(写真は丹生寺廃寺のあった丘陵地)
寺のつく地名③『丹生寺町』について
松阪市内の地名探訪、「寺」の付く地名の3回目です。今回は『丹生寺町』の地名の由来となった「丹生寺」を探訪します。
◆水銀と「丹生」
松阪市丹生寺町の『丹生寺』は多気郡多気町丹生の「丹生」から付けられたと言われています。多気町丹生は平成18年に合併するまでは「勢和村丹生」でした。
日本では古くは水銀鉱を「丹」とか「朱」と呼よびました。水銀の鉱床地には、現在でも「丹」の付く地名が残っています。「丹生」の他にも、「丹生川(岐阜県)」「丹生野、丹生山、丹土(兵庫県)」「丹原(愛媛県)」などがあり「丹後の国」や「丹波の国」も水銀と関係があるということです。
◆丹生水銀
『続日本書紀』に文武天皇の2年(698)と和銅6年(713)に伊勢国から朝廷に水銀を献上したことが記されており、水銀は仏像や仏具などに金を塗って仕上げるときに必要なもので、奈良時代の東大寺大仏殿建立には、丹生の水銀が2tも使われたということです。また鎌倉時代の初めの東大寺大仏再建の時にも2万両もの丹生の水銀が使われました。平安時代になると、丹生には取引や採掘のため各地から商人や鉱夫が集まり「丹生千軒」と呼ばれる町ができました。これほど盛んだった丹生水銀の採掘も次第に鉱脈がなくなり、江戸時代には衰えてしまいました。
◆水銀鉱の探検
旧勢和村丹生には水銀の廃坑が今も100余り残っているということです。私の高校時代の同級生が丹生にいて、高校を卒業して間もない今から40年以上も前ですが、丹生の水銀の廃坑を同級生のメンバー4、5人で探検しようということになりました。洞窟の中では酸素がなくなると危険であるということで、ローソクに火を付けて入り、ローソクの火が消えたら、酸素がないので急いで脱出しようということでした。しかし水銀鉱を進んでいくと、廃坑になってから時が経っていたこともあり、途中で崩壊していて、それ以上中に入ることができませんでした。
◆山田勘蔵さんから聞いた話し
これも今から40年以上も前のことですが、歴史研究家の山田勘蔵さんから聞いた「丹生」「丹生寺」にまつわる話しです。
当時、この地方を治めていた豪族は、大河内郷(今の大河内町付近)、黒田郷((今の大黒田町、小黒田町付近)、黒部郷(今の西黒部町、東黒部町付近)、丹生郷など6つの郷を擁していました。この中の丹生郷からは水銀が産出し、その水銀や朱砂と呼ばれる美しい石を朝廷に献上することによって、中央政界へも勢力を伸ばしていきました。奈良東大寺の大仏は丹生の水銀が無かったらできなかったということです。当時の丹生は人口が1万人くらいの大都会であったということで、その名残として、丹生地区には今でもお寺が大変多く残っています。
本来菩提寺には自分の名前を付けるのが普通ですが、丹生郷を治めていたこの豪族にとって「丹生」という地名は大事なことから、菩提寺を『丹生寺』と名付けたということです。岡本町付近の古墳はこの豪族のものではないかということです。
◆丹生寺は誰の菩提寺か
では、丹生寺を創った豪族は誰かということですが、山田勘蔵さんから聞いた話しでは『「県氏(あがたうじ)」の菩提寺であった』と言われたと記憶しています。また「松阪の歴史№4 大西源一著」の中には『現在の松阪神社は、それはおそらく飯高氏の氏神であり、松尾村丹生寺というところが、その氏寺であったものと思われる』と示されています。
松阪市飯高町赤桶の水屋神社のホームページに、旧の飯南郡と松阪市、明和町一帯を治めていた「飯高県造(いいだかのあがたぬし)」という古代の領主が示されており、県氏と飯高氏は同一かも知れません。
◆丹生寺廃寺
丹生寺廃寺は8世紀後期の寺院跡と考えられ、松阪市丹生寺町本里の集落の北方に広がる標高40mの丘陵地で、現在は山林(一部は畑)となっている所にありました。発掘調査などは行われていないため、寺域など詳細は不明ですが、東西250m、南北125mと推定されます。
寺跡の東南端部の畑地には土師器(はじき 古墳時代から平安時代につくられた土器)の小片が散乱し、石積みの径1m位の円形井戸が残っています。また林の中に入っていくと当時のものと思われる石畳や石積みもあります。
この寺の瓦は松阪市立野町高田の里山の斜面にあった「立野瓦窯」で焼かれたもので、立野瓦窯跡から出土した瓦と、丹生寺廃寺から出土した瓦が全く同様であり、丹生寺廃寺の瓦が同瓦窯から供給されたことがわかります。
参考文献
松阪市史(第2巻)
松阪の歴史散歩(三教組松阪支部編)
松尾郷土誌百話(松阪市松尾公民館編)
ほか
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