5月26日(水)
「大室高原」を「終の住処(ついのすみか)」として住み着いたのが平成2年、ちょうどバブルが始まろうとしていた頃。そしていつしか20年という長い歳月をこの地で過ごすことになった。
転勤が多く官舎生活で明け暮れしていた公務員生活に別れを告げ、60歳定年から始まる「第二の人生」をどのように決めるか、「永住の地」をどこに定めるかは、「結婚」と「仕事」に次いで人生の岐路に立つての極めて重大な決断となる。
当初は退職後の仕事として教職を考えていたから、漠然とそうしたことに縁のある東京か福岡のマンションにでも住むことになるだろうと考えていた。
それが退職の少し前、これまで訪れたこともなく縁もゆかりもなかった「大室高原」に住む先輩を表敬訪問したことで、そこで見た自然、特に眼前に広がる山と海にすっかり魅せられてしまい、その頃は土地バブルが始まっていたが、私でも買える安価な土地があることを知って、「仕事」を選ぶより先にここを「永住地」に決定してしまった。
幸運だったのは退職後の仕事も東京に決まり、最寄の伊豆高原駅から熱海に出て新幹線を使えば片道2時間余、通勤がなんとか可能だったので、「大室高原」に住みながら65歳まで目一杯働くことができた。
また、その後も70歳までは非常勤で東京・名古屋への出講、熱海の裁判所での調停などで月に2,3回程度の出掛けるだけで済んだから、その間は伊豆半島での生活を十分楽しむ時間ができたし、70歳を過ぎてからは束縛のない自由の身で恵まれた自然環境の下で「悠々自適」の生活を送ることができた。
いま顧みて、ここ「大室高原」を「永住の地」として選択したことは、私にとっては望み得る最良の選択であったと思う。
東京都老人総合研究が平成10年に実施した「伊東市住民の生活・健康に関する調査 ―別荘地区と一般地区の比較― 」をみると「希望して別荘地に移住してきた人の移住に対する満足度は、全体の9割が満足していた」とあり、こうした思いは私一人だけのものではないようである。
上空から見た大室山と「大室高原」
だが、そのことと裏腹の関係になるのかもしれないが、この20年の歳月は私のとって信じがたいほどの早さで過ぎ去ったようにも思える。
フランスの心理学者ジャネによる「ジャネの法則」というのがある。
「心理学的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する」というものである。
10歳児の1年は、60歳老にとって6分の1年、つまり2月にしか当たらないというわけで、80歳の私なら1月半でしかない。
これからの生活にこれまでと違った格別の変化があるわけでもなく、ただ緑豊かな自然に囲まれて相模の海と天城の山を眺めながら「歩くこと(トレッキング・散歩)」、「土を弄ること(園芸)」、「パソコンに向かうこと(ブログを書いたり「三金会雑記」を書いたり)」といった生活リズムで暫くは推移していこうが、これもいつまでも続けられるわけにはいくまい。
その後が読書とTVくらいしか楽しみのない無為の日々の繰り返しとなるのであれば、時間は「ジャネの法則」よりもさらに早く過ぎゆくであろうし、遅かれ早かれいずれ訪れる終末に至る体験的時間の経過はうたかたの夢のようなものであるのかもしれない。
これから平均余命とされる8年を仮に生きたとしても、その心理的時間は10歳児の1年そこそこでしかない。
そんなことを考えていたら、ここらあたりで「大室高原で過ごした20年」を総括すべきときが来ているのかも知れないと思い、その前提にある「大室高原」という地域の成立事情を関係諸資料を基にして取りあえず調べてみることを思い立った。
以下は、これまで調べ上げたことの概略である。
戦後初めて浅間山の山麓北軽井沢に別荘を開発(「あやめヶ原・くるみヶ原別荘地」)しその分譲に成功した「㈱東拓」という会社が、軽井沢の次に目を付けたのが東京に近く風光明媚な伊豆半島東海岸にある大室山の麓に広がる原野であった。
昭和32年、大室山の東南に広がる溶岩台地「先原」の10万坪を坪単価135円(その頃、公務員として私の月額給与は1万数千円であった)で購入し、大室山の側火山である岩室山の平坦部分5万坪を公園に、残る5万坪を「海の見える軽井沢」をキャッチフレーズに一区画おおむね120坪に分け別荘地として開発・分譲することになった。
開発が始まった大室山麓
当初の計画では建設戸数1000戸、軽井沢にならい健康で文化的な村の建設を目指したので、会社とは別組織の「大室高原理想郷建設会」を結成し、会長には式場隆三郎医学博士が就任し、おおむね次のような申合わせを行って別荘の建設を進めていくことになった。
①国立公園指定地内での開発なので建蔽率を20%に制限する、②植樹などの緑化に心掛け境界線は植樹による方法をとる、③美観を保つため極端な原色塗料を用いないで環境に適合した色彩を選び自然美と庭園美を考える、などなどである。
開発に先立つ道路の開削と分譲の看板 東京横浜方面から分譲地の現地見分にきた人々
後述する事情で「大室高原理想郷建設会」が解散した後も、この申し合せははぼ踏襲され現在に至っている。
なお、建設会ではこうした趣旨を徹底させるため昭和34年に「理想郷」と題する月刊広報誌を刊行し、同誌は昭和39年通巻59号まで続けられた。)
「大室高原理想郷建設会」の発足で、別荘地開発会社㈱東拓が名付けた「東拓分譲地」の名称は「大室高原理想郷別荘地」に改められ、開発会社と建設会が表裏一体となって別荘の建設が進められながら、分譲区画も隣接する土地に拡大され、当初の1000戸から3000戸の区画が分譲されていった。
㈱東拓は、折から国を挙げて高まっていた観光ブーム・レジャー志向に乗って、別荘地の開発・分譲事業だけでなく観光事業に手を広げていった。
理想郷別荘地の中央を占める岩室山の頂上平坦地にはシャボテンを主体とした自然植物園「シャボテン公園」(開園当初には天皇・皇后陛下のほか皇太子・妃殿下をはじめ多くの皇族方が訪れている)を昭和34年に開設し、その隣には人間ドックを備える先進的な長期保養施設「ホテル・オームロ」(現「桜美林大学伊豆高原クラブ」。このホテルには高松宮夫妻が一泊している)が建設されている。
さらには、昭和38年城ヶ崎海岸沿いに「アクア・スポーツクラブ」を併設した[伊豆海洋公園」の開設、昭和40年には国道沿いに「伊豆コスモランド」(現「グランパル公園」)も開設され、伊豆半島東海岸を中心とした同社の観光事業は大々的に展開されていったのである。
「シャボテン公園(建設途上・完成後)」と「伊豆コスモランドの大地球儀温室」
このほか別荘地の付帯施設として山麓の北端6000坪(現大室リフトの駐車場付近)に昭和34年「大室山高原乗馬クラブ」が作られており、昭和39年には「伊豆コスモランド」の一画に「東拓ヘリポート」を作り、伊東・東京間1日2往復の大型ヘリコプターによる定期航空路が開設されている(昭和41年採算が合わず廃業)。
「大室高原乗馬クラブ」
さらには「シャボテン公園」―「伊豆コスモランド」―「伊豆海洋公園」をつなぐモノレール計画さえあったのである(当局の認可が受けられず計画倒れとなった)。
このように㈱東拓が相当無理な資金繰りの中で進めていった拡大路線は、昭和41年同社に脱税容疑がかかり国税庁の査察が入ったことを機に、一挙に破綻に向かうことになった。
会社の評判が落ち資金供給が手控えられて経営は急速に悪化し倒産の岐路に立たされ経営陣は総退陣し、大口債権者だった「静岡商工資金共同組合」がこれに代わり、昭和46年に規模を大幅に縮小し会社名を「㈱シャボテン公園」に改めて再建を図ることになった。
こうした状況の中で「大室高原理想郷建設会」も内部分裂し、紛糾の末に解散することになってしまった。
こうして、健康で文化的な村の形成を目指した「大室高原理想郷」は姿を消し、その地域は単に「大室高原」という地域名となって今日に至ることになった。
別荘地の分譲事業の方は、その後も続けられ、昭和50年、開発面積80万坪(260平方米)、別荘区画4500、購入者4000人をもって打ち切られている。
ちなみに、現在では「大室高原」を含め広く伊豆高原駅を中心とした一帯を「伊豆高原」と呼んでいる。
これは昭和36年に伊東・下田間の伊豆東海岸を走る伊豆急行線が開通し、㈱伊豆急行の本社が「伊豆高原駅」に置かれ、その沿線一帯が別荘地として開発され、その地域名を「伊豆高原」と称したことに由来している。
しかし、別荘地開発をさきに手がけた㈱東拓が開発地域の名称を「伊豆高原」とするか「大室高原」とするかの選択で「大室高原」に決めたという経緯があり、「大室高原」は「伊豆高原」に先行する名称だったのである。
最初に掲げられた「理想郷」建設の壮大な計画は、こうして経営陣の無謀な拡大路線の頓挫から竜頭蛇尾に終わる結果になったが、もとよりそれによって大室高原が持つている自然の魅力が失われたわけではない。
前述した広報雑誌「理想郷」の創刊号に式場隆三郎が「なぜ理想郷というか」と題して次のような一文を載せている。
「私たちがこんど計画している伊豆の大室理想郷は、いろいろな角度から検討してみると、上述のよい条件(規模・気候条件・地理条件など)をかなり備えている。ただ今まで人が住まなかったのは水がなかったからである。‥‥‥しかし、この問題は近くに水源が発見され、そこからの引水によってみごとに解決した。それに加えて温泉が近くからひけることが実現したので、いま望める健康地の条件としては最良とみとめていい。‥‥‥私たちはこの日本一ともいえる風景のよい場所で、しかも夏は涼しく、冬暖かで、海も近く、山も遠くないこの土地に、長い間夢想していた理想的な住宅や文化的な施設を建設するつもりである」
また、式場に同行した山下清の素直な文章もある。
「岩室山に登った。‥‥‥式場先生はこの景色にすっかり感心して、世界中をあちこち旅行してきたが、こんな景色のよいところははじめただといって、ほめていた。ぼくは外国はしらないが、日本はあちこと歩いて5分の1ぐらいは知っている。ほんとうにこの景色は日本一かもしれない。ぼくは式場先生が世界一というなら、ほんとに世界一に景色のよいところだろうと感心した」
------------------------------------------------------------
現在、「大室高原」という地域に居住している者は、定住者・別荘者を含めて「建設会」の後身というべき「大室高原自治会」に所属しているが、その世帯数は2599世帯(うち定住世帯数1230)という規模になっている。
「理想郷」が実現できなかったことは、まことに残念というほかないのであるが、翻って考えてみると、もし当初の構想どおりの「理想郷」が実現していたとするなら、私のような平凡な退職サラリーマンがこの別荘地に住み着くことなど到底できなかったろう。
これから住民の一人として願うことは、東拓が行ったような地域の観光化やレジャー化ではなく、また、バブル最盛期に坪50万という途方もない地価に跳ね上がった時、区画にまたがって建てられた豪邸や豪勢なリゾートマンションなどで形成される高級住宅街ではなく、すべての居住者が気持ちよく平穏に暮らしていける「健康で文化的な村」的な地域作りであろう。
開発前の溶岩台地「先原」
ほぼ同じ地点(シャボテン公園駐車場)からの現在の展望
「大室高原」を「終の住処(ついのすみか)」として住み着いたのが平成2年、ちょうどバブルが始まろうとしていた頃。そしていつしか20年という長い歳月をこの地で過ごすことになった。
転勤が多く官舎生活で明け暮れしていた公務員生活に別れを告げ、60歳定年から始まる「第二の人生」をどのように決めるか、「永住の地」をどこに定めるかは、「結婚」と「仕事」に次いで人生の岐路に立つての極めて重大な決断となる。
当初は退職後の仕事として教職を考えていたから、漠然とそうしたことに縁のある東京か福岡のマンションにでも住むことになるだろうと考えていた。
それが退職の少し前、これまで訪れたこともなく縁もゆかりもなかった「大室高原」に住む先輩を表敬訪問したことで、そこで見た自然、特に眼前に広がる山と海にすっかり魅せられてしまい、その頃は土地バブルが始まっていたが、私でも買える安価な土地があることを知って、「仕事」を選ぶより先にここを「永住地」に決定してしまった。
幸運だったのは退職後の仕事も東京に決まり、最寄の伊豆高原駅から熱海に出て新幹線を使えば片道2時間余、通勤がなんとか可能だったので、「大室高原」に住みながら65歳まで目一杯働くことができた。
また、その後も70歳までは非常勤で東京・名古屋への出講、熱海の裁判所での調停などで月に2,3回程度の出掛けるだけで済んだから、その間は伊豆半島での生活を十分楽しむ時間ができたし、70歳を過ぎてからは束縛のない自由の身で恵まれた自然環境の下で「悠々自適」の生活を送ることができた。
いま顧みて、ここ「大室高原」を「永住の地」として選択したことは、私にとっては望み得る最良の選択であったと思う。
東京都老人総合研究が平成10年に実施した「伊東市住民の生活・健康に関する調査 ―別荘地区と一般地区の比較― 」をみると「希望して別荘地に移住してきた人の移住に対する満足度は、全体の9割が満足していた」とあり、こうした思いは私一人だけのものではないようである。
上空から見た大室山と「大室高原」
だが、そのことと裏腹の関係になるのかもしれないが、この20年の歳月は私のとって信じがたいほどの早さで過ぎ去ったようにも思える。
フランスの心理学者ジャネによる「ジャネの法則」というのがある。
「心理学的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する」というものである。
10歳児の1年は、60歳老にとって6分の1年、つまり2月にしか当たらないというわけで、80歳の私なら1月半でしかない。
これからの生活にこれまでと違った格別の変化があるわけでもなく、ただ緑豊かな自然に囲まれて相模の海と天城の山を眺めながら「歩くこと(トレッキング・散歩)」、「土を弄ること(園芸)」、「パソコンに向かうこと(ブログを書いたり「三金会雑記」を書いたり)」といった生活リズムで暫くは推移していこうが、これもいつまでも続けられるわけにはいくまい。
その後が読書とTVくらいしか楽しみのない無為の日々の繰り返しとなるのであれば、時間は「ジャネの法則」よりもさらに早く過ぎゆくであろうし、遅かれ早かれいずれ訪れる終末に至る体験的時間の経過はうたかたの夢のようなものであるのかもしれない。
これから平均余命とされる8年を仮に生きたとしても、その心理的時間は10歳児の1年そこそこでしかない。
そんなことを考えていたら、ここらあたりで「大室高原で過ごした20年」を総括すべきときが来ているのかも知れないと思い、その前提にある「大室高原」という地域の成立事情を関係諸資料を基にして取りあえず調べてみることを思い立った。
以下は、これまで調べ上げたことの概略である。
戦後初めて浅間山の山麓北軽井沢に別荘を開発(「あやめヶ原・くるみヶ原別荘地」)しその分譲に成功した「㈱東拓」という会社が、軽井沢の次に目を付けたのが東京に近く風光明媚な伊豆半島東海岸にある大室山の麓に広がる原野であった。
昭和32年、大室山の東南に広がる溶岩台地「先原」の10万坪を坪単価135円(その頃、公務員として私の月額給与は1万数千円であった)で購入し、大室山の側火山である岩室山の平坦部分5万坪を公園に、残る5万坪を「海の見える軽井沢」をキャッチフレーズに一区画おおむね120坪に分け別荘地として開発・分譲することになった。
開発が始まった大室山麓
当初の計画では建設戸数1000戸、軽井沢にならい健康で文化的な村の建設を目指したので、会社とは別組織の「大室高原理想郷建設会」を結成し、会長には式場隆三郎医学博士が就任し、おおむね次のような申合わせを行って別荘の建設を進めていくことになった。
①国立公園指定地内での開発なので建蔽率を20%に制限する、②植樹などの緑化に心掛け境界線は植樹による方法をとる、③美観を保つため極端な原色塗料を用いないで環境に適合した色彩を選び自然美と庭園美を考える、などなどである。
開発に先立つ道路の開削と分譲の看板 東京横浜方面から分譲地の現地見分にきた人々
後述する事情で「大室高原理想郷建設会」が解散した後も、この申し合せははぼ踏襲され現在に至っている。
なお、建設会ではこうした趣旨を徹底させるため昭和34年に「理想郷」と題する月刊広報誌を刊行し、同誌は昭和39年通巻59号まで続けられた。)
「大室高原理想郷建設会」の発足で、別荘地開発会社㈱東拓が名付けた「東拓分譲地」の名称は「大室高原理想郷別荘地」に改められ、開発会社と建設会が表裏一体となって別荘の建設が進められながら、分譲区画も隣接する土地に拡大され、当初の1000戸から3000戸の区画が分譲されていった。
㈱東拓は、折から国を挙げて高まっていた観光ブーム・レジャー志向に乗って、別荘地の開発・分譲事業だけでなく観光事業に手を広げていった。
理想郷別荘地の中央を占める岩室山の頂上平坦地にはシャボテンを主体とした自然植物園「シャボテン公園」(開園当初には天皇・皇后陛下のほか皇太子・妃殿下をはじめ多くの皇族方が訪れている)を昭和34年に開設し、その隣には人間ドックを備える先進的な長期保養施設「ホテル・オームロ」(現「桜美林大学伊豆高原クラブ」。このホテルには高松宮夫妻が一泊している)が建設されている。
さらには、昭和38年城ヶ崎海岸沿いに「アクア・スポーツクラブ」を併設した[伊豆海洋公園」の開設、昭和40年には国道沿いに「伊豆コスモランド」(現「グランパル公園」)も開設され、伊豆半島東海岸を中心とした同社の観光事業は大々的に展開されていったのである。
「シャボテン公園(建設途上・完成後)」と「伊豆コスモランドの大地球儀温室」
このほか別荘地の付帯施設として山麓の北端6000坪(現大室リフトの駐車場付近)に昭和34年「大室山高原乗馬クラブ」が作られており、昭和39年には「伊豆コスモランド」の一画に「東拓ヘリポート」を作り、伊東・東京間1日2往復の大型ヘリコプターによる定期航空路が開設されている(昭和41年採算が合わず廃業)。
「大室高原乗馬クラブ」
さらには「シャボテン公園」―「伊豆コスモランド」―「伊豆海洋公園」をつなぐモノレール計画さえあったのである(当局の認可が受けられず計画倒れとなった)。
このように㈱東拓が相当無理な資金繰りの中で進めていった拡大路線は、昭和41年同社に脱税容疑がかかり国税庁の査察が入ったことを機に、一挙に破綻に向かうことになった。
会社の評判が落ち資金供給が手控えられて経営は急速に悪化し倒産の岐路に立たされ経営陣は総退陣し、大口債権者だった「静岡商工資金共同組合」がこれに代わり、昭和46年に規模を大幅に縮小し会社名を「㈱シャボテン公園」に改めて再建を図ることになった。
こうした状況の中で「大室高原理想郷建設会」も内部分裂し、紛糾の末に解散することになってしまった。
こうして、健康で文化的な村の形成を目指した「大室高原理想郷」は姿を消し、その地域は単に「大室高原」という地域名となって今日に至ることになった。
別荘地の分譲事業の方は、その後も続けられ、昭和50年、開発面積80万坪(260平方米)、別荘区画4500、購入者4000人をもって打ち切られている。
ちなみに、現在では「大室高原」を含め広く伊豆高原駅を中心とした一帯を「伊豆高原」と呼んでいる。
これは昭和36年に伊東・下田間の伊豆東海岸を走る伊豆急行線が開通し、㈱伊豆急行の本社が「伊豆高原駅」に置かれ、その沿線一帯が別荘地として開発され、その地域名を「伊豆高原」と称したことに由来している。
しかし、別荘地開発をさきに手がけた㈱東拓が開発地域の名称を「伊豆高原」とするか「大室高原」とするかの選択で「大室高原」に決めたという経緯があり、「大室高原」は「伊豆高原」に先行する名称だったのである。
最初に掲げられた「理想郷」建設の壮大な計画は、こうして経営陣の無謀な拡大路線の頓挫から竜頭蛇尾に終わる結果になったが、もとよりそれによって大室高原が持つている自然の魅力が失われたわけではない。
前述した広報雑誌「理想郷」の創刊号に式場隆三郎が「なぜ理想郷というか」と題して次のような一文を載せている。
「私たちがこんど計画している伊豆の大室理想郷は、いろいろな角度から検討してみると、上述のよい条件(規模・気候条件・地理条件など)をかなり備えている。ただ今まで人が住まなかったのは水がなかったからである。‥‥‥しかし、この問題は近くに水源が発見され、そこからの引水によってみごとに解決した。それに加えて温泉が近くからひけることが実現したので、いま望める健康地の条件としては最良とみとめていい。‥‥‥私たちはこの日本一ともいえる風景のよい場所で、しかも夏は涼しく、冬暖かで、海も近く、山も遠くないこの土地に、長い間夢想していた理想的な住宅や文化的な施設を建設するつもりである」
また、式場に同行した山下清の素直な文章もある。
「岩室山に登った。‥‥‥式場先生はこの景色にすっかり感心して、世界中をあちこち旅行してきたが、こんな景色のよいところははじめただといって、ほめていた。ぼくは外国はしらないが、日本はあちこと歩いて5分の1ぐらいは知っている。ほんとうにこの景色は日本一かもしれない。ぼくは式場先生が世界一というなら、ほんとに世界一に景色のよいところだろうと感心した」
------------------------------------------------------------
現在、「大室高原」という地域に居住している者は、定住者・別荘者を含めて「建設会」の後身というべき「大室高原自治会」に所属しているが、その世帯数は2599世帯(うち定住世帯数1230)という規模になっている。
「理想郷」が実現できなかったことは、まことに残念というほかないのであるが、翻って考えてみると、もし当初の構想どおりの「理想郷」が実現していたとするなら、私のような平凡な退職サラリーマンがこの別荘地に住み着くことなど到底できなかったろう。
これから住民の一人として願うことは、東拓が行ったような地域の観光化やレジャー化ではなく、また、バブル最盛期に坪50万という途方もない地価に跳ね上がった時、区画にまたがって建てられた豪邸や豪勢なリゾートマンションなどで形成される高級住宅街ではなく、すべての居住者が気持ちよく平穏に暮らしていける「健康で文化的な村」的な地域作りであろう。
開発前の溶岩台地「先原」
ほぼ同じ地点(シャボテン公園駐車場)からの現在の展望
大室山や大室高原からの海を望む景色は、確かにすばらしいものだと思います。
ジャネの法則を私流に解釈すると「日々一刻を惜しんで、どん欲に楽しみましょう」となりますが、いかがでしょうか
先人のチャレンジ精神に感謝です。
それにしても、1枚目の大室山の美しいこと。
マイナスイオン出まくってますね。
早く癒されに行きたいです
㈱東拓の壮大な理想と開発は途中で頓挫してしまったようですが、必要以上に拡大開発されなかったことが、かえって良かったようにも思います。
私は5,6年前までは、以前行ったことのあるバンクーバーが忘れられず、あの街の海が見える丘の上の一軒家に3,4年住んでみたいというのが夢でした。でも実際に物件を見てまわると、伊豆高原のほうがずっと良いように思いました。
特に、晴れ渡った日に大室山の上から眺める360度の絶景は、これ以上の清々した気分にさせてくれるところは、世界広しと言えども他にはないだろうとさえ思います。
月に1度、伊豆高原の家に行くたびに緑と太陽と澄んだ空気が心と身体を元気にしてくれます。
朝目覚めると「伊豆7島が今日は見えるかな」とベッドから海を眺め、くっきり見える日は一日幸せな気分になります。7月の末あたりまで鶯が鳴き、蝉の声と一緒に合唱するのを朝風呂の中で聞きながら、ここは本当に「理想郷」だと思います。美味しいレストランやお蕎麦屋さんもたくさんあるし・・・。
㈱東拓のキャッチ・フレーズ、「海の見える軽井沢」は言い得て妙ですね。
私どもは、1985年、まさにバブル真っただ中、夫のゴルフ拠点に、サボテン公園別荘地に土地を購入。その5年後1991年に別荘竣工。26年目に入ります。
本当に佳処と、気に入っております。だがしかし、昨今、坂がきつくなってきた。
竣工当時、高校生・小学生だった娘たちも育ち、孫も得ました。
4,800区画の広大なシャボテン公園別荘地を開拓した東拓社長の熱き想いあって、今があるのですね。
東拓、今はもうないが、モノレール設営の夢をも描いておられたとか。
明日(2016,3/30)から、桜見物に出向きます。
極上サイトに遭遇できました♪~
また、お邪魔させてくださいまし。当方にも、ぜひ☆
私たちが、伊豆高原に土地探しに来ていた頃、そういう名前でした。
巨大地球儀が印象的でした。
その内、シンボルの地球儀にも、破れ?破損?が、目立ちだし・・・
いつしか消え去り、レジャーランドの名称もグランパル公園に変わった・・・
『焼肉:かだん』 の他に、どこかおいしいスポットがありましたら、教えてくださいませね。
『かだん』、まずは、ランチで訪れてみますね。