「地域の歴史文化の再発見」として、松尾まちづくり協議会では地域内の史跡、名所、名木、祭りなどを訪ねるスタンプラリーを行っています。これらの見学の指定された開催日に参加して、指定用紙にスタンプを押してもらい、ビンゴが2列揃うとイチゴや柿など地域の名産がもらえるというものです。
3月19日(土)には丹生寺の地名の由来となった奈良時代の「丹生寺廃寺」跡地を散策しました。私が説明をしましたので内容をまとめました。
1、地名は大切な歴史的な遺産
国名のような大きな地名から、都道府県、市町、町名、字、そして私たちが住んでいるすぐ近くの小字の地名まで、人が住む周囲には実にたくさんの地名があふれています。そして地名は私たちの生活には欠かせない歴史的遺産です。
2、地名の成り立ち
地名の成り立ちには、大きく3つに分類しました。1つは「自然発生的についた地名」、2つ目は「政治的・人為的につけられた地名」、3つ目はこの2つの中間的な「人々の生活の中から生まれた地名」です。
①自然発生的についた地名
これは丸い山だから「丸山」とか長い島だから「長島」など自然の地形、植生、動物の生息状況などからついた地名です。
・カラスが住む森➡烏森(名古屋)
・鵜の住む沼➡鵜沼(岐阜県各務原市)
・鴨のいる山だから➡鴨山(島根県益田市)
・猿が住む山➡猿山(えてやま 松阪市飯高地区)
・ヨシの生えている野原➡吉原(東京)
②政治的・人為的につけられた地名
これは時の政治などにより人為的につけられた地名です。「松阪」もこれに分類され、蒲生氏郷が松坂に城を築いたとき、「松」は蒲生家にとって縁起のいい字であり、「坂」は豊臣秀吉の許可を得て大坂の字を使いました。他には次のようなものがあります。
・三渡川と雲出川の間の村だから➡三雲村
・南の伊勢だから➡「南勢町」
・平成にできた町➡平成町
その他の団地の桜町、日丘町、虹ヶ丘町などもこれに属します。
③人々の生活の中から生まれた地名
これは人々の生活の中から、一定のルールによって付いた地名です。
・土を盛ったところにつく=➡塚(貝塚、人塚、宝塚、大塚)
・港につく➡津(沼津、焼津、直江津、木更津、唐津、松阪市内の石津、郷津、保津)
これらの地名の成り立ちについては私のブログ「松阪の地名を訪ねて」をご覧ください。
◆松阪の地名を訪ねて (1) ~ 地名の付けられ方
◆松阪の地名を訪ねて(2)~「塚」の付く地名
◆松阪の地名を訪ねて(3)~「津」の付く地名
◆松阪の地名を訪ねて(4)~ 川に関係する地名
◆松阪の地名を訪ねて(5)~「寺」の付く地名①
◆松阪の地名を訪ねて(6)~「寺」の付く地名②
◆松阪の地名を訪ねて(7)~「寺」の付く地名③
◆松阪の地名を訪ねて(8)~「寺」の付く地名④
◆松阪の地名を訪ねて(9)~『駅部田』ついて
◆松阪の地名を訪ねて(10)~「地すべり地に付く地名」
◆松阪の地名を訪ねて(11)~「軟弱地盤・湿地を表す地名」
3、宮のつく地名
宮のつく地名のところにはその名前の由来となった神社があります。
・埼玉県大宮市➡氷川神社、
・愛知県一宮市➡真清田神社(ますみだじんじゃ)
・松阪市飯高宮前町➡花岡神社
・松阪市大宮田町➡八幡神社
4、寺のつく地名
寺のつく地名のところにはかつて同じ名前の寺がありました。7世紀から8世紀頃のかなり規模の大きい寺です。
松阪市には奈良時代の古代寺院が12ヶ所あったといわれています。
○一志廃寺(嬉野一志町) ○中谷廃寺(嬉野天花寺)
○天花寺廃寺(嬉野天花寺) ○上野廃寺(嬉野上野町)
○嬉野廃寺(嬉野算所町) ○伊勢寺廃寺(伊勢寺町)
○ヒキタ廃寺(阿形町) ○丹生寺廃寺(丹生寺町)
○御麻生薗廃寺(御麻生薗町) ○林廃寺(上川町)
○野中垣内廃寺(櫛田町)
・町名として残っているのは5つで、伊勢寺町、天花寺町、薬王寺町、蓮花寺、丹生寺です。
・小字名も「法浄寺」
5、丹生寺廃寺
◆丹生寺廃寺の概要
丹生寺廃寺は8世紀後期の寺院跡と考えられ、松阪市丹生寺町本里の集落の北方に広がる標高40mの丘陵地で、現在は山林(一部は畑)となっている所にありました。発掘調査などは行われていないため、寺域など詳細は不明ですが、東西250m、南北125mと推定されます。
この寺の瓦は松阪市立野町高田の里山の斜面にあった「立野瓦窯」で焼かれたもので、立野瓦窯跡から出土した瓦と、丹生寺廃寺から出土した瓦が全く同様であり、丹生寺廃寺の瓦が同瓦窯から供給されたことがわかります。
◆水銀と「丹生」
松阪市丹生寺町の『丹生寺』は多気郡多気町丹生の「丹生」から付けられたと言われています。多気町丹生は平成18年に合併するまでは「勢和村丹生」でした。
日本では古くは水銀鉱を「丹」とか「朱」と呼よびました。水銀の鉱床地には、現在でも「丹」の付く地名が残っています。「丹生」の他にも、「丹生川(岐阜県)」「丹生野(奈良県 にうだに)丹生山(兵庫県 にゅうやま)、丹土(兵庫県 にど」「丹原(愛媛県)」などがあり「丹後の国」や「丹波の国」も水銀と関係があるということです。
◆丹生水銀
『続日本書紀』に文武天皇の2年(698)と和銅6年(713)に伊勢国から朝廷に水銀を献上したことが記されており、水銀は仏像や仏具などに金を塗って仕上げるときに必要なもので、奈良時代の東大寺大仏殿建立には、丹生の水銀が2tも使われたということです。また鎌倉時代の初めの東大寺大仏再建の時にも2万両もの丹生の水銀が使われました。平安時代になると、丹生には取引や採掘のため各地から商人や鉱夫が集まり「丹生千軒」と呼ばれる町ができました。
当時、この地方を治めていた豪族は、大河内郷(今の大河内町付近)、黒田郷(今の大黒田町、小黒田町付近)、黒部郷(今の西黒部町、東黒部町付近)、丹生郷など6つの郷を擁していました。この中の丹生郷からは水銀が産出し、その水銀や朱砂と呼ばれる美しい石を朝廷に献上することによって、中央政界へも勢力を伸ばしていきました。奈良東大寺の大仏は丹生の水銀が無かったらできなかったということです。当時の丹生は人口が1万人くらいの大都会であったということで、その名残として、丹生地区には今でもお寺が大変多く残っています。
本来菩提寺には自分の名前を付けるのが普通ですが、丹生郷を治めていたこの豪族にとって「丹生」という地名は大事なことから、菩提寺を『丹生寺』と名付けたということです。岡本町付近の古墳はこの豪族のものではないかということです。
◆丹生寺は誰の菩提寺か
では、丹生寺を創った豪族は誰かということですが、山田勘蔵さんから聞いた話しでは『「県氏(あがたうじ)」の菩提寺であった』と言われたと記憶しています。また「松阪の歴史№4 大西源一著」の中には『現在の松阪神社は、それはおそらく飯高氏の氏神であり、松尾村丹生寺というところが、その氏寺であったものと思われる』と示されています。
松阪市飯高町赤桶の水屋神社のホームページに、旧の飯南郡と松阪市、明和町一帯を治めていた「飯高県造(いいだかのあがたぬし)」という古代の領主が示されており、県氏と飯高氏は同一人物と思われます。
3月19日(土)には丹生寺の地名の由来となった奈良時代の「丹生寺廃寺」跡地を散策しました。私が説明をしましたので内容をまとめました。
1、地名は大切な歴史的な遺産
国名のような大きな地名から、都道府県、市町、町名、字、そして私たちが住んでいるすぐ近くの小字の地名まで、人が住む周囲には実にたくさんの地名があふれています。そして地名は私たちの生活には欠かせない歴史的遺産です。
2、地名の成り立ち
地名の成り立ちには、大きく3つに分類しました。1つは「自然発生的についた地名」、2つ目は「政治的・人為的につけられた地名」、3つ目はこの2つの中間的な「人々の生活の中から生まれた地名」です。
①自然発生的についた地名
これは丸い山だから「丸山」とか長い島だから「長島」など自然の地形、植生、動物の生息状況などからついた地名です。
・カラスが住む森➡烏森(名古屋)
・鵜の住む沼➡鵜沼(岐阜県各務原市)
・鴨のいる山だから➡鴨山(島根県益田市)
・猿が住む山➡猿山(えてやま 松阪市飯高地区)
・ヨシの生えている野原➡吉原(東京)
②政治的・人為的につけられた地名
これは時の政治などにより人為的につけられた地名です。「松阪」もこれに分類され、蒲生氏郷が松坂に城を築いたとき、「松」は蒲生家にとって縁起のいい字であり、「坂」は豊臣秀吉の許可を得て大坂の字を使いました。他には次のようなものがあります。
・三渡川と雲出川の間の村だから➡三雲村
・南の伊勢だから➡「南勢町」
・平成にできた町➡平成町
その他の団地の桜町、日丘町、虹ヶ丘町などもこれに属します。
③人々の生活の中から生まれた地名
これは人々の生活の中から、一定のルールによって付いた地名です。
・土を盛ったところにつく=➡塚(貝塚、人塚、宝塚、大塚)
・港につく➡津(沼津、焼津、直江津、木更津、唐津、松阪市内の石津、郷津、保津)
これらの地名の成り立ちについては私のブログ「松阪の地名を訪ねて」をご覧ください。
◆松阪の地名を訪ねて (1) ~ 地名の付けられ方
◆松阪の地名を訪ねて(2)~「塚」の付く地名
◆松阪の地名を訪ねて(3)~「津」の付く地名
◆松阪の地名を訪ねて(4)~ 川に関係する地名
◆松阪の地名を訪ねて(5)~「寺」の付く地名①
◆松阪の地名を訪ねて(6)~「寺」の付く地名②
◆松阪の地名を訪ねて(7)~「寺」の付く地名③
◆松阪の地名を訪ねて(8)~「寺」の付く地名④
◆松阪の地名を訪ねて(9)~『駅部田』ついて
◆松阪の地名を訪ねて(10)~「地すべり地に付く地名」
◆松阪の地名を訪ねて(11)~「軟弱地盤・湿地を表す地名」
3、宮のつく地名
宮のつく地名のところにはその名前の由来となった神社があります。
・埼玉県大宮市➡氷川神社、
・愛知県一宮市➡真清田神社(ますみだじんじゃ)
・松阪市飯高宮前町➡花岡神社
・松阪市大宮田町➡八幡神社
4、寺のつく地名
寺のつく地名のところにはかつて同じ名前の寺がありました。7世紀から8世紀頃のかなり規模の大きい寺です。
松阪市には奈良時代の古代寺院が12ヶ所あったといわれています。
○一志廃寺(嬉野一志町) ○中谷廃寺(嬉野天花寺)
○天花寺廃寺(嬉野天花寺) ○上野廃寺(嬉野上野町)
○嬉野廃寺(嬉野算所町) ○伊勢寺廃寺(伊勢寺町)
○ヒキタ廃寺(阿形町) ○丹生寺廃寺(丹生寺町)
○御麻生薗廃寺(御麻生薗町) ○林廃寺(上川町)
○野中垣内廃寺(櫛田町)
・町名として残っているのは5つで、伊勢寺町、天花寺町、薬王寺町、蓮花寺、丹生寺です。
・小字名も「法浄寺」
5、丹生寺廃寺
◆丹生寺廃寺の概要
丹生寺廃寺は8世紀後期の寺院跡と考えられ、松阪市丹生寺町本里の集落の北方に広がる標高40mの丘陵地で、現在は山林(一部は畑)となっている所にありました。発掘調査などは行われていないため、寺域など詳細は不明ですが、東西250m、南北125mと推定されます。
この寺の瓦は松阪市立野町高田の里山の斜面にあった「立野瓦窯」で焼かれたもので、立野瓦窯跡から出土した瓦と、丹生寺廃寺から出土した瓦が全く同様であり、丹生寺廃寺の瓦が同瓦窯から供給されたことがわかります。
◆水銀と「丹生」
松阪市丹生寺町の『丹生寺』は多気郡多気町丹生の「丹生」から付けられたと言われています。多気町丹生は平成18年に合併するまでは「勢和村丹生」でした。
日本では古くは水銀鉱を「丹」とか「朱」と呼よびました。水銀の鉱床地には、現在でも「丹」の付く地名が残っています。「丹生」の他にも、「丹生川(岐阜県)」「丹生野(奈良県 にうだに)丹生山(兵庫県 にゅうやま)、丹土(兵庫県 にど」「丹原(愛媛県)」などがあり「丹後の国」や「丹波の国」も水銀と関係があるということです。
◆丹生水銀
『続日本書紀』に文武天皇の2年(698)と和銅6年(713)に伊勢国から朝廷に水銀を献上したことが記されており、水銀は仏像や仏具などに金を塗って仕上げるときに必要なもので、奈良時代の東大寺大仏殿建立には、丹生の水銀が2tも使われたということです。また鎌倉時代の初めの東大寺大仏再建の時にも2万両もの丹生の水銀が使われました。平安時代になると、丹生には取引や採掘のため各地から商人や鉱夫が集まり「丹生千軒」と呼ばれる町ができました。
当時、この地方を治めていた豪族は、大河内郷(今の大河内町付近)、黒田郷(今の大黒田町、小黒田町付近)、黒部郷(今の西黒部町、東黒部町付近)、丹生郷など6つの郷を擁していました。この中の丹生郷からは水銀が産出し、その水銀や朱砂と呼ばれる美しい石を朝廷に献上することによって、中央政界へも勢力を伸ばしていきました。奈良東大寺の大仏は丹生の水銀が無かったらできなかったということです。当時の丹生は人口が1万人くらいの大都会であったということで、その名残として、丹生地区には今でもお寺が大変多く残っています。
本来菩提寺には自分の名前を付けるのが普通ですが、丹生郷を治めていたこの豪族にとって「丹生」という地名は大事なことから、菩提寺を『丹生寺』と名付けたということです。岡本町付近の古墳はこの豪族のものではないかということです。
◆丹生寺は誰の菩提寺か
では、丹生寺を創った豪族は誰かということですが、山田勘蔵さんから聞いた話しでは『「県氏(あがたうじ)」の菩提寺であった』と言われたと記憶しています。また「松阪の歴史№4 大西源一著」の中には『現在の松阪神社は、それはおそらく飯高氏の氏神であり、松尾村丹生寺というところが、その氏寺であったものと思われる』と示されています。
松阪市飯高町赤桶の水屋神社のホームページに、旧の飯南郡と松阪市、明和町一帯を治めていた「飯高県造(いいだかのあがたぬし)」という古代の領主が示されており、県氏と飯高氏は同一人物と思われます。
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