2/27
[2月は28日までしかない。気がつけば「三金会雑記」№86の原稿締切日が明日に迫っている。3日前から書き始めた原稿をようやく仕上げてYM編集長にメールで送る。
今回は題して「「本」の処分、そしてその後」とした。]
「本」の処分、そしてその後
我々がいずれ迎えることになる「終末期」を念頭に置いた「身辺整理」の一つとして、蔵書の本格的な処分は一つの大きな課題である。
これまで自分の知識や教養を支え育ててくれた本だからこれを処分するとなると生身を剥ぐような苦痛を伴いこれを断行するには相当の勇気を必要とする。
書庫の大々的な整理を思い立ってからかなりの時間が経過してしまっていたのだが、このほどその主要部分を占めていた本の処分をようやく果たすことができた。
我が書庫からこれまでの学究的生活を支えてきてくれた法律学・行刑学など専門にかかるすべての書籍・文献資料を一掃することができたのである。
この種の本の処分については、かなり前からなじみある研究室や図書室に貰ってくれないかと小当りしていたのだが、いずれも個々の本なら是非欲しいものはあるが全部となると・・・と二の足を踏むばかりでうまくいかず、結局のところ、諦めて資源ゴミとして出すしかないかもしれないと思い始めていたのである。
個人的な思い出にからむ愛着があったり、買ったときには結構高価なものもあったりして粗大ゴミとして出すのに大きな抵抗があり、また老躯にとって重い書籍を梱包し資源ゴミとしてゴミステーションに持ち込むのも容易ではなく、なかなか踏み切れず逡巡してきていた。
そんな思いでいたところに、昨年の暮れにどこで聞き知ったのか、神田にある古書籍・学術誌専門の書店主から処分したい専門書・雑誌などを引き取らせてくれないか、という突然の電話があった。
当方としては願ってもない話なので、私のライフワークに位置付けた八百頁に及ぶ最後の著書『監獄(刑務所)運営一二〇年の歴史 ─ 明治・大正・昭和の行刑 ─ 』出版の目途がつく一月末までには処分予定の本・雑誌をまとめておくことを約束して、それが本年二月二日にようやく実現する運びとなった。
その日、古本屋には相応しくない黒塗りベンツのステーションワゴンで乗り付け、さすがに専門業者らしく手際よろしく瞬く間に選別して梱包し、車にびっしり詰め込んで持ち帰ってくれた。しかも三万五千円を置いていってくれたのである。
上地君から古本の価値などはその重量に見合うチリ紙交換と考えていた方がいいと言われていたが、先方が東京からわざわざ伊豆高原まで来てくれて、ごっそり全部持ち帰ってくれただけでなくお金まで呉れたのだからこんな有難いことはなかった。
書庫の大部分を占めていた専門書がなくなれば、残された一般書はたいしたものではない。これから再読する可能性のある本や絶ち難い思い入れの残る本を除いて、折りにつけ少しずつ資源ごみ回収日に出していけばいいと随分と気が楽にはなったが、大作業を終えたという感じもあって、なにやらがっくり気落ちしてしまったことも否定できない。
残された蔵書の再整理までにはなかなか気が乗らず、空きの目立った書庫や書棚に残された本はそのまま乱れたままに放置されて一月近くが早くも経過している。
しかしながら、そうした一方で、これまでとは違った本に対する欲求がでてきたのは意外な成り行きであった。専門書を失った反動なのであろうか、以前にも増して読書欲そのものが高まったのである。
二月に入ってからというもの手当たり次第に、しかも複数の本を矢鱈と読み始めるようになった。
それも一冊の本を読み続けるというのではない。脈絡もなく数冊の本を交互に平行して読むようになったのである。読むというより読み散らしているといっていい。
読んでみたいという思いがふと心を浮かびさえすれば、昔とは違って今ではパソコンのネット販売を使えばその本を簡単に手に入れられることも影響しているのかもしれない。
私はかねてからネット書店の「アマゾン」を愛用しており、読みたい本はネットで注文すれば三日をおかず確実に手元に届く。しかも一五〇〇円以上であれば送料無料である。決済はすべてカード。手間がかからないから、思い付いたらなんでも買ってしまう。
こうして捨てる本がある一方で、増える本も出てくるようになった。
増えるのはこれまでのように知識蓄積のための本ではない。読んで何かが残るという類の本でもない。もっぱらただ読んで楽むだけの本である。読み始めても面白くなければ途中で放り投げてしまうこともある。
そんなことで、現在机の上やベッドの脇机、果てはトイレなどあちらこちらに私が読みかけた本、読もうとしている本が一〇冊近くも置かれている。
これらの本をその時々の気分に従い交互に平行して読んでいる。そんな自堕落な読書の習慣がいつの間にか我が身に付いてしまったようである。
二月になってからネットで購入した本を改めて拾い上げてみたら次のようなものであった。
松本清張「昭和史発掘Ⅰ~Ⅵ」(文春文庫)、スウィフト「ガリバー旅行記」(岩波文庫)、トマス・モア「ユートピア」(岩波文庫)、山折哲雄「信ずる宗教感ずる宗教」(中央公論)、西部邁「妻と僕」(飛鳥新社)、川端康成「美しい日本の私」(講談社現代新書)、三島由紀夫「花ざかりの森・憂国」(新潮文庫)
購入した新しい本のほかに、処分する本を選別する時にたまたま見かけて再読する気になったのには川端康成「伊豆の踊り子・温泉宿」(岩波文庫)がある。
この本に収録されている「伊豆の踊り子」は若いときに読んでなにがしかの感銘を受けたことがあったし、東京発伊豆行きの特急列車が「踊り子号」になっているなど伊豆では広く知られた小説なので当地に住みつくことになった縁もあり、二〇年も前に再読するため買った本である。
最近はトレッキングでこの小説の舞台となった中伊豆方面に時々足を向けることもあり、改めて読み直したらなにか新しい発見でもあるかもしれないと思ったのである。
文庫本でわずか五〇頁にも足らぬ短編だが読み返してみて驚いた。本の大筋は先刻承知だったが、具体的な内容の大半は全く記憶しておらず、新しい本を読むのとほとんど同様だったのである。
さらにショックだったのは、この本にはところどころに傍線が引かれ書き込みまでしてある。その部分は伊豆に関連付けて読んだ筈なのに、それからさほど歳月が経過していない現在なのに記憶が全く欠落しているのである。これほどまでに忘れて果てているとは思いも寄らないことであった。
同じことは、このたびネットで購入した「ガリバー旅行記」についてもいえる。
この本は学生時代に岩波文庫で完訳を読んだ記憶があり、子供向けの本で広く知られる小人国「リリパット」には何の関心もないが、その強烈な風刺がいまも記憶に残る馬社会「フウイム国」渡航記の部分だけは読み直してみたいとかなり以前から思っていたものである。絶版となっていたこの本が再版されたことをネットで知り、早速取り寄せ読むことになった。
なんと、これも記憶にあったのは大筋だけで、記憶違いも多く新しい本を読むのとほとんど変らない始末であった。
このようなことから察すれば、再読したいと書庫に残した本なども、その内容のほとんどは忘れ去られていることは必定で新本と変らず、以前に読んだことがあるなどとは到底言えないことを知った。
最近、テレビで同じ映画を二度見ても、前に同じ映画を見ていたのかどうか容易に思い出せないことが多いことも思い合わせてみれば納得できる。
この記憶力の劇的な減退、「歳相応」とさえ言いかねる頭脳の衰えは、かねてから覚悟はしていた域を超えているようでもであり、押し寄せる「老い」の恐ろしさには打ちのめされる想いである。
そうであるなら、それまでよ。この「老い」の進行に逆らうことなく、今の読書姿勢を素直に認めることにしよう。
肩肘を張らず、これからの「読書」は、気楽に、もっと気楽に、万事流れに任せて、読む時間だけを楽むことにし、読みっ放しでいいし、読みたくなくなれば途中で放り投げればいい、読もうと思ったものの読まないままの「積読」もそれはそれで結構ではないかという悟りに徹することにした。
[2月は28日までしかない。気がつけば「三金会雑記」№86の原稿締切日が明日に迫っている。3日前から書き始めた原稿をようやく仕上げてYM編集長にメールで送る。
今回は題して「「本」の処分、そしてその後」とした。]
「本」の処分、そしてその後
我々がいずれ迎えることになる「終末期」を念頭に置いた「身辺整理」の一つとして、蔵書の本格的な処分は一つの大きな課題である。
これまで自分の知識や教養を支え育ててくれた本だからこれを処分するとなると生身を剥ぐような苦痛を伴いこれを断行するには相当の勇気を必要とする。
書庫の大々的な整理を思い立ってからかなりの時間が経過してしまっていたのだが、このほどその主要部分を占めていた本の処分をようやく果たすことができた。
我が書庫からこれまでの学究的生活を支えてきてくれた法律学・行刑学など専門にかかるすべての書籍・文献資料を一掃することができたのである。
この種の本の処分については、かなり前からなじみある研究室や図書室に貰ってくれないかと小当りしていたのだが、いずれも個々の本なら是非欲しいものはあるが全部となると・・・と二の足を踏むばかりでうまくいかず、結局のところ、諦めて資源ゴミとして出すしかないかもしれないと思い始めていたのである。
個人的な思い出にからむ愛着があったり、買ったときには結構高価なものもあったりして粗大ゴミとして出すのに大きな抵抗があり、また老躯にとって重い書籍を梱包し資源ゴミとしてゴミステーションに持ち込むのも容易ではなく、なかなか踏み切れず逡巡してきていた。
そんな思いでいたところに、昨年の暮れにどこで聞き知ったのか、神田にある古書籍・学術誌専門の書店主から処分したい専門書・雑誌などを引き取らせてくれないか、という突然の電話があった。
当方としては願ってもない話なので、私のライフワークに位置付けた八百頁に及ぶ最後の著書『監獄(刑務所)運営一二〇年の歴史 ─ 明治・大正・昭和の行刑 ─ 』出版の目途がつく一月末までには処分予定の本・雑誌をまとめておくことを約束して、それが本年二月二日にようやく実現する運びとなった。
その日、古本屋には相応しくない黒塗りベンツのステーションワゴンで乗り付け、さすがに専門業者らしく手際よろしく瞬く間に選別して梱包し、車にびっしり詰め込んで持ち帰ってくれた。しかも三万五千円を置いていってくれたのである。
上地君から古本の価値などはその重量に見合うチリ紙交換と考えていた方がいいと言われていたが、先方が東京からわざわざ伊豆高原まで来てくれて、ごっそり全部持ち帰ってくれただけでなくお金まで呉れたのだからこんな有難いことはなかった。
書庫の大部分を占めていた専門書がなくなれば、残された一般書はたいしたものではない。これから再読する可能性のある本や絶ち難い思い入れの残る本を除いて、折りにつけ少しずつ資源ごみ回収日に出していけばいいと随分と気が楽にはなったが、大作業を終えたという感じもあって、なにやらがっくり気落ちしてしまったことも否定できない。
残された蔵書の再整理までにはなかなか気が乗らず、空きの目立った書庫や書棚に残された本はそのまま乱れたままに放置されて一月近くが早くも経過している。
しかしながら、そうした一方で、これまでとは違った本に対する欲求がでてきたのは意外な成り行きであった。専門書を失った反動なのであろうか、以前にも増して読書欲そのものが高まったのである。
二月に入ってからというもの手当たり次第に、しかも複数の本を矢鱈と読み始めるようになった。
それも一冊の本を読み続けるというのではない。脈絡もなく数冊の本を交互に平行して読むようになったのである。読むというより読み散らしているといっていい。
読んでみたいという思いがふと心を浮かびさえすれば、昔とは違って今ではパソコンのネット販売を使えばその本を簡単に手に入れられることも影響しているのかもしれない。
私はかねてからネット書店の「アマゾン」を愛用しており、読みたい本はネットで注文すれば三日をおかず確実に手元に届く。しかも一五〇〇円以上であれば送料無料である。決済はすべてカード。手間がかからないから、思い付いたらなんでも買ってしまう。
こうして捨てる本がある一方で、増える本も出てくるようになった。
増えるのはこれまでのように知識蓄積のための本ではない。読んで何かが残るという類の本でもない。もっぱらただ読んで楽むだけの本である。読み始めても面白くなければ途中で放り投げてしまうこともある。
そんなことで、現在机の上やベッドの脇机、果てはトイレなどあちらこちらに私が読みかけた本、読もうとしている本が一〇冊近くも置かれている。
これらの本をその時々の気分に従い交互に平行して読んでいる。そんな自堕落な読書の習慣がいつの間にか我が身に付いてしまったようである。
二月になってからネットで購入した本を改めて拾い上げてみたら次のようなものであった。
松本清張「昭和史発掘Ⅰ~Ⅵ」(文春文庫)、スウィフト「ガリバー旅行記」(岩波文庫)、トマス・モア「ユートピア」(岩波文庫)、山折哲雄「信ずる宗教感ずる宗教」(中央公論)、西部邁「妻と僕」(飛鳥新社)、川端康成「美しい日本の私」(講談社現代新書)、三島由紀夫「花ざかりの森・憂国」(新潮文庫)
購入した新しい本のほかに、処分する本を選別する時にたまたま見かけて再読する気になったのには川端康成「伊豆の踊り子・温泉宿」(岩波文庫)がある。
この本に収録されている「伊豆の踊り子」は若いときに読んでなにがしかの感銘を受けたことがあったし、東京発伊豆行きの特急列車が「踊り子号」になっているなど伊豆では広く知られた小説なので当地に住みつくことになった縁もあり、二〇年も前に再読するため買った本である。
最近はトレッキングでこの小説の舞台となった中伊豆方面に時々足を向けることもあり、改めて読み直したらなにか新しい発見でもあるかもしれないと思ったのである。
文庫本でわずか五〇頁にも足らぬ短編だが読み返してみて驚いた。本の大筋は先刻承知だったが、具体的な内容の大半は全く記憶しておらず、新しい本を読むのとほとんど同様だったのである。
さらにショックだったのは、この本にはところどころに傍線が引かれ書き込みまでしてある。その部分は伊豆に関連付けて読んだ筈なのに、それからさほど歳月が経過していない現在なのに記憶が全く欠落しているのである。これほどまでに忘れて果てているとは思いも寄らないことであった。
同じことは、このたびネットで購入した「ガリバー旅行記」についてもいえる。
この本は学生時代に岩波文庫で完訳を読んだ記憶があり、子供向けの本で広く知られる小人国「リリパット」には何の関心もないが、その強烈な風刺がいまも記憶に残る馬社会「フウイム国」渡航記の部分だけは読み直してみたいとかなり以前から思っていたものである。絶版となっていたこの本が再版されたことをネットで知り、早速取り寄せ読むことになった。
なんと、これも記憶にあったのは大筋だけで、記憶違いも多く新しい本を読むのとほとんど変らない始末であった。
このようなことから察すれば、再読したいと書庫に残した本なども、その内容のほとんどは忘れ去られていることは必定で新本と変らず、以前に読んだことがあるなどとは到底言えないことを知った。
最近、テレビで同じ映画を二度見ても、前に同じ映画を見ていたのかどうか容易に思い出せないことが多いことも思い合わせてみれば納得できる。
この記憶力の劇的な減退、「歳相応」とさえ言いかねる頭脳の衰えは、かねてから覚悟はしていた域を超えているようでもであり、押し寄せる「老い」の恐ろしさには打ちのめされる想いである。
そうであるなら、それまでよ。この「老い」の進行に逆らうことなく、今の読書姿勢を素直に認めることにしよう。
肩肘を張らず、これからの「読書」は、気楽に、もっと気楽に、万事流れに任せて、読む時間だけを楽むことにし、読みっ放しでいいし、読みたくなくなれば途中で放り投げればいい、読もうと思ったものの読まないままの「積読」もそれはそれで結構ではないかという悟りに徹することにした。