伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

新春雛揃え

2018年12月29日 | 手作り

12月29日(土)

今年も終わろうとしている。今年一年を回顧する漢字として「災」を大書する僧の姿をTVでみたが、確かに日本各地をさまざまな災害が見舞う禍々しい一年であった。

私個人としてもこれは言える。これまで経験したことのない「大凶」の年回りがこれかと思い知らされた。

願わくば、来るべき年が一転、幸多き年となることを祈る。

新しい年を迎えるにあたって、これまではいろいろとこなすべき仕事や行事がないわけではなかったけれど、今年は病・手術という「大厄」を年末に抱え込み、なにもできない。

老妻にできたことといえば、玄関先の「雛飾り」と「お節料理」の注文だけ。

その一つ。玄関先の「雛揃え」

私もようやくこれをデジカメで写す気力が戻ったよう。



昨夜初雪が降ったらしい。庭の芝生一面を雪が覆っている。晴れ渡り気分がよろしい。

なんだか体力が戻ってきているような気がする。

Mr.TBに誘われて、今日はじめて戸外をウオーキングする。里山の「池地区」を考えたが強風が吹き、この寒さでは歩くのは無理。急遽「さくらの里」に変更、400歩ほど歩く。 「十月桜」が咲いている。

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伊豆高原冬景色

2018年12月25日 | 日記

12月25日(火)

天気予報では「晴」だと報じているのだが、最近の「晴日」はなにか不安定で、陽光が射しても空にはいつも重たげな雲があり、「晴れ時々曇り」いやむしれ「曇り時々晴れ」といった感じの日が多く、我が家の窓からみる伊豆高原の冬景色には今一つ魅力が欠けることが少なくなかった。

そんな天気が病後の体調に反映するのか、回復への足取りが鈍い。

しかし、今朝起きてみれば天気は本当の「冬晴れ」。久しく望んでいた「伊豆高原冬景色」が窓外に広がり嬉しい。久し振りに心を満たし和ませる風景だ。

今日で退院してからちょうど1月が経つ。手術後の「痛さ」「苦しさ」を耐え忍んだ日々をようやく脱したあとの入院生活ではベッドのなかで過ごすだけで秋から冬にかけて変化していく伊豆高原の眺望を思い描きながらひたすら家に帰る日を待ち望んでいたものだ。

そうしてようやく巡り合えたこの景色。デジカメのパノラマで写し取る。

四季をめぐって絶えず変化する伊豆高原一帯の眺望を見る楽しみは、生活の幅が著しく狭められた私にとってもっとも貴重なものかもしれない。


「冬晴れ」になるまでのスナップ。(1階リビングから)

 

2階書斎の窓から

玄関先からみる隣家の庭


退院してから今日まで、病院通いの車に乗るため玄関先に出た以外に家から一歩も出ることなく過ごしてきた。

だが、今日は素晴らしい天気に元気づけられ、思い切ってゴミステーションまで恐々マイカーを運転してみた。なんとかやれた。

自信をつけ、運転後はIKOI農園までの坂道をのろのろ歩きだが歩いてみた。帰りは息が切れたがなんとか歩けた。

IKOI農園では雑草の中で緑の野菜が勢いよく背丈を伸ばしており、柑橘類は黄色い大振りの実を沢山つけている。手出しはできないが眺めるだけで満足。

うん、この調子ならかなりもとの身体にもどることも期待できそうだ。自分の身体を自分のものとして意識できる。

日中はベッドに伏せることがなくなったので昨日は階下にしつらえていたエアベッドを撤去している。すこしづつ元の生活様式に戻りつつある。

 

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間もなく平成が終わる

2018年12月15日 | 雑文

12月15日(土)

平成が間もなく終わろうとしている。明年4月31日がその終日になるようだ。マスコミなどでは平成最後の年として30年間に生起した事件の回顧や歴史の軌跡などがさかんに取り上げられている。

昭和5年に生まれた私は「平成30年の時代」を生き抜いてきたわけだが、率直に言って私の平成時代はあまり明暗のはきりしない起伏の乏しい平坦な人生だったと思う。

もちろん思い返せばこの30年間に起こった変化・変動は人類が経験したことのないような凄まじいものだった。

 国内的には「オウム真理教事件」「阪神淡路大震災」「リーマンショック」「東日本大震災」などがあったし、国際的には「天安門事件」「ベルリンの壁崩壊」「湾岸戦争・イラク戦争・アフガン戦争」「米国同時多発テロ事件」などなど数え上げればきりがない。

しかし私自身の人生にこれらの事件が直接影響することはなかったし、事件は遠くに聞く遠雷の響きのようなものだった。

そんな中、世相の変化が私の生活にもたらしたものを強いて挙げればバブル崩壊による預貯金の減少、パソコンに画期的な変化をもたらしたインターネットの一般化、いつも手元になければ困惑ようになったスマホの出現くらいのものか。いや、孫の誕生、園芸・ウオーキング・パソコンを縁としてつながった地域のお仲間のことも落とすわけにはいくまい。

いずれにせよ、 ゆるやかな流れの中をただよってきた人生だったように思う。

これでは「平成」を終えて、この時代をおくる言葉にはなりようがない。

そんなとき、ふっと思ったのは「第二の人生」に先立つ「第一の人生」である。平成に先立つ「昭和の人生」。

いまはもう「往時茫々」、記憶からも急速に遠ざかりつつあるあの「時代」!あの時はどうだったか。

そうだ、昭和が終わったあの日に私は興奮の極にあって短文を「三金会雑記」に書いていた。

未だに保存している「三金会雑記」全106号の中からその記事を探し出した。

「平成を終わる」と「昭和が終わる」のなんたる違い。読み終えて「懐かしい」ではなく「悲しい」でもなく「空しい」でもない表現しようのない思いが駆け巡った。

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【 三金会雑記 第7号 】 1889年3月

  

平成元年二月二四日、昭和のすべてが終わった。

この日、新宿御苑で行われた「大喪の礼」のため設けられた白いあく舎の中で、私はこの冬一番の寒さに震えながら、百六十三ヶ国、十八国際機関の弔問使節お交えた九千八百人に及ぶ参列者の一人として、昭和天皇をこころから武蔵野御陵へとお見送りしたのである。

昭和の始めに生を受け、六十年になんなんとする長き時間を昭和天皇と供に激動の時代を生きてきた私にとって、この日は、もはや決して新しい時代の到来を告げる日ではなく、この生きた時代の終焉を感じさせる日であった。

     *     *     *     *

思えば、我々世代が生きてきた「昭和」は、壮大な交響曲に似ている。「昭和交響曲」は、暗い調べを伴いながらおどおどろしい戦争の主題を奏でる第一楽章で始まる。そこには、皇軍を閲兵する白馬に跨った大元帥陛下のニュース映画と奉安殿に安置された御真影が重なって見える。その頃、我々は天皇のために死ぬことを当然と受け止めていた。

次いで、激しい乱調にはじまりながら、微かに明るい希望の主題が次第にたかまっていく第二楽章。そこに映し出されるのは、廃墟となった広島と戦後の混乱と復興の中で各地を巡幸された人間天皇の姿である。そして、その頃、我々は荒れ果てた大学のキャンパスで飢えた青春をマルキシズムの洗礼の中で過ごした。当然、そこで天皇は否定的な存在だった。

第三章は、高らかに鳴り響く高度経済成長へのマーチである。長く続くそのマーチの響きの中で、昭和天皇は次第にお歳を召され、弱々しくはかなげな足取りとなりながらも、その象徴としての役割を懸命に努めておられるお姿がある。

その間、東京オリンピックがあり、いつか巨大な近代都市が生まれ、農村にも豊かな稲穂が波打った。その影の部分には、エネルギー革命があり、オイルショックもあったが、そうした異音も全体の高らかな響きの中にいつか飲み込まれて消えた。そして、私といえば、象徴天皇の下、一人の役人として、その時々に与えられた己の仕事を大事と心得、前を見ることもなく、後ろを振り返ることもなく、ひたすら働き続けてきた積りである。

そして、気が付いてみれば、「昭和交響楽」はいつしか第四楽章へと移り進んでいた。それは世界最強の経済大国となり、人類史上類を見ない経済的繁栄を謳歌する歓喜の歌なのだが、そこに流れる低い響きにはなにかしらの世紀末的な不安と恐れを聞き取る人も少なくない。

そして、この偉大な国の繁栄とは裏腹に昭和天皇の健康は徐々に衰え、その最後には壮絶な癌との長い闘いがあった。世界各国からかてない多数の弔問使節を迎えて行われた「大喪の礼」は、そのフィナーレに相応しいといえる。

こうして「昭和交響楽」は、その終章を終えて、最後の余韻を氷雨の中に響かせて今日消えていったのである。

そもそも昭和天皇は私にとって何だったのだろうか。一言で言うなら、昭和天皇は計り知れない重みをもつたアンビバレントな存在だったのだ。わたしの心は昭和の長い時間を通じて絶えずその間を揺れ動いていたといえる。思いは複雑だ。だが、今そのすべてが終わったのである。

     *     *     *     *     

荘重な「明治」とはまた一味違った、厚手の鋼鉄の塊のような深重な色合いを感じさせる「昭和」の語感にくらべれば、「平成」とは何とも軽く薄手のアルミかジュラルミンに似た音色がする。

しかし、それもいいのであろう。「平成」の持つアルミの語感は「軽薄短小」のハイテク時代によく似合うし、これからは宇宙船「地球号」の最も重要な乗り手として国際社会で活躍しなければならない日本にとって、空飛ぶジュラルミンの音色は、それに相応しようにも思えるからである。

(「大喪の日」の夜記す)

 

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天気は今一つだが、島影がくっきり見える日

2018年12月10日 | 日記

12月9日 (日)

iPhoneの局地天気予報「大室高原」「八幡野」「伊東市」は、いずれも「終日快晴」とあったのに、朝起きてみれば重たげな白い雲が海面に垂れ、これでは秋の晴日とはいいがたい。

海の景色を見ること以外にこころ慰めるものがない病床の私にとってこれは痛手だ。

これまでにトイレ、二階の寝室と書斎までの階段昇降が肉体的移動の範囲だったが、昨日は秋の陽に誘われて海を眺めるテラスを杖なしで少し歩いてみた。

今日こそはテラスに出て、と思ったのだが、戸外は寒そうなので諦める。

 

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開胸手術後の初の定期検診

2018年12月06日 | 健康雑感

12月4日(火)///

朝は快晴、それが俄かに曇ったり、時雨たり、そのうち黒い雲が湧き出て雨粒が車窓を激しく打ち付けたりという外出不向きの不安定な天候の中。

(朝はこんなに晴れていたのに)

開胸手術から19日目(退院してから9日)の今日、指定されていた「定期検診」に出掛ける。Mr. & Mrs.TB、家内の三人がかりで車で往復2時間半、ほぼ一日かけての大仕事。(本当に皆様にはお世話になる。)

血液採取、レントゲン、エコーなどなどの検査があって、午後から診察、BNPの数値高く心臓の回復が遅れている指摘があったがおおむね順調か、次回の検診は1月8日。

(午前中の病院はこんなに空いていたのに、午後は満席に)

これから先、元の身体に戻れるかどうかいささか心許ないが、余生を送るに恵まれた「伊豆の自然」にくるまれてそれなりにたのしく過ごせるくらいの身体には戻りたいものだ。

 


 

 

【 私の拙劣気儘なブログの読んでくださり、その再開に祝意を寄せて下さる方がこれほどおられるとは……。有難いことです。これからも頑張ってつづけます。 】 

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生死の境を彷徨う

2018年12月01日 | 健康雑感

12月1日(土)

 

まずは入院経過から

11月9日(金)   伊東市民病院 午後、特別の身体不調はなかったので自分の車を運転し精密検査受診、すぐ車椅子に乗せられて集中治療室に収容される

11月10日(土)  次第に呼吸が苦しくなり、深夜には呼吸困難となって集中治療室で生死の境をさまよう

11月11日(日)  「大動脈弁狭窄症、冠動脈硬化症・低左心機能」による危篤と診断され、伊東在住の家内、横浜在住の長男・長女、八王子在住の二女が呼び出される。

1月12日(月)  伊東市民病院には心臓外科医がいないため、伊豆長岡順天堂病院に救急車で緊急手術のため搬送、再度精密検査を受けてから集中治療室に収容

11月13日(火)  集中治療室      

11月14日(水)  集中治療室 手術は「大動脈置換術(生体弁)ほか」

         手術に伴うリスク  手術死亡率 54.8% 手術死亡率+主要合併症発生率 69.2% 相当に高い死亡率(japanscoreによる)

11月15日(木)  4時間48分の開胸手術

11月16日(金)  集中治療室

11月17日(土)  集中治療室

11月18日(日)  集中治療室

11月19日(月) 午前中、集中治療室から病棟8階の個室に転出 

11月20日 (火) 個室

11月21日 (水) 個室

11月22日 (木) 個室

11月23日 (金) 個室

11月24日 (土) 個室

11月25日(月) 午前中退院、ようやく我が家へ

リスクの高い手術であったが成功、本日をもって術後18日目、傷日いまも痛む。開胸手術の傷が癒えるには3ヶ月くらいかかるとのこと。


 

思い返せば本年に入ったころから、それまで5000歩以上は歩いていた週1のIKOIウオーキングでは僅かの疲れというか体力不足を感じるようになり4000歩前後にとどまるようになっていたが、これも年齢相当かとさほど気にしていなかった。

9月中旬に風邪を引き、治るまでにいつもより長引くことになったが、その後、急激に体力の衰えをかんじるようになった。上り坂を歩くと息が苦しくなる、胸のあたりに軽い鈍痛を感じる、歩くのが面倒になった。これは今までに感じたことのなものだった。

なんとなく不安になって定期検査日(糖尿、血圧管理)でないのにやまもファミリークリニックで特別な検査を乞うたのがきかっけ。レントゲンとエコー検査の結果、午後には伊東市民病院で精密検査を受けろという。

これまで病院には車で独りで行ってたが、ちょっと引っかかったので、家内を同行し車を運転して伊東市民病院に向かう。

そして即日入院、急激な呼吸困難に陥り、深夜には家内、息子、娘二人が呼び出されるという思ってもみない深刻な事態に。


生まれてこの方、「入院生活」なるものを全く経験しなかった(若い頃「人間ドック」で一泊したことはあったが……)。見るもの聞くものすべてが「初体験」。耐え難い肉体的苦痛のなかで時間だけが目まぐるしく過ぎていった。断片的な記憶だけがちぎれちぎれ飛ぶ。

だが、この瀕死の極限になって、生死の分かれ目に立つ自分が意外に「死」を冷静?な意識でみていたことを知ったのは思いもかけないことであった。

「死」にゆくことへの悲しみもなく、恨みなどもとよりなく、恐れもなく、死ぬってこういうことなんだと平静に客観視する目。

さほどの才能に恵まれることなく、むしろ劣った能力の方が多いことを自覚しながら、自分なりに生きかくも満ち足りた88歳の人生を送れたとは、ゆうことなし。

いまも鮮やかに記憶していることは、この生き死にの際に、私は何と、藤原業平の辞世を思い返していたのである。

「 ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを 」

なるほど業平の歌はこういうことだったのか、と。

嘘のように思われるかもしれにが、これは本当である。


暗く息の詰まりそうな「集中治療室」を出て、新築された病棟8階にの明るい個室に入ったときようやく生きてる実感が湧いた。

伊豆長岡は富士山のよくみえるところ、あいにく病窓から富士山は直接みえないが、秋色を深めた山肌が目の前に。

開胸手術の後は未だに痛む。もとの身体に戻るにはまだしばらくはかかりそうである。

健康を取り戻してみても89歳、これから長寿にめぐまれてもせいぜい5年くらいか。いずれ人間として「死」を迎える。

今回の病が私にもたらしてくれた最大のものはといえば、「死」の模擬試験を受けてきたようななもの。私にとって「死」に不安はなく、その時は安心して受け入れられることを知ったこと。


 

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