川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

松坂城跡の石碑の表記について

2017-09-03 21:05:34 | 日記

 松坂城跡の名称がこれまでの「松阪城跡」から平成23年(2011)2月の国指定史跡以降「松坂城跡」となり、さかの字が「こざとへん」から「つちへん」に戻った。城跡内には国指定史跡以前につくられた案内板など「松阪城跡」のままのものもあるという。案内板などの総点検が行われているが、「松坂城跡」に直すべきであろう。ただ・・・ 

 城は戦国時代には軍事的な要塞として、戦国時代が終わってからは為政者の権威の象徴として政治・経済の中心的な役割を果たしてきた。しかし侍の時代が終わり、城が「城跡」となったとき、日本中にある城は無用の長物として、数奇な運命をたどっていくことになる。城跡の堀は埋められ、建物は取り壊され、城跡の中に学校が建てられたり、官公庁の施設が造られたりした。

 あの国宝であり、世界遺産でもある天下の名城姫路城でさえ、明治維新後天守閣は民間に払い下げられた。23円50銭、今のお金に換算して約10万円という信じられないほど安い落札で払い下げられた。その後、本来取り壊される運命にあった姫路城は奇跡的に残り、現在美しい姿を見せている。 

 松坂城も城跡となってからも新な歴史を重ねている。天守横の屋敷跡には市の配水池が造られていたことがあった。屋敷の規模や構造を知るうえで大変貴重な礎石の調査がされないまま撤去され、この施設が造られた。今となっては何と残念ことをしてくれたとなるが、当時の時代の考え方ではそれが普通だったのだろう。

 また戦後の城跡は公園としての色合いが強く、城内に猿など動物いて、私たちも子どもの時には公園で猿を見るのが楽しみであった。また恐竜の像が乱立したり、機関車が置かれたりした。これらは城跡がその時代時代の考え方で利用されてきた歴史でもある。 松坂城跡の呼び名も「松坂城」から「松阪城跡」へ、そして再び「松坂城跡」と移っていくのも歴史である。

 松坂城跡の大手門側(市役所側)から坂を上がっていくところに『松阪城跡』と書かれた石碑がある。この石碑は茶道の裏千家・千宗室宗匠の揮毫でできたもので、豊臣秀吉の時代までさかのぼった、松坂城を築城した蒲生氏郷公と茶道・千家のつながりを示す貴重な石碑である。そして「松阪城跡」という文字に城跡が歩んできた歴史が込められている。貴重な歴史の証人としてこの石碑はあのまま残すべきであろう。

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