松阪市内には名勝、名山、城跡、遺跡、古墳、神社、お寺、廃寺跡、街並み、公園、名木、祭り、神事、食、名産、郷土の偉人など、歴史的・文化的遺産がたくさんあります。それらの中には誰もが知っているものもあれば、その土地の人にだけにしか知られていないものもあります。
これらの名所・旧跡をめぐっていく松阪史跡探訪会を平成25年に立ち上げ、10回100ヶ所を当面の目標としてスタートしました。これまでにも第1回の和歌山街道めぐり、第2回の嬉野方面めぐり、第3回の櫛田川流域めぐりを行っています。
各見学地ではその地の詳しい方から説明を受けたり、資料をいただいています。これから得た知識と、他の資料を調べて、順次紹介していきたいと思います。第1回は神服織機殿神社・神麻続機殿神社です。
◆神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)(松阪市大垣内町)
(神服織機殿神社(左)と八尋殿(右)
神服織機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「下館(しもだち)さん」「下機殿(しもはたでん)」と呼びます。
神服織機殿神社は伊勢神宮の神御衣(かんみそ-神さまの衣)の内、和妙(にぎたえ-絹のこと)を奉織する機殿(八尋殿 やひろどの)の守護神を祀っており、毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する和妙を織る行事が行われます。
この地方は古くから紡織業と関係が深く、神様に絹や麻を奉織する服部神部(はとりかんべ)という人が住んでいたといわれています。現在も下御糸、上御糸、中麻績(なかおみ)機殿、服部などの紡績に関する地名が残っています。
(神服織機殿神社正門) (境内を横切る農業用水路)
同社の境内の林の中に農業用水路が横断している。この水路は飢饉続きで農民が苦しんでいる慶安3年(1650)5月20日、見るに見かねた代官福井文右衛門が、境内に農民に命じて1晩で掘らせたもので、次の日の朝、水が流れて農民たちが喜ぶとき、福井文右衛門は責任を取って切腹しました。それから毎年、5月21日の文右衛門の命日には、出間の人々は神福寺に集まり供養続けているということです。
◆神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)(松阪市井口中町)
(神麻続機殿神社(左)と八尋殿(右)
神麻続機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「上館(かみだち)さん」「上機殿(かみはたでん)」と呼びます。
神麻続機殿神社は神御衣の内、荒妙(あらたえ 麻のこと)を織って伊勢神宮に奉納します。毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する荒妙を織る行事が行われます。
この地方も古代から紡績業が盛んで、同社は荒妙を奉織した麻績氏の祖神・天八坂彦(あめのやさかひこ)命を祀ったと伝えられています。
(神麻続機殿神社の森) (神麻続機殿神社の正門)
神服織機殿神社及び神麻続機殿神社の 御衣奉織行事とは、毎年5月1日~13日と10月1日~13日の間、上機殿と下機殿の八尋殿(やひろでん)に入って、伊勢神宮に奉納する布を織る行事のことをいいます。
布は、巾0.3m、長さ12.5mで、織子(織り手2人と見習い2人)が手と足で操作する機織機を使って織り上げます。上機殿では「荒妙(あらたえ)」と呼ばれる麻の布、下機殿では「和妙(にぎたえ)」と呼ばれる絹の布が織られます。
織子は斎館(社務所)行って風呂で身を清め、白衣と白袴に着替え、禰宜さんのお祓いを受け、八尋殿に入って機を織ります。織られた布は翌日の14日に行われる内宮の神御衣祭(かんみそさい)に奉納されます。
参考資料
・松阪市史第6巻・第8巻 (発行 松阪市)
・神宮広報シリーズ(四)「神宮の和妙と荒妙」(発行 神宮司廳)
・祝部からいただいた資料
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次に示すは史跡めぐりの時に、神服織機殿神社・神麻続機殿神社の祝部(はふりべ)の中川慶次郎さんにいただいた機殿村の起源、御衣奉織(おんぞほうしょく)行事について、そして神麻続機殿神社の境内を横切る農業用水路の由来についての資料をそのまま掲載したものです。
1)機殿の起源
位置
櫛田川、祓川の三角州のほぼ中央部に位置している。東は祓川を隔て、明和町大字志貴、佐田、前野、中海。南は松阪市高木町。西は櫛田川を経て同市清水、管生、上七見、下七見、新屋敷、古井、西黒部の各町。北は同市松名瀬、東黒部、乙部、蓮花寺、大垣内の各町に接続している平坦地である。
地名の由来
古来からこの地方は「井手郷」といわれて麻績(かみ)氏一族の住む所であった。大化2年(646)の改新で井手郷は「多気郡」の一郷になった。白雉(はくち)15年(665)多気郡から分離した「飯野郡」の一郷である。
伊勢皇太神宮が、五十鈴川のほとりに鎮座すると、神宮に関する役目を担当する人が周辺に集まって住んだ。織物を担当する役として当地方に麻績氏が住んで、「神麻績機殿神社」通称(上館、または上機殿)で「荒妙(あらたえ)」を織って皇太神宮に奉納奉仕していた。織物が普及するにつれてこの地方一帯は御糸郷とも呼ばれている。
明治32年(1889)市町村制施行によって、井手郷八か村が合併した。村名についてはいろいろの提案があったので議論を重ねた結果「上機殿」にちなみ「機殿村」になったといわれている。
2)御衣奉織(おんぞほうしょく)行事について
◆神麻續機殿神社
(「上館さん」、「上機殿」と呼ばれている)
松阪市井口中町井出の里
◆神服織機殿神社
(「下館さん」、「下機殿」と呼ばれている)
松阪市大垣内町
御衣奉織行事とは、毎年5月1日~13日と10月1日~13日の間、上機殿と下機殿の八尋殿(やひろでん)に入って、伊勢神宮に奉納する布を織る行事のことをいいます。
布は、巾0.3m、長さ12.5mで、織子(織り手2人と見習い2人)が手と足で操作する機織機を使って織り上げます。上機殿では「荒妙(あらたえ)」と呼ばれる麻の布、下機殿では「和妙(にぎたえ)」と呼ばれる絹の布が織られていることと、織子が上機殿が男の人、下機殿が女の人である以外はその様子は変わりません。
織子は斎館(社務所)行って風呂で身を清め、白衣と白袴に着替え、禰宜さんのお祓いを受け、八尋殿に入って機を織ります。織られた布は翌日の14日に行われる内宮の神御衣祭(かんみそさい)に奉納されます。
上機殿の織子は、井口中町の家が順番で当たっています。サラリーマンにとって2週間近い休みを取るのは大変ですが、自治会の証明書をもって休みの許可をもらっています。どうしても休みが取れない場合は、変わりの人を出すことにしているそうです。
また、下機殿では、以前は大垣内の女の人が織子をしていましたが、戸数が少ない大垣内では、後を継ぐ人がなく、現在は東黒部の女の人が織子をしています。
古い伝統行事を受け継いでいくことは大変なことです。第一に人手不足の問題があります。古くから続いた行事です。これからも末長く織り続けてほしいものです。
◆機織りの里
日本書紀の雄略(ゆうりゃく)天皇14年(470)の条に呉の国から、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)ら紡績の技術を持った帰化人が渡来したことや、飛鳥と伊勢の衣縫の祖先が漢織・呉織であることが書かれています。
この記述を信じるならば、伊勢の機織の歴史は、5世紀後半に始まるのです。承平年間(931~937)につくられた我が国最初の百科事典である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、「麻續郷(おみのさと)」・「呉部郷(くれべのさと)」(現在の黒部は、呉部がかわったと考えられている)として、この地方にも名が出ています。伊勢神宮の御衣(おんぞ)を受け持つことに始まった伊勢の衣縫たちは、松阪市東部から明和町北東部にかけて、紡績の中心地をつくりあげていったのでした。
こうして古代から延々と続いた機織りの技術は、近世に始まった綿の栽培と結びついて、機織物の生産を容易にしたのです。江戸時代、西黒部・東黒部・機殿・下御糸・上御糸は、「御糸五郷(ごいとごきょう)」と呼ばれ、松坂木綿の生産地として有名でした。櫛田川下流のこの地方は、まさに古代から機織りの里であったわけです。
毎年5月と10月の1日から、神麻續機殿神社では荒妙(麻)、神服織機殿神社では和妙(絹)が織られ、14日に神宮に織あがった反物(御衣)を奉納する御衣奉織神事は古代のなごりを今にとどめています。
◆福井文右衛門
《福井文右衛門が代官として保津の代官所にやってきたころのこと》
寛永(1624~1643)の終わりころ、日本は全国的な凶作にみまわれました。当時の農民の税金は年貢といって米で納められていました。年貢は坪刈りといって、秋に適当な田の一部分の稲を刈り取り、その年の出来高を調べ、取れ高のどれだけを年貢として納めるかを決定したのです。次のグラフはその年の収穫量に対する年貢の量を表したものです。
寛永12年--44.8
寛永13年--不明
寛永14年--6.4
寛永15年--31.2
寛永16年--32.8
寛永17年--12.0
寛永13年--32.8
寛永13年--0.16
寛永13年--30.4
平年作の年--67
特別な不作の年でない限り収穫量を100とすると、52~67を年貢として納めさせていました。このグラフに見るように寛永19年の飢饉は年貢がとれないほどひどいものでした。
江戸時代、機殿地区は津の藤堂藩により治められていました。寛永後半に入っての飢餓は年号が変わった慶安に入っても続き、藤堂藩では慶安3年・4年と不作が続き、農民は苦しんでおりました。
文右衛門が代官として保津にきたのは、全国的に大飢饉となっていた慶安1年(1648)、文右衛門52才のときでした。
《ある日・・・・・・・》
文右衛門は、村人の様子を知ることが第一と、村々の視察に余念がありませんでした。ある日の午後、文右衛門が保津を出て、志貴・養川(よかわ)・中村をまわり、出間へやってきたときには、日は西の山にしずみ、あたりはうす暗くなっていました。家々からは明かりがもれ、どの家も夕食を食べている様子でした。
しかし、家の中はひっそりとしていて、子ども達のはしゃぐ声も聞こえてきません。不思議に思った文右衛門が家の中をのぞいてみると、どうしたことでしょう、茶碗に真っ白な銀飯(白米のごはん)が山のように盛られているではありませんか、他の家はどうかとのぞいてみたが、どの家の茶碗にも銀飯が盛られているではありませんか。
「皆が飢饉で苦しんでいるのに、出間の者たちは銀飯を食べている。いったいこれはどういうことだ。」翌日文右衛門は出間の庄屋を代官所によび、きびしくたずねました。「代官様、あれは銀飯などではございません。おから(とうふを作った後のしぼりかす)でございます。わたしどもの村では、このように日照りが続こうものなら、田に水をひこうとしても思うように水がなく、米を作ることができないのでございます。」当時の出間は用水の便が悪く、そのため、水田は耕地の3分の1で、他は畑といった状態でした。庄屋が涙ながらに語る出間の村人の様子を聞いて、文右衛門はある決心をしました。
慶安3年(1650)5月20日、日が西に傾く頃、代官から出間の村人に男女を問わず、働けるものは皆出るようにとの御触れが出されました。文右衛門は、集まった村人を前に、きびしい口調で言いました。「これ村の者、今から機殿神社の境内の東側に、今晩一晩にて南北の水路をほるのじゃ。いいか、夜明けまでにほるのじゃぞ」「お代官様、そんなことをすれば、きっと神宮からきついおとがめがございましょう。いかにお代官様のご命令とは申せ、そればかりはお許しください。」
文右衛門はしりごみする村人たちに言いました。「神宮へは、この私が話しをつけてきた、お前たちは、私の命にしたがって、今夜の内に水路を掘って水を渡せ。よいか、わかったか。」村人たちは代官のすさまじい気迫におどろきました。「わしらの田んぼに水がひけるぞ。こんなうれしいことはない。お代官様の命令じゃ。」
村人達は、一生けんめいに、夜をてっしての作業に取りかかりました。そして夜明け前には、はば1m、長さ220m、深さ90㎝の水路が完成しました。勢いよく流れる水を見ながら、村人達は、肩をだきあって喜び合いました。喜びが一段落して、ふと気が付くと、先ほどまで先頭に立って指揮をしておられたお代官様の姿がありません。村人達の胸に不安がよぎりました。「お代官様、お代官様」村人達が代官所におしかけたとき、文右衛門は、すでに切腹し、帰らぬ人となっていました。そして遺体のそばには、一通の遺書が残されていました。それには、「出間の百姓を救うためとはいえ、神罰を恐れず、神域をけがした罪は重く、この責めは、私一人にあります。どうか百姓たちをお許しください。」という意味のことが書かれてありました。
それから毎年、5月21日の文右衛門の命日には、出間の人々は神福寺に集まり供養続けてきました。(現在は毎年自治会で供養の日が決められる)
これらの名所・旧跡をめぐっていく松阪史跡探訪会を平成25年に立ち上げ、10回100ヶ所を当面の目標としてスタートしました。これまでにも第1回の和歌山街道めぐり、第2回の嬉野方面めぐり、第3回の櫛田川流域めぐりを行っています。
各見学地ではその地の詳しい方から説明を受けたり、資料をいただいています。これから得た知識と、他の資料を調べて、順次紹介していきたいと思います。第1回は神服織機殿神社・神麻続機殿神社です。
◆神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)(松阪市大垣内町)
(神服織機殿神社(左)と八尋殿(右)
神服織機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「下館(しもだち)さん」「下機殿(しもはたでん)」と呼びます。
神服織機殿神社は伊勢神宮の神御衣(かんみそ-神さまの衣)の内、和妙(にぎたえ-絹のこと)を奉織する機殿(八尋殿 やひろどの)の守護神を祀っており、毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する和妙を織る行事が行われます。
この地方は古くから紡織業と関係が深く、神様に絹や麻を奉織する服部神部(はとりかんべ)という人が住んでいたといわれています。現在も下御糸、上御糸、中麻績(なかおみ)機殿、服部などの紡績に関する地名が残っています。
(神服織機殿神社正門) (境内を横切る農業用水路)
同社の境内の林の中に農業用水路が横断している。この水路は飢饉続きで農民が苦しんでいる慶安3年(1650)5月20日、見るに見かねた代官福井文右衛門が、境内に農民に命じて1晩で掘らせたもので、次の日の朝、水が流れて農民たちが喜ぶとき、福井文右衛門は責任を取って切腹しました。それから毎年、5月21日の文右衛門の命日には、出間の人々は神福寺に集まり供養続けているということです。
◆神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)(松阪市井口中町)
(神麻続機殿神社(左)と八尋殿(右)
神麻続機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「上館(かみだち)さん」「上機殿(かみはたでん)」と呼びます。
神麻続機殿神社は神御衣の内、荒妙(あらたえ 麻のこと)を織って伊勢神宮に奉納します。毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する荒妙を織る行事が行われます。
この地方も古代から紡績業が盛んで、同社は荒妙を奉織した麻績氏の祖神・天八坂彦(あめのやさかひこ)命を祀ったと伝えられています。
(神麻続機殿神社の森) (神麻続機殿神社の正門)
神服織機殿神社及び神麻続機殿神社の 御衣奉織行事とは、毎年5月1日~13日と10月1日~13日の間、上機殿と下機殿の八尋殿(やひろでん)に入って、伊勢神宮に奉納する布を織る行事のことをいいます。
布は、巾0.3m、長さ12.5mで、織子(織り手2人と見習い2人)が手と足で操作する機織機を使って織り上げます。上機殿では「荒妙(あらたえ)」と呼ばれる麻の布、下機殿では「和妙(にぎたえ)」と呼ばれる絹の布が織られます。
織子は斎館(社務所)行って風呂で身を清め、白衣と白袴に着替え、禰宜さんのお祓いを受け、八尋殿に入って機を織ります。織られた布は翌日の14日に行われる内宮の神御衣祭(かんみそさい)に奉納されます。
参考資料
・松阪市史第6巻・第8巻 (発行 松阪市)
・神宮広報シリーズ(四)「神宮の和妙と荒妙」(発行 神宮司廳)
・祝部からいただいた資料
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次に示すは史跡めぐりの時に、神服織機殿神社・神麻続機殿神社の祝部(はふりべ)の中川慶次郎さんにいただいた機殿村の起源、御衣奉織(おんぞほうしょく)行事について、そして神麻続機殿神社の境内を横切る農業用水路の由来についての資料をそのまま掲載したものです。
1)機殿の起源
位置
櫛田川、祓川の三角州のほぼ中央部に位置している。東は祓川を隔て、明和町大字志貴、佐田、前野、中海。南は松阪市高木町。西は櫛田川を経て同市清水、管生、上七見、下七見、新屋敷、古井、西黒部の各町。北は同市松名瀬、東黒部、乙部、蓮花寺、大垣内の各町に接続している平坦地である。
地名の由来
古来からこの地方は「井手郷」といわれて麻績(かみ)氏一族の住む所であった。大化2年(646)の改新で井手郷は「多気郡」の一郷になった。白雉(はくち)15年(665)多気郡から分離した「飯野郡」の一郷である。
伊勢皇太神宮が、五十鈴川のほとりに鎮座すると、神宮に関する役目を担当する人が周辺に集まって住んだ。織物を担当する役として当地方に麻績氏が住んで、「神麻績機殿神社」通称(上館、または上機殿)で「荒妙(あらたえ)」を織って皇太神宮に奉納奉仕していた。織物が普及するにつれてこの地方一帯は御糸郷とも呼ばれている。
明治32年(1889)市町村制施行によって、井手郷八か村が合併した。村名についてはいろいろの提案があったので議論を重ねた結果「上機殿」にちなみ「機殿村」になったといわれている。
2)御衣奉織(おんぞほうしょく)行事について
◆神麻續機殿神社
(「上館さん」、「上機殿」と呼ばれている)
松阪市井口中町井出の里
◆神服織機殿神社
(「下館さん」、「下機殿」と呼ばれている)
松阪市大垣内町
御衣奉織行事とは、毎年5月1日~13日と10月1日~13日の間、上機殿と下機殿の八尋殿(やひろでん)に入って、伊勢神宮に奉納する布を織る行事のことをいいます。
布は、巾0.3m、長さ12.5mで、織子(織り手2人と見習い2人)が手と足で操作する機織機を使って織り上げます。上機殿では「荒妙(あらたえ)」と呼ばれる麻の布、下機殿では「和妙(にぎたえ)」と呼ばれる絹の布が織られていることと、織子が上機殿が男の人、下機殿が女の人である以外はその様子は変わりません。
織子は斎館(社務所)行って風呂で身を清め、白衣と白袴に着替え、禰宜さんのお祓いを受け、八尋殿に入って機を織ります。織られた布は翌日の14日に行われる内宮の神御衣祭(かんみそさい)に奉納されます。
上機殿の織子は、井口中町の家が順番で当たっています。サラリーマンにとって2週間近い休みを取るのは大変ですが、自治会の証明書をもって休みの許可をもらっています。どうしても休みが取れない場合は、変わりの人を出すことにしているそうです。
また、下機殿では、以前は大垣内の女の人が織子をしていましたが、戸数が少ない大垣内では、後を継ぐ人がなく、現在は東黒部の女の人が織子をしています。
古い伝統行事を受け継いでいくことは大変なことです。第一に人手不足の問題があります。古くから続いた行事です。これからも末長く織り続けてほしいものです。
◆機織りの里
日本書紀の雄略(ゆうりゃく)天皇14年(470)の条に呉の国から、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)ら紡績の技術を持った帰化人が渡来したことや、飛鳥と伊勢の衣縫の祖先が漢織・呉織であることが書かれています。
この記述を信じるならば、伊勢の機織の歴史は、5世紀後半に始まるのです。承平年間(931~937)につくられた我が国最初の百科事典である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、「麻續郷(おみのさと)」・「呉部郷(くれべのさと)」(現在の黒部は、呉部がかわったと考えられている)として、この地方にも名が出ています。伊勢神宮の御衣(おんぞ)を受け持つことに始まった伊勢の衣縫たちは、松阪市東部から明和町北東部にかけて、紡績の中心地をつくりあげていったのでした。
こうして古代から延々と続いた機織りの技術は、近世に始まった綿の栽培と結びついて、機織物の生産を容易にしたのです。江戸時代、西黒部・東黒部・機殿・下御糸・上御糸は、「御糸五郷(ごいとごきょう)」と呼ばれ、松坂木綿の生産地として有名でした。櫛田川下流のこの地方は、まさに古代から機織りの里であったわけです。
毎年5月と10月の1日から、神麻續機殿神社では荒妙(麻)、神服織機殿神社では和妙(絹)が織られ、14日に神宮に織あがった反物(御衣)を奉納する御衣奉織神事は古代のなごりを今にとどめています。
◆福井文右衛門
《福井文右衛門が代官として保津の代官所にやってきたころのこと》
寛永(1624~1643)の終わりころ、日本は全国的な凶作にみまわれました。当時の農民の税金は年貢といって米で納められていました。年貢は坪刈りといって、秋に適当な田の一部分の稲を刈り取り、その年の出来高を調べ、取れ高のどれだけを年貢として納めるかを決定したのです。次のグラフはその年の収穫量に対する年貢の量を表したものです。
寛永12年--44.8
寛永13年--不明
寛永14年--6.4
寛永15年--31.2
寛永16年--32.8
寛永17年--12.0
寛永13年--32.8
寛永13年--0.16
寛永13年--30.4
平年作の年--67
特別な不作の年でない限り収穫量を100とすると、52~67を年貢として納めさせていました。このグラフに見るように寛永19年の飢饉は年貢がとれないほどひどいものでした。
江戸時代、機殿地区は津の藤堂藩により治められていました。寛永後半に入っての飢餓は年号が変わった慶安に入っても続き、藤堂藩では慶安3年・4年と不作が続き、農民は苦しんでおりました。
文右衛門が代官として保津にきたのは、全国的に大飢饉となっていた慶安1年(1648)、文右衛門52才のときでした。
《ある日・・・・・・・》
文右衛門は、村人の様子を知ることが第一と、村々の視察に余念がありませんでした。ある日の午後、文右衛門が保津を出て、志貴・養川(よかわ)・中村をまわり、出間へやってきたときには、日は西の山にしずみ、あたりはうす暗くなっていました。家々からは明かりがもれ、どの家も夕食を食べている様子でした。
しかし、家の中はひっそりとしていて、子ども達のはしゃぐ声も聞こえてきません。不思議に思った文右衛門が家の中をのぞいてみると、どうしたことでしょう、茶碗に真っ白な銀飯(白米のごはん)が山のように盛られているではありませんか、他の家はどうかとのぞいてみたが、どの家の茶碗にも銀飯が盛られているではありませんか。
「皆が飢饉で苦しんでいるのに、出間の者たちは銀飯を食べている。いったいこれはどういうことだ。」翌日文右衛門は出間の庄屋を代官所によび、きびしくたずねました。「代官様、あれは銀飯などではございません。おから(とうふを作った後のしぼりかす)でございます。わたしどもの村では、このように日照りが続こうものなら、田に水をひこうとしても思うように水がなく、米を作ることができないのでございます。」当時の出間は用水の便が悪く、そのため、水田は耕地の3分の1で、他は畑といった状態でした。庄屋が涙ながらに語る出間の村人の様子を聞いて、文右衛門はある決心をしました。
慶安3年(1650)5月20日、日が西に傾く頃、代官から出間の村人に男女を問わず、働けるものは皆出るようにとの御触れが出されました。文右衛門は、集まった村人を前に、きびしい口調で言いました。「これ村の者、今から機殿神社の境内の東側に、今晩一晩にて南北の水路をほるのじゃ。いいか、夜明けまでにほるのじゃぞ」「お代官様、そんなことをすれば、きっと神宮からきついおとがめがございましょう。いかにお代官様のご命令とは申せ、そればかりはお許しください。」
文右衛門はしりごみする村人たちに言いました。「神宮へは、この私が話しをつけてきた、お前たちは、私の命にしたがって、今夜の内に水路を掘って水を渡せ。よいか、わかったか。」村人たちは代官のすさまじい気迫におどろきました。「わしらの田んぼに水がひけるぞ。こんなうれしいことはない。お代官様の命令じゃ。」
村人達は、一生けんめいに、夜をてっしての作業に取りかかりました。そして夜明け前には、はば1m、長さ220m、深さ90㎝の水路が完成しました。勢いよく流れる水を見ながら、村人達は、肩をだきあって喜び合いました。喜びが一段落して、ふと気が付くと、先ほどまで先頭に立って指揮をしておられたお代官様の姿がありません。村人達の胸に不安がよぎりました。「お代官様、お代官様」村人達が代官所におしかけたとき、文右衛門は、すでに切腹し、帰らぬ人となっていました。そして遺体のそばには、一通の遺書が残されていました。それには、「出間の百姓を救うためとはいえ、神罰を恐れず、神域をけがした罪は重く、この責めは、私一人にあります。どうか百姓たちをお許しください。」という意味のことが書かれてありました。
それから毎年、5月21日の文右衛門の命日には、出間の人々は神福寺に集まり供養続けてきました。(現在は毎年自治会で供養の日が決められる)