1月11日 (月) ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cloud_sim.gif)
伊東市の高台「物見が岡」は伊東の地頭伊東氏の居館跡だといわれいる。その一角にある「仏光寺」は流罪になった日蓮が赦免を受ける前に一時居住したところと伝えられ、後に日蓮が居た場所に建てられたのが妙法華院、後の仏光寺である。
その仏光寺の境内右手崖下には一群の墓石が置かれている。歴代寺の住職の墓である。その左端に自然石の表面を削ったやや大きめの墓石があり、その表面中央には簡潔に 「正清 墓」 とだけ彫り込まれている。その右上の年月日らしい文字は少し分かりずらいが、左隅にある文字は「百十一才」と読める。
「才」は「歳」の略字として現在使われているが昔もそうだったのか。この「才」の字は右肩にはテンがあり筆の終わりが反対側にはねるなど今とは少し違う。だがともあれ、「正清」なる人物が111歳で亡くなったこと間違いあるまい。
右側に書かれた年月日はあまりはっきりしないが、なんとか解読してみるとどうやら「貞和乙酉年三月二六日」になるようだ。十干十二支による年号なので調べてみたら「貞和乙酉年」は「貞和元年」に当たり、これは「貞和元年三月二六日」と読める。西暦にすれば1345年、正清が死んだ日と思われる。
鎌倉時代に111年生きた! そんな人って本当にいるだろうか?
この碑面の文字から「正清」なる人物に、おおいに興味をそそられて調べてみることにした。
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その墓の前に小さな石柱が2基立っており、その一つの背面には「伊東朝高 家臣 綾部正清 廟 」となっている。そこで、「正清」の姓が「綾部」であることが判明した。
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ついで、仏光寺の境内にある「六角釈迦堂」の横にある立札を読んでみると、仏光寺開基の由来が書かれてあり、そこに綾部正清に触れた部分が一か所ある。
「……伊東の流罪中の日蓮聖人監視の任に当たっていた(地頭伊東朝高が)、奇病に罹り命旦夕に迫ったので家老綾部正清氏は主君を救う一念から川奈石屋に閉居中の聖人を訪れ、病気平癒の御祈祷の御祈祷を懇願した……」と。
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そこで帰ってからインターネットを使って「綾部正清」で検索してみた。期待していたほどの情報にはヒットしなかったが、一応そこで知り得たことを要約すれば次のようなことになる。
「弘長2年(1262)、伊東の地頭だった伊東八郎左衛門朝高が原因不明の病にかかり危篤になったことから、伊東家の家老綾部正清が川奈の岩屋に幽閉されていた日蓮を訪れて、病気平癒の祈祷を日蓮に懇願し、日蓮を伊東館に招聘して病気平癒の祈祷を続けてもらったところ、朝高は奇跡的に回復した。そのことから朝高、正清は日蓮に深く帰依し法華宗の信徒となった。
日蓮は朝高庇護のもとでしばらく伊東館にとどまっていたが、 翌年(1263)2月日蓮は赦免され鎌倉に戻った。
時を経て、建治元年(1275)、伊東八郎左衛門朝高が隠棲先で死没したので家臣の綾部正清は伊東に戻り館の一部を寺にあらため妙法華院として朝高の菩提を弔った」
そこで、綾部正清が仕えた伊東八郎左衛門朝高を検索してみた。これもたいした情報は見付からなかったが、朝高の死因が文永9年(1272) 執権北条氏の内紛「二月騒動」で朝高が傷を負い、それが原因で隠棲先の三浦で死去したとあり、このとき朝高は91歳であったとある。
91歳! これまた当時にあって驚くべき長寿である。
であるなら、主君朝高死去のとき正清は51歳、正清が伊東で寺院を建てたのは52歳の時ということになる。(朝高と正清は40歳違い。日蓮の平癒祈祷のときは朝高78歳、正清38歳)
鎌倉幕府が成立した建久3年(1192)には朝高はすでに8歳、正清は鎌倉幕府の基礎がようやく固まり貞永元年(1232)「御成敗式目」が出された2年後に生まれているから、元寇(文永の役、弘安の役)はもとより、動乱つづく鎌倉期を生き、正清はさらに鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、足利尊氏の挙兵、そして南北朝対立となった9年後までの長い歴史を見てきたことになる。(正清死去時の年号「貞和」は北朝の年号)
綾部正清はこのこと以外に、どのような人生だったのだろうか?
その時代、何を食べ、どんな生活を送っていたのか。伊東に湧き出る温泉に毎夜浸かり、豊富に獲れる伊東湾の魚介を毎食食べてたことがこの驚異的な長寿に役立ったのでは……、
正清の主君朝高の91歳もそのせいでは……。
そんな馬鹿なことがふっと頭をかすめた。
そんなことを示す断片的なにでも示す資料、古文書はどこかにないものだろうか。 111年と91年の人生!
ところで、今や世界第一の長寿国となった日本では百寿者センテナリアンは激増しているという。
とはいえ、その現在ですら「百寿者1000人のうち110歳に到達した人は僅かに4人」(慶応大学百寿者研究センター)だという。
アンガス・マジソン「世界経済」でみると、日本人の室町時代の平均寿命は男15.2歳、女17.3歳だある。
これは当時は乳幼児の死亡率は著しく高いものだったから出された数字だが、その頃の人はせいぜい20歳から30歳くらいしか生きなかったろう。
111歳というより想像すら及ばない寿命を果たした綾部正清の存在。近代はさておいて、これは日本のみならず世界でも空前の大記録なのではないだろうか。