伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

池地区への散歩 3時間

2011年05月31日 | ウオーク

5月31日(火)-

まだ5月だというのに、数日前から東海・関東地方は梅雨入りだという。何日も雨と曇が続いていたところ、今日の午前中は天気予報どおりに梅雨の合間の貴重な晴日となった。

絶好のこの散歩の機会を逃すわけにはいかない、とMr.TBと池地区に向かって散歩に出掛ける。

野山にはまだ瑞々しい緑が残っており、この時期ならではの快い散歩となった。結局3時間、13000歩のまことに満ち足りた歩みとなった。

 


出発時の庭からの眺め、梅雨期とはいえない素敵なお天気。これなら散歩にはもってこい。


爽やかな風にあおられ葉裏を返す樹


やわらかい淡緑に全山覆われた大室山。今頃が一番美しい。


池地区入口付近の緑の樹間を通り抜ける。


 目下田植えが進行中


もみじ。紅と緑の鮮やかな対照。


花を一杯付けた樹 (名知らず)

 

 
今に残る懐かしい田園風景。個人的には貴重な歴史的文化遺産だと思っている。

 

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庭でのガーデニング

2011年05月27日 | 園芸

5月26日(木)

明日から天気が下り坂だという。野菜の方は当面やるべき作業はほとんどないので、本来家内の担当というべき庭の作業(花壇の雑草取り程度だが)をやる。

この時期は、花がきれいに咲き揃っているし、気持ちいい空気の下での雑草取りも結構楽しくやることができる。

いつも眺める角度とは別の角度から写真を撮ってみた。


満開の花柚の花の香りとその姿

 

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脚力に限界を感じる

2011年05月26日 | ウオーク

5月25日(水)

車を車検に出した。自分の車でなく代車となると運転をするのはあまり気乗りしない。臆病になっているのか。

散歩という意味合いもあるということで、桜並木通りを下って伊豆高原駅に出て銀行などの用務をこなすことにした。

これまでの桜並木通りの歩道は随所に桜の根が道を持ちあげて凹凸が激しく、到底「歩道」とは言えないような歩き難い道だったが、今年の春、2年越しの整備工事が終わって観光スポットに恥じない文字通りの立派な「歩道」が出来上がっている。

おかげで、往路はまことに気持ちよく緑のトンネルを通って下っていったが、駅まで普通に歩いて30分もかかった。これまでは所要時間25分と踏んでいたのだが、「老い」からくる脚力の衰えはいかんともしがたい。

 


伊豆高原駅に着き、駅前の樟は20年前も大きな木ではあったが、いつのまにか過ぎ去った歳月が辺りを圧する見事な巨樹の威容を作り上げている。


樟の根元に作られたおしゃれな水飲み場。


高原口から望む大室山もすっかり緑に覆われた。


さんざん駅の反対側である八幡野口からは矢筈山が望まれる。


歩き回った末、帰路も桜並木通りを登るつもりであったが、これは自覚が足らなかった。途中で完全にギブアップ。

「高原中央」バス停でバスを待ち、なんとか乗って帰る。

この無様なていらくも初めての経験、改めて老いがひそかに忍び寄っていることを知る。歩数は1万歩だったのに……。


途中で見る赤と白の咲き分け。この時期、あちらこちらで見かける木で、確か「ウツギ」と教えられたような記憶があるが……果たして?

 

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久し振りの東京

2011年05月24日 | 日記

5月23日(月)

K会の理事会へ出席するため久し振りに東京に出る。今年2度目。

最近は伊豆高原にすっかり安住してしまいおのずと東京が遠のいてしまっていることもあって、こと改めて服装を改め出掛けることにはなにか気重を感じる。

しかし、気を取り直して出掛けてみれば、それなりに大都会の持つあの独特の雰囲気に触れてなにやらしゃんとした気分にはなるし、会で最近の急激な世の中の変化にかかわる最新情報も興味深い。

それにしてもいつの間にか、理事会では私が最長老になってしまっている。これはまったく「想定外」。

現役時代と同じような接遇を受けて悪い気はしないが、それだけに「老害」と言われることがないよう、よほど注意しなければなるまい。いや、そんなことやりやめるべき時期にきているのかもしれない。

それはそれとして、緑に囲まれた伊豆とは異質のかつて見慣れた高層ビルから見る街の姿は懐かしくもあり新鮮に感じでもある。

 

池袋のホテル・メトロポリタン24階から下界を見る

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「IKOI農場」春の収穫祭?

2011年05月21日 | 園芸

5月21日(土)

陽気はかなり暑さを増してきたが、まだ農作業は快適にできる。今日はIKOI農場の「収穫祭」を名目にした4家族8名フルメンバーの集まり。

「収穫祭」といったところで、今収穫して食卓に乗せられるのは玉ねぎ、ソラマメ、絹さや、豌豆、大根、蕪、レタスくらいのものだが…。

♂群はそれぞれしかるべき農作業、♀群はそれぞれが持ち寄った食材を使うなど食事の準備。

昼食はパーゴラの下で豪華?な宴会となった。

パーゴラ全体を覆うグリーン・カーテンというかグリーン・シーリングになるはずのハヤトウリは、まだまだ芽生えたばかりの小さな苗でしかない。

しかし、この小さなたった一つの苗が、やがて夏から秋にかけて蔓を伸ばして緑の葉を全面に拡げ、100ヶ以上の拳大の実をならせる。

 

 

 


昨年柱の片隅に芽生えた小さなハヤトウリの苗


 
10月15日のハヤトウリの状況  (2010年12月15日のブログ「IKOI農場」野菜報告 )

今日は幸い風がないので、ハヤトウリの代わりにガーデンパラソルを二つ乗せて日陰を作る。

 

 

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室内の花、忘れていた

2011年05月19日 | 園芸

5月19日(木)

庭にある花を撮影していたら、室内にある花をすっかり忘れていたので追加する。


門の前の花も忘れていた。


 これは花ではないが、それなりに美しい馬酔木の若葉

 

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この時期、庭の花々

2011年05月17日 | 園芸

5月17日(火)

IKOI農場の野菜・果樹は順調な生育振りだが、家内 がもっぱら世話をしている我が家の庭の花々も一応記録に残しておかねば片手落ちとなろう。

昨日と今日、多少庭いじりの手伝いをしたこともあり、庭の花の撮影もすることにした。

一つ一つ撮影しようと構えたら、全体を何気なく眺めているのとは違って、それぞれの花の色合い・形・大きさなどの多様性を改めて認識した。写すのは簡単だが、あまり沢山あるので花の名前を調べて憶えるのが大変。

野菜とは違い、花には花の魅力がある。今日は撮影には不向きと思われる曇日だが、撮影してみればこの季節の花はいずれもあでやかである。

 

 

 

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申し分ない最高の園芸日

2011年05月15日 | 園芸

5月14日(土)

こんな日こそ最高の園芸日といっていいだろう。穏やかな暖かい日差し、香りを運ぶ爽やかな風、暑くもなく寒くもなく、大敵の蚊もまだ出現していない。

美しい自然に全身がすっぽりと包まれ緑の世界に漂いながら土を弄っている。

家内たちの「吊るし雛教室」と重なる日を原則「IKOI農場」の作業日に当てているが、日頃の手入れが行き届いているためあまりやるべきことは多くない。

Mr.IW&ITと3人、農作業に追われることなく、のんびり終日それぞれ好き勝手に農作業を楽しんでいる。

農場も今頃が一番きれいな姿を呈している。

 

 
緑いっぱいのIKOI農場


休息所横には花


柑橘類の花も

 果樹にも花芽


野菜類も元気

胡瓜牛蒡も順調


胡瓜も


 

 

 

 

 

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初夏の雛飾り

2011年05月09日 | 手作り

5月9日(月)

端午の節句が終わったので、玄関の雛飾りを初夏向きのものに入れ替える。




オオヤマレンゲ


アヤメ


ナツツバキ


テッセン

 
アサガオ

 

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「いろは」からの連想 ① (「三金会雑記」夏号原稿)

2011年05月07日 | 三金会雑記

先日「大室高原歩こう会」で修善寺の北側にあたる「奥の院」とその周辺を歩いてきた。 

 

修善寺周辺には弘法大師=空海ゆかりの場所がいくつかある。

 

修善寺の街中には空海が独鈷を衝いたところから温泉が噴き出したと伝えられる「独鈷の湯」があり、奥の院の横を流れる湯舟川の上流には空海が突き刺した桂の杖が成長して樹齢千年を超える桂の大木となったという「桂大師」がある。 

 

「奥の院」も空海が一八歳のときに滝に打たれながら修業したところだと言い伝えられている。

 

「奥の院」を出てその近辺を歩いていたら、たまたま道端に「奥の院道」という道標があるのを見掛けた。その道の名称らしい。

しばらくその道をたどったが、道に沿って一定の間隔で同じような石柱が立てられているのに気付いた。

 

最初に気付いた石柱の頭には「き」という文字が刻み込まれており、次に見掛けたのが「さ」、その次が「あ」という字であった。

 

 その後すぐに帰りのバスに乗ったから、見掛けた道標は三本だけだったが、どうやらこの道には同じ石柱がいくつも設けられているらしい。

 

「きさあ」という文字の配列、いや反対からは「あさき」となるが、この文字列がなんだかが気になった。

 

一緒に歩いたI氏とあれこれ考えてみたが、これはひょっとしたら「いろは歌」の「浅き夢みし」の仮名ではあるまいかということになった。

 

 この辺りの生まれだというバスの運転手さんにも聞いてみたが、この石碑のことは彼は知らないという。

 

 

 

 

帰宅したらI氏からメールがあり、インターネットで調べたら、この道はやはり「いろは道」で、その道標であると教えられた。

 

「いろは道」は、「修善寺」にある「い」から始まって「奥の院」の「ん」で終わり、全行程五キロメートル、歩いて一時間半のなだらかな登り道だとある。

 

 

 

 

「いろは歌」は弘法大師=空海の作とされているから、空海ゆかりの「修善寺」から「奥の院」に至る道が「いろは道」と名付けられているのはもっともなことだと納得した。

 

「いろは」にかかわる道といえば、日光に有名な「いろは坂」があるが、「いろは道」というのはこれまでに聞いたことがなかった。

 

大師伝説ゆかりの地は日本全国各地に散らばっているからほかにもありそうだと思い、インターネットで調べてみたが、その限りでは修善寺の「いろは道」のほかには存在していないようである。

 

修善寺は伊豆高原から車で一時間少しあれば行き着くところでもあり、往復一〇キロメートルの道ならウオーキングの距離としては真に手頃である。いずれ近いうちにこの道を歩いてみたいと思っている。

 

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「いろは」からの連想 ② (「三金会雑記」夏号原稿)

2011年05月07日 | 三金会雑記

 

 

ところで、これが切っ掛けとなって「いろは」とはそもそも何だろうかと考えるようになった。

 

たまたま司馬遼太郎の「空海の風景」を何十年振りかに読み返していたところであり、その影響もあったのかもしれない。

 

 

戦前に生まれた我々世代では、誰もが物心つく頃から「いろは四七文字」を習い覚えさせられたものである。

 

 

仮名四七字すべてが一字も重複することなく、語呂よくなめらかに口ずさめて幼児でも記憶できるので、「いろは」とは勉強=文字の習い始めだった。

 

「いろは」は七文字区切りで機械的に覚えさせられたが、最後に「ん」を付けるのが習わしだったと思う。「いろはカルタ」というのが教材によく使われた。

 

 

 

だが、長ずるに及んで、この「いろは」が七文字区切りで覚える単なる文字の連続ではなく、七五調八句で構成される意味深い歌であることを知るようになったのは、いつのことだったのだろうか。

 

その点について一向に記憶がない。学校での正規の授業や講義などで学んだものでないことだけは確かである。

 

色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて 浅き夢みじ 酔いもせず

 

この格調高く意味ありげな歌は、これまで弘法大師=空海が作ったものだとされてきた。

 

一二世紀に空海の弟子筋に当たる覚鑁が「いろは歌」は涅槃経の

 

「諸行無常 是生滅法

 生滅滅巳 寂滅為楽」

 

の和訳だとしている。

 

 この歌の字句を正しく読み解くことはできないとしても、中学生くらいなら

 

「この世の存在はうつろい行くもの 存在に不滅不変なものはありえず 生じ滅する」

 

とでもいった無常観を歌った歌であるらしいことはムード的には理解できたであろう。

 

 しかし、考えてみれば、人の世のはかなさを歌ったこのような歌が果たして幼児の文字習いの教材として適当だったのであろうか。

 

 内容的には子供にはおよそ不似合な暗い歌が長く語り継がれて教育に使われてきた理由はなんなのだろうか。

 

 「いろは歌」には、すべての日本人が共有している「世のはかなさ」を素直に受け入れさせる心情もしくは感性みたいなものが読み込まれているからなのだろうか。

 

 中世文学の傑作とされる鴨長明の「方丈記」には

「ゆく川の流れは絶えずして しかも本の水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまることなし 世の中にある人とすみかと またかくの如し」 とあるし

 

「平家物語」の冒頭は 

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人は久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ」 とある。

 

 また、織田信長が好んだという「幸若舞」の一節

「人生五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか」 もよく知られている。

 

 こうした無常観は必ずしも人生否定的なものではなく、日本人の心に潜む宗教的心情というより、むしろ風土に培われたある種の「美意識」ともいうべきものでもあるように思える。

 

 ダイヤモンドに永遠の輝きを見て美を感じる西欧人とは異なり、桜が散りゆく姿にこそ美を感じ取るのが日本人なのである。

 

 教える側の親や教師にこうした美意識なり感性があったから「いろは歌」が教育の場に受容されてきたのかもしれない。

 

 

 ところで、この「いろは歌」は一般には弘法大師=空海が作ったものだと信じられてきていたが、最近の史的考証から空海の作ではないとするのが通説となっているようである。

 

 なるほどそう言われてみると、司馬遼太郎が「空海の風景」で描いている空海の人物像や仏教思想からは「いろは歌」はおよそ似つかわしくない内容にも思えてくる。

 

 仮名文字すべてを重複することなく読み込み、しかも仏教思想の深い意味合いを持つ歌に作り上げるなど神業に近く、そんなことができたのは超人的才能を持つ空海くらいしかいないと思われてきたからではないであろうか。

 

 かといって、誰が作ったのか、となると今のところ皆目分かっていないようである。

 

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「いろは」からの連想 ③ (「三金会雑記」夏号原稿)

2011年05月07日 | 三金会雑記

 

 これに関連して、この完璧に近い歌にはさらに隠された意味があるという説もあり、そうであれば、この歌はいよいよただならぬものとなる。

 

七文字目を読みつなぐと別の意味が込められているという七折句という和歌の技法で「いろは歌」をみると、七字目に「とかなくてしす(咎なくて死す)」という不気味な言葉が浮かび上がってくる。

 

いろはにほへ ちりぬるをわ よたれそつね  らむういのお やまけふこえ あさきゆめみ

 

えひもせ

 

そんな暗号文字が意図的に隠されているとするなら「いろは歌」が作られたらしい平安期において無実の悲運に泣いた大学者や名歌人の作だと考えることもできる。

 

例えば菅原道真とか柿本人麻呂とか、あるいは万葉集などに出てくる悲劇的な最後をとげた才能ある皇子や皇族または朝臣の誰か。

 

また、「罪なくて死す」とはキリストにもいえる。

  

「いろは歌」をキリスト教と関係付けて説くなど荒唐無稽と思われるが、遣唐使が訪れた唐の都長安では儒教、仏教、道教だけでなくキリスト教の一派である「景教」(ネストリウス教)も盛んだったという史実があり、遣唐使一行も接触しているから、あながち笑い捨てるわけにはいかないかもしれない。

  

キリスト教の聖典「旧約聖書」にも「いろは歌」に似た言葉がある。

「肉なるものは皆 草にひとしい 永らえても すべては野の花のようなもの 草は枯れ 花はしぼむ (イザヤ書四〇章六、七説)」

 

なお、これは遥か後世に属し「作」とは関係ないが人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」のいろは四七士も「とがなくてしす」であり、なにか因縁めいている。

 

七文字目を読み込む「折句」を強牽付会だとすることはできない。

 

 

 

言葉遊びとして古くから「(くつ)(かんむり)」という更に複雑な暗号まがいの技法も存在していたのである。

 

(くつ)(かんむり)」とは、句の上と下にそれぞれ特別の字を入れ暗号まがいに作るという手の込んだ和歌の技巧である。

  

よく知られている歌に「徒然草」の作家吉田兼好がある。

 

「夜も涼し 寝覚めのかりほ 手枕も まそでも秋に へだてなき風」

 

もすず ざめのかり まくら 

そでもあき だてなきか

 

各句の上の文字は 「(よね)(たま)下の文字は後ろから読んで「(ぜに)ほしとなる。

 

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「いろは」からの連想 ④ (「三金会雑記」夏号原稿)

2011年05月07日 | 三金会雑記

こんなふうに「いろは歌」にすっかり嵌まり込んでしまったら、今度は「いろは歌」と同じように四七文字(「ん」を加えれば四八文字)を読み込んだ歌がほかにもあるかどうか知りたくなった。

 

調べてみたらいろいろとある。

 

江戸時代における国学の大家本居宣長が作った「雨降り歌」は「いろは歌」には到底及ばぬものの、なかなかの出来である。

 

「雨降れば 井堰(いせき)を越ゆる (みつ)分けて 安く(もろ)人 (お)り立ち植えし (むら)(なえ)

 

その稲よ (ま)(ほ)(さかえ)ぬ」

 

あめふれは いせきをこゆる みつわけて やすくもろひと おりたちうゑし むらなへ そのいねよ まほにさかえぬ

 

 

同じ国学者の堀田恒山が作ったのもある。

 

「春ごろ植ゑし 相生(あいおゐ)の 根松行く(へ) にほふなり (よわひ)を末や (かさ)ぬらむ 君も千歳(ちとせ)

 

 めでたけれ」

 

はるころうゑし あいおゐの ねまつゆくえ にほふなり よわひをすへや かさぬらむ きみもちとせそ めてたけれ

 

 

 

 

近代に入って作られたものとして著名なのが「鳥啼き歌」である。

 

明治三八年に「いろは歌」に代わる新しい同音の歌が募集され、これに応じた坂本百次郎という教師が作ったもので、なかなかよく出来ている。しかも、この歌は「ん」を入れて四八文字すべてが使われている。

 

「鳥啼く声す 夢さませ 見よ明け渡る(ひんがし)を 空色映えて (おきつ)へに 帆舟群れゐぬ 靄のうち」

 

とりなくこえす ゆめさませ みよあけわたる ひんかしを そらいろはえて おきつへに ほふねむれゐぬ もやのうち

 

 推測するに、明治政府が暗い響きをもった「いろは歌」が近代日本にふさわしくないと考え、これに代わる新しい歌を求めたのではあるまいか。

 

 しかし、この歌は結局のところ「いろは歌」に代わって国中にひろまることはなかった。

 

 

 

戦後になって作られたものとしては、こんなものもあるようだ。これも四八文字である。

 

「乙女花摘む 野辺見えて 我待ち居たる 夕風よ 鴬来けん 大空に 音色も優し 声ありぬ」

 

をとめはなつむ のへみえて われまちゐたる ゆふかせよ うくひすきけん おほそらに ねいろもやさし こゑありぬ

 

 

このようにあれこれ見てくると、日本語は言葉を自在に操ることができ、歌の巧者も多いように思う。

 

まさしく「敷島の 大和の国は 言霊(ことだま)のたすくる国ぞ まさきくありこそ(万葉集・柿本人麻呂)」である。

 

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「いろは」からの連想 ⑤ (「三金会雑記」夏号原稿)

2011年05月07日 | 三金会雑記

 

 

そう思っていたら、あに図らんやで、外国でも事情は変わらず言葉遊びがいろいろあるようで、これは世界共通のものらしい。

新約聖書には「はじめに言葉ありき 言葉は神と共にありき 言葉は神なりき」(ヨハネ福音書一章一節)というのがある。

 

 

 

西洋の「言葉遊び」として

 

まずはパングラムpangramという技法。

 

パングラムとは、アルファベット二六文字を重複させずに使って文章を作る言葉遊びで、その中でもすべての文字を使いきる「完全パングラム」を作るのは至難の業だという。

 

 「完全パングラム」で「いろは歌」のように特別の深い意味を持たせるまで作り上げることは不可能のようである。

 

パングラムでよく知られているのは次の文章。

 

The quick brown fox jumped over the lazy dogs.

 

 この文意はたわいないものだが、うまく出来ている。これですべてのキーが叩けるので、昔のタイプライターの試し打ちに使われたそうだ。

 

 

 

アナグラム anagrms というのもある。

 

これは単語の文字をバラバラにして組み替え別の単語に作り替える言葉遊びである。例えば

 

Statue of Liberty → built to stay free

 

数年前に世界的なベストセラーになったダン・ブラウンの小説「ダ・ビンチ コード」ではアナグラムで暗号文の謎解きする筋書になっている。

 

 

 

更に、アナグラムからパリンドローム palindromes に連想が飛ぶ。

 

日本語ではこれを「回文」という。

 

前から読んでも「山本山」、後ろから読んでも「山本山」という海苔店のテレビのコマーシャルがあったが、あの類いだ。

 

 

 英語のパリンドロームとして最も有名なのは、エデンの園で男女初対面の会話 

 

Madam, I’m Adam 

 

というのがあり、エルバ島に流されたナポレオンの嘆きというのもなかなかの出来だ。

 

Able was I ere I saw Elba

 (エルバ島を見るまでは私には力があった。)

 

 

中国には古代から「回文詩」という詩形式があるが、これは初めから順に読んでも、逆から読んでも詩になるというもので、パリンドロームや日本の「回文」とはちょっと違う。

 

「回文詩」は数多く作られているが、代表するものとしては五世紀南斉の王融の作「春遊廻文詩」を掲げておこう。

しかし、これは中国語ができないとちょっと理解できない。

 

枝分柳塞北 葉暗關東 垂條逐絮轉 落蕊散花叢

池蓮照曉月 幔錦拂朝風 低吹雜綸羽 薄粉豔粧紅

離情隔遠道 歎結深閨中

 

 日本の回文と同じ形式では梁の簡文帝が作ったというのがある。

 

塩飛乱蝶舞、花落飄粉匳、匳粉飄落花、舞蝶乱飛塩

 

 

 「詠雪」と題して降る雪を詠った漢詩だが、なんとなく分かりはするが、これもさっぱり。

 

日本語の回文は作り易いようで、今でも趣味として盛んに作られているようだ。

 

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「いろは」からの連想 ⑥ (「三金会雑記」夏号原稿)

2011年05月07日 | 三金会雑記

最近の作で面白そうなのをいくつか拾ってみると

 

 

「時計は叫ぶ 今朝は行けと」

トケイハサケブケサハイケト

 

「内科で 薬のリスク でかいな」

ナイカデクスリノリスクデカイナ

 

「力士 塩なめ直し 仕切り」

リキシシオナメナオシシキリ

 

「軽い機敏な子猫 何匹いるか」 

カルイキビンナコネコナンビキイルカ

 

「くよくよしない男児の 甚大な食欲」 

クヨクヨシナイダンジノジンダイナショクヨク

 

「年末はつまんね」 

ネンマツハツマンネ

 

 

などがあり、ちょっとふざけているがうまいと感心するのは

 

「世の中ね 顔かお金か なのよ」 

ヨノナカネカオカオカネカナノヨ

 

「寝ている私に何した 悪い手ね」 

ネテイルワタシニナニシタワルイテネ

 

「いいことを男言い」 

イイコトオオトコイイ

 

「キスが好き」 キスガスキ

 

「駄目だ 如何にもてても 二回駄目だ」 

ダメダイカニモテテモニカイダメダ

 

などが目につく。

 

 

昔風のちょっと上品なものでは

 

「よき角の鹿よ 来よかし 野の月夜 」 

ヨキツノノシカヨコヨカシノノツキヨ

 

「草の名は 知らず珍し 花の咲く」 

クサノナハシラスメスラシハナノサク

 

「和歌山や はるか光るは 山や川」

ワカヤマヤハルカヒカルハヤマヤカワ

 

 

長文ほど難しくなるが、長いものとしてこれはどうだろうか。

 

「住まいは田舎がいい 森と日溜まりで一寝入り 飛ぶ鳥 稲と日照り まだ独りもいいが 家内はいます」 

スマイハイナカガイイモリトヒダマリデヒトネイリトブトリイネトヒデリマダヒトリモイイガカナイハイマス

 

 

 これらは、いずれも近年の作である。

 

 

しかし、回文は昔から和歌でも優れたものが沢山作られており、歌集などに多く記録されている。

 

 そのいくつか拾ってみると

 

 

平安期における藤原基俊の和歌

 

「群草に 草の名は もし備はらば なぞしも 花の咲くに 咲くらむ」 

ムラクサニクサノナハモシソナハラハナソシモ ハナノサクニサクラム

 

 

 鎌倉初期では藤原隆信の「廻文歌」

「白波の 高き音すら 長浜は 必ず遠き 潟のみならし」
シラナミノタカキオトスラナカハマハカナラストオキカタノミナラシ

 

「茂る葉もかざして 岩間闇砕く 御山は出でじ 坂も遥けし」
シケルハモカサシテイワマヤミクタクミヤマハイテシサカモハルケシ

 

南北朝時代になると『続草庵集』に

(と)く立たじ 里の(たかむら) 雪白し消ゆらむ方の 閉ざしたたくと」
トクタタシサトノタカムラユキシロシキユラムカタノトサシタタクト

 

 

江戸期に入ると回文は「花鳥風月」などを詠う高雅なものから、より世俗的なテーマで楽しむ「狂歌」風のものが多くなる。

 

「身の留守に 来ては折り取る この花は 残る鳥をば 敵にするのみ」
ミノルスニキテハオリトルコノハナハノコルトリヲハテキニスルノミ


「むら芝で 見つつ摘み草 名は知らじ 花咲く見つつ 摘みて走らむ」
ムラシハテミツツツミクサナハシラシハナサクミツツツミテハシラム

 

 

 これらはまともだが、いい初夢をみるために七福神を乗せた宝船に回文狂歌を印刷した紙を枕の下に入れるという風俗が生まれるほどに庶民の間に行き渡るようになったものもある。

 

「長き夜の (とう)の眠りの みな目覚め 波乗り船の 音の良きかな」
ナカキヨノトウノネムリノミナメサメナミノリフネノネノヨキカナ

 

 

 

 「いろは」から始まって、とんでもないところまで連想が飛んでしまった。

 

 紙数の関係もあり、この辺で連想をやめる。

 


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