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教皇フランシスコの教皇職に関する聖ピオ十世会総長とのインタビュー:私たちはこの世に屈することなく、キリストにおいてすべてを総括しなければなりません

2021年03月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

私たちはこの世に屈することなく、キリストにおいてすべてを総括しなければなりません

Non pas capituler devant ce monde, mais tout récapituler dans le Christ
We must not capitulate before this world, but recapitulate all things in Christ

2021年3月12日 FSSPX.NEWSサイト

教皇フランシスコの教皇職に関する聖ピオ十世会総長とのインタビュー

【DICI】神父様、教皇フランシスコが聖ペトロの座に就いてから8年がたちました。この8周年の機会に、このようなインタビューをさせていただき、本当にありがとうございます。

教皇フランシスコの教皇職を見守ってきた一部の人々、特に聖伝に愛着のある人々にとっては、思想の戦いはもう終わったように見えます。彼らによれば、今や支配的になっているのは実践(praxis)、つまり広範囲にわたる実用主義(pragmatism)に突き動かされた具体的な行動です。このことについて、あなたのご意見をお聞かせください。

【パリャラーニ神父】行動と思想をこのように対立させるべきかどうか、私にはよく分かりません。教皇フランシスコは確かに非常に実用主義的です。しかし、統治する人物である彼は、自分がどこへ行こうとしているのかをよく知っています。大規模な行動というものは、常に理論的な原則や一連の思想に突き動かされており、またしばしば、すべての実践に関係しうるしそして関係しなければならない中心的な思想に支配されているのです。

教皇フランシスコの実用主義(プラグマティズム)という原則を理解しようとするすべての試みには、試行錯誤がつきものだということを認識しなければなりません。例えば、彼の行動原理を、アルゼンチン的に変化した解放の神学で、ずいぶんと穏健になった「人民の神学」(teologia del pueblo)に見いだしたと考える人々がいます。しかし、実際には、教皇フランシスコはこの神学体系を超えており、さらにはこれまで知られたどの神学体系をも超えていると思えます。彼の行動に方向づけを与える思想は、伝統的な神学的基準に限定して考えていては、満足のいく形で分析や解釈をすることはできないと私は思います。彼はこれまで知られたどの神学体系をも超えているだけでなく、あらゆるものを超えているのです!

【DICI】それはどういう意味でしょうか?

【パリャラーニ神父】例えば、教皇ヨハネ・パウロ二世の場合、その教皇在位中に関してあった非難すべきすべての点にもかかわらず、カトリックの教理のうちいくつかの点には手を付けずにいました。そのあと、教皇ベネディクト十六世の場合には、私たちは、教会の根幹に関わる精神を扱っていました。彼は、聖伝と公会議の教え、あるいは聖伝と公会議後の教えを調和さようとして、円を四角にする【不可能なことをする】努力をしました。それは失敗に終わったものの、それにもかかわらず聖伝への忠実さへの関心を示しました。しかし、教皇フランシスコの場合、そのような関心はもはやありません。私たちがその下で生きている今の教皇職は、カトリック教会にとって歴史的な転換点であり、まだ残されていた砦(とりで)は、人間的に言えば、今や永遠に解体されてしまいました。また同時に、教会は自らに革命を起こして、霊魂とこの世に対するその使命を再定義したのです。

この大変動の全容を把握するにはまだ早すぎますが、私たちはすでに分析を試みることができます。

罪とあわれみ

【DICI】まだ存在していた砦が解体されたということですね。どの砦のことをおっしゃっているのですか?

【パリャラーニ神父】私が考えているのは、特に、キリスト教社会だけでなく、自然社会が成立するための最終的な道徳的基盤のことです。この解体は遅かれ早かれそうなるはずだったのであり、時間の問題だったのです。これまで教会は、時に曖昧ではあるものの、例えばカトリックの結婚に関する道徳的要求を堅持してきましたし、あらゆる性的倒錯をこれまで明確に非難してきました…。しかし、これらの要求は不幸にも、目的から逸脱した教義神学に基づいていたため、不安定になっていました。このような要求も、いつかは挫折するのは必然でした。揺るぎない行動原理は、その原理を作った方である天主という考えが弱められたり、歪められたりすると、長くは耐えられないのです。このような道徳的な原則は、しばらくの間、あるいは数十年の間は生き残ることができたことでしょうが、その骨格部分を奪われてしまったために、いつかは「時代遅れ」と分類され、事実上否定されることになってしまったのです。これは、教皇フランシスコの下で、特に2016年3月19日の使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris laetitia)によって私たちが目撃していることです。この文書は重大な誤謬を含んでいるだけでなく、全く新しい歴史主義的アプローチを表明しています。


【DICI】その新しいアプローチとは何でしょうか? 彼の選択を決定づけたのは何でしょうか?

【パリャラーニ神父】教皇フランシスコは、現代社会や今日の教会、さらには歴史全体についてまで、非常に明確な全体像を持っています。彼は、ある種の超現実主義、つまり「司牧的な」超現実主義のようなものに影響されているように私には思えます。彼によれば、教会は事実を直視しなければなりません。つまり、教会が今までのように道徳的な教理を説き続けることは不可能だということです。したがって、教会は、現代人の要求に屈する(capitulate)こと、その結果、母としての役割を考え直すことを決意しなければなりません。

もちろん、教会は常に母でなければなりません。しかし教皇によれば、教会の生き方を伝え、子どもたちを教育することによって母になるのではなく、子どもたちに耳を傾け、理解し、同伴する方法を知っている限りにおいて、母になるのです。これらの関心事項は、それ自体において悪しきものではありませんが、ここでは新しくかつ非常に特別な意味において理解すべきものです。カトリック教会はもはや自分自身を押し付けることはできず、したがって、もはや押し付けるべきではありません。教会は受動的でありかつ適応しなければなりません。教会の使命そのもの、さらにはその存在意義(raison d’être)さえをも条件づけ、決定するのは、今日生活しているがままの教会生活なのです。例えば、教会は、以前と同じ聖体拝領の条件を押し付けることがもはやできなくなっています。なぜなら、現代人がその条件を耐え難い不寛容なものと見なしているからです。この論理に従うと、唯一の現実的で真にキリスト教的な対応は、この状況に適応し、その必要条件を再定義することになります。このようにして、成り行きによって、道徳律は変化するのです。永遠の法は、今や進化の対象となっています。歴史的な状況と、偽りのかつ誤解された愛徳の命令とが、道徳の進化を必要なものとするのです。

【DICI】あなたのご意見では、教皇はこの進展に不安を感じているのでしょうか? それを正当化する必要があると感じているのでしょうか?

【パリャラーニ神父】教皇は間違いなく、このような過程が教会内でどのような反応を引き起こすかを最初から認識していたに違いありません。また、二千年以上にわたって、しっかりと本当に閉ざされていた扉を開いているのだという事実も意識していたでしょう。しかし、彼にとっては、歴史的な要求が他のすべての考慮事項を上回っていたのです。

この観点においてこそ、「あわれみ」の思想がその十全の価値と範囲を獲得します。この「あわれみ」の思想は、彼のスピーチに遍在しています。それは、悔い改めた罪びとを両手を広げて迎え入れ、再生させて恩寵のいのちを戻してやるという、愛の天主による対応ではもはやありません。それは今では、人類の緊急の必要性に合わせるために必要となった、霊魂の死に至るあわれみです。これ以後、自然法さえも守ることができないと考えられた人間には、天主から来る恩赦のようなものである、このあわれみを受ける完全な権利があるとするものです。これによれば天主は、もはや歴史を支配し給うことないばかりか、歴史に御自身を合わせて適応し給う、とされます。

このようにして、信仰や超自然的な秩序だけでなく、誠実で高潔な生活に欠かせない道徳的な原則も放棄されたのです。これは、道徳のキリスト教化を決定的に放棄することを意味します。ですから、恐ろしいことです。それどころか、今やカトリック教徒はこの世の道徳律を採用しなければならなくなってしまいます。あるいは少なくとも、ケースバイケースで、現在一般化している道徳の法(これには離婚して「再婚した」カップルや同性カップルを含みます)を自分のものとしなければならなくなります。

ですから、このあわれみは一種の万能薬となります。もはや回心・改宗できない世紀に、また掟のくびきを課せられないキリスト教徒に提示される新しい福音化の基礎となるのです。このようにして、危機にさらされている霊魂は、信仰において励まされ、強められのではなく、罪深い状況において安心させられ、慰められるのです。このようにすることで、信仰の守護者(訳者注:教皇のこと)は自然の秩序を廃止さえするのです。このことが意味するのは完全に何も残っていないということです。

これらの誤謬の根底にあるものは、超越性や垂直性が全くないことです。超自然的なもの、この世の後のいのち、そして何よりも、すべての人に彼らの救いのために必要な手段を決定的に提供した、私たちの主による贖いのみわざについて、暗黙のうちであっても、もはや言及することはありません。これらの手段の永続的な有効性は、もはや説かれることなく、認識もされません。彼らは、もはやそれを信じていないのです! その結果、すべてが純粋に水平的で歴史主義的なビジョンに矮小化され、そこでは原理よりも偶発事象が優位に立ち、そこでは地上の幸福だけが重要なのです。

【DICI】あなたがおっしゃったこの転換点は、今でも第二バチカン公会議と一致したものなのでしょうか。それとも、開催されなかった第三バチカン公会議のものなのでしょうか。

【パリャラーニ神父】公会議で設定された前提条件との連続性と、それを上回るものの両方があります。これは、非常に単純な理由のためです。第二バチカン公会議によって、教会がこの世に自ら適応し、教皇ヨハネ二十三世と教皇パウロ六世が推進した「アジョルナメント」(aggiornamento)によって「自ら現代化する」ことを望んだからです。今、教皇フランシスコは、この世への適応を続けていますが、それは新しくかつ極端な意味で行われています。教会は今や、この世の罪に適応しなければならないのです ― 少なくとも、その罪が「政治的に正しい」(politically correct)ものである場合には。すると、それゆえに、その罪は、現代社会で認められたあらゆる形で、それゆえにあわれみ深い天主に許されているとされるあらゆる形で、真正なる愛の表現として提示されるのです。常にケースバイケースではあるものの、ドイツですでに見られるように、このような例外的なケースが規範となるように決まっているのです。


教皇フランシスコのユートピア

【DICI】このように伝統的な道徳をどんどん消滅させていく一方で、教皇フランシスコは推進すべき価値を提案しているのでしょうか。あるいは、別の言い方をすれば、あなたのご意見では、彼はどのような基盤の上に価値を築こうとしているのでしょうか?

【パリャラーニ神父】これは非常に適切な質問です。これに対して教皇自身が2020年10月3日に最新の回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)でその回答を述べています。その中で、「これらすべてのことは、別の考え方を求めている」と断言し、続けてこう提案しました。「別の人類【へと移行する】を夢見て考えるという挑戦を受けとることができます。[…] これこそが、平和へのまことの道です」(127番)と。これはユートピアと呼ばれるものであり、自分のルーツから切り離されたすべての人々に起こることです。教皇は、天主の聖伝を破り、現実から完全に切断された理想と抽象的な完璧さを目指しているのです。

確かに、同じ文章の中で、彼は自分の立場を擁護して、自分の言っていることが「ひどく非現実的に聞こえるでしょう」と認めています。また、彼は自分の立場を正当化するための根拠を、こう明示しています。「奪われることのない人間の尊厳から生まれる権利があるという大原則」です。しかし、正確には、天主の啓示とカトリックの聖伝が私たちに教えているのは、人間の本性と人間の尊厳はそれだけで成り立つものではないということです。チェスタトンが言うように、「超自然的なものを取り去れば、残るのは不自然なものである」(G・K・チェスタトン「異端者の群れ(Heretics)」第6章)。 天主がおられなければ、自然だけでは、実際には、「不自然」となるように向かいます。天主は人間を超自然的な秩序に召し出して高めることで、人間の本性を恩寵へと秩序づけられました。それゆえに、自然は、自らに深刻な無秩序を導入しないなら、超自然的な秩序を取り除くことはできません。教皇フランシスコの夢、つまり彼の「別の考え方」は、非常に自然主義的なものです。

このユートピア的な性格のもう一つのしるしは、彼の夢が普遍的な範囲を持っていることです。それは、すべての人に、権威的で絶対的な方法で、その夢を押し付けるという問題です。人工的な方法で考え出された夢ですから、人工的な方法でしか押し付けることができないのです…


【DICI】しかし、教皇フランシスコのユートピアは何から成り立つのでしょうか?

【パリャラーニ神父】それは、現代人の願望に完全に浸透し、現代人が主張する権利に染まり、自分のルーツから切り離されて、「統合的エコロジー」と「普遍的兄弟愛」の二つの思想にまとめられています。教皇が二つの重要な回勅をこれらのテーマに捧げたのは偶然ではありません。これらのテーマは、教皇自身が主張するように、教皇の教皇職の二つの主要部分を特徴づけているのです。

回勅「ラウダート・シ」(Laudato sì)(2015年5月24日)の統合的エコロジーとは、天主の啓示、ひいては福音を脇に置いて、人類全体に提案された新しい道徳に他なりません。その原理は、純粋に恣意的で自然主義的です。それらは、自分たちが住む地球に情熱を持ち、純粋に物質的な関心に陥っている人類の無神論的な願望と何の問題もなく調和しています。

そして、アル・アズハルの大イマームが共同署名したアブダビ宣言(2019年2月4日)の際に、教皇が非常に荘厳な方法で提唱した回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)の普遍的な兄弟愛は、私たちの主イエズス・キリストによってあがなわれたすべての人間に共通する天主の父性に基づいて打ち立てられたキリスト教の兄弟愛を、自然主義的な戯画にしたものに他なりません。この兄弟愛は、過去2世紀にわたって、人間の間でまことに可能な唯一の兄弟愛を自らに置き換えようとする激しい望みにおいて、特にカトリック教会に対して憎しみをまき散らすことしかしてこなかったフリーメーソンの兄弟愛と実質的に同一なのです。

それは、超自然的な秩序を否定し、カトリック教会を慈善団体のNGOのような次元にまで矮小化しているだけでなく、原罪の傷を理解することなく、堕落した自然を回復し、人間の間の平和を促進するために恩寵が必要であることを忘れていることでもあります。

【DICI】このような状況下で、教会の役割と世俗社会の役割をどのように区別することができるでしょうか。

【パリャラーニ神父】今日、カトリック教会は、現代世界とその社会政治的必要性に奉仕するという司祭の権能のイメージを提供しています…しかし、この司祭職は、もはや世俗制度のキリスト教化や、再び異教的になってしまった道徳の改革に捧げられているわけではありません。それは、超自然的な次元を持つことのない、悲劇的なほど人間的な司祭職です。ですから、逆説的ですが、世俗社会と教会は、キリスト教の全盛期のように、共通の目標のために一緒に戦うことになるのです…しかし、今度は、世俗化した社会が、自分たちの見解や理想を教会に提案し、押し付けるのです。これは本当に恐ろしいことです。世俗的な人道主義が教会の光となり、教会に味を与える塩となっているのです。近年の教理的・道徳的な暴走は、教会人が現代社会に対して抱いている劣等感をよく表しています。

それにもかかわらず―これが私たちの信仰の神秘であり、私たちの希望でもあります―教会は聖なるものです! 教会は天主的なものです! 教会は永遠のものです! 今の時代の悲しみにもかかわらず、教会の内的生活は、その最高の次元において、確かに天主と天使を喜ばせる美しさを持っています。今日、いつものように、カトリック教会は霊魂を導き、聖化するために必要なすべての手段を完全に準備しているのです。

王たるキリストの必要性

【DICI】あなたのご意見では、教会はどのようにしてこれらの誤謬を取り除き、自らを再生させることができるのでしょうか?

【パリャラーニ神父】まず第一に、すべてのユートピアを否定し、現実に戻り、カトリック教会の基礎に立ち戻らなければなりません。教会が、譲歩や妥協のない率直な方法で取り戻さなければならず、再び説き始めなければならない三つの重要なポイントを私たちは挙げることができます。(1)「原罪の存在」とその影響 ---- この影響は、聖ヨハネが第一の書簡で語っている三つの情欲(訳者注:肉の欲、目の欲、生活のおごり)のことです ---- で、またこれはあらゆる形の自然主義的な素朴さに反するものです。(2)「恩寵の必要性」、つまりあがないの実であり、これはこれらの壊滅的な影響に打ち勝つための唯一の救済策ですが、全能の救済策です。(3)そして、この地上ではなく天にある「究極の目的の超越性」です。

これをもう一度説くことは、「兄弟たちの心を固める」(ルカ22章32節)ことを再び始めることです。まことのカトリック信仰が再び宣べ伝えられることです。カトリック信仰こそが、すべての超自然的な生活に必要な条件です。カトリック信仰はまた、自然法の不可欠な守護者であり、自然法はまた、その起源において天主的、永遠、不変であり、人間を完徳へと導くために必要な基盤です。

これら三つの概念は単一の理想、「王たるキリスト」という理想にまとめられます。キリストは私たちの信仰の本質です。すべての恩寵の作者です。人間を創造したときにすべての人間の心に刻まれた、この自然法の作者です。天主なる立法者は不変です。天主はその権威を放棄することはありません。信仰そのものを変えなければ、この法を変えることができないように、天主なる立法者にふさわしい名誉を回復しなければ、この法を回復することもできません。

簡潔に言えば、私たちはこの世の前に屈する(capitulate)ことなく、「キリストにおいてすべてを総括し【集め】(recapitulate)」(エフェゾ1章10節)なければなりません。「うその父」(ヨハネ14章30節および8章44節)をかしらとするこの世に勝つためのあらゆる手段をカトリック教会が持っているのは、王たるキリストにおいて、王たるキリストを通してです。十字架を通して、キリストはすでに決定的にこの世に勝ったのです。「私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。


【DICI】この勝利には童貞聖マリアが特別な役割を果たされると思いますか?

【パリャラーニ神父】この勝利は王たるキリストの勝利ですから、必然的にその祝されし御母の勝利でもあります。聖母は、御子のすべての戦いとすべての勝利に体系的に関係があります。聖母は、非常に特別な方法で、この勝利と関係があります。なぜなら、カトリック教徒の具体的な生活の中で、これほど広範囲で深刻な被害をもたらした非常に悪質で微妙な誤謬が、これほどまでに勝利を収めたことはかつてなかったからです。その証拠に、教会が聖母の属性としている最も美しい称号の中には、「すべての異端の撲滅者」 ---- 聖母は異端を思いつかせた者(訳者注:サタンのこと)のかしらを砕くのです ---- と「キリスト信者の助け」があります。誤謬の勝利が決定的なものであればあるほど、童貞聖マリアの勝利はさらに輝かしいものとなるでしょう。
(訳者注:「すべての異端の撲滅者」とは、聖ピオ十世教皇が回勅「パッシェンディ」で聖母のことを Virgo immaculata, cunctarum haeresum interemptrixあらゆる誤謬を打ち砕く方である無原罪の童貞destructrice de toutes les hérésies, the destroyer of all heresies と呼んでいる表現。聖務日課にも Gaude Maria Virgo, cunctas hæreses sola interemisti in universo mundo.(童貞マリアよ、喜び給え、御身は一人で全世界の全ての異端を打ち砕き給うた)とある。「キリスト信者の助け」は聖マリアの連祷にある。)

このインタビューは2021年3月12日、教皇大聖グレゴリオの祝日に
メンツィンゲン(スイスの聖ピオ十世会本部)にて行われた


Photo Credit


マルセル・ルフェーブル大司教の8人の枢機卿様たちへの手紙 1986年8月27日

2021年03月17日 | ルフェーブル大司教の言葉
マルセル・ルフェーブル大司教の8人の枢機卿様たちへの手紙 1986年8月27日

エコンにて、1986年8月27日

枢機卿様

 教会において起こっているさまざまなできごとを前にして、そしてヨハネ・パウロ2世教皇様をその張本人とするこれらのできごとを前にして、テゼーで、また10月にはアシジですることが計画されていることを前にして、私は枢機卿様に筆を執らずに入られませんでした。それは歴史上かつてなかったほど屈辱を受けている教会の名誉を守ってくださるようにと、多くの司祭と信徒たちの名前で枢機卿様にお願いするためです。

 トーゴ、モロッコ、インド、ローマのユダヤ会堂でのヨハネ・パウロ2世の訓話と行動は私たちの心に聖なる憤りを呼び起こします。旧約と新約の諸聖人たちはこれについてどう思うことでしょうか!もし今でも存在していたとしたら、異端審問所は何をしたでしょうか?

 ペトロの座にすわるものによって公に足蹴にされているのは、使徒信経の第1条であり、天主の十戒の第一戒なのです。カトリック信者の霊魂において躓きは計り知れません。教会はその根底から揺るがされています。

 もしも、カトリック教会が救いの唯一の方舟であるという信仰が消えてしまったら、その時には教会自体が消えてしまいます。教会の全ての力、その全ての超自然的な活動は、私たちのこの信仰箇条を基としているのです。

 ヨハネ・パウロ2世は、公に、特にアシジで計画されているように、聖フランシスコの町のあらゆる道で多くの宗教代表者の取りまきと共に、いろいろな小聖堂や大聖堂をいろいろな宗教団体に振り分けて、そこで国連の考えているような平和のために彼らが独自の礼拝を捧げるよう招いて、カトリック信仰を破壊しようとするのでしょうか? これが諸宗教の集いという忌まわしい集会の責任者となっているエッチャガライ枢機卿様が発表したことです。

 教会においてこのような公の罪を排斥する公式の声が一つも挙がらないと言うのは考えられることでしょうか?マカベオたちは一体今どこにいるのでしょうか?

 枢機卿様、唯一の真の天主の名誉のため、私たちの主イエズス・キリストの名誉のため、公に抗議の声を挙げて下さい。カトリックとして留まっている司教たち、司祭たち、信徒たちを助けて下さい。

 枢機卿様、私が枢機卿様のもとにこのようなお手紙を書いたのは、私がこのことに関する枢機卿様のお考えを疑うことができないからです。

 この呼びかけは、以下に明記してある枢機卿様たちにもしてあります。それは枢機卿様がこれらの枢機卿様方と共に行動されることを考えてのことです。

 願わくは聖霊が枢機卿様の助けに来ますように。

 私たちの主キリストとマリアとにおいて。敬具

マルセル・ルフェーブル

チュールの引退大司教司教

 

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1986年、Si si no no 紙に掲載された記事


アシジの平和祈祷集会についてどう考えればよいのでしょうか?

 アシジの「祈祷集会」は、ヨハネ・パウロ2世の「個人的な発案」であるとのことです。「個人的な」発案として、このような催しは「全てのキリスト者の牧者及び教師」(第1バチカン公会議)の使命にかかわることでは全くなく、また国連によって今年1986年が「国際平和の年」として提案されている政治的なテーマに従っていることですから、教義にかかわることでもありません。

 来る10月27日にはアシジにカトリック信者のみならず「世界中の他の諸宗教の代表者たちが平和のために集うために」(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月26/27日号)会合する予定です。

 ヨハネ・パウロ2世が「世界中の他の諸宗教の代表者たち」と呼んだ人々のことを、カトリック教会は常に「未信者infideles」とふさわしく呼び慣わしてきました。「未信者とは、広い意味において真の信仰を持っていない全ての人々のことを言い、固有的な意味においては洗礼を受けていない人々のことを言います。そしてこの意味においては未信者は一神教信者(ユダヤ人やイスラム教徒)、多神教信者(ヒンズー教など)そして無神論者に分けられます」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)。

 またヨハネ・パウロ2世が「他の諸宗教」と呼んだことを、カトリック教会が常に「邪教」と呼んできたものです。キリスト教以外の全ての宗教は「天主が啓示しそれを実践することをお望みになる宗教ではないという意味で」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)邪教なのです。

 以上のことを述べた後に、この種の「祈祷集会」はカトリック信仰の光に当てたとき、次のようなものとしてしか考えられないと言えます。

天主に対する侮辱
贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定
未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如
カトリック信者たちにとっての危険と躓き
教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り
天主に対する侮辱

 全ての祈りは、願い事をする祈りであっても、礼拝行為(actus cultus)です(聖トマス・アクイナスの神学大全II-II q. 83)。祈りは礼拝行為として、礼拝を受けるべき方に、なされるべきやり方で、礼拝が捧げられなければなりません。

 「礼拝を受けるべき方」とは、唯一の真の天主であり、創造主、すべての人の主です。私たちの主イエズス・キリストがその真実のお方を知るための智慧を私たちに授けられた(1ヨハネ5:20)のです。私たちの主イエズス・キリストはまた「私はおまえの天主、主である。… 私以外のいかなる神々をも持ってはならない。… これらを拝んではならず、これらに礼拝を捧げてはならない。」(脱出20:2, 5. マテオ4:-10、ヨハネ17:3、ティモテオ2:5)律法の第1戒を確認されました。

 「なされるべきやり方で」とは、啓示の充満に対応するように、いかなる誤りもなく、と言うことです。「まことの礼拝者が、霊と真理とを持って御父を拝むときが来る、いやもう来ている。御父はそう言う礼拝者を望んでおられる。」(ヨハネ4:23)

 偽りの神々に捧げられた祈り、或いは、天主の啓示とその全て或いは一部が対立するような宗教の憶測に基づいてなされた祈りは、礼拝行為ではなく迷信と呼ばれるべきであり、迷信は天主を敬わないばかりでなく、天主を、少なくとも客観的に、犯すものです。迷信は天主の十戒の第1戒に背く罪です。(神学大全II-II qq. 92-96)

 アシジに集う人たちは、一体誰にどのように祈るのでしょうか?招かれた「他の諸宗教の代表者たち」はそれぞれの宗教行事の服を着て「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈るだろう」とのことです。これが非キリスト者のための事務局長であるウィルブランド枢機卿(Cardinal Willebrands)が説明したことです。(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月27/28日号)このことは1986年6月27日にエッチェガライ枢機卿が記者会見で確認したことであり、これは1986年9月7/21日号のDocumentation Catholiqueに「聖座発表」の見出しのもとで「それぞれの祈りを尊重し、それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」と発表されました。

 ですから10月27日にアシジでは迷信がその最も忌々しい形で大きく実践され、聖寵の時代にありながら天主のキリストを否定しつつ天主を敬っているとうそぶいているユダヤ人の偽りの礼拝(神学大全II-II qq. 92 a. 2 ad 3 et I-II q. 10 a.11)に始まって、創造主に捧げるべき礼拝をヒンズー教徒や仏教徒が被造物に礼拝を捧げるという偶像崇拝(使徒17 :16)に至るまで許されることになるでしょう。

 少なくとも見かけ上、カトリックの権威が彼らを承認することは、天主が迷信でさえも、真の礼拝行為と同じく嘉し給い、真の信仰の表明と同様に不信仰の表明でさえも同じく嘉し給うということ、つまり真の宗教も邪教も嘉し給い、真理も偽りも嘉し給うということを前提とする、或いは暗黙の了解と考えさせるのであり、これは天主に対して非常に大きな冒辱となります。(神学大全II-II q. 94 a. 1)

贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定

 天主と人々をつなぐ仲介者はだだ一人しかいません。すなわちまことの天主かつまことの人である私たちの主イエズス・キリスト(1ティモテオ2:5)です。本来なら人は「怒りの子」(エフェゾ2:3)でありましたが私たちの主イエズス・キリストによって御父と和解しました(コロ1:20)そして私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によってのみ人は信頼して天主に近づくことができる(エフェゾ3:12)のです。

 天と地の全ての権能が私たちの主イエズス・キリストに与えられました(マテオ28:18)そして天と地と地の下にあるものは全て私たちの主イエズス・キリストの聖名に膝をかがめなければなりません(フィリッピ2:10-11)。

 私たちの主イエズス・キリストを通らずに誰一人として御父の元に行くことができません(ヨハネ14:6)。私たちの主イエズス・キリストの名前以外に人が救われることのできる聖名は天下にありません(使徒4:12)。私たちの主イエズス・キリストはこの世に来るすべての人を照らす光であり(ヨハネ1:9)、私たちの主イエズス・キリストに従わないものは誰であれ暗闇を歩く(ヨハネ8:12)のです。私たちの主イエズス・キリストの味方をしないものは主に逆らうものであり(マテオ13:30)、私たちの主イエズス・キリストを敬わないものは、私たちの主イエズス・キリストをお遣わしになった御父を冒辱するのです --- そしてまさしくこのことをユダヤ教徒たちがしているのです(ヨハネ5:23)。天主御父がすべての人を裁く権能をお委ねになったのは私たちの主イエズス・キリストにであり、私たちの主イエズス・キリストを信じないものは、天主の唯一の御子の聖名を信じなかったがために、すなわち御子を遣わした御父(ヨハネ17:3)を私たちの主イエズス・キリストにおいて信じなかったために既に裁かれたのです(ヨハネ3:18)。

 更には、私たちの主イエズス・キリストこそ平和の君主です(イザヤ9:6、エフェゾ2:14、ミケア5:5)。何故なら、全ての分裂、対立、戦争などは、人が贖い主の御血の力によるのではなければ自分の力ではそこから解放されることのできない罪の苦い果実であるからです。

 私たちの主イエズス・キリストは、アシジにおいて、非キリスト者たちの「他の諸宗教の代表者たち」の祈りとどのような関係があるのでしょうか?全くありません。

 何故なら私たちの主イエズス・キリストは彼らにとって、或いは知られざる人であり、或いは躓きの石であり、或いは逆らいのしるしだからです。世界平和のために祈るようにと言う彼らに対してなされた招待は、次の誤りを前提とし、それを避けることなく暗黙の了解としていることを認めてしまっています。

 つまりその誤りとは、一方では私たちの主イエズス・キリストの仲介によってイエズス・キリストの聖名によって天主に近づくことのできる人たち(つまりキリスト信者たち)があり、他方で私たちの主イエズス・キリストという仲介者の介入なく自分自身の名前によって天主に直接行くことのできる人々(つまりその他の全人類)がいる、ということです。別の言い方をすると、私たちの主イエズス・キリストの前に膝をかがめなければならない人々とそれを免れている別の人々がいると言うこと、私たちの主イエズス・キリストの御国において平和を求めなければならない人々と私たちの主イエズス・キリストの御国の外に平和を見出し、しかも主の御国に対立してさえも平和を得ることができる人々がいると言うことです。このことはウィルブランド枢機卿とエッチェガライ枢機卿との宣言から結論づけられることです。「もし私たちキリスト者にとってキリストが私たちの平和であるなら、信じるすべての人にとって平和は天主の恵みである」(ウィルブランド枢機卿オッセルバトーレ・ロマーノより)。「キリスト者たちにとっては祈りはキリストを通る」(エッチェガライ枢機卿Documentation Catholiqueより)。

 アシジの「祈祷集会」は、ですから、贖いが誰に対しても必要であると言うことを公に否定することです。

未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如

 かつてピー枢機卿(Cardinal Pie)は、「イエズス・キリストはオプションではない」と言っていました。私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によって義とされる人が一部で存在し、私たちの主イエズス・キリストと関係なく義とされる人が他方で存在するのではないのです。すべての人はキリストにおいて救われ、すべての人はキリスト無くしては滅びてしまうのです。天国という唯一の超自然の究極の目的とは別の「自然の最終目的」という選択肢が人間にあるわけでもありません。罪を犯すことによって人は道を外れてしまうのですが、もしキリストにおいて唯一の道(ヨハネ4:6)を見出すことができなければ、人間が創造されたその最終目的に到達するための道を見出すことが出来なかったと言うことですから、人には永遠の滅びしか残っていないのです。

 ですから、異教徒たちをも含めて全ての人々にとって救いの主観的な条件は真の信仰なのであって、たんなる「善意」ではないのです。何故なら真の信仰こそが手段として必ず必要なものであり、「もし(たとえ故意にではなかったとしても)真の信仰がない場合には、永遠の救いを期待することが絶対的に不可能(ヘブレオ11:6)」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 66)だからです。

 聖トマスは次のように説明しています。故意の不信仰は過失であり、不本意の不信仰は罰である、と。実際に未信者は不信仰の罪によって永遠に滅びるのではありません。つまり彼らが全く知りもしなかったキリストを信じなかったという罪によって滅びるのではなく、真の信仰無くしては誰も赦しを得ることができないその他の罪によって滅びるのです(マルコ16:15-16、ヨハネ20:31、ヘブレオ11:6、トリエント公会議Dz 799, 801、第1バチカン公会議 Dz 1793、神学大全II-II q. 11, a. 1)。

 人間にとって贖い主を受け入れ、仲介者と一致することよりも重要なことはありません。これこそが永遠の生死にかかわる問題です。天主の命に従って(マルコ6:16、マテオ28:19-20)未信者はカトリック教会によってこれが告げ知らされるのを聞く権利があります。これこそが、カトリック教会が常に未信者たちに、彼らのために祈りつつ(彼らと共に祈るのではなく)、告げ知らせてきたことです。

 アシジでは何が起こるのでしょうか?アシジでは彼ら未信者のためには祈りません。それは暗黙のうちにそして公に、彼らにはもはや真の信仰が必要ではない、と言うことを前提としているからです。彼らのために祈る代わりに、彼らと交わって祈る、ラジオ・バチカンのユダヤ教師のような言い方によると、彼らのそばに祈るためにいる、ことになっています。こうすることによって暗黙のうちにそして公然と、“誤りの教える祈りも、「霊と真理とにおける」祈りと同じように天主に嘉されるものである” と言うことを前提としてしまっているのです。

 「それぞれの祈りを尊重する」とエッチェガライ枢機卿はその短い宣言の中で説明しています。つまりアシジに集う未信者は「信仰について何も知らないジャングルの中で育った未開人」(神学者たちは未信者の救いの問題を論じるときに彼らの仮説のもとになっている前提がこれです。例えば聖トマスDe veritate XIV 11)ではないのですから、彼らは「尊重されて」「闇と死の陰に」(ルカ1:79)取り残されることになるのです。

 「他の諸宗教の代表者たち」は、自分の宗教色豊かな服装で、宗教に関して誤って信じていることに合うように祈ることを許され、彼らは更に、少なくとも形のうえでは (materialiter) 信仰に対する罪、不信仰、異端、などに踏みとどまるようにと奨励されているのです。

 世界平和が「基本的な」そして「最高の」善であると定義され(ヨハネ・パウロ2世 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年4月7/8日号 とウィルブランド枢機卿 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年1月27/28日 の発言)、その世界平和のために祈るように招待を受けた彼らは、永遠の善からこの世の善へと、すなわち自然的な副次的な善へと道をそらされてしまっています。あたかも彼らには超自然の究極の目的を得る必要がないかのようです。しかし、この超自然の究極目的こそ真に基本的で最高のものなのです。

 「天主の御国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのこと(地上のこと)も加えておまえたちに与えて下さる」(マテオ6:33)。

 以上の理由によって、アシジでの「祈祷集会」は、少なくともその見かけだけでも、未信者に対して当然なすべき義務と愛徳とを欠く行為であると言えます。

カトリック信者たちにとっての危険と躓き

 救いのために真の信仰がどうしても必要となります。カトリック信者は自分の信仰を危うくするような全ての危険な機会を避けなければなりません。そのような外的な危険のうちの一つが、どうしても避けられない必要もないにもかかわらず未信者と接触することです。このような接触は教会法を待つまでもなく、そして教会法がたとえば社交上のこととして禁止していない場合でも、自然法と神法によって許されないことなのです。聖パウロは言います。Haereticm hominem divita. 異端者を避けよ、と(ティト3:10)。

 教会は母の心を持ってカトリック信者にとって信仰に対する危険になりうることのみならず躓きの動機になりうることさえも常に禁止してきました。(1917年の教会法は数世紀に亘る教会の掟を採用しています。1258条、2316条を参照して下さい。神学大全II-II q. 10 aa. 9-10)

 教会はまた常に邪教に対して公の宗教儀式の権利を拒否してきました。もし必要なときには教会はそれを黙認しました。しかし、この「黙認」は常に「その悪を許すそれ相当の理由がある」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 1702)ためでした。それがいかなる場合であれ、非カトリックの宗教儀式を見かけ上であっても承認するようなことを教会は常に避けてきましたし、禁止してきました。

 アシジでは何が行われるのでしょうか?確かに、言葉の綾によって「一緒に祈るため」ではないかも知れませんが、カトリック信者と未信者とが「祈るために一緒になる」でしょう。このことはとどのつまりアシジで共に祈ると言うことなのです。まずそれそれが同時に自分たちのいるところで祈り、次に閉会式では聖フランシスコのバジリカの前に集まって順番に祈るのです。

 ところで、このようなことはカトリック信者の信仰を守るためにすることではなく、カトリック信者を少なくとも躓かせないためにすることではありません。

 これはそれぞれが「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈る」のを許すために、「それぞれの祈りを尊重」するために、そして「それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」ためになされるのです。ですから少なくとも見かけ上、次のことを承認しているのです。

教会が常に権利を否定してきた偽りの宗教儀式の承認
教会が常に「宗教無差別主義」或いは「宗教拡大主義」の名の下に排斥してきた「宗教主観主義」の承認
です。

「宗教主観主義」とは「人間の理性或いは啓示の光によって明らかにされる客観的な真理だけが権利を持つことを理解せずに、いわゆる “自由の要求” によって自己を正当化しようとする態度です(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)。」

「宗教無差別主義」とは「最も恐るべき異端の一つであり」「全ての宗教を同じレベルに置き」規則正しい生活と永遠の救いとの存在理由を宗教的に信じることが真理であることを認めないものです。「『宗教無差別主義』のためについに人は宗教を全く個人的なものと看倣してしまい、個人の好みの違いによって好きなものを選び、「私にとっての」宗教を形成することを許し、たとえ宗教が互いに矛盾しあっているにもかかわらず、全ての宗教はみなどれもこれも良いものであると結論させるのです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)これはカトリック信仰と言う行為の外でのことです。

 天主の啓示は現実の事実であり、確かな徴という手段を持って信じるに値する真理と天主によって確立されたのですから、この領域に関する誤りは人にとって最も重大な結果をもたらします(レオ13世 1888年回勅『リベルタス』)。

 「全く明らかな真理という現実の事実を前に、それらがあたかも存在していないか或いは誤りであるかのような態度を承認するほどの黙認はいかなる人にもできません。そのようなことは私たちが全く信じていないか、或いは私たちの立場の真理に完全に納得していないか、或いは私たちが全く無関心でいることができる些細な事柄であると考えているか、或いはまた私たちが真理も誤謬も全く相対的な立場にすぎないと考えているかのいずれかを前提とするからです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 1703)

 まさに「祈祷集会」これら全てを含んでいるので、これはカトリック信者にとって躓きの機会であり、彼らの信仰を大きな危険にさらすものとなるのです。エキュメニズムの事実からついにはカトリック信者は未信者と合流するかも知れませんが、それは彼らの「共通の破滅 」(ピオ12世 1950年『フマニ・ジェネリス』)においての合流になることでしょう。

教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り

 教会は全ての国々に次のことを告げ知らせる任務があります。

唯一の真の天主が存在すること、この唯一の天主は全ての人々のために私たちの主イエズス・キリストにおいてご自分を啓示されたこと。
真の宗教はただ一つしかないこと、天主がそこであがめられることを望んでおられる宗教はただ一つであること。何故なら天主は真理であり偽りの諸宗教において真理に背くものは、教義上の誤り、掟の不道徳性、宗教儀式の不適合性など、全て天主に背くこと。
天主と人との仲介者はただ一人しかおられないこと。人間が彼によって救われることを期待することのできるのはただ私たちの主イエズス・キリストだけであること。なぜならすべての人は罪人であり、キリストの御血によらずしては全ての人は罪のうちに留まるからです。
真の教会はただ一つしかないこと。そしてこの教会が永久に私たちの主イエズス・キリストの御血を守っていること、「救いの唯一の方舟である使徒継承のローマ教会の外においては誰も救われることができないこと、このローマ教会に入らないものは大洪水に滅ぼされてしまうことを信じなければならない」(ピオ9世 Dz 1647)こと。もし彼らの無知がどうしてもしかたのないものだったとしても彼らの心の状態が、明らかに或いは暗黙のうちに天主のみ旨を全て成し遂げたいという少なくとも望みによって、教会の中に入っている必要がある(ピオ9世 Dz 1647)ということ。
 教会の固有の使命は、これら全てを告げ知らせることです。

「あなたたちは諸国に弟子を作りに行き、聖父と聖子と聖霊との聖名によりて洗礼を授け、私があなたたちに命じたことを全て守るように教えよ。」(マテオ28 :19-20)「あなたたちは全世界に行って全ての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける人は救われ、信じない人は滅ぼされる。」(マルコ16 :16)

 教会が確かに数世紀にも亘ってこの使命を果たすことができるために私たちの主イエズス・キリストは聖ペトロとその後継者たちに目に見える形で主の代理となる使命を与えました。(マテオ16 :17-19、ヨハネ21 :15-17)

 「イエズス・キリストの代理者は、新しい啓示の力を借りて新しい教義を作る使命もなく、新しい事態を創造する任務もなく、新しい秘蹟を制定するための任務もない。そのようなことは彼の任務ではない。彼はイエズス・キリストの教会の頭としてイエズス・キリストを代表している。イエズス・キリストの教会は既に完成している。教会の本質的な構造、つまり教会を創造することはイエズス・キリストに固有な業であった。イエズス・キリストはご自分でそれを成し遂げそれを聖父に言われた。「私はあなたが行わせようと思し召した業を成し遂げました。」(ヨハネ17 :4)主の業に何も付け加えることはない。この御業をそのまま維持し、教会の業を保持し、その機関がうまく働くようにすることだけである。従って必要なことは2つであり、それは教会を統治し、真理の教えを永久に守ることである。第1バチカン公会議はイエズス・キリストの代理者の最高職務の対象としてこの2つをあげている。ペトロはイエズス・キリストをこの2つの観点の下で代表するのである。」(Don Adrien Grea, De l’Eglise et de sa divine constitution : 第1バチカン公会議の使徒憲章『パストル・エテルヌス』第4章)

 並ぶものもない程のペトロの権能は、代理者としての権能であり、代理者の権能としては絶対のものではなく自分が代表するイエズス・キリストの天主の権によって制限を受けています。

「主はペトロにペトロの羊ではなくご自分の羊を委ねた。それは自分の利益のためにでなく天主の利益のために牧させるためであった。」(聖アウグスチヌス 説教第285の3)

 ですから教会の使命とローマ教皇の使命にそぐわないような「個人的な発案」を(アシジでの「祈祷集会」のような明らかにご自分の使命とはそぐわないようなものを)促進させると言うことはペトロの権能に属するものでは全くありません。

 私たちの主イエズス・キリストはこう言いました。「サタン退け! “あなたの天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えなければならない” と書かれてある」(第2法6:13、マテオ4:10)と。

その主イエズス・キリストの代理者たるものが、どうして真の天主への信仰のために聖別された聖なる場所に、邪教の「代表者たち」を招いて彼らの偽りの神々に祈らせることができるでしょうか?

 聖ペトロはこう言って信仰を宣言しました。「御身は、生ける天主の御子、キリストです」(マテオ16:16、ヨハネ6:69-70)と。そしてこの信仰宣言故に首位権を得たのです。その後継者たるものがどうして私たちの主イエズス・キリストがあたかもいないかのように立ち振る舞うことができるのでしょうか。

 聖ペトロは兄弟たちの信仰を固める任務を受けました(ルカ22:32)。その後継者がその兄弟、子供たちの信仰にとって躓きの石となるべきではありません。(了)









ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教の教皇ヨハネ・パウロ2世への公開書簡(1983年11月21日)

2021年03月17日 | ルフェーブル大司教の言葉
ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教の教皇ヨハネ・パウロ2世への公開書簡(1983年11月21日)

教皇聖下、

 願わくは聖下が私どもをして聖下に次のような考察を全く子供としての率直さを持って提出することを許し給わんことを。

 20年前から教会の状況はあたかも占領されたかのように思われるほどです。教会の自己破壊のために数万の聖職者と数千万の信者達が苦悩と困惑の中で生きています。

 第二バチカン公会議の公文書の中に含まれている誤謬、公会議後の改革、特に典礼改革、公文書によって広められている間違った考え、聖職位階によってなされる権力の乱用は、人々を混乱と動揺の中に投げ込んでいます。この悲しみに溢れる現状において多くは信仰を失い、愛徳は冷め、教会の本当の一致という考えが時と空間に置いてたち消えています。

 聖なるカトリック教会の司教、使徒の後継者として、かくも多くの霊魂達が全世界で、教会の教導職によって定められ、常にどこでも教えられてきたその信仰と道徳の中に留まろうと望んではいるものの残念ながら方向を狂わされているのを見、私たちの心は動転しています。このことに口を閉ざしているとしたら、私たちにとってこれらの悪しき仕業の共犯になってしまうように思えます。ですから、私たちが過去15年間に取ってきた個人的な態度・足取り[でも足りなかったこと]を考えると、聖下に公に介入しなければならない義務を感じます。それはこの劇的な状況の主要な諸原因を告発し、使徒継承の聖伝によって忠実に私たちにまで伝わった信仰においてその兄弟達を固めるために、教皇聖下にペトロの後継者の権力を行使してもらうためです。

 このため私どもはこの手紙に付録を付け、この悲劇的な状況の源にある、そして、既に他方で聖下の前任者達によって排斥されている主要な誤謬を指摘することを致しました。次のリストはその付録の題ですがこれが誤謬の全てではありません。

1.-信仰において分裂している教会という横に広がりすぎた宗教統一的な教会の概念。これは特にシラブスによって排斥されている。

2.-団体的・協議会的統治と民主主義的指針。これは特に第一バチカン公会議によって排斥されている。

3.-信教の自由に関する文章に明らかに現れている人間の自然権に関する誤った考え。これは特にピオ9世のQuanta Curaとレオ13世のLibertas Praestantissimumによって排斥されている。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

5.-ミサの聖なるいけにえとその他の秘蹟に関するプロテスタント的考え。これはトレント公会議第22総会によって排斥されている。

6.-最後に、一般的に言って聖庁の廃止によって生じるようになってしまった異端の自由な流布。

 誤謬を含む公文書はそれが上にある源から来れば来るほどにそれだけより深い不安の困惑を引き起こします。聖職者も平信徒もこの状況に最も動揺しているのは他でもなく教会に、ペトロの後継者の権威に、教会の聖伝の教導職に最も強く我が身を付けているものなのです。

 教皇聖下、この不安が消えるようにするのは緊急のことです。なぜなら、群は散りぢりになり、捨てられた羊達を金で雇われたものが追っているからです。カトリック信仰の善のため、霊魂達の救いのために、私たちは聖下に彼らの誤謬に反対の真理をもう一度断言して下さるように、聖なる教会によって20世紀もの間教え続けられた真理を再確認して下さるようにとひたすらに願い乞い求めます。私たちが聖下にこれを申し上げるのは、聖ペトロが福音の真理に従っていないと聖パウロが聖ペトロをとがめたときの、その心境において申し上げています。聖パウロの目的は信者達の信仰を保護する以外の何ものでもありませんでした。聖ロベルト・ベラルミノはこのような場合の一般的道徳原理について語り、霊魂の救いに害を与えるであろう教皇の行為に対し人は抵抗する義務を持つと教えています。

 私たちがこの警告の叫びをあげるのは、この叫びは新しい教会法の誤謬、異端とは言わないけれども誤謬によって、またルターの生誕500周年の祝賀と演説によってますます激しくなるばかりですが、聖下の助けに出たいという目的なのです。...本当に限りは尽きました。教皇聖下、願わくは天主が私たちの助けに来たり給わんことを。私たちは絶えず聖下の意向のために聖なる童貞マリアに祈っています。

 私たちの忠孝に満ちた献身の情を受けとめて下さりますように。

マルセル・ルフェーブル(テュールの元司教)

アントニオ・デ・カストロ・マイヤー(カンポスの元司教)

 

第二バチカン公会議の教会論の主要な誤謬の要点

1.-"横に広がりすぎたlatitudinariste"宗教統一的な教会の概念。

 教会が「天主の民」であるという概念は以後数多くの公文書の中に現れる。公会議文書の"Unitatis Redintegratio"や"Lumen Gentium"、新しい教会法典(c.204.1)教皇ヨハネパウロ2世の書簡"Catechesi tradendae"とカンタベリーの英国聖公会での演説、キリスト者の一致のための秘書室が出した宗教統一のための方針"ad tatam Ecclesiam"などがその例である。

 この概念は横に広がりすぎた意味と誤った宗教統一の概念を含んでいる。

いろいろな事実が明らかにこの概念が残念なことに謬説であることを示している。たとえば諸宗教の儀式ができるような部屋を作ることの許可、カトリック聖書解釈学とはもはや相容れない統一聖書の発刊、カンタベリーで行われたような宗教統一的儀式。

 "Unitatis Redintegratio"では、キリスト者間の分裂は「この世にとって躓きの対象であり全ての被造物に福音をのべ伝えることへの障碍となる。・・・聖霊はその他の宗教をも救いの手段としてお使いになることを拒まれない」と言うことを教えている。この同じ誤りがヨハネ・パウロ2世の"Catechesi tradendae"という文書の中で繰り返されている。ヨハネ・パウロ2世がカンタベリーのカテドラルで1982年5月25日にあたかも使徒信経の一致がかつて教会に存在したことがなかったかのように「キリストの約束は私たちに信頼の念を起こさせ、聖霊は聖霊降臨の後そのすぐ初期の時代から教会内に導入された分裂をいやして下さると信じます」と宣言したのはまさにこの同じ精神であり、聖伝の信仰とは全く反対の断定である。

 「天主の民」という概念はプロテスタンティスムも同じキリスト教宗教の特殊な形態に過ぎないかのように信じろと促している。

 第二バチカン公会議は、異端の分派どもとの「聖霊における本当の一致」(Lumen Gentium, 14)「彼らとのまだ不完全なある種の交わり」(Unitatis Redintegratio, 3)があることを教えている。

 この宗教統一的な一致はレオ13世の回勅"Satis Cognitum"に矛盾している。この中でレオ13世は「イエズスは『一般的には似通っているがしかし互いに区別され、"不可分の唯一の教会を形成するある絆"によって繋がれているのではない多くの共同体を寄せ集めたような教会』を創立したのではない」と教えている。

 同様にこの宗教統一的な一致はピオ12世の"Humani Generis"という回勅に反している。彼はこの中で、[人は救霊の為には]カトリック教会に属さねばならに必要性[があるのだが、それを]を何らかの別の形に還元しようとする考えを排斥している。

 また同じ教皇の"Mystici Corporis"という回勅にも反している。この中では信仰において離ればなれになっているいろいろな共同体の絆であるような「霊的」教会という概念を排斥している。

 この宗教統一運動はピオ11世が回勅"Mortalium animos"の中で教えたものと反対である。この教皇はこう言った。「この点に関して非カトリック者がキリスト者の諸教会の一致を実現させようとして使っている手段のこの複雑な宗教統一運動とこの問題の根源にあるある誤った意見をここで示し排斥するのが適当である。この意見を支持する者たちはキリストのこの言葉を常に引用する。「彼らが一つとならんことを。一つの群れ一つの牧者とならんことを」(ヨハネ17:21、10、16)そして彼らはこのキリストの言葉は一度も実現したことのなかった望み、祈りを表現していると主張している。彼らは実にキリストの本当の教会が持つべき印である信仰と統治の一致が実際的に今日に至るまで決して存在したことがなくまた今日でも存在していないと言いたてている。」

 カトリックの道徳と法律が排斥するこの宗教統一運動はついに「非カトリックの役務者」から悔悛、御聖体、終油の諸秘蹟を受けることを許すに至ってしまった(新教会法典Canon 844)そしてカトリックの聖務者に御聖体の秘蹟を非カトリック者に配ることを許可し「宗教統一的なもてなし」を促進させている。

 これらのことは明らかに天主から受けた啓示に反している。天主の啓示は「分離」を命じ「光と闇、信者と非信者、天主の神殿を分派の神殿との」一致を投げ捨てている(コリント現14ー18)。

2.-団体的・協議会的・民主主義的な教会の統治

 今日の近代主義者達は、まず信仰の一致を揺るがして後、統治の一致を揺るがし教会の位階制度的な構造を揺るがしている。第二バチカン公会議の文書"Lumen Gentium"によって既に暗示された教えが今度は新しい教会法典によって明確に採択された。それは、教皇を含めた司教達の団体は同じく教会において最高権力を享受し、それは常住し恒常的であるという教えだ。

 この二重の最高権力という教えは教会の教導職の教えとその実践に反している。特にこれは第一バチカン公会議とレオ13世の"Satis Cognitum"とに反している。つまり、[教会の聖伝によれば]ただ教皇だけがこの最高権力を保持し、教皇が適当だと判断する限りにおいてまた非常事態においてこれを教皇が他のものに伝えるのだ。

 この重大な誤謬に教会の民主主義的な方針が付け合わされている。つまり、新教会法典が定義するように「天主の民」に主権が存するというのだ。

 このヤンセニスト的な誤謬は、ピオ6世がこれを勅書"Auctorem Fidei"によって排斥している(Dz.2592)。

 「基礎共同体」「草の根」をして権力を行使するようにと促す傾向は、シノドゥスの創設、司教協議会、司祭委員会、司牧委員会、ローマの無数の委員会、国別の委員会が修道会の懐にも作られていることに見いだせる。このことについては、第一バチカン公会議Dz3061と新教会法典447条を見よ。)

 教会内の権威の衰退は今日至る所で牛耳っている無秩序と混乱の源である。

3.-人間の自然権に関する誤った考え。

 第二バチカン公会議の宣言"Dignitatis humanae"は、「宗教の事柄に関し」人間に誤った自然権があることを断言している。このことは過去の教皇の教えと反対であり、彼らは厳しくかかる冒涜を否定している。

 ピオ9世は、"Quanta Cura"とシラブスの中で、レオ13世は"Libertas Praestantissimum"と"Immortale Dei"の中で、ピオ12世はイタリアのカトリックの法律家達に対してした演説"Le Riesce"の中で、人間理性と典からの啓示がかかる権利を打ち立てることを否定している。

 第二バチカン公会議はどこででも「真理は真理に固有の力でしか押しつけられることができない」と信じ宣言している。

 これはピオ6世がピストイア公会議のヤンセニストたちに反対の声を挙げて教えた教えに完全に反対である(Dz.2604)。

公会議はついに真理を支持しない権利、真理に従わない権利を宣言し、政府に、真理の宗教と偽りの諸宗教との法的平等を確立するようにさせ、宗教を理由に差別をもはやしないことを強制するという愚かさにまで達した。

 この教えは人間の尊厳に関する誤った観念に基づいている。これは、フランス革命の似非哲学、不可知論、唯物論から由来するもので聖ピオ10世は教皇令"Notre Charge apostolique"の中でこれらを既に排斥している。

 第二バチカン公会議は信教の自由から教会にとって堅実の時代が出ると言った。

 しかしグレゴリオ16世は反対に意見の規制なき自由が教会にとって利益になると言うことを述べるのは最高に恥知らずであると言っている。

 公会議は"Gaudium et Spes"の中で、人間のキリスト教的尊厳が托身の事実から由来し、托身はこの尊厳を全ての人に回復せしめたという偽りの原理を表明している。この同じ誤謬はヨハネ・パウロ2世の回勅"Redemptor hominis"の中で断言されている。この人間の偽りの権利が公会議によって認められたこの結果として我らの主[イエズス・キリスト]の社会統治の基礎が破壊され、宣教地における教会が、霊魂達がそのくびきの下にいるサタン的な力に対抗する戦いをし、我らの主を多くの人々の精神と心において統治させようとする権威と権力をゆるがせにしている。宣教精神は極端な改宗を勧めるものとして断罪されるだろう。

 宗教に関する国家の中立は、国家の大多数がカトリックである場合、我らの主とその教会にとって屈辱的である。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

 たしかに、教皇の権力は教会において最高権力である。しかし、この権力といえども天主の権力に従属するものであるから、絶対で無制限ではない。そしてこの天主の権力は聖伝、聖書、教会の教導職によって既に公布された諸定義によって表明されている(Dz.3116)。

 教皇の権力はその権力が教皇に与えられた目的によって制限されそれに従属している。この目的は第一バチカン公会議の憲章"Pastor aeternus"の中に明らかに定義されている(Dz.3070)。

 教会の構造を変更し、それを「天主の権利」に対して「人間の権利」と呼ぶことを主張することは、たとえば、信教の自由において、新しい教会法典によって許可された「御聖体によるもてなし」において、教会の中における2つの最高権力の肯定においてなされたことは、耐え難い権力の乱用である。

 これらの場合において、またその他のこれに似たような場合において、全ての聖職者とカトリック信者にはこれに抵抗し、従順を拒む義務があることは明らかである。盲目的従順はその時異常であり、誰一人として天主よりもむしろ人に従順だったことの責任を免れ得ない(Dz.3115)。もし悪が公であり、霊魂にとって躓きの対象であるときには、この抵抗は公でなければならない(S.Th.,2ae2ae,q.33,a.4)。

 これは目下と全ての正統的な権威との関係を治める道徳の基本原理に過ぎない。

金輪際、聖伝とカトリック信仰に堅く留まるもののみが罰を受け、異端説を唱え、あるいは本当の涜聖をやり遂げた者どもは全く心配すらしないと言う事実から、この抵抗が正しいことであることの確証を見いだす。なぜなら、これが権力の乱用の論理だからだ。

5.-ミサの聖なるいけにえに関するプロテスタント的考え。

 教皇ヨハネ・パウロ2世が、新しい教会法の前にある憲章の中で定義するままの教会の新しい概念は、ミサのいけにえという教会の主要な行為において深い変化をもたらしている。新しい教会論の定義は、全く正確に新しいミサの定義を持ち出している。つまり、それはサービスであり、団体的でエキュメニカルな交わりである。これよりも良く新しいミサを定義できない。新しいミサは新しい公会議後の教会のように、教会の聖伝と教導職からの深い断絶にあるものである。

 不当にも高揚された全てのことと蔑ろにされたこととを説明するのはカトリックと言うよりもむしろプロテスタント的な観念である。

 トレント公会議の第22総会でなされた教えとは反対に、またピオ12世の回勅"Mediator Dei"とは反対に、ミサにおける信者の参加の余地を誇張し、司祭の地位をただの座長におとしめ蔑ろにした。御言葉の典礼の地位を誇張し、罪の償いのためのいけにえという地位を蔑ろにした。共同体の食事と言うことを誇張してそれをし神聖化し、しかも、全実体変化による御聖体における主の現存への敬意と信仰を犠牲にしてまでもそうした。

 聖別された言語を廃止することにより無限にミサ典礼様式を多元化し、世俗的なあるいは異教的な要素を持ち寄ることによりそれを世俗化させた。また信者の本当の信仰と本当の敬虔の念を犠牲にしてまでも誤った翻訳を広範囲に広げた。

 しかし、フィレンツェとトレントの両公会議は、これら全ての変化に対し排斥文を発表し、私たちのミサは、そのカノンにおいて使徒の時代にまで遡ることを宣言している。教皇ピオ5世とクレメンス8世とはミサの変化や変更を避ける必要性について強く主張し、聖伝によって聖別されたローマ典礼様式を永遠に保護した。

 ミサの非神聖化、ミサの世俗化は、司祭職の世俗化をプロテスタント流になしつつある。

 プロテスタントのやり方に従った典礼改革は公会議後の教会の最も大きい誤りの一つであり、信仰と聖寵の崩壊をもたらす最もひどいものの一つである。

6.-異端の自由な流布

 探求の状態に落とされた教会の状況は、プロテスタント的な意見の自由を実践において導入し、教会内部においていろいろな数多い信経を作り上げてしまった。「聖庁」や「禁書目録」また「反近代主義者宣誓」などの「廃止」は、現代の神学者達において新しい理論が必要だと言うことを思わせ、信者の方向を迷わせる理論や、信者をカリスマ運動や聖霊降臨運動、基礎共同体へと駆り立てる新しい理論を出させた。これは結局天主と教会の権威に対抗して打ち立てられた真の革命である。

 多くの教皇達によって永久に排斥された現代の重大な誤謬は今より教会内で自由に発展している。

1-反スコラ学的な、実存主義的、反知性主義的な近代哲学がカトリック大学や大神学校で教えられている。

2-人間を全てのものの目的であるとする現代世界の言うがままをオウム返しに言おうとする教会当局の必要のため、人間中心主義が尊重されている。

3-自然主義(非超自然主義)-人間と人間的価値の高揚のために贖いと聖寵の超自然的価値が忘れられている。

4-進化論的近代主義のために、二十世紀の聖伝と啓示と教導職とが打ち捨てられている。彼らにとってもはや固定された真理もドグマも存在しない。

5-社会主義と共産主義-公会議がこれらの誤謬を排斥することを拒んだことはスキャンダルなことであった。そしてそのためにバチカンは今日では多かれ少なかれキリスト教的な社会主義や共産主義に対しては好意的であると信じるようになってしまったとしても不思議ではない。

そして過去十五年間の聖座の態度は、鉄のカーテンの向こうに対してであれ、こちら側に対してであれ、この判断が正しいことを確証している。

6-最後に、「フリーメーソン」「諸教会の宗教統一会議」「モスクワ」との一連の「同意」のために教会は牢獄にいる状態に還元させられた。これらのため教会はもはや自由に自分の使命を果たすことが全く不可能になってしまった。これらの同意は天に復習を叫ぶ本当の裏切りであり、それは最近最も躓きを引き起こし教会にとって最も害を及ぼした異端の主導者「=ルターのこと]に対してなされた賛辞の数々も同様である。

 教会がその敵に気を使うことなく我らの主イエズス・キリストの統治とマリアの統治とを実現させる自由を回復する時は来ている。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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