Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

五つのパンと二匹の魚の奇跡ーその全てに意味があるのです|天から下った生きるパンをいただくために 「ヨゼフのもとに行け」

2021年03月13日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年3月14日は四旬節第四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


「み旨のままに」全き "お任せ"を愛し尊ぶこと 1 J・P・ド・コッサード神父

2021年03月13日 | カトリックとは

み旨のままに 下巻 J・P・ド・コッサード S.J.著 水谷愛子訳

L'abandon à la Providence divine par Pere Jean-Pierre de Caussade S.J. 

第一巻の最初の手紙をご紹介いたします。

LIVRE PREMIER ESTIME ET AMOUR DE L'ABANDON  第一巻 全き「お任せ」を愛し尊ぶこと
LETTRE 1 A LA SŒUR ÉLISABETH BOURCIER DE MONTHUREUX  第一信
Bonheur et paix inaltérable de l'âme qui s'abandonne entièrement à DIEU. 主に全く己れを任せる霊魂の味わう変りない幸福と平和に就いて
Madame et très chère Sœur. Vous faites bien de vous attacher fortement et presque uniquement à l'excellente pratique de l'entier abandon à la volonté de DIEU. C'est là que gît pour vous toute la perfection; c'est la voie la plus simple, celle qui conduit plus tôt et plus sûrement à une paix profonde et invariable; c'est aussi la sauvegarde assurée qui conserve cette paix au fond de notre âme, au milieu des plus furieuses tempêtes. L'âme qui s'abandonne vraiment à DIEU n'a rien à craindre de la violence des orages. Loin de lui nuire, ils serviront infailliblement, non seulement à accroître ses mérites, mais encore à l'affermir de plus en plus dans cette union de sa volonté à la volonté divine, qui rend la tranquillité de l'âme invariable.  主のみ旨に全く己れをお任せしようという、この上ない美しい生き方に、ひたすら又深く心を引かれているとのお手紙を大変結構なことと拝見しました。そういう風に生きることによって、完徳の凡てを修めることができます。これは一番簡単な方法で、しかもより早く、より確かに深い変らない平和に、あなたを導きます。極く激しい嵐のさ中にも、霊魂の奥底に平和をたたえさせ、それをしっかりと保たせてくれます。主に全く己れを委ねた霊魂は嵐の激しさなど意に介しません。嵐は、このような霊魂に害を及ぼすどころか却って功徳を積ませ、霊魂の変りない平和の源である「み旨との一致」を益々堅固にするばかりです。
O quel bonheur, quelle grâce, quelle sûreté pour l'autre vie et quelle paix inaltérable pour celle-ci que d'être en DIEU seul, de n'avoir plus que DIEU seul; plus d'autre appui, d'autres secours, d'autre espérance qu'en DIEU seul! O la belle lettre que vient de m'écrire sur cela une de vos Sœurs! Durant un mois, dit-elle, cette seule pensée :DIEU seul, je n'ai plus que DIEU seul, cette seule pensée la consolait, la soutenait, l'encourageait si fortement, qu'au lieu de regrets, elle sentait un fonds de paix et de joie inexplicable. 11 lui semblait que DIEU prenait la place tout entière de directeur, d'ami, et que lui seul voulait lui être toute chose.   主にのみ生き、最早主しか所有せず、主以外に何の助けも支えも希望も持たないことは霊魂にとって何と大きな幸福、何という恵み、そして、どんなにか来世を保証し又とない恒久的な平和を与えてくれるでしょう。 先日あなたのところの一修女がこのことに就いて素晴らしい手紙を書いてよこしました。「この一か月というものは『主のみ』という考えで一ぱいでした。私は最早主しか所有していません」と。このことを思い出すことが彼女を慰め、支え、勇気づけ、又めそめそさせるどころか言い知れぬ平和と喜びに浸らせるのでした。主は唯一の指導者、唯一の友として彼女の心を全部占められ御自身だけが彼女の凡てでありたいと望んでおられるかのようです。
Plus nous nous pénétrerons de ces sentiments, plus notre paix sera solide; car cette détermination bien arrêtée de ne chercher que DIEU et de vouloir tout ce qu'il veut, c'est par excellence la bonne volonté à laquelle la paix a été promise. Comment les créatures pourraient-elles troubler l'âme qui n'a plus à leur égard ni désir ni crainte? Efforçons-nous d'en arriver là, et notre paix sera vraiment imperturbable. Imitons le saint archevêque de Cambrai qui dit de lui-même : « Je porte tout au pis aller ; et c'est au fond de ce pis aller que je trouve ma paix dans l'entier abandon. »   こうした気持を深く心に留めれば留める程、私共の平和は益々しっかりしたものとなります。主だけを求め、主の望み給うものは凡て望むという固い決意は、おもに根強い平和を約束する素晴らしい善意に懸っています。もはや被造物に対して何の魅力も恐れも持たない霊魂を被造物は乱すことができましょうか。そこまで行き着くように努めましょう。そうすれば私共の平和は真に動じないものとなります。カンブレの聖なる大司教が御自分に就いて言われたことを真似ようではありませんか。すなわち「私は物事の最悪の場合を考える。そしてその最悪の奥に完全な〈お任せ〉を以て平和を見い出す」と。


マリア様の浄配、天主の御母の夫、聖なる夫となるとはつまり、同じ事を考え、同じ望みを抱き、同じ愛で一致していたという事

2021年03月13日 | お説教・霊的講話
2021年3月7日(主日)四旬節第3主日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖ヨゼフの特別聖年、そして聖ヨゼフの祝日が、教会の守護者である聖ヨゼフの祝日がいよいよ近付いてきました。3月19日です。

3月の最初から、私たちはノベナを始めています、第1回目のノベナの今途中です。
もしもまだ始めてない方は、第2回目のノベナが3月10日から始まります。どうぞ皆さん一緒になさって下さい。

今日は、聖ヨゼフの聖徳の偉大さについて、少しだけ垣間見てみる事に致しましょう。聖ヨゼフの聖徳はどこに根拠があるのでしょうか?どこからそれを私たちは知る事ができるのでしょうか?

聖トマス・アクィナスによると、「天主様は、私たちにミッションを使命を与えると同時に、それを果たすのに必要な御恵み、聖寵を与える」と。

ですから、「使命が偉大であれば偉大であるほど、それに相応しい特別の御恵みも与えられる」という事です。

では、聖ヨゼフのミッションとはどうだったのでしょうか?

それは、聖家族を守る事、保護する事。そしてマリア様の浄配となる事でした。

「マリア様の浄配、天主の御母の夫、聖なる夫となる」という事はつまり、「この二人は、夫婦は、同じ事を考え、同じ望みを抱き、同じ愛で一致していた」という事です。

「天主への愛、イエズス・キリストへの愛で、全く同じ事を考えていた」という事です。

マリア様のお望みはすなわち、聖ヨゼフのお望みであって、ですからこのマリア様の聖徳のその輝きを考えると、聖ヨゼフの望みはまさに清められていて、全く聖なるものであったとしか、それ以外考えられません。

最近の、近年の神学の研究の深みにより、私たちは教皇様の断言によって、私たちはこの事を知っています、「聖ヨゼフは、洗者聖ヨハネの聖徳よりもはるかに優れていた」と。「なぜなら、そのミッションが優れていたから。」

ところで、洗者聖ヨハネは、その母聖エリザベトの胎内6ヶ月いた間、私たちの主によって既に罪の赦しを得ました。原罪の汚れをきれいに取り去られました。ですからその原罪の罪の傾きはたった6ヶ月しかありませんでした。

ところで、聖ヨゼフはどうなのでしょうか?もしも聖ヨゼフは洗者聖ヨハネよりももっと聖徳が高いとしたら、その原罪の汚れの影響はもっと少ないかもしれません。これはまったくの推測に過ぎませんですけれども。そして聖ヨゼフは、マリア様のような無原罪の御孕りというわけではないでしょう。それは、マリア様だけが特別に受けた御恵みであるからです。では一体、聖ヨゼフはどうだったのでしょうか?

聖トマス・アクィナスは、マリア様の無原罪の御孕りについて、実は間違っていました。なぜかというと、本当は、事実は、マリア様は一瞬たりとも原罪の汚れの影響を受けていない、無原罪の御孕りの方ですけれども、聖トマス・アクィナスは、ほんのちょっとだけ、一瞬だけを実は認めてしまっていたからです。

ところである神学者によると、「もしかしたら、この聖トマス・アクィナスがマリア様に想定したような、その最低限の事が、原罪の影響が、聖ヨゼフに適用されるかもしれない」と主張しています。

なぜかというと、聖ヨゼフの聖徳は、偉大でなければならないからです。なぜかというと、そのミッションがあまりにも偉大であるからです。「天主の御母の聖なる浄配となる」という使命を受けたからです。

この聖徳の輝きの聖ヨゼフを見ると、どれほど聖ヨゼフが童貞の内の童貞であるマリア様を守って、そして純潔自身であるイエズス様を守る、その童貞の守護者、純潔の保護者であった、その輝きを見る事ができます。

特に現代、聖ヨゼフの模範は、私たちにとって必要です。なぜかというと、この世界はあまりにも多くの不潔や、汚い事で乱れているからです。今日のちょうど書簡にも聖パウロは言っています、「私たちにはそのような事を、口にする事もできないほどのものがたくさんある。そういう事があってはいけない。それは偶像崇拝者だ」と。

聖ヨゼフにぜひ行きましょう。「Ite Ad Joseph.」そして、私たちにその聖ヨゼフの聖徳に倣う御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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