伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

間もなく平成が終わる

2018年12月15日 | 雑文

12月15日(土)

平成が間もなく終わろうとしている。明年4月31日がその終日になるようだ。マスコミなどでは平成最後の年として30年間に生起した事件の回顧や歴史の軌跡などがさかんに取り上げられている。

昭和5年に生まれた私は「平成30年の時代」を生き抜いてきたわけだが、率直に言って私の平成時代はあまり明暗のはきりしない起伏の乏しい平坦な人生だったと思う。

もちろん思い返せばこの30年間に起こった変化・変動は人類が経験したことのないような凄まじいものだった。

 国内的には「オウム真理教事件」「阪神淡路大震災」「リーマンショック」「東日本大震災」などがあったし、国際的には「天安門事件」「ベルリンの壁崩壊」「湾岸戦争・イラク戦争・アフガン戦争」「米国同時多発テロ事件」などなど数え上げればきりがない。

しかし私自身の人生にこれらの事件が直接影響することはなかったし、事件は遠くに聞く遠雷の響きのようなものだった。

そんな中、世相の変化が私の生活にもたらしたものを強いて挙げればバブル崩壊による預貯金の減少、パソコンに画期的な変化をもたらしたインターネットの一般化、いつも手元になければ困惑ようになったスマホの出現くらいのものか。いや、孫の誕生、園芸・ウオーキング・パソコンを縁としてつながった地域のお仲間のことも落とすわけにはいくまい。

いずれにせよ、 ゆるやかな流れの中をただよってきた人生だったように思う。

これでは「平成」を終えて、この時代をおくる言葉にはなりようがない。

そんなとき、ふっと思ったのは「第二の人生」に先立つ「第一の人生」である。平成に先立つ「昭和の人生」。

いまはもう「往時茫々」、記憶からも急速に遠ざかりつつあるあの「時代」!あの時はどうだったか。

そうだ、昭和が終わったあの日に私は興奮の極にあって短文を「三金会雑記」に書いていた。

未だに保存している「三金会雑記」全106号の中からその記事を探し出した。

「平成を終わる」と「昭和が終わる」のなんたる違い。読み終えて「懐かしい」ではなく「悲しい」でもなく「空しい」でもない表現しようのない思いが駆け巡った。

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【 三金会雑記 第7号 】 1889年3月

  

平成元年二月二四日、昭和のすべてが終わった。

この日、新宿御苑で行われた「大喪の礼」のため設けられた白いあく舎の中で、私はこの冬一番の寒さに震えながら、百六十三ヶ国、十八国際機関の弔問使節お交えた九千八百人に及ぶ参列者の一人として、昭和天皇をこころから武蔵野御陵へとお見送りしたのである。

昭和の始めに生を受け、六十年になんなんとする長き時間を昭和天皇と供に激動の時代を生きてきた私にとって、この日は、もはや決して新しい時代の到来を告げる日ではなく、この生きた時代の終焉を感じさせる日であった。

     *     *     *     *

思えば、我々世代が生きてきた「昭和」は、壮大な交響曲に似ている。「昭和交響曲」は、暗い調べを伴いながらおどおどろしい戦争の主題を奏でる第一楽章で始まる。そこには、皇軍を閲兵する白馬に跨った大元帥陛下のニュース映画と奉安殿に安置された御真影が重なって見える。その頃、我々は天皇のために死ぬことを当然と受け止めていた。

次いで、激しい乱調にはじまりながら、微かに明るい希望の主題が次第にたかまっていく第二楽章。そこに映し出されるのは、廃墟となった広島と戦後の混乱と復興の中で各地を巡幸された人間天皇の姿である。そして、その頃、我々は荒れ果てた大学のキャンパスで飢えた青春をマルキシズムの洗礼の中で過ごした。当然、そこで天皇は否定的な存在だった。

第三章は、高らかに鳴り響く高度経済成長へのマーチである。長く続くそのマーチの響きの中で、昭和天皇は次第にお歳を召され、弱々しくはかなげな足取りとなりながらも、その象徴としての役割を懸命に努めておられるお姿がある。

その間、東京オリンピックがあり、いつか巨大な近代都市が生まれ、農村にも豊かな稲穂が波打った。その影の部分には、エネルギー革命があり、オイルショックもあったが、そうした異音も全体の高らかな響きの中にいつか飲み込まれて消えた。そして、私といえば、象徴天皇の下、一人の役人として、その時々に与えられた己の仕事を大事と心得、前を見ることもなく、後ろを振り返ることもなく、ひたすら働き続けてきた積りである。

そして、気が付いてみれば、「昭和交響楽」はいつしか第四楽章へと移り進んでいた。それは世界最強の経済大国となり、人類史上類を見ない経済的繁栄を謳歌する歓喜の歌なのだが、そこに流れる低い響きにはなにかしらの世紀末的な不安と恐れを聞き取る人も少なくない。

そして、この偉大な国の繁栄とは裏腹に昭和天皇の健康は徐々に衰え、その最後には壮絶な癌との長い闘いがあった。世界各国からかてない多数の弔問使節を迎えて行われた「大喪の礼」は、そのフィナーレに相応しいといえる。

こうして「昭和交響楽」は、その終章を終えて、最後の余韻を氷雨の中に響かせて今日消えていったのである。

そもそも昭和天皇は私にとって何だったのだろうか。一言で言うなら、昭和天皇は計り知れない重みをもつたアンビバレントな存在だったのだ。わたしの心は昭和の長い時間を通じて絶えずその間を揺れ動いていたといえる。思いは複雑だ。だが、今そのすべてが終わったのである。

     *     *     *     *     

荘重な「明治」とはまた一味違った、厚手の鋼鉄の塊のような深重な色合いを感じさせる「昭和」の語感にくらべれば、「平成」とは何とも軽く薄手のアルミかジュラルミンに似た音色がする。

しかし、それもいいのであろう。「平成」の持つアルミの語感は「軽薄短小」のハイテク時代によく似合うし、これからは宇宙船「地球号」の最も重要な乗り手として国際社会で活躍しなければならない日本にとって、空飛ぶジュラルミンの音色は、それに相応しようにも思えるからである。

(「大喪の日」の夜記す)

 

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1 コメント

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Unknown (エイジング)
2018-12-16 07:34:50
感じること、それを表現できること…
もちろん前提に、
そのことを可能にするイキイキとした前頭葉!

お体の健康は取り戻していらっしゃると安心していますが
脳の健康は、取り戻されるまでもないことがわかりました☺️
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