三重県松阪市曽原町に古くから伝わる「曽原かんこ踊り」が8月14日から15日の未明にかけて、同町の法性寺と西光寺や地域一帯で行われました。この踊りは先祖の供養や五穀豊穣を祈って毎年この日に行われるもので、曽原かんこ踊り保存会(瀬古一彰会長)が中心となって伝承されています。
曽原かんこ踊りは今から約260年前、法性寺建立に当たって農民たちの要望で始まったとされる盂蘭盆(うらぼん)踊りといわれています。平成18年(2006)に一度中断しましたが翌年に復活して今日にいたっています。
現存する最古本に記載されている年号は享和元年(1801)で、28曲の歌が掲載されています。また大正時代の天白郷土教育資料では24曲、現在使用中音頭本には20曲が掲載されています。
平成10年に松阪市無形民俗文化財に指定されました。
踊り手は小学校5年生から50歳代くらいまでで、4人1組で10組40人が踊ります。踊り手の頭にはキジの羽を表すかぶりものを着け、紺木綿の衣装に脚絆を巻き、1番手は紺足袋にわらじ履きで、2番手以降は素足で踊ります。ここの踊りの特徴は胸の太鼓を鳴らしながら、ゆったりとした独特の足さばきを見せます。
午後5時に祭りがスタートし、まず1番手が法性寺で踊ったあと同町内の西光寺へ場所を移し、この寺の境内で踊ります。そして再び法性寺へ場所を移し、2番、3番と踊り手が変わり、15日の午前1時頃まで踊ります。
曽原かんこ踊り保存会の瀬古会長さんからいろいろな資料をいただきました。そのうちの1つ明治安田文化財団10周年記念誌に掲載された「風流 曽原かんこ踊り」の内容を原文のまま写します。三雲町が松阪市と合併する前の記事です。
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「風流 曽原かんこ踊り」
◆継承してきた行事と特色
三重県一志郡三雲町曽原に伝わっている「かんこ踊り」。風流の太鼓踊りで「盂蘭盆踊」とも呼ばれ、お盆に一年間に亡くなった人の初盆と祖先の供養のために踊られている。
紺色上下の衣装を身にまとい、頭に雉の羽でつくられた鳥毛甲をつけて(四人一組)、カンコと通称する締太鼓を胸に吊り下げ、供養、豊年、歴史などを表現した唄をもとに、音頭と笛に合わせて踊る。
◆起源と沿革
今から約二六〇年前に、真宗高田派本山専修寺(三重県津市一身田町)の末寺として、ここ三雲町曽原に法性寺が建立された。これを記念し、お盆の行事として死者の供養と村の安泰を祈って盂蘭盆踊(かんこ踊り)が始められたという。
踊りの内容は、盂蘭盆経のお経に説かれている、餓鬼道に堕ちて苦しんでいたお釈迦様の十大弟子の一人である日蓮尊者の亡き母親が、お念仏によって救われて極楽浄土に生まれさせていただいた縁起にあやかり、初盆を迎えた亡き人がお念仏によって救われていく喜びを、身も心も歓喜踊躍して、太鼓を打ち鳴らし、“仏法ひろまれ、世の中安泰なれ“と歌い踊りあげるもの。
◆継承活動の経緯と状況
当地には古くから伝わり現在も行われている行事として、八月十四日の法性寺「かんこ踊り」、八月十八日の西光寺「観音手踊」、正月元旦の天白神社「獅子舞」がある。江戸末期ごろから明治時代にかけては若者組という組織によって伝承されていたが、大正時代に「誠友会」と改名して存在が続けられていた。
今次大戦より昭和十六年(1941)から二十三年までの数年間、一時中断を余儀なくされていたが、昭和二十四年(1949)に復活した。その翌々年の二十六年に「盂蘭盆踊り保存会」が結成され、昭和五十三年(1978)からは会員減少対策として小学四年生より参加させるようにした。平成十年五月、『曽原かんこ踊』は三雲町無形文化財に指定され、保存会組織の名も「曽原獅子舞・かん子踊保存会」と改められた。
◆定例行事の開催状況
毎年八月十四日に開催する。夕方五時より、小学五年生(一番打)の踊り子たちが法性寺境内で三曲踊り、つぎに隣寺の西光寺境内へ移って三曲踊り、再び法性寺境内に戻り三曲踊って一番打ちは終わる。以降小学六年、中学生、高校生、大人の順で踊る。団扇踊りの小学生の女の子たちが、団扇を持って浴衣姿で踊り子の回りを踊る。
踊り唄は20曲あり、一曲三〇分から一時間くらいで交替し、翌日午前三時ごろまで踊り続ける。
◆後継者の育成と今後
子どもたちも喜んで積極的に参加している。
初参加の小学四年生を対象に、大太鼓の叩き方を先ず教える。五年生より三曲くらいづつ踊り方を教えてゆく。
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曽原かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
曽原かんこ踊りは今から約260年前、法性寺建立に当たって農民たちの要望で始まったとされる盂蘭盆(うらぼん)踊りといわれています。平成18年(2006)に一度中断しましたが翌年に復活して今日にいたっています。
現存する最古本に記載されている年号は享和元年(1801)で、28曲の歌が掲載されています。また大正時代の天白郷土教育資料では24曲、現在使用中音頭本には20曲が掲載されています。
平成10年に松阪市無形民俗文化財に指定されました。
踊り手は小学校5年生から50歳代くらいまでで、4人1組で10組40人が踊ります。踊り手の頭にはキジの羽を表すかぶりものを着け、紺木綿の衣装に脚絆を巻き、1番手は紺足袋にわらじ履きで、2番手以降は素足で踊ります。ここの踊りの特徴は胸の太鼓を鳴らしながら、ゆったりとした独特の足さばきを見せます。
午後5時に祭りがスタートし、まず1番手が法性寺で踊ったあと同町内の西光寺へ場所を移し、この寺の境内で踊ります。そして再び法性寺へ場所を移し、2番、3番と踊り手が変わり、15日の午前1時頃まで踊ります。
曽原かんこ踊り保存会の瀬古会長さんからいろいろな資料をいただきました。そのうちの1つ明治安田文化財団10周年記念誌に掲載された「風流 曽原かんこ踊り」の内容を原文のまま写します。三雲町が松阪市と合併する前の記事です。
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「風流 曽原かんこ踊り」
◆継承してきた行事と特色
三重県一志郡三雲町曽原に伝わっている「かんこ踊り」。風流の太鼓踊りで「盂蘭盆踊」とも呼ばれ、お盆に一年間に亡くなった人の初盆と祖先の供養のために踊られている。
紺色上下の衣装を身にまとい、頭に雉の羽でつくられた鳥毛甲をつけて(四人一組)、カンコと通称する締太鼓を胸に吊り下げ、供養、豊年、歴史などを表現した唄をもとに、音頭と笛に合わせて踊る。
◆起源と沿革
今から約二六〇年前に、真宗高田派本山専修寺(三重県津市一身田町)の末寺として、ここ三雲町曽原に法性寺が建立された。これを記念し、お盆の行事として死者の供養と村の安泰を祈って盂蘭盆踊(かんこ踊り)が始められたという。
踊りの内容は、盂蘭盆経のお経に説かれている、餓鬼道に堕ちて苦しんでいたお釈迦様の十大弟子の一人である日蓮尊者の亡き母親が、お念仏によって救われて極楽浄土に生まれさせていただいた縁起にあやかり、初盆を迎えた亡き人がお念仏によって救われていく喜びを、身も心も歓喜踊躍して、太鼓を打ち鳴らし、“仏法ひろまれ、世の中安泰なれ“と歌い踊りあげるもの。
◆継承活動の経緯と状況
当地には古くから伝わり現在も行われている行事として、八月十四日の法性寺「かんこ踊り」、八月十八日の西光寺「観音手踊」、正月元旦の天白神社「獅子舞」がある。江戸末期ごろから明治時代にかけては若者組という組織によって伝承されていたが、大正時代に「誠友会」と改名して存在が続けられていた。
今次大戦より昭和十六年(1941)から二十三年までの数年間、一時中断を余儀なくされていたが、昭和二十四年(1949)に復活した。その翌々年の二十六年に「盂蘭盆踊り保存会」が結成され、昭和五十三年(1978)からは会員減少対策として小学四年生より参加させるようにした。平成十年五月、『曽原かんこ踊』は三雲町無形文化財に指定され、保存会組織の名も「曽原獅子舞・かん子踊保存会」と改められた。
◆定例行事の開催状況
毎年八月十四日に開催する。夕方五時より、小学五年生(一番打)の踊り子たちが法性寺境内で三曲踊り、つぎに隣寺の西光寺境内へ移って三曲踊り、再び法性寺境内に戻り三曲踊って一番打ちは終わる。以降小学六年、中学生、高校生、大人の順で踊る。団扇踊りの小学生の女の子たちが、団扇を持って浴衣姿で踊り子の回りを踊る。
踊り唄は20曲あり、一曲三〇分から一時間くらいで交替し、翌日午前三時ごろまで踊り続ける。
◆後継者の育成と今後
子どもたちも喜んで積極的に参加している。
初参加の小学四年生を対象に、大太鼓の叩き方を先ず教える。五年生より三曲くらいづつ踊り方を教えてゆく。
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曽原かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。