伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

一碧湖の秋色

2009年11月29日 | ウオーク
11月29日(日)

しばらく曇と雨の日が続きそう。薄日差す秋惜しみの一刻を家内と一碧湖畔に歩む。

一碧湖神社裏手で色付く紅葉の群落は道から遠すぎるのであまり人に知られていないが、その鮮やかな彩りはそこまで歩くに十分値する。

しかし、今年の紅葉は例年に比べて艶やかさが少し劣るようだ。時期的に遅すぎたからでもなさそうだ。





湖畔の雑木紅葉はいつもと変らず。「大池」と「沼池」








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小春の農園日

2009年11月28日 | 園芸
11月28日(土)

おだやかな小春日和の「農園日」。

風もなく雲ひとつないような空の下、「IKOI農場」イニシャルどおり全員揃って丸一日の農作業とランチを楽しむ。

回を重ねるに従い、休耕田なみに荒れていた農場の姿は変化し続け、今や見違えるばかりのものへと変貌した。

これなら「模範農場」といえるのではないか。(この位置を定点として作物の全般的な生育状況をこれからも撮影する予定)




昼のランチは「焼きソバ」をメーンにお汁粉とリンゴと柿。「私作り人」と「私食べる人」なら、やはり私はしょせん後者でしかないのだが……。




yakisoba.mpg


Mr.IW、Mr.KD、ON、Mr.IT(IKOI)四人揃っての記念写真



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大室高原歩こう会(箱根早川渓谷)

2009年11月25日 | 「大室高原歩こう会」
11月25日(水)


これまで幾度となく通過したことのある箱根「宮ノ下」だが、富士屋ホテルを中心に狭い道幅に立ち並ぶごたごたした街並みしか思い浮かばなかった。

しかし、宮ノ下から急坂を下に降りていくと早川が流れその渓谷に沿って紅葉に映える遊歩道(堂ヶ島渓谷遊歩道)が伸びていることをはじめて知った。

長期予報では雨マークが消えることがなかったので、少しは雨に降られるだろうと覚悟の上の出発だったが、なんとか曇空の下で木賀温泉までの1.5kmの道を歩くことができた。ただ、連日の雨で道のぬかるみには十分注意しなければならなかったが……。



 





昼食は「箱根やすらぎの森」で。芦ノ湖に沿って広がる広場をいくつか持つ広大な公園だが、特にみるべきものはない。

仙石原までバスで行き、長安寺で五百羅漢を見る。

歴史のあるものではないらしいが、表情豊かなさまざまの羅漢がうずたかく降り積もった鮮やかな落葉に囲まれてる様はなかなかの風情。






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修善寺・湯ヶ島の紅葉

2009年11月22日 | ウオーク
11月20日

天気予報によると天気が変りやすく晴の日は少ないようだ。

外出を避けたい連休前で紅葉を楽しむ日は、この日しかないのではと思い、修善寺に出掛けた。

町の中央を流れる桂川がすっかり整備されていたが、独鈷の湯あたりはまだ整備中。



修禅寺の境内で見る紅葉はそれなりの風情があるものの観光客が行き交う街中では特に見るべきものがなく失望した。





湯ヶ島温泉の紅葉はどうだろうかと、足を伸ばしてみたが、ここの紅葉は時期尚早。「湯道」で見る谷の流れに映える紅葉がわずかに色付いているだけ。

道端に散った紅葉の葉に風情を感じるくらいか。



 

出会橋の男橋と女橋の間にある広場に二つ置かれたオブジェは大きさも違うのにある場所から見ると遠近法でくっきりハート型になることに初めて気付いた。

 




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「三金会雑記」冬号 雑記創刊の頃

2009年11月19日 | 三金会雑記

「三金会雑記」創刊の頃 (水口編集長時代)

吉増編集長から第九〇号「三金会雑記」執筆依頼状がいつものようにやってきた。一一月末締切までには何事かを書いて原稿提出といかねばならない。
はてさて、なにを書いたらいいのか?

この九〇号が手元に届く頃、私は満八〇歳を迎える。「雑記」九〇号と私の「傘寿」。節目の年である。
しかし、この年代になるともはや日々の生活は平々凡々、なんの変化もない時間が過ぎ行くだけで、語るべき特別の出来事が起こるわけではなく、取り立てて新しい考えや思いが浮かぶこともなく、書くべきテーマを決めることすら容易ではない。

「三金会雑記」は一〇〇号まで続けるというのが、いつしか会員相互の間で暗黙の了解になっている。
それには後一〇号を刊行し続けることが必要であり、年四冊の季刊だから時間にして二年半は生き延びていかねばならない。その間、原稿を書くにせよ読むにせよ、それに耐える体力・気力・視力だけは保持していかなければなるまい。

平成二〇年簡易生命表によると男の平均寿命は七九・.二九歳(女は八六・〇五歳)。われわれはちょうどその年齢に達する頃であり、八〇歳男の平均余命は八・四九年とあるから健康そのものの吉増編集長が呆けでもしない限り一〇〇号達成は実現の可能性が極めて高い目標であることは確かだ。

そんなことをあれこれ考えていたら、この際「三金会雑記」を創刊号から読み返してみて、これまで「雑記」が歩んできた道を辿るのも面白いのでは、とふと思い付いた。

そこで、書庫からこれまでの「三金会雑記」全号(おおむね三冊くらいを順番にファイルに綴じこんである。)を取り出して書斎の書棚に並べてみたら、その一段(幅八三センチ)がほぼ埋め尽くされた。ぎっしりつめればあと一〇冊は入るだろうから一〇〇号がめでたく完成してもなんとかここに納まることであろう。




「三金会雑記」の再読

「三金会雑記」の創刊は昭和六二年(1987)四月である。
九〇号が年内に刊行されるとして実に二二年半という長きにわたり一号も欠けることなく続けられた驚くべき長寿の季刊同人誌(「消息交換誌」というべきか)となる。

最初から読み返し始めたら、なんとこれが滅法に面白いのである。いや面白いという表現は必ずしも適切ではない。読み進めるにつれて脳裏にいろいろな想いが浮び、忘れていた様々な場面・情景が展開され、否応なく各自の記事に引き込まれていく。そうした面白さである。

自分が書いたものさえほとんど忘れているのだから、全く新しく読むのと変らないだけでなく、それぞれの筆者のその後の二〇余年の過ごし方、考え方の移り変わりなども重ね合わせて読むことになりそれぞれの文章の深みが一層増すのである。

「三金会雑記」の刊行

「三金会雑記」には、私は創刊のときからかかわってきた。
ちょうど東京から福岡に転勤したときで、在福二年の間、毎月「栄ちゃん」で行われる「三金会」(「三金会」といいながら、その頃は毎月第三金曜日ではなく第三土曜日になっていた。)の集まりにほとんど皆勤したが、その集まりの会話の中から「雑記」は誕生したのである。

「三金会雑記」を作り上げたのは、亡くなった水口君一人の力による。
学生時代の青春を共有した福岡在住の仲間が集まって酒を飲み雑談に興じるだけの「三金会」だけではもったいない、なにか知的で前向きのものをこの会合にも加えたい、と誰かが言い出し、それなら「同人誌」的な雑誌でも作って福岡だけでなく全国各地にいる旧友にも配って近況などを伝えあい旧交を温めようということになった。

「雑誌を作る仕事なら俺に任せろ」と言い出したのが水口である。すぐさまその全権が委任され、酒中のたわいない思いつきが実現にむけて出発することになった。

流石に元新聞記者だけあって、水口の手際のよさは際立っており、原稿の督促から手書き原稿のワープロ打ち、編集から印刷・製本の発注、そして配布に至るまですべて水口一人の手で処理され「創刊号」が出来上がったのである。

創刊号の執筆者は一三名。銀行業のかたわら「画伯」としても知られる大森君が表紙を受け持った。学生時代から行き付けの「飲み屋」、今は「三金会」の集合場所になっている「栄ちゃん」をデッサンしてくれた。

この創刊号の原稿には、できたら本人か夫婦の顔写真を会員数だけ添付しろ、との水口の命令があり、何人かが出した写真は執筆者のページの余白に貼り付けられている。雑誌が出来上がったとき、やれ白髪が多いの、頭が薄くなったの、しわくちゃになったの、と互いに言い合ったものだが、今見ると恐ろしくみんな若い。当り前である。二〇数年前、まだ五〇歳代の写真なのだから。

創刊号の巻末を水口が「編集者の楽しみ」と題した一文で締めくくっている。
「文章の総量は巻末名簿を含めて約五〇枚二万字……恰好のワープロトレーニングになった」と。
(文中、ワープロが出来たのは私と藤野君だけだとあり、あとの文章はすべて水口が多忙な業務をこなしながら手書き原稿を活字化したと書いている。しかし、六号になるとワープロ原稿が増えたとあって、ワープロという最新技術の習得にいい年配の会員がいどむという思わぬ知的刺激を与えたことは、次に述べる水口の「全く新しい力の源泉」となるものでもあった。)

水口は続ける。「『継続は力なり』とか。二号三号と発展していけば、これまでになかった、全く新しい力の源泉となる可能性がある。次号の締め切りは八月末」

創刊号の末尾に添えられた会員名簿をみると、そのとき会員として名を連ねたのは総勢三二名であった。
これを現在の八九号巻末会員名簿の四二名と対比してみると、初回会員の中で物故した人は一〇名、いまも会員として健在なのが一八名である。
(亡くなった水口・安川・赤野・平野(重)・青野・田村・.佐田・二宮・三浦・土器の諸君がこのときいなければ「三金会雑記」が今のような姿で続けられることは決してなかったであろう。)

なお、この名簿を見て気付いたことだが、創刊号に女性群はまだ登場していない。同じ時代を共有した懐かしい女性達の名が会員名簿に載るのは昭和六三年(1988)の三号からである。
飲み会だった「栄ちゃん」での「三金会」に女性の参加はなかったから、誰かが勧誘したのであろう。多分、女性達の信頼厚かった平野(重)君だったと思われる。
この号から一〇名の女性が加わり三金会の華やぐ会員として今日に至っている。





「三金会雑記」の展開

「三金会雑記」は三号あたりから投稿者・読者である会員の数が急に増えはじめ、途中に若干の会員の出入りがあったものの会員数は四五名あたりの線で定着し、昭和六四年(1989)の六号・七号・八号の五一名が最も多い会員数となっている。(難波君が七〇号のとき「三金会雑記総目次」を作成してくれ、各号の会員数が付記されているのでこれによった。)
その頃の企業の定年は五五歳が一般的だったようで我々の世代もようやくそうした年齢に達してリタイア後の余暇が持てるようになったのがこの人員増に関係したかと思われる。

ちょうどその頃だったか、「三金会雑記」の噂を聞きつけて西日本新聞の記者が訪れて新聞に取り上げたいと申し出てきたことがあった。しかし、水口はこれをきっぱりと断っている。新聞に出ることで入会申し入れが続出でもしたら収拾がつかなくなるという水口の賢明な判断によるものだった。

なにしろ「三金会」そのものは自然発生的なものでこれを縛るなんの枠決め・取り決めもないのである。
全権を握る水口編集長自身が書いている。
「会員の定義がはっきりしない。しいていえば『九大第一分校の第一回入学者及びそれと密接な関係にあるもの』とでもいうのだろうか。要するに誰でもなれるみたい……」
そんなことで四五名前後を手頃な人数と判断していたのであろう。

ところで、「雑記」の内容のことだが、「三金会雑記」二号には、会員から何を書いたらいいかわからん、という声もあって「なんでもいいのだが、強いて言えば「健康法」をテーマとしておこう(編集後記)」とあり、二号は会員が実行している様々な健康法が中心になっている。
三号の後は特にテーマは設定されなかったように思うが、六号では「出会い」というのが、第七号では「好き嫌い」というテーマが一応示されていたようだが、その頃になると執筆者も投稿に慣れてきたのかテーマに縛られない原稿が多くなっている。
その後、暫くして珍しく水口の提案により一一号は「私の履歴書」を特集テーマとしている。これは、いずれいつの日か弔辞を書く必要に迫られることもあろうから、ということであったらしい。

この種の「雑誌」は長く続くことはなく、ほとんどは二号か三号で廃刊が通り相場、数号も続けば奇跡的といわれており、四号では中村(広)君が「所詮『三号雑記』だろうと……」、山北君が「当初は三号どまりだと……」と書いているように長く続きはしないというのが、大方の偽らざる気持ちだったかと思われる。
(中村はその後一〇号に「よく続くものだ。この調子では二〇号はかたい。百号はちょっと無理としても。……どうせ「三号雑記」だろうというとんでもない重大な予測の誤りを犯した一人として深く反省」と書いたが再び百号について同じ誤りを起こすことになりそうである。)

水口が「三金会雑記」に打ち込む気合は並みのものではなく、締切日を過ぎても提出のない人には個別に電話して、おどしたりすかしたりおだてたりで原稿提出を促しており、自分は自分でワープロの打ち過ぎで神経痛になったり、「一行でも一〇行でもよいから近況を」と三号「編集後記」で嘆願したりで、これは私の記憶にはないのだが、二号で青野君が「水口が書いてくれた『もの書きのすすめ』『組見本』というハンペラの紙をもって飛行機に乗った」とあるところからみて会員には執筆の参考になる資料まで渡していたらしい。

こうした水口の大変な努力のお陰でよちよち歩きの「三金会雑記」がしっかりした足取りをはじめた頃、水口の負担を軽くしようと銀行を定年退職した平野(重)君がワープロを買い込んで手書き原稿を活字化する作業に取り組んでくれるようになり、直ぐに「編集助手」を名乗って「三金会雑記」の実質的な編集・刊行作業にも関与するようになっていったのが昭和六三年(1988)の四号からである。(「ワープロ打ちはすべて平野が」と水口の五号「編集後記」にある。) 

九号の「編集後記」を読むと「号を重ねるごとに原稿が増え、おもしろくなる。七〇頁を超える特大号となった」と書いており、「投稿ゼロ、反応ゼロの人は名簿から削除」ともある。

なお、九号からは巻末に新しく「会計報告」というのが載るようになっている。
そこで八号「後記」を読み返してみたら「雑記を書いても書かなくても一冊千円徴収」とあった。
ここではじめて気付いたのだが、それまでの必要経費は会費ではなく、すべて会員のカンパ資金で賄われていたのである。若かりしとき全国新聞労連副委員長だった水口の資金調達にみせる手腕がこんなとにも発揮されていた。
(一〇号「後記」では「平財務担当」というのが出てくる。平君が会計を分担してくれるようになり、「三金会」がそれなりの組織を持つようになったことが知れる。)

こうして、水口編集長・平野編集助手の名コンビが生まれ「三金会雑記」には多数の原稿が集まるようになり「三金会雑記の黄金時代」が花開いた。

水口編集長の死

水口編集長時代は一〇年続いた。
昭和六二年(1987)創刊号から平成八年(1996)三七号に至るまでである。
「三金会雑記」の揺ぎない基礎が固まっていた平成六年(1994)の二九号のときになって、まさに晴天の霹靂、水口の肺に癌が見付かり、「三金会雑記」のキーマンが病床に伏すことになったのである。
当初の楽観的見通しにもかかわらず、試みたさまざまの癌治療法も効果をもたらさず、平成八年(1996)八月に水口遂に死去。我々の仲間内でもっとも早く逝ってしまった。

水口は発病以来、「三金会雑記」に癌との闘いを冷静にかつ克明に綴った「肺がんとつきあう」を毎号九回にわたって連載している。
水口は、新聞記者には珍しい理系(農学部水産学科)の出身で自然科学に強く、癌発病以来、徹底的に癌の病理を勉強し、自分に施される治療から投与される薬物の効果、病状・自覚症状の変化などについてあたかも自分が実験台になっているかのような客観的な記述に終始しており、あわせて透徹した死生観をも語っている。

亡くなる月の最後原稿(三七号)にはベッドで「動けないから酸素チューブを吸いながら考えた」という書き出しではじまる「自問自答」という文章、最後に奥さんへのお詫びと感謝の言葉で終わっている。
(水口の没後、これらの記事はまとめられて一冊の図書になっている。)




「三金会雑記」の記事内容

この壮絶ともいえる水口の癌との闘いのほかに、連載ものといえば、青野君が五号から書き始めた「青野日記」があった。三金会員が九州大学の教養学部で飢餓とストライキと論争に明け暮れしていた寮生活時代に書いた日記を公開したものある。

忘れていた青春時代を、この日記は会員の多くに思い起こさせ、それに触発された会員からいろいろな想い出にからむ原稿が寄せられたし、また、その内容が女性群の登場する頃にかかると青野が自分に都合の言いように修正・削除をおこなっているのでは、といった真贋をめぐる賑やかな誌上論争までまき起こした一八号まで続く面白い記事であった。
(その後、青野が脳障害で倒れるまで、彼の洒脱な文章は「三金会雑記」の毎号に欠かせないものとなった。その青野が亡くなったのが平成一五年(2003)。もう青野の文章に触れる機会はない。)

また、一一号からは赤野君が「彼 赤野健について語る」と題した自己史を連載している。幼少年時から学生時代、サラリーマンになりたての頃まで面白おかしく時代背景を交えて活写し多くの愛読者を獲得していたが、彼もまた膵臓癌という病魔に冒され永眠した。その連載は彼が亡くなる平成九年(1997)の三九号まで続けられている。

この時期に寄せられた様々の原稿を読んでみると大雑把な印象だが、初期の「仕事」にからむ話は次第に少なくなり、「旅」「食べ物・飲物(グルメ)」「回想」「健康・病気」をテーマとしたものが増え、なかには「死」を語るものも見られるようになってきている。
その頃、「高齢者」という用語は今のように一般化されてはおらず、「老人」が多用されており、「老人」とは還暦を過ぎた六〇歳以上とされていたのである。
「三金会雑記」におけるこのようなテーマの変遷は、我々が確実に「老人」になったという事実を反映するものだったといえよう。



編集長の交代

水口が亡くなり、それまで「編集助手」と自称していた平野が編集長を引き継ぐことになったのが、平成八年(1996)である。水口の闘病生活が始まった頃から「三金会雑記」の編集は平野の手でなされていたが、それまでは「編集助手」の名のままで行っていたのである。

それからは「水口の遺志」を継いだ平野の手によって「三金会雑記」はさらに内容も充実させ順調に刊行されていくことになるが、新しい世紀が始まってからは三金会会員の訃報が続くようになった。
誌上に載せられた「弔辞」や「故人の思い出」は、我々の世代がゆとりある老後の後にそうした時代に入ったことを思い知らさせるものでもあった。

安川君が逝き、平野(哲)君が、赤野が、青野が、そして平成一三年(2001)には、その平野編集長も胃癌となりあの世へ旅立ってしまった。

平野亡き後、「平野を偲ぶ会」が「臨時三金会」に切り替えられて、その席で平野編集長の後任として吉増が三代目「編集長」と決まり、徳本君が「編集助手」、植村君が「会計係」という現在の運営体制が定まって、現在にいたるのである。

(書き始めたら途中でやめるわけにはいかなくなり、思わぬ長文になってしまった。「平野編集長時代」「吉増編集長時代」は、いずれ別に改めて書く機会を持ちたいと思う。)




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近くを走る旧下田街道を確認

2009年11月19日 | ウオーク
11月18日

竹のボランティア活動の現場を見学させてもらった時、Mr.ITからそのすぐ近くを通る狭い道が「旧下田街道」であると教えて貰った。

そうであるなら、先日歩いた「吉田-梅ノ木平」の古道(旧下田街道)とどこかで繋がるはずである。

いつか、その道を実際に歩いてみて確認してみたいと思っていた。


あまり天気の冴えない日が続いたが、今日はたまたま午前中だけは晴だというのでMr.TBと最近できたドクターヘリポート近くに車を止めてその道を歩いてみた。

この道は、最近になって「富戸駅」から「一碧湖」に通じる「遊歩道」として整備されつつあるようで「里山を体感する道」と標示されている。

 




昨日の雨で樹間の道は寒く、湿気がよどんでおり、少々歩き難かったが、なかなか趣があるいい散歩道である。



確かに道の途中にはかつての主要道路であったことを物語る石を敷き詰めた立派な道が僅かながら残っている。だが、なんといっても主要道路としては狭い道だ。

 

歩いていったら、なんと一碧湖に出る前に「梅ノ木平」交差点に程近いところに出た。

したがって、これは疑いなく「吉田」まで繋がる「旧下田街道」である。

川端康成が昭和2年6月文芸春秋に書いた「伊豆の印象」(「伊豆の旅」中公文庫所収)に次のような文章がある。

「熱川温泉は宿の部屋から海が見晴らせるし、山の明るさもいいが、何しろ交通が不便で、伊東温泉あたりから山の乙女のひく馬にでも乗せて貰って行くより仕方がない」

大正時代にはすでに天城を越え下田まで行く下田街道には「定期乗合自動車(今のバス)」が走っているというのに、東海岸のこの道は旧街道としてはいかにも狭く思える。
しかし、狩野川に沿って緩やかに登り天城峠(しかも早い時期にトンネルも通じている)を越えれば行き着く下田街道とは異なり、いくつもの山を越え谷を渡らねばならない東海岸ではこのようなものであったとしても不思議はない。昭和に入っても「山の乙女がひく馬」に乗らなければ通れない道だ。

この道が「旧下田街道」であることを確信した。

(この道が大室高原別荘地に入り、日蓮が経を埋めたという「法華塚」の傍を通ってから伊豆高原駅八幡野口近くに至り、昨年「伊豆急線ウォーク」で10月5日に歩いた135号線の旧道にある河津三郎血塚前に繋がる。)





帰りに一碧湖のモミジの状態を確認しようと、歩かないでモミジを見ることができる反対側の駐車場までいってみたが、まだまだ紅葉はこれから。だが、中には綺麗に紅葉したものもあった。

 
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園芸日

2009年11月15日 | 日記
11月15日 

雨と曇の日が続いた。今日は強風が吹き荒れているが、天気は上々。暖かくもある。

延期していた「園芸日」で、「IKOI農場」も本格的に稼動するようになり、すっかり見た目にも農場らしい外観を呈するようになった。

冬越しの野菜類(グリーンピース、絹サヤ、スナップ豌豆、ソラマメなどの豆類、玉葱、赤玉葱、九条葱、細葱、ニンニクなどの葱類など)の発芽確認やら移植やら、寒さ避け対策やら冬支度の作業も気持ちにゆとりを持て行えるのは嬉しい。

「IKOI農場」の制服というわけではないが、3人の作業衣をブルーのつなぎに統一した。それだけでもなんとなく一体感が強まり、作業の励みになる。

三人揃って「IKOI農場」表札の前で。



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秋の夕焼け

2009年11月14日 | 日記
11月14日


「秋の夕焼け」って綺麗だなあ、とつくづく思う。

木下杢太郎が「伊豆の入日雲」といったのは、これだろうか。時間とともに色を変えていく。



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竹ボランティア活動の見学

2009年11月10日 | 日記
11月10日

「IKOI農場」ではMr.IW・IT・KDが参加している竹ボランティア活動のおこぼれに大いに与っている。そこから貰ってきた竹材が畑では大活躍をしているのである。

丈の高い野菜を支える支柱としての竹の効用は欠かせないが、それに止まらず畝の区切りにまで立派な竹筒を敷き込むという贅沢をさせてもらっている。

その「竹のボランティア」が属するNPO法人「森のボランティア」が創設10周年、その節目の集まりがあるとかで、竹ですっかりお世話になっていることもあり、誘われるまま実際の活動を拝見させてもらいに出かけた。




作業現場では、竹を伐採する人、切り倒した竹を一定の大きさに切揃える人、竈に入れて竹炭を作る人などパート・パートできびきびとした作業が展開されており、一体となったその活気溢れる動きにまず眼を見張る。







枯れた竹は除去され、繁った竹は適当な間隔で間伐されるなど整備の行き届いた竹林の美しさはたとえようもない。

戦前「伊豆の竹林」の美しさを絶賛したのは川端康成だった。その竹林が再現されつつある。

大正14年4月「文芸春秋」に載せた「温泉通信」で川端は次のようなことを述べている。

「日のあたる表から竹林を眺めてはだめだ。裏からみなければ。竹の葉にきらきらきらきら宿る時ほど美しい日光があろうか。……光らなくとも、日光が竹の葉
を薄黄色く透き通る明るさも、うら淋しい人懐っこい色ではないか」

整備された竹林の中に立ち、見上げた眼に映ずる竹の葉の繁りには心を鎮ませ平安に導く高貴ともいえる優雅さがある。しかもその一方で、陽光にそよぐ緑の葉のきらめきはなにやら心を惹きつる妖しいまでの美しさを演出している。



なお、この集まりでは部外者なのに搗き立ての餅や鹿の刺身に猪鍋までお昼のご馳走に与ってしまった。


お土産に頂いた竹炭と竹炭入れ。帰る間際にMr.IWとITがノコギリを使ってあっというまに5つ6つ竹炭入れを作ってくれた。(和室やトイレに匂い消しと湿気除去のために置く)

 
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なんと三日続けての「歩き」

2009年11月09日 | ウオーク
11月9日

明日からは天気が崩れるという。ならばということで松川湖を一周すべく最近知り合ったMr.UNをも誘って3人で出かける。

10:30に家を出てコンビニで弁当とお茶を買い、ゆっくりダム湖をめぐってから食事して帰る。

いつものコースだから、特に目新しいものはない。






紅葉する前のモミジ。この時期、葉裏から空を透かして見ると濃淡入り混ぜたグリーンの天幕を拡げたようで違った美さがある。



9680歩
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見捨てられたかつての幹線道路

2009年11月08日 | ウオーク
11月8日

昨日の「歩き」はなにか不完全燃焼の気味があり、胸に閊えのようなものが残った。

家に帰って、インターネットで改めて調べてみると、確かに「梅ノ木平」から「吉田」の街区まで大きく迂回した国道135号線を突っ切るように立派な道筋が通じている。





悔しい思を晴らそうと、またして二人で出掛けた。

今度は、昨日とは反対側の吉田の街から南に下ることにした。道の入口とおぼしきあたりの人に聞いてみると、通れることは通れるが今は誰もが通らない大変な道らしい。

峠道に差し掛かると、確かに昔はきっちりした石畳やコンクリートで造成された本格的な道だったであろうが、今は道の両サイドは崩れ落ち激しい流水が道真ん中をうがち流れた痕跡もあらわで到底「道」とはいえない状態になっている。

えぐられた赤土の穴ぼこに脚を取られないよう、倒木に突き当たらないように注意しながら峠道を登ること30分。梅ノ木平交差点に通ずる見覚えのある道に出た。

かつて沢山の人の交通を支えたであろう伊豆東海岸の重要な道路であったことは、頑丈なコンクリート道の破片から窺えるが、今は見捨てられ誰もが顧みることのない無残な姿をさらしており無常をすら感じさせる。



道路の吉田側からの入口(ここはまだいい。)



途中の比較的様子がいい道。この先は薄暗く車の通れぬ狭さで写真にもはっきり写しようがない。



往きには気付かなかったが、国道135号線からこの道に入るところに巨木を背に地蔵尊が4体安置されていた。

おそらく、「ここからは難儀な道だよ。安全に心掛けて!」とこの地蔵尊が行き交う人に語りかけてくれていたのであろう。




現在は捨て去られ完全に無視されているのに地図にいまなおくっきりとその道筋を示しているのがなぜか悲しい。

(伊東の住民でも、この道を歩いた人はそう沢山はいまい。高齢者にしての「踏破」。だが、「愚行」という人の方が多いかも。)



6168歩
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久し振りの「歩き」

2009年11月07日 | ウオーク
11月7日

「IKOI農場」が出来てからというもの農作業にかかりっきりで、トレッキングはしばらくお見限りであった。

しかし、秋も深まってくるとやらなければならない農作業も少なくなり、農場に行っても次第に手持ち無沙汰になって、秋の柔らかい日差しを浴びながら少しずつ大きくなっていく緑の葉先に視線を向けるだけという贅沢な一時を過ごすことが多くなった。

そんなところに歩き仲間のMr.TBが東京からやってきたので、早速「二人ウオーキング」の再開に踏み切ることになった。

午前中にはちょっとした用務があり、午後の出発となったので手近なコースとして「梅ノ木平」から「吉田」にかけて新たに作られた「遊歩道」を歩こうということになった。

長く手付かずのまま放置され繁りに繁った昼なお暗き杉林にようやく間伐の手が加えられて遊歩道らしきものが国道沿い見えかくれしていることから、この辺りを歩いてみたいと思っていたのである。

だが、いってみると遊歩道は余り長いものではなくやがて途切れ、あとは林間に通じる人の道か獣道か定かでない空間が続いているだけとなった。

ままよと歩き続けていたらようやく道らしいところに出たものの、その先行けるのかどうかは定かでない。

あまり遅くなってもよくないと、途中で引き返すことにした。




Google Map や Goo Map で見た記憶によると「梅ノ木平」から「吉田」に通ずる立派な道があるはずなのだが……。

これは再度の探検にゆだねることにする。

林の中で見かけた看板によると、いつ完成するかは分からないが、ここらあたりの整備は現在進行中のようだ。コンクリート造りの整備ではない緑の整備であることが嬉しい。


 

8862歩


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「文化の日」に見る海景色

2009年11月03日 | 日記
11月3日

今日は「文化の日」、叙勲者の中に知己の名をいくつか見出す。これを寿ぐかのような見事な相模の海景色。







[見える島々の名前]
         三宅島     利島     鵜渡根島    新島   地内島(ジナイ島)       式根島        祇苗島(タダナエ島)      神津島





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農場の標識を設置

2009年11月01日 | 園芸
11月1日

素晴らしい標識が出来上がった。まさに神速の手わざである。

早速、農場の入口に設置した。






こんな立派な看板が設置されたからには、その名に恥じない実質を備えるよう頑張らねばなるまい。

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