伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

「IKOI農場」の第二ゲート開通

2011年07月30日 | 園芸

7月30日(土)

我が家から「IKOI農場」に行くのにはかなりの勾配の坂を降り、下に設けてある入口から中に入らなければならない。

正直いって、農作業で少々疲れた身体でこのゲートから坂を登って家まで帰りつくのは結構大変である。ときに忘れ物などしてこの道を二回も往復すると相当にへこたれる。

先日の「農園日」(7月23日)、みんなで畑を上から眺めていたとき、もっと手前に入口を作ったら随分行き来が楽になるのではないか、というアイディアが出たと思ったら、今日はみなさん早くもその作業に取り掛かり、生垣の一部を取り払い、床をコンクリートで固め、昼食前には新しい第二ゲートが完成した。

なんとも、手早い作業である。

この入口のお蔭で随分と農場への往復が楽になった。

そのニューゲート完成を祝ってメンバーで記念撮影。

昼食はいつものように皆で持ち寄ったもの。なかでも本日のメインはなんといっても取り立ての「トウモロコシ」。

「収穫祭」とは銘打たなかったが……。

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IKOI農場の実のなる野菜と果樹

2011年07月26日 | 園芸

7月26日(月) 

一日8000歩を確保しようと歩いて床屋に行ったが、散髪中に一天俄かにかき曇り雷雨となる。帰りは車で家まで送ってもらうことになってしまった。

出掛ける前には「IKOI農場」を歩き回って野菜や果樹を撮影することで歩数を稼ごうとしたが、結局のところ今日は歩数5000歩を超えることが残念ながらできなかった。

 


 

「IKOI農場」では目下実りつつあるものが思っていた以上に沢山ある。これに葉物を加えれば、いつの間にか多彩な菜園に変身しているのに驚く。「桑滄の変」・劉廷之(桑畑変じて海となる)という言葉があるが、こういう変化はなんというのだろう?

 

柑橘類は私の「お気に入り」、当地の特産でもある。

この20年間、手当たり次第に買ってきて植えた苗木がいつの間にか成木となり数え上げてみたら8種類にもなる。

みんな、しっかり実を付けている。

(昨年は沢山実を付けた「柚子」が何故か今年はほとんど実が見当たらない。ほかの柑橘類は例年以上の豊作になりそうだが……。したがって柚子はカット)

 

 


 

内容だけではない、外観も随分立派になったもの。

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稲取 散歩

2011年07月25日 | ウオーク

7月25日(月)/

毎日出来る限り8000歩を歩き、とかく退嬰的になりがちな最近の気分を払拭しようと思い定めて5日目。今日は稲取のクロスカントリー・コースを歩く。Mr.ARと。

夏休みに入ったこの時期としてはとても涼しく、1時間以上歩き続けても少し汗ばむ程度。

一日の総歩行数は昨日と同じように8000歩どころか軽く10000歩を超えている。

 

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庭の百合 3種

2011年07月24日 | 花卉

7月24日(日)

「アジサイ」の季節が終わり、「ユリ」の咲く季節となった。 庭のあちらこちらでユリが花開く。

ユリの種類は多いが、我が家の庭で目下咲いているのは3種類。

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夏に入った「IKOI農場」園芸日

2011年07月23日 | 園芸

7月23日(土)

ここ数日、朝夕は涼しいというよりむしろ寒さを感じる異常気温。これが「夏」だとはとは到底思えない。一体、自然はどうなっているのだろう。「温暖化」とは正反対。まさしく「季節が狂っている」としかいいようがない。

今朝はさすがに寒くはなかったが、日中の涼しさは格別!園芸作業にはもってこいの日となった。

月に2回土曜日に行われる♀家内たちの「吊るし雛教室」の日が[IKOI農場」の「園芸日」となる。今日は久しぶりの♂4人参加。

今日のメインの作業は、畑を囲う貝塚伊吹の生垣を刈り込むことだが、もちろん私はとてもそんな大作業はできなから、自分のエリアで自分勝手に雑作業を行う。実をほとんど付けなくなった第一弾胡瓜の撤去作業(第二弾胡瓜は実花を付け始めている)や雑草取り・支柱立てなどやるべき作業には事欠かない。

朝から昼食をはさんで3時頃まで。この涼しさのお蔭で熱中症を心配せずに続けることができた。

今日はなんといっても私を除いた大掛かりな生垣刈り込みの3人衆が主役。

綺麗に刈り込まれた貝塚伊吹の生垣。午後の強烈な光が差し込んでその成果をうまく撮影できなかった。坂があったり高所作業だったりで大変な作業。後で思えば刈り込み前の乱雑に伸びきった姿を撮影しておくべきであった。

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デジカメで夕月を写してみる

2011年07月22日 | 雑文

7月22日(木)

デジタルカメラをもう少し使いこなしたい。

西の空にきれいな夕月が、そして天城の山々がほんのり茜色に染まったこの一刻、デジカメの「モード」を「プログラム」にし、「測光モード」を「スポット」に変え月に焦点を合わせて写してみた。

なるほど、こんなふうに写るのか。月と山とが間延びしているが、まあなんとか新しい映像が得られた。

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曇の日の散歩

2011年07月21日 | ウオーク

7月21日(木)

台風は去ったが、まだ重く雲が垂れこめている。長い間乾燥が続いた後の恵みの大雨だったので農作物は大喜びだが、今日は「台風一過」でからりと晴れた青空を期待することはできなかった。

この数日、足腰に特別の痛みがあるわけではないが、重い感じがして身体の動きが鈍く、一日中ごろごろして寝たり、本を読んだり、TVを見たりして過ごしてしまった。(早朝の農作業を数日続けたせいかもしれない)

これまで腰痛や肩こりは経験したことがないと豪語していたが、82歳に近付けば身体機能の衰えは確実に忍び寄ってくるのか、この身体の不調はひよっとしたら再び元には戻らないのかもしれないと少々不安になり、すっかり気分も落ち込んでしまっていた。

今日の曇も戸外に出る気分にはなれない。といって、家の中でもなにかをやろうとする積極的な気持ちになれない。

 

そんなとき、ふっと脳科学者大島清の「歩き」を勧める本を思い出した。本の頁を開いたらいきなり出てきた。

「どんな時でも、とりあえず歩いてみよう」

目次は「とりあえず歩いてみよう」のオンパレードである。

「なにもすることがなかったら」「むしゃくしゃしたら」「気持ちがうつうつしたら」「自信を失ったら」「病気がちなら」「くよくよ思い悩む日は」「天気がよかったら」「人間関係に思い悩んだら」 → とりあえず歩いてみよう

そうだ! 天気は悪いが歩いてみよう、と思い立った。

まずは1時間、負担のすくない平坦な散歩道を歩こう、と「池地区」を歩くことにした。歩数計のついた携帯電話、デジカメ、サングラスで散歩の身支度をして車で池の山神社まで行く。

周囲は一面の緑一色。その緑を観察しながら歩く。

曇り空でも緑の濃淡はさまざまで、絵心を持った人がこれを的確に表現しようとすれば時間はいくらあっても足りないであろう。

この緑の世界に日光がきらめき、風がそよいで葉裏を返す変化が加わるなら、その色合いは千変万化、プロでも容易に描けないかもしれない。

池地区田園の一周で1時間歩く予定だったが、50分、歩数5000歩にしかならなかった。それ以上あるかなかったのは、やはり、少し足腰に弱りを感じるのかもしれない。

だが、「とりあえず」あるいてみてよかった。心身が活性化し「やる気」が出た。 

 


これは菖蒲かアヤメか?

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「ケネディ暗殺事件」と「ゼロ年の呪い」④(「三金会雑記」原稿)

2011年07月17日 | 三金会雑記

余禄として「ケネディ家の呪い」 

「呪い」といえば「ケネディ家の呪い」というのもまことしやかに語られている。

確かにケネディ一族には、なにかしら不運な出来事が重なっているようにみえる。

 ジョン・ケネディ大統領の兄(長男)ジョセフ・ケネディは1944年飛行機の空中爆発で戦死している。これは戦争中でもあり危険な任務についていたパイロットだったから致し方ない。

ケネディ政権を支えたのは司法長官だった弟(3男)ロバート・ケネディだが、ジョンの死後、大統領を志しニューヨーク州上院議員となり1968年カルフォルニアの民主党大統領予備選挙に勝利したが、その直後にロスアンゼルスでサーハンの銃撃で死亡した。(これは兄の暗殺と同じく謎の部分が多い。)

ジョン大統領の妹キャスリーン・ケネディは最初の夫が戦死した後、1948年に再婚を考えていたピーター・フィッツウイリアムと一緒にチャーター機に乗ったがフランスのセベンヌ山脈で墜落し両名とも死亡した。

 ジョン大統領の弟(4男)エドワード・ケネディ上院議員は1964年、飛行機事故で補佐官とパイロットが死亡、重傷を負ったエドワードは機の残骸から同僚の手で引き出され数週間で回復した。

ジョン大統領の長男ジョン・ケネディ・ジュニアは19997月にロバート・ケネディの娘ロリーの結婚式に出席するため、妻キャロリン(妊娠中)とその姉ローレンを乗せ自家用飛行機を操縦してケネディ家別荘に向かう途中に墜落し同乗者2名とともに死亡した。(大統領出馬声明直前の事故で、この墜落は単なる事故でないとの疑惑がある。)

 とにかく、ケネディ家には飛行機事故が多いが、そのほかにもロバート・ケネディの三男デービットは1984年に麻薬の過剰摂取で死亡、4男マイケルは1997年コロラド州のスキー場で木に激突して死亡、また。ジョン大統領の妹ローズマリーは1941年知的障害なのにロボトミー手術を受けさせられて廃人となるなど、

あまりにも不慮の事故が多いことから「呪い」説がでたのであろう。 

 

〈歴史的な大事件の符合といえば、我が国では大雪の日に起こるという言い伝えがある。 

「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」「井伊大老の襲撃」「西南戦争での鹿児島出撃」「軍部クーデターの2.26事件」などである。

だが、ケネディを巡っての符合は、偶然をこえた不気味シンクロニシティを示しているように思えるのは私だけではあるまい。〉

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「ケネディ暗殺事件」と「ゼロ年の呪い」③ (「三金会雑記」原稿)

2011年07月17日 | 三金会雑記

「ケネディの暗殺」と「リンカーンの暗殺」の驚くべき相似 

 「テクムセの呪い」を辿っていくと、そのなかでも100年という節目を隔てて大統領の双璧リンカーンとケネディがいる。

そして、この二人の暗殺事故が偶然とは思えないほど多くの点で奇妙な一致をみせているのは、気持ちの悪いほどの異様さである。

 100年の時間差をもって同じような暗殺事件が起こったというだけでもその相似に驚くが、それ以外にあまりにもおおくの事柄が二人に共通しており、運命の見えざる手が二人を強く結びつけパラレルな人生の軌跡を描かせたのでは、といったオカルト的な思いにも捉われる。

 二人の一致点、もしくは類似点を拾ってみよう。

まず、その暗殺は容疑者から銃で後頭部を撃ち抜かれほとんど即死の状態だったこと。

その暗殺の現場には二人とも夫人が同席していたが無傷だったこと。(同じ席には別のカップルもおり、その男性側はいずれも負傷している。)

暗殺された日はどちらも金曜日で、リンカーンは「復活祭」の前々日、ケネディは「感謝祭」の前日だったこと。

 政権における重要課題がリンカーンは奴隷解放、ケネディは公民権問題で、いずれも黒人の差別問題に深くかかわるものだったこと。

 リンカーンは南北戦争、ケネディはベトナム戦争という国が南北に分かれて戦う戦争にかかわったこと。

どちらも下院議員に選出されたのはリンカーンが1846年、ケネディが1946年、その後副大統領候補としてあと一歩に迫った経験が1856年と1956年にあり、大統領選挙では僅差での勝利であったこと。

 両大統領の死後に大統領の後任となった副大統領の名前が、リンカーンの後任はアンドリュー・ジョンソン、ケネディの後任はリンドン・ジョンソンと全く同じ姓で、しかもその年齢は100年違いの1808年生と1908年生の南部出身者。

そして、アンドリューはリンカーン死後10年で死去し、リンドンも同じくケネディ死後10年で死去していること。

暗殺容疑者の生年はリンカーンのブースは1839年生、ケネディのオズワルドは100年後の1939年で、どちらも裁判を受ける前に殺害されてしまったこと。

 暗殺時に同席していた夫人の結婚年齢はいずれも24歳(リンカーン夫人は2311月、ケネディ夫人は241月)、二人ともフランス語に熟達した名家の出身で、いずれの夫人の死も63歳と64歳だったこと。

 どちらもファーストネームは6文字、LincolnKennedy であること。

などであるが、さらに無理にこじつけたものとして

リンカーンはフォード劇場で射撃されており、ケネディはフォード製のリンカーン・コンチネンタル車に乗っていて射撃されたということ。

ブース容疑者は劇場でリンカーンを撃ちその後倉庫で逮捕されたが、オズワルド容疑者は倉庫から撃ち劇場で逮捕されたということ。

リンカーンの息子はボストン市長を7期務めており、ケネディの祖父はボストン市長を5期ととめていたこと。

 リンカーンの息子とケネディの父はともに駐英大使を経験していること。

などがある。

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「ケネディ暗殺事件」と「ゼロ年の呪い」② (「三金会雑記」原稿)

2011年07月17日 | 三金会雑記

「ゼロの呪い」またの名は「テクムセの呪い」 

 ケネディの死は、それ自体アメリカ合衆国史に特筆される大きな悲劇であるが、それはまた、歴代アメリカ合衆国大統領にかけられた恐ろしい「呪い」の連鎖につながっていると考える人もいる。 

今の時代に「呪い」など非科学的な迷信だと笑い捨てるのが常識だろうが、歴史に現れた不気味な大統領の悲運の死をつぶさに見てくると、そこに特別な意味があるような気にもなってくる。

それは「ゼロ年の呪い」またの名を「テクムセの呪い」といわれている。

 「ゼロ年の呪い」とは、ゼロの付く年に当選を果たした大統領はすべて在職中に暗殺などで死去し、4年の在職期間を全うできないというのである。

アメリカの大統領選挙はご存じのとおり4年に1回行われる。だからゼロの付く選挙年は20年に一回まわってくる。

 ケネディの当選も1960年だが、ケネディはもとより、彼を含めてゼロ年当選の歴代アメリカ大統領はすべて在職中に死亡しているのである。これは単なる偶然だろうかと思う人がおってもおかしくない。「呪い」の存在を一概には退けられないところである。

 

話は、最初に暗殺された16代大統領リンカーより20年前の9代大統領ハリソンから始まっている。

ウイリアム・ハリソンは1840年の選挙で大統領に当選したが、18413月、就任わずか1月にして肺炎で死去している。

「ゼロ年の呪い」または「テクムセの呪い」の始まりである。

インディアナ準州長官だったウイリアム・ハリソンは、1811年、軍を率いてインディアンの領土とされた土地を次々と侵略していき、多くのインディアンを殺害した。

 これに立ち向かったインディアン、ショーニー族の酋長テクムセは呪術にたけた預言者としても知られていたが、勝敗を決する「テムズの戦い」でハリソン軍に敗れ、戦闘中に殺された。

 酋長テクムセは死ぬ間際に次の呪いの言葉を残したという。

「敵将ハリソンは次期大統領になるが就任中に死ぬ。その後の20年ごとに選ばれる偉大な白人の酋長も死ぬ」と。

その言葉どおりにハリソンは死んだが、それから20年経ち1860年に16代大統領のリンカーンは当選したが、その2期目の1865年にフォード劇場内で南部独立主義者だった俳優ジョン・ウイルクス・ブースの拳銃により射殺された。

次の20年が経って1880年に選挙に当選した20代大統領ジェイムス・ガーフィールドは、同じ年に政治的論功行賞を巡って対立した弁護士ギトウの拳銃で銃撃されて11週間後に死亡している。


25代大統領ウイリアム・マッキンリーは、1900年、2期目の当選を果たしたが、翌1901年にニューヨーク州バファローで開かれたパン・アメリカン博覧会の会場で無政府主義者チョルゴッシュの拳銃で銃撃され、6日後に死亡した。


 1920年当選の29代大統領ウオレン・ハーディングは在職中の1923年に心臓発作で病死した。


32代大統領フランクリン・ルーズベルトは、アメリカ史上唯一の4選を果たした大統領(現在は憲法改正で2期まで)であるが、その3期目の当選が1940年で、4期目の1945年、対日戦争が続いている中、脳溢血で急死している。


そして1960年当選が35代大統領ジョン・ケネディである。

なお、ついでながら、ゼロ年当選の歴代アメリカ大統領は在職中に暗殺にせよ病死にせよ7人全員(ケネディまで)が死亡しているのに、ゼロ年当選者でない大統領が多数いる中、在職中死亡したのはたった一人、12代大統領ザカリー・テイラー(1848年当選し1850年に死亡)のみである。

大統領の死を予言した「テクムセの呪い」は、ケネディを最後にして終わったとされている。

その後のゼロ年当選はレーガンとブッシュだが、いずれも任期を全うしている。

 だが、より詳しくみてみると完全に終わったといいきれるのかどうか?

呪いの余波は完全に消え去ったとは言えないところがあるようだ。

 40代大統領ロナルド・レーガンは1980年に当選し、2期の在職期間を無事に過ごしている。

しかし、大統領就任から2か月余の19813月、ワシントンのヒルトンホテルでの講演が終わって出たところをジョン・ヒンクリー(裁判では精神異常として無罪)から6発の銃弾を浴びせられている。
銃弾はレーガンのほか2名にも傷を負わせているが、レーガンに当たった銃弾は心臓をわずかにかすめ肺の奥にとまった。これは緊急手術で摘出され、危うく一命を取りとめ、3週間後には公務に復帰している。


 最後のゼロ年当選大統領は2000年の43代ジョージ・ブッシュである。

彼もご存じのように2期の在職期間を全うしているが、「呪い」の洗礼と全く無縁だったといえるかどうか。。

2005510日、グルジアを訪問し首都トビリシの広場で演説中に赤い布に巻かれた手榴弾が投げ込まれた。

手榴弾は幸い不発であったが、ブッシュから18mのところに落ちた。(殺傷能力は20-30m内だったという)。

 

なお、2008年バクダッドで記者会見中にイラク記者から靴を投げつけられたということもあったが、すくなくとも、これは呪いとは関係なかろう。

いずれにせよ、レーガンもブッシュも暗殺を免れているので、現在は「ゼロ年の呪い」「テクムセの呪い」は破られたと考えるひとは多い。

 これに関連してアメリカのいくつかのキリスト教団体は「ゼロ年の呪い」の呪縛を解き、レーガン、ブッシュがその災厄から守られることを懸命に祈願し、その祈りが成就したと信じており、その成果をその宗教団体の教勢の拡大に利用しているとかいう話も伝えられている。

このように偶然が重なるとなると単なる偶然とだけでは言い切れないような気がしないでもない。

 次のゼロ年当選大統領は2020年になるが、誰であろうか?そして大丈夫だろうか?

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「ケネディ暗殺事件」と「ゼロ年の呪い」① (「三金会雑記」原稿)

2011年07月17日 | 三金会雑記

「三金会雑記97号」の原稿

「ケネディ暗殺事件」と「ゼロ年の呪い」

(1)「ケネディ暗殺事件」    (2)「ゼロ年の呪い」またの名は「テクムセの呪い」    (3)「リンカーン暗殺」と「ケネディ暗殺」の驚くべき相似

(4)余禄として「ケネディ家の呪い」


「ケネディ暗殺事件」 

 私はTVNHK以外はほとんど見ない。特に番組の中で歴史物やドキュメンタリータッチのものが好きだ。おおむねそうした類の番組はリアルタイムではなく、ブルーレイに録画し、録画したものを後で時間にとらわれずみることが多い。

 先日も、録画しておいた映画「JFK」を見た。この映画は随分前にも見た記憶があるが、その内容はほとんど憶えておらず初めて見る映画のようで、改めて加齢による記憶力の衰えを思い知らされることにもなった。

 3時間10分という長編の映画だが、今度は全編を固唾を飲んで見たといってもいい。

多分、この映画を最初に見たときに比べてケネディ暗殺事件についての知識が増していたから映画の複雑な筋書もすんなり頭に入りよく理解できたのであろうか。

 この映画「JFK」は、1991年のアメリカ映画で、64回アカデミー賞で撮影賞・編集賞を受賞しているとか。

テーマとなっているのは、「クレイ・ショー裁判」である。容疑者オズワルトが逮捕後に射殺されてしまっているのでケネディ暗殺事件そのものが法廷で争われた唯一の裁判である。

ニューオーリンズ経済界の大物クレイ・ショウがケネディ暗殺に関わったとしその行動を通して暗殺事件の真相に迫ろうとする検事ジム・ギャリソンの活躍が描かれている。 

この裁判は「検事側の敗訴」で終わったので、事件の陰謀にかかわったとして起訴されたクレイ・ショーの犯罪は証明されることはなかったが、多方面からなされる妨害・圧力に屈せず起訴を敢えて行った検事ジム・ギャリソンは、事件の解明をあきらめず裁判が終わってから19年後の1988年に「JFK On the trail of assassin (邦訳「JFK ケネディ暗殺犯を追え」)」

と題した本を出版しており、映画はこの本を原作にしている。

 この本には裁判当時にはわからなかったがその後明らかになった事実も加えられており、ケネディ暗殺事件がオズワルドの独犯によるものではなく、巨大な組織ぐるみの陰謀によるものであることを強く示唆している。

犯人とされたオズワルドは「はめられた」だけで、その背後にはCIAFBI、軍部、軍需産業、マフィヤ、政治家などを巻き込きこんだ国家的陰謀があったのではないかとしている。

JFK」はできのいい興味をそそる映画であるが、NHKは、この映画だけでなく最近になっていくつものケネディに関する番組を放映している。

私が気付いたものだけでもBSドキュメントの「ケネディの残光」「発掘テープが語るケネディ暗殺」があり、それにBSプレミアムでの連続ドラマ「ケネディ家の人びと」8話というのもあり、私はいずれも録画して見ることができた。

 このように最近になってケネディものが、なぜ多いのかと調べてみたら、今年はどうやらケネディ大統領就任から50周年という節目の年であるらしい。

ケネディに関する沢山のTV番組を見たことから、ケネディ暗殺事件をもっと知りたくなり、あれこれ調べてみることになった。

現在、歴代アメリカ大統領の中での「ビッグ3」は、1位がケネディ、2位がリンカーン、3位にフランクリン・ルーズベルトになっているとか。(ケネディ以前では1位リンカーン、2位ルーズベルト、3位ワシントンであった)。

そのトップを占めるケネディだが、その政権が存続したのは僅か1000日(210月)に過ぎないのである。これはなんとも不思議である。

ケネディの短い大統領任期期間は、ビッグス湾事件、ベルリン封鎖、南部の公民権拡大を巡る騒擾、キューバ危機、アポロ計画、ベトナム戦争といった大きな波乱の時代であり、ケネディがこれらの難問に賢明に立ち向かったがその死によって断ち切られてしまい、戦後民主主義を代表するアメリカの黄金時代に終焉を告げることになってしまった悲運の大統領だったこと、しかもその最後が世界史上の「シーザー暗殺」にも比すべき劇的なものだったことがアメリカ人の心に深く刻まれたからでもあろうか。

ケネディへの銃撃は1963年(昭和38年)1122日アメリカ東部標準時間午後130分、日本時間では23日午前330分の出来事である。

 この衝撃的なニュースがTVで流された日のことを私は今も鮮明に憶えている。

その日はたまたま日米間衛星放送の試験放送が行われた初日に当たり、休日(「勤労感謝の日」)だったから私は自宅のTVでこのニュースは知った。

テキサス州ダラス市内をオープンカーでパレード中に狙撃され死んだジョン・F・ケネディの暗殺事件については、今もその真相が明らかでなく、はじめからさまざまの奇怪な情報が行き交い、疑惑の影がちらついていた。

この疑惑を払拭しようとジョンソン大統領(彼にも疑惑がないわけではない)は、196311月「ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会」を発足させている。いわゆる「ウオーレン委員会」の設置である。

10月後、述べ595人の証人尋問を行い一冊の報告書と26巻の及ぶ膨大な付属文書が提出され公表されたが、オズワルドの単独犯と結論付ける強い政治的配慮のもとで作られたとみられ、真相究明には程遠いものであった。

この報告書はむしろ事件に関する国民の疑惑を一層深めたといってもよい。

 ウオーレン委員会報告」から13年経ち、アメリカ国民にくすぶるケネディ暗殺の疑惑にこたえるべくアメリカ合衆国下院に「暗殺問題調査特別委員会」が設置され、再度調査が行われた。

2年の調査期間を経て19793月「調査特別委員会最終報告書」が発表されている。

その報告書は次のように言っている。

「当委員会に集められた証拠を基にして、ケネディ大統領は、ある種の陰謀の結果暗殺されたと信ずる。当委員会はもう一人の狙撃者を探し出すことはできなかった。また、陰謀の中身や規模についても知ることはできなかった……」

陰謀の存在を認めながらそれ以上の展開はなく曖昧なものに終わっている。

 その後、JFK暗殺30週年の1993年にAP通信社の世論調査が行われたが、これによると71%がこの事件はオズワルドもからむ陰謀であるとし、その56%はCIAかマフィアが絡んでいるとし、全体の78%が「政府は意図的に真実を隠す工作をしている」と答えている。

同じ年、CBS放送の調査では89%の人がオズワルドの単独犯行説を疑問視している。

ケネディの歴代大統領の1位へのランク付けは、ケネディ暗殺事件を包む深い霧がアメリカ国民のこころにわだかまっていることがなにほどか影響しているのかもしれない。

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早朝の農作業続く

2011年07月14日 | 園芸

7月14日(木)

実にさわやかな日々が続く。とくに朝夕の涼しさは格別。

今年は日中でもクーラーなしでも書斎にいることができる。開けた窓から風が吹き抜けて30度を超えることはない。こんな夏はこれまでになかったのではないか。努力せずとも電力の節約は可能だ。

とはいえ、流石に昼の陽射しの中に出ていく勇気はない。戸外に出るのは朝だけ。

この4日間、早起きして早朝の農作業が続いている。お蔭でとりあえず必要とされる園芸作業はあらかた片付いた。Mr.IWも続けてきてくれている。

雑草が生茂るこの時期、こんなに「農場」が整備されたことがかつてあったであろうか。こうなると現金なもので日々急速に伸びていく野菜をみるのが楽しく、ほかにやるべき仕事がないかどうか探すほど。

相変わらず、胡瓜が沢山とれる。しかし、変に曲がったものも現れ収穫期の終わりを予感させる。

トマトはまだ青いがいいものが取れそう。

スイートコーンの毛の部分が黄色くなった。収穫も間近かになった。

さや隠元はもう終わりに近い。

 

そのほかめぼしい野菜類 (その成長をとても気にかけているもの)

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狛犬とデンデン太鼓

2011年07月13日 | 手作り

7月13日(水)

「犬張子(狛犬)」と「デンデン太鼓」

以前に写したことがあるが、柄などが少し違うので……。

人様に差し上げるものだとか。

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「デジカメ」撮影の一工夫

2011年07月12日 | 日記

7月12日(火)

昨日の夕刻前の海は綺麗だった。相模湾の海の色が一段と青さを増し、その上を行き交う船舶の姿を白く浮かび上がらせていた。

伊豆大島と伊豆東海岸の間は、海の交通の大動脈ともいえる。いつも大小の船が交錯するように走っているのだが、海面に漂う靄気や光の指し加減で船の姿が見えるときと見えない時がある。

夏の夕刻が近づく頃、天城の山越しに斜めに指す陽射しが強いからであろうか、ひときわ船体が白く輝かくことがある。その情景は「はるかに見える青い海 お船が遠くかすんでる(「「蜜柑の花の咲く丘」)」の歌そのものである。

書斎の窓からみるこの風景をなんとか写真に残してみたいものだと随分前から思っていたが、プロの写真機なら別にして、私の持つ手軽でチャチなデジタルカメラの望遠機能では到底無理だと諦めていた。

しかし、行き交う白い船をみながら、ふとデジタルカメラであっても望遠機能を最大限にし「プログラム撮影」に切り替え「測光モード」を点に絞って船に焦点をあわせてみたら、なんとかなるかもしれないと思い立ち、試に撮影してみた。

写した画像をパソコンに取り込み、できるだけ拡大して適当にトレミングしてみたら、なんとか様になりそうである。

このやり方でもっとうまくやれば、「書斎」から見る海の風景写真に点景として船を添えることができるようになるかかもしれない。

(今回は、急ぎ写してみたので小型の船(多分小型油槽船か漁船?)しか捉えることができなかったが、そのうち豪華客船や大型タンカーなど迫力ある姿を捉えてみたい)

そうなると欲がでる。次は「冬の夜の海に点滅するいさり火」にチャレンジしてみたい。あの夢幻のような情景をなんとかとらえることができたら申し分ないのだが、こいつだけはデジカメでは無理かもしれない。

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早朝の農作業に励む

2011年07月11日 | 園芸

7月11日(月)

昨日と同様、朝5:30に起きて「IKOI農場」に行く。雑草とり、水遣り、野菜の収穫、それに「生ごみ」のコンポスト投入が主な作業。

胡瓜の収穫は今が最盛期、一日10数本とれる。とるのを一日遅らせれば巨大な「化け物胡瓜」になってしまう。近所に配る以外に適当な処分方法がみつからないのが困る。

 

今朝は私の早朝作業にならって「IKOI農場」のお仲間Mr.IWもやってきた。

独りで自然と対話しながら黙々と行う農作業はけっして悪いものではないのだが、やはり一人よりお仲間がいるほうが作業ははかどる。

そんなところは、まだ「自然」に完全に溶け込んでいるとはいえない「人懐かしさ」の残滓が私のどこかに残っているのかもしれない。

 


スイートコーン (鳥獣よけのネット張りは完璧、いまは実りを待つだけ)


スイカ (現在数個の実が成長を続けている。そろそろ鳥獣よけのネットを張る必要がある)


胡瓜 (目下最盛期、毎日水遣りが必要。これからいつまで収穫できるか?)


第2弾目の胡瓜 (次世代の胡瓜の苗が順調に育っている。この丁寧な仕掛けは私の仕事ではない)



このような成績のいい野菜作りに私の与かるところははなはだ少なくなった。

この畑を自分ひとりでやろうとしていたら、もう限界だったことは疑いない。

「IKOI農場」を思いついたおかげで、今は年齢に合わせて少しずつ自分の守備範囲を減らしていくことができ、マイペースで「園芸」を楽しむことができる。

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