伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

懐かしき亡友の手記を読む

2016年05月10日 | 三金会雑記

5月10日    (火) 

 この齢まで生き続けていると、多くの親しかった友達を喪ってしまっていることに思いが至る。

誰の言葉だったか忘れたが「長生きして一番辛く悲しいことは親しい友がいなくなっていること」だと。

まさしく実感である。思い出せば、いいようのない心のやるせなさ、淋しさ。しかし、かすかに残るのはそうした友と一緒に紡いでくれた過去の思い出。

共有した時間を思い起こさせてくれるのは、写真であったり、一緒に起居した場所だったり、ともに眺めた景色だったり……。

それにその人の手紙やその人が書いた文章。

そんな切っ掛けでブログに載せるにはちょっと場違いの感じもあったが、亡くなった友青野君の「三金会雑記」の古い文章を載せたら、なんと二三の方がコメントで彼の文章を絶賛してくれたではないか。

いつも過去の思い出を特別に大切にして文章を書いていた青野君ことだけに、私はとても嬉しかった。

そんな彼が酒席で愛唱していた歌。

「子供の頃に遊んでた 学生時代に付き合った いろんな友がいたけれど みんなみんな今はない ああ懐かしい古い顔

夜遅くまで座り込み 笑って飲んだものだった あの仲良しの飲み仲間 みんなみんな今はない ああ懐かしい古い顔

恋をしたっけ素晴らしい 美人だったあの人も 今は会われぬ人の妻 みんなみんな今はない ああ懐かしい古い顔 」

(彼の子供の頃は知らない。でも「美人だったあの人」には会えないどころではなく、みな「三金会会員」としてしょっちゅう会っていた。)

2017/4/20の「イン遁予定地視察」の記事から4年後に青野君の書いた文章を、風邪でベッドにいる間に読んだ「三金会雑記」から見出した。 25年前のものである。

  

 


 

「三金会雑記20号」のこの記事に続いていたのが、同じように親しくしていた赤野君(彼も亡くなった)の連載記事である。

「雑記」の記事は氏名の「アイウエオ順」で掲載されるから、青野の次は赤野ということになる。彼の筆力もなかなかのものだった。

 

 

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新緑に包まれて思う「小原庄助的生活」

2016年04月20日 | 三金会雑記

4月19日    (火)    

素晴らしい春の天気である。穏やかな日差し、程好い気温、爽やかな微風、微かな新芽の香り、鶯の鳴き声、眼一杯に広がる新緑の景色。こんな日、伊豆高原は何処にいても幸せな気分になる。

二階書斎から

胸をときめかさせるような自然に惹かれて昼食をとりに桜並木通りを下って「ふみ」まで家内と車を使わずに歩くことにした。往きは下りの歩きだから快適なウオーキングになるが、帰りとなるとかなりの上り坂になるのでこの齢になるとちょっときつい。

とはいえ、どこを見渡しても緑、緑。さくらが咲き競う春先の景色もいいが、伊豆高原の新緑の季節は最高である。

天気でさえあれば自然好きの私にとってここは天国だといっていい。乾ききったアラブの砂漠や荒野に住む民がこの時期に当地を訪れたら「天国」のイメージはこんなものになるのでは、と思ったりする。

 帰りの道は3歳下の家内はすいすい前を歩くが86歳の私はさすがに休み休み、立ち止まっては辺りを包む緑の情景をiPhoneで写してなんとか凌いで家まで汗みどろになってたどり着く。シャツはびっしょり、上着もズボンもじっとり湿っている。

「ふみ」に向かう

「桜並木通り」

「桜並木通り」から

家の近くのコナラの大樹一本

佐藤邸の芝桜満開

ようやく家が見えるところに

昼時だが、朝はいったばかりの風呂にまた浸かる。バスルームの窓のブラインドを思い切り引き上げ、浴槽から窓いっぱいに広がった隣家のコナラの大木の萌え出る瑞々しい若葉を眺めながら、iPhoneが奏でるモーツアルトを聴いていたら、西田佐知子が歌う「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい」ではないが、「新緑に包まれてこのまま死んでしまいたい」という気持ちってこんなものかなと思ったりする。

浴槽からiPhoneで撮影
 

そんな心地で居たところ、思い出したのが、今から28年前に三金会雑記で亡くなった青野君が言っていた「小原庄助的生活」とはこれか、と思い至った。

さしたる才能や資質に恵まれなかった自分としては当地で豊かな自然に囲まれこうして過ごしてきた26年の老後生活は上出来だったと思う。

これから後、何年生きるか?いつ死んでもいいなと新緑に包まれながらしきりに思う。

 


1987年に創刊され106号まで29年間続いた「三金会雑記」の全号はCDにPDF文書として保存されているので、パソコンを使えばすぐに読み出せる。

これをsnippin tool で画像に取り込んだ。

 

 

 

 

 

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都のさくら見物

2014年04月02日 | 三金会雑記

4月1日  (火)   

2月から5月にかけて随所で咲き誇る伊豆半島での桜を見続けてきていたため、いつのまにか「さくらは伊豆に限る」との思い込みが出来上がっていたようである。

今日は今年になって2回目の東京行、その東京で素晴らしい満開の桜を見るなんて思いも寄らなかった。

 

大学時代からの交友を半世紀続けてきた「三金会」は「三金会雑記104号」刊行を最後にして一応解散の形をとることになったが、東京・横浜・湘南に住む残党だけでも久しぶりに東京に集まろうということで、♂4名・♀5名、計9名の80歳台男女が渋谷の「天厨菜館」というところに集合、何年か振りにわいわいがやがや昼食を楽しんだ。

 

終わって、せっかく東京に集まったのだからこれで散会は勿体ないと、桜の名所「千鳥ヶ淵」に行こうということになり地下鉄で九段下まで行き、こよなく晴れた青空の下で堀端の満開のソメイヨシノを堪能した。

 

ただ大変な人込みで田舎生活に慣れた我々夫婦は迷子になる始末。幸い携帯で連絡がとれ戻れたが……。

 

ついでに靖国神社も参拝しようということになったものの、さすがにこれは体力的には無理、80歳の老躯を思い知らされ大鳥居で1人、大村益次郎銅像下で3人、青銅鳥居前で2人がダウン。拝殿まで行き着いた人を待つ始末。

 

全員が英霊に祈りをささげることができなかった。

 

渋谷駅のハチ公広場も満開の桜に飾られていた
 

 

千鳥ヶ淵の桜
(さすがに都の桜、伊豆の桜も脱帽)
 

九段灯明台
(鬼平こと長谷川平蔵が創設した刑務所の発祥「石川島人足寄場」の収容者の手によって作られた。私が知っていたのはもっと素朴な建造物だったか、いつのまにかお洒落な改装が施されていた。)

「三金会東京支部」集合

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 「古き良き時代」の残影 (三金会雑記105号原稿)

2013年08月25日 | 三金会雑記

8月25日 (日)  

「三金会雑記」の終結がいよいよ直前になった。この次の原稿が最終号となる。1987年に創刊されてから実に26年間、よくぞ続けられたものだと思う。

本日、三金会雑記 105号 秋号 の原稿をword文書で書き上げでメールで編集長に送る。これでひとまず肩の荷が下りる。 


「古き良き時代」の残影

 前号に、後の三金会の成立につながった諸兄の大学時代の写真を載せたら、

2013-9-30 「黄ばんだ古い写真数葉」 (三金会雑記104号原稿)

三金会雑記が廃刊になる前にその種の写真をできるだけ転載しろという要望がいくつか寄せられた。 

 その中にはそれらしい写真を持ってる記憶はあるのだが、今はその後六〇年の間に作られたアルバムの堆積の下に沈んでおり、容易にとりだせないから……という物臭さというか横着な意見もあった。

 なるほど考えてみれば、私自身古いアルバムを取り出すのにはずいぶん苦労しており、これはもっともな意見に思えてきた。

 そこで、せっかく取り出した古いアルバムである。前号に載せた写真だけでなく、三金会に関わる古い写真をスキャナーで取り込み「三金会雑記105五号」に「古き良き時代の残像」と題して原稿とすることにした。

「古きよき時代」? その頃は戦争直後の飢えに象徴される困窮の時代は終っていたとはいえ、はじめの頃はまだまだ貧しい時期だった。「ゲルピン」という言葉が我々の間に行き交っていた時代である。

 しかし、お金はなかったしお腹も減ってはいたが、戦前の重苦しい空気から一挙に解放され、どこからも束縛されない、現在よりはるかに自由な空間があり、そしてなによりも私たちは若かった。なにものにも代えがたい「青春」がそこに息づいていたのである。

 以来、豊かになった高度経済成長期から景気後退期などを経て今日まで、それぞれの人生の歩みに起伏はあったであろうが、あれほど前途を明るくみて各自が自由に振る舞える時代はなかったように思う。だからあえて「古きよき時代」ということにした。

選んだ写真は、写っている全員が「三金会」関係者、もしくは後の「三金会」の仲間が中心になっている写真のみを探して転載した。

 スキャナーを使ってパソコンに取り込む作業をしてみたら意外なことに気付いた。
縦横3㎝くらいの小さな写真をパソコンに取り込み拡大すると、初めて見るようになった写真がいくつかあったことである。こうした
写真を見て、「あれっ そんな写真があったのか」と思う人もいるのではないか。

そんなことで、まずは、レディファーストで、三金会に彩りを添えてくれた女性会員を交えた写真から載せる。

 この写真の後列男性組は、右から平野哲郎、坂口裕英、一人おいて難波直彦、平野重信、一人置いて小野義秀、一人置いて磯野誠四郎、赤野健、それに後一人と後列が並んでおり、前列女性組は右からは塩谷純子、一人置いて貝島マサ子、長谷川素子、船越弘子(後の赤野健夫人)、そしてあと二人(多分女子高生)が並んでいる。18名中11名が三金会関係者である。

悲しことだがこのうち平野哲郎、平野重信、磯野誠四郎、赤野健、同夫人の五人は今は亡い。

故赤野健が格好良くバットを持っていることから察して、おそらくソフトボールかなにかをした後に写した写真だと思われる。 

写真の裏面に1948と鉛筆書きしてあるから時は大学六本松分校教養学部時代である。

その頃は学生運動最盛期で、中村禎里などの共産党分校細胞の連中が眼を光らせていたから、まさか分校の校庭で、男女が集まってソフトボールなどに興じたなど考えられず、どこかのグラウンドを借りるなどの知恵もお金もなかったから、この場所は、当時福岡女專の学生自治会を牛耳っていた塩谷、貝島女史が居るところから察して、どうやら女專の校庭だった可能性が高い。

であるとすれば、この場所は「天神」の須崎、今は福岡の繁華街のど真ん中になっている。

 


 

次は、余人を混じえぬ三金会員だけが顔を並べた写真を何枚か掲げる。

  いつ、どこで写した写真が判然としない。
 ここに写っている二宮清は元三金会会員。「元」というのは「三金会雑記二〇記念号」で水口編集長から「全員出稿」の要請に言を左右して投稿しなかったことから水口の逆鱗に触れ三金会からの除名処分?となったから。
 二代目編集長平野の時に復籍の口添えをしたことがあったが、平野は水口の遺言だからと応じてくれなかった。二宮は北九州大学教授(労働法専攻)でその後も私と付き合いがあったが、七〇歳代に亡くなった。

いつのことだったか、九州の最高峰久住山山頂での写真。難波の妹、岡本夫人がいる。4人とも三金会員。

Picasaを使って画像処理してみたが、これ以上には鮮明にならなかった。 ちょっと人物が識別できないが場所は大学の演習室か。左から平野(哲)、平、青野、田村、大森、小野、藤野、吉増、平野(重)?。全員が三金会員。

 

当時、渡辺通1丁目にあった平の家で、学期末試験の直前に数人集まって俄か勉強をした記憶がある。その時、息抜きと称して勉強そっちのけで将棋を指していた時の写真らしい。

 

就職の求人案内の掲示でもみているのだろうか。我々の卒業時期は旧制大学と新制大学が同時に卒業し「大卒」が倍になるという学制改革の犠牲となった不運の年であり、しかも不景気の時代だったから、就職が大変な時期だった。それにしてはみんな穏やかな顔をしている。

 

大学正門前での写真である。裏面には1953.2 と鉛筆書きしているから卒業間近の写真である。

裏に「下関波止場」とある。微かな記憶によれば、山口県のカルスト台地を見に行く途中ではなかったろうか。

 


最後に、ちょっと艶めくが、大学卒業後の写真である。裏面には1954年クリスマス・イブとあるから、大学を卒業してサラリーマンになるか大学に残るかしていたしていた頃。皆、少し大人っぽくなって、男は背広をきてシャキッと構えている。女性も正装している。

三金会関係者は九名。後にこのうち6人・三組がその後カップルになったのだから真面目な集まりだった。名前を挙げる必要もなかろう。

察するに、その頃はもうそれなりに戦前の生活水準に近づいていたのであろう。

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画「舞踏会の手帳」を連想させるような舞台装置(追憶のなかではシャンデリア輝く豪華な舞踏会場が時を経て訪れてみたら場末のシケたダンス場だった。)だが、その前に飲んだり食ったり、どんな御馳走をたべたか、皆目思い出せない。

こんな集まりをいつも仕切っていたのは平野重信だったから、この集まりもそうだったろう。場所がどこだったかも思い出せない。

 


《 追記 》

三金会雑記の前号「黄ばんだ古い写真数葉」青春を回顧する青野橘君の愛唱歌に触れ「歌詞はほぼ記憶しているが題名は知らない」と記した。

その後、湘南に住む日野麻耶会員が「あの歌の題名は「古い顔」というのですよ」と教えてくれた。
(申し訳ないことに、載せた写真のどこにもダントツの美人だった日野さんが入っていないことに気付いた。一緒に写った写真はないのである。その頃は私など相手にしてくれなかったと思うのは僻みか。)

 早速、調べてみたら、この歌詞はイギリスの随筆家として知られるチャーラス・ラム(1775-1834)の詩を西条八十が訳し戦前の雑誌「キング」に発表したもの、「古い顔」であった。

  原詩は次のようなもの。

 The Old Familiar Faces     Charles Lamb

I have had playmates, I have had companions,
In my days of childhood, in my joyful school-days?
All, all are gone, the old familiar faces.

I have been laughing, I have been carousing,
Drinking late, sitting late, with my bosom cronies?
All, all are gone, the old familiar faces.

I loved a Love once, fairest among women:
Closed are her doors on me, I must not see her?
All, all are gone, the old familiar faces.

I have a friend, a kinder friend has no man:
Like an ingrate, I left my friend abruptly;
Left him, to muse on the old familiar faces.

Ghost-like I paced round the haunts of my childhood,
Earth seem'd a desert I was bound to traverse,
Seeking to find the old familiar faces.

 この西条八十の訳詞に、戦火の下にあった昭和一七年、東北帝大生松島道也が曲をつけ、学生演劇グループの間でひそかに歌われたのが広がったものだとあり、歌詞全文も見つかった。

 〽 子どもの頃に遊んでた 

学生時代に付き合った

いろんな友がいたけれど

皆みんな今はない

 ああ、懐かしい古い顔

 〽 夜遅くまで座り込み

笑って飲んだものだった

あの仲良しの飲み仲間

みんなみんな今はない

ああ懐かしい古い顔

 〽 恋をしたっけ素晴らしい

美人だっけがあの人も

今じゃ会えない人の妻

ああ、懐かしい古い顔

  私の記憶では青野は一番と三番しか歌わなかった。彼は二番の歌詞を知らなかったのだ。もし二番の歌詞を知っていたとしたら、この歌詞こそがあの時代を誰よりも懐かしんでいた彼のことだ。もっともお気に入りの歌詞になっていたことは疑いない。

  なお、この歌詞には、その後に四番、五番と続くのだが、この部分は戦没した友を悼むもので、戦後の歌には相応しくなく、あえて割愛した。

 いずれにせよ、私は青野に代わってこの歌詞を「三金会雑記」を終えるに当たっての「挽歌」に相応しいと私は思っている。

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富士山讃歌

2013年07月01日 | 三金会雑記

7月1日 (月)  

先月22日、ようやく富士山が世界文化遺産に登録され、本日は登録後初めての山開きだという。お天気はいまひとつ冴えないが、登山道には人があふれかえっているに違いない。

これまで居所を転々としてきた割には富士山に縁があった私だが、今にして思えば、若く元気がいいときに一度だけでも富士山頂をきわめておくべきだったとちょぴり残念だ。だが、こう齢を重ねてしまったからにはもう遅い。

ところで、富士山を見たいと思えばいつでも見ることができる恵まれた当地に住んで23年、毎度ながら秀麗な富士の姿には心を癒されている。

カメラを持っておりさえすれば、変わることのない富士の眺めだがついその姿を写して写真にとどめてしまう。

顧みると、当地に来てからこれまでに一体何度富士の姿をカメラで捉えてきたことか。

いつ見てもこれほどまでに人を魅了する山がこれまで世界遺産登録されなかったことに日本人の大多数は疑問に感じていたのではないだろうか。

この半年の間だけとってみても、富士山に触れ写真に写した回数を拾い上げてみたら6度、ブログに取り入れたのは3回もある。

取りあえず、そうした写真を取り出しコラージュしてみた。

2013/1/29  「伊豆長岡の史跡をめぐる」  http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20130131

2012/11/22 「箱根ウオーク」  http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20121123

2013/4/8 「絶景大室山頂上」  http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20130408

2013/3/11 「伊東市ショッピングプラザ デュオ 屋上駐車場から」 


 

美しい富士山の姿を脳裏に描きながらあれこれ考えていたら、かつて「三金会雑記」に書いた記事があったことを思い出した。

パソコンでPDF化された「三金会雑記」の中から探し出したら、今から18年前、当地に住んで5年目になる「三金会雑記32号」に「富士山麓オウム泣く」と題して一文を寄せていた。

オウム真理教事件が世間を騒がせた頃のもので、あまりにも古く、なんとも時代には合わないが、これが私の「富士讃歌」であることは今も変わらない。

PDF文書からテキスト文書に変換するのは簡単なので、これを貼り付けてみた。

 

   富士山麓オウム泣く

一年で最も美しく自然が息づく爽やかな五月だというのに、このところ雨模様の日が多く、農作業ができないまま家に引きこもることが多い。

そのため日頃は余りTVを見ることが少ない私だが、サリン事件をはじめとするオウム真理教が引き起こした一連の事件の報道を、同じことの繰り返しだとブツブツ文句を言いながらも、午前、午後、そして深夜まで、ひっきりなしにチャンネルをあちらこちら変えながら見ることになってしまった。

これは全く奇怪至極な事件で、その規模の大きさ、事件内容の複雑・多様さ、そして事件に登場する人物の異様さなどは劇画そのもので、日本犯罪史上に類をみない妄想軍事集団が引き起こした恐るべき組織犯罪であるようだ。

この不可解な事件によって、これまで刑事法上ほとんど学問的関心を惹くことがなかったといえる内乱罪や破防法などに関する論議が高まることになり、学者諸先生の甲論乙駁、勝手気ままな論議が関係文献の紙数を埋めることになるであろうが、こんな機会だからこそ坂口裕英大先生なども奮起し、「雑記」の中で「女のおっぱい」などと白昼夢みたいなことを言うのはやめにして大いに論陣を張り、法学者としての名を高めて欲しいものだと願っている。

ところで、この事件の主要な舞台は上九一色村である。TV報道では繰り返し繰り返し、この村に存在する一群のサティアンとやらいう怪しげな建物を富士山を背景に映し出している。

そのためか、あの秀麗な富士山が、いつのまにかオウム専用の山であるかのような印象を与えてしまい、なにか禍々しい不吉な山に感じられるようになったのはなんとしたことか。

オウム真理教はあの秀麗な富士山をすっかり貶め汚してしまっているようだ。

この上九一色村だが、この村名は今やオウム真理教によって日本全土に知れ渡ることになった。

だが、実は私個人はこの村を今回の事件で初めて知ったというわけではない。

今から20年も前になるが、甲府に2年間勤務したことがあり、ちょうどその時期、自動車の運転免許を取ったものだから、車を運転することが楽しくて、毎週のように休日には山梨・長野県下の観光地を車で徹底的に走り回ったことがあった。

そうした観光地の中でも、特に富士山を湖面に映す富士五湖は、甲府市から御坂トンネルを抜けるか、精進湖有料道路を通れば、1時間もあれば行き着け、2,3時間のドライブコースとしては絶好のところだった。

そんな富士五湖の中でも本栖湖は大きい方に属し、また東京からもっとも外れたところになるため、観光施設とは無縁で当時は人工の手がほとんど加えられていず、五湖中もっとも水深があるというその青い湖面に、自然のままの素朴な樹林を麓に据えた富士山の姿は私の最もお気に入りのものだった。

その本栖湖付近から広々した朝霧高原にいたる一帯があの上九一色村なのである。

昭和50年の元旦には、その上九一色村の朝霧高原で富士山の麓から立ち昇る初日を拝もうと家族を引き連れ深夜に出かけたことがあった。

前日の大晦日に下見をして、ここぞと決めておいたポイントの高台は漆黒の闇だったが、そこに車を停めて、東方の暗い空を背景に黒々と聳え立つ富士山の影を見ながら日出を待った。

やがて、次第に暁の空が赤みを増し、周囲が徐々に明るくなっていくにつれ富士山の影は刻々とその色彩を変えていき、間もなく裾野近くの稜線から元旦の太陽が真っ赤に燃えて姿を現す。

そして、その太陽がやがて白銀の輝きに変わる頃、雪を頂いた秀麗な富士山の全容が圧倒的な迫力を以てくっきりと浮かび上がってくる。

真冬の高原の早朝だから寒気だけは物凄く、車の暖房がなければとてもおられるものではなかったが、その感動的な一瞬の光景は今でもまざまざと思い出すことができる。

今回の事件は、そうした貴重な思い出のある場所の富士山をすっかり汚してしまったのである。誠に苦々しい限りである。

そんな想いの中で「富士山麓」とか「オウム」とか何気なく口の中で 呟いていたら、ふっと、この言葉、どこかで聞いたことがあるという奇妙な思いにとらわれたのである。

いつだったろうか、どこだったろうか、古い記憶の糸をたどり寄せ、どこか記憶の襞に潜んでいるかもしれないものを探っていたら、ついに思い出したのである。

そうだ、中学時代の数学だ。古い記憶の底から浮かび上がってきた言葉。それは「富士山麓鸚鵡鳴く」。

平方根、そうだ平方根だと思ったら、突如一連の数字の記憶が甦ってきた。

ルート2は「一夜一夜に人みごろ」 √2=1.41421356 、ルート3は「人並みにおごれや」 √3=1.7320508 、そしてルート5とは「富士山麓鸚鵡鳴く」 √5=2.4360679 ではなかったか。

驚くべきことだが、50年以上も前に中学生の頭に叩き込まれた一連の数字、以後は文系に進んだため二度と思い起こす必要もなくまったく忘れていた数字が忽然と頭に浮かんだのである。なんと昔の中学校の詰め込み教育はすごかったんだなァ。

それにしても、これは誠に奇妙な一致だ。まさにXデーまじかの現状は「富士山麓オウム泣く」ではないか。

まさかオウム真理教がルート5を意識してこの土地を選定したわけでもあるまいに……。

世の中には不思議な一致があるものだと仰天する想いだが、このことに気付いていた人、ほかにも誰かいるのだろうか。

 

(注)ここで思い違いがないか念のため検算してみた。ところが「フジサンロクオームナク」2.4360679を2乗してみたら、5の近似値にはならないのである。記憶した文句に間違いはないはずだがと、身近なところにいる理系の元秀才上野君に電話で聞いてみた。
さすがである。「フジ……」の「ジ」は「4」ではなく、「次」つまり「2」だよと。
2.2360679×2.2360679 でなるほど正解となった。暗記用の言葉は正しく記憶していても肝心の数字を誤っていてはどうにもならない。かくて文系頭脳のお粗末さを改めて思い知らされた。


ところで、こんな風に、今はすっかりオウムに汚されてしまった霊峰富士山だが、この機会に私の「富士山讃歌」を書いて、その名誉回復を図ることにしたい。

私と富士山との縁は、九州人にしては特に深いものがあるといっていいであろう。子供の頃年に何回か高台から遠く富士山を望めた東京の荻窪に居たことがあり、20年前には山合から頂上を覗かせた富士をいつも見ることができる甲府市の宿舎に2年間住んだことがあり、そして今は富士を望める伊豆東海岸の高台を永住の地として23年になる。

山梨県から見る富士山を「裏富士」といい、静岡県から見る富士山を「表富士」というようだが、昔からこの両者の間ではどちらがより美しいかもめぐってそれぞれ地元の身贔屓もあって激しく競われている。

江戸時代の酔狂人だった太田蜀山人に有名な狂歌がある。

「裾野より 捲り上げたる富士の山 甲斐で(嗅いで)みるより 駿河(するが) 一番」

だが、これは猥雑な言葉遊びの類で、この美人コンテストの客観的評価ではない。

実際は、駿河からみる「表富士」は、宝永年間の大噴火でできた宝永山がなだらかな稜線の一部をそのでっぱりで崩しており、減点されることは明らかだ。

しかし、同じ「表富士」でも伊豆から眺める富士山となるとこれは文句なく美しい。特に戸田や土肥といった伊豆西海岸からの眺めは駿河湾を隔てて富士山が高々とそびえ、宝永山の隆起は前面にくるから稜線を乱すことなく素晴らしい眺めである。

海岸からでなく高台からの眺めとしては、私は西伊豆スカイラインに入る手前の達磨山レストハウスからの展望を推奨したい。

そこからの富士山は、いつだったかの万博に写真が出品されたとの説明板があり、なるほどさもありなんと納得させられる見事さである。

同じ伊豆でも私の住む東海岸では、いながら富士山を望むことは難しい。しかし、大室山や小室山では頂上だけでなく麓付近でそれなりにかなりの大きさで見ることができる。

我が家から歩いて30分ほどのところにある大室山麓にある駐車場へ向かう坂道を登り切った前面には、おおかたの予想を超える大きさで富士の全容をみることができる。

こうした優美な「表富士」に比べて、山梨県側から見る「裏富士」は山襞が深く切れ込み荒々しく男性的な厳しさを見せているが、こちらを好む人も結構多い。

甲府市街からでは前山の御坂山系が邪魔して頂上付近しか見えないが、河口湖に向かう御坂トンネルを潜り抜けると、暗い視野が俄かに開けて、眼前一杯に広がる河口湖の上に聳え立つ富士の威容に接すると初めての人は必ず感嘆の声を上げる。

また、太宰治の「富士には月見草がよく似合う」という句碑のある旧道の御坂峠から眺める富士山は、朽ちかかった峠の茶屋が廃屋としてその頃は残っており、辺りの鄙びた味わいにマッチする独特の美しさがあった。20年も前のことだから、あの茶屋が現存しているとは思われないが……。

その他には、かつての500円札の裏に印刷されていた三ツ峠山からの富士の姿もよく知られている。いずれにせよ、「裏富士」は野性味を帯びた美しさがその魅力である。

ところで、富士山という山は一年中いつでも見えるというものではない。季節としてよく見えるのは空気がよく澄んでいる冬で、春と秋はよく晴れたさわやかな日、そして夏の間は月に数度、よほど機嫌がいいときに顔を見せる程度で、それも頂上付近に雲がかかって、全身を見せてくれるようなことは少ない。

時間帯でいえば、早朝が最もよく、午後になると雲が出て山頂を隠してしまうことが多い。

そして「表富士」では朝日が白い雪の衣をピンクに染め上げる明け方が絶品で、これは一般に「赤富士」と呼ばれている。

この「赤富士」の現象は「裏富士」では夕日に映える姿となり、韮崎辺りの国道でたまに見かけたが、これもなかなか見応えがあった。

思うに、富士山の知名度はあまりにも高く、そのためその美しさも却って通俗的なものにとられがちである。銭湯の富士山の絵もそうだし、「来てみれば 聞くほどもなし 富士の山 ……」と富士山をコケにする歌があるのもその反映であろうか。

しかし、美しいものはやはり美しいと素直に認めるげきであろう。

日本だけでなく、おそらく世界でもこれほど完璧な美しさを持つ山はないのではなかろうか。

こんな山をこの極東の小さな島国に持てた日本という国は、本当に自然に恵まれた国、オウムの神ならぬ本物の日本古来の神が作りたもうた比類なき山、そして国だとこころから思うのである。

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「黄ばんだ古い写真数葉」 三金会雑記104号原稿

2013年05月30日 | 三金会雑記

5月30日 (木) 

黄ばんだ古い写真数葉

五月に入るや早々に、吉増からいつものハガキが舞い込んだ。例によっての「原稿依頼状」である。 

百号を以て終わるべき「三金会雑記」が、吉増編集長はじめ徳本、植村諸兄の絶大な熱意と尽力によって執筆者が八〇歳をとうに超えたという今になっても、なおかつての元気を失っていないのは、高齢化社会にあっても稀にみる壮挙というべきかもしれない。 

 「原稿依頼状」は、今から二六年前の雑記創刊以来年四回確実に全会員に送られてきた。

 文面はその時々の編集長の感想や思い入れを書き加えて、脅したり、すかしたり、励ましたり、時には煽てたりしながら投稿を促すもので、期せずしてなかなか味があるものが多い。 

 「脅し」とはいささか穏当を欠くが、記憶に残るのは雑記が二〇号に達した記念号に水口編集長の「原稿依頼状」に「会員全員一行なりとも投稿」とあり、これを怠った者は除名処分と脅したことである。そして、これはその後になっても水口の「遺言」とかで、節目となる記念号では踏襲されてきた。 

こんなハガキが来るから、齢とともにとかく怠惰に陥りがちな心を鞭打ち投稿してきたわけで、特に最近は呆けかけた頭を絞ってなんとか駄文を書きあげようと努める仕儀に相成っている。 

かように三金会雑記が欠号なく今日まで継続させる重要な役割を担ったハガキであってみれば、それ自体、雑記の投稿作品にも比されるべきものと思われるのに、これまでどこにも記録されることなく、その督促の用を果たしたあとは捨てられてしまっている。 

 「三金会雑記」の各号巻末には「編集部音信往来」「編集後記」「会計報告」「会員電子メールアドレス」「三金会会員住所録」が載せられているが、「原稿依頼状」は当然ながらそこに載ることはなかった。 

 顧みれば、創刊以来会員だった私はこの種のはがきをこれまで一〇四通も受け取ってきており、吉増が三代目編集長を引き継いだのが平成一三年だから、数えれば現吉増編集長からの「投稿依頼状」は五〇通目のハガキということになる。 

 雑記廃刊も近い時期なので、今回の「原稿依頼状」は記録として「三金会雑記」の残すべきと考え、吉増の了解を得ることなく独断で私の投稿原稿の中に取り入れることにした。

 

 

私はパソコン操作をそれなりに得意としており、プリンターに付属するスキャナーを使いさえすれば、ハガキを画像としてパソコン内に取り込み原稿にすることなどは簡単な作業である。 

◆    ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 そんなことで、スキャナーを使っていたら、ふっと思いついたのが、「三金会」「三金会雑記」に縁のある昔の写真を取り込むことである。 

 「三金会」の成立、「三金会雑記」の刊行の原点となった、もしくはその成立へとつながることになった遡ること六〇余年前の九州大学時代の仲間との交友を偲ぶ写真を取り込み雑記の原稿にすることにした。 

「三金会雑記」が終わりに近いこの時期、最後の機会として、雑記の中に我ら「青春時代」の仲間達、その昔日の面影を画像として載せることを許してもらいたい。 

これはその頃の写真にしてはかなり大判のものである。大学を卒業する間際に写した写真である。 

 長い時を経てかなり黄ばんでいる。おまけに右上には大きな折れ傷もある。 

パソコン・ソフト、Picasa3 を使えば、私であっても補修することは比較的簡単だが、こまめな手作業になりかなりの時間を食うことになる。

原稿の締切日を間近に控え、今となっては到底そんな時間はない。 

 大きな傷があり、色も褪せてセピア色に変わった写真の方がむしろ時代を思わせる写真に相応しいと自分なりに納得してそのまま掲げる。

 

  写真には九名の顔がある。奇しくもここにいる全員が「三金会」会員であり、一人を除いて「三金会雑記」創刊以来の執筆者でもある。(ただ一人平野哲郎が卒業後消息不明となり平成になって再会、遅れて「三金会」に加わった。)

横並びに名前を列記すると、右から大森道信、青野橘、田村茂夫、平知則、藤野房彦、吉増浩、小生、平野重信、平野哲郎の諸君である。

このうち、亡くなったのが青野、田村、平野重、平野哲の四名、残る五名はなんとか生き残り百号を越えた現在に至ってもなお健筆を揮っている。

「三金会雑記」創刊号に執筆した者は全部で一二名であった。そのうち七名がこの写真に居ることを考えると「三金会雑記」はまさしくこの辺りから始まったといえる。

しかし、「三金会雑記」の母胎というからには、ほかにここに加わってしかるべき何人かがいる。

まず、この写真に当然入っているべき岡本均がいない。この時代には通りがかりの人に写真撮影をお願いするなどといった今時の気軽な風習はなかったから、仲間の誰かが写した筈で、それは岡本均だったに違いない。岡本は写真を写したり現像したりする技術をこの頃から身に着けていた。私の記憶によれば、この写真もカメラ屋を煩わしたのではなく、岡本の家で部屋を閉め切り、真っ暗にして二人でネガから拡大して印画紙に焼き付け定着液に浸し作った記憶があるから岡本がこの写真に無縁であったはずはない。

 またここに写っている連中は、みんな大学教養学部の文系に属した者たちである。教養学部時代に群れていた仲間の中で理系だった難波直彦、磯野誠四郎、上野雄三はここにはいない。 

文系の連中はあまり勉強せずに専門学部に移っても相変わらず群れて遊んでいたのに反し、理系は勉強に忙しく実験などに追われていたのであろう。

それに「三金会会員」として重要な地位を占めている坂口裕英、徳本正彦、中村広治もいない。彼らに共通するのはいずれも後に大学教授となっていることだから、多分このときには真面目に図書館などで勉強していたのだと好意的に考えておく。

  写真の裏をひっくり返してみたら「1952.10 九大法文前」と書かれていた。卒業の前年秋口の写真である。写真の裏には、さらに何時ごろ書き入れたのか不明だが、ゲーテのファウストからのフレーズがドイツ語で書き込まれていた。以前ならなんとかドイツ語を読み解くことができたが、今はさっぱり。そこで、やっと探し出した和訳は次のようなものだった。

「君らは楽しかった青春の日を呼び戻し、懐かしい人たちの面影をよみがえらせる。初恋のこと昔の友達のことが、忘れかけた古い物語のように思い出される」

  まさしくこの写真にふさわしい言葉というべきであろう。

◆    ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 ついでに、「三金会」にいまも彩りを添えてくれている女性会員の写った写真もスキャンして取り込むことにした。

これは、前の写真より数年前、我々が教養学部に入学して早々の頃の写真である。

 

 どういう経緯でそうなったか忘れたが、福岡・佐賀県境にある基山へハイキングした時の写真である。

男性群を右からいうと、藤野房彦、赤野健、難波直彦、磯野誠四郎、小生、平野重信、太田(岡本の弟)、平野哲郎、坂本栄佑がいる。太田、坂本を除けば七名が後の「三金会会員」である。

そして女性群では中央に福岡女子専門学校(後の福岡女子大)生だった旧姓塩谷純子、旧姓貝島マサ子、旧姓長谷川素子の三嬢がいる。いずれも現在の「三金会会員」である。

あとは当時まだ幼なかった女子高校生(福岡中央高校・福岡女学院)たちで今は名前を思い出すことができない。

この写真にも岡本均がいない。岡本の弟がいるから一緒のはずだが、これも岡本のカメラによるものだと考えられる。

  このグループがどんな集まりだったのか思い出せないが、坂本栄佑はバイオリンを演奏していたし、太田君はチェロの名手であった。また難波直彦は教養学部時代「音楽鑑賞部」のキャップだった。

 また貝島財閥のお嬢さんだった旧姓貝島さんがその頃珍しい外国製のポータブルの蓄音機を山の上に持ち込みレコードをでかけてみんなで楽しんだ記憶があるから、多分音楽愛好のグループだったかと思われる。

 この写真を見て思うことは、その頃評判になっていた映画「青い山脈」である。それとよく似た青春群像による明るい情景には懐旧の念しきりである。

「青春」という言葉は現在は死語に近いが、男女共学を知らなかった我々世代にとって初めて経験した男女交際の場で、思い起こせばこの日は我らが青春の輝ける一頁をなす日だったのであろう。

 思えば誠によき時代であった。重苦しく暗い戦時を抜け、戦後の窮乏がまだ後を引く時代だったけれど、戦後民主主義の自由を享受した「古きよき時代」 Good old days  Gute alte Zeit であった。 

 この写真にも 「三金会」「三金会雑記」の芽生えを感じる。

  この写真をみると青野橘が愛唱していた歌が思い出される。

 前号で吉増浩が三金会諸兄それぞれの「マイ・ラスト・ソング」を紹介しているが、青野については「歌の席で一緒したことがないので記すべき歌がない」と書いている。福岡と東京の場の違いであろう。

 亡くなった青野と東京で会うことが多かった私は彼が好んで、いや心を籠めて歌っていた歌を今も忘れることができない。

歌詞はほぼ記憶しているが題名はしらない。

〽 子どもの頃に遊んでた 

  学生時代に付き合った

  いろんな友がいたけれど

  皆みんな今はない

  ああ、懐かしい古い顔

 〽 恋をしたっけ素晴らしい

  美人だったあの人も

  今は会われぬ人の妻

  ああ、懐かしい古い顔

 歌詞を再確認し題名を知ろうとインターネットを駆使していろいろと検索してみたが、ついぞ見付からなかった。八〇老が愛唱した化石のような古い歌など現在のネット社会でお呼びでないのは当然かもしれない。

なにはともあれ「三金会雑記」のお蔭で往年の交友が今日まで続いてきたことにはただただ感謝のほかない。

  最後に、その時のスナップをもう一枚。

 右から、お握りを食べているのが旧制塩谷さん(当時は確か福岡女專自治会委員長)、立って歩いているのが難波直彦、オーバーの襟を立て寒そうにしているのが二代目編集長の平野重信、その左隣にいるのがいつもお洒落だった平野哲郎、その隣で手を差し伸べなにか貰おうとしているのが磯野誠四郎(のちに「三金会第一回大会」といわれるようになった広島での初会合に参加した後、間もなく亡くなった。「三金会」「三金会雑記」の成立を知ることはなかったので「準三金会会員」というべきか。)

 みんな明るくのんびりと秋の一日を楽しんでいる。

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酒三題 (「三金会雑記103号」の原稿)

2013年02月19日 | 三金会雑記

    酒三題     

「三金会雑記」前号で坂口が三金会最終総会の後、中洲に流れ、バーで飲んだという「ラム酒」の謎を書いていた。遠いカリブ海に浮かぶアンギラ島特産のラム酒の瓶にどう考えても結びつかない東洋特有の「布袋」印のラベルが貼ってあったというのである。 

過日、坂口との電話の中で、この記事を話題にしたことから、最近の酒事情に話が飛び、近頃私が飲んでいる安い酒のことを話したら、坂口がそれを「三金会雑記」に是非書けという。

電話の中で彼は言う。

「話題といえば、病気の話か女の話か、それに酒の話、せいぜい最近読んだ本の話とか。いや、女の話はもうないな。病気の話は暗いし、三金会雑記に書くには酒が一番だ……」と。

そんなことで、酒に絡む話題を三つほど。いずれも格安酒の話である。

 私が書き続けている『ブログ』からコピーし、それに多少手を加えたものを「三金会雑記」一〇三号の原稿とする。

  カボス焼酎

当地では柑橘類がよく実る。我が家の畑にはスダチとカボスの樹がそれぞれ一本づつ植わっているが、特別の手入れをしなくとも季節がやってくると立派な実を沢山つけてくれる。

スダチもカボスも家庭で使う量などしれているが、人様に差し上げると、とても喜んでくれるので我が畑の産物としてはその価値は高い。

カボスはスダチにくらべて大振りの実である。スダチの方は小振りで見た目には上品、その酢の味もやや穏やかな感じがするから、我が家の料理にはスダチを使うことの方が多く、カボスはこれまであまり利用してはいなかった。

 ところで、私は生来の「酒好き」である。酒ならなんでもよく飲む。この年齢になっても晩酌を欠かしたことはほとんどない。酒が美味しく飲める間は、まあ、健康なんだと勝手に思い込んでいる。 冬は日本酒、夏はビールが定番だが、ワインも飲むし、ウイスキーもたまには飲む。季節や気温、それにその時々の気分、雰囲気などで飲み分けている。

今年は、これに焼酎が加わった。近所の人から「カボス焼酎」なるものを教えてもらい、カボスの絞り汁を焼酎に入れて飲むのがすっかり気に入っている。焼酎は安いし、カボスは無尽蔵とはいわないまでも、ありあまるほどあるからお金はかからない。

カボスは我が郷里「大分」の特産品である。だから焼酎も大分県産の「二階堂」でいくことにした。
オンザロックでよし、水割りでよし、お湯割りでもいい。当地の水道水は天城からのうまさに定評がある湧き水、カボスが黄色に色付くまではこれで楽しめる。

(2009/10/9ブログ「かぼす焼酎を飲む」から)

 ウイスキー「富士山麓」

  「大室高原歩こう会」で富士山麓の紅葉台・三湖台を歩いた後、朝霧高原にあるキリンビールのウイスキー工場に立ち寄った。「歩こう会」ではときどき帰途にビール工場やワイナリーなどに施設見学と称して立ち寄ることがある。

そうした酒の醸造施設では、生産工程など丁寧な解説付きで工場内を案内してもらうが、本当のお目当てはそこの製品を試飲させてもらうことである。試飲といっても飲む量は無制限だし、たまにはオツマミまで付くこともある。

このキリンビールの工場で生産されるウイスキーの銘柄は「富士山麓」という。アルコール度が五〇℃と少し高い。試飲してみたら、程よい味と香りで、ウイスキーを飲むことがあまりない私の好みによく合った。

そこで早速工場構内に設けられてある直売店で二瓶ほど購入した。価格は一本一五〇〇円。直売店だからそこで買うのが一番安かろうと思ったのである。

これを時々飲んでいたら、やがて二本とも空になってしまった。行きつけの酒屋やスーパーなどで買い足そうと出掛けてみたが、あまり知られていない銘柄なのか、店頭には並んでいない。

それならパソコンを使ってオンライン・ショッピングならどうかと思って、ネットショップ「楽天」市場でこの銘柄を探してみた。
すぐ見つかったが、店によって値段はまちまち。しかもどの店も一五〇〇円を下回る値付けである。その中で一番安い店を探したら、なんと価格八一八円(送料別)というのがあった。まとめて三本も買えば送料はいらない。

注文したらすぐ商品が送られてきた。中身は直売店で買ったものとまったく変わらない。それが直売店の値段のほとんど半額に近いとは!

なんだかキリンビールに騙されていたような気色になり、そのためか「富士山麓」の味も今一つという気持ちになった。

やはり、酒の味はその時の気分に左右されるようである。

 (2011/11/16ブログ「西湖湖畔を歩く」より)

韓国焼酎「チャミスル」

韓国ドラマを最初に見たのは「冬のソナタ」だったと思うが、その後、「チャングムの誓い」をTVでみてすっかり主演女優にいかれてしまった。以来、歴史物や現代物の韓国連続ドラマをTVで見続けている。いわゆる「韓国ドラマにはまる」というのは、こういうことをいうのかと、やや自嘲気味だ。

いずれもたいした作品には思えないのだが、総じて一〇〇回を超すような連続ドラマが多く、それが毎回、毎回、次の展開を見たくなるようなところでうまく区切られるので、つい見続けてしまう。 それに登場する女優は日本にくらべて総じて美女が多いようなのも惹かれてしまう理由なのかもしれない。

ところで、こうした韓国ドラマでは、歴史物でも現在物でも、酒を飲む場面が実に多い。ちょっとした集まりはもとより、二人で対話をするときなど、男も女もいつも盃を持っているような趣がある。そしてその酒の中身といえば、どうやら韓国焼酎らしい。

韓国焼酎といえばグリーンの瓶に赤くJINROという字を大きく書いたラベルのものしか知らなかったし、そのJINROも随分前にどこかの韓国料理店で飲んだ記憶がある程度、アルコール度の強い酒という印象で美味しかったという印象はない。

酒好きの私は、好奇心も手伝って国内・国外を問わずいろいろな酒を飲んできたが、お隣の韓国のお酒にはこれまでほとんど縁がなかったようである。

TVでみる韓国ドラマでうまそうに飲んでいる場面を見たことに影響されて、韓国焼酎を飲んでみようと思い立ったのである。とりあえず、スーパーに置いてあった「JINRO」買って飲んでみたが、韓国料理の焼き肉ならあうかもしれないが、家庭で飲むにはおよそ向かない。

だが、TVで見る酒はこんな大瓶ではない。グリーンの瓶で360mlの小瓶である。そこでインターネットでどんな銘柄の韓国焼酎があるか探ってみた。

銘柄は日本酒に比べて、さほど沢山はないように見受けたが、なにより驚いたのは価格である。為替相場で韓国ウオンが下落し日本円の上昇が著しい影響が出ているらしく、無茶苦茶に安い。

なるべくいいものをと探したがどれも大同小異。現在一番人気があるのが「チャミスル」という銘柄のものらしく、「良質の米と麦を主原料に、不純物を取り除く効果に優れた竹炭で三度の濾過を行ったまろやかな味わいの焼酎……シェア五割を誇る韓国ナンバーワン焼酎」という。ソウルでは八〇%の人がこれを飲んでいるといい、アルコール度一九・五度で、JINROの二五度よりも軽く、韓国女性には特に人気があるという。

TVで男女がしばしば飲んでいるのがどうやらこれだと見当をつけた。そこで試しにこれを購入することにした。

比較的重量のある酒類をオンライン.ショッピングする場合、送料が結構かかるので、ある程度纏め買いして送料無料にするのがいい。

届いた「チャスミル」を飲んでみた途端、「これはいかん。私には向かない」と思った。甘味があって女性には向くかもしれないが、私の好みにはおよそ不似合、纏め買いして失敗したと思った。

だが待てよ。ダメでもともとと思い直し、カボス焼酎の例に倣ってカボス汁をたっぷり入れてみたら、なんと、これがなかなかいける酒に変身した。 

酒には、それぞれの人に好みがあるが、このカボス入り韓国焼酎はとても私は気に入った。グラスに氷を入れ、カボス一個分をしっかり絞って入れる。甘さとカボスの酸っぱさが調和して、ちょっとしたお洒落な酒になるのである。

「IKOI農園」にはカボスが沢山成っているので、当分カボスには不自由しない。カボスがいくらでもとれるこの期間、当分この酒で晩酌することにした。

(2012/9/16ブログ「韓国焼酎を飲む」より)

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会員近況だより (「三金会雑記103号」記事)

2013年02月19日 | 三金会雑記

昨年は専ら中国関係の歴史小説を読んでいました。宮城谷昌光、陳舜臣、北方謙三などの文庫本を手当たり次第に読でいました。

それが今年に入って、ちょっとした切っ掛けでガラリと方向転換、立花隆の著作を読むようになりました。これまで読んでいなかった彼の著作の中古品をネット書店「アマゾン」で探し出して読んでいるところです。

そんな本の中の一冊「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」を読んでいたら、その316頁に中村禎里君の「胞衣の生命」(海鳴社 1800円)が紹介されていました。もちろん「面白い本」としてです。

癌を罹患した立花隆はその持ち前の行動力が制約されるからでしょうか、往年の知力に陰りが出たように感じられる昨今ですが、なにしろ「知の巨人」といわれた立花隆です。彼が評価した本なら読むに値すること間違なしでしょう。

一読の価値がありそうだと、インターネットで「中村禎里」を検索してみた。

驚いたことに中村禎里君はこのほかにも沢山の本を書いているのです。インターネットの百科事典ともいうべき「ウイキペディア」にも彼の名前があり、「生物学を中心に社会現象としての科学の在り方を研究。生物学周辺の歴史・民族について多くの著書を著す」とあって20数冊の本が列挙されていました。

中村禎里君は、ストを指導した廉で大学を「放学処分」(彼の説明によると単なる「退学処分」ではなく、学籍抹消という最も重い処分)になった後、長くその消息を知りませんでしたが、昭和が終わる頃になって、筑紫中学同窓生だったという上地君から彼が東京で大学教授をしていると聞いておりました。

その後、平成に入ってから上地君の仲立ちで彼と再会、それがきっかけとなって三金会に入会した次第なので、大学教授時代の彼の活躍振りなど全く知りませんでした。おそらく三金会諸兄姉も同じだと思いましたので、近況に代えて「近況だより」として書き記しました。

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PDFで広がる世界

2012年10月15日 | 三金会雑記

10月15日 (月) 

福岡で行われた「三金会」最後の集まりに出席した際、Mr.NBが作成したという「三金会雑記百号記念 創刊号から百号まで」と印刷してあるCDを貰ってきた。

帰ってからこのCDをパソコンのトレイに入れてみて驚いた。

なんとこれまで刊行された「三金会雑記」の創刊号から100号まで、内容はもとより表紙から末尾の会員名簿に至るまですべてPDF文書化されているではないか。

各号とも100頁を超える冊子だから100冊分といえば千数百頁に及ぶ膨大な記事がこの薄っぺらなCD1枚に収められているとは!

これで、私の書斎の本棚1段をすべて占領していた「三金会雑記」綴りが不要となった。

場所をとらなくなっただけでなく、すべての記事がパソコンの中に取り込まれ、いつでも自由自在にみることができるようになった。

なんともMr.NBは凄いことをやってくれたものだ。如何に理系の元大学教授だとはいえ80歳を超えて自力でこれだけのCDを作ることができたとは、全く脱帽である。

早速、このCDの内容をパソコンにコピーして、いちいちCDの出し入れをせずとも簡単に見れるようにしたが、「検索」機能を使って 適当なキーワードとなる文字を入力すれば、その文字を含む頁が表示され、その文字の部分がハイライトされる。

例えば、自分の名前を入力すると、自分が書いた文章はもとよりその冊子中に自分の名前がどこかにあればそこに移行する。なんとも便利である。

帰ってから聞いてみたら、求めに応じてこのCDは10枚が会員に配られたという。30名だとすると1/3が一応パソコンを使える人だということになる。

しかし、なにしろ80歳を超える会員たちである。CDを貰いはしたが、PDFを果たしてつかいこなせるか、どうか。Mr.NBの製作努力が充分に報いられるかどうか心配になった。

これまで三金会旅行の際に写した写真をまとめたCDを時々貰っていたが、画像のCDをみるのとはちょっとわけが違う。

そこで、Skype仲間のMr.UT、Mrs.FN、Mrs.HRにPDFの扱い方をSkypeで伝授することにした。

 

ところで、PDFを使ったこのCDを貰い、膨大な文章の中から見たいと思う記事を選び出して読めるという便利さに魅了されて、よしこの機会にPDFファイルの扱い方を勉強しようと思い立った。

まず、やってみようと思ったのは、「三金会雑記」100冊の中で自分が書いた記事や関係する記事だけを選び出し、これを自分の個人用として一枚のCDに収めることだった。

PDFファイルの中の必要な頁だけを抜き取り、別のPDFファイルにする方法がフリーソフトで可能かどうか調べてみた。

すぐにSEPPDFというソフトが見付かった。このフリーソフトをインターネットでダウンロードしてパソコンにインストールしたら、扱い方は至極簡単。ファイルをドラッグアンドドロップし、必要とする頁数を入力すれば瞬時に新しいPDFファイルが別に作られる。

これでその頁を読むことは簡単になったが、このソフトでは各頁が別ファイルになっているので読むにはいちいちクリックしなければならない不便さがある。

そこで、このバラバラの頁になったファイルを更に一つのファイルの結合する作業ができるソフトを探してみた。

これも簡単に手に入った。PDFCというフリーソフトである。このソフトは結合したいPDFファイルをドラッグアンドドロップで簡単に一つのファイルにすることができる。

思ったより簡単に使い勝手のいいフリーソフトが手に入り、極めて満足だった。

ただ、なにしろ量が量だけに、自分好みの個人的な「三金会雑記」を作り上げるのには数日かかった。自分が新たに作成したPDFはエクセルで作った新しい文書の目次をPDF文書化するだけであったが……。

 

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国際比較にみる「日本国」   オリンピック・メダル数からの連想

2012年08月23日 | 三金会雑記

「三金会雑記」101号の原稿素案

 (月末の原稿締切日までまだ間があるが、早めに原稿の素案となるものを書いておく。100号で廃刊の予定がどれだけ延びるのか?101号が最後になるかもしれないが、終わりだけは全うしたい。)

 

国際比較にみる「日本国」      ━ オリンピック・メダル数からの連想 ━

オリンピックは、本来、優れたアスリートたちが世界の舞台で競う「スポーツの祭典」の筈である。だが、TVでロンドン・オリンピックの様子を見ていると、日本人選手の活躍には熱狂するが、日本人選手が出場しないような競技への関心は甚だ薄いように見受けられる。

もちろん私もそうした一人で、個々の選手の勝敗もさることながら、日本国を応援しているといった感じが強く、日本の選手が獲得するメダルの数が最大の関心事で、日頃あまり意識していない「愛国心」みたいなものがそこにあることを自覚する。

今回のロンドン・オリンピックは、参加国204ヶ国(まだ「国」とみとめられていない地域を含む)、1万を超す選手が訪れた過去最大の大会になったというが、日本のメダル獲得数は史上最多の38個、国別では6位となった。

このメダル数が日本の「国力」に見合うものであるかどうかは別にして、スポーツという文化面における日本の国際順位を示しているということはできるであろう。

そんなことを考えていたら、そもそもオリンピックに参加している「国」とはなんなのか、そして世界にあまたある国々の中で「日本国」はどのような位置を占めているのかといったことを知りたくなり、色々な面での所謂「国際比較」を調べてみることになった。

「国家」を定義付ければ、「領土と国民を持つ政治的共同体」ということになる。もっとも実際面では国際連合への参加の有無や参加のしかた、または他国が「国」として承認しているかなど複雑な問題も絡んでくるようだが、「国連参加国」ということでいえば世界に195ヶ国ある。

そこで、これらの国について最初にその構成要素である「領土」と「国民」を調べてみた。

領土

まず国土=領土について。

領土といえば、国が色分けされている見慣れた世界地図が念頭に浮かぶ。

中央の左上部を大きく占めているのがロシアである。ロシアは世界で最大の面積を持つ国で世界陸地の11.5%(1,709万㎢)を占めている。

2位になるのがカナダで6.7%(998万㎢)、3位が中国とアメリカでともに6.5%(963万㎢)、5位ブラジル5.7%(851万㎢)、6位オーストラリア5.2%(769万㎢)で、ここまでが「ビッグ・シックス」。7位のインド2.3%(328万㎢)との差はかなり大きい。
8位はアルゼンチン、9位はカザフスタン、その後には我々にはあまり馴染みのないアルジェリア、コンゴ、グリーンランド、サウジアラビアなどが続く。

そして、日本はといえば、なんと62位、世界陸地の僅か0.25%(37万㎢)を占める極東の小さな島国である。地図で見る限りなんとも心細い存在に見える。

下をみればきりがない。日本より小さな国はその後にずらりと並んでいる。

世界の最小国は「バチカン市国」(「バチカン」ではなく、これが正式名称)で0.00001%、国土はないに等しい。ただバチカン市国は国連参加国だが総会の投票権を放棄した特別な国なので、モナコの0.01%が最小国ということになる。

だが、陸地面積の広狭だけで、国土の大きさを見るべきではあるまい。

人が住めず資源も利用できない炎熱の砂漠や氷に閉ざされた極寒地の広さは、むしろ国の発展に障害にさえなる。

そんなことも考えて、国が支配する領域の広さについてもう少し調べてみた。

領海・排他的経済水域

日本は四囲をすべて海に取り囲まれた「海洋国家」である。ではどのくらい海に面しているのだろうか。「国の海岸線の長さ順リスト」というのがある。

これによると、1位はカナダ(20.2万㎞)、2位がノールウエイ(8.3万㎞)、3位インドネシア(5.4万㎞)、4位ロシア(3.7万㎞)、5位フイリッピン(3.6万㎞)と続き、日本が6位(2.9万㎞)で上位に顏を出す。日本に次ぐのが7位オーストラリア(2.5万㎞)、8位アメリカ(1.9万㎞)、9位ニュージーランド(1.5万㎞)、10位ギリシャ(1.4万㎞)とくる。

海岸線が長いからといってどうということはないのでは、と思ったが、これが陸地の「領土」に並ぶ「領海」に関連するだけでなく、「排他的経済水域」という重要な面積を決めるものとなる。排他的経済水域とはその国が優先的に資源利用・開発ができる海域のことである。

では「世界の排他的経済水域面積(領海を含む)ランキング」をみてみよう。

1位はアメリカ(762万㎢)、2位オーストラリア(701万㎢)、3位インドネシア(541万㎢)、4位ニュージーランド(483万㎢)、5位カナダ(470万㎢)、6位になんと日本(447万㎢)が来る。日本の後は7位ロシア、8位ブラジル、9位メキシコと続く。

排他的経済水域の面積でみると日本は国土の12倍の広さを持つ大国ということになる。


人口

国が支配する領域の面積より遥かに重要な国家の構成要素はいうまでもなく国民の数、つまり人口である。

世界で最大の人口を有する国は中国である。13億4,800万人。2位はインドの12億2,200万人で、この2国が桁違いの多さである。

3位はアメリカの3億1,300万人、4位インドネシア2億4,100万人、5位ブラジル1億9,500万人、6位パキスタン1億7,500万人、7位バンクラディッシュ1億6,600万人、8位ナイジェリア1億6.000万人、9位ロシア1億4,200万人、そして10位が日本の1億2,800万人である。

なお、パキスタンとバングラディッシュは第二次世界大戦前まではインドとされていたが、戦後に分離独立しており、これを加えるならインド大陸の人口は15億5,500万人近くに達し中国を凌ぐ大人口になる。

 

 

国連参加国195に「地域」を含め、単位として億で数える国が日本を含めて11ヶ国、5,000万を超える国が13ヶ国、1,000万以上が79ヶ国、100万以上が51ヶ国で、その余が100万以下の国・地域である。(日本の県別人口をみると大半は100万を超えている。)

一方では億で数える国もあれば、万にも満たない国もある。それぞれが一国を構え、国連総会でも1票を投ずることができるというのもなんだか奇異な感じがしないでもない。

ちなみに、国連参加国でもっとも人口が少ない国はバチカン市国で800人だがこれは例外として、人口の少ない国は、ツバル1万人とナウル1万人である。

この両国は人口が少ないというだけでなく、変なことで世界の話題になっている著名国である。

ツバル国は太平洋に浮かぶ島で最大海抜5m、平均2mという低い国土のため地球温暖化による海面上昇で国そのものが水没し消滅する危機に曝されている。

また、ナウル国は全土がリン鉱石で覆われた島で、独立後その採掘による収益だけで一人当たり国民所得が世界2位、高福祉の国というときもあったが、今世紀に入り採掘資源が枯渇してからは国家財政は破綻状態にある。

それはさておき、世界の国別人口の多寡でみると、なんと日本という国は「先進国」の中ではアメリカに次ぐ第の人口大国だという事実には改めて驚かされる。

GDP

では、日本の経済規模を他国と比較してみよう。

経済規模の一応の指標とされるのはGDP(Gross Domestic Product)=国内総生産である。

国内で新たに生産されたモノやサービスの付加価値の1年間の合計額のことである。

これは日本の経済力として国民のほとんどが知っていることだが、2011年では、ランキング1位がアメリカで14.7兆ドル、2位が中国で5.9兆ドル、日本が5.5兆ドルで、2010年の2位から中国に越され3位になった。

4位はドイツ3.3兆ドル、5位フランス2.6兆ドル、6位イギリス2.2兆ドルと先進各国が続くが日本との間にある差にはかなりの開きがあり、なんといっても日本は依然として「経済大国」の名を恥ずかしめていない。

 

次にGDPを人口で割った「国民一人当たりのGDP」でみると、日本は45,920ドルで世界ランキングでは18位と低くなる。

しかし、日本より上位を占める国々の多くは人口1,000万を大きく下回る小国々(1位ルクセンブルグ、2位カタール、3位ノルウェイ、4位スイス、5位アラブ首長国連合)で、人口1,000万を超える国と言えば、6位のオーストラリア65,477ドル、9位のカナダ50,435ドル、14位のアメリカ48,386ドル、そして18位の日本45,920ドル。その次19位にくるのがフランス44,008ドル、20位ドイツ43,741ドル、22位イギリス38,592ドルと先進国が並ぶ。

なお、1,000ドルを切り貧困に喘ぐ国のほとんどはアフリカにあり、なかでも最貧国はコンゴ215ドルだという。

 

包括的富

ところで、これまで経済的指標とされてきたGDPだけでは、国の豊かさを本当に測ることができるか、という問題がある。

GDPとは1年間に国が産出した経済的な富である。1年と期間が限られているだけでなく、その富も経済だけに限定している。

しかし、「国家の富」とは、年間の所得(フロー)だけでなく、それまで蓄積してきた富(ストック)を含め、その国が持つ様々の物的・人的・自然的資産の総体でみるべきであろう。

 そうした考えから、国連は今年になってケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタ教授の理論を踏まえ「包括的な富 inclusive wealth」という概念を設け、世界の主要な20ヶ国が保有する資産を自然資本、人的資本、物的資本の別に評価・集計してバランスシート化したものを発表している。

Inclusive Wealth Report 2012 と題した337頁に及ぶ膨大な英文のレポートで、私にはこれを読み解く能力も根気もないが、その中からおいしそうなところだけを拾ってみる。

「包括的な富」に含まれる「物的資本」とは、生産された資本、すなわち機械、建物、インフラなど、「人的資源」とは人口の教育や技能の程度などを平均教育期間や労働者の賃金、稼働年数などからから算出したもの、そして「自然資本」とは土地、森林、化石燃料、鉱物などであるが、このレポートによると、2008年のアメリカの富は118兆ドルとなり世界のトップ、しかし国民一人当たりの富としては日本がトップでアメリカを凌いでいる。

また、GDPで日本は中国に追い越されたが、日本の「包括的富」は2008年でみると中国の2.8倍になっているという。

「資産」の中で最大のものは「人的資源」で、イギリスの富の88%、アメリカの富では75%を占める大きさだが、日本の人的資本は他のどの国よりも大きい。勤勉で教育水準の高い人材に恵まれている日本ならでのことである。

また、1990年から2008年までに「自然資本」を消耗させなかった国は20ヶ国中日本を含め僅か3ヶ国だともいう。日本は自然資源を大切の扱っている日本であるらしい。

なんとも嬉しくなるような国連レポートである。

 

平和度

ところで、人間は富や経済だけで生きるわけではない。国民が安心して安全に暮らしていけることが大切である。

このことをすっきりした数字で示すことは難しいが、一つの目安として国際研究機関「経済・平和研究所」が発表する「世界平和度指数」というのがある。

評価の基準は、殺人事件や暴力犯罪の数、受刑者数、戦争や内戦の有無、軍事費、軍人数、難民数などの数字をはじめ、政治情勢、隣接国との関係、テロ活動の潜在的可能性、兵器の輸出入量、武器の入手しやすさ、国連介入度など、多岐にわたる項目を計数化している。

2012年では、1位はアイスランド、2位がデンマークとニュージーランド、4位がカナダ、そして5位が日本である。

上位に来る国々の多くは、島国、半島国などで地政学的条件が有利に働く規模の小さい国で、日本もその例外ではない。

先進国ではドイツの15位、イギリスの29位、フランスの40位などが目につく。

規模が巨大な大国は順位が低くなる傾向があるようで、アメリカは88位、中国89位、ロシア153位といったところ。

最悪の国がソマリア、そしてアフガニスタン、スーダンだというが昨今のニュースで知り得た情報などからこれは納得できる。

なお、この評価項目に風水害、地震などの自然災害は含まれていないが、これを評価基準に加えれば「災害大国日本」はその順位をかなり落とすことになるかもしれない。

 

悲惨度

これとは別に、国の住みやすさについて、古くから言われているものがある。「ミゼラブル指数」という。これは極めて単純な計算で求められる。失業率と消費者物価指数(CPI)を合計した数値である。

人間生活の不幸の度合い=悲惨度を示すといい、これが20%を超えると政変・暴動など統治に変動をきたすと言われているとか。

日本の失業率は先進各国のなかでも低く、しかも安定した水準を維持していている。2011年10月時点の主要国失業率をワースト順に並べると、フランス9.1%、アメリカ8.6%、イタリア8.3%、イギリス8.3%、ロシア6.1%、ドイツ5.8%となっており、日本は4.5%である。

また、先進国共通の悩みである「若年層の失業率」をみても日本は25~34歳が7.8%なのに対し、先に挙げた国々は軒並み10~20%台となっている。

 一方、消費者物価指数(物価の変動を表す指数CPI)についてはインフレ懸念を強めている世界各国と違って日本ではデフレ状態に陥っており、消費者物価指数は上昇よりむしろ下落傾向を深刻な問題としてとらえている。

ミゼラブル指数の是非はともかくとして、この数字で見る限りでは、日本は「悲惨」状態からはもっとも遠い。

 

平均寿命

経済にも安全にも恵まれた国だからであろうか、日本に住む人間の寿命も長くなる傾向にある。

次に世界の平均寿命を見てみよう。

2010年で世界の国別平均寿命をみると、男女平均で83.6歳、世界1位である。

しかし、2011年の日本人の平均寿命は、男性79.44歳、女性が85.9歳で、それまで毎年記録を更新し続けてきた日本だが、東日本大震災の被災の影響で前年から伸び率が少し縮小している。

 

先進国の平均寿命は概ね80歳を超えているが、アメリカは79歳、中国は74歳となっている。

最も平均寿命が短い国がマラウイで47歳。世界の平均寿命の中央値は72歳、平均値は68歳だという。

だが、この「長寿国日本」に全く問題がないわけではない。「平均寿命」から日常的に介護を必要とし自立できない生存期間を引いたWHOがいうところの「健康寿命」が短くなっているのである。

2004年にWHOの保健レポートでは、日本人の健康寿命は75歳で世界1位であった。しかし、今年になって厚生労働省は日本人の「健康寿命」は男性70.42歳、女性73.62歳と公表した。これは10年近く前に比べて随分短くなっている。

寝たきりでいたずらに寿命だけが延びる「長寿地獄」という言葉さえ連想させる「平均寿命」の延伸なら好ましいものではないであろう。

この点について厚生労働省はWHOの「健康寿命」の定義と今回の定義の違いからきた差だといっているのだが、果たしてそれだけか……。

これは全くの余談ながら、健康寿命に関する厚生労働省の県別調査では、私の住む「静岡県」は男性で2位の71.68歳、女性は75.32歳1位だとある。

私はそんな年齢はとうに過ぎているが、これをもたらしたものが、肥満者割合の少なさ5位、一日に歩く歩数男10位・女5位、食材の豊富さ・温暖な気候・きれいな空気・温泉・緑茶の産地など高齢者の健康にとっての好条件が揃っていいるとの指摘もあり、個人的に嬉しいことである。

 

幸福度

GDPに対してGNH( Gross National Happiness )=国民総幸福量ということが言われるようになったのは、物質的・経済的豊かさでなく、精神的豊かさを国家目標に掲げた20世紀末のブータンから始まったという。

ブータンは貧しい国だが自給自足を中心とした生活や地域のつながりの中で、国民がもっとも幸せを感じる国になることを目指しているという。(最近は商品経済の急速な流入により国民の価値観に変化が生じ、情況が少しかわりつつあるともいう。)

このGNHに刺激されて国の「幸福度」を指数化して国際比較をしようという動きがある。(イギリスの保護団体によるHPI(地球幸福度 happy planet index)など)

経済開発機構OECDは自分の生活の満足度を示す「よりよい暮らしの指標( Your Better Life Index )」なるものを作り、客観的な数字とともに主観的な数字「どう感じているか」「満足しているか」などで評価し国際比較を行うことを昨年から始めている。

これによるとOECD加盟国36ヶ国のなかで日本は21位と低い。1位はオーストラリア、2位がノールウエイ、3位はアメリカだという。

評価の具体的項目は11項目、「住居」「収入」「雇用」「共同体」「教育」「環境」「ガバナンス」「医療」「生活満足度」「安全」「仕事と生活の両立」で、これを10点満点で評価するのだが、日本は客観的な項目では、例えば「安全」が9.9点で1位、「教育」が8.8点で2位となるなど高得点だが、主観的な項目の得点が総じて低い。「生活満足度」も27位と低水準だった。

最も評価が低かったのが「仕事と生活の両立」3.0点で34位と最下位に近い。これは「労働」を日本人がどう考えているかということにも関係があるだろう。

主観的項目は、その人の感じ方や知識、その人が持つ価値観などにも影響されるから、これを数値に置き換えて比較するには少し無理があるのかもしれない。

しかし、「生活の豊かさ」を経済的・物質的とは違った面で考えることは意味あることである。

 

ついでに「国旗」「国歌」

こうやって、他国と比べて日本という国をみてみると、日本はまことに素晴らしい国だと思う。

そして、この国を象徴するのが「国旗」であり、「国歌」である。この国に属している国民なら国旗や国歌にしかるべき敬意を払うのは当然であろう。

しかるに、敬意を表そうとしない輩が少なからず国内に居るというのは一体どういうことだろうか。そんな輩は日本から出て行ってもらいたいものだ。

今回のオリンピックでは、表彰台上方に掲げられた「日の丸」や応援団が振り回す「日の丸」をたっぷり見させてもらったが、この旗のデザインはシンプルだがとてもいいものであることを再確認した。万国旗の中でも一際目立つのは贔屓目だからではあるまい。

 我々が呼び慣れている「日の丸」は俗称で、正式には「日章旗」という。日の丸から赤い光線が四方に伸びる「旭日旗」は「日章旗」ではない。

ところで一「国歌」とされているのは「君が代」であるが、正直なところ「君が代」の方はあまり私の好みとはいえない。

まず「歌詞」である。「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というのは難しすぎる。

この歌の由来は「古今和歌集」に収録された和歌である。この和歌は「動きなく 常盤かきには かぎりもあらじ」と続くのだが、こうなるといよいよ難しい。

また、その意味する内容も果たして現代日本に相応しいものなのかどうか?それにメロディだって、なんだかかったるく斉唱し難い。

サッカー試合の前に「君が代」が演奏されるが、日本人選手の多くは微かに唇を動かすだけで本気で歌っているようにもみえないのだが……。

だが、これは全く私の個人的な感想なのかもしれない。

幼少期を戦時で過ごした我々世代は、特に「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ 死なめ 顧みはせじ」と歌わされていたことも重なって、深層心理に刻み込まれた痛みが蘇り、この歌を好ませないのかもしれない。

しかし、翻って考えると、「国歌」なんて、どこの国でも多かれ少なかれそんなものなのかもしれない。気分を高揚させ愛国心を掻きたてるようなものばかりではなさそうである。

私は他国の国歌などほとんど知らない。どこかで聞いた程度のものといえば、フランス、イギリス、アメリカ、ドイツくらいのものだろうか。

フランス国歌は「ラ・マルセーズ」。映画などでこの歌が愛国的に歌われる場面に接するとなんだか感動的な国歌のように思える。(バーグマンが主演する「カサブランカ」にそんな画面があった。)

だが、調べてみるとこの歌は7節まであって、そのすべての節に凄まじい血なまぐさい残酷な言葉が綴られている。「血塗られた旗」「くびきに繋がれた我らの首」「首を斬りにやってくる」などなど。

もともとが革命軍の行進曲だったのだが、現在のフランス人はどんな思い入れでこの国歌を歌っているのだろうか。

イギリスの国歌「ゴッド セーブ ザ・クイーン」の出だしは悪くないと思っていたが、これは6節まであって内容は必ずしも優雅なものではない。やはり戦いの行進曲で結構猛々しい。特に6節には「スコットランド人をやっつけろ」とある。スコットランドの人はどう思っているのだろうか?

アメリカ国歌「星条旗 Star-Spangled Banner」はメロディが軽快で、いい歌だと思っていたが、これはもともと酒場で愛唱されたものとかで、4節まである歌詞にはやはり戦いがからんでいる。

戦時中枢軸同盟国だったドイツの国歌「ドイチュランド」はよく聞く機会があった。

ハイドンの作曲とかで曲は素晴らしく、「ドイツよ ドイツよ 世界に冠たる (ユーバー アレス)」という歌詞は恰好いいなと思っていたが、現在のドイツでは、ナチスを連想させる「世界に冠たる」の1節は歌われず、3節の歌詞だけで歌われるそうである。

これにしても2節の歌詞にある「ドイツの酒よ ドイツの女よ ドイツの歌よ」とくるとご愛嬌というか酒場歌のような親しみを感じる。

最近新しく建国された国の国歌は別にして、歴史ある国の国歌というのは古くから国民に愛され親しまれてきたという経緯があるから、その歌詞が必ずしも現代になじまなくても、今更目くじらを立てて、あれこれあげつらう必要はないのかもしれない。

最後に蛇足ながら「「日の丸」を国旗に、「君が代」を国歌に指定した法的根拠を調べてみた。

これは意外に新しく、平成11年「国旗及び国歌に関する法律」で定めていた。その条文は僅か2ヶ条、「1条 国旗は、日章旗とする」「2条 国歌は、君が代とする」とあるだけである。

それなら、これまで使ってきた「日の丸」や「君が代」は一体なんだったのだろう。単なる慣習に過ぎなかったのか?

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「三金会雑記」、なお続く?

2012年08月05日 | 三金会雑記

8月5日 (日) 

念願だった「三金会雑記100号百号記念特集」が無事刊行されたが、これを以てめでたく廃刊ではなく、吉増編集長から「あと数回は印刷予算があるので……」ということで、「101号」の原稿を書かねばならないことになった。

さてさて、なにを書こうかしら、猛暑の時期だから書斎に籠ることが多いので、なんとかそれなりのテーマを見付けることはできようが……。

ところで、原稿催促の手紙と一緒に地元の西日本新聞が「雑記100号」発行を珍しい「老人パワー」として取り上げたとしてその新聞記事のコピーを送ってきたので掲げる。

 

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「三金会雑記」百号記念特集

2012年06月18日 | 三金会雑記

6月18日 (月) 

「三金会雑記」百号記念特集が手元に届く。生存会員31名、物故会員の夫人も加えほぼ全員が投稿しており全117頁。

25年間続いた季刊誌がついに完結。ついにやったかというのが実感。

だが、この号に載せられた記事を見る限り百号をもって完結するといった気配はどこにもなく、これからも続ける意気込みが読み取れる。

これまでの話し合いでは「百号まで」と理解していたが、私のはやとちりで「百号までは(頑張る)」ということであったらしく、百号は一つの区切りで以後もできるだけ続けるということのようだ。

吉増編集長以下執行部が健在な限り「三金会雑記」は続くことになる。

「編集後記」によると「百一号からも変わることなく無事是名馬の気持ちでゆっくり行きましょう」とある。

 

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「三金会雑記」に代わるもの(100号の原稿)

2012年06月01日 | 三金会雑記

6月1日 (金)   

三金会雑記百号記念の原稿


「三金会雑記」がこの百号を以て完結する。長い間、年に4回書き続けてきた私の原稿もこれが最後となる。

「三金会雑記」を百号以降も続けようという意見も一部にあるようだが、なにしろ全員が80歳を超えた。
続けるとしてもこれまでと同じようなスタイルとはいくまい。会員の近況などを伝える「情報紙」程度の軽いものになるのではなかろうか?
名残惜しいが、ここらあたりが本格的?な「三金会雑記」の打ち切り時なのかもしれない。

 昭和62年4月に始まって以来、実に25年間、3人の編集長交代があったにもかかわらず、季刊の雑記そのものは一度も途切れることなく今日に至ったことは、誰もが予測だにしなかった快挙である。その内容は別にしても同人誌百号は稀有のものと評価していいであろう。(cf.三金会雑記90号「『三金会雑記』創刊の頃」)

http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20091119

そのほとんどの号に、私は長いものもあれば短いものもあったが、曲がりなりに原稿を書いてきたから、定期のパソコンによる原稿書きはいつしか習慣としてしっかりと身に付いてしまった。
だから、それが無くなるということには、ある種の虚脱感というか、気持ちにぽっかり穴があいたような切ない気がしないでもない。

 「老年期」は「喪失の時代」だと言った人がいる。老いるということは、それまで自分を作り上げてきたもの、自分と共にあったもの、身近に存在したものがつぎつぎと失われていく時代だというが、まさしくそうだと思う。

失われてゆくものを止める手立てはないが、その喪失をなにか新しい別のもので補うことによって、少しでも遅らせることは、高齢化社会を生きる上での知恵なのかもしれない。

「三金会雑記」原稿執筆の作業がなくなれば、これに代わるなにかを見付け出して新たに取り組むことが望まれる。とはいえ、これまで経験したことのないようなものに挑戦するには余りにも歳をとり過ぎている。

徐々に衰え行く肉体的・精神的条件に合わせて可能なもの、いわば年齢相応「身の丈」にあったものを探すとすれば、それまで自分がやってきたこととは違うところにある筈はなく、あくまで自分がやってきたものの広がり乃至その延長線上に求めねばなるまい。

 いまから22年前に、ここ伊豆高原を永住の地と定めたとき、私はここでそれまでの生活をがらりと変え、新しい老後生活を構築しようと、おおむね三つの領域での活動を考え、残された時間を使うことにした。そしてその考えは今も変わっていない。(cf.三金会雑記85号「園芸・パソコン・散歩」)

http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20080825

その第一の領域というのは、それまで馴染んでいた都会の雑踏・騒音から逃れ、この恵まれた自然環境を存分に堪能しようと伊豆半島を中心にできるだけ歩き回ることだった。

手軽には「散歩」だが、すこし足を伸ばしての「ウオーキング」「ハイキング」、ややハードな「歩き」となれば「トレッキング」ということになる。(cf.三金会雑記95号「伊豆半島の自然」) 

http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20110215

だが、この領域ではそこまでが限度、それ以上のものを求めることはできない。

「走り」(ジョギング・ランニング)や「山登り」(クライミング」)を加えるなど論外だし、歩く範囲を広げて伊豆半島から隣県に及ぼすことも考えられない。むしろ足腰の弱まりを思えば、縮小することの方が現実的な考えかもしれない。(cf.三金会雑記98号「変形性股関節症の克服」)

 http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20111202

第二の領域としたのが「園芸」作業である。

自然に親しみ土を弄って植物を育てることなど、私にとって全くの未経験の領域だったが、始めてみたら私の性にあったらしく、とても面白く、おおいに楽しんできた。

晴れの日は「外を歩く」のでなければ「畑に出ての農作業」で過ごすことがおおかったのである。

 しかし、この領域もやがて加齢による体力の弱まりを自覚しはじめてからは、130坪の畑地の管理に手が回りかね、いつまでもこんな園芸作業は続けられないぞと思うようになり、一時は中断・挫折の危機にあった。

しかし、独力で頑張っていた農場管理を、ご近所で知り合ったまだ元気一杯の前期高齢者3人の参加を得て共同管理するようになり、4人の頭文字をとって「IKOI農園」と名付けての新規の取り組みは大成功、労力負担は大幅に軽減したし、また、共同でする農作業の楽しさ、収穫祭の盛り上がりなど、今まで以上に園芸の楽しみを満喫している。

足腰が極端に弱まらない限りこの分野では現状維持ということになる。(cf.三金会雑記89号「我が家の『農政改革』」)

 http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/m/200908

そして、第三の領域がパソコンである。

パソコンとの出会いは50歳代という極めて早い時期だったから、こればかりは退職後に取り入れた新しい趣味ではない。

随分長い間慣れ親しんできているから、その操作の習熟はもちろん、かなりの関連知識も積み上げられてきている。(cf.三金会雑記76号「生活必需品となったパソコン」)

とはいえパソコン界の発展は目覚ましい。驚異的な速さで次々と新しいものが開発され、古い知識はすぐ陳腐化される。

自分好みの分野だけに限っても、その発達に頭の弱った高齢者が付いていくのは容易ではない。

私がパソコンを始めた頃はもちろんインターネットなどは全く存在しなかった。

パソコン単体で機能するワープロ、表計算、画像処理、音楽演奏などが主な使い道だったが、いまでは、そんな機能は基礎知識として、パソコンの大部分の機能はインターネットを通じて行われている。
 「三金会雑記」の原稿はパソコンのワードソフトを使って書いてきたが、出来上がった原稿を編集長へ送るのは郵送ではなく、瞬時に送ることができるパソコンのメール機能を使っている。

いずれにせよ「三金会雑記」の執筆を粗稿からはじめ、プリントアウトして加筆修正し、成案となったものをメールで編集長に送るまでの作業は、私のパソコン生活のなかでも重要な地位を占めていたことを考え合わせると、結局、「三金会雑記」の喪失を補えるものはパソコン世界の中にしか求められない。

それを代替しようというのであるから、簡単なものであってはいけない、相当に歯ごたえのある重いタスクへの挑戦となるものでなければなるまい。 

そういうことで、辿り着いたのが「ホームページ」作りである。

ホームページとは、簡単に言えばインターネットで世界に繋がっているシステム(world wide web)に自分が作ったウエブサイトを置いて、誰でもインターネットを通じて閲覧することができるものである。

しかし、私が作ろうというホームページは、ウエブを通じて世の中になんらかの価値ある情報を伝えたり、意見を発信するといった大それたものではなく、専ら個人用のもの。
ホームページが持つ機能を利用してこれまで長年にわたってパソコンに取り込んできた各種の情報を取りまとめて体系的に整理し、いつでも随時、たやすく引き出すことができる仕組みを自分限りの仕様で作ろうというものである。

 ホームページはリンク機能を多用することができ、インターネット内を自由に動きまわれるし、必要な個所には文章や画像も入れられる。
したがって、ごちゃごちゃになりがちなブラウザの「お気に入り」や「ブックバーク」とは違って、必要とする情報の所在を分かりやすく表示できるから、求めに応じて迅速・的確にそれを引き出すことができる情報処理ツールとして活用できると思っている。

ホームページは一度作ったらそれで終わりというものではない。
絶えずアップデートするメインテナンスの作業が必要であり、さらに新しい情報を追加し、修正していかねばならない息の長いパソコン上での作業がある。

作り上げるのがまずは大作業となるが、その後の運用にもそれなりの時間をかけることが必要とされるから書斎における私の時間を費消するにはもってこいだろう。 

実をいうと、私は「ホームページ」に類似する「ブログ」を既に書き続けてきている。2006年から始めているので、それから6年にもなる。(cf.三金会雑記77号「ブログを書く」、83号「二年続いたブログ」)

http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406/d/20080301

しかし、ブログというのは、ホームページに似ているとはいえ、時系列の日記風のサイト、日々の記録を主とするものなので、これを情報源としては利用することができない。

なにもブログを書くことに飽き足らなくなったわけではない。書くのが面倒とか、嫌いになったというわけでもない。
現在、書いているブログについては、毎日閲覧者は150人前後、閲覧件数は500から600件、開設以来の閲覧者総数は38万人となっており、当初は公開することを目的としたわけではなかったが、今では多くの人が見てくれることも遣り甲斐になっている。

普通、ホームページは「作る」とはいわず、「開く」という。
私があえて「作る」というのは、ホームページ本来の目的とされる公開・閲覧を避け、ホームページそのものを作り上げることのみを目的とし、使い勝手のいい情報処理ツールにすることだけを考えているからである。

公開を予定していないので、人目を引くためいろいろの装飾文字や装飾画像を使って画面を飾り立てることは必要でなく、できるだけシンプルで、自分にだけ分かりやすい実質本位なものに作り上げようと思っている。

ホームページの公開をしない理由は、情報の中には個人情報として公開してはならない、公表したくない、あるいは公開することによって不都合が生じる恐れのあるものが多く含まれるからである。(もっとも、そうしたページは「シークレットページ」として設定することによって回避することはできるが…)

ホームページを作ることが「三金会雑記」執筆作業に代わるものとなり、これに今までどおりのブログ書きがあるとすれば、これらが定期のパソコン作業の両輪のような存在になるであろう。やがて肉体的能力の衰えがきても、指先さえなんとか動くのであれば、そして認知症でも発症しないかぎり、年齢に関係なくこの二つは可能な作業だと思う。

そんな意図でホームページ作りに取り組みはじめたのが、異常気象続きで雨や曇りが続いた今年の連休に入る頃からである。
戸外に出ての「歩き」と「園芸」ができないので、おのずと書斎に閉じ籠ってのパソコン活動だけとなったので、これを好機ととらえ、ホームページ作成に専念したのでそれなりの成果が上がっている。
梅雨期が終わる頃までに、なんとか最後の仕上げをすることを目指している。

はじめから予想していたことではあるが、かなり難儀な作業である。何度も失敗を繰り返し、がっくりきて、また気を取り直して挑戦するという始末。作っても作っても、すぐ手直しをしたくなり、その都度新しい技法を習得しながら挑んでいる。
こうして、少しずつでもホームページの形を整えていくのは嬉しい。

この快感が、ドイツの心理学者カール・ビューラーがいうところの「機能快」、人間が持つ様々の機能を発現させ使うことが「快感」につながるというということなのであろう。

 最近、パソコンのTV電話というべきスカイプを使って東京にいる三金会員の上地君と顔をみながらしばしば話をしているが、ホームページの現在の出来栄えをスカイプの新機能「画面共有」を利用して見て貰ったところ、彼のお世辞もあるのであろうがよく出来ている、とお褒めの言葉を貰っている。

五月も終わりに近づき、ホームページの形もそれなりの恰好がつき始めており、天気もなんとか安定してきているようなので、戸外のウオークと園芸作業の再開も可能になり、ようやく、老後生活を支える「パソコン」「ウオーク」「園芸」の三本柱がうまくかみ合うようになってきている。

思えば、「後期高齢者」といわれるようになって7年余、法律用語としての「後期高齢者」は75歳からセンテナリアン(百歳人)までを一括していうが、ジェロントロジー(老人学)では85歳以上はその心身の状況から特別に区分けして「超高齢者」というらしい。アメリカで、これを「スーパー・シニア」という。

さてさて、せめて「スーパー」までいけるかどうか。

「三金会雑記」と同じように、「歩き」にせよ、「園芸」にせよ、「パソコン」にせよ、こうした活動がいつまでも続けられるわけはなく、いずれいわゆる「賞味期限」が切れるときがこよう。
それが何年先であるかは分からないが、それまではなんとか自分なりに充実した時間を持ちたいと思う。

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「三金会雑記」99号の原稿提出 (2)

2012年02月27日 | 三金会雑記

[ 承前 ]

「死に支度」という表現では少々生々しいが、年老いてからの身辺整理は残る人のためも是非ともやっておかなければならない重要な仕事の一つである。
 しかし、捨てるかどうかを決める判断は人任せにはできないし、廃棄を決めた物品の運搬はそれなりの力仕事を伴うので心身の衰えが目立ち始めた超高齢者にとってはなかなか思うに任せぬ難事となる。

 3年前、最後の著作を刊行したのを機に、それまで所有していた専門図書一切合財を神田の法学古書専門業者に引き取ってもらったことについては「三金会雑記」2009年・87号に「本の処分、そしてその後」として書いたとおりで、お蔭で書庫は随分すっきりしたが、それ以外の書籍の整理はあまり進んでいず気になっている。

 写真についてはできるだけ枚数を減らそうと思い切って段ボール函一杯分は捨てたが、まだまだ捨てなければならないものが沢山残っており、これらもいずれは取捨選択、廃棄の決断をしなければならない。

 それ以外には各種メディア類の処分がある。パソコン生活が長いこともあって、書斎に隣接する納戸にはCD、DVDをはじめ、随分昔からのカセットテープやビデオテープなどが雑多に詰め込まれており、これらも内容を確認したうえで、廃棄しなければならない。

 同じメディアに類するといえなくもないが、より重い存在感をもつのが保存されている手紙の束である。

 手紙とはもともと読み終わった時点で、もしくはそれに応じた措置が終わった時点で捨て去られるのが常だが、なかには後々なんらかの折をみて読み返してみようと思い保存しておくものもある。

 手紙を捨てるということは、その手紙にまつわる思い出をも消し去ることもつながるから、こればかりは簡単に屑籠にポイというわけにはいかない。

 処分の前に読み返しみて、捨てるにしても、しかるべき別れの様式はとりたいものである。
 戦前の歌謡曲に「昨日の夢と焼き捨てる古い手紙のうす煙」というフレーズがあったが、そんな風のものが……。

 亡くなった青野君は古い手紙に格別の愛着を持っていたことは広く知られていたが、「三金会雑記」1999年・50号に「卒業・就職前後(古手紙にみる青春)」と題した一文を寄せており
「諸兄からの古手紙類は、私の「死後焼却」函に格納されているから遅かれ早かれ、相州鎌倉の空をあかね色に染めて燃え尽き果てる運命にあり、未公開である限り世にでることはない」
と詩情をこめて記している。

 私も青野のひそみに倣い「死後焼却箱」を作り、捨て難い手紙だけを残し入れておくことにし、保存してあった古い手紙を取りだし読み返し始めた。

 そんな古手紙の束の中から22年前に頂いた件の手紙が出てきたのである。

  差出人は団藤重光法学博士、いやしくも大学で法学を学んだ人なら誰もが知っている日本刑事法学の泰斗、東京大学名誉教授、元最高裁判所判事、勲1等旭日大綬章受章、文化勲章受章という経歴を持ち、今年で99歳、まだご存命の大先生である。

 ここにその手紙を引用するのは、いささか面映ゆく、躊躇もあるが、ことの成り行き上ご勘弁願いたい。


小野義秀学兄 玉案下

 拝復 このたびは、ご芳書とともにご高著「矯正行政の理論と展開(処遇と保安)」をありがたく拝受いたしました。
 承れば、学兄には九大で井上正治博士のもとで学問的なご研究をなさった後、矯正の実務に就かれ、爾来三五年の長きにわたって矯正一筋にご活躍、最後は東京矯正管区長の要職に就かれ、近くご退官の趣き、いま、本書を拝見して、多年にわたる理論と実務(それも矯正の各分野における)のご蓄積のほどが窺われます。
 編別を拝見し全体のページを繰ってみただけでも、全体がいかにバランスの取れた重厚なご著述であるかがわかります。
 わたくしは、とくに矯正については、人間的・人道的なものが根底になければならないものと信じる者でありますが、いま、とりあえず、ご高著のうち、まず「老人受刑者の処遇」の項を拝見して、非常に深い感銘を受けました。このようなお考えこそが、矯正の真髄であろうと存じます。しかも、理念だけでなく、極めて実際的にみていらっしゃるのに、敬服いたしました。これから他の部分をも次々に拝読してご教示を受けるのを楽しみにしております。
 これは非売品の由、残念に存じます。いずれ何らかの形で公刊されれば、どれほどか世の中を裨益するところが大であろうと存じます。いずれにせよ、わたくしがただいま準備中の「刑法綱要総論」の第三版には文献として引用させていただきたいものと考えています。
 いつか拝眉の機会を得たいものと存じます(雑事に追われてなかなか時間がとれませんが)、ご退官後のアドレスなど、お知らせくだされたく、願い上げます。
 とりあえず、書中をもってご芳情に対しあつく御礼を申し上げますとともに、今後とも、いっそうご自愛、ご活躍あらんことを、お祈り申し上げます。敬具

 一九九〇・二・二〇                     団藤重光


坂口の指示による「矯正行政の理論と展開」の献本に対する礼状なのだが、大先生からこのような身に余るお褒めの言葉を頂くとは思ってもみなかった。
すっかり嬉しくなって、坂口にこの手紙の写しを送ったのである。

そうしたら、暫く経って坂口から
「井上先生と相談の上、この本に登載した論文で法学博士審査の手続きに入れるよう目下手配中だからしばらく様子をみろ」
と言ってきたのである。

坂口は30歳代で既に法学博士号を取得しているから簡単に言うが、そんな甘い話ではあるまい、とは思いつつも少しは期待するところもあって待っていたら、果たして
「あのままの論文ではダメだ。あの中からいくつかの論文を選び出して正規の論文形式に書き直せ」
と言ってきたのである。

60歳を過ぎて、先行き見通しが必ずしも立たないままそんな大仕事をやる気力も体力もないよ、と言ったものの、坂口が
「俺もできるだけ指導してやるから泣き言を言わずに頑張れ」
と叱咤激励され、それからなんとか二人三脚みたいな恰好で「博士論文」風のものをでっち上げ、改めて印刷に回して審査手続きに載せることができたのである。
坂口の指導と助力がなければ到底できない作業であった。

このあたりの事情は、その頃私の住むところから一番近い鎌倉にいた青野だけには報せていた。

 「三金会雑記」1992年・19号で青野は「身辺雑記」としてこのことに触れている。 

「小野義秀が六〇過ぎて博士論文を書き始め、途中ブスクサ文句を言ってはいたものの、とうとう、この二月の十日に法学博士を授与された、と言ってきた。六十過ぎての博士号は、最早、地位にも権力にも関係なく、ただ一つ、名誉の勲章にしかならないが、この歳になると何故か懸命に尽くした過去の仕事を、なんらかの形で総括してみたいものである」

博士号は「脚の裏に付いた飯粒」だという。「取らないと気持ちが悪いが、取っても食えない」からだという。学者仲間の戯言だろうが、青野が言うように、その後の実生活の上で学位が直接役立つことはなかったが、それまで生きてきた人生の肯定的な証としては、その後に貰った勲章(勲3等)よりは個人的には価値あるものだったと思う。

最後に、改めて言う「坂口よ 有難う」。

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「三金会雑記」99号 坂口裕英君との学縁、そしてその友情

2012年02月27日 | 三金会雑記

2月27日(月)

最後になるかもしれない「三金会雑記」の原稿を提出する。次号ではいよいよ100号に達する。

もう少し早めに出来上がる予定だったが、何年か振りの風邪で思わぬ遅れととってしまった。しかし、なんとか締切に間に合った。閏年でなければ危ないところ。


 

坂口裕英君との学縁、そしてその友情   ― 古い手紙から ―

 

 坂口裕英君とは九州大学教養学部時代に二人一緒に学而寮東三寮の一室に転げ込んで以来の仲である。亡くなった青野橘君がかつて「三金会雑記」に連載した「青野日誌」によれば、騒がしい二人が隣室に入り込んできたのは昭和35年5月だとある。

その時以来、坂口(以下敬称略)とは大学法学部はもとより学制改革で新設されたばかりの大学院修士課程でいつも連れ立っていた。
 大学院では当時憧れていた井上正治教授の所謂「井上教室」に入れて貰い、刑事法学の指導を二人で直接受け昭和30年に第1期生として卒業できたが、成績のいい坂口はそのまま学究として井上教室に残って研究を続け、私は学者になることを諦めて公務員に転職した。 

 その後、坂口は刑事訴訟法を専攻する大学教授として70歳まで法学者として過ごすことになったが、実務家の道を進んだ私は、学んだ刑事法学が少しでも役立てるかと思い「矯正」という極めて特殊な職場に身を置いて、以来35年間公務員生活を勤め上げた。

今にしておもえば、我々が生きた時代は戦後日本が大きく変わろうとしていた変革の時期であり、若輩者であっても大学で学んだ法的知識がすぐさま職場で生かせる絶好の時代環境にいたから、仕事が面白くやり甲斐が持て、学究生活とはいかないまでも自分なりに刑事法学への関心を失わず公務に専念できたことは本当に幸いだった。

そうした経緯もあって、中壮年期になっても坂口との学縁は切れず、たまに会っても酒を飲みかわすだけでなく、それぞれが身近に持つ刑事法学上の問題について論じ合うことも少なくなかったのである。 

そんな付き合いを続けていた昭和61年、坂口が福岡大学教授を務めていた福岡市に私が転勤することになったので坂口との学縁は一層深まることになった。

坂口が、私を再び学問の世界に呼び入れようとしたのか、西南学院大学で「刑事政策講座」の非常勤講師の席を斡旋してくれたのもその時のことである。
公務の間を縫って週一回教壇に立たせて貰ったが、刑事政策学を改めて基礎から学び直す機会にもなり、まことに得難い経験となった。

また、福岡・佐賀在住の大学関係者と実務家の研究会を作るよう進言をしてくれたのも坂口である。
 そのお蔭で理論と実務の関連を探る「福岡刑事政策研究会」なるものを立ち上げることができ、九州在住の刑事法関係学者との縁もでき、薄れかけていた学問的雰囲気に慣れ親しむことができた。

そんなことから、定年退職した後の仕事として、私もどこかしかるべき「大学教授」に潜り込むことを視野に入れて考え始めるようになっていたのである。 

やがて福岡勤務が終わり、再び東京に戻っていよいよ定年退職が近づいた頃、役所の同僚・部下達が、これまで私が法律雑誌などに書き散らしてきた論文類をまとめて「退官記念論文集」を作る話を持ち込んできた。
 もともと仕事がらみで書いた論文でさほど価値あるものとは思っていなかったので、一度は断ったものの、既に内輪で「刊行会」が作られており、印刷する原稿も集まっているとのことなので、その流れに乗ることにしたのである。

そして出来上がったのが「矯正行政の理論と展開」という図書である。
 それまで共著で出版社から何冊か図書を刊行したことはあったが、自分だけの単行本は初めてである。
内容に自信があったわけではないが、図書としての外観は六〇〇頁を超える布表紙装丁・箱入りの見栄えのある本に出来上がったので、すっかり気をよくし、その一冊を早速我が学友坂口に贈呈したのである。

何気なく贈った一冊だったが、それがその後に思わぬ展開をみせることになったのである。

 この本を読んでくれた坂口が「この本は部内だけでなく、学者にも読んでもらうべきだ」と言い出し、大学院の恩師だった井上正治先生をはじめ当代を代表する刑事法学者数人にすぐさま献本せよ、と言ってきたのである。
 幸い「私家版」だから手持ちの冊数に余裕があったので、その言葉に従った。

 そして、その献本に対する礼状として貰った一通の手紙が坂口を動かすことになったのである。

その後、坂口がみせた精力的な行動、その絶大な尽力のお蔭で、一介の実務家に過ぎなかった私の論文が評価されるようになり、「瓢箪から駒」、とうとう「法学博士」取得への道を拓いてくれることになったのである。

自分にかかわる自慢めいた話柄になって恐縮だが、今となっては遠くに過ぎた話である。
 これまで「三金会雑記」にこのとき坂口が示してくれた友情・学恩を書く機会がなかったが、「三金会雑記」が次回の「百号記念号」で幕を閉じるのであればこれが最後の機会となる。

現在、「三金会」を代表する坂口裕英会長の語られなかった挿話として、かつまたその友情に対する私の謝辞として敢えて書かせてもらうことにする。

 


「死に支度」という表現では少々生々しいが、年老いてからの身辺整理は残る人のためも是非ともやっておかなければならない重要な仕事の一つである。

 しかし、捨てるかどうかを決める判断は人任せにはできないし、廃棄を決めた物品の運搬はそれなりの力仕事を伴うので心身の衰えが目立ち始めた超高齢者にとってはなかなか思うに任せぬ難事となる。

 3年前、最後の著作を刊行したのを機に、それまで所有していた専門図書一切合財を神田の法学古書専門業者に引き取ってもらったことについては「三金会雑記」2009年・87号に「本の処分、そしてその後」として書いたとおりで、お蔭で書庫は随分すっきりしたが、それ以外の書籍の整理はあまり進んでいず気になっている。

 写真についてはできるだけ枚数を減らそうと思い切って段ボール函一杯分は捨てたが、まだまだ捨てなければならないものが沢山残っており、これらもいずれは取捨選択、廃棄の決断をしなければならない。

 それ以外には各種メディア類の処分がある。パソコン生活が長いこともあって、書斎に隣接する納戸にはCD、DVDをはじめ、随分昔からのカセットテープやビデオテープなどが雑多に詰め込まれており、これらも内容を確認したうえで、廃棄しなければならない。

 同じメディアに類するといえなくもないが、より重い存在感をもつのが保存されている手紙の束である。

 手紙とはもともと読み終わった時点で、もしくはそれに応じた措置が終わった時点で捨て去られるのが常だが、なかには後々なんらかの折をみて読み返してみようと思い保存しておくものもある。

 手紙を捨てるということは、その手紙にまつわる思い出をも消し去ることもつながるから、こればかりは簡単に屑籠にポイというわけにはいかない。

 処分の前に読み返しみて、捨てるにしても、しかるべき別れの様式はとりたいものである。
 戦前の歌謡曲に「昨日の夢と焼き捨てる古い手紙のうす煙」というフレーズがあったが、そんな風のものが……。

 亡くなった青野君は古い手紙に格別の愛着を持っていたことは広く知られていたが、「三金会雑記」1999年・50号に「卒業・就職前後(古手紙にみる青春)」と題した一文を寄せており
「諸兄からの古手紙類は、私の「死後焼却」函に格納されているから遅かれ早かれ、相州鎌倉の空をあかね色に染めて燃え尽き果てる運命にあり、未公開である限り世にでることはない」
と詩情をこめて記している。

 私も青野のひそみに倣い「死後焼却箱」を作り、捨て難い手紙だけを残し入れておくことにし、保存してあった古い手紙を取りだし読み返し始めた。

 そんな古手紙の束の中から22年前に頂いた件の手紙が出てきたのである。

  差出人は団藤重光法学博士、いやしくも大学で法学を学んだ人なら誰もが知っている日本刑事法学の泰斗、東京大学名誉教授、元最高裁判所判事、勲1等旭日大綬章受章、文化勲章受章という経歴を持ち、今年で99歳、まだご存命の大先生である。

 ここにその手紙を引用するのは、いささか面映ゆく、躊躇もあるが、ことの成り行き上ご勘弁願いたい。

 

小野義秀学兄 玉案下

 拝復 このたびは、ご芳書とともにご高著「矯正行政の理論と展開(処遇と保安)」をありがたく拝受いたしました。
 承れば、学兄には九大で井上正治博士のもとで学問的なご研究をなさった後、矯正の実務に就かれ、爾来三五年の長きにわたって矯正一筋にご活躍、最後は東京矯正管区長の要職に就かれ、近くご退官の趣き、いま、本書を拝見して、多年にわたる理論と実務(それも矯正の各分野における)のご蓄積のほどが窺われます。
 編別を拝見し全体のページを繰ってみただけでも、全体がいかにバランスの取れた重厚なご著述であるかがわかります。
 わたくしは、とくに矯正については、人間的・人道的なものが根底になければならないものと信じる者でありますが、いま、とりあえず、ご高著のうち、まず「老人受刑者の処遇」の項を拝見して、非常に深い感銘を受けました。このようなお考えこそが、矯正の真髄であろうと存じます。しかも、理念だけでなく、極めて実際的にみていらっしゃるのに、敬服いたしました。これから他の部分をも次々に拝読してご教示を受けるのを楽しみにしております。
 これは非売品の由、残念に存じます。いずれ何らかの形で公刊されれば、どれほどか世の中を裨益するところが大であろうと存じます。いずれにせよ、わたくしがただいま準備中の「刑法綱要総論」の第三版には文献として引用させていただきたいものと考えています。
 いつか拝眉の機会を得たいものと存じます(雑事に追われてなかなか時間がとれませんが)、ご退官後のアドレスなど、お知らせくだされたく、願い上げます。
 とりあえず、書中をもってご芳情に対しあつく御礼を申し上げますとともに、今後とも、いっそうご自愛、ご活躍あらんことを、お祈り申し上げます。敬具

 一九九〇・二・二〇                     団藤重光

 

坂口の指示による「矯正行政の理論と展開」の献本に対する礼状なのだが、大先生からこのような身に余るお褒めの言葉を頂くとは思ってもみなかった。
すっかり嬉しくなって、坂口にこの手紙の写しを送ったのである。

そうしたら、暫く経って坂口から
「井上先生と相談の上、この本に登載した論文で法学博士審査の手続きに入れるよう目下手配中だからしばらく様子をみろ」
と言ってきたのである。

坂口は30歳代で既に法学博士号を取得しているから簡単に言うが、そんな甘い話ではあるまい、とは思いつつも少しは期待するところもあって待っていたら、果たして
「あのままの論文ではダメだ。あの中からいくつかの論文を選び出して正規の論文形式に書き直せ」
と言ってきたのである。

60歳を過ぎて、先行き見通しが必ずしも立たないままそんな大仕事をやる気力も体力もないよ、と言ったものの、坂口が
「俺もできるだけ指導してやるから泣き言を言わずに頑張れ」
と叱咤激励され、それからなんとか二人三脚みたいな恰好で「博士論文」風のものをでっち上げ、改めて印刷に回して審査手続きに載せることができたのである。
坂口の指導と助力がなければ到底できない作業であった。

このあたりの事情は、その頃私の住むところから一番近い鎌倉にいた青野だけには報せていた。

 「三金会雑記」1992年・19号で青野は「身辺雑記」としてこのことに触れている。 

「小野義秀が六〇過ぎて博士論文を書き始め、途中ブスクサ文句を言ってはいたものの、とうとう、この二月の十日に法学博士を授与された、と言ってきた。六十過ぎての博士号は、最早、地位にも権力にも関係なく、ただ一つ、名誉の勲章にしかならないが、この歳になると何故か懸命に尽くした過去の仕事を、なんらかの形で総括してみたいものである」

博士号は「脚の裏に付いた飯粒」だという。「取らないと気持ちが悪いが、取っても食えない」からだという。学者仲間の戯言だろうが、青野が言うように、その後の実生活の上で学位が直接役立つことはなかったが、それまで生きてきた人生の肯定的な証としては、その後に貰った勲章(勲3等)よりは個人的には価値あるものだったと思う。

最後に、改めて言う「坂口よ 有難う」。

 
 

 

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