伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

ありがとうございました

2019年02月16日 | 雑文

 最愛の父はさる2019年2月6日未明、89歳にして安らかに旅立ちました。

仕事を愛し、妻と家族を愛し、伊豆高原を愛し、パソコンと憩い農園を愛した

父の晩年はとても穏やかで幸せなものでした。

皆様に永らく父のブログをお読みいただいことを深く感謝申し上げます。

また、皆様の今後のご健勝を祈念致します。

                              家族一同

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間もなく平成が終わる

2018年12月15日 | 雑文

12月15日(土)

平成が間もなく終わろうとしている。明年4月31日がその終日になるようだ。マスコミなどでは平成最後の年として30年間に生起した事件の回顧や歴史の軌跡などがさかんに取り上げられている。

昭和5年に生まれた私は「平成30年の時代」を生き抜いてきたわけだが、率直に言って私の平成時代はあまり明暗のはきりしない起伏の乏しい平坦な人生だったと思う。

もちろん思い返せばこの30年間に起こった変化・変動は人類が経験したことのないような凄まじいものだった。

 国内的には「オウム真理教事件」「阪神淡路大震災」「リーマンショック」「東日本大震災」などがあったし、国際的には「天安門事件」「ベルリンの壁崩壊」「湾岸戦争・イラク戦争・アフガン戦争」「米国同時多発テロ事件」などなど数え上げればきりがない。

しかし私自身の人生にこれらの事件が直接影響することはなかったし、事件は遠くに聞く遠雷の響きのようなものだった。

そんな中、世相の変化が私の生活にもたらしたものを強いて挙げればバブル崩壊による預貯金の減少、パソコンに画期的な変化をもたらしたインターネットの一般化、いつも手元になければ困惑ようになったスマホの出現くらいのものか。いや、孫の誕生、園芸・ウオーキング・パソコンを縁としてつながった地域のお仲間のことも落とすわけにはいくまい。

いずれにせよ、 ゆるやかな流れの中をただよってきた人生だったように思う。

これでは「平成」を終えて、この時代をおくる言葉にはなりようがない。

そんなとき、ふっと思ったのは「第二の人生」に先立つ「第一の人生」である。平成に先立つ「昭和の人生」。

いまはもう「往時茫々」、記憶からも急速に遠ざかりつつあるあの「時代」!あの時はどうだったか。

そうだ、昭和が終わったあの日に私は興奮の極にあって短文を「三金会雑記」に書いていた。

未だに保存している「三金会雑記」全106号の中からその記事を探し出した。

「平成を終わる」と「昭和が終わる」のなんたる違い。読み終えて「懐かしい」ではなく「悲しい」でもなく「空しい」でもない表現しようのない思いが駆け巡った。

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【 三金会雑記 第7号 】 1889年3月

  

平成元年二月二四日、昭和のすべてが終わった。

この日、新宿御苑で行われた「大喪の礼」のため設けられた白いあく舎の中で、私はこの冬一番の寒さに震えながら、百六十三ヶ国、十八国際機関の弔問使節お交えた九千八百人に及ぶ参列者の一人として、昭和天皇をこころから武蔵野御陵へとお見送りしたのである。

昭和の始めに生を受け、六十年になんなんとする長き時間を昭和天皇と供に激動の時代を生きてきた私にとって、この日は、もはや決して新しい時代の到来を告げる日ではなく、この生きた時代の終焉を感じさせる日であった。

     *     *     *     *

思えば、我々世代が生きてきた「昭和」は、壮大な交響曲に似ている。「昭和交響曲」は、暗い調べを伴いながらおどおどろしい戦争の主題を奏でる第一楽章で始まる。そこには、皇軍を閲兵する白馬に跨った大元帥陛下のニュース映画と奉安殿に安置された御真影が重なって見える。その頃、我々は天皇のために死ぬことを当然と受け止めていた。

次いで、激しい乱調にはじまりながら、微かに明るい希望の主題が次第にたかまっていく第二楽章。そこに映し出されるのは、廃墟となった広島と戦後の混乱と復興の中で各地を巡幸された人間天皇の姿である。そして、その頃、我々は荒れ果てた大学のキャンパスで飢えた青春をマルキシズムの洗礼の中で過ごした。当然、そこで天皇は否定的な存在だった。

第三章は、高らかに鳴り響く高度経済成長へのマーチである。長く続くそのマーチの響きの中で、昭和天皇は次第にお歳を召され、弱々しくはかなげな足取りとなりながらも、その象徴としての役割を懸命に努めておられるお姿がある。

その間、東京オリンピックがあり、いつか巨大な近代都市が生まれ、農村にも豊かな稲穂が波打った。その影の部分には、エネルギー革命があり、オイルショックもあったが、そうした異音も全体の高らかな響きの中にいつか飲み込まれて消えた。そして、私といえば、象徴天皇の下、一人の役人として、その時々に与えられた己の仕事を大事と心得、前を見ることもなく、後ろを振り返ることもなく、ひたすら働き続けてきた積りである。

そして、気が付いてみれば、「昭和交響楽」はいつしか第四楽章へと移り進んでいた。それは世界最強の経済大国となり、人類史上類を見ない経済的繁栄を謳歌する歓喜の歌なのだが、そこに流れる低い響きにはなにかしらの世紀末的な不安と恐れを聞き取る人も少なくない。

そして、この偉大な国の繁栄とは裏腹に昭和天皇の健康は徐々に衰え、その最後には壮絶な癌との長い闘いがあった。世界各国からかてない多数の弔問使節を迎えて行われた「大喪の礼」は、そのフィナーレに相応しいといえる。

こうして「昭和交響楽」は、その終章を終えて、最後の余韻を氷雨の中に響かせて今日消えていったのである。

そもそも昭和天皇は私にとって何だったのだろうか。一言で言うなら、昭和天皇は計り知れない重みをもつたアンビバレントな存在だったのだ。わたしの心は昭和の長い時間を通じて絶えずその間を揺れ動いていたといえる。思いは複雑だ。だが、今そのすべてが終わったのである。

     *     *     *     *     

荘重な「明治」とはまた一味違った、厚手の鋼鉄の塊のような深重な色合いを感じさせる「昭和」の語感にくらべれば、「平成」とは何とも軽く薄手のアルミかジュラルミンに似た音色がする。

しかし、それもいいのであろう。「平成」の持つアルミの語感は「軽薄短小」のハイテク時代によく似合うし、これからは宇宙船「地球号」の最も重要な乗り手として国際社会で活躍しなければならない日本にとって、空飛ぶジュラルミンの音色は、それに相応しようにも思えるからである。

(「大喪の日」の夜記す)

 

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半世紀前の我が家の遺物発見に思う

2018年11月02日 | 雑文

11月2日☀

身辺から物を捨てるよう心掛けているがなかなか難しい。

書斎内と隣接する納戸にある本、書類、文房具など気が向く都度、週に二回ある「ゴミ収集日」にゴミ袋に放り込んできているがなかなかはかがいかない。

最近は、これから読むことがないだろうと思われる図書を毎回10冊ずつゴミ袋に放り込むことに決めているが、書棚から目立って本が少なくなっているようにも見えない。捨てる冊数をもっと増やすべきか……。

家内は家内で同じようなことをやっているらしい。家内は私より思い切りがいいのか、それなりに物捨ては進行しているように見受けられる。

そんな作業の過程だったのであろう、家内がこの家に引っ越してからずうーっとリビングに置き放しになっているライティング・ビューローの抽斗の奥深くに収まっていた半世紀前の我が家の遺物というべき思わぬものを発見?した。

現在はもう還暦に近い息子と娘二人の「母子手帳」と彼らが幼児のときの声を収録した磁気テープ(その頃「オープンリール」といっていた茶色の帯状の音声用磁気テープ)を入れた箱二個である。

懐かしい。「母子手帳」は昭和34年2月交付、昭和36年9月と37年1月交付の三冊(双子の娘の交付日が違うのは双子と判明したのが4月後だったから)で、それぞれの妊娠時・出生時の状況、その後の体重・身長など幼児の健康状態が記録されている。

音声録音テープを収めた箱の一つの裏には「昭和43年12月クリスマスイブ 家族団欒」というメモ書きが、もう一つにはその前後の時期らしいが単に「歌声」とある。

このテープの音声をどのようにしたら再生できるか。

思い起こせば、私が使用していた記憶媒体の変遷は「オープンリール」から円盤状の「フロッピーディスク」へ。それが「カセットテープ」→「ビデオテープ」に、また「MO」を経て光ディスクといわれる「CD-ROM」→「CD-R/RW」になり、そして現在は「DVD、BD(ブルーディスク)になっている。

今となっては「オープンリール」を再生する機器などないし、再生は容易ではあるまい。専門の業者に特別に依頼して録音内容をディスクにダビングすることができるかかもしれないが、おそらくかなりの費用がかかるだろう。

「テープ」の内容を聞くのは諦めたが、そんなものが存在したこと、そして「母子手帳」に残された記録によって今を去ること60年~50年という遠い遠い昔を偲ばせ、往時の情景などあれこれ思い出しながら夫婦で懐かしく語り合うよすがとなった。

こんな記録は今はもう捨てるべきものだろうが、世代を継ぐ子供たちには大事なものかもしれない。いずれそのうちに子供、孫たちが大挙訪れる。捨てずにその時に手渡す貴重品に位置付けることにした。 

 

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雨の日、つれずれなるままに……

2018年05月09日 | 雑文

5月9日(水)

4月以降連休まで当地は素晴らしい春の陽気に包まれ、梅、桜、ツツジ、そして新緑と移りきゅく自然の美しさに心ゆくまで堪能させてももらった。

しかし、連休が終わった途端、天気は急変し雨日に変わって3日も続いている。のみならず気温は春先の寒さに逆戻り、暖房まで必要とするような寒さである。

長く続いた晴日に代わって雨の日が続くと、それまでの生活の流れが急に変わって体調もおかしくなり気持ちにも戸惑いが生じる。

戸外に出てウオーキングを愉しんだり、TIKOI農園で春野菜をいつくしみ育てる楽しみがなくななったので、もっぱら室内でパソコンを前にしてマウスを動かしたり、キーボードを叩いたり、iPhoneを弄ってみたり、TVもいつもより長く見たりするのが生活の大半をしめることになる。

「晴耕雨コン」、晴日は園芸作業、雨日はコンピューター(パソコンにPhoneも加わった)を老後生活の信条としてきた私として、これは当然の帰結である。

こんな日、いってみれば吉田兼好の「徒然草」の冒頭の言葉

「つれずれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆく、よしなしごとを、そこはかとなく、書きつくれば……」

の心境、硯が現代風のパソコンに代わっただけである。

パソコンにむかって、齢88になって思い付く「よしなしごと」を書き綴ろうと構え、フッと思い出したのは、そんなことを今から8年前に「三金会雑記」に書いた記憶である。

参考にしようと思い、過去のブログの記事を調べたら、すぐ出てきので読み返してみた。

なんと、驚いたことに、これから書こうかとおもっていたことほとんど変りなくそこに書かれている。

その頃との違いを探せば、平均寿命が79.59歳から80.98歳と少し伸びていること、個人的には知能面では記憶力が次第に薄れ、なにごとにも忘れやすくなったこと、肉体面では視力・聴力が落ち文字を読むのにルーペをつかうようになり、補聴器を常用するようになったこと、さらに「ロコモティブシンドローム(運動器官症候群)の進行からは逃れるべくもなく最近では以前に比べて格段に手足の動きが鈍くなってきていること、尿意のコントロールに問題が生じつつあることなどなどである。

いずれも覚悟していたことばかり、今の思いは21010年80歳の時と全く変わっていない。これっていいことなのか、わるいことなのか。とまれ、この8年、私の歳月は流れに浮かぶうたかたのように変哲なく流れ去ったということ。

こんな生き方が超高齢者なのだと現状を肯定的にみている私である。

「齢80、戦後65年に思う」(「三金会雑記」秋号原稿)


 

生垣越しに見える隣家の「エゴノキ」、生垣の上にも白い花びらをいっぱいに乗せている。いつのまにこんなにたくさんの花を付けるようになったのか、気付かなかった。ここにも時間は確かに流れている。

  

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連休雑感

2018年04月28日 | 雑文

4月28日(土)

連休が始まった。現役世代の人にとっては待望の季節だろうが、仕事を持たない超高齢世帯では毎日が休日なのでこの時期前後が一年を通じてもっとも気候がよく自然が美しいというだけで特にどうということのない時期になってしまっている。

いやむしろ我々のように静かな自然環境に住み慣れた者にとっては、この時期に都会から別荘にやってくる人々や観光スポットを求めて大挙して訪れる観光客が作り出す喧噪や混雑に辟易することの方が多い。

交通も大渋滞するので外出とくに遠出のウオーキングなどは避けるのが賢明、健康のための運動はごく狭い範囲での「ご近所散歩」にとどめ、「園芸作業」もこの時期やるべき大作業もないので薫風を浴びながら軽く行う程度にしている。

連休に入ってすぐ4月29日(昭和の日)には「春の叙勲」がある。私の旧職場での叙勲は70歳を超えてからだが、新聞の叙勲者欄に同じ職場の後輩の名前を老眼を凝らして探していたけれど最近では叙勲された人の名も顔も知らないのが多くなってしまっており関心が薄れる。

5月1日、労働者の祭典といわれたメーデーにはもともとさほどの関心はなかったが、昨今の労働事情の大変化で今は全くの無関心、世間でもほとんど話題にされることがなくなっているようだ。

連休が終わるのは5月5日、その日はいわゆる「端午の節句」である。男の孫たちも今はすっかり大人になったこととてこれも現在は無縁。

ただ、家内が細々と続けている「雛作り」で玄関の雰囲気が少し変わった程度。これも新たな作品が加わるのはほんの少し。歳月の経過で草臥れてしまった雛を作り替えるのが大半。

 

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老夫婦の変身物語「ピレモンとバキウス」

2018年03月20日 | 雑文

3月20日(火)

終日雨。

書斎に隣接する納戸で古い書類の廃棄作業中、黄ばんだペーパーが目にとまった。ギリシャ・ローマの神話「変身物語」の「ピレモンとバキウス」に関する古い記事である。

古代ローマの詩人オウィディウスが記したという「変身物語」。

既に「高齢化社会」を意識しはじめていた頃だとすれば、このペーパーは60歳代の初め頃のものだったか。


貧しい旅人に身をやつしたジュピターとマーキュリーの2神がプリューギアの町で一夜の宿を乞うたところ町の各戸は冷たくこれを拒んだが、町はずれの陋屋に住む老夫婦ピレモンとバキウスだけが二人を暖かく迎い入れ、心を込めた接待をしてくれた。(接待の様子が詳細に語られている。)

(中略)

やがて、2神は二人の前に姿を現し「敬虔な老夫婦よ。二人の望みをかなえてやるからなんなりと申せ」と言った。夫ピレモンと妻バキウスは少し相談してから「夫婦二人してここまで生きてきました。死ぬときには二人同時に死にたい。私が妻の墓をみたり、妻が私を葬うことがないようしていただきた」と答えた。

やがてさらに年月を経て、老い衰えた二人が階段の前で過去を語り合っていると二人の身体から芽がでて葉が茂りはじめるのに気付いた。最後の時が来たことを悟った二人は、口が動く限り感謝と別れの言葉を交わし、ものいわぬ木へと次第に変身して、ピレモンは樫の木にバキウスは菩提樹となった。


仲睦まじい老夫婦が持つ普遍的な願望、それは「死ぬときは二人同時に」。老い衰えたとき二人の身体が時を同じくして樹に変身するというこの話、なにか心にじーんと沁みる話だ。

だが、待てよ。もの言わぬにせよ互いにその息遣いを感じあえる樹に変身したとしてもこの二人はその後どうなったか?大木もやがていつか枯れ倒れる。地に伏し朽ち果て土に返って地中で混じりあうのか……。

 

今年5月に子や孫が東京で結婚60周年「ダイヤモンド婚」を祝ってくれる。我々夫婦もこの変身神話にあやかりたいもの。

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伊豆諸島について (補遺)

2017年11月23日 | 雑文

11月23日    (木)    /

さらに伊豆諸島についての話の続きである。

 全号の記事についてMr.morinoからよせられたコメントにある「ウブド島」について私は知らない。その名の島は伊豆諸島にはないのではないか。

我が家から見える伊豆諸島の島々の名については次のブログが全貌を伝える。

 2009/12/15ブログ「伊豆諸島の島々」

 

伊豆七島の覚え方として口伝に「音に聞こえし 神津島  三宅 御蔵八丈に近し」というのがあり、大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島が読み込まれているが、八丈島だけはあまりに遠方すぎて我が家からみることはできない。

伊豆諸島に含まれる有人島にはこれ以外に「新島」「式根島」「青ヶ島」があり、このうち熱海に近い新島、遥か遠方にある「青ヶ島」はいうまでもなく我が家の視野の外になる。

無人島なら鵜渡根島(うどねじま)は一番近い利島の右隣でいつも見れる。地内島(じないじま)、祇苗島(ただなえじま)はお天気の加減でときどきお目にかかることがある。

ほかに早島、恩馳島(おんばせじま)、大野原島、八丈の小島など無人島があるがいずれも島影になったり、遠すぎたりでみることはかなわない。

{参考}

伊豆諸島 

 (有人島) 大島・利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島・青ヶ島

 (無人島) 鵜渡根島・地内島・早島・・祇苗島・恩馳島・大野原島・銭洲・藺難波島・八丈小島 

 

以上、伊豆諸島の話はこんなところ。

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暗色の海に浮かぶ伊豆の島を見て

2017年11月19日 | 雑文

11月19日    (日)    -

 今年は「秋晴れ」の日が少ない。南にみる海面に伊豆の島々がくっきり浮かぶ日もほとんどない。

だが、今朝は鉛色の雲が垂れ込める中、伊豆の島々がくっきりと浮かんで見える珍しい日となった。こんな曇の日はおのずと気分は冴えないのだが、書斎の窓から見るくっきりとしたこの島影を映す海には心が慰められる。

思えば当地に住み着いて27年、この海面がみせるその時々の情景には変わることなくいつも心惹かれてきたことか。

家にいて「海」が見れるということは、老い行く私にとって最高の贅沢だといえるかもしれない。

樹木の繁りで見難くなった左端の伊豆大島を加えてパノラマで撮影 

 


 

この島々の中でも最も鮮明な姿で浮かぶ利島をぼんやり眺めていて思い出したのは当地に住み着いた頃、利島にからんで記した「三金会雑記」の記事である。

パソコンには「三金会雑記全号(106号)」がOneDrive にアップロードされている。呼び出して探したらすぐ見つかった。

1993年に書いた「利島賛歌」というものだった。(そうだった。あの頃には伊豆大島が噴火の後でまだ噴煙が上がっていた。そしてその後には三宅島にも噴煙が見えたものだった。)

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「大室高原の歴史」に関連する残メモ書き

2016年12月19日 | 雑文

12月19日    (月)    

今年一年を締め切るべき年末もいよいよ迫ってきた。「園芸」「散歩」「パソコン」を軸に生活してきた私にとって、今年の最大の特徴は天候不順による戸外活動が著しく制限されたことであろうか。

そのせいもあって、室内でできる「パソコン+iPhone」の習熟についてはそれなりの進歩はあったみたい。だが、スーパーシニアのやることだからたかが知れている。

今日は我が家の屋根・外壁を10年振りに大々的に塗り替え作業実施中、そのため戸外に出辛くいまは専ら書斎にこもってパソコンを弄っている。

 

 そんなことをしていたら、パソコンの片隅に収まっていたOnedriveの中に「大室高原の歴史」に関連するメモ書きが目にとまった。今は不要なものとして削除しかけたが、いや待てよと思い止まった。

これは、私が2010年5月のブログに「大室高原に住んで20年」として題して書いたとき心覚えとして書き留めておいたものであり、文章の体をなしていないが、ブログで触れなかった事項もあるようなので、ひょっとしたら残しておいてもいいのではと思ったのである。

2010/5/26「大室高原に住んで20年」(「三金会雑記」素稿)

このブログは私の過去のブログの中で今もよく読んでくれている方がおるようなので、そうした「大室高原」の歴史に関心をもたれる人にはそれなりの役割があるかもしれないと思い、敢えて以下に掲載してみた。

 

 

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現代の「回文」、なかなかの出来。

2016年12月06日 | 雑文

12月5日    (火)    

上から読んでも下から読んでも同じ音になるという「回文」には昔から関心があった。

幼稚園児の頃か、小学一年生の頃だったかに「タケヤブヤケタ」(竹藪焼けた)という言葉を教えてもらって得意になっていたら、近所の女の子が「私もそうなのよ」と言われたことを今でも思い出す。

その幼女の名は「コイケケイコ」(小池恵子)、いまだに忘れずにいる。微かな記憶に残る幼かったあの子は今はどうしているだろうか?往時茫々。

その後、戦争があったり、戦後以来の慌ただしい生活があったりして、「回文」のことなどすっかり忘れ去っていた。

その「回文」の存在を思い出したのは60歳を過ぎて大学で法律解釈を講じるようになってから……。

小難しい法律の解釈をめぐって、学生の息抜きに「言葉遊び」として「折句」、「パングラム」「アナグラム」「回文」などの「言葉遊び」を喋るようになったのがきっかけだったように思う。

その頃知った「回文」として面白かったのは

「 力士 塩舐めなおし 仕切り 」 (リキシシオナメナオシシキリ)

「 時計は叫ぶ 今朝は行け 」 (トケイハサケブケサハイケト)

「 世の中ね 顔か お金か なのよ 」 (ヨノナカネカオカオカネカナノヨ)

など。

それに古くからある上品な歌

「 白波の 高き音すら 長浜は 必ず遠き 潟のみならし 」 (シラナミノタカキオトスラナカハマハカナラストオキカタノミナラシ )

「 群草に 草の名は もし備はらば なぞしも 花の咲くに 咲くらむ」 (ムラクサニクサノナハモシソナハラハナソシモハナノサクニサクラム)

 など。

うまく作るものだと感心していたら、この度、偶然のことから現在も回文を趣味として作る人がおり、なかなかのものを作っていることを知った。

以下がそれ。

「 遠く闇の音 星の下 私の死 骨のみ焼く音」 (トオキヤミノネホシノシタワタシノシホネノミヤクオト)

「抱いていた卵 対だったがしぼみ 星がたった一個 瞬いていた 」 (タイテイタタマコツイタッタカシホミホシカタツタイツコマタタイテイタ)

いずれも福田尚代という人の作。

ちょと写実からはなれた象徴的というか、暗示的な言葉の流れが不思議な趣を醸している。

現代詩ならぬ現代回文詩というべきか。

読み捨てるには惜しいので、私のブログに転載した。


「回文」=「Palindoromes 」を含む「遊び言葉」について以前ブログに書いたことを思い出した。あれからもう5年を過ぎたか!

2011/5/7 blog  < 「いろは」からの連想 ①~⑥ >

 

 

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日本国の「腐敗認識指数」について (国際比較)

2016年09月19日 | 雑文

9月19日    (月)    

嫌な話題である。

目下、深刻かつ根深い問題が明るみに出はじめている東京都の築地市場の移転問題。

小池都知事の誕生によって、これまで隠蔽されていた東京都庁・東京都議会の実態が明らかにされ、行政の劣化体質だけでなく舛添知事の「せこい話」とは桁違いの大スキャンダルへとことが進むのではないだろうか。

これまでにも政治的スキャンダルがなかったわけではないが、最近は東京都にみならず地方議会の「政務調査費」の不正使用など、公権力の行使にかかわる政治家や公務員の不詳事件は跡を絶たず、日本国はなんだかおかしくなりつつあるような気がする。

世界有数の治安のよさを誇る日本国は、一方でかなり清潔な国だと私は思っていた。自分が現役時代の公的生活に照らしてみても、また見聞きする当時の公務員の振る舞いからみても日本という国は諸外国に比して、いわゆる行政の「腐敗度」が少ない国だと信じていたのである。

その自信というか信頼度が近年次第に揺らぎ始めているのは私だけではあるまい。

一国の政治家や公務員による汚職の度合いを示すのに「腐敗認識指数」というのがある。

国際的な非政府独立組織「トランスペアレンシー・インターナショナル」は、腐敗・汚職の防止のため、各国の公的部門と民間部門との関係における腐敗度を調査しその度合いを「腐敗認識指数CPI(Corruption Perception Index)」として、国別にランキングしている。

(「腐敗認識指数」は、もっとも清潔なものを100、腐敗の極にあるものを0とする。)

直近の2015年の調査結果は次の通り。168か国中日本は指数75ポイントで、国際順位は18位である。

上位を占めるのは人口が少なく国民の監視が行き届きやすい北欧諸国であるのは納得がいくが、日本と同等の先進大国というべきカナダが9位、イギリスとドイツが10位、アメリカとオーストラリアの16位と、日本より上位にあり、日本はその後塵を拝している。

アメリカより腐敗している? これにはぎょっとした。

表から割愛したが、このほか、汚職大国といわれる中国が37ポイントで83位は当然として、隣国というべき台湾は62ポイント・30位、韓国は56ポイント・37位、ロシアは29ポイント・119位、北朝鮮が最下位の8ポイント・168位などが目を惹く。

 

それでもポイント75、国際比較で順位18位ならまあいいか、とは思ったが、過去の順位を調べるとそうはいかない。

 トランスペアレンシー・インターナショナルNGOが調査結果を発表する年ごとに日本はその順位を落としているのである。

日本は1911年は世界14位であった。それが2014年は15位に、2015年は3位も下げて18位にまで転落したのである。

ポイントにほとんど差はないが、その分他国が清潔さを増してきているのだろう。だが、最近の状況から察すると、2016年のポイントは下がるであろうし、順位もさらに下がるとみるのが妥当であろう。

これでいいのか日本!日本人の特質だった清廉さを取り戻したい。政治・行政改革も喫緊のものであろう。

 

 2014年の「腐敗認識指数」ランキング

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生活現況に照らし関心を持った諸統計

2016年07月22日 | 雑文

7月22日    (金)    

雨の日が続く。こんな日にはパソコンが生活の友となる。

自分が置かれている生活現況に照らして、それが高齢者生活全般の中でどんな立ち位置にあるのか、暇にあかせていろいろな調査結果をネットを通じて探してみた。

これから生きる余生にとて一つの手掛かりになるかも。

高齢者の生活に必要なものは3Kと聞いたことがある。「健康」「心(生き甲斐)」「経済(お金)」だと。

ならば、まずは「健康」、そして「寿命」から。


 健康・寿命

平均寿命と平均余命、そして健康寿命。

本年発表された厚労省の「平成26年 簡易生命表」によると、平均寿命はまたも前年から伸びて男80.5歳、女86.83歳となった。

日本人の平均寿命は、これから先何歳まで達するのだろうか、予想もつかない。

平均寿命とはその年に生まれた0歳児に予想される生きる年数である。

それぞれの年齢にある者がこれから先に何年いきるか、その平均年数が「平均余命」である。厚労省の統計では各年代ではなく5歳刻みになっている。

私の年齢86.5歳では、86.5歳+6.24歳=92.74歳という計算で、これからの伸びも勘案すればおおむね93歳にもなろうか。これまでオリンピックを見るまでを一応の目途にしていたが、いやはや!

介護を受けながらいたずらに長生きをしたくはないものだ。平均寿命とは別に「健康寿命」というのが言われるようになった。

「健康寿命」とは「健康で支障なく日常の生活を送ることができる期間(平均寿命から介護や病気で寝たきりの期間を引いたもの)」である。

公式の数値は毎年発表されないので、ちょっと古いものになるが、2013年で男71.11歳、女75.56歳というのがある。

以下の表はその1年前2012年のものである。これも年々伸びているようで、男女とも世界のトップに位置する。

さらに古いが、各県別の「健康寿命」を示したものがある。私が住む静岡県は男が全国で2位、女は全国トップとなっている。

住みやすい健康に恵まれた土地柄ということか。


生き甲斐(心・意識)

生き甲斐に関して、これは内閣府が行った高齢者の意識調査である。

「満足している」「まあ満足している」高齢者は68.2%。「生き甲斐を十分感じている」「多少感じている」高齢者は65.5%。日本は高齢者にとってやさしい国であることがわかる。

ただ、統計上「不満層」「生き甲斐不感層」が少し増加傾向にあるのはよくない兆し。

 

 

別の調査では「満足している」「まあ満足している」が75.8%とさらに多い。

 

さらに別の調査だが、日本国を「誇りに思う」70歳以上の男の高齢者は89.1%、女88.7%。ほぼ全員が積極的に評価している。

この年代の人は戦争を経験し、戦後の困窮の中に育っていることを考えあわせるとちょっと意外な感じがする。

しかし、それだけ世の中のこと、社会のこと、世界のことを知ってることがこの評価につながったのであろうか。

 


 住居環境

伊豆高原の居住環境は、「理想の暮らし」のトップに位置する「ほどよい利便性を持った郊外で、快適な居住空間を楽しみながら暮らす」にぴったり。高齢者にとって申し分ないところであることを再確認する。

 

 

私はインターネットを使う後期高齢者としては珍奇な存在らしい。

内閣府が調査したインターネットを使っている高齢者721人の中で85歳以上でわずかに2人、その一人とは!

そのインターネットが地方の暮らしの満足度を高めているというのは私の生活に照らしても疑いなくいえることである。

 

 

 

 


経済(消費支出) 

最後には、高齢者の老後生活を支える大事なものの一つお金にかかること。沢山はいらないが、そこそこなければならない。

生命保険文化センターの「平成25年度生活保障に関する調査」によると、老後のゆとりある暮らしに必要な金額は夫婦で月額35万9千円、年間に換算すると430万8千円、25年生きるとして1億770万円にも上るという。

定年退職して26年が経過した私の年齢ではちょうどそれを使い果たした頃ということになるか。

これからも最低日常生活費は平均月額22万円は必要、ゆとりある老後生活のためには平均月額35万9千円かかる。

なお、高齢者の消費支出の構成比をみると「保健医療」の支出がとびぬけて高い。

幸い我々夫婦は現在のところ元気なので、この支出が低いというところが救いか。

 

 

 

 


こんなことをやっていたら、雨の一日が潰れた。

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掃除ロボット「ルンバ」の弟「ブラーバ」君

2016年06月13日 | 雑文

6月13日    (月)    

先月末、床拭きロボット「ブラーバ380j」(Braava)を購入した。9年前から愛用してきた掃除ロボット「ルンバ」(途中でバージョンアップされた新しい機種に買い替えているので2台目)の弟分に当たるアメリカのアイロボット社の新製品である。

「ルンバ」が箒と同じように掃き出し専用であるのに対して「ブラーバ」は床拭き専用で、「から拭き」と「水拭き」という二つのモードがある。

丸くて大型のルンバに比べてブラーバは正方形でかなり小型にできている。価格はルンバが7万円くらいだったと記憶するが4万円前後とずいぶんと安い。

買ってからしばらくは試し試し使ってきたが、ルンバのこれまでの実績を踏まえて製作されたからであろうか、性能はかなり向上している。

まず、ルンバは掃除中かなりうるさい音を出すが、ブラーバはほとんど音がしない。動いているのかわからないほど全く静かに作業をしてくれる。操作もずいぶん簡単になっているようだ。

ルンバより軽くて小型なので、最初は拭き掃除に十分の力を入れて拭いてくれるかちょっと不安だったが、杞憂だったようである。

ただ、ルンバのようにすべてのゴミを容器内に取り込んでくれるわけではないので、拭きとれなかったゴミの小さな塊がすこし残る。(残されたゴミの塊は小型のハンディ掃除機で吸い取っている。)

したがって、時々ルンバで大掃除した後で常時使用するのがベストである。ルンバとブラーバの共用が鍵か。

軽いので二階への持ち運びが容易なので、ルンバと違って手軽に利用できるのがいい。

まだ、さほど長く使ってきたわけではないので製品の良否を本格的に判断する段階ではないが、いまのところ満足している。

 

充電中の「ブラーバ」と「ルンバ」 

 

書斎をから拭き中の「ブラーバ」、パソコンで作業をしていても音がしないので邪魔にならない。

 

 


 

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伊豆急線・伊東線車窓から

2016年06月06日 | 雑文

6月6日    (月)    /

20数年前まで伊豆急行線→伊東線→新幹線をつかって東京まで定期券で通った。やがて常勤の仕事が終わってからは非常勤の仕事で東京と熱海まで週2、3回通うようになり、これは回数券を利用していた。

そのうち少しずつ仕事を切り詰めていったので、東京通いも少なくなり年に20回ほど利用できるジパング手帳を使うようになった。

それでも初めのころは20枚を使い切ることが多かったが、次第に回数が減って今では東京行は年に3回か4回、ジパング手帳を継続する必要度はほとんどなくなっている。

去る5月20日、今年になって2回目の東京行きとなった。しかし東京にいる時間は極めて短い。午前中にちょっとした会議があるだけで昼食が終わったらすぐに新幹線で帰ってきた。

これからは伊豆東海岸を走る電車に乗ることはいよいよ少なくなくなり、車窓から見る私の好きな景色とは縁がなくなるだろう。

振り返ってみれば、これまで車窓からみる景色を当たり前のものとして写真撮影してこなかった。

今回は、さほど天気に恵まれたわけではないので残す写真として必ずしも満足できるものではなかったが、一応掲載することにした。

伊豆高原駅で

城ケ崎海岸駅の手前

城ケ崎海岸駅を過ぎて

川奈駅の手前

南伊東駅に近付く

伊東駅を過ぎて

 宇佐美駅の近く

 多賀駅の手前

多賀駅を過ぎて

 来宮駅に近付く


そんなことで思い出したのが、定期券で通う東京行きをやめたときに書いた三金会雑記の記事である。なんとそれから22年余の歳月が流れていた。

「三金会雑記」26号(1993年12月)から

 

 

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自宅から見る大室山焼き

2016年02月28日 | 雑文

2月28日       (日)        

毎年2月の第2日曜日に行われる「大室山山焼き」行事は、当日の天気予報が雨や強風であれば延期になるのは当然として、それ以前に雨や雪が降って全山のススキが湿っていればやはり延期になる。

従って、山焼きが予定どうりに行われることはあまりない。今年も2月14日に行われるべきところ2回延期になって今日、ようやく実施の運びとなった。

当地に来てから26年、年一度の山焼き行事にはほとんど立ち会ってきたが、いずれも間近に燃え上がる炎が見られる「さくらの里」まで歩くか、少なくとも全山が見通せるところまで歩いて出掛けていた。

(車で出掛けたら大変、年々混雑の度合いが増してきており、山麓の駐車場になんとか入れることができたとしても、行事終了後に車を出すのが容易ではなく帰るのに時間がかかる)

今年もせめて近くまで出かける積りだったが、フッと思い付いたのは趣きを変えて我が家の庭から山焼きを見るのはどうだろう。樹が邪魔をしてあまりよくは見えないが、椅子に座って昼食をしながら見るのも乙なものではないか。

ということで、準備して待つ。

ちょうど始まった頃、近所の別荘族Mr. & Mrs.TBも来て一緒に山焼きを楽しんだ。煙ばかりであまり炎が見えなかったが、これも「山焼き鑑賞」の一スタイル。

  

  

  

M4H09207  

終わってみれば、黄色の山は真っ黒な山に変化していた。

 

 

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