伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

「大室高原」に住んで20年  (「三金会雑記」素稿)

2010年05月26日 | 三金会雑記
5月26日(水)


「大室高原」を「終の住処(ついのすみか)」として住み着いたのが平成2年、ちょうどバブルが始まろうとしていた頃。そしていつしか20年という長い歳月をこの地で過ごすことになった。

転勤が多く官舎生活で明け暮れしていた公務員生活に別れを告げ、60歳定年から始まる「第二の人生」をどのように決めるか、「永住の地」をどこに定めるかは、「結婚」と「仕事」に次いで人生の岐路に立つての極めて重大な決断となる。

当初は退職後の仕事として教職を考えていたから、漠然とそうしたことに縁のある東京か福岡のマンションにでも住むことになるだろうと考えていた。

それが退職の少し前、これまで訪れたこともなく縁もゆかりもなかった「大室高原」に住む先輩を表敬訪問したことで、そこで見た自然、特に眼前に広がる山と海にすっかり魅せられてしまい、その頃は土地バブルが始まっていたが、私でも買える安価な土地があることを知って、「仕事」を選ぶより先にここを「永住地」に決定してしまった。

幸運だったのは退職後の仕事も東京に決まり、最寄の伊豆高原駅から熱海に出て新幹線を使えば片道2時間余、通勤がなんとか可能だったので、「大室高原」に住みながら65歳まで目一杯働くことができた。

また、その後も70歳までは非常勤で東京・名古屋への出講、熱海の裁判所での調停などで月に2,3回程度の出掛けるだけで済んだから、その間は伊豆半島での生活を十分楽しむ時間ができたし、70歳を過ぎてからは束縛のない自由の身で恵まれた自然環境の下で「悠々自適」の生活を送ることができた。

いま顧みて、ここ「大室高原」を「永住の地」として選択したことは、私にとっては望み得る最良の選択であったと思う。

東京都老人総合研究が平成10年に実施した「伊東市住民の生活・健康に関する調査 ―別荘地区と一般地区の比較― 」をみると「希望して別荘地に移住してきた人の移住に対する満足度は、全体の9割が満足していた」とあり、こうした思いは私一人だけのものではないようである。


上空から見た大室山と「大室高原」

だが、そのことと裏腹の関係になるのかもしれないが、この20年の歳月は私のとって信じがたいほどの早さで過ぎ去ったようにも思える。

フランスの心理学者ジャネによる「ジャネの法則」というのがある。

「心理学的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する」というものである。
10歳児の1年は、60歳老にとって6分の1年、つまり2月にしか当たらないというわけで、80歳の私なら1月半でしかない。

これからの生活にこれまでと違った格別の変化があるわけでもなく、ただ緑豊かな自然に囲まれて相模の海と天城の山を眺めながら「歩くこと(トレッキング・散歩)」、「土を弄ること(園芸)」、「パソコンに向かうこと(ブログを書いたり「三金会雑記」を書いたり)」といった生活リズムで暫くは推移していこうが、これもいつまでも続けられるわけにはいくまい。

その後が読書とTVくらいしか楽しみのない無為の日々の繰り返しとなるのであれば、時間は「ジャネの法則」よりもさらに早く過ぎゆくであろうし、遅かれ早かれいずれ訪れる終末に至る体験的時間の経過はうたかたの夢のようなものであるのかもしれない。

これから平均余命とされる8年を仮に生きたとしても、その心理的時間は10歳児の1年そこそこでしかない。

そんなことを考えていたら、ここらあたりで「大室高原で過ごした20年」を総括すべきときが来ているのかも知れないと思い、その前提にある「大室高原」という地域の成立事情を関係諸資料を基にして取りあえず調べてみることを思い立った。




以下は、これまで調べ上げたことの概略である。


戦後初めて浅間山の山麓北軽井沢に別荘を開発(「あやめヶ原・くるみヶ原別荘地」)しその分譲に成功した「㈱東拓」という会社が、軽井沢の次に目を付けたのが東京に近く風光明媚な伊豆半島東海岸にある大室山の麓に広がる原野であった。

昭和32年、大室山の東南に広がる溶岩台地「先原」の10万坪を坪単価135円(その頃、公務員として私の月額給与は1万数千円であった)で購入し、大室山の側火山である岩室山の平坦部分5万坪を公園に、残る5万坪を「海の見える軽井沢」をキャッチフレーズに一区画おおむね120坪に分け別荘地として開発・分譲することになった。


開発が始まった大室山麓

当初の計画では建設戸数1000戸、軽井沢にならい健康で文化的な村の建設を目指したので、会社とは別組織の「大室高原理想郷建設会」を結成し、会長には式場隆三郎医学博士が就任し、おおむね次のような申合わせを行って別荘の建設を進めていくことになった。

①国立公園指定地内での開発なので建蔽率を20%に制限する、②植樹などの緑化に心掛け境界線は植樹による方法をとる、③美観を保つため極端な原色塗料を用いないで環境に適合した色彩を選び自然美と庭園美を考える、などなどである。

  
  
開発に先立つ道路の開削と分譲の看板 東京横浜方面から分譲地の現地見分にきた人々

後述する事情で「大室高原理想郷建設会」が解散した後も、この申し合せははぼ踏襲され現在に至っている。
なお、建設会ではこうした趣旨を徹底させるため昭和34年に「理想郷」と題する月刊広報誌を刊行し、同誌は昭和39年通巻59号まで続けられた。)

「大室高原理想郷建設会」の発足で、別荘地開発会社㈱東拓が名付けた「東拓分譲地」の名称は「大室高原理想郷別荘地」に改められ、開発会社と建設会が表裏一体となって別荘の建設が進められながら、分譲区画も隣接する土地に拡大され、当初の1000戸から3000戸の区画が分譲されていった。


㈱東拓は、折から国を挙げて高まっていた観光ブーム・レジャー志向に乗って、別荘地の開発・分譲事業だけでなく観光事業に手を広げていった。

理想郷別荘地の中央を占める岩室山の頂上平坦地にはシャボテンを主体とした自然植物園「シャボテン公園」(開園当初には天皇・皇后陛下のほか皇太子・妃殿下をはじめ多くの皇族方が訪れている)を昭和34年に開設し、その隣には人間ドックを備える先進的な長期保養施設「ホテル・オームロ」(現「桜美林大学伊豆高原クラブ」。このホテルには高松宮夫妻が一泊している)が建設されている。

さらには、昭和38年城ヶ崎海岸沿いに「アクア・スポーツクラブ」を併設した[伊豆海洋公園」の開設、昭和40年には国道沿いに「伊豆コスモランド」(現「グランパル公園」)も開設され、伊豆半島東海岸を中心とした同社の観光事業は大々的に展開されていったのである。

     
「シャボテン公園(建設途上・完成後)」と「伊豆コスモランドの大地球儀温室」

このほか別荘地の付帯施設として山麓の北端6000坪(現大室リフトの駐車場付近)に昭和34年「大室山高原乗馬クラブ」が作られており、昭和39年には「伊豆コスモランド」の一画に「東拓ヘリポート」を作り、伊東・東京間1日2往復の大型ヘリコプターによる定期航空路が開設されている(昭和41年採算が合わず廃業)。

  
「大室高原乗馬クラブ」

さらには「シャボテン公園」―「伊豆コスモランド」―「伊豆海洋公園」をつなぐモノレール計画さえあったのである(当局の認可が受けられず計画倒れとなった)。

このように㈱東拓が相当無理な資金繰りの中で進めていった拡大路線は、昭和41年同社に脱税容疑がかかり国税庁の査察が入ったことを機に、一挙に破綻に向かうことになった。

会社の評判が落ち資金供給が手控えられて経営は急速に悪化し倒産の岐路に立たされ経営陣は総退陣し、大口債権者だった「静岡商工資金共同組合」がこれに代わり、昭和46年に規模を大幅に縮小し会社名を「㈱シャボテン公園」に改めて再建を図ることになった。

こうした状況の中で「大室高原理想郷建設会」も内部分裂し、紛糾の末に解散することになってしまった。


こうして、健康で文化的な村の形成を目指した「大室高原理想郷」は姿を消し、その地域は単に「大室高原」という地域名となって今日に至ることになった。

別荘地の分譲事業の方は、その後も続けられ、昭和50年、開発面積80万坪(260平方米)、別荘区画4500、購入者4000人をもって打ち切られている。



ちなみに、現在では「大室高原」を含め広く伊豆高原駅を中心とした一帯を「伊豆高原」と呼んでいる。

これは昭和36年に伊東・下田間の伊豆東海岸を走る伊豆急行線が開通し、㈱伊豆急行の本社が「伊豆高原駅」に置かれ、その沿線一帯が別荘地として開発され、その地域名を「伊豆高原」と称したことに由来している。

しかし、別荘地開発をさきに手がけた㈱東拓が開発地域の名称を「伊豆高原」とするか「大室高原」とするかの選択で「大室高原」に決めたという経緯があり、「大室高原」は「伊豆高原」に先行する名称だったのである。

最初に掲げられた「理想郷」建設の壮大な計画は、こうして経営陣の無謀な拡大路線の頓挫から竜頭蛇尾に終わる結果になったが、もとよりそれによって大室高原が持つている自然の魅力が失われたわけではない。

前述した広報雑誌「理想郷」の創刊号に式場隆三郎が「なぜ理想郷というか」と題して次のような一文を載せている。

「私たちがこんど計画している伊豆の大室理想郷は、いろいろな角度から検討してみると、上述のよい条件(規模・気候条件・地理条件など)をかなり備えている。ただ今まで人が住まなかったのは水がなかったからである。‥‥‥しかし、この問題は近くに水源が発見され、そこからの引水によってみごとに解決した。それに加えて温泉が近くからひけることが実現したので、いま望める健康地の条件としては最良とみとめていい。‥‥‥私たちはこの日本一ともいえる風景のよい場所で、しかも夏は涼しく、冬暖かで、海も近く、山も遠くないこの土地に、長い間夢想していた理想的な住宅や文化的な施設を建設するつもりである」

また、式場に同行した山下清の素直な文章もある。
「岩室山に登った。‥‥‥式場先生はこの景色にすっかり感心して、世界中をあちこち旅行してきたが、こんな景色のよいところははじめただといって、ほめていた。ぼくは外国はしらないが、日本はあちこと歩いて5分の1ぐらいは知っている。ほんとうにこの景色は日本一かもしれない。ぼくは式場先生が世界一というなら、ほんとに世界一に景色のよいところだろうと感心した」




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現在、「大室高原」という地域に居住している者は、定住者・別荘者を含めて「建設会」の後身というべき「大室高原自治会」に所属しているが、その世帯数は2599世帯(うち定住世帯数1230)という規模になっている。

「理想郷」が実現できなかったことは、まことに残念というほかないのであるが、翻って考えてみると、もし当初の構想どおりの「理想郷」が実現していたとするなら、私のような平凡な退職サラリーマンがこの別荘地に住み着くことなど到底できなかったろう。

これから住民の一人として願うことは、東拓が行ったような地域の観光化やレジャー化ではなく、また、バブル最盛期に坪50万という途方もない地価に跳ね上がった時、区画にまたがって建てられた豪邸や豪勢なリゾートマンションなどで形成される高級住宅街ではなく、すべての居住者が気持ちよく平穏に暮らしていける「健康で文化的な村」的な地域作りであろう。




開発前の溶岩台地「先原」


ほぼ同じ地点(シャボテン公園駐車場)からの現在の展望
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「IKOI農場」の本格稼動

2010年05月16日 | 園芸
5月16日(日)

些かおこがましく「農場」と名乗ったが、どうやらその名に恥じない実態を備えてきた。

昨日、家内達が「吊るし雛教室」で出払っている間、我々Mr.IW&IKと3人「農園日」と称してほぼ丸一日かけて農作業を行う。

春になってから曇だったり寒かったりの天候不順で、農作業にはいま一つ気合が入らなかったが、ようやく晴の日も多くなり快適な季節が到来、やわらかい陽光を浴び鶯の声を聴きながら心地よく土弄りができるようになった。

野菜類も元気を取り戻しつつあり、働き甲斐がある。

昨日に引き続き今日も私一人、昨日やり残した作業を午前中行う。畑に居れば居ったでやるべきことはいくらでも見付かる。

見違えるほど整備された「IKOI農場」、規模は別にしてその姿は農家にあまり劣らないのでは‥‥‥。








隣家の庭から農場全体を俯瞰する
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柿田川公園・香貫山・クレマチスの丘(歩こう会5月行事)

2010年05月12日 | 「大室高原歩こう会」
5月10日(月)

「大室高原歩こう会」の5月行事は、沼津地区にある豊富な富士の湧水で知られる「柿田川」と標高200m足らずの低い山だが抜群の展望で知られる「香貫山」。

そして各種のクレマチスが咲く庭園とヴァンジ美術館のある「クレマチスの丘」。

歩い距離はたいしたことはないとおもったが、歩数は15378歩になっていた。


柿田川公園(柿田川は全長1200m日本一短い1級河川とか)を一周





「クレマチスの丘」は期待はずれ。花はほとんど咲いていない。

ただ、ヴァンジ美術館の屋内展示場はよく出来ており、はじめてその名を知ったヴァンジが作る彫刻のフォルムはなかなかいい。

使われる素材は赤白など大理石や御影石、そのほかいろいろな石や各種金属で、これらを使いこなす技術力は相当のもの。ただ、彫刻の顔だけはどうも私の好みには合わない。







これが「クレマチス」。クレマチスにはいろいろな種類があり、時期的によくなかったのか。

香貫山は標高200mたらずとはいえ、車道を離れて山道を登るのは結構きつく、皆に遅れ気味。年齢からいってしかたないか。

香貫山からの展望は、生憎の曇空とはいえ、富士を中心に眼下に沼津市街地が広がり、淡島、沼津御用邸、狩野川河口、千本松原、沼津アルプス?などぐるり見渡せる360度の広がりは素晴らしい。








日頃は自然ばかりで見ることのない市街地の広がる景観も悪くない。



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南伊豆で津軽三味線を聴く

2010年05月11日 | ウオーク
5月9日(日)

急にMr.&Mrs.TKから誘われ、南伊豆妻良の南にある吉田地区で行われた津軽三味線のチャリティ・ショーを聴きにいく。

海に向かい自然をあしらって設けられた素朴な野外の演台も岡田修が奏でる津軽三味線の音色を際立たせ素晴らしいショーであった。



後で地図で場所を確認したら、吉田とは妻良の南方にある三十六夜山のさらに南に位置する国道から細い道一本でつながる僻陬の海岸地区。緑豊かな山と青く澄み切った海に囲まれている。

聞けば、この日が1974年(昭和49)、現在もなお続く一連の伊豆半島沖地震の始まりとなった南伊豆地震(多数の山崩れで犠牲者27名)の直接的被害を受けた日だとのこと。

伊豆半島に住んでいても二度と訪れることはない土地だろう。







演奏が終わり参加者の帰り車が細い道を帰り終わるまで待とうと海岸に出てみたら、近くにいわくありげな古い社がある。

白鳥神社といい、社前にある巨大なビャクシンは一見の価値あるものだった。


きつつきにつつかれ穴ぼこだらけになった樹




ドライブ中、山野に咲く紫の藤の花を随所に見かけた。藤は今が見頃らしい。
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城ヶ崎海岸「自然研究路」を歩く

2010年05月10日 | ウオーク
5月8日(土)

この時期、森や林の中には木々から発散される独特の香り「フィトンチッド」が1年の中でもっとも溢れているという。

天気にはあまり恵まれることのなかった今年の春だったから、貴重な晴天の日を無駄にはできない。

新緑が作り出す樹の下影の中、南に広がる青い海と岩礁に砕け散る白い波頭を眺めながら歩く絶好の機会だと思い定め、かねて宿願だった城ヶ崎海岸「自然研究路」の中心部分をMr.TBと踏破することにした。

「自然研究路」は伊豆海洋公園から八幡野港まで、これに伊豆海洋公園から富戸港までの「ピクニカルコース」を入れたのが景勝地として知られるいわゆる「城ヶ崎海岸」ということであろう。

この全部を歩き通すとなれば一日がかりの本格的なトレッキングとなる。

地元の人間としては気軽なピクニック気分で歩ける距離が望ましいから、いつもは「自然研究路」を途中で道に抜け出ることができる場所があるので、4分割し(伊豆海洋公園―いがいが根―ゆうゆうの里近く―かさご根―八幡野港)、これに「ピクニカルコース」を加え、それぞれハイク・コースとして歩いていた。

しかし、そのうち「自然研究路」の中央部を占める「いがいが根」から「かさご根」までを一気に歩き通し、「根」などの名称が付く途中の岬々にも出来るだけ降り立ち絶壁の上から海を見てみたいものだと思っていたのである。

そして、ようやく念願を果たした。

車2台で「いがいが根駐車場」と「対島川駐車場」に停め、「いがいが根」から「かさご根」まで、時間にして2時間余のウオーキング。

思ったほどの時間はかからなかったが、自然研究路のアップダウンに加えて波に洗われ鋭くとがった危険な岩場を歩くのは80歳老には大変だった。

こんなことが出来るのはあと何年ぐらいだろうか。

足腰の弱り、バランス感覚の低下をほどほどに自覚した上での「歩き」に心掛けなければなるまい。

歩数は意外に伸びず10000歩を切る。









磯菊の花開く



危険をものともしない命知らずの釣り人



近日来の雨で水量が多く音を立てて激しく流れる対馬川


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風雨に痛めつけられた?松川湖畔

2010年05月06日 | ウオーク
5月5日(水)

伊東市における景勝地といえば、一に「大室山」、二に「城ヶ崎海岸」、三に「一碧湖」、四に「小室山」だと思うのだが、最近よく整備されてきたので「松川湖畔」を、その次に挙げてもいいのではなかろうか。

今春は雨に祟られ、春とは思えない寒さ続きで、松川湖畔を歩く機会に恵まれず、湖畔を飾る梅も桜も蝋梅も芝桜も見ることがないまま4月は過ぎ去った。

連休最終日、明日からはまた雨との予報もあつたので家内と松川湖の遅まきの春を愛でようと出かけた。

だが、「松川湖畔」がひどく様変わりしていたのには驚いた。

今年の4月は強風、烈風、豪雨、多雨などなどこれまで経験したことのない異常気象の連続だったことは承知していたが、それが松川湖畔にかなりの被害をもたらしていたのである。

湖畔に吹き上げられた湖面のゴミの散乱、ダムに流入する水を堰き止め川の流れを変えてしまった土砂の堆積、なかでも対岸に渡るための松川の間に設置された踏み石まで消えてしまって通行止とは。

伊豆高原地区では一向に気付かなかったが、これほどの被害が出ていたのだ。

そのため、いつもは一周一時間と踏んでいたショートカットが出来ず、本格的な松川湖・松川のぐるり一周全部を歩かねばならなかった。

暦の上では今日は「立夏」。なんと真夏のような暑さの中で、予想外の長い「歩み」を強いられたのには少々こたえた。

すっかり荒らされてしまった松川湖だが、それでも若葉で覆われた周囲の山、新緑を映す静かな湖面、湖畔を彩る芝桜の群落、それにブログのテンプレートそのものの紅葉の若葉の瑞々しさなどはたとえようもない。








この川の間に大きな踏み石が連なり、川のせせらぎを眺めながらゆったり対岸に渡れたのだが‥‥‥。


紅の紅葉もいいが、下から見上げる新緑のもみじも捨て難い。


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「立ち雛」量産中

2010年05月04日 | 手作り
5月4日(火)

自宅には一組あれば十分だが、家内はあちらこちらに配るとかで「立ち雛」が続々立ち上がりはじめている。

髪なし顔なし、烏帽子なし、衣装には待ち針が刺さったままだが、衣装が変わるとそれなりに持ち味が変わるようにも思える。

完成はいつのことか、連れの姫の姿が立ち現れるのは?

ま、それは先の話として、とりあえず‥‥‥。

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春を迎えた「IKOI農場」

2010年05月02日 | 園芸
5月2日(日)

晴の日が続いたお陰で農作業が順調に進行し、IKOI農場もすっかり春の装いに整備された。

ぞれに僅かづつだが、春の収穫もできるようになってきた。

まだ掌に乗るほどの量だがキヌサヤ、4,5本のスナック豌豆、朝食のサラダに使うサニーレタス、縮みちしゃ、サラダ菜、パセリ、それにハーブティーに使うペパーミントとスペアーミント(これに昨年収穫し乾燥させたカモミールの花を加える)、細葱などなど。

野生のものとしてはこれに蕗と三つ葉もある。

これから農作業も本格化し忙しくなりそうだが、蚊が出るまでは楽しく働ける。






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青葉の季節

2010年05月01日 | 日記
5月1日(土)

快晴の日が今日で3日続く。

この時期にあって微風が運ぶ草木が萌え出る香りを受けながらさわやかな陽光の下で行う農作業の中にこそ「園芸」の真の醍醐味がある。

3日つづけて畑の中で一日の大半を過ごすことになったが、肉体的には少し疲れた。

家に帰り、疲れた身体を芝生の上に大の字になって寝転んだみたら、低い視点から見上げる新緑もなかなかいかす。

だが、やはり二階の書斎から見渡す一面新緑の世界が、この時期の伊豆高原の魅力であろうか。







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