰って下さるに違いありません。

2021年03月12日 | お説教・霊的講話
2021年3月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(修道院にて)

聖父と聖子と聖霊との御名によりてアーメン。

今日は、初土曜日に多くの方々がミサに参加して下さって、とても嬉しく思います。マリア様が皆さんの愛を見て、とてもお喜びになっていると確信しています。

このミサが終わりましたら、マリア様の御心を称えて、御聖体降福式もいつものように行ないましょう。

今日福音では、イエズス様が十字架の上で御説教をします。

最後の遺言を、最後の残る財産を私たちに伝えようと、遺産として残そうとします。

「見よ、汝の母ここにあり」と。



聖ヨハネを通して、私たちにマリア様を下さいました。私たちの母として。イエズス様が下さったのですから、私たちはマリア様を本当にお母さんとして受け取らなければなりません。

マリア様も、イエズス様の命令に従います。
「汝の子、ここにあり」と。

私たちの事を、「これからは、本当の子供のように愛しなさい」と、イエズス様はマリア様にお願いします。

マリア様はイエズス様を愛すると同じ愛を以って、私たちを愛されようとします。例え不出来な子供であっても、マリア様は私たちは全力を尽くして愛して、私たちにおいてイエズス様を形造ろうとされます。

聖ヨハネを見て下さい。使徒たちが裏切って、ユダが、イエズス様からあれだけの愛を受けて、そして責任も与えられて、司教となった、そして最後の晩餐にも与ったそのユダが、イエズス様をお金の為に裏切ります。愛のしるしの接吻を以って裏切ります。そしてローマ当局に身柄を渡してしまいます。それを見て弟子たちも、あれだけ一緒にいた弟子たちも、皆逃亡します。ヨハネも逃亡しました。

しかし、おそらく使徒ヨハネは、「もしかしたら、マリア様の身に危険が及ぶかもしれない。イエズス様のお母様だ」と、「もしかしたら」と思って、マリア様に「危ない」という事を知らせに来たのかもしれません。

マリア様はそのヨハネの話を聞いて、使徒たちが皆逃げてしまった、イエズス様はたった一人だ、これからもう逮捕されてしまった、という事に、どれほど心を痛めた事でしょうか。

しかしマリア様の汚れなき御心はすぐに、イエズス様の元に行く事を決心します。ヨハネも、マリア様を見て勇気を得ます。



マリア様がいれば、どんな事があっても、何も危害が行きませんでした。たとえイエズス様の弟子だという事が分かっていても、どんな事もありませんでした。

使徒聖ヨハネは、マリア様のおかげで、十字架の元に佇む事ができました。イエズス様の元に戻る事ができました。



今現代、カトリック教会でも、イエズス様の超自然の教えを離れて、それ以外の事を教えています。残念ながらイエズス様を暗黙の内に否定しています。

「イエズス様だけが本物の救い主だ」という事は、あたかも言ってはいけない事であるかのように、自分で検閲をしています。そうでなくて、イエズス様を知らないともとれる、カトリック教会の過去を否定するような事さえも言う、司祭や司教様もいます。

この背教の時に、私たちも、マリア様の所に参りましょう。

今日、皆さんがこうやって汚れなき御心の元に来られたというのを御覧になって、マリア様は皆さんに、聖ヨハネのように、「さぁ、決して心配する事はない。希望を失ってはいけない。私たちはイエズス様の共に留まろう」と、「聖伝のミサに留まろう。十字架のいけにえに留まろう」と仰って下さるに違いありません。

マリア様の元に、心から馳せ寄る事に致しましょう。

「汝の母、ここにあり。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない(教皇フランシスコのたくさんの活動にもかかわらず、「キリストの代理者」と「普遍的な牧者」の任務を実際には放棄している)

2021年03月11日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

Rome without a pope. Bergoglio is there, but not Peter
教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない

2021年2月26日 FSSPX.NEWSサイト

著者の許可を得て、以下のコメントを喜んで掲載させていただきます。このコメントは、教皇フランシスコが、彼が携わっている洪水のようにたくさんの活動にもかかわらず、「キリストの代理者」と「普遍的な牧者」の任務を実際には放棄しているという事実を、賢明な方法で強調しています。私たちがこれを紹介しているのは、この観察自体が正確であるからであって、フランシスコに教皇の称号があることを否定するような神学的・教会法的な結論に至るためでは決してありません

教皇を特定するためにその名字を使うことはイタリアでは一般的であり(パチェリ教皇、モンティーニ教皇…)、このことが、著者が証明しているように、彼の教皇在位を認めるのを否定していることを示しているのではありません。たとえ現教皇自身が、主が「心を取り戻し」という条件の後に置かれた「兄弟たちの心を固めよ」という、その職責を放棄しているとしてもです。

この心を取り戻すことが実現するように、今日、教皇のために祈ることがこれまで以上に必要とされています。「Dominus conservet eum... et non tradat eum in animam inimicorum ejus」、「願わくは天主が教皇を守り…敵の手に渡し給わざらんことを」。

アルド・マリア・ヴァッリは、イタリアのバチカン専門家(Vaticanist)として最もよく知られている人物の一人です。しかし、この文章では、何よりも、まず第一に、教会のまことの子が持っているカトリックの魂が語っているのです。

ローマには教皇がいません。私が支持したいと思ったこのテーゼは、この五つの単語【ローマには教皇がいません】に集約されます。私がローマと言うとき、教皇が司教である都市だけを指しているのではありません。私がローマと言うとき、私は世界のことを言っています。今の現実のことを言っています。

教皇は物理的には存在していますが、現実にはそこにいません。なぜなら、彼は教皇が行うことを行っていないからです。彼はそこにいますが、ペトロの後継者として、またキリストの代理者としての義務を果たしていません。ホルヘ・マリオ・ベルゴリオはいますが、ペトロはいません。

教皇とはどのような人物のことでしょうか? その定義は、歴史的な面、神学的な面、司牧的な面のどれを強調したいかどうかによって異なるかもしれません。しかし、本質的には、教皇はペトロの後継者です。では、イエズスは使徒ペトロにどのような任務をお与えになったのでしょうか? 一方では、「私の羊を牧せよ」(ヨハネ21章17節)、他方では、「あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上で解くものはみな天でも解かれる」(マテオ16章19節)ということでした。

これが教皇のすべきことです。しかし、今日、この任務を遂行する者はいません。「あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章32節)。イエズスはペトロにそう言っておられます。しかし、今日のペトロは自分の羊を牧さず、信仰において兄弟たちの心を固めてはいません。なぜでしょうか? 誰かが次のように答えるかもしれません。「ベルゴリオは天主については語らず、移民、生態学、経済・社会問題についてのみ語っているからです」。しかし、そうではありません。実際、ベルゴリオは天主について語っていますが、彼の説教全体から浮かび上がってくるのは、聖書の天主ではなく、偽りの天主であり、私に言わせれば、弱められた、あるいはもう少し良く言うなら適応された天主です。何に適応されたのでしょうか? それは、人間にであり、また、まるで罪が存在しないかのように生きることを正当化しようとする人間の要求にです。

確かに、ベルゴリオは彼の教えの中心に社会的な問題を置き、散発的な例外を除いて、支配的になっている政治的に正しい(politically correct)ものの文化という同じ強迫観念の餌食になっているように見えますが、このことがローマに教皇がいない深い理由ではないと私は信じています。社会的なテーマを強調したいという点では、確かにキリスト教的・カトリック的な視点を持つことは可能です。ベルゴリオの問題は、別のものです。それは、彼の神学的な視点が逸脱しているということです。そして、これは、次の非常に明確な理由のせいなのです。その理由とは、ベルゴリオが語る天主は、赦す天主ではなく、むしろあらゆる非難を取り去る天主であるということです。

使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)にはこうあります。「教会は最も弱い子どもたちに注意を払い、世話をしなければなりません」。申し訳ありませんが、そうではありません。教会は罪びとを回心させなければなりません。

また、「アモーリス・レティチア」には、「教会は、結婚についての教えとまだ一致していない状況、あるいはもはや一致していない状況でも、建設的な要素を必ず評価しなければなりません」とあります。

申し訳ありませんが、この言葉は曖昧です。教会の教えと一致していない状況で、「建設的な要素」も出てくるでしょう(でも、どんな意味でしょうか?)。しかし、教会の使命は、そのような要素に正当性を与えることではなく、むしろ、掟を守ることによって、霊魂たちを天主の愛へと回心させ、その愛から離れないようにさせることなのです。

さらに、「アモーリス・レティチア」には次のようにも書かれています。「しかし、良心は、与えられた状況が福音の全体的な要求に客観的に対応していないことを認識する以上のことをすることができます。また、今のところ天主に対して捧げられる最も寛大な応答であるものを誠実さと正直さをもって認識し、それが自分の限界の持つ具体的な複雑さの中で天主ご自身が求めておられることであると、一定の道徳的確信をもって理解することができますが、まだ十分に客観的な理想ではありません」。

もう一度言いますが、曖昧さがあります。第一に、福音の「全体的な要求」、福音を守ることが多いか少ないかといったものはありません。非常に具体的な内容をもった分かりやすい福音があり、明確さをもった掟があるのです。第二に、天主が人に対して、罪の中に生きるように求めることは決しておできになりません。繰り返します、決しておできにならないのです。第三に、「自分の限界の持つ具体的な複雑さの中で天主ご自身が求めておられること」について、「一定の道徳的確信」を持っていると主張することは誰にもできません。これらの混乱した表現には一つの意味しかありません。道徳的相対主義を正当化し、天主の掟をあざけることなのです。

この天主は何よりも人間が非難されることから解放するのに全力を注ぎ、この天主は事情を軽減することを探し求め、この天主は命令することを控えて理解することを好み、この天主は「子守唄を歌っている母親のように私たちの近くにいて」、この天主は裁くことなく「親密」であり、罪ではなく人間の「弱さ」を語るこの天主は、「司牧的な伴奏」の論理に夢中のこの天主は、聖書の天主の戯画なのです。なぜなら、聖書の天主である天主は、すべてにおいて忍耐強いお方ですが、手ぬるいお方ではありません。天主はすべてにおいて愛であるお方ですが、自由放任になさるお方ではありません。天主は非常に思いやりのあるお方ですが、もてなしてくださるお方ではありません。言い換えれば、天主は、この【父という】言葉の最も完全で最も真正な意味での父でいらっしゃるのです。

その代わりに、ベルゴリオが採用した視点は、天主のお考えを完全に拒絶するのはそれほどではなくとも、横行している自由放任とあまり調和していない天主の特徴を拒絶するという、この世の視点であるように見えます。この世は、愛しておられるがその同じ尺度で裁いてもおられる、まことの父を求めているのではなく、むしろ相棒を、もう少し良く言えば、したいようにさせてくれ、「私は誰を裁くのか?【誰も裁かない】」と言ってくれる"同伴者"を求めているのです。

他の機会に、私は、ベルゴリオによって本当のビジョンを覆すビジョンが勝利する、と書いたことがあります。それは、天主が権利をお持ちではなく、義務だけをお持ちだというビジョンです。天主には、天主にふさわしい礼拝を受ける権利も、あざけられない権利もありませんが、赦す義務があるのです。このビジョンによれば、人間についての真理は反転します。人間には何の義務もなく、権利だけがあるのです。人間は赦される権利を持っていますが、回心する義務はありません。まるで、天主にはお赦しになる義務があり、人間には赦される権利があるかのようです。

これが理由で、あわれみの教皇として表現されているベルゴリオが、想像し得る中で最もあわれみのない教皇のように私には思えるのです。事実、彼は、天主の属性であり、天主のみの属性である、あわれみの第一にして基本的な形を無視しています。それは、天主の法を説き、そうする際に、天主の至高なる権威の高みから、人間という被造物に救いと永遠のいのちに至る道を指し示すことです。

ベルゴリオがこの種の「神」(god)を考案したとすれば、それは私たちが礼拝する唯一にして三位一体なる天主(God)ではないため、私は意図的に小文字の「g」で示しているのですが、それはベルゴリオにとって、人間が赦しを願うべき過ちが、個人的にも集団としても、原罪も自罪もないからです。過ちがないならば、贖いもありません。贖いの必要性がなければ、ご托身も意味がなく、ましてや聖なる教会という救いの箱船による救いのわざも意味がありません。その「神」(god)とは、むしろ「シミア・デイ」(simia Dei)―天主の猿まねをする者―、つまりサタンのことではないのか、と疑問に思う人がいるかもしれません。サタンは、彼が私たちを誘惑する罪や悪徳が、私たちの霊魂を殺し、私たちに至高の善【天主】の永遠の喪失を宣告するということを彼が否定するまさにその瞬間に、私たちを永遠の滅びへと突き落とす者なのです。

ですから、ローマには教皇がいません。しかし、グイド・モルセッリのディストピア【ユートピア(理想郷)の反対の暗黒郷】小説「Roma senza papa」(教皇のいないローマ)では、物語の中の教皇がザガローロ【ローマの東にある地区】に行って住んでいたので物理的にそうだったのですが、もっと深遠かつ根本的な意味で、今日、ローマに教皇はいないのです。

すでに異論を聞くことができます。「しかし、フランシスコはどこにでもいるのに、あなたはローマに教皇がいないと言えるのですか? 彼はテレビや新聞に出ています。タイム、ニューズウィーク、ローリングストーン、フォーブス、ヴァニティ・フェアといった雑誌の表紙を飾っています。ウェブサイトや数え切れないほどの本にも登場しています。誰もが、ガゼッタ・デロ・スポルト紙【イタリアの煽情的なスポーツ新聞】でさえもが彼にインタビューをしています。おそらく、これまでに一人の教皇がこれほどまでに存在感を示し、人気を博したことはありません」。私はこう答えます。「それはすべて真実ですが、彼はベルゴリオであり、ペトロではありません」。

キリストの代理者がこの世のものに関心を持つことは、確かに禁じられていません。それどころか、キリスト教の信仰はご托身の信仰であり、キリスト教徒の天主は、人間となられ歴史となられた天主です。ですから、キリスト教は行き過ぎた霊性主義を避けています。しかし、この世に存在することは一つのことであり、この世に属するようになることは、それとは全く別のことです。この世が話すように話し、この世が論理を述べるように述べることによって、ベルゴリオはペトロを蒸発させて消し去り、自分自身を前面に置いたのです。

繰り返します。1968年の革命から生まれたこの世は、まことの父を求めていません。この世は同行者を好むのです。父の教えは、父がまことの父であるならば、責任ある自由というやり方を指図しているため、簡単ではありません。何も指図することなく、ただ付き合ってくれる人が隣にいる方がはるかに居心地の良いものです。そして、これはまさにベルゴリオが行っていることであり、彼は父ではなく同行者である「神」(god)を見せているのです。

ベルゴリオの「出て行く教会」(outgoing church, chiesa in uscita)が、ちょうどすべての近代主義と同じように、「同行する」(accompany)という動詞を好んでいるのは偶然ではありません。それは、旅路の同行者であり、(洞察力という歪んだ概念によって)すべてを正当化し、最終的にはすべてを相対化させる教会なのです。

その証拠は、遠く離れたところにいるがゆえに自分たちが遠くでベルゴリオに信仰があると感じている人々の間で彼が成功を収めている一方で、近くにいて当惑し、困っている人々は、彼に信仰があるとは全く感じていないということにあります。

イエズスはこの問題について、はっきりと述べられています。「みなからほめそやされるとき、あなたたちは災いである」(ルカ6章26節)。「人々があなたたちを憎み、破門し、侮辱し、そして、人の子のためにあなたたちの名を不敬のものとして排斥するとき、あなたたちは幸せである」(ルカ6章22節)。

ベルゴリオもベネディクト十六世と同じように辞任を考えているという噂が時々浮上します。私は、ベルゴリオにはそのようなことはないと信じていますが、問題は別のことです。その問題とは、ベルゴリオがペトロの義務から辞任する過程の事実上の主人公になっている【すでに教皇としての責任を果たしていない】ことです。

今ではベルゴリオが国連の所属司祭(チャプレン)になったことはすでに他の場所で書いたとおりであり、この選択は前例のない重大なものだと信じています。しかし、彼が国連のアジェンダ(行動計画)や政治的に正しいことを支持していること以上に深刻なのは、彼が聖書の天主について語ることを放棄したことであり、彼の説教の中心にいる天主は、人を赦す天主ではなく、人から非難を消し去る天主であるということです。

父親像の危機と教皇職の危機は密接に結びついています。拒絶され解体された父が、道を指し示す権利のない一般的な同行者へと変貌したのとちょうど同じように、教皇もまた、客観的な天主の法の担い手であり、解釈者であることをやめ、単なる同行者になることを好んだのです。

このようにして、私たちが、天主を万能の父として私たちに示してくれるペトロを最も必要としている時に、ペトロは蒸発して消えてしまいました。愛に満ちた父であるのは、中立だからではなく、裁いてくださるからです。あわれみ深い父であるのは、自由放任だからではなく、真の善への道を示すことを約束されているからです。思いやりのある父であるのは、相対主義者だからではなく、救いへの道を示すことに熱心だからです。

私は、ベルゴリオの自我がほしいままにしている主人公が新奇なものではなく、大部分は新しい公会議の人間中心的な定式文にまでさかのぼると見ています。それは、教皇、司教、聖職者が彼らの聖なる役務より前に自らを置き、教会の役務より前に彼ら自身の意思を置き、カトリックの正統性より前に彼ら自身の意見を置き、および儀式の神性な性格の前に彼ら自身の典礼的なやりたい放題を置いたことから始まったのです。

このような教皇職の個人化が明らかになったのは、キリストの代理者が「私たちと同じ一人」であるように見せたいと考えて、尊厳の複数形(plurale humilitatis)の使用を放棄してからです。この使用が、教皇が個人的な立場ではなく、すべての先任者および聖霊ご自身とともに語っていたことを証明していたのです。それについて考えてみましょう。無原罪の御孕りの教義を宣言する際にピオ九世を恐れさせ、近代主義を非難する際に聖ピオ十世を恐れさせた神聖なる「余」(We)は、パチャママの偶像崇拝を支持したり、「アモーリス・レティチア」の曖昧さや回勅「フラテッリ・トゥッティ」の無関心主義を形成したりするために使われることはありませんでした。

教皇職の個人化の過程(これには、マスメディアの出現と発展が重要な貢献をしています)については、少なくともピオ十二世までは、誰が教皇であるかは信徒にとってあまり重要ではなかった時代があったことを思い出さなければなりません。なぜなら、教皇が誰であっても、常に同じ教理を教え、同じ誤謬を排斥するということを、ともかく信徒は知っていたからです。教皇に拍手を送る際、信徒はその時に聖なる玉座にいた人に拍手を送ったのではなく、むしろ、キリストの代理者の聖なる王権であり、最高の牧者イエズス・キリストの声である教皇職に拍手を送ったのです。

ベルゴリオは、自分を使徒のかしらの後継者として見せることを好まず、「教皇年鑑」(Annuario Pontificio)の中で「キリストの代理者」という肩書を隠しているため、暗黙のうちに、私たちの主がペトロとその後継者に与えた権威から自分を切り離しているのです。これは単なる教会法上の問題ではありません。これは、教皇職にとって非常に深刻な結果をもたらす現実なのです。

ペトロはいつ戻るのでしょうか? ローマはいつまで教皇がいないままなのでしょうか? お尋ねするのは無駄です。天主のご計画は神秘的です。「われらの思いではなく、御旨の行われんことを。われら罪びとをあわれみ給え」と唱えながら、私たちは天の御父にただ祈るしかありません。

Original Italian article : Roma senza papa. C’è Bergoglio. Non c’è Pietro.
イタリア語の元記事 : ローマ教皇のいないローマ。ベルゴリオはいる。 ペトロはいない。
(Source : Aldo Maria Valli - Translation: FSSPX.Actualités)

 


ヴィガノ大司教「エキュメニカルな開放性、シノドスの道、パチャママは、唯一の"欠点"が信仰を捨てたくないというだけのカトリック教徒に対しては不寛容を示すことを妨げない」

2021年03月11日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

元在米教皇大使であり、今では引退しているカトリック高位聖職者のカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の記事を参考情報としてご紹介いたします。お話の内容はとても手厳しいものです。

ヴィガノ大司教は、カトリック教会に属する大司教として、カトリック教会の名誉のために、自分の良心にかけて、今、カトリック教会を愛するがために命がけで発言しています。厳しい発言も、ひたすら教会の利益のためになさっておられます。

社会的激変を経験している今のバチカンと世界の動きの理解を深めるために、ヴィガノ大司教が今のバチカンの動きをどのように見ておられるのかを、繰り返しますがあくまでも参考情報として掲載いたします。

ヴィガノ大司教はこの記事では、第二バチカン公会議後「1958年以前のあらゆる教義、あらゆる信仰の真理、あらゆる教導職の文書、あらゆる教皇の発言について議論し、異議を唱え、拒否することが許されている」ばかりか、さらには宗教や信条を問わず対話し交流し「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹である」ことが可能とされていることを指摘します。

至聖なる三位一体、イエズス・キリストの神性、死者のための取り成しの教理、ミサの聖なるいけにえの目的、全実体変化、至聖なるマリアの終生童貞というカトリックの教えや信仰を否定する聖職者たちがいても、彼らはいかなる教会法上の制裁を受けることもない、とヴィガノ大司教は指摘します。

ただし唯一、制裁を受けるケースがある、それは第二バチカン公会議に従わないことだ、とも元教皇大使は言います。

言い換えると、ヴィガノ大司教の指摘に従えば、第二バチカン公会議は「新しい教会の唯一の公会議」です。

第二バチカン公会議以前の教会の過去については、それが2000年間絶え間なく続いてきたことであろうと容赦なくどのような批判も否定も軽蔑も許されていますが、第二バチカン公会議の新しい指針についてだけは神聖にして犯すべからずとされていることです。「公会議前の宗教」は「古くて軽蔑され推奨されない」とされる、とヴィガノ大司教は言います。つまり第二バチカン公会議以後の教会は、過去の教えと断絶しようとしているのです。

「奇妙なこと」であるとヴィガノ大司教は言います。何故なら「エキュメニカルな開放性、シノドスの道、そしてパチャママは、唯一の欠点が信仰を捨てないというだけのカトリック教徒に対しては不寛容さを示す」からです。

元教皇大使はさらに理由を付け加えます。「壁ではなく橋をつくる」ためにすべてが許される中で、カトリックの信仰にしがみ付くことだけが処罰に値するとされているからです。「教理よりも司牧が優先する」とされ、司牧の名前でカトリックの教えが踏みにじられていたとしても、第二バチカン公会議の新しい教えだけは全てに勝っているからです。

参考情報として、ヴィガノ大司教の記事を以下に掲載します。

Archbishop Viganò: Hypocrisy of Francis’ Claim Only Traditionalists Must be Treated Strictly
ヴィガノ大司教「フランシスコの『伝統主義者だけを厳しく扱わねばならない』という主張の偽善」

アタナジオ信経の「誰でも救われんと欲するものは」
あるいは
第二バチカン公会議の偶像崇拝について

Similes illis fiant qui faciunt ea,
et omnes qui confidunt in eis.

これら[偶像]を造る者と、これらに信頼する者とはみな、
これらと等しい者になるだろう。
詩編113章16節

かつてカトリックであった国々が、中絶や安楽死、ジェンダー理論、同性愛の「結婚」を推し進める法律を導入しています。一方で、米国では、合法的に選出された大統領が、ホワイトハウスにおけるその地位を奪われたと見られています。その代わりに、腐敗して堕落した中絶推進派の「大統領」が巨大な詐欺によって権力の座に据えられ、ベルゴリオ【教皇フランシスコのこと:イタリア人は、よく教皇のことを名字で呼ぶ】と進歩的な司教たちのへつらいの拍手を受けているように見えます。また他方では、世界の人々が、心理パンデミックや効果のない危険な偽ワクチンの押し付けで利益を得る策略家や陰謀家に人質に取られています。フランシスコはそれらの社会的激変とは関係のないこと、カテキズム教育に気遣いを示し、1月30日にイタリア司教協議会(CEI)の全国カテキズム・オフィスの選ばれた聴衆のために上演された一人語り(以下のアドレス参照)の中ではカテキズム教育に焦点を当てています。このショーは、カテキズム事務局が「第二バチカン公会議後のカテキズムの刷新に欠かせない道具」としてできて60周年を記念して上演されました。

この一人語りは、おそらくイタリア司教協議会の灰色の役人が概略の形で書き、この荘厳なる演説家が得意とする即興のおかげで即席的に展開したものです。この一人語りにおいては、公会議の教会の信徒にとって大切な言葉がすべて使われています。何よりもまず第一に、「ケリグマ」(kerygma)という言葉です。この言葉は、すべての良き近代主義者がギリシャ語の用語の意味をほとんどいつも知らないにもかかわらず、説教の中で決して省くことができないものです。多分、彼はアクセントや語尾も分からず、使用を遠慮することさえも知らないのでしょう。明らかなことですが、第二バチカン公会議の反復を繰り返す人々の無知は、聖職者が新しい方法による「創造的な」アプローチを特権として持つためにカトリックの教理を脇に置かざるを得なくなったため、それ以来、「統治の道具」(instrumentum regni)となっています。確かに、「ケリグマ」の代わりに「告げる」という言葉を使用すれば、新参者たちのスピーチをつまらないものにするでしょうし、さらに、固く禁じられたトリエント公会議後の概念主義にしがみつく大多数に対する、このエリート階層の軽蔑的な不寛容さを明らかにするでしょう。

革新主義者たちが聖ピオ十世のカテキズムを全力で嫌っているのは偶然ではありません。このカテキズムは、聖務日課やカテキズムの問答において、カテキズム教師の創造性にいかなる余地も残しませんでした。カテキズム教師は---- 過去の60年間もはやそうではありませんでしたが ----、そもそも自分が受けたものを伝える人なのであって、聞き手を刺激しないように時に応じて伝えるべき真理と脇に置いておくべき真理を選ぶという、救いの歴史についての捉えどころのない「個人的な回想」を伝える人ではありません。

あわれみ深いベルゴリオの教会、公会議後の教会の相続者(どちらも、教会に関するカトリック的なものはもはや何もない一つの精神が変異したものです)においては、1958年以前のあらゆる教義、あらゆる信仰の真理、あらゆる教導職の文書、あらゆる教皇の発言について議論し、異議を唱え、拒否することが許されています。それ以来、フランシスコの言葉によれば、人は「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹である」ことが可能です。あらゆる信仰者は、聖書や天主的聖伝、使徒的教導職による不変の教えに公然と矛盾する現在の偽りの教導職の非常に重大な暗示するものをはっきりと理解することができます。しかし、何十年にもわたってカトリック教徒を公会議の「再プログラミング化」した結果生じたナイーブな犠牲者は、異端者、抗議者、そして悪徳に身を委ねた人々からなるこの複合的なバベル【混乱】の中でも、正統的で、ローマ教皇の献身的な民で、高潔な人々のための、少なくともある程度の居場所が残っていると信じることができたかもしれません。

信仰に関係ないすべての兄弟とは? 寛容で曖昧な受け入れというこの原則は、制限を知りません…実際にカトリックであることを除いては。事実、1月30日にサラ・クレメンティーナ【教皇宮殿のホール】でベルゴリオが発した一人語りには、次のようにあります。

【引用開始】
「これは教導職です。公会議は教会の教導職です。皆さんは教会の一員であり、したがって皆さんは公会議に従うのです。もし皆さんが公会議に従わなかったり、自分の好きなように公会議を自分なりに解釈したりするのであれば、皆さんは教会の一員ではありません。この点については、私たちは厳しく、厳格でなければなりません。公会議は、これら以上のものを持つために交渉すべきものではありません…いや、あるがままの公会議です。そして、私たちが経験しているさなかの、公会議に関する選択性に属するこの問題は、他の諸公会議との歴史を通して繰り返されてきたのです。」
【引用終わり】

読者の皆さんは、私たちの説教者の不確実な散文に惑わされることのないよう、ご注意ください。彼は、彼の「オフレコの」即興の中で、教理上の混乱と構文の解体を組み合わせています。カテキズム教師への演説のメッセージは、「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)のあわれみ深い言葉を矛盾に陥らせ、この「回勅」書簡のタイトルを、「カトリック教徒を除くすべての兄弟」へと必要な変更をせざるを得なくさせました。そして、カトリック教会の諸公会議が教導職の一部であることがまさに真実であり、受け入れられるのであれば、同じことが新しい教会の唯一の「公会議」には言えないのです。この公会議は、私が何回も述べてきたように、主の群れの牧者によって行われた最も巨大な欺瞞を構成しています。この欺瞞は、――繰り返しは有益です(repetita juvant)――共謀する専門家の一団が、天主なる創立者が聖なる教会を設立なさったときに確立した目的とは反対の目的で、権威や教導職の行為、教皇の言説、各省の文書、典礼のテキストなど教会統治の道具を使用することを決定した瞬間に起こったものです。そうすることで、信徒は、古くて軽蔑され推奨されない公会議前の宗教の聖なる権威を奪った、これまで以上にあからさまに反カトリック的で最終的には反キリストの新しい宗教に従わざるを得なくなったのです。

それゆえに、私たちは、至聖なる三位一体、イエズス・キリストの神性、死者のための取り成しの教理、ミサの聖なるいけにえの目的、全実体変化、至聖なるマリアの終生童貞といったものを、否定してもいかなる教会法上の制裁を受けることもないと聞くという奇怪な状況に置かれているのです(これがその制裁を受けるケースであれば、第二バチカン公会議と現在のローマ教皇庁のほとんどすべての顧問は、すでに破門されていたことでしょう)。しかし、「もし皆さんが公会議に従わなかったり、自分の好きなように公会議を自分なりに解釈したりするのであれば、皆さんは教会の一員ではありません」。ベルゴリオが、公会議へのいかなる批判に対しても、このような厳しい非難をしている注釈を聞くと、私たちは本当に信じられないという気持ちになるのです。

【引用開始】
「この状況を見て、『私たちこそがまことのカトリック教徒です』と第一バチカン公会議の教理ではない『まことの教理』を継続させるために、第一バチカン公会議後に去って行った司教たちのグループ、信徒のグループ、複数のグループを私は思い浮かべます。今日、彼らは女性を叙階しています。」
【引用終わり】

注目すべきなのは、第一バチカン・エキュメニカル公会議の不可謬的に定義された教理に従うことを拒否した「司教のグループ、信徒のグループ、複数のグループ」は直ちに非難され、破門されましたが、今日では彼らは「信仰に関係なく」両手を広げて歓迎されたであろうこと、当時「古カトリック」を非難した教皇たちならば、今日では第二バチカン公会議を非難したであろうこと、そして、この教皇たちはベルゴリオから「教会とともにいない」と非難されたであろうことです。一方で、最近の発明品である女性読師や女性侍祭は、キリストの教えを放棄した者が必ず行き着く「今日、彼らは女性を叙階している」というところへの前触れ以外の何ものでもありません。

奇妙なことに、エキュメニカルな開放性、シノドスの道、そしてパチャママは、唯一の欠点が信仰を捨てたくないということだけであるカトリック教徒に対しては不寛容さを示すことを妨げないのです。そして、ベルゴリオが「教会の教導職に同意しないカテキズム教育を提示しようとする人々には譲歩しない」と話すとき、彼は、自分自身を否認するのです。使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)の中で、壁ではなく橋をつくる人々を得るために(これはサンタ・マルタ館の廷臣たちにとって大切な表現です)理論化されていることですが、教理よりも司牧が優先する、を否認しているのです。

ですから、今から私たちは、アタナジオ信経の「書き出しの語句」を、次のように現代化することができます。
Quicumque vult salvus esse, ante omnia opus est, ut teneat Modernistarum hæresim.
(誰でも救われんと欲するものは、まず近代主義の異端を擁せねばならぬ)

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年2月3日
司教殉教者聖ブラジオ


聖ヨゼフの聖徳の偉大さの根拠|The greatness of St Joseph

2021年03月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年3月7日、四旬節第三主日に東京で録画した、小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】